軍事遺構

改めて披露山(後編)

●軍事遺構としての披露山公園の観察記オマケ。

長くなったので、前編に貼った終戦直後および現状(2014年)の航空写真比較を再掲しておく。繰り返しになるが、写真は国土地理院地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。終戦直後のものは1946年2月に米軍が撮影したUSA-M46-A-7-2-84、現況は上写真と同じCKT20141-C5-8より切り出し・加工。

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披露山公園山頂広場は写真のように南北に細長いが、3つの高角砲台跡(⑤花壇、⑥展望台、⑦猿舎)がほぼ同一レベルにあるのに対し、猿舎より南の海側は、1段低くなっている(1~2m程度?)。

●公園南端から、逗子湾側を見下ろす(下左写真)。

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逗子湾との間にまだ山並みが少々続いているため、こちらも鎌倉側同様、湾奥(逗子海岸)は見えず、わずかに湾口と、その向こうの葉山の海が見える程度。やはり海岸線防衛用途は考えていないようだ。

右写真。南端近くにはベンチと、元は藤棚かバラ棚かだったのだろうが、現在はワクだけになった展望スポットがある(⑨)。写真左端に見えているのは猿舎。写真中央に写っている木立の位置には、終戦直後の写真を見ると、何か小さな建物があるのが判る。監視所分室のようなもの、あるいは兵員の詰め所か。

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その場所には、現在、水道施設の小さな建物がある。建物自体は古いものではなさそうだが、一段掘り下げてコンクリートで作ってある土台部分は高角砲陣地時代のもののように見える。

●山頂広場から西側への遊歩道を降り、披露山庭園住宅を挟んで向かい側には、大崎公園がある。披露山山頂よりは一段低い場所にある。

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この表示を見ると、披露山公園の山頂広場より15mちょっと低い。下写真2枚は、大崎公園から見た披露山山頂を見上げたもの。

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左写真中央に披露山公園展望台、右写真中央に山頂広場突端のベンチ周りの「ワク」が見える。

披露山山頂より低いとはいえ、こちらのほうが海に突き出した岬の真上にあるので見晴らしはよく、逗子湾も一応砂浜が(全部ではないが)確認できる。

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ちなみに、大崎公園突端あたりは昔は「よばわりやま」と呼ばれたそうで、岬の上から魚の接近を見張って大声で知らせたのだという。逗子市教育委員会発行の「逗子市内の地名調査報告書」(1998年)には、

昔は「ヨバワリヤマ」から知らせが来ると、かじきまぐろなどを突きん棒でよく獲ったものです。

という回想が載っている。

このサイトによれば、この大崎公園の場所にも、披露山山頂の高角砲陣地と関連して、聴測所等があったらしい。もっとも、披露山山頂ほどの旧軍事施設らしい痕跡は見当たらない。

よくよく探すと、当時のものであるらしい、何かの機器か機銃の台座の可能性もあるコンクリートの小構造物(の残骸)があるそうなのだが、今回は(そこまで本気で探さなかったので)見つけられなかった。

●なお、この大崎公園西側(小坪漁港側)の崖下には、大戦中のものかと思われる壕がいくつか開口している。写真は何年か前に撮ったもの。

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最後の写真に見るように、これらの壕は奥でつながっているらしい(オオゲジ等がワサワサいそうな気がするので入ったことはない)。

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改めて披露山(中編)

●逗子市立披露山公園、元・小坪高角砲台レポートの続き。

ちなみに(前回書かなかったが)、この披露山山頂は現在の住所で言えば「逗子市新宿」であって「逗子市小坪」ではない。それがなぜ「小坪砲台」なのかと言えば、昭和18年まで新宿は小坪の一部(東小坪)であったため。

●入口から数えて2番目の砲台跡である展望台(前回現況航空写真の⑥)。

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ただし前述のように、小坪高角砲台には3基分の砲台跡があるものの、実際には12.7cm連装高角砲は2基しか配備されず、この展望塔になった場所には、探照灯か測距儀か、要するに高射砲の「周辺機器」が据えられていたらしい。

ちなみに小坪高角砲台は日米開戦前に建設されているが、なかなか砲は配備されず、一度決まった砲が軍艦に回されてしまったりして(もともと12.7cm連装高角砲は艦載用途なのでそちらが優先されたものか)、実際に配備されたのは1942年6月になってからだった由。その2カ月前にはドーリットルによる日本本土初空襲があったから、それを受けて慌てて配備したのかもしれない。

さて、展望台は中心の太い柱で支えられ、その柱の両側に螺旋階段を添わせた形状。展望台下の崖側はウッドデッキ(左写真で奥側)、反対側(階段入り口側、左写真で手前側)はコンクリートで地面と同レベルになっているが(階段手前はさらに一段高かったかも)、北側(左写真で右側)一部だけは一段窪んでいる。この窪みの外周が、猿舎と相似の傾斜面になっているのは、hnさんの記事を読んで改めて気付かされた部分。

展望台階段脇には(東日本大震災後にあちこちに掲示されるようになった)標高掲示があり、この地点(おおよそ山頂広場全体)が92.5mの高さであることが判る。

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展望台に上らずとも、この展望台下の崖際は披露山山頂広場の中でも見晴らしのいいポイントのひとつ。暑い日の午後、もやっているうえに逆光なのでこんな感じだが、時刻や天候、季節によっては、正面の江の島の向こうに富士山が綺麗に見える。

もっとも砲台の立地として考えると、手前の(現在の披露山庭園住宅の)高台に遮られて小坪湾は見えず、右手中景に出っ張った飯島崎のために鎌倉湾も見えない(さらにその向こうは稲村ケ崎)。もともと12.7cm連装高角砲(四十口径八九式十二糎七高角砲)は対空・対艦両方に使える両用砲として作られたものだそうだが、仮に山頂西端にあるこの場所に砲が据えられていたとしても、こちら側の海からの侵攻への対処は考慮されていなさそうだ(そもそもほとんど俯角が取れないすり鉢砲座になっている時点でそうだとは思うが)。

ちなみに飯島崎の崖面には、まさに対艦の防衛用として、洞窟型の「西小坪海面砲台」が作られていた。この洞窟砲台では、終戦後、地元の子供たちが入り込んで遊んでいる際に未回収の弾薬が爆発、14人が死亡、23人が負傷する事故が起きている。これについては以前にも記事にしている。

