軍事遺構

鷹取山高角砲台

●我が家のお嬢は(以前は「ちび」と書いていたが、さすがにお年頃になってきたので改称)、まるっきりのインドア派だが、「春休み中に一度は山歩きに行くか?」と誘ったら、意外にも「行きたい」というので、人が少なそうな平日(2日金曜日)、昼食後に出掛ける。

山歩きに慣れないのを連れて行くので、いちばん楽な二子山上ノ山に行こうと思っていたが、事前に家で検索したバスの時刻表を間違えていて、南郷方面へのバスが当分ないことが(逗子駅前でしばらくバスを待ったあとで)判明。

仕方がないので急遽行先変更。電車で一駅、東逗子まで行って、神武寺経由で(久しぶりに)鷹取山に登ることにする。

東逗子から神武寺までは、一応参道なのでそれほど険しい道はなく、神武寺から鷹取山までも(途中、鎖を張った急斜面を横断するところもあるが)尾根伝いなので極端な起伏もなかったはず――と思ったからだが、それにしても行き当たりばったりなのは言い訳出来ない。ちなみに以前に鷹取山に登ったのは、(今改めて調べてみたら)もう8年も前のようだ。

結果から言うと、お嬢は別に疲れた様子もなく文句も言わず、鷹取山山頂まで景色を楽しんだり写真を撮ったりしながら普通に歩き通した。傾斜のきついところを降りる際にはちょっとビビっていたが、20年以上前?に同じコースを歩いていた時に、当時小学校に上がるかどうかだった息子(お嬢にとっての叔父)が調子に乗ってホイホイ進んで急斜面を滑落した轍を踏むよりはずっとよい。

●行程で見かけた虫。

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1枚目:逗子駅前で来ないバスを待っているあいだ、いつのまにかポーチに止まっていたもの。セスジジョウカイの仲間?

2枚目:神武寺への参道にいたアオオサムシ。もう少し、木漏れ日の強いところにいれば光り方も違ったのにちょっと残念。

3枚目:「よくいるトラカミキリだよね」と思っていたら、意外に同定に苦労。カミキリムシ屋さんではないので自信はないが、トガリバアカネトラカミキリ? 鷹取山の展望台で。

●風はちょっと強めだったが天気も良く、山歩きには格好の日。

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1枚目は頂上展望台から見下ろした山頂広場。2枚目は展望台から見た(本来登るつもりだった)二子山。普段西側から見る時と違って、もうちょっと上ノ山、下ノ山が離れて間の谷がゆるやかに見える。

鷹取山はかつての石切り場跡なので石を切り出した後の垂直の崖面だらけだが、ところどころ、秘密基地めいた行き止まりの場所もあってなかなか楽しい。

山頂広場下の湘南鷹取の住宅地から追浜駅前までバスに乗る。それにしても、三浦半島の山を越えて東京湾側であるにも関わらず、新興住宅地に「湘南」と付けるのはいくらなんでもな気がする。以前、みやまえさんに教えていただいた「横須賀市グリーンハイツ」(マンション名ではなく町名!)はさらに強烈。横須賀市は地名に関してフリーダム過ぎる。

追浜駅前では、国道沿いの「シャッター商店街」をしばらく散策(「寂れたお店には何かお宝が眠っているかもしれない」というお嬢の要望による)。産業らしい産業もない逗子よりも、沿岸部に大工場が並び山側には大規模な新興住宅地が広がる追浜の方が、駅前のゴーストタウン化が著しいように見えるのはやや不思議。

駅前にある下写真の病院(鳥海病院)は、門柱にある「田浦三〇三三番」の電話番号といい、いかにも戦前から風の佇まいが目を引く。横須賀市役所のサイトで閲覧できる「新・追浜歴史年表」という資料によれば、昭和8年(1933年)、もっと海寄りの場所にあった同病院が、この場所に移転してきたとある。おそらく、その当時の建物なのではないかと思う。

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●表題の高角砲台について。

これまで紹介してきた小坪や二子山、武山(砲台山)、衣笠などと同様、鷹取山にも高角砲台があった。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」によれば、終戦時に配備されていたのは、

  • 十二糎高角砲:4門(弾薬数:275発)
  • 二式陸用高射器:1基
  • 九八式高角四米半測距儀:1基
  • 九七式高角二米測距儀:1基
  • 九六式一五〇糎探照灯:1基
  • 二十五粍三連装機銃:1基
  • 十三粍単装機銃:2基

であるらしい。

これまで紹介してきた近所の砲台跡は、程度の差はあれ、何らかの遺構は確認できたのだが(最も痕跡が薄かった畠山でも、砲台道と窪地は確認できた)、鷹取山の場合は、山頂の展望台から見まわしてみても、それらしい痕跡は何も見当たらない。

毎回、周辺の軍事遺構を訪ねる際にお世話になっているサイト「東京湾要塞」の「鷹取山高角砲台」のページを見ても、現在は住宅地となって何も残っていないと書かれている。

●とはいえ、「実際にどこにあったか」程度は知りたいと思ったので、例によって、国土地理院の国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」から、新旧の航空写真を引いてきて対照してみた。

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左は終戦から間もない、1946年3月5日に米軍によって撮影されたもの(写真コード「USA-M64-A-6-69」から切り出し加工)。右はごく最近、2019年8月7日撮影のもの(写真コード「CKT20194-C13-58」から切り出し加工)。縮尺、方向など完全に正確ではないが、おおよそ重なる形に切り出してみた。

画面の右を上下に走る街道は現在の国道16号で、京浜急行の線路が並行している。右上の弓状になったまん中(①)が京急追浜駅で、ちょうど弓につがえた矢のように直角に横に伸びるのが夏島貝塚通り。当時から変わらない特徴的な敷地の②は追浜小学校。この目立つ2つのポイントが、位置特定に大いに役立った。

ちなみに現在の鷹取山山頂広場が③。当時は公園もなく石切り場だったままなので、どこが山頂なのかもよくわからない状態。現在はその直下にある鷹取小学校も、当時は影も形もない。

写真中央の黄色楕円枠内が「鷹取山高角砲台」で、鷹取山山頂と追浜駅の中間くらいにある。周辺の他の高角砲台は、皆大なり小なり「山のてっぺん」に作られていたが、鷹取山の砲台はちょっと中腹に下った辺りに作られていたことがわかる。もっとも、湘南鷹取の住宅地造成の際に削られただけで、この地点に小ピークがあったのかもしれない。またよく見ると、街区(道路)の形が、ちょっとだけ、当時の陣地の外形をなぞっているような感じもある。

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高角砲台部分の拡大が上写真。おおよそ海側(東側)に向け、扇形に砲座が4つ並んでいる。円形が破線上になっているのは、おそらく、同じ12cm単装砲が配備されていた二子山高角砲台同様に、弾薬仮置き場の「箱」を埋め込んだ土塁の砲座だったためではないかと思う。砲台から南への道をたどった先には、関連施設らしきものも見える。

以上は帰宅してから調べたもので、今回は近くを素通りしてしまったが、そのうちまた行く機会があったら、この場所自体をちょっと見て回って、本当に何の名残りもないのかを確認してみたい。

●オマケの追記。

上とは別の、1946年2月15日の米軍撮影の空撮で、同地域のもう少し東側を見てみる(写真コード「USA-M46-A-7-2-51」から切り出し加工)。

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この写真では、鷹取山高角砲台は画面の左下。中央左側に、追浜駅前の国道の「弓形」と、それにつがえられた矢の現「夏島貝塚通り」がある。通りの先、画面右半分には海軍航空部隊の“総本山”と言っても良い、横須賀海軍航空隊の追浜飛行場が広がる。こうしてみると、追浜駅は、まさに追浜飛行場の玄関口にあたる駅であったことがわかる。

追浜飛行場の北側には海が切れ込んでいて、細い水道を隔てて一部見えているのが野島。島の山には、航空機を避難させるための巨大掩体壕のトンネルが掘られているのだが、そういえば、中学校の頃に一度見たきりだなあ。当時はトンネルの中には入れたような記憶があるのだが、思い違いかも。とにかく今は両側とも入口は封鎖されていて、簡単な案内(解説)板が立っているそうだ。今度行ってみよう。野島の西側(左側)の平潟湾は現在よりもだいぶ広い。

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観音崎

●仕事が途切れて暇なので(経済的には結構ヤバイ)、25日木曜日、ふらふらと観音崎まで出掛ける。

実を言うと、20年以上も付け根とはいえ三浦半島の住民として暮らしていながら、いわば「地元の名所」である観音崎には行ったことがなかった。もっとも今回も、「よし、今日こそ観音崎へ行こう」などと気合を入れて出掛けたわけではなく、実際には岬のすぐ近くにある横須賀美術館に「飛行機と美術」展(2月6日~4月11日)を観るつもりで行ったのだが、直前まで行って美術館はヤメにして、岬だけ散歩してきたもの。

