軍事遺構

シンャホルストル

Amazon24111101 ●amazonで見かけた素敵な商品。

この見かけで「金属飛行甲板」!「エッチングパーツ」!

シンャホルストル」が「シャルンホルスト」(ドイツ戦艦)の綴り間違いなのは容易に想像できるにしても、だ。

え? 「日本海軍」? 戦艦なのに「飛行甲板」?。っていうかこの形のどこから飛行機が飛び立つのか。そして「オールシーズン」対応なのも謎ながら素敵。……ほとんど何一つ合ってない。

これ、実際に注文したら何が届のかも気になる(ただそれを知りたいためだけに約8000円費やす気にはなれないが)。

そもそも、「シンャ」ってどう発音したらいいんだ。

ヘイ、りぴーと・あふたー・みー。……「シンャホルストル」。いや、そこの君。それは違うぞ。「シニャ」ではない、「シン」だ!

ほか、同じくFlyHawkモデル製のパーツで、1:700「英海軍巡洋戦艦インシブンルビ1942」用のエッチングとして、写真は1:35戦車用のエッチングになっているものも2種(ティーガーII用とパンター用)出品されている。こちらは(AFVモデラー相手には)すぐ正体が判ってしまうし、「エッチング」という部分では合っているので、インパクトとしては今一つ。

●10月1日付で郵便料金が値上げになっているのを失念し、N女史宛の請求書(定型の封書)をうっかり旧料金の切手で出してしまった。当然、料金不足で差し戻されて来るものと思って、不足分の切手も用意して待ち構えていたのだが、N女史から、

「料金不足のまま届いていました。いいのか…」

との連絡あり。いや、本当にいいのか日本郵便!

実は値上げ後2か月間は旧料金でも届く特例措置が!?(ない)

●前回の記事、「FCM 2Cのディテール・メモ(後編)」を改めて眺めていて、

「なんつー判りにくい記事だ!」

と、自分でほとほと呆れた。

もちろん、個々の説明に対応した写真を掲示できていないというもの一因なのだが、だらだらと文章で説明しているのが、とにかくくどい。考えてみれば、車輛別・時期別に表組にすればもっとスッキリしたはず。

……いやもう、何か息切れしているので、表組は気が向いたらにしますけれど(気が向くかどうかは不明)。

Img20241114184818 ●東京AFVの会の会場で、私が自分の作品(ロールスロイス装甲車)を入れて持って行った箱を見た人に、「『化石』って書いてあるけど、何?」と尋ねられた。

実際、その通り中に(昔採った)化石が入れてあったためで、今回、ロールスロイス装甲車を持っていくにあたって、たまたま、ちょうど作品が入る細長い箱だったので中身を出して輸送用に徴発したのだった。……この、毎度適当な箱に、乱暴に作品を突っ込んで持って来る件については、その度にケン太さんに「もうちょっと考えて梱包しろ」と叱られている。

まあ、それはそれ。せっかく箱から出して、久しぶりに昔の採集物を見たので、写真を撮って紹介してみる。

●箱に入っていた化石は、高校時代に北海道で採った白亜紀のアンモナイトが数点と、栃木の葛生で採ったペルム紀(二畳紀)の腕足類もしくは二枚貝が1点。

以前にも書いたことがある気がするが、私は中学・高校時代の部活で「地学部地質班」というのに属していた。地質班といっても、地質調査なんてものは基本したことがなく、あっちこっち化石を掘りにいくのがメインの活動だった。年に一度(だったかな?)、巡検と称して顧問の先生とともに泊りがけで遠出するだけでなく、生徒だけであれこれ計画して出掛けることも多く、北海道は確か高校2年の夏に、同級生1人と、あとは大学生のOB4人くらいと一緒にテントを持って出かけたもの。葛生はいつだったっけなあ。

▼というわけで化石の紹介。まずは北海道留萌郡、小平蘂(オビラシベ)川上流産の中生代白亜紀のアンモナイトあれこれ。

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中くらいの大きさのアンモナイト。。下敷きにしているカッティングマットの枠線は5cm刻み。巻きの出口側、生きていた時には軟体部が収まっていた部分(住房という)は殻の中に隔壁などなくて脆いため、押しつぶされて殻も割れて変形している。巻きの中心に近いほうは気室といって隔壁で仕切られており、丈夫なので形状が保たれている。

殻の表面には目立つ肋(筋)はない。クリーニング(余分な石の除去)し切れていないが、中央のへそ穴はとりあえずある。……と、そこから先の種類調べはさっぱり。

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上よりはだいぶ小さい標本。切断面(左)と、その裏側の外面(右)。形状自体は割とふっくらめ、殻の表面に肋が見えないなど特徴が共通しているので、もしかしたら同じ種類かも。

高校の地学室(準備室)にはある年から岩石切断・研磨機が導入されたので、それを使って輪切りにしてある。上の標本同様、住房部分は変形あり。住房の中は砂(泥?)が詰まっているが、気室部分は染み出した石灰質が結晶化している。

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比較的小型の標本。一般に「異常巻き」と呼ばれる、通常の平らかつ密な渦巻に巻いた形状から外れた巻きを示しているもの。別に奇形の個体とかいうわけではなく、そういう種類で、なかにはもっと珍妙な形状のものもある。

この数字の「6」のように、巻きの最後の部分だけほどけたようになっているのは、流石に形状が特徴的なので、属名までは行きつけた。スカフィテス(Scaphites sp.)。写真を見比べると、なかでもスカフィテス・スブデリカトゥルス(Scaphites subdelicatulus)というのが近そうな気がする。

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小さな標本3つ。左写真の2つは名前判らず。特に左写真の下のものは、「いかにもアンモナイト!」という形状なのだが、実際にはこういう形状のものはアンモナイトのなかのいくつもの科にまたがって存在していて、素人の私にはまったく絞り切れない。うーん。ゴードリセラスの仲間かなあ。それともデスモセラス? プゾシア?

右写真は今回箱から取り出したものではなく、それ以前から隣の棚に裸で置いてあったもの。「化石」のタグで遡ってみたら、10年近く前の記事で一度紹介していた。一緒の産地のものだし、名前が判るものももう一つくらい上げておきたかったので再登場。へそ穴がきゅっと閉まっていて、全体的には平べったい形。表面に繊細な肋がびっしり入っている。これは判り易い特徴で、ネオフィロセラス(Neophylloceras sp.)と判る。ネオフィロセラス・スブラモスム(Neophylloceras subramosum)かな?

Img20241114184927 今回、写真を紹介するにあたって、「ちょっとでも名前とか調べて書きたい」と思ったので、虎の巻として逗子市立図書館から借りてきたのが右の書。

いや、確かに同定の仕方とか、そこそこしっかり書かれてるんだけど! しかも北海道産アンモナイトに軸足を置いて書かれていて、私が採集した小平蘂川含めた産地ごとの特徴なども書かれていて有り難いんだけど!

もとから知っていたネオフィロセラスと、以前にどこかで写真を見て「あ、これ、オレが持ってるヤツだ」と思ったことがあって、ある程度アタリが付いていたスカフィテス以外は、結局やはり属名までも突き止めることはできなかった。これはあれかなあ。III号戦車とIV号戦車の見分けとか、ルノーR35とオチキスH35の見分けとか、「素人目には『同じじゃないの?』でも、見慣れている人なら割と簡単に区別できる」系のものなのかなあ。

「年代も大いに手掛かりになる」と言われても、そもそも採集したのが河原の転石からなので、「地域的に、白亜紀後期」以上のことは判らないし、そもそも小平蘂川のどれくらい上流で採ったかも、今や曖昧だし。

しかし、この本自体は結構眺めていて楽しかった。あー。北海道に化石採りにとか行きたいなあ。でももう、岩石用ハンマーもどこにしまったかわからないや。

▼残るは、ひとつだけ味噌っかすで古生代ペルム紀の、栃木県佐野市葛生産の化石。

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葛生はセメントの原料としての石灰石鉱山がある。たぶん、今では「何か事故でも起きたら責任問題」ってことで、入れてくれないんじゃないかなあ。ン十年昔の私が高校生の頃は随分大らかで、入り口で「部活動で化石を採りに来ました~」というと、簡単な注意(危ないとこに近付くなよ~程度)で入れてくれたものだった。これは、そんな鉱山の中で採集した(というより拾った)もの。

何しろガンガン発破をかけて石灰岩を掘り進めている場所なので、周りじゅう、大小の石灰岩がごろごろしている。そんな場所を歩き回り、岩の断面を見て「お、これ、フズリナの密度が高いぞ」なんてのをハンマーで欠いて採集していくわけだが、そんななかで、ほぼこのままの状態で(ただし泥だらけで)転がっているコレを見つけた。

実のところ、最初は本当に化石であるなどとは思わず、単に「形状がそれっぽい」だけの石ころだと思ったのだが、拾い上げて、冗談で周囲の仲間に

「お~い、スゲーの見つけた! デカい腕足貝だぞ!」

と叫んで自慢したのだった。

当然、その後には「嘘だよ~ん」と続けるつもりでいたのだが、泥をぬぐってみると、かすかに表面の模様が確認できる。むしろ最初に「見つけた」と言った私が驚くはめになった、というオチ。

1枚目は全体形で、横幅が約8cm。2枚目は裾部のクローズアップで、かすかに放射肋(頂部からの縦方向の筋)が確認できる。3枚目は側方から。頂部下にも、見える範囲には穴などないの。最初は「腕足類の化石」と思っていたのだが、腕足類(正確には腕足動物門)であれば殻の頂部から肉茎が出る穴があるはずなので、実は二枚貝の化石なのかも。

いずれにしても、こういう石灰層ではフズリナなどの微小な化石がメインで、大きな化石が採れることは少なく、なかなかレアな標本だと思う(なので、きちんと同定などして貰えるなら、どこぞの博物館とかに寄贈してもいいのだが、なかなかそういうきっかけもない)。

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観音崎再訪

●東京AFVの会の帰り、京急線の駅ホームで、横須賀美術館「運慶展 運慶と三浦一族の信仰」ポスターを見掛けた。

「ああ、今、こんなんやってるんだあ」と見ていて、「※11月3日無料観覧日」の文字に気付く。にゃんと! さすが文化の日!

