軍事遺構

ガリバタ

●12月17日水曜日。義兄弟分であるドイツ人Pの妹一家が来日し、鎌倉案内をして欲しいというので、朝、北鎌倉駅で待ち合せ。

P一族の鎌倉案内をするのは、1年前?くらいの姪っ子、先々月の兄夫婦に続いて3回目。そして来年か再来年には弟夫婦が来るはずで、その時にも鎌倉案内をするよう予約済み。

今回のメンバーは、PとPの妹夫婦、その子どもたち3人と、息子の彼女(アメリカ人?)。そして私の計8人。「迷子が出ないように旗でも持って行けば?」とかみさんに言われる。ドイツ国旗でも持って行けと……。

今回は円覚寺を振り出しに、建長寺門前でけんちん汁を食べ(これは姪っ子が来た時から定番)、円応寺で閻魔様と地獄の十王に謁見(鎌倉のお寺の中でも私のお気に入りなのでここも定番)。

巨福呂坂を越えて鶴岡八幡宮へ。参道で焼き銀杏を食べる(とても観光客っぽい)。

その後、鎌倉駅から江ノ電に乗って長谷の大仏へ。午後は早めに切り上げて「田谷の洞窟」を見に行こうという計画もあったのだが、どうも時間的に厳しそうだったので諦め、長谷大谷戸を歩いて佐助稲荷、銭洗弁財天とハシゴ。

兄夫婦を案内した際には浄智寺、英勝寺、寿福寺など、結構シブめのところを回った(そして大仏にも銭洗弁天にも行かなかった)のに比べると、今回は定番度高し。

最後は大船で「ちょっと高級な居酒屋」で夕食を食べた。

ちなみに、当然ながら私はドイツ語は話せず、英語もお粗末なもの。人数が多かったので、「通訳」のPには頑張ってもらった。あちら一家は、息子彼女が英語民なので、会話はドイツ語半分英語半分くらいの感じ。

●夕食の居酒屋のコース料理の一品で、「ガリバタポテト」というのが出てきた。

皆さん、「ガリバタ」味といったら、どんなものを想像しますかね? 私ゃ、「ガーリックバター」以外のものは思い付かなかったが、そこでは、

フライドポテト(間にたっぷりバター)に、刻んだガリ(甘酢しょうが)載せ

が出てきた。

ドイツ人一行に「日本では、ポテトをこんなふうにして食べるのか」と言われ、「ふむ。これでまた一つ日本に詳しくなった」みたいな顔をされたが、違うからね! オレも初めて遭遇したからね!

まあ、別に不味くはなかったけど。

●鎌倉を歩き回る過程で、P妹旦那が、マンホール蓋マニアであることが判明。これまで撮りためたというマンホール蓋写真をあれこれ見せてもらった。こちらからも、近隣のマンホール蓋写真や、「日本にはこんなものがあるんだヨ」と、マンホールカードの写真を見せたりしたが、彼の写真コレクションは、

「コレはミュンヘンの……こっちがバイエルン州の。これはリスボンで、こっちはフィレンツェ……」

という具合に、コレクションのスケールが違った。例えばミュンヘンの蓋のデザインは市章?で、バイエルン州のものは真ん中あたりが州旗の斜めチェッカーという感じ。あちらのマンホール蓋もそれぞれ「ご当地柄」になっていて格好良かった。なお、ミュンヘンはバイエルンの首都なので、そのあたり切り分けがどうなっているのかは不明。市内と周辺で違うのか、あるいは混在しているのか。

そんなこんなで、散策の途中で鎌倉市内のマンホール蓋の写真も撮っていたが、鎌倉市の場合は(せっかく観光地なのに)いわゆるJIS模様とかハチノス模様とか味気ないものがメインだったのは(紹介する側として)ちょっと残念。

ちなみに、つい先日、仕事先の忘年会で、某航測会社のお偉いさん(かつ、ポケモンgoフレンド)のSさんがマンホールカード・コレクターであることも判明。しばしその話で盛り上がった。意外に世の中にマンホール蓋マニアが潜伏していると知った。

Img20251217211945 ●「1日、案内してくれたお礼に」と、いろいろとお土産を貰った。

上の2つの瓶は、マルメロのジャムとゼリー(P妹のお手製)。日本ではまず見かけない果物で、私も海外の小説とかで名前を見たことがあるなあ、程度。ゼリーのほうは「チーズと一緒に食べてね」と言われて、「え?そんなのアリ?」と思って通訳をしてくれたPに聞き返したくらいだが、後でwikibediaで調べたら、実際にそのような食べ方が出てきた。

とはいえ、「チーズに併せて食べる」というマルメロの加工品で、イギリスでクインス・チーズ、ポルトガルでマルメラーダ、スペインでメンブリージョと呼ばれているものは、もっと固くて羊羹のような感じ。貰ったものは柔らかくプルプルのゼリー状で、これが「ドイツ風」なのかP妹レシピ独特なのかは不明。なお、ブルーチーズとかチェダーとか、ちょっと塩気の強めなチーズと一緒の方がいいらしく、実際に、買い置きしてあったブルーチーズと一緒に食べたらなかなか美味。

ちなみにジャムのほうもゼリーのほうも、味としては「リンゴジャム/ゼリー?」みたいな感じ。ジャムも、チーズトーストに塗って食べたら美味かった(チーズ抜きでも美味しいけど)。

時計回りに、次の2つの袋は、これもP妹お手製のビスケットとジンジャーブレッド・マン。ビスケットは全粒粉らしく、プチプチした食感がよかった。隣の缶詰は、P自身から貰った「なんちゃらかんちゃらブルスト」。レバーブルストもそうだが、ドイツのこの手のパテ系の缶詰はとても美味しい。……が、そのため我が家でも娘ほかに非常に人気で、うかうかしているとほんの少ししか食べられない。

下右のアルミホイルに包まれた枕状のものは、P妹旦那製のシュトレン。ドイツの自家製シュトレンは久しぶり。そして下左は、Pが事前に私の好みを喧伝していたらしく、ドイツからわざわざ持ってきた「ザルツ・ブレーツェル」(250g入り)。

●その他、ここ数か月の身近な出来事やら雑感やら。

まずは「サヨナラ・ポスト」逗子市編。

昨夏、それまで市内に4カ所あった現役丸ポストのうち、2か所が撤去(新ポストに代替)されてしまったことを報じたが(→記事)、ここ数か月の間に、残り2か所も小さな角ポストに置き換わってしまった。

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写真1枚目は沼間3丁目2-1:東逗子駅先、沼間交番前。2枚目は桜山1丁目2-21:逗子~東逗子間、水道路沿い。寿し魚友横。これで逗子市内の現役丸ポストはすべて姿を消してしまったことになる。残念。両方とも、丸ポストの根石だけは新ポストの土台として再利用しているのが、ちょっとだけ嬉しいような気も。

なお、昨夏撤去された2基は今も引き続き逗子郵便局の裏手に置かれたままで、そこに新たに撤去された2基のうちの1基が加わっている。もう1基がどうなったのかは不明。(特に2基は)1年以上保管されていることを考えると、単純にスクラップにするのではなく、どこか引取り手が出るのを待っているのかも。捨てられずにどこかで余生を送って欲しい。

Img20251223182426 ●今月初め、藤沢市のマンホールカードがもう1種新たに追加されたので、湘南鎌倉総合病院に肩のリハビリに行ったついでに、遊行寺近くの「藤沢市ふじさわ宿交流館」まで足を伸ばして貰ってきた。さらに先週末にも葉山町のマンホールカードの2種目がリリースされたので、そちらも早速、配布場所である南郷のHAYAMA STATIONに行って入手。

この近隣のマンホールカードの発行状況(現状)は、逗子市1種、横須賀市4種、葉山町2種、藤沢市2種、横浜市(区単位のもの含め)いろいろ、という感じ。お隣・鎌倉市が空白地帯だが、そもそも鎌倉市は(上述のように)ご当地柄のデザインマンホール蓋がない。正確には、駅前に時計台とヤマザクラ/リンドウの図案のカラー蓋が一つあったのだが(今もあるかは不明)、これは下水道のものではない可能性がある。

●ビートルズを聞き始めてン十年。「One After 909」(9時9分発の次のヤツ)が9時21分だと初めて知った。

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ドイツ人Pの兄夫婦が来た先々月某日、北鎌倉駅で。いや、だからどうなんだって話ですが。

●はるか県北部や県中央部から、横須賀に向けて引かれている旧軍港水道(半原系統・有馬系統)は、「名越送水管路ずい道」で鎌倉・逗子市境を越え、おおよそJR横須賀線と並行して逗子市を横断、沼間のどん詰まりで「盛福寺管路ずい道」を越えて田浦(横須賀市)に抜ける(片方が「送水管路」でもう片方が「管路」なのは「?」だが、実際の隧道に掲げられてあるまま)。

さて、この道筋を人間が辿ろうとすると、名越側(鎌倉・逗子間)は、すぐ隣を県道311号線のトンネルが通っているのでいいとして、盛福寺側(逗子・横須賀間)は尾根の手前で行き止まりになってしまう。

……と、これまでは思っていたのだが、ジオテクの地図を見ると、どうも抜け道があるような。そんなわけで、改めて様子見に行ってみることにした(11月初旬)。

沼間の突き当りで、県道24号線から、脇道になっている水道路の逗子市側端に入る。緩やかな坂をちょっと上った辺りで住民の方に会ったので、この先で田浦側に抜けられるかどうか尋ねる。

その昔、送水管路隧道を歩行者が通れた時代はあったものの、現在ではまともな道はないとの返事。ただし、送水管路隧道のすぐ手前右手に沢があって、その沢床の踏み分け道のようなところを辿っていくと、尾根上のハイキングコースに出られる、という。

それならちょっと試してみようと探してみると、確かに隧道手前に踏み分け道っぽいものがある。なるほどここか、と歩き始めたはいいものの、数日前の雨のせいで沢床が泥沼のようになっていて、にっちもさっちも行かなくなってしまった。引き返すのもままならず、仕方なく沢筋を離れて、道もない急斜面をよじ登り、さらには笹薮に突入。危うく遭難しかけた。とにかく尾根に上がりさえすれば道があるのは判っていたので、それを信じて前進、なんとか抜け出すことができた。

Img20251102152629 Img20251102152640 Img20251102160647 Img20251102160658 Img20251102165343

写真は1,2枚目が「盛福寺管路ずい道」の逗子側、3,4枚目が同・田浦側。隙間から中を覗くと、そう遠くない先に反対側出口の光が見える。それなのに、越えるためにあんなに苦労するとは。最後の写真が、下山後に撮った靴の惨状。

なお、そのしばらく後に「本当に登る道はないのか」を確かめるために再訪したのだが、逗子側隧道入り口の右側ではなく左側に、だいぶ頼りないものの道を発見。途中、何かにつかまらないと登れない急斜面などあるものの、一応、泥沼にも藪にも突っ込むことなく尾根上のハイキングコースにたどり着くことができた。

●11月下旬。横須賀に行ったら、海上自衛隊の埠頭に、見慣れない(そして明らかに海自のものとは思えない)船が停泊しているのが見えた。

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帰宅後調べてみたら、カナダ海軍の新鋭砕氷哨戒艦「マックス・バーネイズ」と判明。

船体横頂部に、インド女性のビンディみたいな赤い印があるのは、カナダのメイプルリーフだったのね……(小さくてよく判らなかった)。

●前回記事「ワルシャワの石畳」で、百均由来のケースについて、「その後同様のものを見掛けない」と書いたのだが、大船-北鎌倉間の大規模なダイソー(鎌倉大船店)で、同じケース(およびそのバリエーション)に再遭遇した。

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逗子や鎌倉の小さな店舗のダイソーには売ってないんだよね。この機会を逃しちゃイカン、ということで、ソクウに使用したのと同形のものと横長のものの2種を購入した。

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砲台に消えた子どもたち・2025

●11月29日、「砲台に消えた子どもたち」慰霊祭に出席する。「逗子の歴史を学ぶ会」の山田さんに、当かばぶのコメント欄でお知らせ頂いて開催を知ったもの(その後、近所の市の掲示板でもポスターを見た)。