おかげで、しとしと雨が降って見晴らしも悪いし歩き回るにも面倒なコンディションの下、何が見られるかの下調べも不十分なままでの観音崎初訪問になってしまった。そのうち、天気の良いときにまた行きたい……。

観音崎は、東京湾の入り口近く、富津の砂州との間で東京湾が最も狭まった、いわば「門」にあたる。

日本初の西洋式灯台である観音崎灯台が1869年(明治2年)に建てられただけでなく、東京湾防衛のため、明治10年代以降、陸軍によって要塞化され、いくつもの砲台が設置されている。いわば門柱に組み込まれた守衛所ですな。

●観音崎バス停から海沿いの遊歩道を歩く。

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左はバス停のある広場からすぐの入り江(観音崎海水浴場)に突き出た、何やら古い構造物。さらにその先の海上にテーブル状の構造物。例によって国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で戦後すぐの米軍の空撮写真を見ると、手前の円形部分から、海上のテーブルまで橋が架かったようになっている。小型船用の小さな桟橋だったらしい。

右は海食崖に開いた岩窟で、手前の小さな祠には観音様が祀ってある。この岩窟に、天平の昔(8世紀)、行基が十一面観音菩薩を祀ったのが「観音崎」の名の由来だという(もちろん、今ある観音様は行基の祀ったものではない)。

遊歩道の途中から、灯台へのジグザグの上り道がある。その最初の曲がり角に、陸軍石標と、「観音崎燈臺所轄地」と書かれた横倒しの石標。

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再び遊歩道に降りて海沿いを進む。磯に、何やら不思議な形をしたコンクリートの構造物が転がっている。帰宅後調べてみたら、関東大震災で倒壊した2代目の観音崎灯台の残骸だそうだ(現在の灯台は三代目)。

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さらに岬の突端に、これまた謎のコンクリートの小屋のようなもの。これは、1930年代になってから作られた、東京湾に侵入する潜水艦に備えた固定式ソナー施設の聴測所である由。右写真は、後述のトンネルを抜けた先、観音崎自然博物館手前の展望園地から振り返る形で撮ったもの。

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岬の先端部は海上自衛隊の施設敷地だとかで立ち入りできず、したがって、上記の聴測所も近付いて撮影することはできない。そんな立ち入り禁止の敷地内の向こうに、何やら石碑が立っている。

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これまた後から調べてみると、この目の前の浦賀水道で、1988年に発生した海自の潜水艦「なだしお」と、釣魚船「第一富士丸」の衝突事故の慰霊碑であるらしい。そんな慰霊碑を、一般に立ち入りできないような場所に建てて、近くに何の案内も説明もないというのは(特別の作為はないとしても)ちょっと如何なものかと思う。

上の柵を過ぎたところで遊歩道はちょっと陸側に折れ、岬の最も出っ張った部分は隧道で通り抜ける形になる。隧道の手前には何やらコンクリートの構造物(弾薬置き場?)があり、この遊歩道と隧道も、もともと要塞(砲台)関連のものであったらいいことを感じさせる(隧道内にも横穴をふさいだ跡がある。

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隧道自体は素掘りで、内面は傾斜した地層の縞模様が顕著。ご近所の鎌倉近辺にもこの手の素掘りの小トンネルは多いが、それらと比べても素敵度が高い。

上の隧道を抜けた先にある展望園地/観音崎自然博物館まで行って折り返し、今度は岬の上に上って灯台を目指す。後で調べたところによると、展望園地も旧砲台跡(南門砲台)とのことだが、現在は「地形的にそれっぽい」というだけで、遺構の類は何も残っていないようだ。ただし、(隧道側から見て)展望園地手前にある道路横の石積みは古いもののようだ。

灯台を目指して坂道を登っていくと、突然目の前に、いかにもな遺構が現れる。観音崎砲台のうち、最初に作られた2つの砲台の1つである第一砲台で、1880年(明治13年)起工、1884年(明治17年)竣工(ただし、起工・竣工年は一緒ながら、起工日は第二砲台の方が若干早かったらしい)。

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すり鉢状の披露山の対空砲座などと違い(そもそも建造年代もまったく違うが)、こちらは海に向かって半円形の砲座が左右に並び、その間をレンガの小トンネルが結んでいる。煉瓦は表面が各段とも長短交互になったフランドル積み。現在は塞がれているが、このレンガのトンネルの下に弾薬庫があるらしい。

海に向かって左側の砲座のさらに左、灯台側に進む途中の石壁にも、現在は塞がれた小アーチの入り口がある(最後の写真)。

第一砲台を過ぎてさらに歩くと、これまた縞模様が素敵な小切通抜けたところに、観音崎灯台がある。

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灯台に着いたのはちょうど17時頃。もう少し早ければ、灯台に上ることもできたのだが、それを知らずにぐずぐず遠回りをしてしまって間に合わなかった。惜しいことをした。

●本来は、第一砲台と灯台の間に、さらに山側に上る道があり、そちらに行くと第一砲台よりさらに規模が大きい第二砲台があるのだが、おそらく一昨年の台風のせいで道が不通になっていて行けなかった(海岸遊歩道入口あたりから登る道も不通だった)。裏側から回り込むように行くことはできるかもしれない。

また、バス停よりも走水側にある「三軒家砲台」跡も多くの遺構が残っており見応えがあるらしい。

今回は「予習」ということで、近々また出掛けてみたい。

●ちなみに、公園の案内図はこちら(神奈川県立観音崎公園「みどころMAP」)。

砲台等に関する情報は、いつもの通りサイト「東京湾要塞」さん(特に同サイトの「観音崎砲台マップ」、「観音崎砲台ガイド」)に大いにお世話になった。

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ウグイスの初鳴き

●19日金曜日、名越の山の中でウグイスのさえずりの初鳴きを聞く。

「いや、ちょっと待って。今のウグイスの声だよね? ウグイスって2月にもう鳴くもんだっけ?」

などと思いつつ、立ち止まってしばらく待ってみたが、結局、第2声は聞けなかった。

あれは結局聞き間違えだったんだろうか、などと思っていたのだが、21日日曜日、二子山に登りに行って、二子山上ノ山~下ノ山~阿部倉山と縦走する間に、今度は数回耳にした。

ちなみに「ウグイスの初鳴き」は、気象庁がまとめている「生物季節観測」のメニューの一つに取り上げられていたのだが、2020年11月、気象庁は生物規則観測の対象となる種目・減少を大幅に削減することを発表。ウグイスの初鳴きも、対象から外されてしまった。

大幅削減の理由は、個体数の減少などにより観測自体が難しくなったり、ブレが大きくなったりしたためだそうで、動物23種、植物34種が対象だったものを、動物(ウグイス含む)は全廃、植物もアジサイ(開花)、イチョウ(黄葉・落葉)、ウメ(開花)、カエデ(紅葉・落葉)、サクラ(開花・満開)、ススキ(開花)の6種目9現象に絞られることになった。寂しいことよ。

●上で書いたように、21日日曜日、二子山に登る。

ここのところ、近所から二子山をはるかに眺めて、「そろそろ久しぶりに行くか」と思ったのが一つ。さらに、草が茂っていないこの季節こそ、二子山上ノ山から下ノ山、阿部倉山のルートを歩くにはもってこいなのではないか、と思ったのが理由の二つ目。

Hutago 以前にも書いたが、二子山上ノ山山頂までは、高角砲陣地があった名残りで自動車も通れる「砲台道」が続いているため、お散歩感覚で登ることが出来る。が、そこから先、双子の片割れである下ノ山と、それに隣接する阿部倉山にも足を延ばそうとすると、途端に道は面倒臭くなる。

そもそも二子山の二つの山は「寄せて上げて」みたいな格好をしていて、間の谷は妙に深く切り立っている。上ノ山から下ノ山にハシゴするには、その谷を「降りて、登って」する必要がある。右写真は名越の大切岸から見た二子山。この角度からだと阿部倉山は下ノ山の手前になるので判らないが、下ノ山と阿部倉山の間の谷も結構険しい。

そもそも上ノ山山頂と違って、下ノ山山頂と阿部倉山山頂には何があるというわけでもないので、そちら方面に歩くのは、初めて二子山に登った時以来。

●まあ、一応上ノ山に来たからには、恒例行事的に砲座跡と、藪の中の探照灯台座(?)のコンクリート柱を撮る。

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相変わらず、藪の中のコンクリート柱は頭がかすかに見えるだけ。

前述のように上ノ山から下ノ山、阿部倉山に向かう道はかなり険しく(といっても、もちろん、逗子・鎌倉近辺の山のレベルで「険しい」なのだが)、途中は上り下りの補助のためにロープが張られている場所も。久々に歩くと結構きつく、ああ、hn-nhさんやみやまえさんを道連れにしたい!などと不穏なことを考えたが、前述のように下ノ山や阿部倉山に軍事遺構の類は特にないので、多分付き合ってくれないだろうなあ。