●というわけで、翌日いそいそと出掛ける。そもそも「横須賀美術館」ってどこにあるんだっけ、と調べてみたら、観音崎のすぐ手前だった。以前観音崎を(初めて)訪ねた記事を読み返してみたら、そもそもその時も最初は横須賀美術館を目指して行った(けれど、結局入らなかった)のだった。

今回はJR横須賀駅からバスで。横須賀美術館は、海に面した緩い斜面上、観音崎の森を背景にしたガラス張りの建物。おされ。

「運慶展」は本館地下の展示。横須賀市芦名の浄楽寺蔵で、和田義盛夫妻の発願による運慶作阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)、不動明王、毘沙門天の5体。それから運慶作ではないが、関連作品として、三浦市初声町・天養院蔵の薬師三尊像(運慶よりやや早い平安中期以降の作品)、横須賀市大矢部の清雲寺蔵の観音菩薩像(おそらく南宋より渡来のもの)。

「運慶展」と銘打っていながら、運慶仏は5体、周辺作品4体の計9体だけ!? と思ってしまいそう。実際に、運慶展の展示はそこそこ広い1フロアのうちの広めの展示室1つ(運慶仏5体)と、通路の窪みのような小展示スペース2つだけ。しかし、現時点でおおよそ運慶作と認められている作品は約30、うち真作と確定しているものは19体しかなく(貰ってきたパンフレットで知った)、5/19があると思えばなかなか贅沢。

ちなみに運慶は東国武士、それも鎌倉幕府要人との関係が深かったと言われるが、古都鎌倉の域内には、伝承等で運慶作とされるものは複数あるものの、真作やその可能性が高いものはなかったはず。私の好きな北鎌倉の円応寺の閻魔様も運慶作の伝承があるが、運慶没後の製作だそうな(加えて円応寺の仏像は、閻魔様よりも十王のほうが魅力がある)。

Img20240503180858 今回展示の運慶仏5体がある浄楽寺は、今年春に大楠山に登った帰りに寄って、寺の外観だけは見たことがある(5月3日撮影)。この5体は今回の展示会でなければお目に掛かれないわけではなく、浄楽寺でも年に2日(春・秋)の御開帳があり、またそれ以外でも予約制で拝観できる由。ぜひ拝みたい!という方はどうぞ(→浄楽寺HP)。

関連作品のうちの薬師三尊像を収めた天養院は、浄楽寺同様に和田義盛ゆかりの寺院で、薬師三尊像には和田合戦の折に義盛に代わって受けたとする刀傷だとして、縦に割れ目がある(結局、和田合戦において、義盛は鎌倉市内の和田塚あたりで討ち死にするわけだが)。

もう一体の南宋由来とされる清雲寺蔵の観音菩薩像は、立膝の珍しいポーズ。「遊戯坐(ゆげざ)」というらしい。リンクは、ホノルル美術館所蔵の同様のポーズのもの。北宋時代のものとか。

なお、この企画展は横須賀美術館のほか、県立金沢文庫、鎌倉国宝館の3館連携企画となっており、開催時期がおおよそ重なる形で、金沢文庫では「特別展 運慶 女人の作善と鎌倉幕府」、鎌倉国宝館では「特別展示 鎌倉の伝運慶仏」が開かれている。

●せっかく来たので、観音崎を散歩する。

前回訪問時は小雨模様で見晴らしも良くなかったが、今回はすっきり晴天。前回はすでに時間外で入れなかった灯台にもぜひ登ろうと行ってみたら、こちらも無料だった。

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下1枚目は灯台上から北側の眺め。中央やや左に、小さくランドマークタワーも写っている。左端の山上に建っているのは海上保安庁の(旧)東京湾海上交通センター。2018年にセンター機能は横浜に移転、現在は無人の観音崎レーダー施設となっているらしい。2枚目は、その施設を足元から見上げて撮ったもの。3枚目は南側。小さな入り江向こう側の突端に、前回も写真を載せた、戦間期に作られた聴測所(対潜水艦の固定式ソナー施設)跡がある。

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下写真は富津岬と横須賀の間に、東京湾要塞の一部として明治期に作られた第一海堡と第二海堡(現実の配置に合わせて、右写真が第一、左写真が第二)。第二海堡は、上に掲示した「灯台上から北側写真」の右端近くにも写っている。富津側の第一海堡は現在立入禁止、第二海堡は整備されツアーも組まれていて、その違いを示すように、写真で見ても第二海堡のほうがシルエットが整っている。

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灯台で無料のペーパークラフトを貰った。初代と当代(三代目)の2種。ともにスケールは1:100。どうやら「あなたが選ぶ『日本の灯台50選』」というシリーズらしく、公益社団法人「燈光会」というところのサイトで、全種ダウンロードできるようだ。

「50選」と銘打っていつつも、サイトをよく見ると、キット番号は250番まである。この観音崎の灯台も、キット番号は「No.22」と「No.22-2」と枝番になっているし、リストには「番外」(海上交通センターの建物とか灯台見回船とか)もあるから、キット種類の総数はもっと多いかも。観音崎のキットは両方とも白一色だが、中には着色のもの(赤白の縞模様とか)もある。

燈光会サイトにある「作り方」によれば、OA用紙などに印刷して厚紙に張り付けて……といった工程が指示されているが、当然、最初から厚手の紙に印刷したほうが話が早い。観音崎灯台で貰ってきたものも、最初から厚手の紙に印刷されていて有り難い。

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前回見そびれた場所含め、砲台を三カ所見学。

▼まずは前回見なかった北門第二砲台。上に写真を上げた(旧)東京湾海上交通センターから、階段状に3つの砲座が並んでいる。本来は6つあったらしいが、第4~6砲座の上に東京湾海上交通センターが建っているらしい(ただし、現地の説明板には、『現在は4砲座と弾薬庫が残っています」とある)。北門第一砲台等に比べると、草むしていかにも廃墟感がある。

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1枚目:センターから緩い坂を上って最初の第三砲座。

2枚目:第三砲座と第二砲座間の横墻にある弾薬庫。ガイドを頼むとこの中にも入れるようだ(この写真を撮るちょっと前に、団体さんが出てきた)。

3枚目:第二砲座。

4枚目:第二砲座・第一砲座間の横墻にある弾薬庫。こちらはコンクリートで入口が塞がれている。

5枚目:最も高いところにある第一砲座。

6枚目:第一砲座手前に置かれた説明板。

7枚目:各砲座背後を登ってきた坂道の突き当りにある隧道。こちら側の入り口が坂の頂点で、隧道内は(こちらから見て)下り坂。私は観音崎園地から、つづら折りの坂を上って、言わば裏側から来たが、本来はこちらが砲台入口らしい。現在は柵が作られて立入禁止だが、サイト「東京湾要塞」によれば、内部にも弾薬庫等あるようだ。

前回も見た、灯台間近の北門第一砲台。

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前回も書いたように、半円形の砲座が2連になっていて、間にレンガ積みの小隧道。地下に弾薬庫があって、そこからこの小隧道内に揚弾されてくる仕組みらしい。本来は、このレンガ積みの道路に面した側に下り階段があって弾薬庫にアクセスできる構造だったらしく、3枚目の拡大写真にあるように、正面下に入り口跡の一部らしい塗り込めたアーチ頂部が確認できる。

1枚目の写真の左端に写っているが、左側砲座から灯台側(写真手前側)にも弾薬庫または兵員待機所のような入り口を塞いだ跡がある。

▼前回行かなかった北門第三砲台。

砲台アクセス用に作られたらしいレンガ積みのトンネルを抜けると、すぐ左手に弾薬庫または待機所跡らしい塗り込めた二連の洞口。突き当りに納座がある。

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砲座は第一、第二とはずいぶん異なる形状で、半円形ではなく前方左右角の丸い長方形? ここに、砲(二十八珊榴弾砲)が2門ずつ置かれていたらしい。最後の写真は、砲座の左側にあるレンガ積みの揚弾井。第一砲台のようにトンネル状ではなく、横墻正面に口を開いている。

本来はこの横墻を隔ててさらに左に2連の砲座がもう一つあったらしいのだが、現在は見晴らし台(への通路?)の整備で消失している。

▼岬を越えて、自然博物館のちょっと先、たたら浜に降りる。

美術館で貰った「美術館から出発!! 観音崎公園お楽しみマップ」には「第2次世界大戦時のトーチカ」なるものが、たたら浜駐車場の脇にあると図示されている。

パッと見渡しても判らず、駐車場のおじさんに聞いてみると、「たぶんそのへんにあったんだけれど、もう撤去されてしまったのではないか」という、なんとも頼りない返事。「なくなっちゃったのか……」と少々落胆しつつ、浦賀方面に歩きだしたら、駐車場の端の端に現存していた。

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1枚目は海方向に向けた正面(道路/海岸線に向けてはやや斜め)。正面中央に開口部。2枚目は正面角の、表面がはがれた部分。3,4枚目は側方・後方に回っての写真。

さて、このコンクリートの構造物。GoogleMapsにも、「機関銃陣地跡」としてタグ付けされているのだが、サイト「東京湾要塞」では、「実験のための観測・監的所」ではないかと推測している。根拠は前後に鉄格子がはまっていること、正面開口部が単純に外側に向けて斜めに広がっていて(これでは跳弾が中央に集まってしまう)階段状になっていないこと、など。

言われてみれば、鉄格子はずいぶんがっちりはまっていて、後付けでないようにも見えた。また、写真では草藪に隠れてしまってよく見えないが、GoogleMapsには藪に覆われていない状態の正面写真も1枚載っていて、それを見ると、正面開口部が銃眼というには広すぎる。鉄格子が無ければ、大人がそのまま潜り込めそうなくらい広い。

