ダイムラーMk.I

ダイムラー装甲車(after)

●週末模型親父さんのところの48スケール限定ミニコンペが昨日まで。ダイムラー装甲車は結局、こんなふうになった。

お手本にしたかったのは、最近見たアフリカ物のサンド塗装の車輌ではタメ息の出来の楽八師匠のポーティだが、塗装も工作と同様にじっくり腰を据えて楽しむどころか、一晩でなんとか塗ろうというヤッツケ仕事態勢でお手本なんていわれても楽八師匠もいい迷惑というものだ。

というわけでヤッツケ仕事は所詮ヤッツケ仕事だという結果になったが、なかなか思い通りに行かないということも含めて、久しぶりの塗装は意外に面白かった。Vanatorul de careも塗らなきゃなあ。あ。JSU-152も塗りかけだった。

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ダイムラー装甲車(before)

週末模型親父さんのところでの48コンペは、5月末日が締め切り。

ここ何年か完成品のない私が締め切り付き模型製作に応募すること自体が無謀というか身の程知らずというか、実際昨年やはり週末模型親父さんのところでやったトラックコンテストでも見事にリタイアしているのだけれど、とにかく、性懲りもなくバンダイ48のダイムラー装甲車で参加しているのは先述の通り。

何だかんだで、ちょっと中だるみはあったものの、4月半ばにはほとんど工作終了間際まで持って行った。

というところまではよかったが、その後、気力体力が急激に低下してほとんどスタック状態。結局、最後の工作となるバックミラーの取り付けは5月20日を過ぎてから。絵に描いたような一夜漬け体質の発露。

●さらには仕事のほうの遅れもあって、再びほったらかしになり、結局「こりゃ5月31日に1日でやっつけ仕事で塗るしかないか?」と思っていたところが、なんと主催者・週末模型親父さんの温情で、締め切りが6月13日まで延長されることになった。……うう。今週末に頑張って塗ろう。

というわけで、一応、製作過程の記録として先週半ば撮った写真を以下に並べておくことにする。「先週半ば」と書いたのは、暗に「いや、今はもうちょっと進んでるんだよ」と言い訳したいからではなく単なる客観的事実で、実際、現在も下塗りもされず、ただ塗装用に取っ手を付けた(瞬着でランナーを接着した)状態で転がっている。実は数日前、ウッドブラウンの缶スプレーで手っ取り早く下塗りしようと思ったら、中身がカラッポだった。

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新型配備

●わーん、厚いよー重いよー黒いよー。

新携帯電話導入。富士通製のF-04Bという、ほぼちょうど1年前発売のモデル。これまで使っていたP703iμに比べて厚みも重さもほぼ倍。BTからKVに乗り換えたくらいの感じ(ソ連戦車ファン向け比喩)。

通常使用状態ではスライド式なのだが、ディスプレイ部分とキー部分を分離させることもでき、その場合キー部分の表はQWERTY配列のキーボードになる、という「すごく凝ってるんだけど使いづらそうな」ギミックを持つ。ちなみに、おかげでバッテリーもそれぞれに必要。

普通の携帯のキーには今なお熟達せず、ぽつ、ぽつとしか打てないのに対し、小さいとはいえQWERTY配列だとやはり文章入力し易いことは判ったが、キーボード部分を両手で(ゲームコントローラー風に)持った場合、当然ディスプレイ部分は持っていられない。膝に乗せて文章を打とうとしたら、購入したばかりで早速床に落としそうになった。どうしろというのだ。

なお、とりあえずディスプレイ部だけでも電話、メールの送受信はできるようなので、ディスプレイ部だけ持って歩くという選択もアリかもしれない。

搭載されているカメラは1220万画素と妙に高性能で、基本的に携帯の機能では仕事の電話と家族間のメール以外にカメラくらいしか使わない私としては有難い。

しかし問題はmicroSDカードの搭載場所で、これまでのP703iμは側面にスロットがあって簡単に着脱できたのに対して、この機種では、

  1. 本体をディスプレイ部とキー部に分割し、
  2. ディスプレイ部の電源を切り、
  3. 背面のバッテリー部のフタを開け(ものすごく開けづらい)、
  4. バッテリーを外し、
  5. ようやくSDカードを着脱。