下写真群1枚目は上ノ山と下ノ山間の道の最も低い部分の尾根。この写真だと、「まっすぐ綺麗な歩きやすそうな道」にしか見えないが、左右はほとんど断崖絶壁という、逗子・鎌倉近辺の山ではよく見る狭い馬の背の尾根。3枚目は下ノ山山頂。以前に訪れたときは普通だった看板が、アバンギャルドな状態に。これも前に書いたが、終戦直後の米軍の空撮写真を見ると、下ノ山山頂にも何かの施設(観測所?)があったように見えるものの、現在は(ちょっと怪しい深い窪地以外)特に何の痕跡もなく、木も茂っていてまったく見晴らしも利かない。

4枚目は下ノ山~阿部倉山間の最も傾斜がきつかった下りで、この写真だと判りづらいが、写真の道の先と足元とでは、たぶん5m以上の高低差がある。しかし、こんなに険しい山道なのに、片側の谷の木々を通して南郷中学校や南郷上ノ山公園が見え、公園のグラウンドで遊ぶ子どもたちの歓声やサッカーボールを蹴る音が響いてくるので、なかなかシュールだ(結構奥山に踏み入った気がするのに、ふと気付くとすぐ横が住宅地、というのは、逗子・鎌倉の山道にはよくある)。

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6、7枚目は阿部倉山から降りきったところの石仏群。最後の1枚は人里に降り立って振り返ってみた阿部倉山。二子山もそうだが、お椀を伏せたような山なので、ふもとでむしろ傾斜がきつく、山頂は割となだらか。

●ここのところ毎年、フキノトウの収穫をアテにしている野原が、今年は冬の間に草刈りされなかったこともあってか、ほぼ壊滅状態で、ごくごく小さなフキノトウが少数しか採れず。

半ばあきらめかけていたのだが、あちらこちらで少しづつ採り集めたら、結局はある程度の量になったので、フキ味噌とオリーブオイル漬けを作った。相変わらず、材料の分量に関してはまるっきり適当。

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今年のフキノトウはこれで打ち止めかなあ。ちなみにノビルも全滅状態。

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大楠山再訪

●どうも最近しっかり歩いていないし、体重も増えてきたし。ということで、好天に恵まれた日曜日の昼食後、久々に午後いっぱい歩きに出掛ける。

実のところ、家を出る時点ではどこに行くかもはっきり決めておらず、とりあえずふらふらと逗子駅前まで。

武山の地上発進型「桜花」の訓練基地跡に行くかとも思っのだが、そちらはそのうちhn-nhさんやみやまえさんと行こうという話もあったのでパス。結局、なんとなく昨年末に登った大楠山(三浦半島最高峰)にもう一度登ってみることにする。

前回登った時は山の北東側、阿部倉温泉側から登って南西の前田橋へ下りたのだが、今回は南の大楠芦名口から登り、北西の湘南国際村へ抜けるルートを通った。

20201025_144531 ●大楠山は山頂付近に通信会社の中継施設や国交省の気象レーダーがあるため、それら施設までは自動車で登れる道がある。というか、今回言った大楠芦名口からのルートがまさにそれだった。登り始めてしばらく、右のような案内板が立っていた。曰く、

へっぴり坂
芦名側のなかで最も傾斜の急な坂道。
その名がおもしろい。

しかし実際には、はっきり言って我が家の前の坂道のほうがよほど急。

というわけで、山頂までの距離はそこそこあるものの、少なくともこのルートは二子山上ノ山同様、「お散歩感覚で登れる初心者コース」という感じだった。車の通れる道は前記の通信施設およびレーダー施設行きなので、山頂広場への最後のアプローチだけは階段道になるが、それはさほどの距離ではない。

●同ルートをたどって、山頂までもう少しという地点で、道端に小さな洞穴が口を開けていた。

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2連になった、向かって左側が入り口で、右側は奥行き1mもないくらいの浅い窪みだが、その上部に銃眼のような小穴が開いている。山の中で(といっても道端だが)、一人で明かりもない狭い洞穴に潜り込む度胸はないので確かめなかったが、洞穴は入ってすぐに右に折れていて、この「銃眼」は折れてすぐの洞穴内部と接続している感じ。表側から覗いたところでは、「銃眼」部分の厚み(奥行)は50cm以上あるように感じた。

なんとなく軍事遺構っぽい雰囲気はするのだが、とはいっても、入り口から折れてすぐに銃眼を設けるようではトーチカ的役割をするには防御力が低すぎるだろうし、正体は謎。あるいは頂上に設けられていたという海軍の特設見張所の入り口としての歩哨所とかかな?とも思ったりする。

20191213_152626 ●前回登った時には山頂の展望台が閉まっていて残念な思いをしたが、今回は下の売店に人がいて、閉めたばかりということだったが「せっかくだから」と厚意で開けて貰えた。

「展望台」といっても、二本の鉄柱に螺旋階段が付いた簡易なものだが、人が歩くと微妙に揺れたりするのが、下からの見た目以上に「高さ」を感じさせて楽しい。右写真は前回登った時に撮った展望台の姿(今回は撮り忘れた)。

というわけで、展望台上から割といい加減に360度撮影した眺望を。

▼西側。右写真の山の向こうに見えるのは逗子・鎌倉の海で、中央にぼんやり見えるのは江の島。左写真中央は山頂から一段下った肩のところにある国交省の「大楠山レーダー雨量観測所」。このレーダー塔のやや右あたりが真西になる。

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▼南側。右写真には三浦半島の西岸が、左写真には東岸が写っている。意外に三浦半島の南側って平らなんだなー、と思う。右写真にはうっすらと伊豆大島も写っている。左写真で向こうに見えるこんもりした山が、おそらく武山~砲台山~三浦富士。なるほど、三浦半島で最も南にある山らしい山なのね(とはいっても標高200m前後)。

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▼東側。東京湾を挟んで向こうに千葉の山々。昔は久里浜の発電所の煙突が割と目立つランドマークだったが、施設老朽化で取り壊されてなくなった。新しい石炭火力発電所がどういう姿になるのかはよく知らない。左写真で見降ろしているのは横須賀中心市街地で、その向こう(中央右寄り)に小さく猿島が見える。左写真の手前に写っている山のどこかに、2月初めにhn-nhさん、みやまえさんと登った衣笠砲台があるはずだが、どこやら全く判らない。

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▼北側。手前の山腹はゴルフ場(葉山国際カンツリー倶楽部)。右写真の向こうの海は東京湾奥部。右写真の左端、左写真の右端に小さく写っているのがランドマークタワー(のはず)。左写真、ゴルフ場の向こう、中央左側に、逗子市最高峰の二子山が写っている(のに、帰宅後写真を開いてようやく気付いた)。

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●山頂広場の電探の台座遺構?と思われるものを、改めて展望台から見下ろして撮影。

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前回も書いたように、元は8角形であったと思われるが、3分の1程度が大きく欠けている。向こう側にはケーブル収納部かと思われる溝。台座の手前には三角点が乗った円柱状構造物。逆側には機銃座跡かと思われるコンクリートの「脚台」。

●オマケ。国交省の「大楠山レーダー雨量観測所」。まあ、お役所も予算配分はいろいろと大変なのだと思うが、この案内板はどうにかしたほうがいいと思うな……(かすれてしまってほとんど読めない)。

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20201025_163940 ●前述のように、帰りは湘南国際村へ。湘南国際村も山の上にあるので、道筋は割と平坦で楽……なのかと予想していたのだが、実際には「一度降りて、登る」感じ。降りる道は南側2ルートよりもむしろ傾斜が厳しい階段道。ただし、降りきった後の湘南国際村までの道は完全な舗装道路。

途中の山道で、スズメバチの群れに遭遇。

ブナ科の木の幹に、上から下までびっしりと何十(あるいは百以上)がたかっていた。樹液が出ている場所に何匹か固まって来ているという姿はよく見るが、木の幹の一面に多数がたかっているというのは今までに見たことがない状態で、非常に不思議。

歩いている山道のすぐ脇の木で、羽音で気が付いた。写真を撮ろうとしたら飛び立つやつがいて、かなり危なそうだったので、きちんと蜂の姿が識別できるような状態で撮ることが出来なかった。残念。

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梅雨明け

●コロナ禍の影響もあり、仕事自体は全般的には低調なのだが、それでも重なるときは重なるもの。久しぶりに真面目に(集中的に)仕事しなければいけなかったりして、すっかり更新がご無沙汰に。

そんなこんなで、ある程度まとまりのある話を書くようなネタもなく、近況報告的にあれこれつらつらと。

●兄が濃厚接触者として1週間自宅隔離になった、と連絡を貰う。一応、30日の検査では陰性で、今のところ症状も出ていないので大丈夫だろうとのこと。とはいえ、老母と同居で食事の面倒なども見ているので、そちらのほうが問題。とりあえずデリバリーなどでしのぐ由。