なお、頂部に突き出た部分は通風孔のようにも見えるが、どうもどの面にも開口部がないようで、機能は謎。

▼その後、浦賀駅まで歩いて帰宅。

●週が明けて5日火曜日にも、法務局に用事があって横須賀へ(逗子市、葉山町は管轄が横浜地方法務局横須賀支局)。どうも最近横須賀づいている。

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写真1枚目は観音崎に行った土曜日に撮った「もがみ」型。先月に撮った時は桟橋の向こう側だったが、より姿がはっきりわかる。晴天下だと、なぜか船腹ではっきりと色が2トーンに分かれている。2枚目も同じ「もがみ」型で、火曜日に撮ったもの。船腹中央の大型ハッチを開いている。

3枚目は潜水艦桟橋で、今回は、前回よりも新型のシッポがX字のタイプ。「そうりゅう」型なのか、さらに新しい「たいげい」型なのかは、素人の私には判別不能。

Img20241026193726 ●まるで別話題。

鎌倉の小町小路(元の名前は小町大路、鎌倉の中心を南北に通る若宮大路の東側に並行する通りで、土産物屋通りで有名な新しい「小町通り」とは若宮大路を挟んで反対側にある)、蛭子神社の斜め向かいにあるセブンイレブンは、独自仕入れで、なぜか「インド菓子」を売っている。物珍しくてついつい買ってしまう。たまに「うわ。これハズレだ」と思うものもあるが、結構イケルものもある。

ビスケット/クッキー類はごく普通に美味い(たまにちょっと甘過ぎるのがある)。左下の空袋の「ムルック(Murukku)」は個人的にはハズレ。スパイシーなだけで味が何か足りない感じ。

右下の「ナブラタン・ミックス(Navratan Mix)」と左上の「オール・イン・ワン(All In One)」はそこそこ当たりな感じ。シリアル+ナッツ等々、細かいアレコレをスパイスで味着けたもの。オール・イン・ワンのほうが甘みと辛さが強かったように記憶。

上中央は食べかけで止めてあるので見づらいが、「ゴル・カチャウリ(Gol Kachauri)」。4センチほどの一口で食べるにはちょっと大きめの揚げボールの中に、甘辛い具がぎっしり詰まっている。これは味はかなり美味しいと感じたのだが、同じ会社(ハルディラム/Haldiram's)のミニサモサとか、上のムルック同様、ちょっと「揚げた油が回っちゃってる」感がマイナス点。

●さらに別話題。

ここ数か月のうち、道端でオレンジ色のハムシを見掛け、「ああ。ありきたりなウリハムシか」と思ったのだが、それにしては、クズの葉にいる(しかもクズの葉を食べているっぽい)のがおかしい。

ちょっと気になって調べてみたら、本当にごく最近、2016年に東京都目黒区で初確認されたらしい外来昆虫(中国原産)、クズクビボソハムシと判明。判って気にして見てみると、結構あっちにもこっちにも、大繁殖してクズの葉を食い荒らしている(写真は先月撮ったもので、さすがにここ最近、肌寒くなってからは見なくなった気がする)。

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クズはそのへんにいくらでも生えているので、適当に食えばよさそうなものだが、どうもこの虫、集団でまとまって食害する習性があるらしく、ほぼ無傷な葉がある隣で、ほとんど葉脈だけになった葉の上に何十匹も固まっている。……なので、「虫がたくさん」が苦手な人は卒倒しそう。

そもそも食草が、繁茂力が強く増え過ぎてしまって問題視されているクズなので、いくらでも食ってくれてOKな気もするが、とはいえ、「それはそれで問題が」となる可能性も結構ありそうな気がする。

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砲台に消えた子どもたち・2024

●10月20日日曜日。

本土決戦用に構築された西小坪海面砲台で戦後すぐに起きた爆発事故により亡くなった子どもたちの慰霊碑が、事故のあった南砲台跡の直下の道路脇に新たに建立されることになり、午後、その除幕式(慰霊祭)が行われた。

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爆発事故が起きたのは、1945年の10月20日で、ちょうど79年前ということになる。慰霊祭には逗子市長や地元自治会関係者ほかも参列。ざっと見た感じ、50~100名くらいの方が参列していたと思う。

私自身がこの洞窟陣地(西小坪海面砲台)の存在を知ったのはかれこれ10年ちょっと前で、爆発事故について知ったのがそのしばらく後。さらに慰霊のために建てられた慰霊碑があったことを知って近辺を探してたどり着いたことについては、2015年の過去記事「砲台に消えた子どもたち」で書いた。ちなみに「砲台に消えた子どもたち」とは、この事故を題材に、地元の児童文学作家・野村昇司氏が書かれた作品の題名。

過去記事で書いたように、もともと事故のあった洞窟陣地前に置かれていた慰霊のお地蔵は、その後ちょっと判りにくく、またいつも立ち入れるわけではない場所に移設されている。そのまま忘れ去られてしまうのは残念で、どうにかならないものかとずっと思っていたのだが、今回、新たにきちんと人目に付く場所に慰霊碑が立つことになった。

当初は「お地蔵様を再び移設する」計画だったようだが、「いつだれが、どのような供養の仕方で移したかわからない以上、今回勝手に移設することはできない。という遺族会の結論」により、新たな慰霊碑を作ることになった由。現時点では慰霊碑だけだが、「逗子の歴史を学ぶ会」の山田淑江さんから以前頂いたコメントによれば、今後、犠牲になった子どもたちの名や、事故の経緯などを記した碑も隣接して建つことになるらしい。大変よいことだと思う。

もっとも、私自身は「なんとかならないものかね」と思いつつ、言わば“横目で見ていた”だけの野次馬なので、あまり偉そうなことは言えない。実際に慰霊碑建立に向けて活動をされていた遺族会や「逗子の歴史を学ぶ会」ほかの皆さんの努力には頭が下がる。本当にご苦労様です。

●慰霊祭の後は、近くの小坪コミュニティセンター(以前の小坪公民館)講堂で、「~学ぶ会」主催により、西小坪海面砲台および事故の経緯に関する講演会があり出席。事故現場で遊んでいて、事故発生の直前に帰宅して難を逃れた(しかし兄を事故で失った)草柳博氏の回顧、事故の経緯を研究されている中澤洋氏の報告等を聞く。また、慰霊祭では遺族会からの記念品、講演会では遺族の証言等もまとめられた小冊子「小坪洞窟砲台跡爆発事故記録集」等を頂いた。

今までは、「日常的に砲台に入り込んで遊んでいたんだろうな」くらいにしか思っていなかったが、実際には、事故当時、日本側から米軍への引き継ぎで管理の空隙が生じていたらしいこと。また、事故に先立ち小坪小の高学年生徒を教師が引率して披露山の小坪高角砲台の見学を行っており、戦時中は軍が厳しく警戒していて近寄れなかった軍事施設に対する行動障壁が低くなっていた可能性もあること。

などなど、事故の経緯について初めて知ったことも多かった。驚いたのだが、亡くなった子どもの数自体、14~16名で、今なお確定できていないのだそうだ。

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後援会修了後、これまで何度か等「かばぶ」にコメントを頂いている「学ぶ会」の山田淑江さんに初めて直接お会いしてご挨拶。その後、小坪海岸トンネルシールド上の、もともとの慰霊のお地蔵さんを有志で見に行ったりする。山田さんほかの宣伝のおかげ?意外なほどに「『かばぶ』読みました/知っています」という方がいて驚くやら気恥ずかしいやら。いや、本当にどうもありがとうございます。

現場で「ブログを見に行きます」と言って下さった方もいて、いきなり見に来られて、(もともとは模型趣味のブログなので)「なんだこりゃ」と思う方もいらっしゃるかもしれないので、補足。

西小坪海面砲台や、披露山の小坪高角砲台の話をはじめ、主に逗子近辺の軍事遺構巡りについての話は、タグ「軍事遺構」。

西小坪海面砲台と私とのそもそもの関わりについては、上にもリンクを載せた過去記事「砲台に消えた子どもたち」。

基本は単なる「ミリオタ(軍事オタク)」ですが、戦争の回顧やら靖国神社やらに対する私自身のスタンスについては過去記事「インパール」。

――あたりを参照して頂ければと思います。

●講演会にも出席し、新たに知ったこともある一方、相変わらずよく判らないこともあり、改めて、西小坪海面砲台に関して整理し直してみようと思う。

▼砲台(洞窟)はどこにあったのか

西小坪海面砲台は、現在は逗子マリーナの「背景」になっている崖面、マリーナの造成前は小坪の集落と飯島/材木座を結ぶ崖面の切り道(親不知)に作られた。逗子マリーナの造成に伴って崖面の道は使われなくなり、洞窟砲台も埋められてしまった。崖面の道の跡は基本立入禁止となっているので(つい最近まで深い藪に覆われていたためもあるが)、現在では、もともと洞窟がどこにあったのかも、当時を知る人以外にはよくわからない状態になっている。

一応、当時の構成としては、崖面の向かって左側(鎌倉側)に北砲台、右側(逗子側)に爆発事故を起こした南砲台の2つの洞口があり、その中間に観測所の小洞口があったという。各洞窟は内部で連絡しており、今日お会いした方から少し聞いた話によれば、山の上の旧幣原邸敷地内にも抜ける坑道があったという。

Google Mapsには、「小坪海面砲台北側跡」「小坪海面砲台南側跡」というタグが表示されているが、現時点では、そのどちらの表示も本来の砲台跡とは大きくズレている。ちなみに「北側跡」タグには鎌倉市立第一中学校への坂途中の崖面に開いた洞窟の写真が添えられているが、これは西小坪海面砲台とは別の防空壕もしくは機銃陣地の洞口跡。

さて、本来の西小坪砲台の砲台位置の検証。

逗子市による写真アーカイブ「逗子フォト」には、おそらく戦後すぐに撮影されたと思われる、砲台のあった崖面の海上からの写真が掲載されている。矢印は私が加工・追加したもので、黄色矢印が「北砲台」洞口、赤色矢印が「南砲台」洞口を示している。