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上2枚は展望デッキの写真。

砲台とは関係ない話だが、デッキ外周の壁が外側に向かって広がる形に傾いているためなのか(加えて、天井が中心に向かってわずかに下がっていることも関係しているかもしれない)、この展望デッキは、「常に自分がいる場所が一番高く、反対側に向けて床が低くなっているように感じる」という、非常に不思議な感覚というか、ある種のだまし絵的不安感を抱かせるものとなっている(最初は、「あれ? この展望台、もしかしたら傾いてる?」と思った)。写真ではうまく伝わらないだろうし、もしかしたら、たまたま私がそう感じただけなのかもしれないが。

もちろん、展望デッキに上がって、遠くの景色を眺めて「うわー綺麗だねー」と言ってすぐ降りてしまえば気付かないままだと思う(それが本来の用途ではあるが)。もし披露山公園においでになる機会があったら、展望台に上って景色とは逆に柱側を向いて確認してみて欲しい。

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花壇および猿舎は、直径12mの「コンクリートのすり鉢」の外側はそのまま地面だが、この展望台だけはさらに1m幅くらいにコンクリートが打ってある。よく見ると、コンクリート表面に点々と穴を補修した跡があり、すわ、機銃掃射の跡か!?と思ったのだが、よくよく形を見ると、どうも犬の足跡のようだ(あるいはもしかしたらタヌキ?)。コンクリートが固まる前に迷い込んだものか。

展望台から落ちる雨水などで周囲がぬかるまないようにとか、そんなような理由で展望台建設時、あるいはその後に追加で打設されたものではと思う。

●3つめの砲台跡である猿舎(前回現況航空写真の⑦)。……ようやく!

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先述のように、コンクリートで作られたすり鉢状の構築物は、ほぼ当時のまま。その上に、ドーム状の金網と、金網から1mほど?離れて柵が設けられている。

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猿舎内は2m程度すり鉢状に掘り下げられており、斜めになった周囲の壁面には弾薬の仮置き場か、四角い壁龕が並んでいる。

これまではボンヤリと「要するにこういう形に作った猿舎なんだな」という先入観で見ていただけだが、実際、他の場所の遺構の写真と比較しても当時の高射砲陣地の形状をほぼそのまま残しており、猿舎内も、目立つ変更点は南西側に作られた猿山と中央の水飲み場、さらにその中央の檻の支持柱程度。

自分の立っている側の壁面は見えないので(しかも猿舎の間近に立っていると、この暑い季節、結構匂いがきついので)念を入れて数えてはいないのだが、壁龕の数はおそらく8つ。ただし、8つの壁龕は45°の等間隔ではなく、階段とその隣の四角い小檻のある部分の左右の壁龕は離れていて、その分、他の壁龕間の間隔は45°より狭くなっているようだ。上写真でも、よく見ると一つ置いた壁龕間の角度は直角には足りていないように見える。

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この小檻の中の構造に関しては、たまたま猿の飼育員さんがいて聞くことができた。檻の奥は壁龕よりもずっと大きな空間(地下室)になっており、「外に出ている檻の2倍くらい奥行きがある」由。猿舎としてわざわざ小檻を作った理由は聞き忘れたが、小檻の扉は通常は開放してあり、暑い日には猿が地下室に入って涼んでいることも多いそうだ。

砲台当時の用途は、警戒態勢時の兵員の詰め所、もしくは銃爆撃の際の避難所かと思うが、私にはよく判らない。

なお、「すり鉢」周辺は基本は土の地面だが、この小檻(地下室)の入り口付近の上だけは若干コンクリートが露出している。hnさんがレポート前編で引用しているほぼ同形の砲台の戦時中の写真(山口県大津島高角砲台のもの?)では、この「控室」は天井がないので、ここも戦後に天井を被せて地下室化した可能性はあるかもしれない。

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猿舎内に降りる階段。階段そのものは砲台時代のままのようだが、扉は階段の約半分の幅しかない。猿舎を囲む金網の下にはコンクリートの脚(土台)があるが、これはすり鉢状の砲台の構築物の上に、金網を被せる際に継ぎ足して作ったものと思われる。このコンクリートの脚は、階段部分も(扉の直下を除いて)コの字に囲んでいる。

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中央の現・水飲み場が、もともと高射砲の砲架が据えられていたところで、元は前回冒頭に貼った猿島の台座跡のように砲据え付け用のボルト列があったのではないかと思われる。

hnさんは「底の部分にコンクリートが全面に敷かれてるのは、戦前にはなかった仕様。」と書かれているが、ここ以外の同形式の高角砲陣地遺構の例を見ても、ある程度広い面積でコンクリート床になっていたのではと思われる。右写真には、水飲み場の外側に何かを取り外したような、鉄製の輪が埋まっているのが確認できる。砲台時代からのものである可能性があるが、正体は不明。

●付け足しのあれこれをあともう一回続ける予定。

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改めて披露山(前編)

●逗子市西北端に近い披露山の山頂一帯は市営の披露山公園として整備・公開されているが、ここはかつて海軍の高角砲陣地であり、円形の花壇・展望台・サルの檻は高角砲の台座を流用している。

――という話は以前から何度かここで話題にしているのだが、これに関し、hnさんがブログで面白い探訪・考察記事を上げていて、改めて興味をかきたてられたので、8日土曜日、散歩がてら出掛けてみた。

●そもそも「高角砲(高射砲)の台座を流用」といったところで、花壇・展望台・猿舎に作り替えるために掘り返してしまい、当時の名残りというのはせいぜい「円形であること」程度なのではないか……と、ずっとボンヤリ思っていた。

要するに、元の状態として、横須賀・猿島の高角砲台座のような状態を思い浮かべていたのである(下写真)。ちなみに、終戦直後に書かれた横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」によれば、据えられた火砲は披露山(小坪砲台)も猿島も同じ12.7cm連装高角砲(正式な名称は四十口径八九式十二糎七高角砲)であったらしい。なお、猿島要塞探訪記についてはこちら

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しかしhnさんの記事によれば、特に猿舎は、ほとんど当時の高角砲陣地の原型をとどめているのだという。

猿舎はすり鉢状に2m近く窪んでいて、コンクリートの壁面には8カ所?の壁龕があるが、これは弾薬仮置場ではとのこと。hnさんが紹介しているこちらのサイトでは、山口県にある高角砲台跡(および当時の写真)が載っており、確かに披露山公園の猿舎内と瓜二つ。

