軍事遺構

帆船恋路?

●息子のところのチビ娘(ジャスト4歳)は、なぜかサーフボードのことを「はんしぇんこいじー」と呼ぶ。

当地は海辺の町なので、たまにお泊りに来れば、近所を散歩する際に割と頻繁にサーフボードを目にすることになるが、「あれは何?」と聞くと必ず「はんしぇんこいじー(だよ)!」と言うので、彼女の中ではサーフボードを指す一般名詞として定着しているらしい。

大航海時代に見慣れぬ動物を見て「あれはなんて言うんだ?」と尋ねた時に、現地民に「なしてそげなこと聞くだ?」と言われたのがそのままヨーロッパでの生物種名になってしまった(ただし、カンガルーという名前の由来がそうだというのは俗説だそうだ)――なんて事例と似たような感じで、「幼児が(誤解に基づいた)謎名称を使う」というのは一般によくある。

とはいえ、何かのはずみで覚えたというには妙に(音の繋がりが)凝っていて長い。しかし、本人に聞いても「はんしぇんこいじーだからはんしぇんこいじーなんだよ」的な答しか返ってこないし、息子夫婦も心当たりがないそうだ。

ちなみにうちの娘は小さい頃に自動車のことを「びあん」または「びあま」と呼んでいたが、これは理由がはっきりしていて、当時乗せてもらえる機会が多かった義弟の車が日産のBe-1だったため。「びあま」は「びーわん」と「くるま」が折衷されたものか。

F1019591 ●JR逗子駅の東逗子駅側には操車場があるが、その操車場から本線を挟んで反対側には、京急逗子線と合流する分岐がある。

京急金沢八景駅近くにある鉄道車両工場、総合車両製作所横浜事業所との連絡線(回送線)で、時折、見慣れない車両がこの線路を通って出入りするので、それらの出入り情報を掴んだ鉄な人がカメラを抱えて集まっていることもある。

また、京急側の合流地点である神武寺駅から向こうは、京急の標準軌の内側にもう一本、狭軌用のレールが引かれた三線軌条になっているなど、なかなかマニア的にそそるものがある。以前にも載せたことがある写真だが、この回送線の、山の根-池子間の小トンネルも、なかなか佇まいに風情があってよい。

以前にも書いたように、この回送線は、もともと海軍工廠であった総合車両製作所横浜事業所や、池子弾薬庫の搬入・搬出用引込線との連絡用に、軍用線路として作られている。そしてこれはつい最近知ったのだが、どうやら、この回送線の京急と共用でない部分(逗子-神武寺間)は、池子弾薬庫と一体で米軍に接収されていて、(借り手としては総合車両製作所になるのかJR貨物になるのかよくわからないが)米軍から使用許可を得て使っている、という形になっているらしい。

池子弾薬庫跡地に関する逗子市のページでは範囲についてはよくわからないが、神奈川県のページに添付されたパンフの地図では、シッポのように細く回送線部分が伸びているのが確認できる。

と、そんな所属を示すように、回送線の逗子側の始点には、「米軍池子線」の路線名表示がある。場所は、つい先日廃止になった山の根踏切の少し逗子駅寄り。

横にあるのは、始点を示すものと思われる距離標(キロポスト)だが、表記が単純に「0」ではなく「0|0」である理由は鉄な人ではない私にはよくわからない。ちなみに「米軍池子線」と書かれた三角札の反対側(逗子駅方面に向かって見える側)には「JR貨物」と書かれている。

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山の根の尾根再訪

●駅前に用事があって出たついでに、突発的に、JR逗子駅北側の山の根の尾根を歩く。

初めてここを歩いたのは2015年の4月で、その後2、3度歩いているが、今回はだいぶ久しぶり(数年ぶり)だと思う。

逗子市山の根は前記のようにJR逗子駅北側の地区で、逗子の町域としては最小面積(0.51平方キロ)。南側は横須賀線の線路に区切られ、北側は尾根に囲まれている。尾根の西側は逗子市久木との境界、東側は逗子市池子との境界になる。

尾根の上には一応細い山道がずっと通っていて、数か所に行先案内表示まであるのだが、その一方で、この尾根への数か所の上り口には何の案内もなく(むしろ、そのうちの一か所の熊野神社東側には「山越えはできません」と書かれている)、逗子のいくつかの山歩き案内にもこのルートは載っていない。

●北側尾根の、久木小学校・中学校共同グラウンドを見下ろす少し手前あたりから、点々と海軍標石がある。尾根の北側は町域としては久木だが、(共同グラウンドも含めて)旧・池子弾薬庫跡地なので、その境界を示すために標石が置かれたものと思われる。

以前の記事にもいくつか載せたが、今回も写真を撮ったので、改めて載せることにする。

▼まずは前半。共同グラウンドへの降り口よりも西側のもの。以下の写真はすべて西→東の順番。

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あまり丹念に撮影はしていなくて、歩きながら「あ、ここにあった」と基本1枚ずつしか撮っていないので、ピンボケ混じり。すでにこの季節、歩いていると蚊が寄ってきたり、蜘蛛の巣に頭を突っ込んだりするので、なかなか落ち着いて写真を撮る気持ちになれない。やはり、きちんと調査するなら冬の間に登るべき。

▼後半。共同グラウンドへの降り口の案内と、それより東側の標石。

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とりあえず今回は15基の標石を確認しているが、過去に同じルートで撮った写真と見比べてみると、(細部の様子や傾きなどから見て)今回は撮っていない標石もあったりするので、藪にまぎれているなどでいくつか見落としているようだ。たぶん、全部では20基弱あるのだと思う。

なお、よく見ると表記面が一段窪んでいるのが多数派だが、少数、窪んでいないタイプも混じっているようだ。

ちなみに、同じ海軍標石でも、水道路沿いのものは表記が「ダブル山形・海」だけで、字体も異なる。また池子弾薬庫跡地北端あたり(横浜市域内)の尾根にあるものは、表記は「ダブル山形・海軍」だが、これまた字体が違う。下写真は、左が水道路のもの、右が池子弾薬庫跡地北端あたりの尾根のもの。

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ちなみに、横須賀軍用水道半原系は明治末年に始まり大正10年(1921年)に完成。池子弾薬庫は昭和13年(1938年)に一部地域の買収が始まっているが、上の標石がある久木の旧・柏原地区は昭和16年(1941年)に買収が行われている。横浜市側の区域がいつ買収されたのかはよくわからないが(横浜市サイトでは米軍が接収した日付しか出ていない)、wikipediaでは「1942年(昭和17年)には、横浜市金沢区側(当時、磯子区)に海軍の毒ガス弾の製造工場(谷戸田注填場)が設置された」とある。