という手順を踏まないといけない。要するに、「SDカードは本体内蔵の増設メモリであって、頻繁に着脱するなんて使い方は、おらぁ認めねえ」と宣言しているかの如きスロットの場所である。

これは今まで、microSDを携帯-PC間の画像移動用メディアとして使っていた私としては非常に困惑する仕様である。いやはやまったく。USBケーブルの導入を検討しなければなるまい。

もっとも、「素朴に電話と若干のメールに使うだけ。あとはカメラを使う程度なので、その他の機能については基本、全く問わない」&「なるべく安いヤツ」という条件で選んだものなので、あまり文句は言えない。

●というわけで鎌倉のdocomoショップに携帯を受け取りに行きがてら、投票および散策。

投票所から南ヶ丘団地経由で材木座の光明寺裏に出る。裏山の秋葉三尺坊大権現(火難避けの神さん)に上る。

山を降りて、光明寺の脇に何だかミニサイズのアンコールワット遺跡じみた雰囲気の、大小の石塔がぎっしり並んだ場所があることに今回初めて気付いた。閉じられた入口脇に文字の消えかけた案内があり、日向延岡の殿様、内藤家の江戸初期からの代々の墓地である由。光明寺の桜はちょうど満開。

大町の「ぼたもち寺」に寄って鎌倉駅前に出る。若宮大路の段葛の桜も今が見頃という感じだった。しかし改めて考えると、鎌倉には桜の綺麗な場所はいろいろあるが、神社仏閣だったり通りだったりなので花見宴会には向かない。

P1020495P1020493●ヨンパチ工作(バンダイのダイムラー装甲車Mk.I)のその後。

車体前面ラックにサンドチャンネルを固定、側面ラックと後部フェンダーにシート類を載せ、さらにエンジンデッキ上にドイツ軍用ジェリカンと頭陀袋を載せた。砲塔の左側アンテナ基部には雑嚢と(写真は取り付ける前に撮ったので写っていないが)英軍ヘルメットを下げた。

戦闘室右側のラックは以前書いたように、車体前面にサンドチャンネルのラックがある時期には(少なくともこの形式のものは)付いていない可能性が高そうなのだが、結局そのままにしてシートを載せてしまった。なお、シート類はフェンダー上のものも含めて、丸めたティッシュ製という古典的技法。ティッシュだと表面がケバ立ち気味になるため、現在はエポパテとかポリパテとかで作る(あるいはティッシュで作るにしてもティッシュに薄めたポリパテを塗り込める)といった手法が主ではないかと思うが、要するに「手近な在り物で適当に」の結果。

ちなみにこの写真2枚はまだ旧携帯で撮影したもの。

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エイプリル・フール

●mixiのアプリ「もやしもん」が数日前にリニューアル・スタートしたばかりだが、4月1日になっていきなり「かもし」の表示(だけ)がリセットされていた。ずいぶん地味なエイプリル・フールだなと思ったら本当にバグっていただけだった。

ちなみに去年だったか、同じくmixiの農場系アプリで畑が大火事で全焼するというネタを披露したところがあり、「やるなあ」と感心したのだが、「本気にした」「人をバカにするにも程がある」「こんなアプリなんか二度とやるか」等々激怒する人も多かった。SNSのミニゲームにどれだけ入れ込んでるんだ……。

●同じくエイプリル・フール・ネタ。1日、夕方から麻布十番の事務所に出掛ける。外からかみさんに、

「靴を買ったら金が無くなって、しかもSuicaがカラッポだったので帰れなくなった。事務所に泊まって、誰か金を貸してくれる奴が来るまで待つ」

という内容のメールを送ったのだが返答なし。今日2日になって、「帰って来てたんだ。誰かに貸してもらえたの?」と素で聞かれた。冷めた夫婦関係だな。

●ちなみに「もやしもん」は第10巻発売。「アザザルさん」6巻と一緒に買ってきた。

マンガといえば、「はがれん」の荒川弘が女性作家だって今の今まで知りませんでした。

●相変わらず暇を見ては歩く。

逗子と鎌倉の間の名越のトンネルを鎌倉(大町)側から眺めると、トンネルの上の尾根筋に遊歩道のような柵が見えるのが、しばらく前から気になっていた。その尾根の向かって左手のほうには名越の切通し道があるのだが、そちらからは、このトンネル上方面への分岐などは見当たらないのである。