これに関しては私が繰り返すよりも、hnさんの考察記事を読んでいただく方が早い。

披露山公園、あるいは小坪防空高角砲台(前編)
披露山公園、あるいは小坪防空高角砲台(後編)

実際にどのような感じに砲が据えられていたのか、hnさんは簡単に図面も起こされていて、これも判りやすい。

改めてウェブ上で披露山の高角砲陣地について検索すると、猿舎がほぼ砲台の原型を保っていることについて言及しているところもいくつかあり、私がそれらを読み飛ばしていただけだった。迂闊。

●そんなわけで、改めて撮ってきた写真を中心にあれこれ。その前におさらい。

以下は逗子市西北部の航空写真(国土地理院地理空間情報ライブラリーの「地図・空中写真閲覧サービス」、2014年9月撮影のCKT20141-C5-8より切り出し・加工)。

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中央やや右の黄色矢印が披露山公園、中央下のオレンジが大崎公園(後述)、左端上のピンク矢印が西小坪海面砲台跡。

その他の大まかな説明をしておくと、右下の砂浜が逗子海岸。中央の小判型の住宅地が、逗子のビバリーヒルズ的高級住宅地である披露山庭園住宅。他と比べて1軒ごとの建物のスケール感がちょっとおかしい。大崎公園左上が小坪漁港で、その隣の埋め立て地が逗子マリーナ。写真左上端にある岩礁のようなものが、鎌倉時代に船着場として作られた和賀江島

下は、披露山山頂付近のみを切り出し拡大、終戦直後の状態と現在を比較してみたもの。写真は同じく国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」からで、終戦直後のものは1946年2月に米軍が撮影したUSA-M46-A-7-2-84、現況は上写真と同じCKT20141-C5-8より切り出し・加工。

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前述のように、高射砲の台座は3基分作られたのだが、実際の砲は2基しか配備されず、現在展望台になっている場所には測距儀か何かが据えられていたらしい。実際、上写真でも、真ん中のマルは上下とちょっと違って写っており、いくぶん窪みが浅いようにも見える。

●山頂の北東側、一段低くなった平場は、現在駐車場として利用されている(上写真①)。終戦直後の写真に写っているように、この場所には、もともと兵舎と思しき大き目の建物があったらしい。

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駐車場の東側突き当りからは細い山道があり、その先には憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄(咢堂)の旧宅「風雲閣」跡がある(その向かい側は三文文士の元東京都知事邸だ)。これを記念して、駐車場中ほど北側には、尾崎行雄の記念碑が立っている。

駐車場の南側からも浪子不動(高養寺)に降りる山道があり、ハイキングコースの案内板が立っている。駐車場からこの道筋を少し降りたあたりに数カ所、コンクリートブロックでふさがれた横穴がある(上写真②のあたり)。高射砲陣地用の弾薬庫だったのではと思われるが詳細は不明。この2枚の写真は1年半ほど前に撮ったもの。

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駐車場から山頂広場に向けてゆるいスロープになっており、その中途にもコンクリートでふさがれた横穴跡のようなものがある(上写真③)。

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これも弾薬庫だったのか、それともこの上にも監視所・指揮所関連の建物があったようなので、その地下室と連絡していたのか。

スロープを登った右手には現在レストハウスがある(上写真④)が、これは監視所跡であった由。上の建物は新しいが、スロープ側に入口がある半地下はコンクリートの頑丈そうなもので、おそらく当時まま流用されているのではと思われる。

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●スロープ上から山頂広場を望む。手前に花壇、中央奥に展望塔、左手奥にちょっと隠れて猿舎が写っている。

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まずは花壇(上写真⑤)。二重の縁石に囲まれていて、その間は細いドーナツ状の池になっている。こんなにせせこましい池なのに(公園案内板によれば、3つの高射砲台座跡はすべて直径12mだそうだ)ザリガニが繁殖していて、子供たちのザリガニ釣り場になっている。ちなみにここのザリガニは結構スレていて、エサのさきいかを挟むまでは行くのだが、釣り上げようとするとするとすぐに離してしまうため、小さな網を持って行かないとなかなか捕まえられない。

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閑話休題。流石にこの花壇こそ原型との共通点は丸いことくらいしかないんじゃないか、と思ったのだが、hnさんによれば、他の2つ同様、もともとのすり鉢状のコンクリートの構造物はそのまま残っているらしい。どのように改造されたかの詳しい推察はhnさんの記事に譲るが、hnさんが実際に池に手を突っ込んで確認したところ(偉い!)、池の外周の壁面は垂直でなく、内側に向けて斜めになっていたという。外周は砲台そのままで、単にその上に縁石を載せてあるらしい。

長くなったので続きはまた改めて。

●「RWBY」のテレビ放映が始まったのだが、なんと大幅に中身が端折られていた。なにこれ。DVDプロモ用の撒き餌か何か? 吹き替え版で話が分かりやすいので続けて観たいとは思うけれど、かなりガッカリ。

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やまなみルート

●17日土曜日。2か月前にも歩いたばかりだが、池子弾薬庫跡地の北辺の尾根を辿る「やまなみルート」を再び歩く。

出発点は久木大池。東岸から階段状になった急斜面を登る。はっきり言って、全行程中でここが一番きつい。逗子・鎌倉近辺の尾根上のハイキングコースはたいていそうだが、登ってしまえばあとはそれほど起伏は多くない。

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時季的にヤマユリが咲いているだろうと思ったのだが、尾根上に上ってしばらくは見当たらず。期待外れかと思いかけたが、そのうち、こんな場所が。なんとも豪華。そういえば昔は、披露山入口バス停付近の急斜面の上でこれでもかというくらいヤマユリが咲いていた記憶があるのだが、今ではすっかりコンクリートで塗り込められてしまった。

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前回は十二所果樹園で朝夷奈切通の鎌倉側入口へ降りたが、今回はその先へ。下はヤマユリ同様にこの時期が旬のオカトラノオ(左)と、十二所果樹園奥で見つけた面白い色模様の葉(右)。

このような種類の植物なのかとも思ったが、実際には、葉脈黄化ウイルスに侵されたヒヨドリバナ、であるらしい。それなりにしばしば見られるもので、「キモンヒヨドリバナ」の別称で呼ばれることもあるとか。この模様のヒヨドリバナの葉についての記述は万葉集にもあるのだそうで、植物のウイルス病害について記された世界最古の例だそうだ。