おおよそ用地買収とともに標石が設置されたのだとすれば、水道路標石→山の根標石→横浜標石の順番で旧~新タイプということになる。年代別ということ以外に、「発注先によって仕様が適当」という可能性もあるかもしれないが。

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逗子市のマンホールカード

●全国の自治体が「下水道広報プラットフォーム」と共同で発行する「マンホールカード」の第16弾42種のうちの1つとして、逗子市のものが発行された。

第16弾の配布は今日、1月15日からで、逗子市のものも市役所(通常は2階の下水道課窓口、土日祝日は裏手の警備員室)で配布が始まっている。というわけで、早速1枚貰って来た。

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駅前に(1枚だけの)カラーマンホール蓋が設置されたのは一昨年の夏。その時から、マンホールカード発行の申請を検討とされていたので、近々出るんだろうなあと思っていたのだが、つい最近、「そういえばどうなったかな」と検索してみて発行を知った。まあ、あわてて貰わなくてもしばらくは無くならないと思うけれど。

●同じく路上蓋関連。

先日日曜日のことなのだが、逗子市久木の路上で、海軍の水道弁(仕切弁とか止水弁とか)の蓋を見つけた。

二連・二重の山形と錨は海軍を示す。左右に矢印があって、その下に「■」マークがあるが、これはすり減って読めないだけで、本来は「開・閉」の文字だったのではないかと想像。

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場所は久木小学校の裏手、妙光寺の門前ちょっと脇。街区で言うと久木2丁目1と6丁目1の間になる。普段から散歩のときなどに頻繁に通る場所なのに(もう20年以上通っているはずなのに)今まで全く気付かなかった。

こうした海軍に関わる水道施設の遺物は、軍用水道上に作られた「水道路(すいどうみち)」沿いには多数残っているが、ここは水道路(このあたりでは県道311号線)からは外れている。浄水場に到達する前の水道から枝分かれしているとは考えづらいので(上水道の構造自体に詳しくないので勝手な想像だが)、これは逗子市(当時は逗子町、あるいは1943年以降であれば横須賀市)の水道から、久木の奥にあった横須賀海軍工廠工員宿舎、あるいはさらにその奥の池子弾薬庫方面へと引かれた旧・海軍専用経路なのではないかと思う。

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2枚目写真は「水道路」上、JR逗子駅から東逗子方面へ、京急の踏切を越えたあたりにある同様の栓蓋。かなりすり減っているが、かろうじて山形と錨の海軍マークが見える。久木の蓋とは、全体形はほぼ同じだが絵柄は別物。

●何日か前のテレビニュースで、確か、コロナ禍でごみ収集の人員にも不足が出始めているという内容だったと思うのだが、東京の下町の路地でごみ収集している映像が流れていて、そのごみ収集車がなんとターレだった。確かに軽トラでも入りにくいような路地でごみ収集するにはターレはうってつけ。何区だったかなあ。

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謹賀新年2022

●本年もよろしくお願い申し上げます。

世界的に今なおコロナ禍下にあり、なかなか「明けまして」とも「おめでとうございます」とも言い難い状況であるのは確かですが、なんとか少しでも明るい方向に向かって行ってくれればと思います。……今年は東京AFVの会があるといいなあ。

●例年通り、大晦日に川崎の実家に行って、母、兄と年越し。大晦日には兄が作ってくれた蕎麦を食い、元日には兄が作ってくれた雑煮を食う。……オレ何にもしてないぢゃん。

●母もだいぶ認知症が進んできて、数分前に言ったことを忘れて同じことを繰り返すのを、こちらも同じように返したり。

「そのうち、息子の顔も忘れて『あんた誰?』って言うようになるよ」

と、自分で言っているうちはまだいいかなあ、なんて思ったりする。

●特段やることもなく、大晦日は紅白歌合戦の最初のほうだけ見る。なんというか、「無理矢理盛り上げよう感」が強すぎて痛々しい。

せっかく司会に大泉洋を据えるのなら、「どうでしょう」のぐだぐだなノリで、

「いいですかぁ? 『紅白』もねぇ、四六時中面白いわけじゃないんですよ?」とか、

「奥さーん。知ってるでしょう? 大泉洋でございます。オイ、『紅白』観ねぇか?」とか……。

あるいは、いっそのこと藤村Dにも一緒に出てもらって、

「ええええ? 『紅白』? またやるの? もういいじゃない、去年やったんだし」
「バカ野郎、お前『紅白』舐めてんじゃねえ。やるっていったらやるんだよ」

みたいな掛け合いを見せてくれるとか。それくらいしないと、もう紅白は生き返らない気がする(……むしろとどめを刺す?)。

●なんだかんだぐうたらしている間に三が日も過ぎ、通常営業に復帰(できているかどうかはさておき)。

4日は今年初砲台。といっても、ご近所の披露山。

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写真1枚目から――。

一番北側の、花壇に姿を変えた第一砲台(仮称)。写している自分の影入り。hn-nhさんが腕を突っ込んで内壁の傾斜を確かめた周囲の池は、睡蓮が刈り込まれて寒々とした感じ。

展望台の土台となった真ん中の第二砲台、越しに見る富士山。実際にはここには砲は据えられなかった模様。

ほぼ原型のまま猿舎に再利用された南端の第三砲台。檻のせいか、掘り下げられているせいか、同じ径のはずなのに花壇よりこちらのほうが大きく見える。錯視の実験のよう。それを言うなら、ここの展望台2階の床は(確か前にも書いたが)、おそらく外側に傾いた外周の壁のために、常に自分がいる場所が一番高く、床が傾斜して見えてちょっとクラクラする。披露山錯視公園。

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溝ノ口高射砲陣地(2)

●承前。

週末、川崎の実家に行ったついでに、12日日曜日午前中、「溝ノ口高射砲陣地」跡地を訪ねてみた。

おおよそ現在(2019年)の航空写真は以下。

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国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより引用。国土地理院撮影(2019年11月1日)、CKT20191-C57-60より切り出し加工した。

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上左:南側からの津田山の遠望。国道246号に掛かる歩道橋上から撮影。国道246号は、梶ヶ谷方面の丘陵地から、JR南武線や南武沿線道路が通る谷を長い陸橋で越え、さらに津田山を大きな切通で通過する。車線こそ2車線→4車線に拡幅されているが、この陸橋と切通自体は、昭和30年代初頭、旧大山街道が国道246号に格上げされた時にバイパスとして作られた古いもの。高射砲陣地は、左側に連なる山の上にあったはず。