場所は逗子マリーナ、「西小坪海面砲台」の南砲台跡地前。昨秋、新たに建立された慰霊碑前。昨年、碑が建った際の慰霊祭の様子はこちら

爆発事故の命日は10月20日で(昨年の慰霊碑建立祭はその日に行われた)、今回の日付はちょっと半端だが、これは、慰霊碑建立の際にはまだ確定できていなかった犠牲者全員の氏名(および人数)がようやく確定され、それを慰霊碑背面に入れることができたから、というタイミングに合わせたものであるらしい。

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写真はこの日の慰霊碑と、亡くなった子どもたち15名の名前が入った裏面。ただし、この名前に関しては、なお字の間違いなどが存在する可能性もあるとのことで、現在はシール状態で貼られているだけ。今回暫定的に公開し、訂正情報などあればそれを反映させた上で実際に碑面に刻む予定とのこと。

実際、昨年慰霊碑が建てられた段階での(講演会で聞いた)話では、亡くなった子どもらの名前は全員分判明しておらず、それ以前に人数も14~16名?と確定できていなかったことを考えると、それだけ調査が進んだことは素晴らしいと思う。関係者のご努力に頭が下がる。

●慰霊祭終了後は、すぐ近くの小坪小学校区コミュニティセンター(旧小坪公民館)で講演会を聴く(第14回歴史講演会「逗子に砲台があったころ」)。

主なプログラムは、紙芝居(プロジェクター芝居?)「カシャーばらの子」「海をにらむ大砲」の2本と、地域の歴史(西小坪砲台の歴史)を研究されている中澤洋氏の講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」。

「カシャーばらの子」は、最初にポスターで題名を見た時には、語感から「沖縄の話?」などとボンヤリ思っていたのだが、実際には、池子弾薬庫の一部として半ば強制的に土地を取り上げられた、旧久木村柏原地区の話。当時暮らしていた人たちは、柏原を「カシャーばら」と読んでいたそうだ。現在は「池子の森自然公園」のうちの緑地エリアとなっている。

柏原地区を含む旧池子弾薬庫跡地(米軍施設としての日本語での正式名称は「池子住宅地区及び海軍補助施設」)に関し、個人的に留意しておきたいと思っている点は、おおよそ以下。

  • 長きにわたる返還運動などもあり、「米軍が勝手に“占拠”して“居座って”いる」というイメージを持っている人もいそうだが、直接の戦闘の結果、米軍が占領して施設建設を行った沖縄の大半の基地と違い、それ以前に日本の国(海軍)が半ば(というよりほとんど)強制的に土地収用を行ったもの――つまり住民から土地を取り上げたのは米軍ではなく日本国(海軍)であるということ。
  • そのため、沖縄の米軍基地は民有地の割合も多いが、旧池子弾薬庫跡地の場合、「面積のうち約99.9%は国有地」(wikipediaより)である由。当然、国有地である理由は前述のように軍が二束三文で有無を言わせず買い上げたからだが、ほぼ全域が国有地であるからこそ、米軍による弾薬庫としての利用が終わってからも、そのままポンと住宅地として提供することができたのでは、という気がする。
  • 逗子市域全体に占める米軍管理地の面積は約14.5%あり、市町村レベルの自治体のなかでは、広大な基地(特に飛行場)を抱える沖縄の伊江村や宜野湾市、嘉手納町などには及ばないものの、全国でもトップクラスの面積比。もっとも、現在はそのうち約40haは共同使用地として「池子の森自然公園」となっている。ちなみに米第七艦隊が基地を置く横須賀市は、単純な面積では逗子市以上だが、市域が広いので面積比ではぐっと下がる。
  • 仮に戦後すぐに弾薬庫跡地が民間に払い下げられていたとしたら、おそらく、この一帯は高度成長期に(鎌倉逗子ハイランドのように)大々的に(かつかなり乱暴に)宅地開発されていたのではと思う。皮肉な話だが、米軍管理地だったからこそ大部分に開発の手が入らず、今のように自然公園だの緑地エリアだのといった利用が可能になったのかも。

紙芝居のもう一本、「海をにらむ大砲」は、題名からも想像できるように西小坪海面砲台とその爆発事故をモチーフにした物語。

講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」は、主に小坪國民學校(現在の小坪小学校)の学校日誌を元に、戦時下と終戦直後の学校・子供たちの日常がどんなものだったかを振り返る内容。

当日貰った資料やら記念品やらが以下。1枚目写真右下の(講演題名と同じ)「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」小冊子は、講演で触れた内容も含めて、演者・中澤洋氏がこつこつと調べ上げてきた爆発事故周辺の情報をまとめたもので、2枚目写真はその内容の1見開き。これは会場受付で500円で購入。

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●以前から話題にしている、「結局、この西小坪海面砲台に配備された砲は何だったのか」という話の続き。

爆発事故の起きた西小坪海面砲台に配備された砲に関しては、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)では「十五糎砲」であったことしか判らず、その他資料でも、おおよそ「15センチカノン砲」とあるのみで、年式等は記されていない。

これについて、講演後の質疑応答で中澤洋氏に質問してみた。氏によれば、「はっきりしたことは判らないが陸軍のカノン砲を使っていたのでは」とのこと。

昨年の講演会ではご存命だった遺族会の草柳博氏が「ボタンを押すと砲が動いた(ので子供たちは面白がって遊んだ)」といった証言をされていて、これに関して、動力操作が可能なら、陸軍の砲ではなく海軍の(艦船搭載用の)砲なのでは、という推論を昨年の記事には書いたのだが、これは私の先入観によるもので、中澤氏によれば、「陸軍のカノン砲も後期には電動のものがあったらしい」とのこと。

改めてwikipediaで調べてみる。

そもそも「カノン砲(加農砲)」という分類自体がいささか曖昧なもので、ざっくり言えば、「そこそこ以上の口径(100mm以上くらい?)で、そこそこ以上に長砲身のもの」くらいの意味しかない。特に第二次大戦後期頃からは、榴弾砲(これは主たる使用弾種に応じた呼称で、砲弾自体に炸薬が詰められた「榴弾」を、多くの場合高仰角で撃つ砲を指す)との区別がどんどん曖昧になっていく。

というわけで、単純に「カノン砲が配備された」と書かれている場合、文字通り「××式加農」が正式名称の砲なのか、あるいは「××式榴弾砲」のなかで比較的長砲身のものを指すのか、即座に判断はしかねる(あるいは加農砲、榴弾砲以外の種別名称のこともあり得る)。さらに言えば、(この陣地を築いた)海軍の火砲の場合、砲身長自体は「カノン砲/加農砲」に該当していても、それを正式名称としたものはない。

結局、「口径15cmの長砲身砲」というだけの括りで陸海軍の砲をリストアップしていくと、結構なバリエーションになってしまう。

Type_96_15cmcannon_1 ……のだが。先述の、中澤氏の「陸軍の後期のカノン砲では電動のものがあった」を頼りに、単純に正式名称「××式加農」で新しめのものを漁ってみると、「九六式十五糎加農」に行き当たった(写真はwikimedia commonsより、パブリック・ドメイン。File:Type 96 15-cm-Cannon 1.jpg)。野戦榴弾砲である「九六式十五糎榴弾砲」とは制式年が一緒なのでややこしいが、別物なので注意。

写真で見ても判るように、前線で機敏に移動させて砲列を敷くような用途の砲ではなく、それなりの砲陣地を構築するとか、要塞に据え付けるとかといった使い方を主とする砲。そして、制式化からほどなく、砲の俯仰を電動化する改修が行われ、「この電動化改修を受けた砲は試製九六式十五糎加農(電動機付)と呼ばれ、高い発射速度が必要な海岸要塞などで運用するものとされた」(wikipedia、「九六式十五糎加農」)とある。

実際には昨年の記事にもこの砲の名前は一度出しているのだが、「陸軍だったら手動でしょ」という先入観で弾いていた。先入観抜きで、しかも解説文をよく読んでいたら、この有力候補に比較的簡単にたどり着けたはず。

なお「九六式」とは皇紀2596年、つまり1936年制式化を意味し、それを考えれば「そんなに新型とも言えないよね?」と言いたくなるが、実際には、制式化はされたものの生産はあまり進まず、wikipediaの記述によれば1942年までに31門が作られたのみだという。その後新式の加農砲は開発されていないようなので、一応、日本陸軍としては「最新鋭」の加農砲だったということになる。

●ちょっと脱線話。口径15cmのカノン砲、もしくは長砲身の榴弾砲というと、ミリオタ的には、フンメル自走砲の搭載砲としても有名なドイツの15cm sFH18が思い浮かぶところだが、これは野戦榴弾砲なので、日本陸軍で言えば九六式十五糎榴弾砲に相当。ドイツにももっと長砲身のカノン砲/要塞砲の類として15cm K18とか、15cm K39といった、sFH18に比べるとややマイナーな砲があり、こちらのほうが上述の九六式十五糎加農と性格もスペックも近い。

なお、同種のカノン砲として非常に有名な砲にアメリカの「ロング・トム」があるが、こちらは口径がやや大きく155mm。

●閑話休題。というわけで、かなりの有力候補が出てきたわけだが、まだ「これですっきり解決」というわけではない。いくつかの疑問点は残る。

▼口径15cmのカノン砲で、俯仰電動機構付きという条件には合致しているものの、わずか31門しか作られなかった新鋭砲(というには年式は古めだが)を、小坪の洞窟陣地のような急造陣地に配備するものだろうか。戦争末期(西小坪海面砲台は逗子市史によれば1944年築造だという)に作られた本土決戦用陣地に配備される砲といえば、倉庫に余っていたような旧式兵器が回されて来るのでは、というイメージがある。もっともそれも半ばは私の先入観で、海軍の本拠地である横須賀鎮守府や「帝都」の防衛に直結するポイントとして、虎の子の砲を持ってきた可能性もあるのかもしれない。

▼上掲の、中澤洋氏著の小冊子「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」の見開き写真に写っているのが、昨年の記事でも触れた、私がこれまで見たなかでは唯一、一部ではあれ砲が写っている貴重な記録写真。なにしろ砲身だけ、しかも前半しか写っていないので手掛かりとしては心許ないが、それでも、砲身の根元側に段差があるらしいことが判る。上述の九六式十五糎加農にも段差があり、一方で、その一つ前の形式である八九式十五糎加農の場合は、やはり段差はあるものの駐退復座レールを兼ねて下部が拡がっているのだが、写真ではそのようには見えない。その点で言えば、配備された砲は九六式十五糎加農だった可能性に1ポイント加算、という感じではある。八九式十五糎加農は約150門と(九六式に比べれば)生産数も多く、沖縄戦などでも洞窟陣地に配備されたりしているので、そうした要素からすると八九式の砲が“近い”気もするが。

▼九六式十五糎加農、その一つ前の形式である八九式十五糎加農、と書いたが、九六式十五糎加農の直接の前身となった砲として四五式十五糎加農(四五式は明治45年制式化を示す)という砲もある。wikipediaには、これの「改造固定式」が「東京湾要塞、下関大島砲台、対馬郷岬砲台、津軽白神岬砲台ほかに配備された」とある。電動化されたという記述は(少なくともwikipediaには)ないが、もしも九六式と合わせて、そのような近代化改修が行われているものがあったとしたら、それが使われた可能性もありそうな気がする(中古兵器の活用という点でも)。

▼もちろん、「やっぱり海軍の砲が配備されていた」という可能性もまだ消えたわけではない、と思う。前出の横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」中では、同じ「十五糎砲台之部」として、「佐島 三 三〇〇」「長者ヶ崎 二 三〇〇」「西小坪 二 二〇〇」「黒崎鼻 三 三〇〇」と、4カ所がまとめられている(数字は最初が砲の門数、次が弾薬数。サイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の項では、これら砲台のうち、佐島および長者ヶ崎の配備砲は、もともと海軍の艦載砲である「五〇口径四一式十五糎砲」およびそれより旧式の「四〇口径安式十五糎砲」であったと解説している(ただし、その出典は明記していない)。一方で西小坪および黒崎鼻の配備砲は「15センチ加農砲」としているが、こちらは形式名までは記していない。装備体系としてまったく別種の砲を、軍作成の目録で一まとめにするというのも不自然で、もしも佐島・長者ヶ崎の砲が海軍のものであるなら、西小坪・黒崎鼻もそうだったと考えるのが自然、という気もする。