その記述とは孝謙天皇の歌で、行幸の際に色づいた「さはあららぎ」を見て、これを摘み詠んだものとされ、その「さはあららぎ」はヒヨドリバナ属を指すのであるとか。

この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は もみちたりけり

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当初は、切通の金沢側入口脇の熊野神社へ降りるつもりでいたのだが、手前で分岐があり、もっと先まで尾根を辿れることが判明。さらに三信住宅へ降りる分岐も越えて歩く。大池から十二所果樹園までの間には、軍事遺構的なものとしては、前回写真を載せたコンクリート壁があるが、果樹園を超えて六浦方面への尾根道の途中でこんなものを見つけた。

左は池子弾薬庫跡地境界の鉄線柵の向こうに、唐突に立っているコンクリート門柱の残骸。門柱左右には塀などは残っていない。それにしても、何もない山の尾根上に、何の用事でこんな「裏口」が構えられていたのかどうにも謎。

右は正体不明の標石。文字も風化して不鮮明だが、「軍校」もしくは「重校」と読めなくもない。

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ネットで調べてたどり着いたこのブログでは「重校」であるとし、横須賀にあった陸軍重砲兵学校(うちの親父の母校!?)関連のものではないかと推察している。実際、横須賀・大津にあったという重砲兵学校校長邸跡に、よく似た「重校」と書かれた標石が立っているそうだ。

さらに六浦方面に歩くと、海軍標石があった。私が確認できたのは3基(と、もしかしたら海軍標石であったかもしれない破損した根元だけのもの)。十二所側から六浦側への順番で写真を並べておく。

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水道路沿いの海軍標石とは違うのはもちろん、同じ池子弾薬庫跡地外周でも、逗子市山の根の裏山尾根の標石とも字体・作りが少々異なっている。

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名越送水管路ずい道

●数日前、歩いて鎌倉駅前に出る途中、名越隧道脇の、ふだん鎖を張られているゴミ収集車駐車場が開いていたので、その奥の送水管路隧道入口の写真を間近で撮らせてもらった。

この送水管隧道についても、水道路(すいどうみち)についてもこれまでに何度も取り上げているが、基本的なところだけ繰り返すと、この隧道は、はるか中津川から横須賀まで引かれた軍港水道半原系(大正7年完成)のために作られたもの。軍港水道は戦後横須賀市に移管されたので、鎌倉市(反対側出口は逗子市)にあっても横須賀市の管轄下。

半原系水道は2007年に取水中止、2015年に廃止になっているが、この地点では鎌倉市内で合流した有馬系水道が並走しているため、この隧道は現役のはず。

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レンガは1段ごとに長手のみ・小口のみとしたイギリス積み。猿島で見られたフランス積み(フランドル積み)が明治前半によく見られるのに対し、こちらはそれ以降に一般化したもの。

最後の写真は入口の格子の隙間から撮ったもので、遠くに逗子側出口が見える。少なくともトンネル入り口付近は内壁もレンガ積みのまま保存されているのが判る。水道管は1本だけで、有馬系のものだろうか?

下は逗子・久木側。2015年5月に撮って当ブログにも載せたもので再掲。こちらはかなり手前からフェンスで仕切られて立ち入り禁止になっており、しかも夏季は両側の藪も茂るのでなかなか見づらい。

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●オマケ。久木川に架かる橋近くの、同水道の空気弁マンホール。ともに横須賀市の名と市章入りだが形が違う。鎌倉の海岸橋近くや、逗子の沼間あたりだと海軍の錨マーク入りの点検蓋もある。

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東京湾要塞

●先日、披露山庭園住宅入口の庚申塔の話をしたが、同様に、ポケモンgoの「ポケストップ」に選定されている、なかなかマニアックな小ランドマークについて。

横須賀線に乗っていて、北鎌倉駅で、何気なくポケストップの表示を開いてみると、「東京湾要塞第二区地帯標」なる石柱が出てきた。

そんなわけで、数日前、散歩の足を延ばして亀が谷坂を越えて北鎌倉まで歩いてみた。目当ての石柱はまさに駅の目と鼻の先。駅前の信号を渡った向かいにある。

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花崗岩製の四角柱で、上端はごく浅いピラミッド型。

正面:東京湾要塞第二区地帯標
右面:第四五号
左面:昭和十六年七月二十日建設
裏面:海軍省

「東京湾要塞第*区」というのは、おそらくセキュリティ上のランク設定のための区域指定で、実際の(東京湾防衛のための)要塞設備からの距離により、第一区~第三区まで設定されたらしい。水道路の標石ほかでさんざん参考にさせていただいた「東京湾要塞」のサイトに詳しい。要塞地帯標そのもののページはこちら。それによれば、「第二区」は(昭和15年の最終改訂で)防衛設備から5000m以内だそうだ。ちなみに、北鎌倉駅前から横須賀方面に線を伸ばすと、軍港ではなく、池子弾薬庫跡地あたりでちょうど5kmとなる。もちろん、この標石の位置が動いていないとした場合だが。

改めて前記のページを見て思い出したのだが、しばらく前に、みやまえさんが同じシリーズの標石の写真を、御自分のところの掲示板にアップしていたのだった。teacupの掲示板のURLの振り方がどういうシステムになっているか判らないが、とりあえず現時点ではここ)。

みやまえさんの写真の標石は先のページで言うと7番で、横須賀市武にあるもの。半分埋まっているので見えないが、おそらく「第一区」、しかもおそらく続き番号で建てられている標石の「第一号」。そのうち見に行きたいような気も。

●先のページによれば、もっとご近所にもう一本「東京湾要塞第*区」の標石がある。その脇を普段から比較的よく通るにも関わらず気が付かなかった。というわけで、そちらも改めて訪ねてみた。

場所は、鎌倉・材木座のぎりぎり小坪寄り。光明寺前の道が、逗子マリーナ方面(小坪海岸トンネル)、姥子台方面に分岐する三角地の角の先にある。

植え込みの中にあるうえ、半ば埋まっていて、これはさすがに傍を通っても気付かないわけだが、実際に探し当てても、表面の文字は読み取りづらい。そもそも民家の敷地内にあるので根元を掻き分けるわけにも(増してや掘るわけにも)いかない。

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先の「東京湾要塞地帯標」のページでは、北鎌倉駅前の標石と仕様が似ていることから、同じく昭和十六年七月二十日建設、区域指定も「東京湾要塞第二区地帯標」であろうと推定している。