上右:梶ヶ谷側から陸橋を渡り終え、南側から切通を見る(上掲航空写真の①地点)。見えているのは切通だが、信号(交差点)名は撮影方向の真後ろにある「津田山陸橋」。先に見える歩道橋のたもとあたりから、山に上がっていく坂道がある。

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上左:246から津田山に上がっていく緩やかな坂道途中にある小さな祠(上掲航空写真②)。「津田山辯財天」とある。この写真では見えにくいが、奥の赤屋根の小祠の後ろには、山の斜面にぽっかりと横穴が開いている。どうも横穴式古墳の跡であるらしい。こういった小さな祠があるということは、この道自体が古いものである証ではとも思ったのだが、実際は違ったようだ。これについては後述。

上右:津田山弁財天をちょっと過ぎたあたりで、坂道を振り返る(上掲航空写真③)。(この写真では判りづらいが)先の方で完全に国道246号に断ち切られているものの、道それ自体は246号の向こう側に続いており、少なくともこの坂道が246号以前からのものであったことがわかる。

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上左:坂を完全に登り切り、平坦になった尾根道を見通す(上掲航空写真④)。住居表示のプレートに見るように、道の左側(南西側)は、高津区下作延7丁目。右側(北東側)は高津区久地1丁目で、ちょうどこの尾根道が境界となっている。高射砲陣地は下作延側にあったことになる。

上右:住宅がちょっと途切れたところから、山の北側の眺望。多摩川の流れる低地を隔てて、向こう側には世田谷の台地。住宅に遮られなければ非常に見晴らしがよい場所であることがわかる。案の定、眼下にあるはずの久地円筒分水は、家々に遮られて発見できなかった。

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上左:道端に立てられた案内板(上掲航空写真⑤)。個人情報保護に厳しい今時では珍しく、個人宅の名前入り(大丈夫だよね?この写真だと読めないよね?)。「津田山尾根道」という墨書調タイトルが由緒というか風情があるが、今年4月のストリートビューでは単純に「津田山町内案内図」とあるので、ごく最近架け替えられたもののようだ。

上右:その案内板のすぐ先から、やはり山の北斜面を見下ろす。大きな屋根は久地不動尊、その先にちろっとだけ、津田山を潜って出てきた平瀬川が見えるので、高射砲陣地があった場所は通り過ぎてしまっていることがわかる。

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いずれにしても、もう今は住宅地に飲み込まれてしまって、高射砲陣地の痕跡なんて何も残っていないよな……と半ば決め付けていたのだが、上の場所から少し戻って、「尾根道」南側の駐車場と民家の境に、こんなコンクリートの構造物を発見した(上掲航空写真⑥)。場所的には、おおよそ、一番北側にあった砲座の近くということになりそう。

武山の砲台山にある天水桶状の構造物とも何となく似ている(武山のものよりも薄く、また上辺が平行でないという違いもあるが)。もちろん、高射砲陣地と全く無関係かもしれないが、コンクリートの質感といい、「意味がないんだけれど撤去するのも面倒なので」花壇的に再利用されている雰囲気といい、当時の陣地の付属物である可能性は十分ありそうな気がする。

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上左:今度は尾根道から南側を見下ろす。中央には、ぐっとこちら側に向きを変えて流れてくる平瀬川が見える。

上右:津田山から降りて、平瀬川が津田山を貫く水路の入り口を見る。ここから見ると、津田山は裾野から上まですっかり住宅に覆われている。この尾根上の中央やや右側に高射砲陣地があったことになる。

●と、ここまで書いて、改めて過去の写真をあれこれ見比べていて気付いたこと。

「高射砲陣地」というものに対する先入観から、円弧状に配置されているのが陣地の本体と考えてそればかり気にしていたのだが、円弧状の陣地の右下(南東側)にごちゃっとあるものも、対空陣地跡なのではないだろうか。当初は「宋隆寺の裏山のてっぺんにあるんだから、墓地か何かかな?」などとボンヤリ思っていたのだが、よく見ると1941年時点の写真にはなく、円弧状の陣地と同時期に作られた軍事施設である可能性が高そう。改めて範囲を少し変えて、1947年8月1日・米軍撮影、USA-M388-64から切り出したものが以下。

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むしろ南東側の「陣地B」のほうが造りが凝っている感じ。砲が6門、円弧状の掩体も6基ということで、「陣地A」が高射砲陣地の本体と思っていたが、実は砲は陣地Bに配置されていて、陣地Aは対空機銃座、なんて可能性もあるのではないだろうか?(前回触れた資料の付表では、対空機銃の配備等には触れられていないが)。

いずれにしても、この「陣地B」跡は、国道246号の切通建設で、まるっきりこの部分の山自体が無くなっており、現地調査などしようがない。

●位置を推定するために時代を分けて検索した航空写真を、せっかくなので、おおよそ同じ区域でトリミングして比較してみることにする。全て国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより引用。トリミング範囲は、おおよそ津田山(七面山)の南東側半分。

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1枚目:1941年8月6日、陸軍(63-C6-102)
2枚目:1947年8月1日、米軍(USA-M388-64)
3枚目:1955年1月21日、米軍(USA-M68-51)
4枚目:2019年11月1日、国土地理院(CKT20191-C57-6)

2枚目、4枚目はそれぞれ既出の写真のトリミング違いのもの。各写真は北を上にしているものの、微妙な角度のズレもあり、縮尺も正確には合っていないが、おおよその変遷は判ると思う。

1枚目は高射砲陣地が構築される前の津田山で、山の南側に斜めにまっすぐ引かれた線は南武線(当時は南武鉄道)。左端には現:津田山駅(当時の駅名は「日本ヒューム管前停留場 」) と、その駅前にあったヒューム管工場(前年に鶴見より移転)が見える。津田山を縦貫する新平瀬川の水路は未成のようだ。上辺中央やや右の久地円筒分水は、まさにこの年に完成。この写真ではすでに完成しているのか、半完成状態なのかはよくわからないが、円筒分水からまっすぐ右下に向けて引かれた二ケ領用水本流(川崎堀)は目立つ。

山の南側から尾根に向けて上がる細い道はあるが、今回私が上がった砲台道と思われる坂道はまだなく、上で「陣地B」として言及したごちゃっとした何かも、この段階では存在しない。