▼上掲の写真にある砲は、砲身前端が黒く焼け焦げている上に表面がボロボロになっているように見える。もしかしたら終戦時に、砲が二度と使い物にならないように何らかの処置をした結果なのかもしれないが、通常はこういう場合は尾栓を取り除いて別途保管、とかが多い気がする。また実際に横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」には、「十五糎砲」の尾栓が取り外されて別途保管されていたことが記されている(保管されている尾栓数は10で、上記4砲台に配備された十五糎砲の合計数と一致する)。何をどうしたら砲身外側がボロボロになるのか、私にはちょっとよく判らない(故意に筒内爆発を起こさせて砲身を破壊するとか、あるいは砲弾を砲身途中に詰め込むとかといったケースもあるようだが)。そもそも後日爆発事故を起こすほど、洞内に弾薬が無造作に置かれている状態で、洞口のすぐ表で爆破処理などするとは思えないし。

「この陣地に配備された砲が何だったのか」は、単純にミリオタ的興味から、ということもあるが、そうした細かいディテールが判れば、「どんな意味を持つ砲台だったのか」とか、「どんな弾薬が残っていて、それがなぜ爆発したのか」の究明にも、僅かながらでも近づくことに繋がる。

そんなことも踏まえつつ、若干の考察を。

▼配備されていた砲が九六式十五糎加農だった場合、最大射程は26,200mに達する。しかし、上掲の写真で洞口と砲身の位置関係から見る限り、九六式十五糎加農の最大仰角である45度の姿勢はまず無理で、取れて20~30°程度ではないだろうか。その分、射程は短くなっているはず。甘く見積もって射程距離が18,000m程度あったとして、海岸線でアタリを付けると、相模川河口を少し超えるくらいとなる。

仮に連合軍が首都東京の制圧を目指した上陸作戦を敢行するとしたら、まず考えられる地点は砂浜でそれに続く陸地も平坦な、湘南海岸(茅ヶ崎~平塚あたり)か千葉の九十九里で、実際にアメリカ軍が立案した上陸作戦(コロネット作戦)でもこの2カ所を上陸地点と設定していた。

相模湾中央に連合軍が上陸してくると想定した場合、西小坪海面砲台はやや能力不足だったのではという疑いも出てくる。なお、江の島にも西岸・東岸に海面砲台が設けられていたそうで、江の島の東岸の砲台と三浦半島側の砲台とで、相模湾東半分に敵が襲来した場合に十字砲火を浴びせるつもりだったのかもしれないが、そもそも鎌倉や逗子は、海にいきなり台地とか山とかが迫っていて、上陸地点としては相応しくない(それを考えると、長距離の移動ができない「伏龍」出撃基地とされる洞窟陣地が稲村ケ崎にあるのも摩訶不思議だ)。

もちろん、「だからと言って何にも備えんわけにはいかんやろ」という理由も充分に考えられるが、それが重大な爆発事故に繋がったとすれば、哀れとしか言いようがない。

▼終戦直後に武器の引き渡し等の便のためにまとめられた横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)によれば、「西小坪砲台」には砲2門と弾薬200発が残されていたことになっている。

特に長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節して適切な飛距離を得ることが多く、その場合には装薬は「**発」では数えづらいので、おそらく、ここで言う「弾薬200発」は弾頭(打ち出される弾丸そのもの)の数だと思われる。また、昨年・今年の講演で聞いた証言でも、「棒状(または細長い板状)の火薬が散乱していた」とのことで、これも弾頭と装薬がそれぞれ別に置かれていたことを示す。

飛んで行った先で爆発する砲弾(榴弾)は、弾丸(弾頭)の内部にも火薬(炸薬)が詰まっているが、これは固い外殻に包まれていて、基本は信管(着発信管とか時限信管とか)があって初めて爆発するものなので、爆発事故そのものは、散乱していたという装薬のせい、ということになる(もちろん、装薬が爆発した結果、弾丸のほうも誘爆することも考えられるが、その場合はおそらく砲台のあった崖自体が崩れかねない規模の爆発になったかもしれない)。

▼しかしここで謎なのは、なぜ装薬が中身の状態で散乱していたのか、ということ。

前述のように、長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、望む飛距離に合わせて装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節できるようになっていることも多い。しかしそれは決して目分量とかではなく、装薬はきっちり規定量が袋(とかそれなりの容器)に小分けにされ、「それを何個薬室に入れるか」で調節を行うのが普通。装薬がむき出しのバラバラが常態であったとは考えづらい。この辺、日本陸軍の場合、正確にはどう取り扱っていたのか。私の亡父は陸軍将校で、横須賀の陸軍重砲兵学校を出たはずなので、生前にもっと詳しく話を聞いておけばよかった。

ただ、当時の小坪では、この(棒状、あるいは板状の)火薬を拾ってきて焚き付け(着火剤)として使ったりしていたらしい。事故以前に、小坪の大人が装薬の袋を切り裂いて中身を取り出して放置していた可能性もあるかもしれない。

この機会にと、その後、付近の戦争遺構の現状を(散歩がてらに)改めて少し確認してみたり、ということもしているのだが、長くなったので、それに関してはまた改めて。

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骨折り損(再)

●「何やってんの?」とあちこちから盛大に言われそうだが……。

9月末に再び骨折した。

いや、本当に何やってんの?(自分ツッコミ)

一応経緯について書いておくと、前回の(8月末の)肩の骨折とは、基本、何の関係もない。また、前回の反省もなく何か“おいた”をしたわけでもない。

寝ている間に、ちょうど坂道を駆け降りる夢を見ていて、けつまづいて転びそうになって飛び起きる、とともに左の足先に激痛。翌日には指の付け根あたりが変色してきて、歩くと少々痛い。

さらにその次の日(だったかな?)、ちょうど肩の骨折の診察日だったので、ついでに診てもらい、レントゲンも撮ってもらったところ、

「うーん、折れてますね」

左趾(人差し指)付け根の骨の端が少し欠けるように折れているらしい。何しろ寝ている間のことなので正確な理由とか原因とかは判らないのだが、金属製のベッドの柵にぶつけたとか、あるいは(その頃はまだちょっと暑かったので)冷たい金属柵の細い部分を足指で挟んでいてひねったとか、何かそんな理由なのではと想像。

医者には、ギプス等で固定するまでもなく、基本放置でも1か月程度で治ると言われ、しかも笑いを漏らしつつ

「寝ていて勝手に骨を折る人は初めて」

と言われた。

同時期に我が家のお嬢も足を挫くし、かみさんも検査入院を繰り返す羽目になっているし、最初に再度骨折と判明した時には、「何か悪いものでも憑いているのでは」という思いが頭をよぎり、一方では「人が何か新興宗教に転ぶって、たぶんこういうタイミングなんだろうなあ」とまで思ったのだが、医者に笑われたことで、

「あ、いや、これは単純にオレがマヌケなんだ」

と納得できた。いや、新興宗教にはまらなくてよかった。

ちなみに、歩くと結構痛かったのも最初の数日だけで、2週間経った今では、(痛みが完全になくなったわけではないものの)ほぼ普通に歩ける。

より重症の左肩の方は、9月後半にはむしろ手術直後よりも筋肉が凝って/張ってつらかったが、今はだいぶマシになった(現在は週一で病院にも通ってリハビリ中)。

とりあえず、月イチ骨折野郎の汚名返上を目指し、この10月中にまた骨折しないよう注意したい。

●本日(10月9日)も通院日だったので、午前中、湘南鎌倉総合病院に行き、その後、大回りして藤沢まで歩く。

途中、弥勒寺近くでお馴染みの「海軍標石」に遭遇。

逗子市内を横断する、半原系旧軍用水道の「水道路」経路はほぼ正確に知っているし(何ならしっかり辿って歩いているし)、鎌倉市内も逗子との市境から海岸橋交差点まではお馴染み。その先の上流も長谷を通って藤沢方面に繋がっていることは知っていたが、そこから先はあまり考えたことがなかった。

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左写真が最初に見つけたもの。村岡交差点から村岡中学校前を通る道が水道路の一部で、これはもうだいぶ東海道線の線路に近付いた場所にあったのだが、サイト「東京湾要塞」の半原系水道の経路をたどるページによれば、周辺にはさらに何カ所か残っていそう。2枚目は、先述のの道路が東海道線線路手前で弥勒寺方面にカーブするのに対し、それと別れて真っ直ぐ線路に突き当たる枝道の住宅前にあったもの。

さらに跨線橋を渡って反対側へ行くと、工場が並ぶ中を水道路が手広・常盤方面に続いていて、その“とっかかり”部分しか追わなかったが、そこでもさらにいくつかの標石を見ることができた。

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ここには海軍標石しか載せていないが、合間には、戦後に追加された横須賀市水道局の標石もあった。

Img20251009130520 ●同じく、跨線橋を渡った辺りで、藤沢方面を望んで撮った写真を一枚。

真ん中に写っているのは、藤沢のNTTビルの屋上に立っている無線塔で、下半分をトラスが覆っているという違いはあるものの、スタイルは以前に話題にしたことがある、仏向無線塔によく似ている。

あれ? でも仏向無線塔は、日本国内では数本しかない、珍しい鉄筋コンクリート製の塔なんじゃなかったっけ? なのに同じような塔が近所に?

と思ったら、こちらは鋼製(シリンダー型)であるらしい。

もっとも、街中の「NTTの屋上の無線塔」というと、もうちょっと小型のものが多いイメージのなか、こちらはかなり存在感が強く、いずれ近くまで行って見上げてみたい感じ。今日も藤沢駅前まで行ったのだが、駅の北側まではいかなかった(NTTビルは市役所の隣、駅の北東側にある)。

●すでに1,2週間前の話だが、8月下旬に拾ってきたヒメクルミを使ってクルミ味噌を作った。

割ってみた結果は、傷んでいるものもそこそこあったが、2/3程度は使い物になった。

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クルミ味噌は、分量を適当で作ったらだいぶ固くなってしまったが、単におかず味噌として食べるならそれでもOK。もっともせっかくなので、日本酒で溶いて柔らかくして、余ったご飯で五平餅も一度作って食べた。美味し。

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野島掩体壕

●ここ数日、手術した左肩が慢性的に「痛怠い(痛い+怠い)」、というか筋肉が突っ張って鈍痛がして、むしろ退院直後よりもツライ。特に直近、割と仕事が立て込んでいるのに、夜まともに寝られないのが困る。

●12日金曜日。

かみさんが検査手術入院中の横浜市大病院に、手術経過の説明のために呼ばれ、久しぶりにシーサイドラインに乗る。シーサイドラインの金沢八景駅が京急の駅と直結して以来初めてかな?(ちなみに直結したのは2019年3月らしい)

せっかくなので、帰りに野島公園駅で途中下車し、金沢八景前面の平潟湾湾口の野島に渡る。

野島に行くのは(比較的近所に住んでいるにもかかわらず)これまたものすごく久しぶりで、たぶん50年ぶりくらい。

野島西部は平坦で主に住宅地。東部にはこんもりとした小山(野島山)があり、一体が「野島公園」となっていて、野島山頂上には展望台、山の下南側にはバーベキュー場やキャンプ場、北側には旧・伊藤博文金沢別邸がある。

今回久しぶりに訪れた主目的は、野島山を東西に貫く形で作られた大きなトンネル、「野島掩体壕」を改めて見たいと思ったため。

これは大戦末期、現在は細い水路で隔てられている東側の夏島地区にあった横須賀海軍航空隊・追浜飛行場の航空機の空襲時の避難用に作られたもので、現存する戦時中の掩体壕としては日本最大級のものであるらしい(最大級、というからには、同じような大きさのものがどこか他にもあるのかもしれない)。

ただし、結局は大戦中に使われることはなく終わった由。

まずは、東西に貫通している野島掩体壕の西側入り口。

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内部は崩落の危険性があるとのことで、入り口は柵で塞がれ、さらにはパネル板で目隠しされている。

そのため、洞口全体像はぱっと見で判りづらいが、おおよそ中央3分の程度が高く、両側が低い、凸字を平たく伸ばして側部に傾斜を付けたような形状となっている。

よく見ると、トンネル内部の断面形状は単純な曲線(皿型)で、この「平たい凸」形状は、トンネル前面のファサードというか、ポータル部分に貼り付けられた相対的に薄い鉄筋コンクリートの板状パーツであることが判る(4枚目写真、輪郭が折れ曲がった角の部分のコンクリートが僅かに欠けていて、この写真では判りにくいが、鉄筋が一部見えていた)。