ちなみにこの地点から5kmとなると、池子弾薬庫はすっかり通り越してしまう。横須賀軍港方面だと、沼間五霊神社あたりというひどく中途半端な位置。三浦半島東岸沿いに引っ張ると、ちょうど葉山御用邸が5km地点となる。謎。

●春の散歩の植物あれこれ。

アケビが芽吹き始め、花も咲き始めた。芽が食べ頃になるくらい伸びるのは、半月先くらいだろうか。

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モミジイチゴ(9日、名越切通)、ショカツサイ(9日、鎌倉大町)、ヒメウズ(11日、大切岸)、イワタバコの芽生え(11日、大切岸)。イワタバコの芽は縮緬のよう。

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つくし(9日、鎌倉扇が谷)、まだ開きかけのキブシの花(11日、大切岸)。キブシの花はおひたし・天ぷらなどで食べられると、とあるサイトに書いてあった。誰か食べたことがあるひといる?

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つい先日、「日本のタンポポとセイヨウタンポポ」(小川潔著)という本を読んで、改めてタンポポに注目中(というより、興味があったからこそ本を読んだのだが)。というわけで身近なタンポポ。

最初は近所のシロバナタンポポ。

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大切岸のタンポポ群。総苞外片の形状を見る限りでは在来種のカントウタンポポのようだが、交雑種も増えているそうなので「カントウタンポポの形質が濃い」くらいしか言えない。

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近所の野原で見たタンポポ。総苞外片の形状からはカントウタンポポっぽいが、花弁が黄色に白のメッシュ入りになっている。カントウタンポポとシロバナタンポポの交雑種の可能性はあるのか? 環境省「いきものログ」の種名調べ支援で問い合わせ中。

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猿島

●三浦半島の付け根に暮らして20年以上になるのだが、比較的「ご近所」であるにもかかわらず、これまで行ったことがなかった横須賀の猿島に初めて行く。

「横須賀市民割2017」として、猿島航路や記念館「三笠」入館料などが、今月一杯割引になっていたため。名称は「横須賀市民割」だが、横須賀市民だけでなく(逗子を含む)近隣市町民、横須賀市の国内友好都市住民も対象。

猿島は三笠公園から船で10分と、目と鼻の先に浮かぶ小島だが、東京湾内の自然島としては最大である由。明治時代から、東京湾および軍港横須賀の防衛のため要塞化され、その軍事遺構が多く残る。

同行はかみさんとちび。かみさんは子供が小さかった頃に来たことがあり、その頃は猿島側船着き場近くのレストハウスもなく、弾薬庫も勝手に入れたようだ。ちなみに今回は案内ツアーに参加したので、弾薬庫の一つに入ることができた。

●猿島内の写真あれこれ。

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レストハウス近くの小さな建物。何やら使用中の機械設備が入っていて、屋根もトタンなのでぱっと見で判断に困るが、実際には明治時代に建てられた探照灯用の発電棟だそうだ。

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島のほぼ中央を横切る切通しと、そこに設けられた弾薬庫。もともとは明治時代、東京湾防衛用に設置された要塞砲用に作られたもので、古い時代を示すフランス積み(表面が長短長短になる)のレンガが特色(写真3枚目)。弾薬庫は砲台の直下に設けられていて、弾薬庫内に入ると、部屋の角に揚弾用の縦穴がある(写真4枚目)。

なにしろ明治時代の設備なので、弾薬庫内の照明はランタンだったそうだが、火薬に引火することを防ぐため、弾薬庫のすぐ脇に別に細いトンネルを掘り、弾薬庫との間に嵌め殺しのガラス窓を設けて、その外側にランタンを置いたとのこと。写真5枚目はそのランタン室の入口(右側にわずかに見えているのが本来の弾薬庫入口)。

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切通しを北に歩くと、やはりフランス積みレンガの長いトンネルがある。トンネル好きとしては惚れ惚れとしてしまう綺麗なトンネルで、アーチ部分のエッジが妙にシャープだが、これはオリジナルの状態なのか、修復されているのかは知らない。出口側は下り坂になっている。

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島の北側には、割合狭い間隔で、第二次大戦前に設置された海軍の高角砲台座が並んでいる(写真1、2枚目)。逗子の披露山公園の猿山・展望台・花壇も、もとはこんな状態だったのだろうと思う。2枚目はコンクリート製台座中央の、砲を固定していたらしいボルト。

3枚目は島中央部上の、明治時代の要塞砲の砲台跡。周りの放射状の横穴は揚弾された弾薬を収めるのだろうか? 向こう側の大きな穴の用途は?

このサイトの解説によれば、島中央部の第二砲台に設置されたのは二十四糎加農砲(4門)、北部の第一砲台に設置されたのは二十七糎加農砲(2門)であったらしい。この写真は前者。

●やはり「横須賀市民割2017」の対象だったので、久しぶりに三笠にも入った。

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1枚目:海側から見た三笠(猿島からの帰りの船から撮影)。

2枚目:さかみ。

3,4枚目:副砲ケースメート内側。砲操作員はそのまま砲郭内が寝室でもあった由。

5枚目:艦首左舷の錨。オリジナルかどうかは不明。

6枚目:艦橋、操舵室。

7枚目:鎮遠の主砲弾。

8枚目:ごく一部だけ残っている、オリジナルのチーク材甲板。

9枚目:日本海海戦戦利品のロシア海軍旗と、水兵の帽子の艦名リボン(海防戦艦アドミラル・セニャーヴィン)。

●その他の横須賀ネタ。ヴェルニー公園での写真2枚。

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1枚目:以前、船の科学館にあったという戦艦陸奥の主砲がヴェルニー公園に移設されている。現在はまだ周囲が囲われていて公開に向け整備工事中。

2枚目:公園向かいの海自潜水艦基地に泊まるそうりゅう型。写真では判りづらいが、2隻サイド・バイ・サイドでぴったり並んでいる。艦尾から激しく潮吹き中。wikipediaによれば、横須賀にいるそうりゅう型は第二潜水隊群の「ずいりゅう」「こくりゅう」だが……まあ、ぱっと見の区別なんて無理ですな。