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これ自体は洞窟陣地の位置が判る良い写真だが、現在は前面に逗子マリーナの建物群があるために、現状との比較が難しい。そこで別角度の写真を探してみる。

下写真は、逗子市が公開している「逗子市文化財調査報告書(PDF)」のうち、「特別編 住吉城址 後編_図版1」から引用してきたもの。

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2枚組のうち上段写真は、上掲「逗子フォト」の写真よりもさらに鎌倉寄りの海上から撮ったもので、右側の三角の崖面が、「逗子フォト」の写真中央に写っている、底辺両側に洞窟砲台の洞口がある崖で、実際、上段写真でも三角の崖の向かって左下に北砲台の洞口が判る(画面右端にあるはずの南砲台は確認できない)。なお、海面に接するところに大きな穴が3つ開いているが、これは砲台とは無関係の海蝕洞(波で削られた穴)。

下段写真は、さらに鎌倉寄り/陸地寄りで撮ったもので、この角度では先述の三角の崖面は見えず、上段写真では左側に写っていた崖面だけが見える。

この2枚組写真を手掛かりに現状との比較を行ってみる。

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現状とどう重なるのかがなかなか判りにくいのだが、なんとか合わせてみた。まずは上段写真。現状写真の撮影は小坪飯島公園のグラウンドから。本当はもうちょっと右から撮ったほうが角度的には近そうだが、そうすると建物の被りが大きくなってしまうので、このくらいで妥協した。

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下段写真の比較。こちらも現況写真はもっとプール際に寄るくらいから撮ったほうが正解だったかも。

そしてもうひとつ、検証用の資料として、埋立前の海岸線、親不知の崖道、砲台の位置が書き込まれた手書き地図を挙げてみる。こちらは、「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」(鎌倉市中央図書館発行、鎌倉市中央図書館近代史資料収集室/CPCの会編集)に収められている、高橋二郎氏による手記「小坪の二門の砲台と戦後の小坪について」に添えられた図版を引用した。

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地図の右側には、海前寺下から崖下の道に入るあたりに現在も並んでいる庚申塚もしっかり記入されている。これと上の写真とを突き合わせて考えると、北砲台は現在喫茶店「コピ・ルワク」がある上あたり。南砲台は、冒頭書いたように、今回建てられた慰霊碑の上。そもそも現在法面に作られている階段は、南砲台前に建てられた慰霊のお地蔵への参拝用に設けられたものらしい旨の記述が、同資料本文中にもある。

手書き地図には、鎌倉側から「馬捨て場」「でんやく島」「かめのこ島」という崖下の3つの突出が描かれているが、これらはマリーナ造成に伴って消失。この場所は現在バスも通る道路が真っ直ぐ通っている。

なお、上手書き地図の左端の、海岸線が大きく窪み「大正時代にはこの位置につり橋があった」と書かれているのが、現在小坪海岸トンネルのマリーナ側出口があるところ。そのトンネル口上のシールド上に、もともとの慰霊碑である地蔵がある。

これも現状との対照のため、Google Mapsの鳥瞰をスクリーン・ショットしたものを挙げておく。

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画面中央右に、今回慰霊碑が建てられた階段、中央左に北砲台があると思われる場所の下に建つ喫茶店「コピ・ルワク」がある。小坪海岸トンネルのシールド上には、慰霊のお地蔵脇だけ草が無くコンクリートの地面?が見えている。左端駐車場に「小坪海面砲台南側跡」のタグが立っているが、これは前述のように間違い。この駐車場上の崖面には、確かに壕をコンクリートで塞いだような跡があるのだが、上掲の昔の写真と見比べて本来の砲台位置よりも横位置でズレているのはもちろん、上下位置で考えても低い。西小坪砲台との関連性は不明。

▼配備された砲は何だったのか

砲台の存在を知った当初は判らなかった「どこにあったのか」は、上述のようにほぼ特定できたが、未だによくわからないのが、「砲台に据えられた砲は何だったのか」という点。

以前から何度も紹介している、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)は、戦後すぐにまとめられた、米軍への引き渡し用のリストで、周辺の各種砲台に配備された砲の種類、数、弾薬数、状態(尾栓の有無など)、関連する装置(測距儀や探照灯などの)の数などがリストアップされている。だが「十五糎砲台之部」のリストの中に、「西小坪 (門数)二 (弾薬数)二〇〇」とあるのみで、砲の形式名は書かれていない(ただし、測距儀に関しては九七式二米高角測距儀が1基配備と、形式名も明記されている。……なぜだ?)。他資料を見ても、砲種は15cmカノン砲(加農砲)としか出ておらず、やはり形式名は判らない。同資料に載っている近隣の「十五糎砲台」は、佐島(3門)、長者ケ崎(2門)、黒崎鼻(3門)がある。

この「主武装」である15cmm砲2門の他に、おそらくこの洞窟陣地そのものの防衛用に、「短十二糎砲」1門および「二十五粍単装」2門が配備されたことになっている。これについては、「短十二糎砲」は海軍の装備中に1種しかなく、25mm機銃についてはリストに単装・連装・三連装とあることから、日本海軍の代表的対空機銃で、その三種が揃っている九六式二十五粍機銃のことであろうと推察できる。

なお、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」は1945年(昭和20年)11月18日付で作成されている資料で、西小坪砲台の爆発事故の直後にまとめられた資料ということになるが、爆発事故に関連する注釈等はつけられていない。

これとは別に、今回の講演会で紹介されていて知ったが、爆発事故に関する公文書のひとつ、昭和20年11月23日付の終戦連絡横須賀事務局から中央への業務報告(10月分)には、「二十日、逗子小坪ニ於テ三三糎砲墟内爆発事件アリ」と記されているらしい。これに関しては、口径33cmの大口径砲など戦艦の主砲クラスに近く、またそもそも日本陸海軍の装備には33cm口径の砲はないので、誤記であろうと思われる。

というわけで、「十五糎砲」の正体探しの続き。

講演会では、私がこれまで見たことがない昔の写真(調査に訪れた米兵が洞窟砲台前に立っている写真や、マリーナ造成中の写真など)もスライドに登場して興味深かった。特に調査に訪れた米兵が立っている写真は、洞口から突き出した砲身も一緒に写った貴重なもので、これによって15cmクラスの中口径砲、しかも長砲身(つまりカノン砲)らしきことは確認できる。

一方、同じく資料スライドでは配備されたとされる15cm砲の例として、靖国神社の遊就館に収められている八九式十五糎加農砲の写真が写されていたが、これは陸軍の砲であり、一方で西小坪砲台は海軍の砲台なので装備体系が違う。もちろん、陸上で運用する兵器ということで、海軍が陸軍から融通してもらったという可能性も考えられなくはない(例えば、海軍陸戦隊が陸軍から戦車を供与してもらっているというような例もある)。

しかし、今回頂いた「記録集」に掲載された草柳博氏の証言によれば、配備された砲は「ボタン一つで前後に動き、また砲門が上下に動く」とある(それもまた子どもたちの興味を惹いたようだ)。陸軍の十五糎砲で可能性として考えられる対象は前述の八九式十五糎加農砲、九六式十五糎加農砲などがあるが、いずれにせよ陸軍の砲なら俯仰はハンドル/ギアの人力のはず。

となると、電動油圧の動力機構が組み込まれていた海軍の艦船搭載用火砲である可能性が高くなってくる。その場合に候補として上がるのは、50口径四十一式15cm砲か。それよりちょっと旧式の40口径安式15cm砲というのもあるが、明治時代の砲なので動力装置は付かないかも。戦艦「三笠」の船腹に並んでいる副砲がこの安式(英アームストロング社製を示す)15cm砲らしい。現在の記念館三笠に付いている副砲はレプリカだと思うが、砲の左右動は砲尾についたΩ形の輪っかに人間が入って、力業で動かすスタイルだったような。

いずれにせよ、この2種の艦載砲のどちらもwikipediaの解説を読む限りでは陣地砲への転用などには触れられていないのだが、逗子近辺の戦跡巡りと調査で大いに助けてもらっているサイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の中の解説によれば、例えば佐島砲台の3門の砲は「40口径安式十五糎砲2門、40口径41式15糎砲1門」だったとある(後者は50口径の誤りか)。横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」で同一砲種の砲台として扱われている近隣の砲台で、海軍の艦船搭載用のこの種の砲が据えられていたらしいことがわかる。

ただ、西小坪砲台の装備砲については「東京湾要塞」にも記述がない。また、ネット上で検索する限り、この二種の艦載砲を地上の砲台に配備する場合に、どのように据え付けているかの写真や解説なども見当たらない。今後、何らかの新資料が出てくることを望みたい。

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ミニスケール2題

●暑くてダレているせいもあって模型作りも低調。ただ、手すさび的に漫然といじっているものはあって、そんな2つを軽く紹介。どちらもミニスケール(1:72)、かつ組立途中。

Img20240702214831 ▼一つ目は、THE WORLD AT WAR 1:72の「巡航戦車Mk.I(A9)CS」。

購入時に書いたレビュー記事はこちら(2020年12月6日

防盾の部分だけ色が違うのは、ディテールアップをしようとかではなくて、いじっているうちにぽとっと落として、そのまま行方不明になってしまったための作り直し。

なお、私は(そこそこ熟練のモデラーではあると思っているが)結構、部品破損や紛失のアクシデントが多いボンコツなので、そのたびに泣く泣く部品を新造する羽目になる。一応、自分自身への戒めもあって、「代わりに自作するパーツは、少なくとも無くした/ダメにした部品とおおよそ同等か、それ以上のものにすること」というハードルを課している(本当にそれを完遂できるかどうかは微妙だが)。

なお、この防盾はまだ工作途中で、これからディテール工作予定。

レビューにも書いたが、このキットの最大の問題点は、指定塗装/デカールが(箱絵も)1940年フランス戦時の大陸派遣軍のものなのに、パーツは、アフリカ戦の大型サンドシールドが入っていること。レビュー記事からの再掲だが、パーツはこんな感じ(左右で形状が違う)。