下2枚写真は、西側入り口柵前に立てられていた解説板。この2種の解説板は、まったく同じものが東側入り口前にも立てられている。

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掩体壕の概略の文章による説明と、寸法入りの断面図。なかなかわかりやすく親切。

次に、野島山の反対側、東側(海側)入り口。

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こちらは、西側入り口と異なり、トンネル断面がそのまま入口形状となっている。なぜ東西で入口形状が異なっているのかははっきりしない(解説板にも書かれていない)。洞口前には、西側入り口と同様の解説板がある。

●野島掩体壕に関する若干の考察。

下は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より、米軍撮影による、終戦から間もない1947年11月5日撮影の野島(写真整理番号:USA-R498-71より切り出し加工)。

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ややいびつな四角形をした、野島の全体形状は現在とあまり大きくは違っていない。が、東側の夏島地区の埋め立て地上はまだ飛行場(横須賀海軍航空隊・追浜飛行場)の体裁を保っているのがわかる。この場所は現在、近々閉鎖するとかで騒ぎになっている日産追浜工場。

掩体壕は、画面中央の野島山を、ほぼ横一直線に貫く形で作られている。

▼普通に野島を訪れる場合、現在は住宅地になっている西側入り口のほうが「正面」で、海(野島・夏島町間の野島水路)に面した東側入り口は「裏口」というイメージを持ちそうだが、実際には、追浜飛行場に向かって開いている東側入り口の方が正面で、西側が裏口ということになる。

かつてはほぼこのトンネル入り口正面の海(野島水路)を横切る形で堤が設けられて地続きになっているらしいことが、この写真からもわかる。飛行場から掩体壕東側入り口までは、飛行機をタキシングして持って来ることもできたはず。ただし写真では、きちんとした誘導路などが設けられているようには見えない。

▼上に貼った現地の案内解説板の図に見るように、野島掩体壕の現況は、東西の両側がコンクリート張りで幅広く、中央部は素掘りで狭い。

解説板によると、中央素掘り部の横幅は約10m。これは戦闘機の全幅よりも狭く(零戦五二型で11m)、これでは、東側から搬入した機体を西側に移動させることができない。野島山の山すそをぐるりと迂回して機体を西側入り口まで運ぶとも考えづらい(山裾と海が近いので運びづらそう)。

上の写真を改めて見ると、野島-夏島間の水路の南側にも、細い連絡橋、もしくは堤防のようなものが見えるので、別途、西側へも直接飛行機を運搬するように考えていたのかもしれないが、どうなんだろう。

もしかしたら中央に狭隘部を設けることで、片側で爆発が起きてももう片側への影響を少なくすることを考えた、などということもあるのかもと妄想。もっとも、単純に「西側から東側まで、同幅でコンクリート張りの掩体壕を作ろうとしたが、中央部が未完成のまま終戦を迎えた」と考えるのが妥当のような気もする。

▼野島掩体壕の目的に関して、wikipedia「野島(神奈川県)」の過去の版では「海軍の飛行艇格納庫として作られた」と書かれていたこともあるが(修正済み)、そもそもこの掩体壕は横幅が20mしかない。海軍の飛行艇と言えば二式大艇か、その前の九七大艇が考えられるが、これらは4発の大型機で全幅は40mほどもあり、とても入らない(横向きにしても30m近い)。

また、東京湾岸で飛行艇部隊の基地があったのはもっと北の根岸のようで、追浜ではない。

海軍機の中で、もっと小型の偵察機で飛行艇形式のものもあった気がするが、それは少数の旧式機だったはずで、そのためにこんな掩体壕を作るとは思えない(ほかに新しい小型の飛行艇とか、なかったよね?)。

▼やはり案内解説板にある通り、小型機(戦闘機)の収容のために作られたと考えるのが妥当だろう。

案内解説板には「同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約100機を格納する計画」だったとある。野島掩体壕の全長は258.5m。前述のように、中央の狭隘部も最終的には同幅になる計画だったとして、それを目いっぱい活用するなら、零戦五二型の全長9.121m、余裕を持って10mと考えて一列で25機。壕の幅からすると、列を前後にずらして主翼片側を重ねるようにすれば2列は入りそうなので、概算で計50機。

夏島にも作られていたという掩体壕と、半々という感じか。

(その後、一度ペイント上で壕の中に零戦の平面図を並べてみたが、2列は結構無理矢理な感じだった。……50機は無理かなー)

なお、中央の狭隘部はそのまま残されるのが前提だったと考えると、トンネル長100m分がまるまる使えなくなるので、収容機数は半分近くまで減る。

●野島山頂上には、パラボラアンテナのようなデザインの展望台がある。

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2枚目写真は、その展望台上から見た逗子・葉山の二子山。普段とは違う角度から見ていて稜線の感じが違うので、今一つ自信がないが、拡大してみると左の山の頂上付近にKDDIのアンテナがあるようなので、たぶん間違いない。

この展望台のある野島山山頂付近は、現在は遺構の類は何も見て取れないが、小坪(披露山)や上掲の二子山同様、海軍の高角砲台があったそうだ。毎度頼りにしている、終戦直後の横須賀海軍警備隊「砲術化兵器目録」によれば、「野島浦」砲台として、

  • 十糎高角砲(連装) 2基4門
  • 三式陸用高射器 1基
  • 九四式高角 四米半測距儀 1基
  • 九六式一五〇糎探照灯 1基
  • 二十五粍二連装機銃 1基
  • 十三粍二連装機銃 1基

があったらしい。

小坪砲台(十二糎七高角砲・連装)、二子山砲台(十二糎七高角砲・単装)に比べて配備された砲が小径なのは、基地に至近の高角砲台として、より低空の敵機に備えたためだろうか

【9月19日追記】

はほ/~氏より「砲台の十糎高角砲は、横須賀航空隊の防空用に最新の機材を配置したのでは。」とのコメントあり。改めて調べてみると、戦時中の海軍の「十糎(連装)高角砲 」で該当するものは九八式十糎高角砲で、やや小径ながら、十二糎七高角砲(四十口径八九式十二糎七高角砲)のまさに後継高射砲として開発されたものだった。

65口径と非常に長砲身で、十二糎七高角砲よりも、最大射程・最大射高ともおよそ1.4倍と大きく性能向上が図られているらしい。wikipediaには「本砲の性能を最大限発揮できるように制式化された射撃指揮装置の中では最新の九四式高射装置と組み合わせて使用された」とあり、上掲の「砲術化兵器目録」の配備リスト中にある「四米半測距儀 九四式高角」がそれではないかと思われる。

調べないで適当に書いたらいかんね……。多謝>はほちん

山の北側、旧・伊藤博文金沢別邸付近から、つづら折りに山頂に続く道は上掲の終戦直後の米軍空撮写真にも写っており、これが当時の砲台道であったらしい(今回は行きも帰りも南側の野島神社側からの階段道を使ったので、こちらは通らなかった)。

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二子山高角砲台の謎柱

●1月26日日曜日。

「ハイキングに行きたい」という孫2号のリクエストがあり、息子含め親子三代3人で、“逗子市最高峰”である二子山(上ノ山)に山歩きに行く。まあ、最高峰っていっても標高208mだけど。

孫2号は幼稚園年長、今年小学校入学という歳なので、行き先は、身近なハイキングコースの中でもだいぶ楽なコースということで選んだもの。中腹の南郷中学校までバスで行けば、山頂までチビの足でも30分程度で着いてしまう。

天気も良く、風も強くなく、絶好のハイキング日和。逗子駅を11時のバスで出発。南郷中学校(南郷上ノ山公園)から歩き始めて、ちょうどお昼ごろに山頂に着いて昼食のおにぎりを食べる。

下写真1枚目は、山頂に至る道の途中から撮った富士山(ただし帰りに撮影)。こんなふうに木立や藪の合間にチラ見えする程度。山頂からは、西方向が木立に覆われているので見えない。

2枚目は山頂の一等三角点。以前も書いたが、一等三角点は神奈川県内に8つのみ、三浦半島ではここが唯一。……なのはいいとして、いつの間にか周りに花まで植わって慰霊碑みたいになっていた。そもそも三角点ってお賽銭置いてご利益あるのか? 地図が素早く読めるようになるとか? 体感で標高が判るとか?

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●二子山上ノ山山頂は、大戦中には海軍の「二子山高角砲台」が置かれ、十二糎高角砲(単装)4門が配備されていた、らしい。

現在でも、山頂の小さな展望台脇に、当時の砲座跡の土盛りが、ドーナツのポン・デ・リング状に残っている。とりあえず確認できる砲座跡はその一基のみで、残りの3つは草藪の中に埋もれて所在もよくわからない。

……というような話は、以前にも当「かばぶ」で記事にしており、終戦直後の米軍撮影による空撮写真なども貼ってあるので、お暇な方はそちらも参照のこと。

パッと見に判るのは、その砲座跡のみなのだが、実はKDDIの中継所裏手の藪の中に、その高角砲台に付属する何かの施設の痕跡の、謎のコンクリート柱が2本ある。これについては、以下の2つの記事で触れている。

両記事にあるように、このコンクリート柱は、これまでは藪の中に沈んでいて、その隙間からかろうじて頂部が確認できる、という程度のものだった。

どうせ今見てもそんなものだろう、でも真冬だから、多少は藪が薄くて見やすいかな?……などと思いながらも、一応は確認しておこうと見に行ったら。

何とコンクリート柱の周りの藪が刈り払われていた。

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1枚目:上ノ山山頂広場から、下ノ山に向かう山道を10mほど?行ったところで右への脇道に入り、KDDI中継所裏へ。数m入ると、藪の向こうにコンクリート柱の頭が見える。この時点では、「あ、冬だから、やっぱりちょっと見やすいかな」くらいに思っていた。

2枚目:もう少し入ると、いきなりコンクリート柱方面に藪が払われていて全貌が。びっくりぽん。明らかにこのコンクリート柱をしっかり見られるようにという意図で刈られていて、誰がやったのかは不明ながらとても有り難い。

3枚目:2本の柱の中間あたりから振り返って、中継所に近い方の柱(仮に1号柱とする)。

4枚目:2本の柱の中間あたりから、中継所から遠い方の柱(仮に2号柱とする)。根元はなぜか三段くらい削れている。その昔、撤去しようと試みた跡か?

5枚目:奥側から、2本の柱とKDDIの中継所通信塔。

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1枚目:基本、2本のコンクリート柱は同形なのだが、よくよく見ると、1号柱の頂部円盤は“プレーン”であるのに対して……。

2枚目:2号柱の頂部円盤は、周囲に何か部材を差し込むためのもののような長方形の穴が開けられている。きちんと確認してこなかったが、たぶん等間隔で8つ?

3枚目:1号柱の中継所側の面。一部表面が剥落して、錆びた鉄骨が見えている。

4枚目:2本の柱とKDDI中継所通信塔。同行の息子とちび。

以前の記事(二子山再々訪)にも書いたが、サイト東京湾要塞」の二子山高角砲台のページでは、このコンクリート柱を探照灯の台座としている。

しかし一方で、横須賀市の砲台山(武山高角砲台)にある同様のコンクリート柱(下写真)に関しては、(同サイトの武山高角砲台のページでは)「計算所跡」であるとし、木造2階建ての建物の2階部分に設置された計算装置の基礎であったとしている。

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形状、大きさともに非常によく似ていて(頂部の厚み、頂部に向けての末広がりの形状など)若干の違いはあるものの、ほぼ同じ間隔で2本並んでいるところも同じ。用途として同じもののように感じる。武山のほうが元あった施設の解説が詳細で、何らかの資料や証言に基づくものと思われるので、二子山も同様の施設跡と考えた方がよくないか、とも思えるのだが、こればかりは、私のところに資料も何もないのでお手上げ。

ちなみに米軍の空撮を見ても、「このあたりに何かある」以上のことはよく判らない。

なお、武山のほうには、もう一本、「探照灯台座」とされる同様のコンクリート柱があるらしい(これについては場所がよく判らず私は未見)。

武山高角砲台とご近所の披露山(小坪高角砲台)とは、配備された砲(十二糎連装高角砲)もベトン製の砲座の設計も共通しているので、披露山にも同様のコンクリート柱があってもよさそうな気がするが、とりあえず私の知る限りではそのような痕跡はない。

●話はちょっと遡るが、1月18日、池子弾薬庫跡地の北辺の尾根を巡る「やまなみルート」から、十二所の光触寺方面に降りる枝道途中の「横須賀軍港境域標 第四十九號」を久しぶりに見て、写真を撮った。

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7年前?に行った時と比べると、標石の前を通る山道の道筋が、ちょっと変わっていたような……。

なお、この石標についても、(いつ建てられたのかの謎も含めて)「東京湾要塞」の当該ページに詳しい。

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シンャホルストル

Amazon24111101 ●amazonで見かけた素敵な商品。

この見かけで「金属飛行甲板」!「エッチングパーツ」!