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続・逗子の丸ポスト

●ほとぼり(何の?)が冷めないうちに、ということで、数日前に続き、逗子市内に4基残る丸ポストの残り1つを訪ねた。

この1基は池子のちょっと山の上、東逗子団地管理組合事務所前にある。ちょうど「池子の森自然公園」の週末の公開日にあたっており、久木側から公園を抜けて池子へ。理科ハウスの先から坂を上って団地に入り、ちょっと行くと、向こうに鮮やかな朱色が見えてくる。

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背後の製造者銘は土に埋まっていて見えない。

F1015336 ●丸ポストの近くの自販機で買ったUCCコーヒーがヱヴァ箱根缶だった。

もうずいぶん前から時々これを見るのだが、そんなに大量に生産しているんだろうか。神奈川限定で生産し続けている? 朝比奈のbookoff店舗内といい、今回の自販機といい、常にディスカウント価格(100円)なのも謎。いやまあ、もしかしたらどこでもUCCミルクコーヒーは100円なのかもしれないけれど。

あ、2年前に朝比奈で買ったのと同じ絵柄だ。

F1015402 ●前述のように池子には、「池子の森自然公園」(かつての池子弾薬庫跡地、現在の米軍管理地)を抜けていったのだが、広場の脇にクルミ(オニグルミ)が実を付けていた。食べてみたい!……でも自然公園内は動植物の採集は禁止。うう。

前回(初めて)訪れた際の記事にも書いたが、公園内は、もともと枝分かれした小谷戸のそれぞれに弾薬倉庫があったらしく、輸送用の引き込み線の跡が何カ所かで確認できる。

久木側と池子側を結ぶトンネル(New Hisagi Tunnel)の久木側すぐの脇道には、前回紹介したよりもはっきりレールが地表に出ていて、しかも、そのレールがまた分岐しているところも残っていた。

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4枚目はNew Hisagi Tunnelから見た池子側の空。丸く切り取られた空がいかにも夏っぽく青かったので。

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逗子駅から鎌倉側、名越送水管トンネルまでの海軍標石は、現存するものは池田通り交差点付近の2基と、久木新道~法性寺バス停間の1基のみで、前者の近くにあったほか2つの痕跡はもうまったくなくなってしまったものと思っていたのだが、三上金物店の隣に1つ、ほぼ間違いないと思われるアタマ(もしくは断面)が1つ残っていた。

白黒の模様の特徴から、ここで紹介されている3番の写真と同じものと思われるが、地図上の場所は3と4が入れ替わっているかも(現在は駐車場になっている、元日通前に痕跡が一つあったのが判っているので)。

●逗子のポスト4カ所を回り終わったので、次は葉山? ポストマップによれば、葉山には丸ポストが9カ所現存しているようだ。以前、県立近代美術館の葉山分館に行った際に2カ所見ている(1カ所はバスの窓からだったので撮影していない)。

あるいは逗子市内の庚申塔巡りなんてのも面白いかもしれない、と思ったが、これはそもそもいくつあるのかもよく判らない。しかし、どんな世界にも先達というのはおられるもので、検索したらこんなサイトに行き当たった。偉大なり。

名越切通入口(久木新道)の庚申塚など私の知っている範囲でもリストに入っていないものもあるので、探せば市内で30カ所くらいにはなるのかもしれない。

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逗子の丸ポスト

●最近ほとんど歩いていないうえ、梅雨入りのお陰でますます運動不足になりそう。というわけで、仕事の谷間と梅雨の晴れ間が重なっているのをいいことに散歩に出掛ける。

いつもなら当然山歩きが主体になるところだが、ふと気が向いて、逗子の丸ポストを訪ね歩いてみることにする。

●お隣の鎌倉は現在でも30もの丸ポストが現役で、これはおそらく自治体単位では小平市と並ぶ日本トップタイなのだが、それに比べて逗子市は寂しいもので、丸ポストは4基しかない。

ポストマップで確認すると、どれも我が家からは市の反対方向で結構遠く、そのためこれまで行ったことがなかった(1基か2基は前を通ったことくらいはあるかもしれないが、その頃はまだ丸ポストにそこまで入れあげていなかった)。

多少は幸いなことに、4基のうち3基は、ほぼ同一方向にある。そんなわけで、逗子の丸ポストの3/4を以下に。

▼逗子~東逗子間、水道路沿い。桜山1丁目2-21、寿し魚友横。こういうちょっと古めのお店の脇というのは、丸ポストが最も落ち着いて見えるポイントだと思う。

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▼東逗子駅先、県道24号線沿い。沼間3丁目2-1、長谷川たばこ店前。忍法木の葉隠れポスト。しばらく前までは横に自販機が並んでいたらしい。脇道を挟んで隣の一段高くなったところは、古木の下の庚申塔。

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▼横横道路逗子インター近く、県道から北にちょっと入った住宅地。沼間4丁目5-24。隠れんぼポスト。

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残る一基はちょっとルート的には外れていて、京急神武寺駅からちょっと上ったあたりの住宅地の中にある。

●上の3つのポストは、ほぼ、逗子駅~沼間の水道路沿いにある。水道路(すいどうみち)は、かつて海軍が軍港・横須賀の水需要のため、はるばる中津川から引いてきた軍港水道半原系(その後横須賀市に移管)の上に作られた道路で、鎌倉、逗子を横断して横須賀に続いている。

今までも逗子駅近辺から鎌倉側に関しては、当ブログでも何度も取り上げているのだが、沼間まで辿ったことはないので、ちょうどいい機会なので、旧沼間ポンプ場までの道筋上の海軍標石を拾える限り拾ってみた。

逗子駅ロータリー~下田橋

逗子駅に近い、比較的短い区間。ここは駅に近いのでこれまでにもよく行って見たことがあり、当ブログで最初に海軍標石と水道路の話題を出した時にも紹介済み。

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1枚目は駅前ロータリーから水道路に入って10メートルほど?の左側にあるもので、状態も非常によく、とりあえず「海軍標石ってこんなモノ」というのを見たい人にお勧め(そんな人がいるかどうかは別として)。

3、4枚目は辻に向かい合って残っているもので、以前書いたように、角にもう一つあったのだが、家を新築する際に撤去されて(削り取られて?)しまった。

下田橋下脇には青いカバーの掛かった水道管が走っているが、1本しか見当たらない。鎌倉材木座の「水道路」交差点よりこちら側は水道路のもとになった半原系と、その後で作られた有馬系が並行しているはずだが、半原系は2007年に取水停止、2015年には廃止になっている(横須賀市上下水道局)。1本しかないとなると、これは有馬系? それとも橋桁に隠れてもう一本ある?