●KV小ネタ。

タミヤの新KVの転輪については以前にも書いたが、トランぺッターの転輪と比較して、ディテール的に至らない点がいくつかあり、そのあたりの改良を試みてみる。

(1).リム部の小リブの位置が裏側で間違えていることについては、どのみち組んでしまえば見えないので(車輛の前後から床下を覗き込めば、全く見えないということはないのだが)、そのままスルーする。

(2).ハブ部・ゴム抑え板のディテール不足に関しては、ハブ両脇の2カ所の小ボルト?部分に関してはタミヤのほうがいい感じはするが、ハブ周囲のリングが別体である表現、およびそのリングのグリップ用?刻みが省略されている問題のほうがより大きいので、これらに関しては、トランぺッターのパーツの流用を検討。

(3).内外の転輪の向かい合わせになった面で、ゴム抑え板の表現が全く無視されている問題。内側転輪の表側に関しては、組立後も覗き込めばちらりと見えないこともないにもかかわらず、キットのパーツはその部分が窪んだ状態になっている。これに関しては、上記(2)とセットで考え、(2)で余ることになるタミヤのゴム抑え板パーツのハブ部をくり抜き、軸が通るようにして内側転輪に取り付ける。

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1枚目写真。タミヤの転輪の外側の表裏(左側)、内側の表裏(右側)。内側転輪の裏にはしっかりゴム抑え板のモールドがあるので、表裏ひっくり返して使用できればちょっと楽だが、裏側は前述のようにリム部の小リブの位置を間違えているので、その手は使えない。外側転輪の表には別パーツのゴム抑え板を載せてある。

2枚目写真。ゴム抑え板パーツの元の状態(左)と、軸が通るようにくり抜いた状態(右)。

3枚目写真。軸部をくり抜いたゴム抑え板を内側転輪の表に載せてみたところ。軸部の位置合わせ用の凸は余計なので(本来、内外のリムの穴位置は揃っていないので)削り取ってある。

ここまでやってみての小まとめ。とりあえず、覗き込んで見える部分にはゴム抑え板が装着できたが、この部分の土台の立ち上がりが外側転輪表より若干高く、ゴム抑え板部分に厚みが出てしまう(軸部分は貫通しているので、転輪の間隙には影響しない)。内側転輪に流用するゴム抑え板の中心をくり抜くのは、それほど難易度の高い工作ではないものの、ちょうどよい太さのドリルやヤスリがあるわけでもないので結構面倒くさい。暫定結論。……これをあと11個分やるんだったら(しかも苦労してトラペ以上のものが出来るわけでもないのなら)、素直に転輪それ自体、トラペから持ってきた方がいいんじゃね?

ちなみにそうせずに、こんな面倒な工作を試してみたのは、手元にトラペのリブ付き転輪の余剰がなかったため(リブ付きでないほうはある)。

●はい人28号さんからコメントで情報を頂いたのだが、Passion Modelsから、タミヤKV用のエッチングパーツの発売予告が出た。8月下旬予定とのこと。

内容はラジエーターグリル、車体後端オーバーハング部のメッシュは当然として、フェンダーステイ、ハッチ裏のロック用リングなど。さらにプレス済みのオーバーハング下の整風板、挽き物のピストルポート装甲栓、DT機銃と、思ったよりも贅沢な内容。個人的にはラジエーターグリルと後部のメッシュだけの簡易セットでよかったんだがなあ、という気もするけれど、予価1800円だそうなので、そこそこリーズナブルかな。

ラジエーターグリルはちゃんと前方が平らの形状になっているようだ。いやまあ、なっていなきゃ困るんだけれど、これまで意外に再現していないセットが多いので、一安心。

別途、ツールボックス(の蓋と取っ手)のセットも同時に発売になるらしい。

●1日土曜日。晴れたので、午後、鎌倉方面に散歩に出る。

小坪から稲村ケ崎方面の景色を眺めていると、極楽寺坂よりもさらに稲村ケ崎側に、山腹を斜めに上がる道が見えて、「あの道はどこに通じているのだろう」と以前から少し気になっていたところを目標に歩く(といっても、今の世の中はGoogleMapsを開くと「どこに通じているのだろう」は判ってしまうわけで、実際に歩きに行く段階では、すでに「まあ、歩いたことがない道だし、行ってみるか」程度になっているわけだが)。

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写真は、その坂の上から、鎌倉の海(由比ガ浜、材木座海岸)を隔てて逗子側を撮ったもの。すでに夕方だったので、薄暗い写真で失礼。

黄色矢印が二子山高角砲台跡(二子山上ノ山)、赤井矢印が小坪高角砲台跡(披露山)、黄緑矢印は西小坪海面砲台跡(飯島)。こうしてみると披露山に比べ二子山の方がだいぶ高いことも判る。その高いほうの二子山に12.7cm単装が、低い披露山に12.7cm連装が配備されていたのはどういう理由なのだろうか。

例えば、軍港横須賀(あるいは東京湾)に向け、内側は単装で外側は連装とか、そんな基準があったのではないか、などとぼんやり考えてみて、帰宅してからGoogleのマイマップに三浦半島の高角砲台を配備された砲の種類別に色分けしてプロットしてみたのが、結局は位置それ自体には何の法則性も見い出せなかった。

小坪海面砲台は、こうしてみると鎌倉湾の防衛用という感じだが……いくらなんでも鎌倉の海に上陸作戦なんてしないだろう。いや、それでも入り江に小型艦船など入り込まれると困るので、とりあえず防備はしておかなきゃいけない的なものなのか?

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割と久しぶりに極楽寺のあたりを歩いたが、江ノ電の極楽寺駅が大改装されていた。元の駅舎正面は残っているが、裏手が大々的にリニューアルされて新しい大きな駅舎になり、さらに元からの入り口の左手に大きな新しい、「入り口広場」と言ってもいいような入り口が出来ている。元の姿がほぼそのまま(左写真)なのは喜ばしいが、その横が新しく変わり過ぎていて、旧入り口がいかにも「保存された展示物」的に見えてしまうのはちょっと寂しいかも。

●自然科学のなかでも古生物学、および身近な昆虫等々の観察が好きなことがあって、生物関連の本や記事は割とよく読む方だが、「単系統群」と「クラウングループ」の違いがどうもよく判らない。

●「メイドインアビス」9巻発売、娘がさっそく購入していたので、こちらもさっそく借りて読む。

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サヨナラ、ポスト

●用事があって横浜に連日通っているのだが、23日火曜日はその仕事も梅雨空も“中日”だったので、葉山方面に歩きに行く。

行程は、県道311号をずっと歩いて、桜山隧道を通って葉山町へ。長柄から葉山町役場前、大道入り口を経て御用邸前まで。そこから今度は海沿いに引き返して、鐙摺を通って逗子海岸。海岸経由で帰宅。

●ちょっと前に書いたように、現在、私のスマホでは「Pokémon GO」が起動できなくなっていて、外歩きのモチベーションが下がり気味(かといって、健康上歩かないわけにもいかないので歩きに出たわけだが)。

なお、私のスマホはポケモン的には使えないままだが、代わりに神保町の事務所のGさんが、FREETELの予備機を貸してくれた。私のスマホはau系で、FREETELにSIMを移して使うことはできないが(その辺の仕組みは面倒なので略す)、それでも、Wi-Fi経由であればポケモン専用機として使える。

しかしこれがなかなか微妙で、まず

  • 自宅でなら問題なく使える。
  • 神保町の事務所でも、事務所のWi-Fiに問題なく接続できた。
  • 横浜のヨドバシカメラの館内ではなんとか使えた。
  • が、その他、街の中のFree Wi-Fiの場合は「認証できませんでした。もう一度やり直してください」と出てきて、うまく接続できない。火曜日の散歩の際にも、Wi-Fiが使える葉山町立図書館に寄って試してみたがダメだった。

というわけで、現在、借りたFREETELは、ほぼ自宅内ポケモン専用機となっている。

ちなみに、「8月で32bit機のサポートを打ち切る」としたNIANTICの発表に関しては、その後、「終了予定を延期」ということになった模様。しかし、仮に8月で終了ということだとしても、本来は少なくとも7月末まではサポートすべきはずだが、6月初旬に発生した不具合にも関わらず、一向に解決の気配がない。NIANTICの「Pokémon GO」サポートページにおいても、「確認されている不具合」は、6月9日に


Android 5 または 6 の一部の端末では、アプリを起動できない場合がある

不具合内容:Android 5または6の端末をお持ちのトレーナーの中には、ポケモンGOアプリの読み込み画面を完了しても起動ができない場合がある。

ステータス:調査中


と書かれたきりで変化なし。いやまあ、古い低性能スマホの面倒まで、いちいちいつまでも見てられんよ、というのは判るんだけれども、それならそれで「これ以降はサポートをやめる」と言った期限まではしっかりやるか、できないならすっぱり「やめました」と言ってほしい。