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さすがにこのためだけに2ポンド砲型を買ってキットを一つ潰すのは嫌だし、キットのパーツを削り込んで、なんとか通常型フェンダーらしく見えるようにした。

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履帯は、エッシーのバレンタインを探し出して換装するなどという贅沢はせず、キットのまま。もっとも、側面から見た時の雰囲気はエッシーの履帯よりキットの方がよいので、換装する効果はちょっと微妙な気もする(ガイドホーンがカマボコなのは、やはりちょっと気になるが)。

Img20240702215005 ▼2つ目は、First to Fight 1:72の「PRAGA RV 6輪トラック」。

購入時のレビュー記事はこちら(2016年12月27日)

もともとチェコスロバキア軍用に作られた軍用トラックで、大戦中はスロバキア、ポーランド、ルーマニア、ドイツでも使われ、小国者的にはちょっと美味しいはずのアイテムなのだが、残念なことに資料写真に乏しい。しかも何しろ元がただのトラックだから、何軍に使われていても塗装やマーキング等で変わり映えがしない。

というわけで、いじり始めてはみたものの、完成に向けての意欲はいまひとつ。

ちなみに、後輪が2軸かつダブルタイヤなので、かなりの重車輛に感じるが、積載量は2tだそうだ。

一応、ちょっとだけ手を加えたのは、幌を張った仕様のキットと共用パーツのため、幌骨の下半分がモールドされていた荷台側板から、その幌骨を削り取ったこと。元パーツは下のような感じ(レビュー記事からの再掲)。

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削り取った跡を、もうちょっと綺麗にする必要はあるかも。

また、この車輛は前後輪ともにポジティブキャンバーが付いている(前後方向から見て、車輪が逆ハの字になっている)。後輪まで、しかもダブルタイヤなのにキャンバー角が付いているのはちょっと珍しいかも。キットはそのままだと前後とも垂直になってしまうので、角度を付けて接着した。当然、角度を付けても後輪内側が接地するよう、接地面は多少ヤスって平らにした。

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ただ、こうして写真で見ると、ちょっと後輪の角度が足りなかったかな?

あとは、キャビン横ドアの後縁にケガキ線を入れた(キャビンとドアが一体化していたので)。

●先週水曜日(26日)、仕事で横須賀へ。ついでに、先日「のの字坂」記事へのコメントでみやまえさんに紹介してもらった、旧東京湾要塞砲台(米ヶ浜砲台)跡地の「平和中央公園」に行ってみる。横須賀中央駅からはすぐ近く……なのだが、結構な高台にあって、いきなり長い階段を上る羽目になってへろへろ(なので、話の発端の電柱の銘板までは見に行かなかった)。

砲台跡地と言っても、元が明治時代の、港湾防御用のものなので、大戦中の高射砲陣地のような円形のベトン(コンクリート)製砲座などは残っていない。弾薬庫?の壕は残っているが、砲そのものがどのように配置されていたかなどは、現状の風景からは想像しづらい。

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ちなみに、この砲台には、日露戦争の際に旅順攻略に持って行った二十八糎榴弾砲(wikipedia記事)と、それより小径・長砲身の二十四糎加農砲(wikipediaに記事無し)が配備されていたらしい。

高台の公園なので見晴らしは良い。東京湾要塞の遺構としては、より大規模かつ濃密に残っている猿島が、ちょっと見下ろす感じに見える。

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みやまえさんお勧めの「横須賀市自然・人文博物館」は臨時休館で入れなかった。残念。

●昨年末に横須賀市のマンホールカードが増えて、新しいカードはドブ板通りの「ドブ板ステーション」で配布されているとのことだったので、行ってみたら水曜定休だった。がっくし。

貰えないとなると悔しくなったので、仕事帰りに足を伸ばして、三浦市のマンホールカードと、横須賀市の3種目のカードを貰いに行く。

三浦市のカードは、三浦市役所(三崎口駅からバス)または三浦市観光インフォメーションセンター(三浦海岸)で同じものが配布されているようで、行きやすい後者のほうへ。

三浦海岸へは(少なくとも覚えている限りでは)初めて行ったが、砂浜がものすごく広いうえにベージュで美しい(写真1枚目)。これに比べると、逗子の砂浜なんて猫の額だし、砂の色は灰色であまり綺麗ではないし、ゴミも多い。すごく負けた気分。東京湾のくせに!東京湾のくせに!

横須賀市の3種目のカード(発行順から言えば2種目?)は、「浦賀奉行所開設300周年記念」の絵柄で、浦賀駅からちょっと歩いた先の「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」が配布場所。写真2枚目はその途中で見た歯医者さんの看板。いや、いくら浦賀でも、この名前はちょっとどうなんだろう……。

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仕事の時間はわずかで、外出時間の大半を「三浦半島をうろうろ」で過ごした感じ。ともあれ、カードは2種増えた。今度改めて、ドブ板通りのものも貰いに行こう……。

●今度の週末は東京都知事選挙投票日。

今回の都知事選、私の知り合いも出馬しているのだが、知り合いといっても、もうかれこれ30年くらい会っていないし、向こうもたぶん覚えていないと思う。そもそも私は東京都民ではないので(都民だった時期はある)、応援も支持もへったくれもないが、とりあえずは「まあ、頑張ってね」くらいは思う。

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梅雨入り前のあれこれまとめ

●今年は梅雨の入りが遅いとか。

実際にはそこそこ雨の日もあるが、まだ「降り続く」という感じではない。梅雨入りは平年は6月7日なのだが、今年は月後半までずれ込みそう、下手をすると「梅雨を飛び越して夏が来た」になる可能性さえあるとかなんとか。

2019年秋のように、またいきなり暴風雨が複数回やって来るみたいな、異常な天気続きにならなければよいけれど。

●また当「かばぶ」の更新をさぼって、ずいぶん間が開いてしまった。その間のあれやこれや。

●「プレッツェル行脚」のその後。

逗子に隣接する葉山町長柄の外れに「earth7716factory(アースなないろファクトリー)」というパン屋さんがあり、そこのプレッツェルを、義妹が買ってきてくれた(5月中旬)。

しっかりと「革靴のような色艶」の“ラウゲン・ブレーツェル”(ラウゲン液処理されたプレッツェル)で、これまで食べたソフトタイプのプレッツェルの中でも最上位クラス、と感じた。残念なのは、その店が(距離自体はそれほどでもないのだが)車でもないと行きづらい、非常に不便な場所にあること。

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プレッツェル話その2。JR新橋駅構内、ecute内にあったドイツ飲み屋で、ソフトプレッツェルのテイクアウトもしていた「le petit IMBISS」が、先日行ったら閉店していた。うーむ。残念。

●前回書いた、沼間~田浦の山歩きで収穫したクサイチゴは、やや中途半端な量だったが、煮詰めてジャムに。昨年よりも色よく仕上がった。

もともと、我が家の近所では一番普通に採れたカジイチゴは、一番茂っていて毎年楽しみにしていた場所がごっそり刈り取られてしまったのだが、別の場所で、しっかり旬の味を楽しむくらいにはつまみ食いできた(最後の写真)。

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5月の終わり頃からは、ここ数年恒例のマダケのタケノコを収穫。いつも通り、メンマ風のピリ辛炒めや土佐煮なども作ったが、今年の初挑戦として味噌焼きも。単純に醤油を垂らして焼くよりも美味しかった。これは定番に採用しよう。

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●ポカリスエットのCMに、地元町内のバス停が出ている!……というのを、facebookの地元のニュースグループで教えて貰った。ありゃま、ほんとだー。

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左、CMキャプチャ画像は、ポカリスエットCM・「潜在能力は君の中。」春篇より。

ちなみにこのバス停は、京急バス【鎌40】逗子駅発・鎌倉駅行きの「小坪海岸」バス停。同系統でも鎌倉駅発・逗子駅行きは経路がやや異なり、このバス停は通らない。

よく見ると、「バス停の形が違う」「道路端に白線が引かれている」などなど若干の違いもあるのだが、ストリートビューで10年ほど遡ってもCMアニメの状態は確認できないので、おそらくアニメにした際の改変。

Img20240608173106 ●終戦直後に爆発事故があった「西小坪海面砲台」については、これまでも何度かここで話題にしているが、これに関して、今月下旬に講演会が開かれるそうだ。

地域の掲示板に貼られていたパンフが右。

現在はちょっと入れたり入れなかったり、微妙な場所に置かれている慰霊碑が、元の「南砲台」洞口近くに移設される件についてもパンフ解説文中に触れられており、(話としては聞いていたが)本決まりになったらしいことがわかる。

●模型話も書こうと思っていたが、だらだら長くなりそうなので改めて。

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のの字坂

●11日土曜日。横須賀、田浦のプチ名所である「のの字坂」を見に行く。

以前、田浦の旧軍用倉庫群と引込線跡を見に行った際、記事の末尾でちょろっと触れたもの。

もっとも、それを目的に田浦を目指したわけではなく、逗子の沼間から漫然と山道を歩いて田浦に抜け、「そういえば、そんなのがあったな」と思い出して、ついでに寄ったまで。

「のの字坂」は、JR田浦駅から、南へ400~500メートルほど。ゆるゆると谷戸を登って行った先にある。

ループ式の道路というと、高速道路のインターチェンジとか、風光明媚な山地の観光ルートがイメージされるが、これほど“ちんまり”かつ鄙びた感じのループ道路は、ちょっと珍しいかも。しかもくるりと一周、だけではなくて、1+2/3周くらいする。地図上で見ると、「のの字」どころか、プレッツェルっぽくさえある。

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左写真は、谷戸を登って「のの字坂」の出発点。ループした道路が小さな橋をまたいで上を通る。この橋の名前も「のの字橋」というらしく、GoogleMapsにも出ている。右写真は、「のの字坂」をだいぶ上った辺りから見下ろして撮ったもの。右奥に「のの字橋」が見える。

残念ながら草木が茂っていてループの様子はそれほど綺麗に写っていない。葉が落ちる冬なら、もうちょっとはっきり撮れるかな? なお、ループの真ん中は小さな児童公園になっている。