シンャホルストル」が「シャルンホルスト」(ドイツ戦艦)の綴り間違いなのは容易に想像できるにしても、だ。

え? 「日本海軍」? 戦艦なのに「飛行甲板」?。っていうかこの形のどこから飛行機が飛び立つのか。そして「オールシーズン」対応なのも謎ながら素敵。……ほとんど何一つ合ってない。

これ、実際に注文したら何が届のかも気になる(ただそれを知りたいためだけに約8000円費やす気にはなれないが)。

そもそも、「シンャ」ってどう発音したらいいんだ。

ヘイ、りぴーと・あふたー・みー。……「シンャホルストル」。いや、そこの君。それは違うぞ。「シニャ」ではない、「シン」だ!

ほか、同じくFlyHawkモデル製のパーツで、1:700「英海軍巡洋戦艦インシブンルビ1942」用のエッチングとして、写真は1:35戦車用のエッチングになっているものも2種(ティーガーII用とパンター用)出品されている。こちらは(AFVモデラー相手には)すぐ正体が判ってしまうし、「エッチング」という部分では合っているので、インパクトとしては今一つ。

●10月1日付で郵便料金が値上げになっているのを失念し、N女史宛の請求書(定型の封書)をうっかり旧料金の切手で出してしまった。当然、料金不足で差し戻されて来るものと思って、不足分の切手も用意して待ち構えていたのだが、N女史から、

「料金不足のまま届いていました。いいのか…」

との連絡あり。いや、本当にいいのか日本郵便!

実は値上げ後2か月間は旧料金でも届く特例措置が!?(ない)

●前回の記事、「FCM 2Cのディテール・メモ(後編)」を改めて眺めていて、

「なんつー判りにくい記事だ!」

と、自分でほとほと呆れた。

もちろん、個々の説明に対応した写真を掲示できていないというもの一因なのだが、だらだらと文章で説明しているのが、とにかくくどい。考えてみれば、車輛別・時期別に表組にすればもっとスッキリしたはず。

……いやもう、何か息切れしているので、表組は気が向いたらにしますけれど(気が向くかどうかは不明)。

Img20241114184818 ●東京AFVの会の会場で、私が自分の作品(ロールスロイス装甲車)を入れて持って行った箱を見た人に、「『化石』って書いてあるけど、何?」と尋ねられた。

実際、その通り中に(昔採った)化石が入れてあったためで、今回、ロールスロイス装甲車を持っていくにあたって、たまたま、ちょうど作品が入る細長い箱だったので中身を出して輸送用に徴発したのだった。……この、毎度適当な箱に、乱暴に作品を突っ込んで持って来る件については、その度にケン太さんに「もうちょっと考えて梱包しろ」と叱られている。

まあ、それはそれ。せっかく箱から出して、久しぶりに昔の採集物を見たので、写真を撮って紹介してみる。

●箱に入っていた化石は、高校時代に北海道で採った白亜紀のアンモナイトが数点と、栃木の葛生で採ったペルム紀(二畳紀)の腕足類もしくは二枚貝が1点。

以前にも書いたことがある気がするが、私は中学・高校時代の部活で「地学部地質班」というのに属していた。地質班といっても、地質調査なんてものは基本したことがなく、あっちこっち化石を掘りにいくのがメインの活動だった。年に一度(だったかな?)、巡検と称して顧問の先生とともに泊りがけで遠出するだけでなく、生徒だけであれこれ計画して出掛けることも多く、北海道は確か高校2年の夏に、同級生1人と、あとは大学生のOB4人くらいと一緒にテントを持って出かけたもの。葛生はいつだったっけなあ。

▼というわけで化石の紹介。まずは北海道留萌郡、小平蘂(オビラシベ)川上流産の中生代白亜紀のアンモナイトあれこれ。

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中くらいの大きさのアンモナイト。。下敷きにしているカッティングマットの枠線は5cm刻み。巻きの出口側、生きていた時には軟体部が収まっていた部分(住房という)は殻の中に隔壁などなくて脆いため、押しつぶされて殻も割れて変形している。巻きの中心に近いほうは気室といって隔壁で仕切られており、丈夫なので形状が保たれている。

殻の表面には目立つ肋(筋)はない。クリーニング(余分な石の除去)し切れていないが、中央のへそ穴はとりあえずある。……と、そこから先の種類調べはさっぱり。

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上よりはだいぶ小さい標本。切断面(左)と、その裏側の外面(右)。形状自体は割とふっくらめ、殻の表面に肋が見えないなど特徴が共通しているので、もしかしたら同じ種類かも。

高校の地学室(準備室)にはある年から岩石切断・研磨機が導入されたので、それを使って輪切りにしてある。上の標本同様、住房部分は変形あり。住房の中は砂(泥?)が詰まっているが、気室部分は染み出した石灰質が結晶化している。

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比較的小型の標本。一般に「異常巻き」と呼ばれる、通常の平らかつ密な渦巻に巻いた形状から外れた巻きを示しているもの。別に奇形の個体とかいうわけではなく、そういう種類で、なかにはもっと珍妙な形状のものもある。

この数字の「6」のように、巻きの最後の部分だけほどけたようになっているのは、流石に形状が特徴的なので、属名までは行きつけた。スカフィテス(Scaphites sp.)。写真を見比べると、なかでもスカフィテス・スブデリカトゥルス(Scaphites subdelicatulus)というのが近そうな気がする。

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小さな標本3つ。左写真の2つは名前判らず。特に左写真の下のものは、「いかにもアンモナイト!」という形状なのだが、実際にはこういう形状のものはアンモナイトのなかのいくつもの科にまたがって存在していて、素人の私にはまったく絞り切れない。うーん。ゴードリセラスの仲間かなあ。それともデスモセラス? プゾシア?

右写真は今回箱から取り出したものではなく、それ以前から隣の棚に裸で置いてあったもの。「化石」のタグで遡ってみたら、10年近く前の記事で一度紹介していた。一緒の産地のものだし、名前が判るものももう一つくらい上げておきたかったので再登場。へそ穴がきゅっと閉まっていて、全体的には平べったい形。表面に繊細な肋がびっしり入っている。これは判り易い特徴で、ネオフィロセラス(Neophylloceras sp.)と判る。ネオフィロセラス・スブラモスム(Neophylloceras subramosum)かな?

Img20241114184927 今回、写真を紹介するにあたって、「ちょっとでも名前とか調べて書きたい」と思ったので、虎の巻として逗子市立図書館から借りてきたのが右の書。

いや、確かに同定の仕方とか、そこそこしっかり書かれてるんだけど! しかも北海道産アンモナイトに軸足を置いて書かれていて、私が採集した小平蘂川含めた産地ごとの特徴なども書かれていて有り難いんだけど!

もとから知っていたネオフィロセラスと、以前にどこかで写真を見て「あ、これ、オレが持ってるヤツだ」と思ったことがあって、ある程度アタリが付いていたスカフィテス以外は、結局やはり属名までも突き止めることはできなかった。これはあれかなあ。III号戦車とIV号戦車の見分けとか、ルノーR35とオチキスH35の見分けとか、「素人目には『同じじゃないの?』でも、見慣れている人なら割と簡単に区別できる」系のものなのかなあ。

「年代も大いに手掛かりになる」と言われても、そもそも採集したのが河原の転石からなので、「地域的に、白亜紀後期」以上のことは判らないし、そもそも小平蘂川のどれくらい上流で採ったかも、今や曖昧だし。

しかし、この本自体は結構眺めていて楽しかった。あー。北海道に化石採りにとか行きたいなあ。でももう、岩石用ハンマーもどこにしまったかわからないや。

▼残るは、ひとつだけ味噌っかすで古生代ペルム紀の、栃木県佐野市葛生産の化石。

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葛生はセメントの原料としての石灰石鉱山がある。たぶん、今では「何か事故でも起きたら責任問題」ってことで、入れてくれないんじゃないかなあ。ン十年昔の私が高校生の頃は随分大らかで、入り口で「部活動で化石を採りに来ました~」というと、簡単な注意(危ないとこに近付くなよ~程度)で入れてくれたものだった。これは、そんな鉱山の中で採集した(というより拾った)もの。

何しろガンガン発破をかけて石灰岩を掘り進めている場所なので、周りじゅう、大小の石灰岩がごろごろしている。そんな場所を歩き回り、岩の断面を見て「お、これ、フズリナの密度が高いぞ」なんてのをハンマーで欠いて採集していくわけだが、そんななかで、ほぼこのままの状態で(ただし泥だらけで)転がっているコレを見つけた。

実のところ、最初は本当に化石であるなどとは思わず、単に「形状がそれっぽい」だけの石ころだと思ったのだが、拾い上げて、冗談で周囲の仲間に

「お~い、スゲーの見つけた! デカい腕足貝だぞ!」

と叫んで自慢したのだった。

当然、その後には「嘘だよ~ん」と続けるつもりでいたのだが、泥をぬぐってみると、かすかに表面の模様が確認できる。むしろ最初に「見つけた」と言った私が驚くはめになった、というオチ。

1枚目は全体形で、横幅が約8cm。2枚目は裾部のクローズアップで、かすかに放射肋(頂部からの縦方向の筋)が確認できる。3枚目は側方から。頂部下にも、見える範囲には穴などないの。最初は「腕足類の化石」と思っていたのだが、腕足類(正確には腕足動物門)であれば殻の頂部から肉茎が出る穴があるはずなので、実は二枚貝の化石なのかも。

いずれにしても、こういう石灰層ではフズリナなどの微小な化石がメインで、大きな化石が採れることは少なく、なかなかレアな標本だと思う(なので、きちんと同定などして貰えるなら、どこぞの博物館とかに寄贈してもいいのだが、なかなかそういうきっかけもない)。

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観音崎再訪

●東京AFVの会の帰り、京急線の駅ホームで、横須賀美術館「運慶展 運慶と三浦一族の信仰」ポスターを見掛けた。

「ああ、今、こんなんやってるんだあ」と見ていて、「※11月3日無料観覧日」の文字に気付く。にゃんと! さすが文化の日!