2枚目はたびたび掲示した終戦直後(2年後)の写真で、すでに新平瀬川のトンネルは完成。高射砲陣地の掩体もはっきりわかる。この段階で、1941年の写真でもあった尾根に上がる道の右側(東側)に、新たに(写真で見てもより道幅が広い)坂道が新設されている。西側の旧道は谷筋を通っているので、おそらく尾根の直前で傾斜がきつくなる。そこで砲台への資材や弾薬の搬入のため、新たに砲台道として山の中腹を緩やかな傾斜で上がる新道を作ったのではないかと思う。この道が、今回私が歩いた道になる。

そんな新しい道の途中に「津田山弁財天」の祠があるのは少し不思議だが、そもそもこの弁財天は、大正初期、日照りが続いた折に某行者(?)が横穴に籠って祈願したところ雨が降ったことに由来するとか。先述のようにその穴自体は山の中腹に掘られた横穴式古墳の跡と考えられるので、たまたま新しい砲台道を通した際に、中腹の横穴の脇を通ることになったのかも。

3枚目は1955年の撮影で、まさに246号の切通を作っている最中の写真。この段階(終戦から10年後)でも、円弧状の陣地跡は畑(?)の中にまだ残っている。しかし、上で「陣地B」とした構造群は、切通と全く重なっていて、完全に消失している。また、246号によって、砲台道が途中で分断されてしまったことがわかる。

4枚目は現状(2019年)。1955年と比べると、246号が大きく拡幅されている。津田山もびっしりと住宅が覆っているため、緑は一部の斜面にしかなく、山の形(高低差)が判りにくい。

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溝ノ口高射砲陣地(1)

●hn-nhさんがブログ「ミカンセーキ」を更新されていて、日米開戦の日(12月8日)の更新というのも意図したのかどうか、久々の高射砲陣地ネタ。

今回は「3月8日の月島」と題して、1945年の東京大空襲直前の隅田川河口の埋め立て地一帯の様子(米軍による空撮写真)と、そこにあった対空陣地についてレポートしている。

Kawasaki もちろんこの記事自体興味深いのでぜひ各々読んで頂きたいのだが、それと併せて、「おおお?」と思ったのが、都心一帯の対空陣地配置図。多摩川を越えて、川崎・横浜あたりまで含まれていて、その中に「溝口」の文字が。

もともと私は物心付くか付かないかの頃に現・高津区の下作延に引っ越して、今でも実家はそこにある。が、今までそのあたりにも砲台跡があるとは知らなかった(もちろん、“帝都”防衛のため、その周縁部に対空陣地があるのは全然不思議ではないのだが)。

問題の画像(本土地上防空作戦記録:関東地区_S26.7 復員局作成)を頂いたので、川崎を中心に切り抜いて掲示しておく。左上から右下にうねうねと引かれている線が東京と神奈川の境である多摩川。中央あたり、多摩川の南岸に「溝口(溝ノ口)」の文字があり、その南側・西側に「馬絹」「土橋」の文字もある。馬絹は、現在の地区名で言うと田園都市線の宮崎台駅の南方(昔はもっと広範囲を指していた可能性がある)。土橋は宮前平駅から鷺沼駅にかけての線路北側。ちなみに私の実家は、「溝口」と「馬絹」の中間あたりにある。

いくつかの地名ごとに周りが囲われているのは等高線などではなく、管轄の部隊を示しているらしく、「溝口/馬絹/土橋」のカコミには15(あるいは18?)/112AAと書かれているようだ。配置図の付表によれば、管轄の部隊は陸軍高射第一師団の高射砲第112連隊。3陣地の管轄と配備は、

馬絹:第二大隊本部、同第10中隊 -- (三式)十二糎高射砲×6門
溝ノ口:(第二大隊)第9中隊 -- (九九式)八糎高射砲×6門
土橋:(第三大隊)第15中隊 -- 一式照空灯×1基、九三式照空灯×5基

先の配置図内の112AAは「112th Anti-Airclaft (Regiment)」を示すのはいいとして、その前の15(または18)が謎だが、単純に「全部で15(または18)中隊あるでー」という意味かもしれない。

●手始めに溝ノ口陣地を探してみる。

「溝ノ口」とはいっても、現在の溝の口(東急)/武蔵溝ノ口(JR)駅前の低地ではなく、それを見下ろす高台にあったであろうことなんとなく想像できる。そこから先は、終戦直後の米軍の航空写真をローラー作戦で眺めて探してもいいのだが、ちょっと効率が悪い。

安直ではあるが、まずは「溝ノ口 高射砲」で検索してヒントが見つからないか試してみたところ、運よく「神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙 タウンニュース高津区版」、「高津物語 連載第八二六回」に、ちょろっと触れられていた。

 その昔、旧亀屋十字路角から溝口神社脇を通り、神社の後田から宗隆寺へ通じる道は、車も通れない狭い田圃の畦道だった。

 「昭和十六年(一九四一)神社後田一帯の耕地整理によって、現在の様な道路幅に拡張された」と『思い出のまちかど』(上田恒三著)に書かれている。溝口交差点(旧亀屋交差点)を曲って、二四六方面に進む道路のことを言っているのだが、指摘のように狭く細い道であるが、昭和十六年になぜ拡張されのか?拡張されなければならならなかった理由は何だったのか?全ては七面山高射砲陣地化の故だ。

「七面山」とは、調べてみると津田山の旧称(というか本名?)であることが分かった。引用文中にある「旧亀屋十字路」は溝の口駅北側、「溝口駅入口」交差点のことで、宗隆寺には私が通った幼稚園がある。そこがいわゆる「砲台道」だったとすると、そこから山に上った辺りに陣地があるはずで、それを手掛かりに写真をチェックすると、比較的容易に見つけることができた。

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1947年8月1日・米軍撮影、USA-M388-64から切り出した(国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスによる)。もっとも、「津田山(七面山)の上にある」こと自体は合っているが、上の引用にある旧亀屋十字路から溝口神社/宗隆寺方向への道は、山の北麓を通る。実際には陣地へは南麓から上がるようになっているようだ(北麓からは、付近に上がる道自体がない気がする)。上の記述は陣地を見つけるヒントにはなったが、「旧亀屋十字路から溝口神社/宗隆寺方向への道」が拡幅されたのは、高射砲陣地とは無関係のように思える。

とりあえず、上の写真で陣地の立地・位置や形状について考察してみる。

七面山(津田山)自体は、溝ノ口市街地からは北西に位置する、北西-南東に伸びる舟型の山で、山の北側は府中街道(神奈川県道9号川崎府中線)、南側はJR南武線と南武沿線道路が通る。川崎市を縦に貫く幹線道路2本に挟まれた形、ということになる。もともとの名前は七面山だが、玉川電気鉄道(玉電、現在の田園都市線の渋谷・溝の口間の前身)の社長を1928年まで務めた津田興二が開発を手掛け、「津田山」と呼ばれるようになった由。「津田山」はJR南武線の駅名にもなっているので、私も子供の時から「津田山」とだけ認識していて、七面山の名前は今回調べる過程で知った。