●さて、この「のの字坂」。たたずまいだけでもそれなりに魅力的ではあるが、横須賀市の「地域の歴史を歩く」-「田浦を歩く」のなかの紹介ページには、次のような記述がある(ちなみに、この「田浦を歩く」は、「平成17年に『田浦地域文化振興懇話会』によって発行された冊子『田浦をあるく』から抜粋し作成したもの」である由)。

戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路である。

となると、なかなか凝った砲台道ということになる。しかし、以前の記事でもそのように紹介したのだが、これについてはどうも怪しいことが判明した。

例によって、国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」で、古い空撮写真を閲覧してみた。

左は1946年2月15日、米軍撮影による 「USA-M46-A-7-2-77」から、右は1963年6月22日の国土地理院による「MKT637-C18-9」から、それぞれ切り出し加工したもの。

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右写真では、下辺ほぼ中央に特徴的なグルグルの「のの字坂」がはっきり判るが、終戦直後の左写真では存在が確認できない。上で紹介した「田浦を歩く」の記事では、

道をつなぐ陸橋を「のの字橋」(いわゆるループ橋)といい、はじめは橋も木製であったという。

とあるから、当初は道も細くて写真でも紛れてしまってよく判らないだけ、ということも有り得なくはないが、通常、「砲台道」は物資を運ぶ自動車や荷車が通れるだけの道幅は確保されているはずなので(また、それだからこそループが必要になったはずなので)、可能性は低そう。

まあ、「のの字坂」が戦後生まれであれば、土地のお年寄りに聞けばスパッと解決しそうではあるが。

Img20240511172311 なお、引用写真で黄色矢印で示したものは田浦駅。黄緑矢印で示した円形の大きな窪地は、GoogleMapsでも「城の台砲台跡」と表示され、また、激しい藪を攻略してこの地点を探訪したブログ記事なども散見されるが、以前も書いたように、ディテールから見てここが砲台跡とは考えられない。右写真は田浦駅ホームから見た、「謎窪地」のある尾根の張り出し。

サイト「東京湾要塞」では、この窪地は貯油施設跡ではと推測、城の台砲台の場所は右写真赤丸あたりではないかとしている。もっとも、こちらも「う~ん、どうかなあ」という感じではある。そもそも、「城の台(しろんだ、と読む)砲台」というもの自体、海軍の高角砲陣地のリストには出ておらず、存在そのものが若干怪しい。

●「のの字坂」のオマケ。

「のの字坂」に行く途中、ちょっとオシャレなトンネルがあった。

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「ながかまトンネル」の名は、長浦-失鎌(しっかま)間を結んでいるためで、字名「失鎌」は鎌を失うほど草藪に埋もれた地区だったからとか。JR田浦駅の横須賀側のトンネル名は同じく「しっかま」と読んで「七釜」と書くが、これは、「かま(鎌→釜)を失う」という名前では、鉄道(当時は蒸気機関車)のトンネル名として縁起が悪いというので字を変えたものだそうだ。

そこそこの幅があるトンネルだが、写真には写っていないものの、手前に車止めの柵があるので(少なくとも平時は)人道専用。ちょっと調べてみると、細かい谷戸の多い横須賀ならではの「防災トンネル」で、土砂崩れなどで谷戸の奥が孤立することがないように開削されたものである由。

以前のちょっと話題に出した「横須賀トンネルマップ」に出てるかな?と思ったが、これは出ていなかった。ただし、同じ防災トンネルである「西逸見吉倉隧道」が出ていた(21番)。ちなみに横須賀市内にこの手の「防災トンネル」は、現在5カ所あるそうだ(横須賀市「防災に関する道路などの整備」)。

●話は前後するが、突発的に田浦まで山歩きしてしまったのは、「クサイチゴ狩り」のため。

もともとは、長柄桜山古墳群に「クサイチゴ&“化粧直し”された1号墳見物」に行ったのだが、さすが、先月末に“新装開店”セレモニーも済んだばかりで人の往来も多いためか、目当てのクサイチゴの藪はほとんど実が残っておらず、2,3粒をつまみ食いできただけだった。

食べられないとなるとかえって欲しくなり、くやしんぼうのいやしんぼうで、より山奥の目当ての場所に分け入ってしまった(一応、それでそこそこの量は採れた)。

まあ、せっかくのいい天気に長柄桜山古墳群に行ったので、その写真も少々。

1枚目は、長柄桜山古墳群2号墳からの相模湾の眺め。2枚目はもうちょっと内陸側にある、1号墳からの同様の眺め。

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ちなみに1号墳からは東京湾側も見渡せる。現時点では被葬者については判っていないが、神奈川県内でも最大級の古墳であること、古代の太平洋側の交通の要衝を見下ろす位置にあることから、この地域を支配したかなりの権力者のものであろうとは言われている。

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2群目1枚目は、2号墳からの尾根道を辿って1号墳に出たところで1枚。前方後円墳の「前方」脇から撮ったもの。2枚目は墳丘上に上り、「前方」部から「後円」部を撮ったもの。3枚目は逆に「後円」から「前方」を見下ろしたもの。手前の黒い部分は、埋葬された木棺が腐って発生した腐食抗跡の位置を示したもの。4枚目は発見された埴輪のレプリカ越しの相模湾。

墳丘上の樹木はすべて伐採せず、あえてまばらに残してあるのは(整備上の意図がどこにあったにせよ)なかなかオシャレでいいと思う。なお、この一号墳は前方後円墳としてはややいびつ。2枚目写真で、「前方」から「後円」を見た時に右手の木立のほうが密度が濃いのは、特にこちら側の形が崩れているのを紛らわせる意味もあるかも。

その場に立って見ているだけだと古墳のスケールもあって形状が把握しづらいが、市のページにある空撮写真はなかなか格好よい。

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ブレーツェルは電気ブランの夢をみるか

●20日、仕事で初台に行く。どういう経路で行き来すればいいのか微妙に迷う辺りだが、行きは東横線/副都心線の新宿三丁目乗り換え、帰りは明大前で井の頭線に乗り換えて渋谷から東横線。

午後遅くの用事だったので小腹が空いていたこともあり、行きに横浜でTOMCATのプレッツェル(左)、帰りには(ネットで探して)西新宿のMORETHAN BAKERYのプレッツェル(右、セブンイレブンのコーヒー添え)と、2種のソフトタイプ(パンタイプ)のものを買い食い。

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TOMCATのプレッツェルは、以前に「なんだか、プレッツェルというより、『普通に美味しい塩バターパン』という気がする」と、(本場のプレッツェルを知っているわけでもないのに)したり顔で評価したヤツだが、たまたま店の前を通ったら、「焼きたて」の札付きでバットに並べられていたので、つい買ってしまった。焼きたてのためか「普通に美味しい」が「結構美味しい」にグレードアップしていた感じ。見た目は、革靴のような色艶が、いかにもBREZEL(ブレーツェル)な印象で良し(あくまで個人の主観です)。ちなみに、プレッツェル/ブレーツェル独特の色艶は、焼く前に生地を水酸化ナトリウム水溶液をくぐらせることで出るものである由(wikipediaより)。でもやっぱり、この店のはちょっとふかふかし過ぎかなあ(重ねて言いますが、あくまで主観です)。

MORETHAN BAKERYは新宿中央公園裏手の通りに面したホテル1Fにあるパン屋。仕事帰り、「近所にプレッツェルを売っているパン屋は無いか」と検索して、閉店数分前に滑り込んで購入。全体にねじりの入った、ちょっと変則形状。これも結構バター味強め。塩も局地的でなく、全体にまばらに均等に付いていて、部分的な太さ/細さの差もないので、どこからどこまで同じ食感と味を楽しめる。そのぶん、「うはー。そうかあ。これがブレーツェルかあ」感は薄いかも。美味しいけど。

●本国ドイツにおけるブレーツェルの立場というのは(ソフトもハードも)、おおよそ「ビールのおつまみ」というものなのだそう。先日会った兄弟分のドイツ人Pも、だいたいそんな認識だった。

しかし、基本、自宅で酒を飲まない私は、現時点ではビールのつまみとしてプレッツェルを食べたことがなく、もっぱらプレッツェルのお供はコーヒー。ただ、バター味の強い系のプレッツェルの場合は、結構これは合う、気がしてきた。

一方で、以前、「ビールと一緒でこそ真価を発揮するのでは」と書いたが、そもそも、日本人の感覚としてビールに一番よく合うのって、やっぱり揚げモンじゃね?とか思ったりする。

前にケン太さんに「ジンジャーエールと合う」というコメントを頂いたが、確かに甘い炭酸系には合いそう。お酒もサワーとか、甘いリキュール系のほうが、むしろビールより合うのでは?という気もする。表題に電気ブランを出したのは単に語呂の問題でしかないが、実は意外によく合うかもしれない。

なお、ドイツ人Pに、「今のところ気に入ってるプレーツェルはコレだ」と、鎌倉Bergfeldのものの写真(下)を見せたのだが、どうも「3つの穴の大きさが不均等」という点がお気に召さないらしい。え?こだわるのそこなの?