●というわけで、翌日いそいそと出掛ける。そもそも「横須賀美術館」ってどこにあるんだっけ、と調べてみたら、観音崎のすぐ手前だった。以前観音崎を(初めて)訪ねた記事を読み返してみたら、そもそもその時も最初は横須賀美術館を目指して行った(けれど、結局入らなかった)のだった。

今回はJR横須賀駅からバスで。横須賀美術館は、海に面した緩い斜面上、観音崎の森を背景にしたガラス張りの建物。おされ。

「運慶展」は本館地下の展示。横須賀市芦名の浄楽寺蔵で、和田義盛夫妻の発願による運慶作阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)、不動明王、毘沙門天の5体。それから運慶作ではないが、関連作品として、三浦市初声町・天養院蔵の薬師三尊像(運慶よりやや早い平安中期以降の作品)、横須賀市大矢部の清雲寺蔵の観音菩薩像(おそらく南宋より渡来のもの)。

「運慶展」と銘打っていながら、運慶仏は5体、周辺作品4体の計9体だけ!? と思ってしまいそう。実際に、運慶展の展示はそこそこ広い1フロアのうちの広めの展示室1つ(運慶仏5体)と、通路の窪みのような小展示スペース2つだけ。しかし、現時点でおおよそ運慶作と認められている作品は約30、うち真作と確定しているものは19体しかなく(貰ってきたパンフレットで知った)、5/19があると思えばなかなか贅沢。

ちなみに運慶は東国武士、それも鎌倉幕府要人との関係が深かったと言われるが、古都鎌倉の域内には、伝承等で運慶作とされるものは複数あるものの、真作やその可能性が高いものはなかったはず。私の好きな北鎌倉の円応寺の閻魔様も運慶作の伝承があるが、運慶没後の製作だそうな(加えて円応寺の仏像は、閻魔様よりも十王のほうが魅力がある)。

Img20240503180858 今回展示の運慶仏5体がある浄楽寺は、今年春に大楠山に登った帰りに寄って、寺の外観だけは見たことがある(5月3日撮影)。この5体は今回の展示会でなければお目に掛かれないわけではなく、浄楽寺でも年に2日(春・秋)の御開帳があり、またそれ以外でも予約制で拝観できる由。ぜひ拝みたい!という方はどうぞ(→浄楽寺HP)。

関連作品のうちの薬師三尊像を収めた天養院は、浄楽寺同様に和田義盛ゆかりの寺院で、薬師三尊像には和田合戦の折に義盛に代わって受けたとする刀傷だとして、縦に割れ目がある(結局、和田合戦において、義盛は鎌倉市内の和田塚あたりで討ち死にするわけだが)。

もう一体の南宋由来とされる清雲寺蔵の観音菩薩像は、立膝の珍しいポーズ。「遊戯坐(ゆげざ)」というらしい。リンクは、ホノルル美術館所蔵の同様のポーズのもの。北宋時代のものとか。

なお、この企画展は横須賀美術館のほか、県立金沢文庫、鎌倉国宝館の3館連携企画となっており、開催時期がおおよそ重なる形で、金沢文庫では「特別展 運慶 女人の作善と鎌倉幕府」、鎌倉国宝館では「特別展示 鎌倉の伝運慶仏」が開かれている。

●せっかく来たので、観音崎を散歩する。

前回訪問時は小雨模様で見晴らしも良くなかったが、今回はすっきり晴天。前回はすでに時間外で入れなかった灯台にもぜひ登ろうと行ってみたら、こちらも無料だった。

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下1枚目は灯台上から北側の眺め。中央やや左に、小さくランドマークタワーも写っている。左端の山上に建っているのは海上保安庁の(旧)東京湾海上交通センター。2018年にセンター機能は横浜に移転、現在は無人の観音崎レーダー施設となっているらしい。2枚目は、その施設を足元から見上げて撮ったもの。3枚目は南側。小さな入り江向こう側の突端に、前回も写真を載せた、戦間期に作られた聴測所(対潜水艦の固定式ソナー施設)跡がある。

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下写真は富津岬と横須賀の間に、東京湾要塞の一部として明治期に作られた第一海堡と第二海堡(現実の配置に合わせて、右写真が第一、左写真が第二)。第二海堡は、上に掲示した「灯台上から北側写真」の右端近くにも写っている。富津側の第一海堡は現在立入禁止、第二海堡は整備されツアーも組まれていて、その違いを示すように、写真で見ても第二海堡のほうがシルエットが整っている。

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灯台で無料のペーパークラフトを貰った。初代と当代(三代目)の2種。ともにスケールは1:100。どうやら「あなたが選ぶ『日本の灯台50選』」というシリーズらしく、公益社団法人「燈光会」というところのサイトで、全種ダウンロードできるようだ。

「50選」と銘打っていつつも、サイトをよく見ると、キット番号は250番まである。この観音崎の灯台も、キット番号は「No.22」と「No.22-2」と枝番になっているし、リストには「番外」(海上交通センターの建物とか灯台見回船とか)もあるから、キット種類の総数はもっと多いかも。観音崎のキットは両方とも白一色だが、中には着色のもの(赤白の縞模様とか)もある。

燈光会サイトにある「作り方」によれば、OA用紙などに印刷して厚紙に張り付けて……といった工程が指示されているが、当然、最初から厚手の紙に印刷したほうが話が早い。観音崎灯台で貰ってきたものも、最初から厚手の紙に印刷されていて有り難い。

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前回見そびれた場所含め、砲台を三カ所見学。

▼まずは前回見なかった北門第二砲台。上に写真を上げた(旧)東京湾海上交通センターから、階段状に3つの砲座が並んでいる。本来は6つあったらしいが、第4~6砲座の上に東京湾海上交通センターが建っているらしい(ただし、現地の説明板には、『現在は4砲座と弾薬庫が残っています」とある)。北門第一砲台等に比べると、草むしていかにも廃墟感がある。

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1枚目:センターから緩い坂を上って最初の第三砲座。

2枚目:第三砲座と第二砲座間の横墻にある弾薬庫。ガイドを頼むとこの中にも入れるようだ(この写真を撮るちょっと前に、団体さんが出てきた)。

3枚目:第二砲座。

4枚目:第二砲座・第一砲座間の横墻にある弾薬庫。こちらはコンクリートで入口が塞がれている。

5枚目:最も高いところにある第一砲座。

6枚目:第一砲座手前に置かれた説明板。

7枚目:各砲座背後を登ってきた坂道の突き当りにある隧道。こちら側の入り口が坂の頂点で、隧道内は(こちらから見て)下り坂。私は観音崎園地から、つづら折りの坂を上って、言わば裏側から来たが、本来はこちらが砲台入口らしい。現在は柵が作られて立入禁止だが、サイト「東京湾要塞」によれば、内部にも弾薬庫等あるようだ。

前回も見た、灯台間近の北門第一砲台。

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前回も書いたように、半円形の砲座が2連になっていて、間にレンガ積みの小隧道。地下に弾薬庫があって、そこからこの小隧道内に揚弾されてくる仕組みらしい。本来は、このレンガ積みの道路に面した側に下り階段があって弾薬庫にアクセスできる構造だったらしく、3枚目の拡大写真にあるように、正面下に入り口跡の一部らしい塗り込めたアーチ頂部が確認できる。

1枚目の写真の左端に写っているが、左側砲座から灯台側(写真手前側)にも弾薬庫または兵員待機所のような入り口を塞いだ跡がある。

▼前回行かなかった北門第三砲台。

砲台アクセス用に作られたらしいレンガ積みのトンネルを抜けると、すぐ左手に弾薬庫または待機所跡らしい塗り込めた二連の洞口。突き当りに納座がある。

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砲座は第一、第二とはずいぶん異なる形状で、半円形ではなく前方左右角の丸い長方形? ここに、砲(二十八珊榴弾砲)が2門ずつ置かれていたらしい。最後の写真は、砲座の左側にあるレンガ積みの揚弾井。第一砲台のようにトンネル状ではなく、横墻正面に口を開いている。

本来はこの横墻を隔ててさらに左に2連の砲座がもう一つあったらしいのだが、現在は見晴らし台(への通路?)の整備で消失している。

▼岬を越えて、自然博物館のちょっと先、たたら浜に降りる。

美術館で貰った「美術館から出発!! 観音崎公園お楽しみマップ」には「第2次世界大戦時のトーチカ」なるものが、たたら浜駐車場の脇にあると図示されている。

パッと見渡しても判らず、駐車場のおじさんに聞いてみると、「たぶんそのへんにあったんだけれど、もう撤去されてしまったのではないか」という、なんとも頼りない返事。「なくなっちゃったのか……」と少々落胆しつつ、浦賀方面に歩きだしたら、駐車場の端の端に現存していた。

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1枚目は海方向に向けた正面(道路/海岸線に向けてはやや斜め)。正面中央に開口部。2枚目は正面角の、表面がはがれた部分。3,4枚目は側方・後方に回っての写真。

さて、このコンクリートの構造物。GoogleMapsにも、「機関銃陣地跡」としてタグ付けされているのだが、サイト「東京湾要塞」では、「実験のための観測・監的所」ではないかと推測している。根拠は前後に鉄格子がはまっていること、正面開口部が単純に外側に向けて斜めに広がっていて(これでは跳弾が中央に集まってしまう)階段状になっていないこと、など。

言われてみれば、鉄格子はずいぶんがっちりはまっていて、後付けでないようにも見えた。また、写真では草藪に隠れてしまってよく見えないが、GoogleMapsには藪に覆われていない状態の正面写真も1枚載っていて、それを見ると、正面開口部が銃眼というには広すぎる。鉄格子が無ければ、大人がそのまま潜り込めそうなくらい広い。

なお、頂部に突き出た部分は通風孔のようにも見えるが、どうもどの面にも開口部がないようで、機能は謎。

▼その後、浦賀駅まで歩いて帰宅。

●週が明けて5日火曜日にも、法務局に用事があって横須賀へ(逗子市、葉山町は管轄が横浜地方法務局横須賀支局)。どうも最近横須賀づいている。

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写真1枚目は観音崎に行った土曜日に撮った「もがみ」型。先月に撮った時は桟橋の向こう側だったが、より姿がはっきりわかる。晴天下だと、なぜか船腹ではっきりと色が2トーンに分かれている。2枚目も同じ「もがみ」型で、火曜日に撮ったもの。船腹中央の大型ハッチを開いている。

3枚目は潜水艦桟橋で、今回は、前回よりも新型のシッポがX字のタイプ。「そうりゅう」型なのか、さらに新しい「たいげい」型なのかは、素人の私には判別不能。

Img20241026193726 ●まるで別話題。

鎌倉の小町小路(元の名前は小町大路、鎌倉の中心を南北に通る若宮大路の東側に並行する通りで、土産物屋通りで有名な新しい「小町通り」とは若宮大路を挟んで反対側にある)、蛭子神社の斜め向かいにあるセブンイレブンは、独自仕入れで、なぜか「インド菓子」を売っている。物珍しくてついつい買ってしまう。たまに「うわ。これハズレだ」と思うものもあるが、結構イケルものもある。

ビスケット/クッキー類はごく普通に美味い(たまにちょっと甘過ぎるのがある)。左下の空袋の「ムルック(Murukku)」は個人的にはハズレ。スパイシーなだけで味が何か足りない感じ。

右下の「ナブラタン・ミックス(Navratan Mix)」と左上の「オール・イン・ワン(All In One)」はそこそこ当たりな感じ。シリアル+ナッツ等々、細かいアレコレをスパイスで味着けたもの。オール・イン・ワンのほうが甘みと辛さが強かったように記憶。

上中央は食べかけで止めてあるので見づらいが、「ゴル・カチャウリ(Gol Kachauri)」。4センチほどの一口で食べるにはちょっと大きめの揚げボールの中に、甘辛い具がぎっしり詰まっている。これは味はかなり美味しいと感じたのだが、同じ会社(ハルディラム/Haldiram's)のミニサモサとか、上のムルック同様、ちょっと「揚げた油が回っちゃってる」感がマイナス点。

●さらに別話題。

ここ数か月のうち、道端でオレンジ色のハムシを見掛け、「ああ。ありきたりなウリハムシか」と思ったのだが、それにしては、クズの葉にいる(しかもクズの葉を食べているっぽい)のがおかしい。

ちょっと気になって調べてみたら、本当にごく最近、2016年に東京都目黒区で初確認されたらしい外来昆虫(中国原産)、クズクビボソハムシと判明。判って気にして見てみると、結構あっちにもこっちにも、大繁殖してクズの葉を食い荒らしている(写真は先月撮ったもので、さすがにここ最近、肌寒くなってからは見なくなった気がする)。

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クズはそのへんにいくらでも生えているので、適当に食えばよさそうなものだが、どうもこの虫、集団でまとまって食害する習性があるらしく、ほぼ無傷な葉がある隣で、ほとんど葉脈だけになった葉の上に何十匹も固まっている。……なので、「虫がたくさん」が苦手な人は卒倒しそう。

そもそも食草が、繁茂力が強く増え過ぎてしまって問題視されているクズなので、いくらでも食ってくれてOKな気もするが、とはいえ、「それはそれで問題が」となる可能性も結構ありそうな気がする。

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砲台に消えた子どもたち・2024

●10月20日日曜日。

本土決戦用に構築された西小坪海面砲台で戦後すぐに起きた爆発事故により亡くなった子どもたちの慰霊碑が、事故のあった南砲台跡の直下の道路脇に新たに建立されることになり、午後、その除幕式(慰霊祭)が行われた。

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爆発事故が起きたのは、1945年の10月20日で、ちょうど79年前ということになる。慰霊祭には逗子市長や地元自治会関係者ほかも参列。ざっと見た感じ、50~100名くらいの方が参列していたと思う。