●葉山町内には、現役の丸ポストが以前に調べた時点では9基あり、今回の散歩の経路上には、そのうちの6基がある。せっかくなのでついでに現状の写真も撮っておこう……と思ったら、その最後の1基、森戸神社近くのもの(堀内1047)が根石(台座の石)を残してなくなっていた。

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3枚目は2年前に撮った、「在りし日の姿」。もともとはポストの後ろの空き地は店があったらしく、その店が閉まった後は表に張られた板がポストの形にくり抜かれ、そこから半分現れる「埋まりポスト」状態で何年か存在していたらしい。2年前に見に行った時にはすでに建物がなかったが、結局はポストも撤去されてしまったらしい。なお、Googleのストリートビューを見ると、少なくとも昨年6月にはまだ存在していたことがわかる。

中の収集袋を立ったまま交換すれば済む角型ポストに比べ、丸ポストは体をかがめて手で郵便物を掻き出さねばならず、郵便局員には余計な不便を強いることになる。さらには手紙/はがきの利用自体が減っており、一方でポストの設置基準は昔よりも厳しくなっているようで、古いポストの消滅圧力はいよいよ増している。減っていくのは致し方ないのだが、それでも、できればできるだけ長く現役でいてほしいと思う。

なお、2年前に葉山の丸ポスト9基をまとめて訪ねた記録は以下。

今回確認した残り5基、

  • 堀内671:風早橋バス停近く
  • 堀内1825:向原交差点
  • 一色1818:セブンイレブン葉山一色店
  • 一色2095:町屋倶楽部前
  • 一色1657:近代美術館近く

は、収集時間に変更があった程度で、ちゃんと現存していた。残るうち、長柄769-1(御霊神社前)と、 一色692-2(葉山大道、HACドラッグ向かい)の2基については、比較的最近視認しているのでまず大丈夫。一色1222(一色小から大道を隔てて反対側の住宅地の中)だけは2年前に見たきり。

●なお、以上のような行程で歩いたのは、葉山のポストの現状確認が第一目的ではなく、葉山町のマンホールカードの題材になっているカラーマンホールが御用邸前の一か所だけにあり、それを見たいと思ったため。

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目的のマンホール蓋はより大きい蓋の中にはまった、いわゆる「親子蓋」形式になっており、さらに隣には同じく親子蓋になった(カラーではない)通常版のマンホール蓋がある。

葉山のマンホールカードについてはこちら

●マンホール蓋を見た後、一色の近代美術館脇から海岸に出たら、砂浜への出口のところで突然目の前からにょろにょろとヘビが逃げ出してビックリ(もちろん、のんびり日向ぼっこでもしていたらしいヘビのほうも、突然人が来てビックリだろうが)。

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3枚目写真は2枚目の拡大切り出し。柄模様から、「えっ、これって、もしかしたらマムシ?」とも思ったのだが、帰宅してよく調べてみると、コンクリート壁をほとんど垂直に登ることができる能力と、エラの張っていない頭部の形から見て、アオダイショウの幼蛇であるらしい(それなりに大きく、たぶん1mくらいはあったと思うが)。アオダイショウの幼蛇はマムシに似た模様を持つのだそうだ。

●葉山のポストが一基なくなったことをfacebookに書いたら、地元の知人から「逗子の4基は大丈夫?」と聞かれて、ちょっと心配になったので、土曜日に改めて見回りに行ってみた。結論から言うと、とりあえず全部無事。

●逗子の4基のポストを見回ったついでに、最も東の1基のさらに奥の谷戸に足を伸ばしてみる。

以前、facebookの逗子のニュースグループで、「地元民にしかわからない(俗称としての)地名、ランドマーク名」が話題になった。例えば「サリーちゃんち」(名越の山の上にある洋館)や「うんどこ」(第一運動公園)などがその例だが、そうしたなかに「はっしゃば」というのがあった。

それが今回訪れた一角で、具体的な住所は沼間4丁目12、13、15、16あたり。狭い谷戸に沿って、ハシゴ形の道路で区分けされた細長い住宅地で、南側は「ハイツ東逗子」という集合住宅、北側は戸建て住宅が並んでいる。「はっしゃば」とは、なんだか「ハッテンバ」の仲間と誤解されそうな名前だが当然無関係で、海軍の機関銃工場に付随した試射場(「横須賀海軍工廠造兵部 沼間機銃発射場」)だったことによる。

いつも通り、サイト「東京湾要塞」を虎の巻とした。

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最初の1枚は、地区の見取り図。

続く3枚は、谷戸の下手(南側)から、谷戸東側の道を徐々に北に進んでいく途中写真。こちら側はやや道が曲がっているので、途中まで行かないと北端は見通せない。3枚目が北端近くで、突き当りの向こうには、現在はヨコヨコ(横浜横須賀道路)が通っている。

4枚目は北端から折り返し、西側の道路を南に向いて撮ったもの。こちらは東よりも道路が真っすぐで、南端近くまで見通せる。

5枚目は南端にある街区公園。「柚沢」もしくは「柚子沢」が本来の小字名であるらしいが、読みは「ゆずさわ」ではなく「ゆずっさわ」であるらしいことが、公園名に振られたルビで判る。

6枚目も南端近くで見たマンホール蓋。旧海軍水道の水道路(すいどうみち)からはちょっと離れているにもかかわらず、なぜか横須賀市水道局の蓋。元軍用地なので、軍用水道の支線のようなものでもあったのだろうか? いや、浄水施設も介さないで、そんなことってあるのか?

このように、現在では遺構の類は何も残っていないが、当時は、南側に試射を行うための銃座や観測所、弾薬庫などがあり、北端が銃弾を受け止める土手になっていたらしい。現在では、地区の細長さに「なるほど、言われてみればそんな感じだなあ」と思う程度。

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最後に、終戦直後とほぼ現在の空中写真比較。例によって国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。左は終戦間もない1946年2月22日米軍撮影の「USA-M53-A-7-28」、右は2019年6月16日撮影の「CKT20194-C14-60」から切り出した。

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スヰートポーヅ

20191017_132803_20200611165501 ●神田神保町すずらん通りの焼き餃子の老舗、「スヰートポーヅ」閉店の知らせを、神保町の事務所のC社長のFBへの書き込みで知って大ショック。

向かいの「キッチン南海」が閉まるのもしばらく前に聞いて、医者に食養生を命じられて以来食べていなかった、あの真っ黒いカツカレーを久しぶりに、最後に一度食べたいなあなどと思っていたのだが(ちなみにキッチン南海は、のれん分けの店が近所に新規開店するらしい)。

写真は昨年10月に食べたスヰートポーヅの餃子定食。味噌汁抜きの餃子増量。それほど頻繁に神保町で飯を食べるわけでもないので、たぶんこれがスヰートポーヅで食べた最後だと思う。

スヰートポーヅの餃子は筒形で両脇が閉じておらず、形の上ではちょっと珍奇だが、味は個性的というよりは「ものすごくほっとする、染み込むような味」。ああ、もう一回食べておきたかった。

●Miniartのサイトに、「T-34/85 w/D-5T. PLANT 112. SPRING 1944.」(No.35290)の新しい写真が追加で掲載されたのだが……。ああっ。リブの多いワッフルじゃないぃぃぃぃっ!

リブの多いワッフルだったら、別売されるまで待って使おうと思ってたのにぃぃぃ! うぬぅ。残念。

●どうも「砲台分」の摂取が不足しているような気がして、月初め、二子山上ノ山に登る。

といっても、砲台のリサーチ的なことはほとんど何もせず、二子山上ノ山からさらにどこかへ足を延ばすこともなく、単に登って降りてきただけ(ただ、行きは中腹の南郷中学までバスに乗ったが、帰りは逗子まで歩いた)。1枚目は登る前、南郷上ノ山公園グラウンド端から見上げた二子山上ノ山(と、山頂脇のKDDIのアンテナ)。1枚目は山頂展望台からの横浜方面の眺望。

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この時季、三浦アルプス方面の山歩きをすると、木の梢に大量の白い「チョウ」が舞っているのに行き会う。真っ白だし、飛んでいるのは昼間だし、「チョウ」と思ってしまうのは自然なのだが、実際には昼行性のキアシドクガというガで、5月末~6月頭くらいが羽化・婚姻のシーズンであるらしい。ちなみにドクガ科であるのは確かなのでこの名前だが、一生を通じて無毒らしい。

二子山上ノ山山頂展望台脇に大きなエゴノキがあって、これがキアシドクガの食樹のひとつだそうで、この日も数十、もしかしたら三ケタに達するキアシドクガが乱舞していた。

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先日の三浦アルプス歩きに続いて、途中の道でハンミョウを見つけた。最初、「何か先のほうで飛んだ気がする」くらいしかわからず、ハンミョウかもしれないとソロリソロリと数回往復して、やっと確認。さらに写真を撮るほど近づくまでに数往復した。