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●冒頭、MORETHAN BAKERYのプレッツェルと一緒に写っているコーヒーは、西新宿~初台間のセブンイレブンで買ったもの。

セブンイレブンのレギュラーコーヒーは、確か1,2年前から「軽いーふつうー濃い」の3段階で濃さを選べるようになっているのだが、その店舗のコーヒーマシンは、今年9月下旬から登場のさらに新型だそうで、「ふつうー濃いーもっと濃い」の3段階選択式になっていた。「軽い」の売れ行き、あんまりよくなかったのかなあ。ヘビーローストの濃いコーヒーが好きな私は、もちろん「もっと濃い」を選択。近所のセブンイレブンのマシンも更新されないかな。

●「ダンジョン飯」、遂に完結。

「そろそろ次巻が出る頃じゃないかなあ」などと呑気に構えていたのだが、いきなり本屋で13巻、14巻が並んでいてびっくり。「あれ? オレ、1巻買い逃していた?」と思ったのだが、2巻同時発売だった。

このマンガ、一応は「ダンジョンで竜に食われた妹を取り戻す」という目標はあるものの、最初はのほほんと変な料理番組ノリでダンジョン素材の料理を重ねていくばかり。しかも、何しろ料理の素材が最初から「現実に存在しないもの」なので、いわゆる「飯テロ」要素も薄く、なんとなくピントがボケてる?みたいなイメージを持っていた。

しかし、一度は救出・蘇生した妹がドラゴンキメラになり、さらにダンジョンの主だの悪魔だのが絡むようになると、急に話が深く入り組んできて、俄然面白くなってきた。くすりと笑える要素の挟み方も良い。

結末もなかなか素敵な締め方。

●以前からちょっとだけ気になっていた小説、「同志少女よ、銃を取れ」――じゃなかった、「同志少女よ、敵を撃て」だが、先日の関西行きの際にはるとまん氏からも薦められたので、図書館で予約。人気のようでだいぶ待たされそう、と思ったのだが、約一か月待ちで「本が用意できました」の連絡がきた。

ちょうど正月を挟むので、かなりのんびり読む時間が確保できた、と思ったのだが、読み始めたらほとんど一気に、2日で読み終えてしまった。感想は次回。

●米軍の上陸作戦に備えた洞窟砲台である「西小坪海面砲台」については当「かばぶ」でも何回か取り上げている。

今年初夏の大雨で崖面が一部崩れたことについても既報だが、その崖面の補修工事のため、もともと小坪と飯島/材木座を結ぶ「親不知」の崖縁の道だったと思われる場所がすっかり草刈りされていた。

一応、崩落の後なので簡易の柵が組まれて立入禁止となっているので、下写真はその柵のラインを越えない場所から写したもの(左)、と、その手前の庚申塔(右)。庚申塔も長らく藪の中に沈んでいたので、こんなふうに綺麗に並んだ姿を見るのは久しぶり。

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藪が切り開かれれば、もしかしたらこの辺りからでも南砲台の入り口跡を確認できるのではと期待したのだが、どうやらもうちょっと先まで行かないと見えないようだ。

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ダイコクだましい

●14~16日。某IT系ハッカソンの合宿にオブザーバー参加し、府中で2泊。

根が文系の私には理解できない話も多くて往生するが、ChatGPTの活用に関する講義は面白かった。

基本、単純に何かを訊ねて答えを貰おうという使い方ではNGで、あれやこれや材料を放り込んで対話することで、新たな着眼点を得るのがよい――というような話。そのうち自分でも何か試して(遊んで)みようかな、という気になる。

Img20230716201750 ●普段なかなか行かない方面に行ったついでに、近辺のマンホールカードを入手。

一番左は、上記スケジュールの初日、集合前に市役所に行って手に入れた国分寺市のもの。右2枚は合宿終了後に府中市内2個所を回って貰ってきた、マンガ「ちはやふる」タイアップのカラーマンホール蓋のもの。

実はこれ以外にも、初日に小金井市のマンホールカード2種を貰おうと武蔵小金井で途中下車したのだが、(事前にしっかり確認しなかったこちらが悪いが)2種とも品切れ。また、国分寺市のマンホールカードはもう一種あり、そちらは在庫が確認できていたのだが、合宿の集合時間が迫っていたため、配布場所まで足を延ばせなかった。

また、最終日は午後早めの終了だったので、府中市の配布場所2か所に加え、立川市のカードも貰いに行こうかな、などということも考えていたのだが、あまりの猛暑に歩き回る気力が失せた。カードになっている「ちはやふる」マンホール蓋の実物も、それぞれ配布場所近くに設置されていたはずなのだが、「見に行こう」ということ自体思い浮かばなかった。

●府中市の(「ちはやふる」タイアップではない)通常版マンホール蓋には何種類かあり、何枚か写真を撮ってきた。

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最初の2枚は市の木であるケヤキ。基本デザインは共通だが、細部は異なっていて、ケヤキ自体、「別の植物?」と思ってしまったくらい描き方に差がある。最後の1枚は府中本町駅近くで見た、市の花である梅のカラーマンホール蓋。他に、市の鳥であるヒバリの図案のものなどもあるらしい。

Img20230716150343 ●上掲マンホールカード一番右の配布場所は府中市観光情報センターというところなのだが(ちなみにもう一方は片町文化センター)、同情報センターは、大國魂(おおくにたま)神社というデカイ神社の入り口脇にある。

「神社の隣」ということ自体は下調べで知っていたのだが、なんだかボンヤリと「村の鎮守」レベルのものを想像していて、行ってみて初めて、神社の大きさにたまげた。

後から調べてみると、村の鎮守なんて話ではなく「武蔵の国の総社」であり、「府中」の名の元である、律令時代の国府跡もこの神社の境内にある由。ちなみに祭神である「大國魂大神」とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称、ということになっているらしい。

武蔵の国といえば、武蔵と相模の境界が、鎌倉市/横浜市金沢区をまたぐ朝夷奈切通を抜けた先の鼻欠地蔵(鼻缼地蔵)だったと思い出す。地域の中心(国府)から端までずいぶん遠いなあ、と思ったのだが、考えてみれば現在の都道府県レベルの行政区域なので、全然不思議でも何でもない。

●先月上旬の大雨で、逗子マリーナに面する飯島・親不知の崖面が2か所ほど崩落。しばらく前に通りかかったら、補修のため、崖面の草が切り払われていた。左写真は崩落からさほど経っていない時のもの(6月16日)、右が最近(7月21日)。

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この刈り取られた左下あたりが、ちょうど西小坪海面砲台の南砲台の洞口があったと思われる場所で、土砂止めの板張りがなければ、洞口の痕跡くらいは、もしかしたら見えていたかも。

近くの逗子マリーナの上層階とか屋上とかからなら確認できるかもしれないが、さすがに知り合いもいないので上る術がない。

Img20230720103523 ●前回記事で書いた転倒事件のその後。

府中での合宿中は腫れや痣もひどく、その辺の冷たい金属扉などに押し付けて冷やしたり、なんてことも。

あちこち押してみても強い痛みが走ったり、ということもないので、骨折やヒビはないだろうと思っていたのだが、その後腫れや痣が収まってきても、じーんとした痛みが引かない。結局先週になってようやく整形外科に行って、レントゲンを撮ってみたら「やっぱり折れてます」ということになって、添え木(というか添え石膏?)をあてて包帯でぐるぐる巻きに。

来月上旬まではこの状態で、キーボードは打ちづらいし、それ以上にマウスが操作しづらいし。さすがにこれではナイフも持てないので模型製作はしばらくお休み。

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スベスベマンジュウガニ

●「スベスベマンジュウガニ」というカニは、そのファンキーな名前と、一方で名前のイメージに反して毒があるという意外性から、比較的知名度は高い。(おそらく)名前のせいでイジられて、NHKの「みんなのうた」でも取り上げられた歌になったことがあるので(私自身は今回初めて検索して聞いた)、さらに知っている人が増えたかも。

Img20230317154503 先日、材木座海岸を歩いていて、波打ち際に丸っこい、小さいカニの死骸があって、「ああ。たぶんスベスベマンジュウガニってこんな感じのカニなんだろうなあ」と思ったのだが、帰宅して写真をもとに検索してみたら、(むしろ意外なことに)本当にスベスベマンジュウガニだった。こんなご近所にいるカニだったのか……。

なお、写真はパッと見で「こっちが上かな」と撮ったのだが、帰ってよく見たら天地が逆だった。写真下が本来の頭側。

●その材木座近辺の軍事遺構について少々。

住吉城址~扇山の裾は、突端の西小坪海面砲台をはじめとして、洞窟陣地跡が点在している。

光明寺の裏山、鎌倉第一中学校北側脇の駐車場奥の崖面に、いかにも戦時中のものと思われる、コンクリート巻きの洞口があるのに(今更)気付いた。

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よく似た洞口は、光明寺の本堂(大殿)真裏の崖面にもある。現在光明寺の大殿は大規模な保存修理工事中で、それに合わせて本堂裏の道も足場で若干かさ上げされていて、洞口も半分隠れている。

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上の駐車場のものとよく似ているが、よく見るとコンクリート巻きの上部が上は緩いアーチ型、こちらは直線の屋根型。また、洞の入り口近く数メートル分は洞横も半露出になっていて、コンクリートが外側からも確認できる(2枚目写真)、洞窟自体は真っ直ぐでなく、ちょっと「くの字」型。内部は、現在もお寺が資材置き場的に使っているらしい。覗き込むように撮った写真からみて、奥はちょっと広がっているようで、その部分は素掘りかも。

4枚目は洞窟と無関係で、その洞窟の対面側、保存修理中の大殿を覆うパネル一部が透明で、中をちょっと覗き見できるようになっている。現在の大殿は、外壁も内壁も床面も全部取り払って、骨組みだけになっているようだ。

●光明寺からまた山側に戻って、第一中学前の道が材木座~姥子台間の道に当たるわずか手前の崖面にも、洞窟陣地跡がある。崩落防護網や藪のせいで、普段は存在自体がなかなか確認できないのだが、たまたま午後の陽が当たってわずかにコンクリートの構造物が見えた。ここは単純な洞口ではなくて、内側が一段窪んで銃眼がしつらえてあるらしい。

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しかし写真にすると、やっぱり判りづらいなあ……。

Img20230319173056 ●20日月曜日。仕事先の事務所で数年ぶりの花見。千鳥ヶ淵、英国大使館前にて。久しぶりに都心に出た。

とはいえ、まだこの時は三分咲き程度。

前日に今年初収穫したアケビの芽を茹でて持って行った。出がけに逗子駅前OKストアで買っていった使い切りの胡麻ドレッシングで食す。これはこれで好評だったものの、数人に「今年はノビルはないの?」と言われた。

花見の席の近くを通りかかった女性のひとりが、いわゆる“胸開きタートルネック”を着ていて驚く。え?あれってネタとか伝説上の存在とかじゃなかったの?