Googleマップを見ると右手から尾根筋に上がれるようだったので、数日前、歩きに行ってみる。名越の切通しを抜けて大町側へ一旦降り、Googleマップにあった道を上る。つづら折の急勾配の舗装道路を歩いていたら、登ってきたミニバンのおじさんに乗っていきますかと声を掛けられた。

礼を言って断ってさらに登ると、行き着いたのは尾根の上の墓地で、先の車のおじさんは墓地の管理人であるらしい。墓地の横に通行止めになった道路が続いているのが見え、おじさんに尋ねると、今は使われていない私道で、先がどこかはおじさんも入ったことがない由。

P1020450b 入ってみると、廃墟と化した民家の裏を通り、予想通り名越トンネルの上に出た。道自体は、尾根の大町側の斜面に鉄骨を組んでベランダ状に張り出して作られており、ずいぶん長いこと使われていないようで、道の真ん中を突き抜けて木が生えていたりする。まだ春先なので歩けたが、夏は木の枝や雑草に遮られて歩けないかもしれない。

トンネル上をまたいで行くと、突き当たりに小さなプレハブがあり、「休憩所」の札が貼られている。プレハブの前には錆び始めた軽トラ。何かの工事事務所のようなのだが、一体こんな場所で何をどうしようとしていたのか謎。ちょっと手前に踏み分け道が分かれており、そちらを辿ったら名越の切通し道の脇にある平場に出た。何となく謎が一つ解けた気分。

●2日土曜日午後。またまた名越の切通し道を通り大町に下りる。先日、完全ロックアウトになっていることが判明した釈迦堂切通しだが、その上にあるという遺跡が主目的地。

そこはもともと「北条時政(源頼朝の舅)山荘跡」と言われてきた場所で、Googleマップにもそう書かれているのだが、何年か前の調査で、土地の造成が時政の時代より下る13世紀後半と判明、未知の寺の遺構であるらしいということになったのだとか。

長勝寺踏切の先で脇道に入り、安国論寺に寄り道。寺の名前で明らかなように日蓮宗の寺で、日蓮上人が立正安国論をここで書いたと言われる。あたりは松葉ヶ谷(まつばがやつ)の古地名を持ち、寺は日蓮が他宗派の焼打ちにあった「松葉ヶ谷草庵」の跡であるとも言う。境内には焼打ちにあった際に逃げ込んだという岩窟(おそらく元はやぐら)もある。

もっとも、近くの長勝寺、妙法寺にも松葉ヶ谷草庵跡説があり、要するに「日蓮まんじゅう本舗」と「元祖日蓮まんじう」と「日蓮饅頭本家」が軒を並べて商売しているような具合である。さらに、名越の切通しを越えて逗子側の法性寺も、焼打ちの際に逃げて隠れた岩窟跡を主張している。

もちろん、日蓮という人は800年近く経って風化しかけた事跡を見ても、恐ろしく融通の利かない人物であったことは想像できるので、草庵を近辺に幾度も建て直しては焼打ちにあい、あっちの山の穴、こっちの山の穴に逃げ込んでいた可能性はありそう。山の穴といえば日蓮か、新大久保の駅員上がりの落語家かって感じだ。

安国論寺は裏山に登って歩くことが出来、手前の尾根上には鐘つき堂がある。撞木の尻にメーカーのものと思しきシールが貼ってあった。ブランド名は「ナムシステム」だそうだ。……何と言うか、「グレートありがとウサギ」系のテイストだ。