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昨年末にちらりとだけ確認できた、探照灯の台座とされるコンクリート柱を今回も観ようと思ったが、藪に隠れて視認できなかった。やはり藪が薄くなる冬季でないとダメなようだ。

オマケ。南郷上ノ山公園事務所棟に貼ってあった、特殊詐欺被害防止キャンペーンのポスター。……なのは確かだが、詐欺のターゲットであるはずのばーちゃんが、むしろ悪の大魔王みたいなのは、どこか間違っているような気がする。

そしてもう一つは帰りのコンビニで見たPOP。なんとなく勢いに飲まれて「楽しんで」しまいました。

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●6月6日の晩以来、外歩きの友「Pokémon GO」が起動しなくなってしまった。

アイコンをタップして、最初にメーカーのNIANTICのロゴ画面が出るのだが、そこでストップしてしまってどうにもならない。

NIANTICのサポートにも連絡したのだが、なんとなくテンプレっぽい返事が2回ほど来た後、ようやく昨日になって「不具合であることを確認し、現在修正対応中」との返答が来た。とはいえ、一応不具合と確定したのみで、現時点(11日夕)、まだ復旧の兆しなし。

別に「Pokémon GOのために外出している!」という意識はなかった(と自分では思っていた)のだが、使えなくなってみると出掛けるモチベーションがだいぶ低下していて、「Pokémon GO」がどうこう以前に、「そんなことでいいのかオレ」状態。

●そんなこんなで日曜日から数日家に閉じこもっていたら、足がぱんぱんにむくんで、エコノミークラス症候群で死ぬんじゃないかくらいの状態に。

さすがにこれはまずいと思って昨10日、近所を散歩したら、マダケの竹林の周辺にタケノコがにょきにょき出ていた。よくあるモウソウチクの場合、タケノコの旬は早春だったと思うが、マダケってこんなに遅かったのか……。いや、そういえば採って食べたことがないな、と思い、そもそもどんな状態が「マダケのタケノコの食べ頃」なのかもよく判らなかったが、それなりに柔らかそうなのを選んで数本収穫。さすがにモウソウチクのように地面から頭が覗くかどうかくらいではマダケの大きさでは食べるところがないので、地面から10cmとか15cmとか出ているものを、根元で折り取って持って帰った。

タケノコの採りたてはえぐみが少ないと聞いたので、コメのとぎ汁などは使わず、さっと一度下茹でして湯を替えるだけで料理。日本酒、みりん、出汁昆布で似て、醤油と少々の塩で味付け。名越の大切岸で見つけたサンショウの苗木の若い葉っぱを乗せた。

えぐみもなく柔らかく美味。

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これに味を占め、雨が降り出す前にと、今日再び昼前に行って数本収穫。今度は皮付きのままざっくり縦に切れ目を入れて、アルミホイルでくるんでオーブントースターで蒸し焼きに。いい具合に出来たら皮を剥いて岩塩を振って食べた。

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調子に乗って3本も食べたら、最後のほうはちょっと苦かった(ただし、えぐいというほどではなかった)。よく見ると、昨日採ったものよりも縦横比が「縦長」傾向になっていたかも。

●ついで。名越の大切岸のイワタバコが見ごろ。昨10日撮影。

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畠山高角砲台

●「こりゃもう、二度は採って食わないな」と思ったニリンソウだが、前回書いたように、改めて調べると、一度乾燥させてオハウ(アイヌ料理の汁物)に入れると美味いらしい。「肉の味が倍になる」というアシリパさんの言だけでなく、それを頼りに実際に料理したというネット上のいくつかの記事でも「ヒンナ、ヒンナ!(おいしい)」と絶賛されていて、「これはもう一度試してみねばなるまい」と思った次第。

そう思うと我慢できず、どうやら今度の週末以降しばらく天気も悪いらしいので、「じゃあ、休みを前倒しにしよう」と、仕事をサボる勝手な言い訳を(自分自身に)しつつ、25日水曜日、もう一度三浦アルプスに出向く。

特に迷うこともなく、目当ての場所に到達。とはいっても、たった数日前に行った場所にたどり着けないようなら、それはそれでヤバイ。

白い花が咲いていて形態にブレのない群生のなかから、葉柄を根元までたどって慎重に収穫。それはそれとして、前回……。

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上写真に写っているなかで左上に写っている、やや葉がとがり加減のものはトリカブト、と書いたのだが、今回改めて同じ場所を見たら、それらの株のいくつかからニリンソウのつぼみが出ていた。実際には、

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青丸でくくったあたりはニリンソウで、赤丸でくくったものがトリカブトであるようだ。いいんだよ!毒を安全と間違えなければ、安全を毒と間違うのはセーフなんだよ!

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そんなこんなで、収穫してきたのが上左。現在はタコ糸で茎を縛って、ドライフラワー風に吊るして乾燥中。右はついでに採ってきたアケビの芽。

なお、乾燥についてはネット上の“食レポ”でただ単に干すと書かれていたので上のようにしたのだが、その後さらに調べると、アイヌの古老の話として「一度茹でてから干す」のが正統な手順であるらしいことが判明。この次はそうしよう……(←すでに次がある前提)。

なお、この手の発見は続くもので、いちいち葉山の外れまで採りに行かなくても、もっと近場で群生している場所を見つけてしまった。うん。コロナに倒れるくらいなら、その前にニリンソウを食おう。

●せっかく山に登って、数日前とまったく同じ道を歩くのも面白みがないので、乳頭山下から東にそれて、畠山に向かう。

前回(初めて)登った時には、その畠山も海軍の高角砲台跡であると知らず、まったく遺構のチェックなどもしなかったので、改めて確かめてみたいと思っていた。

前回登ったのは一昨年の5月末。今回も尾根伝いに東京湾要塞地帯標を一四号、一三号、一二号とカウントダウンしながら歩く。

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1、2枚目はどちらも一四号。ちなみに、一四号、一三号は尾根道の鞍部(窪んだ部分)にあって分岐点にもなっているので道案内の標識と隣り合わせ。一二号は畠山の一つ手前のピークにある。なお、一昨年の記事で、参考として「東京湾要塞」の地帯標のページにリンクを張ったが、当時はYahoo!ジオシティーズにサイトが置かれていて、すでにリンク切れになっているので、改めて張っておく(とはいっても、軍事遺構の記事では何度となくリンクを張っていて、最近のものはすでに新しいものに変わっているはず)。

●一二号を過ぎてさらに歩くと、細い尾根道が、砲台道と思われるそれなりの道幅でとても人工臭がする道に突き当たる。最初に畠山に行ったときは、「え? なんでこんなにマトモな道が?」と思ったのだが、砲台道であると判ると納得がいく。

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1枚目は、要塞地帯標のある尾根道から見た砲台道への合流地点。道の向かい側に案内標識が立っている。標識は「← 塚山公園 1.5km」「畠山 0.1km →」。

2枚目は、合流地点から砲台道をやや下ったところから振り返って撮ったもの。標識には、先ほどはちょうど撮影方向で見えなかった尾根道方向を指しているものが見えている。内容は「乳頭山 1.2km →」。写真中央に細く続くのが山頂広場への道。砲台道の常として、ゆるい傾斜で山頂広場を巻くように進む(といってもこの辺りはまっすぐに近い)。

3、4枚目はその山頂広場への途中。現在は下草や灌木が茂って人が通る部分は踏み分け道程度になってしまっているが、本来の道幅は自動車が通れるくらい(機械化が遅れていた日本軍のことなので、実際に資材を自動車で運んでいたかどうかは判らないが)であることがなんとなく見て取れる。

●そして、歩くことわずかで山頂広場に着く。

まずは恒例、終戦直後の米軍による空撮(1946年2月15日、USA-M46-A-7-2-105からの切り出し)。国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。

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これを見ると、山頂に4基の砲座が円弧状に並んでいるが、実際には(いつもの国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」によれば)、終戦時に配備されていたのは一二糎高角砲(単装)3門のみであったようだ。

円弧状に砲座が並んでいるのは、管制上の理由でか、他の砲台でもよく見られる配置だが、特にこの畠山の場合は、実際の地形図と対照すると山の頂部そのものが円弧状になっているためというのが大きそう。

そして現況。

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1枚目は、山頂広場に到着したあたりから北(北東?)方向を撮ったもの。2枚目はそのまま端近くまで歩いて、振り返って撮ったもの。1枚目では中央やや右側(わかりづらい)、2枚目では中央左側に、この山頂広場のヌシ的な石仏(馬頭観音)が写っている。その正面からの写真がこちら(一昨年も同様の写真を上げたが)。