下田橋~蓮沼橋

くねくね曲がる田越川は下田橋で水道路の北側に行き、蓮沼橋でまた南側になる(その後もまた交差するのだが)。水道路は、田越川と県道24号の間を、おおよそ逆への字に走る。海軍標石もぽつぽつあるが、それよりも、戦後になって立てられた「横須賀市水道局」標石がやたらにあり、場所によっては数メートル間隔で3つ4つ並んでいたり、道を挟んで向かい合っていたりする。

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以上は「逆への字」のおおよそ頂点くらいまで。1枚目は右側が水道路で、かなりの長距離をまっすぐに進む水道路の特徴が出ている。左側に顔を出しているのが、2枚目写真と同じ標石。

この区間の海軍標石は、頭の上に横須賀市水道局ほかの、金属の「境界」標識を埋め込まれる改造が施されているものがちらほらみられる(2,3,4枚目。5枚目写真は4枚目写真の標石のアタマ)。

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逆への字後半。距離はそこそこあるが、前半に比べ海軍標石はあまり見当たらない。1枚目はサイズから考えて「たぶん海軍標石じゃないかなあ」的なもの。2,3枚目は同じ標石で、頭に2つもタグが植えられている。

最後の写真は東逗子駅近く、ヨークマート脇の蓮沼橋を渡る水道管。太いほうが有馬系、細いほうが半原系ではないかと想像。向こう側に裏側だけ見える看板は、実際には両側に掛かっている横須賀市水道局の注意書き。

蓮沼橋~沼間ポンプ場跡

東逗子駅前後からしばらくは海軍標石は見当たらない……と思ったのだが、ここを見ると、駅前に一つある。なくなってしまったのかもしれないが、私が単に見落とした可能性もある。

しばらく行くと、水道路はまた田越川と交差し、すぐに県道24号と合流する。見当たらないと思っていた海軍標石だが、沼間会館前の、おそらく火の見櫓跡ではと思われるコンクリート製の台座の根元に1基、横倒しになって塗り込められていた。それからしばらく行くと、沼間コミュニティセンター(旧沼間公民館)に着く、センター下の細長い駐車場が、元のポンプ場跡地であるらしい。

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2枚目は沼間ポンプ場跡地、逗子側(上流側)の入口。5,6枚目は横横インター側(下流側)。両方とも、古い門跡が残っている。場内(現在は駐車場)の県道側には、西洋の城の狭間(ツィンネ)のような凹凸の付いた古い壁がある。もともと半原系水道は水源地から逸見の浄水場まで自然流下で水を通していたのだが、昭和6年、能力向上のためにこのポンプ場が設けられたのだそうだ。

最後の3枚の海軍標石は、上記壁の外側にあったもの。1枚目は逗子側端、3枚目は横横インター側端。これは前出の研究サイトでも取り上げられていない。ポンプ場跡のこの壁と県道の間は民家が並んでいるので、この3つ以外にも、民家の庭にぽつぽつと並んでいそう。自分の家の庭先に海軍標石。いいなあ(いいか?)。

この沼間ポンプ場跡地から県道(と田越川)を渡ってしばらく行くと逗子・横須賀市境の水道隧道があり、そこまでにもいくつか標石があるそうだ(というのを帰ってから確認した)。せっかくここまで来たのだから、足を延ばせばよかった。

●散歩の行き帰りの雑多なあれこれ。

F1015306 F1015305 我が家の前のアカメガシワには、この時季、しょわしょわした花が咲いてマルハナバチもよく来るのだが(右)、そんな中に、小さな、やたら丸っこいハチのようなヤツがいた。花から花へ、結構忙しなく飛ぶので、ハチ?アブ?などと思っていたのだが、どうもよく見るとハナムグリらしい。後で調べて、「ヒメトラハナムグリ」という種類らしいと判明した(左)。愛用しているポケット図鑑「日本の昆虫1400」には「数は少ない」とある。

F1015205 沼間、県道24号線沿いで見かけたスゴイもの。この写真はちょっとピンボケであるうえに角度もあまりよくない。むしろストリートビューで見たほうがいいかもしれない(もちろん、この先更新されたらどうなるかわからないが)。

とにかく、明らかに傾いていて、崩壊寸前の廃屋に見えるのだが、実は、まさに営業中の床屋なのだ(看板も出ていないのがますます不思議)。地元の人にとっては見慣れた風景なのかもしれないが、中で散髪中なのを見て驚いた。

F1015203 五霊神社は沼間の鎮守で、市のほとんど反対側在住の私には馴染みがないものの、お祭りもそこそこ盛んらしい。境内は県道に面してちょっと高台にあり、こぢんまりしている割に鎮守の森が大木揃いで、特に拝殿に向かって右側の大銀杏は立派。鶴岡八幡宮の大銀杏亡き今、もしかしたら一円で一番立派なんじゃなかろうか。いや知らんけど。

説明板には、樹齢は800年、いや1000年にも達するかもしれない、などと書いてあって、ということは鎌倉時代か、下手をすると平安末期にまで遡ることになるのだが、実際には、日本へのイチョウの伝来は室町時代と考えるのが妥当であるらしい(ということは、どんな大樹でも樹齢はおよそ600年が最高ということになる)。これについては、この研究レポートがなかなか説得力もあって面白い。もちろん、鎌倉の三代将軍実朝が甥に暗殺された際、甥の公暁は例の大銀杏に隠れていたというのは後々の創作だというのが定説となっている。

沼間ポンプ場跡地あたりから上の3つめのポスト(沼間4丁目5-24)方面に行くには、県道の脇を入って横須賀線の線路をくぐる。……のだが、この横須賀線下の歩道が妙に素敵度が高い。写真ではあまり面白さが伝わらないかもしれないが、とりあえず写真と説明を以下に。

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横須賀線は、ごくごく短いガーダー橋で一番上を通っている。この橋はもともとは田越川と交差するもので、鉄橋から川面まではそこそこ高さがある。その間に、後から歩道橋(これは両方の川岸と同レベル)をくぐらせてしまったのがこの状態。歩道とガーダー橋は、頭をぶつけるほどではないが、かなり接近している。狭いところ潜り抜けマニアとか、「すぐ頭の上を電車が走るところを実感したい」人にもお勧め。