私自身がこの洞窟陣地(西小坪海面砲台)の存在を知ったのはかれこれ10年ちょっと前で、爆発事故について知ったのがそのしばらく後。さらに慰霊のために建てられた慰霊碑があったことを知って近辺を探してたどり着いたことについては、2015年の過去記事「砲台に消えた子どもたち」で書いた。ちなみに「砲台に消えた子どもたち」とは、この事故を題材に、地元の児童文学作家・野村昇司氏が書かれた作品の題名。

過去記事で書いたように、もともと事故のあった洞窟陣地前に置かれていた慰霊のお地蔵は、その後ちょっと判りにくく、またいつも立ち入れるわけではない場所に移設されている。そのまま忘れ去られてしまうのは残念で、どうにかならないものかとずっと思っていたのだが、今回、新たにきちんと人目に付く場所に慰霊碑が立つことになった。

当初は「お地蔵様を再び移設する」計画だったようだが、「いつだれが、どのような供養の仕方で移したかわからない以上、今回勝手に移設することはできない。という遺族会の結論」により、新たな慰霊碑を作ることになった由。現時点では慰霊碑だけだが、「逗子の歴史を学ぶ会」の山田淑江さんから以前頂いたコメントによれば、今後、犠牲になった子どもたちの名や、事故の経緯などを記した碑も隣接して建つことになるらしい。大変よいことだと思う。

もっとも、私自身は「なんとかならないものかね」と思いつつ、言わば“横目で見ていた”だけの野次馬なので、あまり偉そうなことは言えない。実際に慰霊碑建立に向けて活動をされていた遺族会や「逗子の歴史を学ぶ会」ほかの皆さんの努力には頭が下がる。本当にご苦労様です。

●慰霊祭の後は、近くの小坪コミュニティセンター(以前の小坪公民館)講堂で、「~学ぶ会」主催により、西小坪海面砲台および事故の経緯に関する講演会があり出席。事故現場で遊んでいて、事故発生の直前に帰宅して難を逃れた(しかし兄を事故で失った)草柳博氏の回顧、事故の経緯を研究されている中澤洋氏の報告等を聞く。また、慰霊祭では遺族会からの記念品、講演会では遺族の証言等もまとめられた小冊子「小坪洞窟砲台跡爆発事故記録集」等を頂いた。

今までは、「日常的に砲台に入り込んで遊んでいたんだろうな」くらいにしか思っていなかったが、実際には、事故当時、日本側から米軍への引き継ぎで管理の空隙が生じていたらしいこと。また、事故に先立ち小坪小の高学年生徒を教師が引率して披露山の小坪高角砲台の見学を行っており、戦時中は軍が厳しく警戒していて近寄れなかった軍事施設に対する行動障壁が低くなっていた可能性もあること。

などなど、事故の経緯について初めて知ったことも多かった。驚いたのだが、亡くなった子どもの数自体、14~16名で、今なお確定できていないのだそうだ。

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後援会修了後、これまで何度か等「かばぶ」にコメントを頂いている「学ぶ会」の山田淑江さんに初めて直接お会いしてご挨拶。その後、小坪海岸トンネルシールド上の、もともとの慰霊のお地蔵さんを有志で見に行ったりする。山田さんほかの宣伝のおかげ?意外なほどに「『かばぶ』読みました/知っています」という方がいて驚くやら気恥ずかしいやら。いや、本当にどうもありがとうございます。

現場で「ブログを見に行きます」と言って下さった方もいて、いきなり見に来られて、(もともとは模型趣味のブログなので)「なんだこりゃ」と思う方もいらっしゃるかもしれないので、補足。

西小坪海面砲台や、披露山の小坪高角砲台の話をはじめ、主に逗子近辺の軍事遺構巡りについての話は、タグ「軍事遺構」。

西小坪海面砲台と私とのそもそもの関わりについては、上にもリンクを載せた過去記事「砲台に消えた子どもたち」。

基本は単なる「ミリオタ(軍事オタク)」ですが、戦争の回顧やら靖国神社やらに対する私自身のスタンスについては過去記事「インパール」。

――あたりを参照して頂ければと思います。

●講演会にも出席し、新たに知ったこともある一方、相変わらずよく判らないこともあり、改めて、西小坪海面砲台に関して整理し直してみようと思う。

▼砲台(洞窟)はどこにあったのか

西小坪海面砲台は、現在は逗子マリーナの「背景」になっている崖面、マリーナの造成前は小坪の集落と飯島/材木座を結ぶ崖面の切り道(親不知)に作られた。逗子マリーナの造成に伴って崖面の道は使われなくなり、洞窟砲台も埋められてしまった。崖面の道の跡は基本立入禁止となっているので(つい最近まで深い藪に覆われていたためもあるが)、現在では、もともと洞窟がどこにあったのかも、当時を知る人以外にはよくわからない状態になっている。

一応、当時の構成としては、崖面の向かって左側(鎌倉側)に北砲台、右側(逗子側)に爆発事故を起こした南砲台の2つの洞口があり、その中間に観測所の小洞口があったという。各洞窟は内部で連絡しており、今日お会いした方から少し聞いた話によれば、山の上の旧幣原邸敷地内にも抜ける坑道があったという。

Google Mapsには、「小坪海面砲台北側跡」「小坪海面砲台南側跡」というタグが表示されているが、現時点では、そのどちらの表示も本来の砲台跡とは大きくズレている。ちなみに「北側跡」タグには鎌倉市立第一中学校への坂途中の崖面に開いた洞窟の写真が添えられているが、これは西小坪海面砲台とは別の防空壕もしくは機銃陣地の洞口跡。

さて、本来の西小坪砲台の砲台位置の検証。

逗子市による写真アーカイブ「逗子フォト」には、おそらく戦後すぐに撮影されたと思われる、砲台のあった崖面の海上からの写真が掲載されている。矢印は私が加工・追加したもので、黄色矢印が「北砲台」洞口、赤色矢印が「南砲台」洞口を示している。

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これ自体は洞窟陣地の位置が判る良い写真だが、現在は前面に逗子マリーナの建物群があるために、現状との比較が難しい。そこで別角度の写真を探してみる。

下写真は、逗子市が公開している「逗子市文化財調査報告書(PDF)」のうち、「特別編 住吉城址 後編_図版1」から引用してきたもの。

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2枚組のうち上段写真は、上掲「逗子フォト」の写真よりもさらに鎌倉寄りの海上から撮ったもので、右側の三角の崖面が、「逗子フォト」の写真中央に写っている、底辺両側に洞窟砲台の洞口がある崖で、実際、上段写真でも三角の崖の向かって左下に北砲台の洞口が判る(画面右端にあるはずの南砲台は確認できない)。なお、海面に接するところに大きな穴が3つ開いているが、これは砲台とは無関係の海蝕洞(波で削られた穴)。

下段写真は、さらに鎌倉寄り/陸地寄りで撮ったもので、この角度では先述の三角の崖面は見えず、上段写真では左側に写っていた崖面だけが見える。

この2枚組写真を手掛かりに現状との比較を行ってみる。

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現状とどう重なるのかがなかなか判りにくいのだが、なんとか合わせてみた。まずは上段写真。現状写真の撮影は小坪飯島公園のグラウンドから。本当はもうちょっと右から撮ったほうが角度的には近そうだが、そうすると建物の被りが大きくなってしまうので、このくらいで妥協した。

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下段写真の比較。こちらも現況写真はもっとプール際に寄るくらいから撮ったほうが正解だったかも。

そしてもうひとつ、検証用の資料として、埋立前の海岸線、親不知の崖道、砲台の位置が書き込まれた手書き地図を挙げてみる。こちらは、「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」(鎌倉市中央図書館発行、鎌倉市中央図書館近代史資料収集室/CPCの会編集)に収められている、高橋二郎氏による手記「小坪の二門の砲台と戦後の小坪について」に添えられた図版を引用した。

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地図の右側には、海前寺下から崖下の道に入るあたりに現在も並んでいる庚申塚もしっかり記入されている。これと上の写真とを突き合わせて考えると、北砲台は現在喫茶店「コピ・ルワク」がある上あたり。南砲台は、冒頭書いたように、今回建てられた慰霊碑の上。そもそも現在法面に作られている階段は、南砲台前に建てられた慰霊のお地蔵への参拝用に設けられたものらしい旨の記述が、同資料本文中にもある。

手書き地図には、鎌倉側から「馬捨て場」「でんやく島」「かめのこ島」という崖下の3つの突出が描かれているが、これらはマリーナ造成に伴って消失。この場所は現在バスも通る道路が真っ直ぐ通っている。

なお、上手書き地図の左端の、海岸線が大きく窪み「大正時代にはこの位置につり橋があった」と書かれているのが、現在小坪海岸トンネルのマリーナ側出口があるところ。そのトンネル口上のシールド上に、もともとの慰霊碑である地蔵がある。

これも現状との対照のため、Google Mapsの鳥瞰をスクリーン・ショットしたものを挙げておく。

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画面中央右に、今回慰霊碑が建てられた階段、中央左に北砲台があると思われる場所の下に建つ喫茶店「コピ・ルワク」がある。小坪海岸トンネルのシールド上には、慰霊のお地蔵脇だけ草が無くコンクリートの地面?が見えている。左端駐車場に「小坪海面砲台南側跡」のタグが立っているが、これは前述のように間違い。この駐車場上の崖面には、確かに壕をコンクリートで塞いだような跡があるのだが、上掲の昔の写真と見比べて本来の砲台位置よりも横位置でズレているのはもちろん、上下位置で考えても低い。西小坪砲台との関連性は不明。

▼配備された砲は何だったのか

砲台の存在を知った当初は判らなかった「どこにあったのか」は、上述のようにほぼ特定できたが、未だによくわからないのが、「砲台に据えられた砲は何だったのか」という点。

以前から何度も紹介している、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)は、戦後すぐにまとめられた、米軍への引き渡し用のリストで、周辺の各種砲台に配備された砲の種類、数、弾薬数、状態(尾栓の有無など)、関連する装置(測距儀や探照灯などの)の数などがリストアップされている。だが「十五糎砲台之部」のリストの中に、「西小坪 (門数)二 (弾薬数)二〇〇」とあるのみで、砲の形式名は書かれていない(ただし、測距儀に関しては九七式二米高角測距儀が1基配備と、形式名も明記されている。……なぜだ?)。他資料を見ても、砲種は15cmカノン砲(加農砲)としか出ておらず、やはり形式名は判らない。同資料に載っている近隣の「十五糎砲台」は、佐島(3門)、長者ケ崎(2門)、黒崎鼻(3門)がある。

この「主武装」である15cmm砲2門の他に、おそらくこの洞窟陣地そのものの防衛用に、「短十二糎砲」1門および「二十五粍単装」2門が配備されたことになっている。これについては、「短十二糎砲」は海軍の装備中に1種しかなく、25mm機銃についてはリストに単装・連装・三連装とあることから、日本海軍の代表的対空機銃で、その三種が揃っている九六式二十五粍機銃のことであろうと推察できる。

なお、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」は1945年(昭和20年)11月18日付で作成されている資料で、西小坪砲台の爆発事故の直後にまとめられた資料ということになるが、爆発事故に関連する注釈等はつけられていない。

これとは別に、今回の講演会で紹介されていて知ったが、爆発事故に関する公文書のひとつ、昭和20年11月23日付の終戦連絡横須賀事務局から中央への業務報告(10月分)には、「二十日、逗子小坪ニ於テ三三糎砲墟内爆発事件アリ」と記されているらしい。これに関しては、口径33cmの大口径砲など戦艦の主砲クラスに近く、またそもそも日本陸海軍の装備には33cm口径の砲はないので、誤記であろうと思われる。

というわけで、「十五糎砲」の正体探しの続き。

講演会では、私がこれまで見たことがない昔の写真(調査に訪れた米兵が洞窟砲台前に立っている写真や、マリーナ造成中の写真など)もスライドに登場して興味深かった。特に調査に訪れた米兵が立っている写真は、洞口から突き出した砲身も一緒に写った貴重なもので、これによって15cmクラスの中口径砲、しかも長砲身(つまりカノン砲)らしきことは確認できる。