高射砲陣地はその南東側1/3くらいの尾根上にある。砲座は6つで、現在もほぼ同じ位置にある「尾根道」の南側に、ほぼ真西を向いた円弧状に配置されている。前記資料によれば配備されていたのは八糎高射砲6門。九九式八糎高射砲は中国戦線で鹵獲したクルップ製88mm砲(有名な「アハト・アハト」のFlaK18系列ではなく、海軍用のSK C/30)をコピーしたもの。

砲座の掩体は、円弧の中心方向に出入り口が設けられているらしい。また、2基ずつ組になって、掩体間の連絡路も設けられているように見える(特に中央の2基で顕著)。披露山の「小坪高角砲台」のコンクリート製砲座は1基の直径が12mだが、こちらはそれより小さいようだ。もっとも小坪高角砲台は12.7cm連装、こちらは8.8cm単装なので、据えられた砲のボリューム自体がだいぶ違う。

山の上下に串を刺したように(上中央から左下へ)溝が見えるが、これは、多摩川の支流である平瀬川(流下方向は左下から上)。もともとは山の南側を流れ、現在の溝の口駅付近を通って多摩川に流れ込んでいたが、付近でしばしば氾濫したとかで、第二次大戦中に大工事をして、津田山の下を潜ってもっと上流側で多摩川に合流するようにしたもの。山の北側、その平瀬川のすぐ脇にある「◎」印は、以前に当「かばぶ」でも取り上げたことがある、1941年に竣工した久地円筒分水。ちなみに久地円筒分水の直径は16mなので、砲陣地や砲座の大きさを想像する目安にもなる。

●現在は、この高射砲陣地があった場所よりもやや東側で、津田山は国道246号の大規模な切通でバッサリと刻まれている。また、山の上もすっかり宅地化されてしまい、高射砲陣地の痕跡はおそらく何も残っていない。とはいえ、この写真に写っている南麓からの道と尾根道はあまり変わっておらず、「円筒分水を見下ろす場所で、平瀬川のトンネル手前あたり」(住宅に遮られてうまく視認できない可能性はあるものの)という手掛かりで、おおよその場所くらいは特定できそう。

というわけで、川崎の実家に行くついでに、ちょっと探索に出掛けてみることにする。

(続く)

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テレメンテイコ

Img_20211205_0001 ●唐突に、「テイコや、テレメンテイコ」というセリフが頭に浮かんできて、「いったいなんだったっけな……あ、高野文子のマンガの一節だ」と思い出した途端に読み返したくなり、書棚の奥から引っ張り出してきた(思い出したときに運よく手の届く場所に見つかるのは、私にしては珍しい)。

高野文子の最初の単行本(短編集)、「絶対安全剃刀」。奥付を見たら「昭和57年1月19日 初版発行」とあった。古いなあ……。

後には割とほんわかした感じのマンガを描いていたように思う高野文子だが、この最初の単行本(短編集)のマンガはどれも尖っていて、しかもとてもよい。

ページをめくって最初がカラーの小品、「たあたあたあと遠くで銃の鳴く声がする」。

何と言うか、ビートルズのアルバム「Let It Be」の最初の「I dig a pigmy!」という叫び声とか、ピンク・フロイドの「Dark Side of The Moon」冒頭の徐々に高鳴る心臓の鼓動とか、もうそこで一気に引き込まれてしまうような「口開け」感が、この小品にもある。題名も素敵。たあたあたあ。

●最初に書いた「テイコや、テレメンテイコや」(正しくは最後にも「や」が付いていた)は、「早道節用守(はやみちせつようのまもり)」に出てくる。(wikipediaによると)どうやら杉浦日向子に触発されて描いたものであるらしい、

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江戸に天竺、中国(秦)と、空間も時間も飛び越えて話が展開する摩訶不思議感は澁澤龍彦の「高丘親王航海記」にも通じるものがあるが、物語そのものはこっちのほうがずっと古く、江戸時代の山東京伝の原作のマンガ化。

「テレメンテイコ」は秦の始皇帝に呼びつけられる廷臣(小坊主)の名前。私はずっと「高野文子のマンガに出てくる名前」という認識でいたのだが、実際には、この珍妙な名前は山東京伝の原作にすでにあるそうだ。

最後に出てくる「三囲りの鳥居と幽霊は腰から下が見えねえはずだ」の三囲の鳥居は、現・墨田区向島の三囲神社の鳥居のことで、隅田川の対岸から見ると、堤越しに鳥居の頭だけ見えたことが下敷きになっている。同神社には三本足の鳥居があることで有名だが(一度見に行きたい)、この三本足の鳥居はちょっと奥まったところにあり、「腰から下が見えない」のは別の(普通の)鳥居らしい。

●軽妙な「早道節用守」もいいが、個人的に(初めてこの本を読んだ時から)好きなのは「ふとん」。基本、無神論者の私だが(論者というほど強固ではないが)、もしも「衆生を救う神仏」というものが在るとしたら、厳かな仏像のようではなく、この作品に出てくるかんのんのようではないだろうか、と思ったりする。

痴呆症の老婆を精神年齢ベースで絵本風の幼女の姿で描いた「田辺のつる」も、最初読んだ時は衝撃だった。

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(ここまでの画像は全て、高野文子「絶対安全剃刀」白泉社(1982年)より引用)

●4日土曜日。ふと思い立って三浦富士~砲台山~武山不動の三浦半島横断ハイキングをする。初めて砲台山に行った時と同じく、最初に電車で(東京湾側の)京急長沢まで行って、相模湾側の武山まで。

京急長沢で降りて、あっ、そういえばここはモデラー仲間のMさんのいるところでは!と思ったのだが、考えてみれば電話番号を知らないし、知っていても「もしもし? 今近くに来てるんだけど、一緒に山登りません?」というのも唐突過ぎる。というわけで、おとなしく1人で歩く。

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上写真は左が三浦富士から見下ろした東京湾。右が砲台山山頂下の展望台から見た三浦半島南部と、その向こうの伊豆大島。ここから見る三浦半島南部はほぼまっ平らで、要するに、三浦富士~砲台山~武山不動と連なる尾根が三浦半島の山の南端であることが判る。