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てっぺんに誰かの忘れ物の手袋。

とりあえず、上写真でもわかるように、現状の山頂広場は周囲が木に囲まれて見通しが悪く、そもそも山頂の平らな部分がどこからどこまであるのか、というのもよく判らない。

配備されたのが一二糎単装高角砲だということもあり、砲座は武山(砲台山)や小坪(披露山)、衣笠のようなベトン製の堅固なものではなく、二子山同様の土盛り/直掘りであったようで、さらに当時の様子が伺いづらくなっている。

上の1枚目写真の左奥方向(2枚目写真の右さらに後ろ方向)の藪の奥を覗くと、緩やかに窪んだ場所があり、もしかしたらこれが砲座あとの一つなのではないか、と思われる。

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もっとも、実際に三次元で(自分の目で)見て、やっと「窪んでるなあ」と判る程度なので、写真で二次元にしてしまうと窪んでいるかどうかも、スケール感もよく判らない。ただの藪の写真で申し訳なし。

そしてもう一枚は、山頂への入り口付近に戻って、そのすぐ脇の藪のなか(上の全景写真1枚目でいうと、すぐ左手)。こちらにはもっと深い窪地があった。

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これは写真に撮っても窪地であるのが判る。とはいっても、上の米軍空撮を見ると、砲台道からの“とっつき”すぐ脇に砲座はなく、むしろ山頂広場の逆側の縁にある感じ。どうもよく判らない。

二子山の場合、探照灯の台座かとされるコンクリート製の構造物などあるが、こちらはそれらも確認できるものはなく、とにかく「言われてみなけりゃ何も判らん」状態と言える。

なお、いつもの通り参考資料は以下の2サイト。

前者の場合、私よりもだいぶマシな遺構確認ができているが、実際には「う~ん。そんなのどこに隠れてるのかなあ」状態。

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最高峰

●東日本大震災から9年。……え、もう9年?

そして日本の(そして世界の)社会はある意味では似たような、ある意味では全然違う「災厄」に見舞われ中。

考えてみれば東日本大震災は「その瞬間」の被害の大きさは途轍もなかったが、その後は(起きてしまった災害によって逼迫してくる状況も処々にあったとしても)基本は「どう復旧・復興していくか」であったのに対して、現在進行中の新型コロナの場合は、普通の生活の中にじわじわと染み込むように広がってきて、しかも「どこまでいくのか」「いつ収まるのか」が全然見えてこないのが違う。いずれ緩やかに収まってくれるのかもしれず、しかしもしかしたら、トータルの被害はとんでもないことになる可能性もあるかもしれない。

東日本大震災の時にも「ワカメ(あるいはノリ)を食べよう」とか「化学工場の爆発で毒の雨が降る」とかいったバカなチェーンメールは来たけれども、今回も「コロナによく効く花崗岩」とか同アオサとか、ウイルスは温度何度/湿度何度で死滅するとか、買い占めとか転売とか――まあ、人間、そうそう学びはしませんわな。

そういえば今回はコンビニの窓に「本日!うろばんが」とか張り出されないですね(今回の場合は日本じゃなくて世界?)。

●二子山の高角砲台跡については、これまでに2度ほどレポートしている。

二子山は、「魚が跳ねた格好」に例えられる逗子市のシッポの部分、「桜山大山」地区の北西側、葉山町長柄との境にあって、標高は東側の上ノ山が208m(山頂の一等三角点のデータでは207.81m)、西側の下ノ山が206m。上ノ山は逗子市の最高峰となっている。

たかが208mとはいっても流石は最高峰。逗子市域の中ではほぼ反対側の小坪近辺からでも、ちょっと高いところに行くと、その寄り添うような、「なるほど、双子なんだな」と思う姿を見ることができる。もちろんしばらく前までは、東南側に山々が連なっていても「うん、山だ」くらいにしか認識していなかったのだが、一度二子山の姿を見覚えると、「あ、ここからも見えるのか」等々気になるようになった。

というわけで、小坪近辺のあちこちから見た二子山。

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最初は名越の大切岸から。向かって左が上ノ山、右が下ノ山。この角度からだと、二つの山の間のV字の谷がくっきりと綺麗。

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次の3枚は久木、法性寺奥の院から。横須賀線と「すいどうみち」の通る名越(久木)の谷戸と、逗子中心市街地越しに見る逗子南方の山々。1、2枚目は数日前に撮った西日を浴びる風景。3枚目は昨年末、お昼前に撮ったもの。

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小坪1丁目の通称「はげ山」から、山の上の住宅地である亀ヶ岡団地越しに見る二子山。

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次の二枚は大崎公園の突端から、逗子海岸越しに見る二子山。名越あたりからするとだいぶ南に移動しているので、二子山も、下ノ山が上ノ山の手前にかぶさるような形になり、間の谷もだいぶ隠れているうえ、手前にある下ノ山の方が高く見える。

逗子の砂浜の右端に見える渚橋の真上には、割と特徴的に三角に尖った山が見える。三浦アルプスの山々のピークのひとつだと思うが、どうも特によく知られた名前がある山ではないらしい。一方、左写真で逗子湾の左下海上に見えるのは浪子不動前の不如帰碑。

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披露山公園から。左は公園の突端から。右は展望台からだが、この季節なので枝の間からなんとか「二子山だな」と確認できる程度。もっとも大戦中は山頂付近に木はなかったので、二子山高角砲台と披露山の小坪高角砲台は、戦闘中は互いの発砲炎などはよく見えただろう。

二子山高角砲台からは、その向こうにある畠山や(先日訪れた)衣笠の砲台の活動も見えたろうと思う。

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披露山の東側斜面、尾崎行雄の「風雲閣」跡近辺から、逗子中心市街地越しに見る。ちょうど二子山の手前に見える大きな白い建物は逗子開成。

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すいどうみち(県道311号)から小坪漁港方面に折れる「小坪街道」上から。1枚目は切通入口近辺から。2枚目はもっと「すいどうみち」側に降りて、第二逗子幼稚園横あたりから。

●我が家のちび(といってももうすぐ小学校高学年なので、だいぶお年頃になってきた)の最近の作品。

「メイドインアビス」のミーティ。

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作品を知らない人からすると、「下手で形が崩れている」と思うかもしれないが、実際にはこのキャラクターはとある経緯から非対称にぐずぐずに崩れた体を持っていて、この(設計も自分でやったらしい)ミニぬいぐるみはかなり的確に特徴を捉えている。猛獣のようなツメは竹串の先を黒く塗って付けたとのことで妙に凝っている。

……そのうち、何か模型製作の下請けを頼みたくなってきた。

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衣笠高角砲台再訪

●我が街・逗子と、その周辺の軍事遺構、特に高角砲台に関しては割と積極的に訪ね歩いているのだが、衣笠高角砲台は基本、何の手入れもされていない状態で、昨夏チャレンジしたときには笹薮に阻まれて結局山頂の砲台までたどり着けなかったのだった。その時の探訪記はこちら

そもそも草深い夏に行くのがいけないのであって、冬になったら再挑戦しようと思っていたところ、hn-nhさんが計画に乗ってくれ、さらに比較的ご近所のみやまえさんも加わってくれたので、勇気百倍で出掛けることにしたのだった。

衣笠高角砲台についての基本的な事項は、毎度お世話になっている以下の2サイトを参照のこと(おんぶにだっこ)。

また、現地を訪れるにあたっては、以下の探訪記あたりを参考にした。

●そんなわけで6日木曜日、平日昼前にJR衣笠駅で集合する。hn-nhさんとはここ数回の年末の東京AFVの会で顔を合わせていて、みやまえさんとはネット上でそれなりに長くお付き合いがあるが、直接お会いするのはたぶん初めて。駅前のモスバーガーで軽く昼食をとって出発(というと、さっさと出掛けたように聞こえるが、実はここですでに模型談議その他でそこそこ時間を費やした)。

前回一人で行ったときには「しょうぶ園」までバスに乗ったのだが、今回は、先人の探訪記で「ふもとの兵舎跡」と紹介されていた遺構も見たかったので、最初から歩きで目的地に向かう。

こちらのサイトでは衣笠中学校の南西と書いてあったので、学校にほぼ隣接しているのかと思ったが、実際にはもっと(直線距離で300m程度?)西。畑の中にコンクリートの、何かの基礎のようなものが露出している。

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かなり細長い、中央横一直線の入った長方形(仮にA枠とする)。その向こう、写真向かって右には、深めのバスタブ状のものが複数(B枠)。逆に最初の長方形の左の向こう側には背の低い長方形(C枠)。

それぞれが個別で何かの建物の基礎だったと考えるには小さいので、これ全体を覆うような建物の、水回り(例えば炊事場とか風呂とかトイレとか)だろうか。バスタブ状のB枠は、一部が地面から浮き上がったり、またその結果としてやや傾いだりしているが、下辺の処理を見るに、移動可能のものを単にそこに置いたというのではなく、もともとその場所にあったものが、下の土が流れて下辺が露出してしまったふうに感じられる。最後の写真はA枠の一部を接写したもの。綺麗に丸くなった川砂利が使われていて、それなりに古いものであろうことは推察できる。