P1020457b なお、その後行った当初目的の釈迦堂切通し上の遺跡は立ち入り禁止だった。鎌倉市が国の史跡に申請するとともに土地を買い上げて整備する、というような話を聞いていたが、少なくとも整備は未着手のような気配。

●さらに歩いて鎌倉駅前に出る頃にはもう夕暮れ。本覚寺境内の枝垂桜は今年も綺麗だった。段葛の桜はまだ咲いていないのかもう散ってしまったのかよく判らない。

化物語シリーズの最新刊が出ているはずと本屋に行ってみたが見当たらなかった。小町通りの壱番屋で割れ煎餅を買う。だいぶ鎌倉は人の出が戻ってきた感じ。なお、とある店先で

「久しぶりの単一電池入荷~、幻の単一電池~」

と、エアフィックスの1:32「2階建てバス第一次大戦型」でも再販されたかのような(判りにくい喩え)口上付きで単一電池を売っていた。

P1020438b ●48工作現状報告。

ダイムラー装甲車は一応、アフリカ戦線仕様で作ろうと考えているので、車体前面に装備するサンドチャンネルを工作。0.3mmプラバンにピンバイスで穴あけ。どうしても不揃いになるが、2枚目は1枚目より少しよく出来た。

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OUCH!

●知人のSさんのお母さんは被害が大きかった地域に暮らしていたのだが、しばらくして入ってきた情報は、自宅は炊事場だけ残して流出、ご本人も絶望、というものだった。しかし先日、当のご本人より、避難所で無事である旨連絡が入った由。なんとまあ。本当に、なんとまあ、よかった。

●地震だ原発事故だと心細いなか、顔も見せないとは何事か云々という圧力が掛かり、月曜日、川崎の実家に行く。

翌22日火曜日は午前中、我が家周辺はまた計画停電が予定されていたこともあり、「停電避け」も兼ねて一泊。火曜日、実家近所の司法書士に相続関係の相談に行き、昼過ぎからは小雨の中を母と墓参りに行く。母に聞く限り、食器棚から食器が飛び出してきたり花器の水がこぼれたりと、高津区は逗子よりだいぶ揺れが大きかったようだが、流石に墓石までずれたりはしていなかった。

夕刻帰宅。なお、少なくとも逗子近辺では午後の計画停電は中止。結局、我が家周辺の第1グループだけが律儀に停電したようだ。

●消費電力の多さが祟って、ディズニーランドが当分営業再開できなさそう、なのだそうだ。駐車場が液状化で泥だらけとは聞いたが、遊園地内にはさほど被害は出ていないそうな。それはそれとして、このニュースを読んで少し驚いたのは、

浦安市は、計画停電の第5グループに入っており、2011年3月14日のスタート時からすでに3回も停電が行われている。

の一文。

……ちなみに我が家周辺は24日木曜晩が、確か6回目。よほど我が家周辺は重要施設も何もない地域であるらしい。もちろん、家が流されたわけでも何か壊れたわけでもなく、停電くらいでガタガタ言っていては罰が当る。実際、浦安あたりは液状化でライフラインがかなりズタズタになっているらしく、それに重ねて停電ではたまったものではなかろう。

●金曜日。自宅の階段で転倒。迂闊。

ちび助が一人で階段の半ば過ぎまでよじ登って来ていたので、抱き上げて降りるところで滑った。ちび助は私の顔に頭をぶつけた他にはどこにも何も当てることなく、ちび助を取り落とすことも、下まで転げ落ちることもなくてよかったが、右脇を強打したうえ、しばらくして気付いたが右人差し指の爪が割れていた。

深呼吸しても特に脇が痛むということもないし右腕が動かしにくいということもなく、人差し指の爪も血が出るほど割れたわけでもない。運がよかったと考えるべきだろうと思っていたのだが、それでも多少痛いには痛い。一休みすることにして、夕方少し横になっていたら、起きて以降だいぶ痛み始めた。じっとしている分には痛みもないが、背中のほうに力がかかるとつらく、鼻もかめなくなってしまった。ふんがー。

