●承前。
週末、川崎の実家に行ったついでに、12日日曜日午前中、「溝ノ口高射砲陣地」跡地を訪ねてみた。
おおよそ現在(2019年)の航空写真は以下。

国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより引用。国土地理院撮影(2019年11月1日)、CKT20191-C57-60より切り出し加工した。

上左:南側からの津田山の遠望。国道246号に掛かる歩道橋上から撮影。国道246号は、梶ヶ谷方面の丘陵地から、JR南武線や南武沿線道路が通る谷を長い陸橋で越え、さらに津田山を大きな切通で通過する。車線こそ2車線→4車線に拡幅されているが、この陸橋と切通自体は、昭和30年代初頭、旧大山街道が国道246号に格上げされた時にバイパスとして作られた古いもの。高射砲陣地は、左側に連なる山の上にあったはず。
上右:梶ヶ谷側から陸橋を渡り終え、南側から切通を見る(上掲航空写真の①地点)。見えているのは切通だが、信号(交差点)名は撮影方向の真後ろにある「津田山陸橋」。先に見える歩道橋のたもとあたりから、山に上がっていく坂道がある。

上左:246から津田山に上がっていく緩やかな坂道途中にある小さな祠(上掲航空写真②)。「津田山辯財天」とある。この写真では見えにくいが、奥の赤屋根の小祠の後ろには、山の斜面にぽっかりと横穴が開いている。どうも横穴式古墳の跡であるらしい。こういった小さな祠があるということは、この道自体が古いものである証ではとも思ったのだが、実際は違ったようだ。これについては後述。
上右:津田山弁財天をちょっと過ぎたあたりで、坂道を振り返る(上掲航空写真③)。(この写真では判りづらいが)先の方で完全に国道246号に断ち切られているものの、道それ自体は246号の向こう側に続いており、少なくともこの坂道が246号以前からのものであったことがわかる。

上左:坂を完全に登り切り、平坦になった尾根道を見通す(上掲航空写真④)。住居表示のプレートに見るように、道の左側(南西側)は、高津区下作延7丁目。右側(北東側)は高津区久地1丁目で、ちょうどこの尾根道が境界となっている。高射砲陣地は下作延側にあったことになる。
上右:住宅がちょっと途切れたところから、山の北側の眺望。多摩川の流れる低地を隔てて、向こう側には世田谷の台地。住宅に遮られなければ非常に見晴らしがよい場所であることがわかる。案の定、眼下にあるはずの久地円筒分水は、家々に遮られて発見できなかった。

上左:道端に立てられた案内板(上掲航空写真⑤)。個人情報保護に厳しい今時では珍しく、個人宅の名前入り(大丈夫だよね?この写真だと読めないよね?)。「津田山尾根道」という墨書調タイトルが由緒というか風情があるが、今年4月のストリートビューでは単純に「津田山町内案内図」とあるので、ごく最近架け替えられたもののようだ。
上右:その案内板のすぐ先から、やはり山の北斜面を見下ろす。大きな屋根は久地不動尊、その先にちろっとだけ、津田山を潜って出てきた平瀬川が見えるので、高射砲陣地があった場所は通り過ぎてしまっていることがわかる。

いずれにしても、もう今は住宅地に飲み込まれてしまって、高射砲陣地の痕跡なんて何も残っていないよな……と半ば決め付けていたのだが、上の場所から少し戻って、「尾根道」南側の駐車場と民家の境に、こんなコンクリートの構造物を発見した(上掲航空写真⑥)。場所的には、おおよそ、一番北側にあった砲座の近くということになりそう。
武山の砲台山にある天水桶状の構造物とも何となく似ている(武山のものよりも薄く、また上辺が平行でないという違いもあるが)。もちろん、高射砲陣地と全く無関係かもしれないが、コンクリートの質感といい、「意味がないんだけれど撤去するのも面倒なので」花壇的に再利用されている雰囲気といい、当時の陣地の付属物である可能性は十分ありそうな気がする。