逗子の中心、亀岡八幡(市役所隣)の脇の入口には、古い街灯柱が立っているのだが、そこに、その街灯柱の製作者であるらしい会社の鋳物のプレートが付いている――というのを先日facebookの逗子ニュースグループで教えて貰ったのを思い出して見に行った。電話番号に局番がなく、「蒲田」局で掛けるようになっているのが時代がかっている。またよく見ると単なる銘板ではなく、上にはヒンジが付いていて、実際には街灯柱点検用の小扉であるのが判る。入口の両側に立っているのだが、もう片方の電灯柱はこのパネルがなくなっていた(ちなみにこちら側は街灯本体も失われていて、柱のアタマにはガイシだけがぶら下がっている)。

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池子弾薬庫跡

●連続お散歩ネタ。

26日土曜日。そういえば先週末から、「池子の森自然公園」が土・日・休日のみ公開になったんだったと、ふいに思い出し、午後、チビを連れて散歩に行く。

●「池子の森自然公園」は、有名な(といっても、現在、世間一般にどれだけ知名度があるのかよくわからないが)「池子弾薬庫跡地」の米軍接収地の一部が、新たに公園として整備されたもの。

池子弾薬庫は、かつて海軍が、横須賀海軍基地に間近い、現在の逗子市~横浜市の山地に作った倉庫・弾薬庫地区で、戦後米軍に接収され、現在もほとんどは米軍管理下にある。

かつては大きな反対運動の波があって、逗子市の選挙の大きな争点にもなった。その理由は、弾薬庫として利用されなくなってからも返還は進まず、その代わりに米軍の住宅地としての転用が決定したからだが、結局、国に押し切られる形となり、ぶっちゃけた話、「もう建てちゃったもんはしょうがねーなー」的な諦観から、現在は表立った反対運動などはない(が、もちろん地道な返還要求などはある)。

まあ、とりあえず、沖縄の多くの米軍施設のように第一線の基地機能があるわけではなく、軍用車両だの軍用機だのが我が物顔に往来するということがないというのも大きいし、そもそも戦前に海軍が接収したもので、直接的に、土地を取り上げられて悔しい思いをした人たちがほとんど亡くなっているということもあろう。

また正直な話、仮に戦後すぐにこれらの土地が戻って来ていたとしたら、今頃は、盛大に西武あたりに掘り返されて新興住宅地に変わり果てた後だと思う(もちろん、だからといって国が勝手にアメリカに進呈しちゃっていいものかどうか、というのは別の話だ)。

ちなみに「池子弾薬庫跡地」、現在の正確な名称でいうと「池子住宅地区及び海軍補助施設」は、その大部分が逗子市池子(かつての池子村)にあるための名称で、北東側は前述のように一部横浜市に入り、西側は逗子市久木に入る。

F1013934 ●さて、「池子の森自然公園」は、その米軍管理下の土地のうち、住宅地としては利用されていない一部を、逗子市が国や米軍と交渉し、公園として整備し公開するもの。「返還」ではなく、「共同使用」という形なのでゲートの内側なのだが、先週末以降、特別に申請だの身分証のチェックだのもなく、一応公園として指定された範囲内であれば気軽に入ることができる。

池子側のメインエントランスに近い一部は「スポーツエリア」で、陸上競技用グラウンドだの、野球場だのテニスコートだのがある。これは以前から申請すれば使える施設だったはず。

F1013935 その奥のトンネルをくぐった先が今回公開されたキモの「緑地エリア」で、だだっ広い、かつての里山の平地が芝生に変わったような地域になっている。山の部分は戦後の開発等が一切入っていない遷移林で、「森林保全エリア」として基本立ち入り禁止。中央の池(おそらくかつての農業用溜池)も外来魚がいない貴重な「水環境保全エリア」として立ち入り禁止になっている。この「緑地エリア」は、基本全域が逗子市久木に属し、かつての「柏原村」にあたる。

久木側にも、公開日には自由に出入りできる小さなエントランスがある。今回は行きも帰りもこちらを通った。

●中はこんな感じ。基本、遊具などは何もなく、途中、東屋や、あちこちにベンチとテーブルなどは置いてあるものの、要するに「だだっ広さを楽しむ」感じ。左写真、まあ、よく顔が判らない大きさならいいでしょうってことで、中央に写っているのがチビ。来月から小学生。

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その「ベンチやテーブル」があるのは、ほとんどが谷戸の左右の行き止まりの枝道の部分。昔の航空写真などではその場所に建物があり、おそらくそこが地上の弾薬庫または倉庫だったようだ。なお、そんな場所の一つに、塗装はボロボロだが迷彩された物置があった。それほど古いものではないので米軍が建てたものだと思うが、ここは軍用地なのだと実感させる。

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山裾部分のあちこちに横穴。やぐらもあるのかもしれないが、ほとんどは軍が掘った壕とか地下倉庫ではないかと思う。左写真など、入口も大きく、奥も深そうな印象だった。

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もともと弾薬庫跡であった名残をもういくつか。「何だかアヤシイものがあっても不用意に触ったらアカンでー」という看板と、緑地エリアの奥で見つけた線路跡。レールははがされておらず、地面からうっすらと覗いていた。弾薬の輸送用に各谷戸に線路が張り巡らされていたらしく、おそらく、現在の池子側メインゲートで、軍用引き込み線(現在の総合車両製作所・横浜事業所回送線)に接続していたのではないかと考えられる。概略はこちらのサイトで。以前に撮った横浜事業所回送線の写真はこちら

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池子側と久木側を結ぶトンネルの銘板。1992年とあるが、もともとこの場所には1941年開通のトンネルがあったはずで、拡幅して掘り直したものか? 「New Hisagi Tunnel」という名称は、その旧トンネルに対してのNewなのか、それとも久木と山の根を結ぶ久木隧道に対してのNewなのか、どちらだろう。久木隧道に関してはこちら(先述の回送線についても書いてある)。右は、トンネルの池子側、池子遺跡資料館脇の消火栓。とってもアメリカンな感じ。

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池子側、グラウンドの整備工事の際に出たらしい、シロウリガイ(第三紀中新世、約440万年前)の化石岩塊。露頭は埋め戻されているが、調査の際に掘り出された、化石の詰まった巨大な岩塊がグラウンド奥に展示されている。右はトンネルを迂回して山越えする散策路途中のニリンソウ。葉の形がトリカブトに似ているので、(私のような)にわかが不用意に手を出さない方がいい山菜。とはいえ、こうして花が咲いていれば明らかに違う。

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