●バンダイ48のダイムラー装甲車は、操縦手席前面バイザーを取り付け。実際にはキットのパーツは、縦幅に比べ横幅が広すぎる。単に横幅がありすぎるようにも見えるが、前面装甲板の縦横比自体がちょっとおかしい可能性もある。

いずれにせよ、すでに車体は組んでしまってあるので今更修正もできず、単にバイザーを薄く削り、チラ見えの範囲でそれらしく見えるよう裏面に多少のディテールを工作して、開状態で接着した。

なお、前回書き忘れたが、結局、気になり始めた砲塔前面下のベロを延長(ただし砲塔リングの拡大などは行わず)、戦闘室後面のバイザーも追加工作した。

装備品を除く工作は僅かになったが、ここで、車体右側のラックがどうにも気になってきた。

前回日記のキットの写真にも写っているが、パーツがごつい角材状だったのでプラバンで作り変えたもの。一応、実車の正規装備で現存の博物館車輌には付いているのだが、戦時中の写真では、初期には付いておらず、どうやら後から追加で装着されたものらしい。

ラック自体はシートか迷彩ネット用のものらしく、作例ではまだ付けていない2本のベルトで締め付ける。さらに、これも作例ではまだ付けていないが、ラックの外側にドイツ戦車のピルツェ状の突起が2つある。web上で見つけた図版によれば、これはサンドチャンネルを取り付けるためのものであるらしい。

しかし、アフリカ戦あたりのダイムラーMk.Iは、車体前面にサンドチャンネル用のホルダーを別途持っている。というわけで、車体右側のラックはアフリカ戦より後に付けられたもののような気がする。実際、北ヨーロッパの戦場になると、車体右のラックがしっかり付いているのだが、この時期になると、車体左にスペアタイヤを搭載し、それに合わせてジャッキなどの装着位置も変わってくる。キットにはスペアタイヤのパーツがないので、複製でもしない限り、この仕様にはしづらい。

そんなわけで、せっかく作ったラックだが取り去ってしまおうか悩み中。

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ひたすら歩く。

●結局、この週末は計画停電は無しということになるようだ。

何だか被災地の皆さんに申し訳ないような気もするが、とはいえここで停電していても、その分、被災地に何か行くわけでもない。

●とにかく歩く。

19日、鎌倉大町のちょっと判りにくい場所に知る人ぞ知るケーキ屋があるとかみさんが言うので、ネットで調べてみると、本当にずいぶん奥まったところだった。というわけで、3日連続で名越の尾根道を辿って大町の谷戸奥に降り、そのケーキ屋を訪ねる。毎日尾根道を越えて歩くとは、まるで中世の人間のようだ。

P1020411 ケーキ屋は停電のあおりで生ものは再開したばかりとのこと。品物はあまりなく、小さなロールケーキを1つ買う。出たついでにちょっと大回りして帰ろうと思い、釈迦堂切通しに行ってみたら、本格的に通行止めになっていた。

実際にははるか以前から通行止めではあったのだが、2年ほど前に行ったときには、そう書いた札が立っているだけで柵などは設けられていなかった。大町の谷戸と金沢街道方面を結ぶ便利な近道でもあり、近隣の人は日常的に利用していたのではないかと思う。

柵が真新しいのでつい最近立てられたのかも知れないが、調べてみると、昨春、大雨の後に横の岩肌がだいぶ大きく崩れたそうな。

●20日。暖かい。

午後に出掛ける。今日はちょっと贅沢をして、逗子から北鎌倉まで電車に乗り、円覚寺の裏山にあたる六国見山に登る。前々日の衣張山からは、鎌倉旧市街を東奥から見下ろす形だったが、六国見山だと西奥から見下ろすことになる。

明月谷に降りて再び登り、天園ハイキングコースに入って“鎌倉の背”を辿る。十王岩はほぼ鎌倉旧市街の真後ろにあたり、若宮大通がほぼ縦一文字に見える。

P1020420天園までは行かず、これまで行ったことがない覚園寺方面に降りる。覚園寺方面に折れてすぐのあたりはやぐらが密集しており、百八やぐらというそうな。それほど巨大な穴は見なかったが、覗いたうちのひとつには石塔がぎっしり入っていた。