砲台山探訪は、2017年8月の第1回目、2018年11月の第2回目に続いて今回が3回目。

わざわざ砲台山まで行かなくても、我が家の近所にほぼ同型の砲台が(披露山公園に)あるにはあるのだが、何も手を加えられていない砲台が藪にも覆われず、実際にすり鉢の中に入ってあれこれ見ることができるのはやはり貴重だと思う。贅沢を言えば、山頂広場の樹と藪はすっかり丸裸にして、もう一基、藪に埋もれている方の砲座や機銃座も併せて見てみたい。

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1枚目・2枚目:三浦富士からの尾根道が、砲台山の砲台道に突き当たった地点で、砲台道の下手・上手を撮ったもの。海上保安庁の通信施設が建っているため、砲台道は藪に狭められることもなく、車が通れる道幅をキープしている。

3~5枚目:砲座全景と、砲が据えられていた中心の穴。今回新たに得た知見だが、中心の穴の周囲には、ほぼ等間隔?にくさび型の刻み目のようなものがある。一部エッジが削れて不明瞭になった部分もあるが、たぶん全周で18カ所。

6枚目:砲台道から、武山不動方面に向かう枝道に入ってすぐの場所にある、衛兵所(と、サイト「東京湾要塞」では説明されている)とされる建造物のコンクリートの基礎。さらにこの先に、第1回目の記事にも載せた、コンクリート製の天水桶状の構築物(7枚目)がある。

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週末晴れ間

●唐突な山砲完成報告はさらりと流して、日常のあれやこれや。

●先週末(日付上は先々週末)は各所で災害まで起こした大雨だったが、この週末は(少なくとも日曜夕方までは)梅雨の晴れ間、というより真夏の暑さ。耐え切れずに、日曜日、ついに今季初の冷房をつけた。

●先週水曜は母の2度目のワクチン接種で、付き添いのため実家に行く。1回目もそうだったが、特に何の副作用も出ず。母と同居の兄も同日、別の場所でワクチン1回目。ちなみに私は今度の日曜、かみさんは今度の火曜日にそれぞれ1回目。

あれこれ副作用も言われているし、壮大な人体実験だなあ、とは思うが、それでも何も手を打たずにコロナ禍が拡大するよりは相対的にリスクは低い、ということなのだと思う。

それはそれとして(繰り返し言いたいが)本当にこんな時にオリンピックなんてやるんかい!

IOCとの契約として開催国は開催の義務を負い、勝手に中止等はできないといった話も聞くが、いずれにしても、この東京オリンピックは、従来、ある種「ご褒美を引き当てる」的にしか見られていなかったオリンピック開催が、実は非常にリスキーな要素を抱えていることを全世界に明らかにしたという点では、大いに意味があったと言えるかもしれない。

●天候不順で家に閉じこもって日々の歩行距離が一向に伸びないので、久々に晴れた土曜日、逗子市最高峰の二子山に登る。

以前にも書いたように、二子山上ノ山へは、中腹の南郷中学までバスがあり、さらにほぼ山頂まで「砲台道」が続いているために、近隣の山のなかでは最も登りやすく、半ばお散歩感覚で行ける。いくら当日晴れていても、このところの雨で、他のハイキングコースはあちこち荒れていたり、やたらぬかるんでいることも考えられたので、今回は二子山上ノ山往復だけとして他へのハシゴハイキングもしなかった。

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山頂の(唯一存在がはっきり確認できる東端の)砲台跡は草ボーボー。おそらく、山頂広場はしばしば草刈りされているのだと思うが、次は梅雨明けあたりが刈るタイミングなのだろうか。

展望台隣に生えているエゴノキは、春にはキアシドクガが乱舞していたが、今は実が鈴なり。なんだかちょっと美味しそうにも見えるが、実際にはものすごくえぐい(えごい)そうで、それが名前の由来とか。しかも単にえぐいだけでなく有毒だそうだ。

●二子山上ノ山に出掛けたのは、この時季なら砲台道でハンミョウに会えるかもしれないという期待もあったからなのだが、結局、往路も復路も出会えなかった。

代わりに、復路で道の水たまりに吸水に来たカラスアゲハに会った。近辺で出会える頻度で言えばハンミョウよりも貴重。ただし、その昔名越切通しで会った個体に比べると翅の構造色のきらめきはいまひとつで、最初パッと見た瞬間は「えーと、ジャコウアゲハ? クロアゲハ?」と思った。それでも、光の当たり加減で変わる水色~青~紫の翅色は十分に美しい。

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あとから見てみたらたった一頭のカラスアゲハをしつこく50枚ほども撮っていたが、それでもほとんどじっとしていない相手なので、まともな写真は少ない。

おまけは、上のカラスアゲハよりちょっと前に撮ったジャコウアゲハ(たぶん)と、多数発生して道端の草を盛大に食い荒らしていた小甲虫。カシルリオトシブミ、というヤツらしい。3mmあるかどうかという小さな昆虫だが、黄緑~紺のメタリックな姿は割と綺麗。

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●つい先日、SUMICON2021が終了したばかりだが、続けて同じく「週末模型親父」さんのところで、8月1日スタートで、IV号戦車G型発売記念「タミヤフェス2021」が開催される。レギュレーションは割と緩やかで、「最新キットのIV号G型を含め、比較的最近発売されたタミヤの陸物」。お手付き可なので、ルノーR35で参加予定。

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鷹取山高角砲台

●我が家のお嬢は(以前は「ちび」と書いていたが、さすがにお年頃になってきたので改称)、まるっきりのインドア派だが、「春休み中に一度は山歩きに行くか?」と誘ったら、意外にも「行きたい」というので、人が少なそうな平日(2日金曜日)、昼食後に出掛ける。

山歩きに慣れないのを連れて行くので、いちばん楽な二子山上ノ山に行こうと思っていたが、事前に家で検索したバスの時刻表を間違えていて、南郷方面へのバスが当分ないことが(逗子駅前でしばらくバスを待ったあとで)判明。

仕方がないので急遽行先変更。電車で一駅、東逗子まで行って、神武寺経由で(久しぶりに)鷹取山に登ることにする。

東逗子から神武寺までは、一応参道なのでそれほど険しい道はなく、神武寺から鷹取山までも(途中、鎖を張った急斜面を横断するところもあるが)尾根伝いなので極端な起伏もなかったはず――と思ったからだが、それにしても行き当たりばったりなのは言い訳出来ない。ちなみに以前に鷹取山に登ったのは、(今改めて調べてみたら)もう8年も前のようだ。

結果から言うと、お嬢は別に疲れた様子もなく文句も言わず、鷹取山山頂まで景色を楽しんだり写真を撮ったりしながら普通に歩き通した。傾斜のきついところを降りる際にはちょっとビビっていたが、20年以上前?に同じコースを歩いていた時に、当時小学校に上がるかどうかだった息子(お嬢にとっての叔父)が調子に乗ってホイホイ進んで急斜面を滑落した轍を踏むよりはずっとよい。

●行程で見かけた虫。

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1枚目:逗子駅前で来ないバスを待っているあいだ、いつのまにかポーチに止まっていたもの。セスジジョウカイの仲間?