●ほか、春の収穫ネタ。

私自身はもともとツワブキは、独特の味のクセがあまり好きではなく、好んで収穫しようと思わないのだが、義妹は好きで、日常的にあれこれ採っている私に「ツワブキはまだ? あれって下処理はどうするんだっけ」などと聞いてくる。

たまたま散歩に出た際に、ちょうどよい具合に若い葉が出ているツワブキを見つけたので、「ついでだから採って行ってやろう」と一束摘んで義妹宅に持っていったら、「ちょうど今日採ってきて今煮たところだよ! 持って帰って自分で作ってよ」と言われてしまった。なんという間の悪さよ。

というわけで仕方がないので、久々に(以前作った時の手順はすっかり忘れてしまったので、改めてネットなど見つつ)佃煮(風?)を作る。

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下処理は一茹でして皮むき。……前に作った時って、皮剥いたかなあ。

適当に刻んで、まずは日本酒、顆粒だし、醤油と、みりん、砂糖を少々。刻んだ鷹の爪を心持多め。色が薄い気がしたので、もうちょっとちゃんと味が染み込むようにと、途中で一度、すこしだけ水を差している。水気が飛ぶまで炒め煮して終わり。

意外なくらい美味しく出来て、これだけで飯が食えてしまう感じ。ツワブキを見直す。この春のうちに、あと数度は作ってもいいかも。

某所に「ミズはもう生え始めたかな?」と見に行ったら、まだ本当に生え始めで、5~10cm程度だった。せめて40cmくらいまでは育たないと。

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花見のあと、アケビの芽は自分用に(今日までに)もう2度収穫。どちらも(私的)定番の「卵ご飯に大量投入」で食べる。美味し。

●DHCといえば、世間的には(ネトウヨ系の)薬屋さんかもしれないが、個人的には見かけるたびに「デ・ハビランド・カナダだ~」と思う。飛行機マニアあるある?

それはそれとして、薬屋さんのほうのDHCは、もともと「大学翻訳センター」の頭文字だそうだ。……は?

●YouTubeの有隣堂clip「神奈川あるあるの世界 clip」というのをたまたま見ていたら、通勤ラッシュの話題で、

「幸せな人生って、南武線に何回乗らずに済んだかっていう人生だと思うんですよね」

と言っていて、中学・高校の6年間、南武線に乗って通学していた私は、人生の幸せをものすごい勢いですり減らしたんだなあ、と思った。

ちなみに中学の時だったか、ドアにぎゅうぎゅうに押し付けられて、腕時計のガラスを割ったことがある(むしろよくそれで腕が折れなかったものだと思う)。もっとも、通勤ラッシュ時の混雑度のすごさは、南武線よりも、大学時代に使っていた(かつての)新玉川線のほうがひどかったように思う。

単純に乗車率の問題だけでなく、当時の車輛の吊革の配置などもあるのかもしれないが、新玉川線の場合は発着時の「潮汐作用」もひどくて、身体が半ば浮いたまま、発着のたびに自分の意志と関係なく態勢変えを強いられるのがツラかった。

ここ数十年で、列車運行の改善とか時差通勤とかでラッシュはだいぶ軽減されたと思うので、今はあれほどの殺人的ラッシュは稀なのかも。

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路上のバルケンクロイツ

●先日も紹介した「横須賀トンネルマップ」の中に、田浦港町-長浦間の「比与宇(ひよう)隧道」というのが出ていた。もともと軍事用の引込線のトンネルで、内部で荷物の積み下ろしができるよう、線路と車道が並ぶ珍しい形式であった由。

何か格好いい!見に行きたい!という気持ちが俄かに盛り上がったので、田浦まで出かける。JR田浦駅では、跨線橋を渡りちょっと「裏口感」がある北側(海側)へ。

Img20230311144515 跨線橋の上から、田浦駅を両側から挟むトンネルのうち、横須賀側の七釜(しっかま)トンネル群を撮る。

以前にも書いたことがあるし、横須賀市の観光情報のページでも紹介されているが、中央の現・下り線トンネルが開業当初の明治のもの。右の上り線が大正の開削。一番左の大きいものが昭和になって作られた、軍事輸送の引込線用で、こちらはまったく廃線になっている。このトンネルを見るたび、雨に濡れるのがイヤで引きこもったヘンリー(「きかんしゃトーマス」より)のトンネルっぽいなあ、と思う。

この写真だと、廃線トンネルには向かって左側に一線だけ入っているように見えるが、実際には(藪に埋もれたか撤去されたかで)右にももう一線入っている。

●JR田浦駅を降りて目的地の比与宇隧道に向かう途中、海側に並ぶ大型倉庫群は、見るからに年代物が多い。

改めて調べてみて意外だったのだが、軍港・横須賀は、大戦中、ドーリットルの日本本土初空襲の際の1機や、主には艦載機による散発的な銃爆撃があった(あるいは東京空襲の行き帰りの際の置き土産)程度で、本格的な空襲は受けておらず、田浦の倉庫群も多くが大戦前・大戦中からの生き残りなのだという。

横須賀が本格的な空襲から逃れたのは、アメリカが戦後利用することを見越してのことだったなどと言われることもあるらしいが、実際にはこれは俗説で、どうも「たまたま」だったらしい。このあたりは、wikipediaの「横須賀空襲」の記事で概略が掴める。

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1枚目の写真は(割と駅を降りてすぐのところにある)相模運輸倉庫F号倉庫。近辺の倉庫の中でも一番の古株らしく、1917年(大正6年)建造。横須賀市のサイトでも、これ一棟が特別に紹介されている。近辺の軍事遺構のガイドとして常々活用させてもらっている「東京湾要塞」の記事「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」によれば、元々は「第三水雷庫」であった由。普通にコンクリート建のように見えるが、レンガ造りの上からモルタルを被せているらしい。

2枚目の写真は、F号からひとつ置いて隣、相模運輸倉庫K号倉庫。1928年(昭和3年)。旧・光学兵器倉庫だそうだ(「東京湾要塞」による)。

3枚目はだいぶ比与宇隧道に近付いて、相模運輸倉庫の本社事務所の隣にある、巨大なトタン葺き倉庫。同社の5号倉庫。大きさとサビっぷりに感心して撮ってきたのだが、これは1940年(昭和15年)建造。このあたりは第二海軍航空廠横須賀補給工場の倉庫群で、この現・5号倉庫も、発動機倉庫であったらしい。

Img20230311145510 ●上の5号倉庫脇を過ぎてすぐ、道路脇に珍しい線路の平面交差が2つ隣り合っている。このあたりの海軍の倉庫群を細かく連絡していた引込線のもの。その昔、タモリ倶楽部でも比与宇隧道とセットで紹介されたとか。

写真は駅方面から歩いてきて、比与宇隧道方向を向いて撮ったもの。写真にも遠くにちらりと、比与宇隧道の入り口が写っている。

線路それ自体はまったくの廃線で、道路方向にはまだ多少前後が続いているものの、道路を横切るほうは交差のすぐ脇でぶっつり途切れている。

2連の平面交差をもっと寄って撮ったのが下写真。1、2枚目が上写真の手前の交差、3、4枚目が奥の交差。レールの継ぎ方がなぜかそれぞれで異なっている。

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レールはほとんど直角に交わっていて、ギャップはそれなりに広いから、通過の際にはかなりガタゴトいっただろうなあ……。

●そして今回の訪問のメインの目的地である比与宇隧道。

手元にある「横須賀トンネルマップ」の掲載写真がいささか古く、いかにもトンネル直前まで引込線が残っているように撮られているのだが、現状ではかなり手前で線路は消失していて、すでに「普通の(ちょっと狭めの)二車線道路トンネル」にしか見えず、いささか拍子抜け。

トンネルは田浦港町(田浦駅側)と長浦(横須賀側)を結んでいて、冒頭書いたように、かつては線路と車道が並行し、トンネル内部で荷物の積み下ろしをするようになっていたらしい。というだけでなく、トンネルの南面(田浦側から入って右側)にはそのまま大規模な地下倉庫(地下陣地)が広がっていて、現在でも塞がれた洞口が4つ確認できる。この地下壕に関しても、「東京湾要塞」に見取り図付きの記事がある。

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●今回紹介の一帯の、終戦直後の米軍による空撮写真が以下。国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」、「USA-M46-A-7-2-77(1946年2月15日撮影)」から切り出し加工。

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丸数字を振ったのが最初に紹介した倉庫で、①がF号、②がK号、③が5号。今回はこの3つの倉庫の写真しか撮っていないが、周囲の倉庫群も、この頃から今までそれほど大きくは変化していない。

アルファベットは、Aが田浦駅。Bが引込線の平面交差地点。Cが比与宇隧道の田浦側入り口。この写真でも判るように、田浦駅から七釜トンネルを抜けて分岐した引込線は、平面交差(上の現状写真では横方向の線路)を通って第二海軍航空廠倉庫群の区画に入る。

平面交差のやや手前から右への分岐があったようで、これは比与宇隧道に向かう。その引込線は、比与宇隧道隧道内でスイッチバックする形で、今度は平面交差を東西方向(上の現状写真では道路沿いの縦方向の線路)で横切り、横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群に連絡していたらしい。

なお、Dで示したのは、おいそれと入れる場所ではないが、田浦駅のすぐ横にある小高い丘に現在でも残っている巨大な丸い窪地。ネット上では高角砲陣地の砲座跡ではないか等と紹介されていることもあるが、中心に謎のコンクリート柱があり、普通に対空砲が据え付けられる状態ではない。「東京湾要塞」の「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」ページでは、地下貯油タンクではないかと書かれている。

この付近に「城の台(しろんだ)砲台」と呼ばれる対空陣地があったとの話もあるが、これはこの「謎窪地」よりももうちょっと南にあったようだ。そこに向けての旧・砲台道と思われる道が、勾配を緩くするためにループさせた「のの字坂/のの字橋」と呼ばれる場所も附近にあり、今回は見られなかったが、そのうち訪問してみたい。F号倉庫同様、市のサイトに紹介ページ有り。

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