“下界”に降りて覚園寺に寄る。震災を受けて、賽銭箱の中身をそのまま募金に回すと書かれており、財布の中の小銭をぱらぱらと(済みません、ビンボーなんです)。

鎌倉駅前まで歩いて戻る。

P1020436 ●ひさびさのヨンパチ工作報告。砲塔右側面のサーチライト、スモーク・ディスチャージャーを工作。

スモーク・ディスチャージャーは、現存の博物館車輌ではもっと別の形をしているのだが、当初からその形であったかどうか、よくわからない。初期のMk.Iの仕様が写っている、youtube上の動画では残念なことにカバーが掛かっている。もっともオシリの部分からケーブルが出ているし、引き金?部分があまり大きいようにも見えないので、マチルダあたりと同一形状のものが付いていた可能性もありそう。

などなど考えつつ、結局、単に「なんだかそれらしい感じ」の適当工作で誤魔化した。

それにしても、ダイムラー装甲車はイギリス製装甲車としては主役級なのだと思っていたのだが、web上に戦時中の写真資料が少ないこと! そもそもイギリスAFVというのはこんなものなのだろうか?

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facebookを始めた

●このところ数人から続けざまにfacebookに誘われ、とりあえず登録をしてみる。今のところは、BBSとチャットのちょうど中間くらいの感じかなあ、などとボンヤリ思う程度。

それはそれとして、我が家のPC上のIEで見ると、facebookのページのレイアウトが一部狂う。「いいね」ボタンや、誰かが貼った動画サムネイルの位置がずれて、他の人の発言にかぶってしまったり。facebookとIEの取り合わせではよくあることなのか、ウチのPC上特有の問題なのか、よく判らず。

●仕事で川崎駅前の某社。いまだに西口側は“裏口”みたいなイメージでいたのだが、ものすごく久しぶりに西口側に出ると再開発でえらくオシャレな感じになっていた。

●「どうでしょう軍団」が! 「どうでしょう軍団」がご近所を走っていた! 実際に走っていたのはすでに昨夏のことだが、会ってみたかった。会ったからってどうってことはないが会ってみたかったがじゃー。ぶんきゅうう、にねえん、どうでしょうぐんだんはあ、かまくらをお、はしっておったがじゃー。

P1020319b ●48のダイムラー装甲車Mk.I、じわじわと進行中。たまたま週末模型親父さんのところのミニコンペに便乗して、半ば忘れかけていた在庫を引っ張り出して作り始めただけなのだが、細かい部分をちょこちょこいじっていると、それなりに愛着も湧き始める。

ネット上で調べてみると、このダイムラーMk.Iのキットは、バンダイの48シリーズの中でも比較的よくできているキットだそうで、実際にある程度形になるとなかなか格好良い。特に斜め後ろからの感じが個人的には気に入り。

P1020305b 基本、大掛かりな工作はしないで仕上げる方針と以前に書いたが、天井は分厚すぎて印象を悪くしているようだったので、0.5mm板で張り替えた。ついでに、ポーランド軍ファンの意地で(?)グンドラフ式ペリスコープ(要するにビッカースMk.4ペリスコープ)を自作。天井中央の棒の役割は謎。何かに接触して倒れると自爆?(地雷犬じゃあるまいし)

防盾は若干上寄りになっているようだったのでずらして接着、同軸機銃のスリーブはムクのブロック状になっていたので溝を彫り込み、根元と前面を0.3mm板で。照準口も位置を下にずらし、省略されていた砲塔前面の小さなバイザーを追加した。

バンダイ48シリーズの特徴で、車内はエンジンも戦闘室内部も一応パーツはあるのだが、車体内部はそもそも何も入れずに貼り合わせてあったのでカラッポのまま。しかし折角なので砲塔内部はパーツを入れて、残りのディテールも少し足して、などと思っていたのだが、