一方、同じく資料スライドでは配備されたとされる15cm砲の例として、靖国神社の遊就館に収められている八九式十五糎加農砲の写真が写されていたが、これは陸軍の砲であり、一方で西小坪砲台は海軍の砲台なので装備体系が違う。もちろん、陸上で運用する兵器ということで、海軍が陸軍から融通してもらったという可能性も考えられなくはない(例えば、海軍陸戦隊が陸軍から戦車を供与してもらっているというような例もある)。

しかし、今回頂いた「記録集」に掲載された草柳博氏の証言によれば、配備された砲は「ボタン一つで前後に動き、また砲門が上下に動く」とある(それもまた子どもたちの興味を惹いたようだ)。陸軍の十五糎砲で可能性として考えられる対象は前述の八九式十五糎加農砲、九六式十五糎加農砲などがあるが、いずれにせよ陸軍の砲なら俯仰はハンドル/ギアの人力のはず。

となると、電動油圧の動力機構が組み込まれていた海軍の艦船搭載用火砲である可能性が高くなってくる。その場合に候補として上がるのは、50口径四十一式15cm砲か。それよりちょっと旧式の40口径安式15cm砲というのもあるが、明治時代の砲なので動力装置は付かないかも。戦艦「三笠」の船腹に並んでいる副砲がこの安式(英アームストロング社製を示す)15cm砲らしい。現在の記念館三笠に付いている副砲はレプリカだと思うが、砲の左右動は砲尾についたΩ形の輪っかに人間が入って、力業で動かすスタイルだったような。

いずれにせよ、この2種の艦載砲のどちらもwikipediaの解説を読む限りでは陣地砲への転用などには触れられていないのだが、逗子近辺の戦跡巡りと調査で大いに助けてもらっているサイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の中の解説によれば、例えば佐島砲台の3門の砲は「40口径安式十五糎砲2門、40口径41式15糎砲1門」だったとある(後者は50口径の誤りか)。横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」で同一砲種の砲台として扱われている近隣の砲台で、海軍の艦船搭載用のこの種の砲が据えられていたらしいことがわかる。

ただ、西小坪砲台の装備砲については「東京湾要塞」にも記述がない。また、ネット上で検索する限り、この二種の艦載砲を地上の砲台に配備する場合に、どのように据え付けているかの写真や解説なども見当たらない。今後、何らかの新資料が出てくることを望みたい。

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ミニスケール2題

●暑くてダレているせいもあって模型作りも低調。ただ、手すさび的に漫然といじっているものはあって、そんな2つを軽く紹介。どちらもミニスケール(1:72)、かつ組立途中。

Img20240702214831 ▼一つ目は、THE WORLD AT WAR 1:72の「巡航戦車Mk.I(A9)CS」。

購入時に書いたレビュー記事はこちら(2020年12月6日

防盾の部分だけ色が違うのは、ディテールアップをしようとかではなくて、いじっているうちにぽとっと落として、そのまま行方不明になってしまったための作り直し。

なお、私は(そこそこ熟練のモデラーではあると思っているが)結構、部品破損や紛失のアクシデントが多いボンコツなので、そのたびに泣く泣く部品を新造する羽目になる。一応、自分自身への戒めもあって、「代わりに自作するパーツは、少なくとも無くした/ダメにした部品とおおよそ同等か、それ以上のものにすること」というハードルを課している(本当にそれを完遂できるかどうかは微妙だが)。

なお、この防盾はまだ工作途中で、これからディテール工作予定。

レビューにも書いたが、このキットの最大の問題点は、指定塗装/デカールが(箱絵も)1940年フランス戦時の大陸派遣軍のものなのに、パーツは、アフリカ戦の大型サンドシールドが入っていること。レビュー記事からの再掲だが、パーツはこんな感じ(左右で形状が違う)。

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さすがにこのためだけに2ポンド砲型を買ってキットを一つ潰すのは嫌だし、キットのパーツを削り込んで、なんとか通常型フェンダーらしく見えるようにした。

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履帯は、エッシーのバレンタインを探し出して換装するなどという贅沢はせず、キットのまま。もっとも、側面から見た時の雰囲気はエッシーの履帯よりキットの方がよいので、換装する効果はちょっと微妙な気もする(ガイドホーンがカマボコなのは、やはりちょっと気になるが)。

Img20240702215005 ▼2つ目は、First to Fight 1:72の「PRAGA RV 6輪トラック」。

購入時のレビュー記事はこちら(2016年12月27日)

もともとチェコスロバキア軍用に作られた軍用トラックで、大戦中はスロバキア、ポーランド、ルーマニア、ドイツでも使われ、小国者的にはちょっと美味しいはずのアイテムなのだが、残念なことに資料写真に乏しい。しかも何しろ元がただのトラックだから、何軍に使われていても塗装やマーキング等で変わり映えがしない。

というわけで、いじり始めてはみたものの、完成に向けての意欲はいまひとつ。

ちなみに、後輪が2軸かつダブルタイヤなので、かなりの重車輛に感じるが、積載量は2tだそうだ。

一応、ちょっとだけ手を加えたのは、幌を張った仕様のキットと共用パーツのため、幌骨の下半分がモールドされていた荷台側板から、その幌骨を削り取ったこと。元パーツは下のような感じ(レビュー記事からの再掲)。

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削り取った跡を、もうちょっと綺麗にする必要はあるかも。

また、この車輛は前後輪ともにポジティブキャンバーが付いている(前後方向から見て、車輪が逆ハの字になっている)。後輪まで、しかもダブルタイヤなのにキャンバー角が付いているのはちょっと珍しいかも。キットはそのままだと前後とも垂直になってしまうので、角度を付けて接着した。当然、角度を付けても後輪内側が接地するよう、接地面は多少ヤスって平らにした。

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ただ、こうして写真で見ると、ちょっと後輪の角度が足りなかったかな?

あとは、キャビン横ドアの後縁にケガキ線を入れた(キャビンとドアが一体化していたので)。

●先週水曜日(26日)、仕事で横須賀へ。ついでに、先日「のの字坂」記事へのコメントでみやまえさんに紹介してもらった、旧東京湾要塞砲台(米ヶ浜砲台)跡地の「平和中央公園」に行ってみる。横須賀中央駅からはすぐ近く……なのだが、結構な高台にあって、いきなり長い階段を上る羽目になってへろへろ(なので、話の発端の電柱の銘板までは見に行かなかった)。

砲台跡地と言っても、元が明治時代の、港湾防御用のものなので、大戦中の高射砲陣地のような円形のベトン(コンクリート)製砲座などは残っていない。弾薬庫?の壕は残っているが、砲そのものがどのように配置されていたかなどは、現状の風景からは想像しづらい。

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ちなみに、この砲台には、日露戦争の際に旅順攻略に持って行った二十八糎榴弾砲(wikipedia記事)と、それより小径・長砲身の二十四糎加農砲(wikipediaに記事無し)が配備されていたらしい。

高台の公園なので見晴らしは良い。東京湾要塞の遺構としては、より大規模かつ濃密に残っている猿島が、ちょっと見下ろす感じに見える。

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みやまえさんお勧めの「横須賀市自然・人文博物館」は臨時休館で入れなかった。残念。

●昨年末に横須賀市のマンホールカードが増えて、新しいカードはドブ板通りの「ドブ板ステーション」で配布されているとのことだったので、行ってみたら水曜定休だった。がっくし。

貰えないとなると悔しくなったので、仕事帰りに足を伸ばして、三浦市のマンホールカードと、横須賀市の3種目のカードを貰いに行く。

三浦市のカードは、三浦市役所(三崎口駅からバス)または三浦市観光インフォメーションセンター(三浦海岸)で同じものが配布されているようで、行きやすい後者のほうへ。

三浦海岸へは(少なくとも覚えている限りでは)初めて行ったが、砂浜がものすごく広いうえにベージュで美しい(写真1枚目)。これに比べると、逗子の砂浜なんて猫の額だし、砂の色は灰色であまり綺麗ではないし、ゴミも多い。すごく負けた気分。東京湾のくせに!東京湾のくせに!

横須賀市の3種目のカード(発行順から言えば2種目?)は、「浦賀奉行所開設300周年記念」の絵柄で、浦賀駅からちょっと歩いた先の「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」が配布場所。写真2枚目はその途中で見た歯医者さんの看板。いや、いくら浦賀でも、この名前はちょっとどうなんだろう……。

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仕事の時間はわずかで、外出時間の大半を「三浦半島をうろうろ」で過ごした感じ。ともあれ、カードは2種増えた。今度改めて、ドブ板通りのものも貰いに行こう……。

●今度の週末は東京都知事選挙投票日。

今回の都知事選、私の知り合いも出馬しているのだが、知り合いといっても、もうかれこれ30年くらい会っていないし、向こうもたぶん覚えていないと思う。そもそも私は東京都民ではないので(都民だった時期はある)、応援も支持もへったくれもないが、とりあえずは「まあ、頑張ってね」くらいは思う。

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梅雨入り前のあれこれまとめ

●今年は梅雨の入りが遅いとか。

実際にはそこそこ雨の日もあるが、まだ「降り続く」という感じではない。梅雨入りは平年は6月7日なのだが、今年は月後半までずれ込みそう、下手をすると「梅雨を飛び越して夏が来た」になる可能性さえあるとかなんとか。

2019年秋のように、またいきなり暴風雨が複数回やって来るみたいな、異常な天気続きにならなければよいけれど。

●また当「かばぶ」の更新をさぼって、ずいぶん間が開いてしまった。その間のあれやこれや。

●「プレッツェル行脚」のその後。

逗子に隣接する葉山町長柄の外れに「earth7716factory(アースなないろファクトリー)」というパン屋さんがあり、そこのプレッツェルを、義妹が買ってきてくれた(5月中旬)。

しっかりと「革靴のような色艶」の“ラウゲン・ブレーツェル”(ラウゲン液処理されたプレッツェル)で、これまで食べたソフトタイプのプレッツェルの中でも最上位クラス、と感じた。残念なのは、その店が(距離自体はそれほどでもないのだが)車でもないと行きづらい、非常に不便な場所にあること。

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プレッツェル話その2。JR新橋駅構内、ecute内にあったドイツ飲み屋で、ソフトプレッツェルのテイクアウトもしていた「le petit IMBISS」が、先日行ったら閉店していた。うーむ。残念。

●前回書いた、沼間~田浦の山歩きで収穫したクサイチゴは、やや中途半端な量だったが、煮詰めてジャムに。昨年よりも色よく仕上がった。

もともと、我が家の近所では一番普通に採れたカジイチゴは、一番茂っていて毎年楽しみにしていた場所がごっそり刈り取られてしまったのだが、別の場所で、しっかり旬の味を楽しむくらいにはつまみ食いできた(最後の写真)。

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5月の終わり頃からは、ここ数年恒例のマダケのタケノコを収穫。いつも通り、メンマ風のピリ辛炒めや土佐煮なども作ったが、今年の初挑戦として味噌焼きも。単純に醤油を垂らして焼くよりも美味しかった。これは定番に採用しよう。

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●ポカリスエットのCMに、地元町内のバス停が出ている!……というのを、facebookの地元のニュースグループで教えて貰った。ありゃま、ほんとだー。

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左、CMキャプチャ画像は、ポカリスエットCM・「潜在能力は君の中。」春篇より。

ちなみにこのバス停は、京急バス【鎌40】逗子駅発・鎌倉駅行きの「小坪海岸」バス停。同系統でも鎌倉駅発・逗子駅行きは経路がやや異なり、このバス停は通らない。

よく見ると、「バス停の形が違う」「道路端に白線が引かれている」などなど若干の違いもあるのだが、ストリートビューで10年ほど遡ってもCMアニメの状態は確認できないので、おそらくアニメにした際の改変。

Img20240608173106 ●終戦直後に爆発事故があった「西小坪海面砲台」については、これまでも何度かここで話題にしているが、これに関して、今月下旬に講演会が開かれるそうだ。

地域の掲示板に貼られていたパンフが右。

現在はちょっと入れたり入れなかったり、微妙な場所に置かれている慰霊碑が、元の「南砲台」洞口近くに移設される件についてもパンフ解説文中に触れられており、(話としては聞いていたが)本決まりになったらしいことがわかる。

●模型話も書こうと思っていたが、だらだら長くなりそうなので改めて。

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