2枚目:神武寺への参道にいたアオオサムシ。もう少し、木漏れ日の強いところにいれば光り方も違ったのにちょっと残念。

3枚目:「よくいるトラカミキリだよね」と思っていたら、意外に同定に苦労。カミキリムシ屋さんではないので自信はないが、トガリバアカネトラカミキリ? 鷹取山の展望台で。

●風はちょっと強めだったが天気も良く、山歩きには格好の日。

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1枚目は頂上展望台から見下ろした山頂広場。2枚目は展望台から見た(本来登るつもりだった)二子山。普段西側から見る時と違って、もうちょっと上ノ山、下ノ山が離れて間の谷がゆるやかに見える。

鷹取山はかつての石切り場跡なので石を切り出した後の垂直の崖面だらけだが、ところどころ、秘密基地めいた行き止まりの場所もあってなかなか楽しい。

山頂広場下の湘南鷹取の住宅地から追浜駅前までバスに乗る。それにしても、三浦半島の山を越えて東京湾側であるにも関わらず、新興住宅地に「湘南」と付けるのはいくらなんでもな気がする。以前、みやまえさんに教えていただいた「横須賀市グリーンハイツ」(マンション名ではなく町名!)はさらに強烈。横須賀市は地名に関してフリーダム過ぎる。

追浜駅前では、国道沿いの「シャッター商店街」をしばらく散策(「寂れたお店には何かお宝が眠っているかもしれない」というお嬢の要望による)。産業らしい産業もない逗子よりも、沿岸部に大工場が並び山側には大規模な新興住宅地が広がる追浜の方が、駅前のゴーストタウン化が著しいように見えるのはやや不思議。

駅前にある下写真の病院(鳥海病院)は、門柱にある「田浦三〇三三番」の電話番号といい、いかにも戦前から風の佇まいが目を引く。横須賀市役所のサイトで閲覧できる「新・追浜歴史年表」という資料によれば、昭和8年(1933年)、もっと海寄りの場所にあった同病院が、この場所に移転してきたとある。おそらく、その当時の建物なのではないかと思う。

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●表題の高角砲台について。

これまで紹介してきた小坪や二子山、武山(砲台山)、衣笠などと同様、鷹取山にも高角砲台があった。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」によれば、終戦時に配備されていたのは、

  • 十二糎高角砲:4門(弾薬数:275発)
  • 二式陸用高射器:1基
  • 九八式高角四米半測距儀:1基
  • 九七式高角二米測距儀:1基
  • 九六式一五〇糎探照灯:1基
  • 二十五粍三連装機銃:1基
  • 十三粍単装機銃:2基

であるらしい。

これまで紹介してきた近所の砲台跡は、程度の差はあれ、何らかの遺構は確認できたのだが(最も痕跡が薄かった畠山でも、砲台道と窪地は確認できた)、鷹取山の場合は、山頂の展望台から見まわしてみても、それらしい痕跡は何も見当たらない。

毎回、周辺の軍事遺構を訪ねる際にお世話になっているサイト「東京湾要塞」の「鷹取山高角砲台」のページを見ても、現在は住宅地となって何も残っていないと書かれている。

●とはいえ、「実際にどこにあったか」程度は知りたいと思ったので、例によって、国土地理院の国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」から、新旧の航空写真を引いてきて対照してみた。

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左は終戦から間もない、1946年3月5日に米軍によって撮影されたもの(写真コード「USA-M64-A-6-69」から切り出し加工)。右はごく最近、2019年8月7日撮影のもの(写真コード「CKT20194-C13-58」から切り出し加工)。縮尺、方向など完全に正確ではないが、おおよそ重なる形に切り出してみた。

画面の右を上下に走る街道は現在の国道16号で、京浜急行の線路が並行している。右上の弓状になったまん中(①)が京急追浜駅で、ちょうど弓につがえた矢のように直角に横に伸びるのが夏島貝塚通り。当時から変わらない特徴的な敷地の②は追浜小学校。この目立つ2つのポイントが、位置特定に大いに役立った。

ちなみに現在の鷹取山山頂広場が③。当時は公園もなく石切り場だったままなので、どこが山頂なのかもよくわからない状態。現在はその直下にある鷹取小学校も、当時は影も形もない。

写真中央の黄色楕円枠内が「鷹取山高角砲台」で、鷹取山山頂と追浜駅の中間くらいにある。周辺の他の高角砲台は、皆大なり小なり「山のてっぺん」に作られていたが、鷹取山の砲台はちょっと中腹に下った辺りに作られていたことがわかる。もっとも、湘南鷹取の住宅地造成の際に削られただけで、この地点に小ピークがあったのかもしれない。またよく見ると、街区(道路)の形が、ちょっとだけ、当時の陣地の外形をなぞっているような感じもある。

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高角砲台部分の拡大が上写真。おおよそ海側(東側)に向け、扇形に砲座が4つ並んでいる。円形が破線上になっているのは、おそらく、同じ12cm単装砲が配備されていた二子山高角砲台同様に、弾薬仮置き場の「箱」を埋め込んだ土塁の砲座だったためではないかと思う。砲台から南への道をたどった先には、関連施設らしきものも見える。

以上は帰宅してから調べたもので、今回は近くを素通りしてしまったが、そのうちまた行く機会があったら、この場所自体をちょっと見て回って、本当に何の名残りもないのかを確認してみたい。

●オマケの追記。

上とは別の、1946年2月15日の米軍撮影の空撮で、同地域のもう少し東側を見てみる(写真コード「USA-M46-A-7-2-51」から切り出し加工)。

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この写真では、鷹取山高角砲台は画面の左下。中央左側に、追浜駅前の国道の「弓形」と、それにつがえられた矢の現「夏島貝塚通り」がある。通りの先、画面右半分には海軍航空部隊の“総本山”と言っても良い、横須賀海軍航空隊の追浜飛行場が広がる。こうしてみると、追浜駅は、まさに追浜飛行場の玄関口にあたる駅であったことがわかる。