上左:今度は尾根道から南側を見下ろす。中央には、ぐっとこちら側に向きを変えて流れてくる平瀬川が見える。
上右:津田山から降りて、平瀬川が津田山を貫く水路の入り口を見る。ここから見ると、津田山は裾野から上まですっかり住宅に覆われている。この尾根上の中央やや右側に高射砲陣地があったことになる。
●と、ここまで書いて、改めて過去の写真をあれこれ見比べていて気付いたこと。
「高射砲陣地」というものに対する先入観から、円弧状に配置されているのが陣地の本体と考えてそればかり気にしていたのだが、円弧状の陣地の右下(南東側)にごちゃっとあるものも、対空陣地跡なのではないだろうか。当初は「宋隆寺の裏山のてっぺんにあるんだから、墓地か何かかな?」などとボンヤリ思っていたのだが、よく見ると1941年時点の写真にはなく、円弧状の陣地と同時期に作られた軍事施設である可能性が高そう。改めて範囲を少し変えて、1947年8月1日・米軍撮影、USA-M388-64から切り出したものが以下。

むしろ南東側の「陣地B」のほうが造りが凝っている感じ。砲が6門、円弧状の掩体も6基ということで、「陣地A」が高射砲陣地の本体と思っていたが、実は砲は陣地Bに配置されていて、陣地Aは対空機銃座、なんて可能性もあるのではないだろうか?(前回触れた資料の付表では、対空機銃の配備等には触れられていないが)。
いずれにしても、この「陣地B」跡は、国道246号の切通建設で、まるっきりこの部分の山自体が無くなっており、現地調査などしようがない。
●位置を推定するために時代を分けて検索した航空写真を、せっかくなので、おおよそ同じ区域でトリミングして比較してみることにする。全て国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより引用。トリミング範囲は、おおよそ津田山(七面山)の南東側半分。

1枚目:1941年8月6日、陸軍(63-C6-102)
2枚目:1947年8月1日、米軍(USA-M388-64)
3枚目:1955年1月21日、米軍(USA-M68-51)
4枚目:2019年11月1日、国土地理院(CKT20191-C57-6)
2枚目、4枚目はそれぞれ既出の写真のトリミング違いのもの。各写真は北を上にしているものの、微妙な角度のズレもあり、縮尺も正確には合っていないが、おおよその変遷は判ると思う。
1枚目は高射砲陣地が構築される前の津田山で、山の南側に斜めにまっすぐ引かれた線は南武線(当時は南武鉄道)。左端には現:津田山駅(当時の駅名は「日本ヒューム管前停留場 」) と、その駅前にあったヒューム管工場(前年に鶴見より移転)が見える。津田山を縦貫する新平瀬川の水路は未成のようだ。上辺中央やや右の久地円筒分水は、まさにこの年に完成。この写真ではすでに完成しているのか、半完成状態なのかはよくわからないが、円筒分水からまっすぐ右下に向けて引かれた二ケ領用水本流(川崎堀)は目立つ。
山の南側から尾根に向けて上がる細い道はあるが、今回私が上がった砲台道と思われる坂道はまだなく、上で「陣地B」として言及したごちゃっとした何かも、この段階では存在しない。
2枚目はたびたび掲示した終戦直後(2年後)の写真で、すでに新平瀬川のトンネルは完成。高射砲陣地の掩体もはっきりわかる。この段階で、1941年の写真でもあった尾根に上がる道の右側(東側)に、新たに(写真で見てもより道幅が広い)坂道が新設されている。西側の旧道は谷筋を通っているので、おそらく尾根の直前で傾斜がきつくなる。そこで砲台への資材や弾薬の搬入のため、新たに砲台道として山の中腹を緩やかな傾斜で上がる新道を作ったのではないかと思う。この道が、今回私が歩いた道になる。
そんな新しい道の途中に「津田山弁財天」の祠があるのは少し不思議だが、そもそもこの弁財天は、大正初期、日照りが続いた折に某行者(?)が横穴に籠って祈願したところ雨が降ったことに由来するとか。先述のようにその穴自体は山の中腹に掘られた横穴式古墳の跡と考えられるので、たまたま新しい砲台道を通した際に、中腹の横穴の脇を通ることになったのかも。
3枚目は1955年の撮影で、まさに246号の切通を作っている最中の写真。この段階(終戦から10年後)でも、円弧状の陣地跡は畑(?)の中にまだ残っている。しかし、上で「陣地B」とした構造群は、切通と全く重なっていて、完全に消失している。また、246号によって、砲台道が途中で分断されてしまったことがわかる。
4枚目は現状(2019年)。1955年と比べると、246号が大きく拡幅されている。津田山もびっしりと住宅が覆っているため、緑は一部の斜面にしかなく、山の形(高低差)が判りにくい。
最近のコメント