  • どうやらキットは砲塔リング部の直径が足りないようで、そのままだととてもではないが乗員2人がもぐりこめそうにない感じになる。
  • 内部パーツの再限度もいまいち。
  • 砲塔の開閉機構が妙に面倒な形状でわかりにくく、しかも開けた時のアンテナとの位置関係も面倒。

という理由で、あっさり諦めることにした。

P1020317 砲塔後部のアンテナ基部は左右で形状が違う(アンテナの長さも違う)。ただし、左側は現存の博物館車輌だとクロムウェル等と同じく根元におちょこ形状の枠があるのだが、どうもこれは後の改修らしく、Mk.Iの場合、当初はもっと単純な形状だったらしい。というわけで、アルミ板で作り始めてみた輪は無駄に。

ディテールでは、まだ砲塔右面の擲弾筒、サーチライトなどが未工作。

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ヨンパチ工作

●3月3日。サン・サーンスの日。いや、知らんけど。

ちなみにカントール先生の誕生日だったり、三枚肉の日(サムギョプサルの日)だったりするのは本当だ。

●2日水曜日、雨が上がりかけた昼前に出掛ける。そのまま雨は上がってしまい、と言うよりも都内はそもそも降っていなかったのか、とにかく傘は一度も差さないままに(文字通りに)無用の長物になってしまった。結局半日、どこかに傘を置き忘れるんじゃないかと戦々恐々としながら出歩く。

午後の仕事は西新橋界隈だったので、長丁場の会議後、夕方、タミヤ・プラモデルファクトリーに寄る。製作中のバンダイ48、ダイムラー装甲車Mk.I は昔々のキットなのでデカールが使用可能かどうか怪しく、タミヤ48のクルセーダーあたりのデカールがバラ売りされていないかと思ったが見当たらなかった。

昼飯を食いそびれていたので、博多ラーメンを食う。博多ラーメンで一般的な「替え玉」は、東京の店で頼んでいる人はあまり見ないような気がするのだが、昼飯抜きだったこともあって頼んだら、私の後、カウンターに座っていた客が次々4人も替え玉を注文した。

……誰かが口火を切るのを待ってるのかアレは?

●某所から来た、仕事の手直し要請に四苦八苦。N女史とともに頭を抱えるが、さりとて、いきなり直せと言われて出来ることもあまりないのでますます困惑。

●48スケール・ミニコンペ向けに、ちまちまと地味な工作中。

1.先日発掘したバンダイ48キット(およびバンダイ亜種48キット)3種のうち、とりあえずダイムラー装甲車Mk.Iを選んで作り始める。

P1020257 基本、大それたディテールアップなどはしない方針で(するほどのネタもないし)、とはいえ何もしないのもつまらないので、ボンネットの手すりを真鍮線にし、ルーバー部分は単に階段状になっていたのでナイフの刃先で若干彫り込み、そこまでやったらついでにということで、シャーシ後面をプラバンで張り替えた。もっとも戦闘室後面の省略されているビジョンポートなどはそのまま無視。ぬるめ。

ネット上でも探してはみたものの、戦時中のダイムラーMk.Iの写真はそれほどない。面白げな塗装とか、変わったユーザーとか、ちょっと惹かれる荷物搭載状態とか、そういった写真の1枚も見つけられず、どうもあまり気合いが入らない。マルタ迷彩の例でもあればなあ(と、前々回も言ったっけ)。

P1020254 2.というわけで、補欠のシトロエン11CVにも手を付ける。どうせ作るならと、当初から気になっていたタイヤの厚みを手直しすることにして、すでにシャーシに取り付けてあった車輪をもぎ取る。

年末の大掃除で発掘された、長らく行方不明だったトライツールのエッチングソーで車輪をスライスし、ゴリゴリやすって幅を詰める。現在、2個幅詰め終了。あと半分。

3.実を言えば、何か変わった面白いネタはないものかと考えた末、GPMのペーパークラフトのタトラT-18装甲トロッコを縮小印刷し、これを型紙に1:48で作ってやろうかなどとよからぬことを考えたのだが、基本形状はさておき、リベットが恐ろしい状態になることが判明し断念。

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