追浜飛行場の北側には海が切れ込んでいて、細い水道を隔てて一部見えているのが野島。島の山には、航空機を避難させるための巨大掩体壕のトンネルが掘られているのだが、そういえば、中学校の頃に一度見たきりだなあ。当時はトンネルの中には入れたような記憶があるのだが、思い違いかも。とにかく今は両側とも入口は封鎖されていて、簡単な案内(解説)板が立っているそうだ。今度行ってみよう。野島の西側(左側)の平潟湾は現在よりもだいぶ広い。

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観音崎

●仕事が途切れて暇なので(経済的には結構ヤバイ)、25日木曜日、ふらふらと観音崎まで出掛ける。

実を言うと、20年以上も付け根とはいえ三浦半島の住民として暮らしていながら、いわば「地元の名所」である観音崎には行ったことがなかった。もっとも今回も、「よし、今日こそ観音崎へ行こう」などと気合を入れて出掛けたわけではなく、実際には岬のすぐ近くにある横須賀美術館に「飛行機と美術」展(2月6日~4月11日)を観るつもりで行ったのだが、直前まで行って美術館はヤメにして、岬だけ散歩してきたもの。

おかげで、しとしと雨が降って見晴らしも悪いし歩き回るにも面倒なコンディションの下、何が見られるかの下調べも不十分なままでの観音崎初訪問になってしまった。そのうち、天気の良いときにまた行きたい……。

観音崎は、東京湾の入り口近く、富津の砂州との間で東京湾が最も狭まった、いわば「門」にあたる。

日本初の西洋式灯台である観音崎灯台が1869年(明治2年)に建てられただけでなく、東京湾防衛のため、明治10年代以降、陸軍によって要塞化され、いくつもの砲台が設置されている。いわば門柱に組み込まれた守衛所ですな。

●観音崎バス停から海沿いの遊歩道を歩く。

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左はバス停のある広場からすぐの入り江(観音崎海水浴場)に突き出た、何やら古い構造物。さらにその先の海上にテーブル状の構造物。例によって国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で戦後すぐの米軍の空撮写真を見ると、手前の円形部分から、海上のテーブルまで橋が架かったようになっている。小型船用の小さな桟橋だったらしい。

右は海食崖に開いた岩窟で、手前の小さな祠には観音様が祀ってある。この岩窟に、天平の昔(8世紀)、行基が十一面観音菩薩を祀ったのが「観音崎」の名の由来だという(もちろん、今ある観音様は行基の祀ったものではない)。

遊歩道の途中から、灯台へのジグザグの上り道がある。その最初の曲がり角に、陸軍石標と、「観音崎燈臺所轄地」と書かれた横倒しの石標。

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再び遊歩道に降りて海沿いを進む。磯に、何やら不思議な形をしたコンクリートの構造物が転がっている。帰宅後調べてみたら、関東大震災で倒壊した2代目の観音崎灯台の残骸だそうだ(現在の灯台は三代目)。

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さらに岬の突端に、これまた謎のコンクリートの小屋のようなもの。これは、1930年代になってから作られた、東京湾に侵入する潜水艦に備えた固定式ソナー施設の聴測所である由。右写真は、後述のトンネルを抜けた先、観音崎自然博物館手前の展望園地から振り返る形で撮ったもの。

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岬の先端部は海上自衛隊の施設敷地だとかで立ち入りできず、したがって、上記の聴測所も近付いて撮影することはできない。そんな立ち入り禁止の敷地内の向こうに、何やら石碑が立っている。

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これまた後から調べてみると、この目の前の浦賀水道で、1988年に発生した海自の潜水艦「なだしお」と、釣魚船「第一富士丸」の衝突事故の慰霊碑であるらしい。そんな慰霊碑を、一般に立ち入りできないような場所に建てて、近くに何の案内も説明もないというのは(特別の作為はないとしても)ちょっと如何なものかと思う。

上の柵を過ぎたところで遊歩道はちょっと陸側に折れ、岬の最も出っ張った部分は隧道で通り抜ける形になる。隧道の手前には何やらコンクリートの構造物(弾薬置き場?)があり、この遊歩道と隧道も、もともと要塞(砲台)関連のものであったらいいことを感じさせる(隧道内にも横穴をふさいだ跡がある。

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隧道自体は素掘りで、内面は傾斜した地層の縞模様が顕著。ご近所の鎌倉近辺にもこの手の素掘りの小トンネルは多いが、それらと比べても素敵度が高い。

上の隧道を抜けた先にある展望園地/観音崎自然博物館まで行って折り返し、今度は岬の上に上って灯台を目指す。後で調べたところによると、展望園地も旧砲台跡(南門砲台)とのことだが、現在は「地形的にそれっぽい」というだけで、遺構の類は何も残っていないようだ。ただし、(隧道側から見て)展望園地手前にある道路横の石積みは古いもののようだ。

灯台を目指して坂道を登っていくと、突然目の前に、いかにもな遺構が現れる。観音崎砲台のうち、最初に作られた2つの砲台の1つである第一砲台で、1880年(明治13年)起工、1884年(明治17年)竣工(ただし、起工・竣工年は一緒ながら、起工日は第二砲台の方が若干早かったらしい)。

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すり鉢状の披露山の対空砲座などと違い(そもそも建造年代もまったく違うが)、こちらは海に向かって半円形の砲座が左右に並び、その間をレンガの小トンネルが結んでいる。煉瓦は表面が各段とも長短交互になったフランドル積み。現在は塞がれているが、このレンガのトンネルの下に弾薬庫があるらしい。

海に向かって左側の砲座のさらに左、灯台側に進む途中の石壁にも、現在は塞がれた小アーチの入り口がある(最後の写真)。

第一砲台を過ぎてさらに歩くと、これまた縞模様が素敵な小切通抜けたところに、観音崎灯台がある。

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灯台に着いたのはちょうど17時頃。もう少し早ければ、灯台に上ることもできたのだが、それを知らずにぐずぐず遠回りをしてしまって間に合わなかった。惜しいことをした。

●本来は、第一砲台と灯台の間に、さらに山側に上る道があり、そちらに行くと第一砲台よりさらに規模が大きい第二砲台があるのだが、おそらく一昨年の台風のせいで道が不通になっていて行けなかった(海岸遊歩道入口あたりから登る道も不通だった)。裏側から回り込むように行くことはできるかもしれない。

また、バス停よりも走水側にある「三軒家砲台」跡も多くの遺構が残っており見応えがあるらしい。

今回は「予習」ということで、近々また出掛けてみたい。

●ちなみに、公園の案内図はこちら(神奈川県立観音崎公園「みどころMAP」)。

砲台等に関する情報は、いつもの通りサイト「東京湾要塞」さん(特に同サイトの「観音崎砲台マップ」、「観音崎砲台ガイド」)に大いにお世話になった。

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