●ここで(いまさらの)ロケーションのおさらい。

まずは現状。オープンストリートマップ(OSM)より切り出し加工。

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①:衣笠駅 ②:上述のふもとの遺構(と思しきもの) ③:現在ある道から、半ば藪に埋もれた旧砲台道への分岐 ④:砲台推定位置

地図内のオレンジの枠線は、下の米軍撮影空中写真(国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。写真整理番号USA-M46-A-7-2-129、1946年2月15日撮影)で切り出した部分(おおよそ)を示す。

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●ここで改めて、上のふもとの「兵舎らしき遺構」を確認してみる。米軍の空撮の当該部分を拡大してみる(上写真の上側の黄枠)。

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これを見ると、1946年2月時点で、すでに目立つ建物等は残っていなかったように見える。写真写りの問題なのかもしれないが、上で、元からそこにあったように見えると書いたB枠相当のものも確認できない。こうなると、兵舎だったのかどうか(そもそも砲台に付随した施設だったのかどうか)も若干怪しくなってくる。とりあえず「古そうなもの」なのは確かだが、実際は何だったのか。地元で話が伝わっていたりしないだろうか(畑に人がいれば聞けたのだが)。

●「兵舎らしき遺構」の先辺りから、足元は砂利道になる。OSMでは破線の細い山道が2本描かれているが、外側(西側)のほうを歩く(東側への分岐は気が付かなかった)。道幅からも、上の空撮からも、こちらがもともとの砲台道だったように思える。

夏には藪に埋もれてすぐには判らなかった山頂への分岐(上の地図の③、下の空撮写真切り出しのAポイント)だが、藪が薄くなり、踏み分け道も判りやすくなっていた。「これは山頂の砲台まで、割とすんなり行けるのでは」と期待も高まる(というのが大きな間違いだったのが後に判明する)。

夏に登った時からあった気がする古い倒木や、昨秋の台風で新たに倒れたと思しき倒木なども時に乗り越えたりくぐったりしつつ、中腹をぐるりと時計回りに巻いて進む。そういえば今回は、途中の山道の写真は全然撮らなかったな……。

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改めて、砲台周辺のみの切り出し拡大(最初に掲示した空撮写真のおおよそ下黄枠部)。砲台の北東側(おおよそBポイント)には、前回も入り口写真をUPした洞窟がある。その近くには外方向への分岐があり、何らかの付随施設があったらしい(Cポイント)。夏に行ったときには気付けなかったが、今回はその分岐が(誰かが草を刈って踏み分けたような跡があり)判り、その先の藪の中には、コンクリートの基礎が確認できた。

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いや、まあ、この写真だとただの藪にしか見えないけれど……。

「本道」に引き返し、そのまま割とまともに踏み分け道っぽいルートを道なりに進むと、前回も確認できた足元のコンクリートの基礎群、およびその先には高さ約2mの直方体の建物に行き当たる(Dポイント)。空撮写真を見ると、小さな建物群が固まっていたようにも見える。聴音所、もしくは計算所等の施設だったのではと考えられる。

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「このへんは前回結構写真を撮ったから」みたいな意識でいて、あまり真面目に撮影していない。いかんね。

1枚目は、一群の「主役」的な直方体の建物を計測するh隊員とm隊員。この建物はレンガ積みの上からコンクリートをかぶせた構造で、2枚目は建物の入り口内側のコンクリートが剥がれてレンガが見えている箇所。3枚目はやはり入り口脇の外側頂部付近で、レンガが段ごとに長手と小口が見えているイギリス積みであることが判る。この建物は頂部も一部は崩れているものの、この部分を見るとレンガ+コンクリートの本来の高さもここまでで、この上はもっと簡素な造りの屋根が乗せられていたのではと思われる。

●少し引き返し、改めて山頂広場方面への道の痕跡をたどる。前回はほんの少々進んだところで笹薮に阻まれ、それ以上進むのは断念した。それに比べると、今回は季節柄、まだ進みやすい……と思ったのも束の間。

おそらく、上空撮写真のEポイント近くまで進んだあたりで、濃い笹薮に突っ込んでにっちもさっちも行かなくなってしまった。なお、空撮ではEポイントに何らかの小施設が確認できるが、今回は(とにかく藪を漕ぐのに必死で)その基礎等痕跡は発見できなかった。

せっかくのリベンジなのに、前回からさほど進歩もなく諦めるのは悔しい……というのに加えて、今回は、酷い目に遭うにしても2人も道連れがいることもあって(失礼)、なんとか強行突破できないか、やや戻ったポイントから山頂に向けての斜面を突っ切ってみることにする。

冬だから藪が薄くなっている、と言っても、笹薮の笹はそのまま濃密に茂っていて、それをかき分けて進む。笹の細かい枯れ葉のかけらとか、枯れ枝のかけらとかが頭上からパラパラ降ってきて、襟から背中に潜り込んだりして散々な思いをする。後からみやまえさんに「あの段階から進もうとするとは思わなかった」と言われたが、いや、絶対に一人なら進んでません。なお、この時の様子は(藪漕ぎが大変すぎて)まったく写真に残していない。

「とにかくこの先にあることだけは確かなんだから」という思いだけで進んで、登り切ったあたりで砲座の遺構にたどり着いた。

●すり鉢型の砲座は、基本、小坪高角砲台(披露山)や武山高角砲台(砲台山)と同形で、配備された砲も同じ四十口径八九式十二糎七高角砲 。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」(終戦直後にまとめられた各陣地の配備品ほかのリスト)によれば、終戦時には同砲2基4門。上空撮写真でいえば、ET顔の陣地の左右両目の部分が砲座で、下側の2連の◎はやや小さいので、測距儀とか聴音器、探照灯とかだろうか。

たどり着いた砲座自体、ほぼ藪の中に埋もれていて見通しも悪く、基本、部分写真しか撮れなかった。

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上の3枚はすり鉢状の砲座の内壁。1枚目、弾薬仮置場とされる壁龕の向こうには小さな通路が見える。最初はこれが砲座への入り口階段かと思ったのだが、披露山や砲台山の入り口階段より明らかに狭く、階段それ自体もない。後から、入り口階段はさらに向こうに別に存在していたことが判明したので、これは、披露山や砲台山の砲座にはなかった(塹壕状の)小通路の口らしい。披露山と砲台山にも違いがあるので、同じように見えてどこも何かしら独特の部分があるようだ。

2枚目写真はその小通路口からさらに向こう側を撮ったもの。3枚目写真はさらに進んで、待避所(?)入口から振り返って小通路口、壁龕を撮ったもの。

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壁龕2か所。内部のコンクリート肌は風雨にさらされることもなく、非常にきれいなままに残されている(ただし1枚目の壁龕は入口近辺が若干崩れている)。

待避所は、すり鉢状の円周から一段窪んで入り口の壁面があり、その奥に部屋があるという二段構えだったようだ。円周から一段窪んだ両側は径方向に壁面を切っているので、入り口との壁面は鋭角で接している(判りにくい説明)。以下、待避所のディテール。

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上部はコンクリートが崩れた跡があり、もとはコンクリートの天井があったものが崩落したらしい。高さから考えると、現在は落ち葉等々で埋まっているが、砲座よりも一段低く作られている可能性もありそう。現在は露天になってしまっているが、壁面は壁龕同様に滑らかな状態が保たれている。

待避所のさらに向こうに、本来の砲座への入り口だった階段跡が発見できた。現在は両側の壁が残っているだけで、階段自体は崩れてなくなってしまっているが、側壁に階段の跡が認められた。

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ちなみに、この入り口階段はほぼ北を向いていて、その向こうは、少し先から北東方向に急斜面になっていた。したがって(藪の中でだいぶ方向が怪しくなっていたが)、我々がたどり着いたこの砲座は山頂陣地の東側のもの(上空撮のFポイント)だったと思われる。

砲座の中央には、もともと四十口径八九式十二糎七高角砲が据え付けられていた穴が残っている。これは披露山や砲台山ではすでに埋められてしまっている部分。

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コンクリートが2段(?)の円筒状に窪んでいて、これは、公園に改装される前の披露山の砲座でも同様だったことが判っている。

本来はこの周辺に指揮所と思しき建物跡やもう一つの砲座もあるはずなのだが、とにかく藪が深く、「もうここに着いただけで十分」という気分になっていたため、この砲座の探索だけで引き返すことにした。なお、帰途の藪漕ぎでも途中で方向がよくわからなくなり、道を外れて登り始めた場所ではなく、最初に「ここは藪が深くてこれ以上進めないよ」と言っていた場所に到着した。いい加減だなあ。

なお、山頂広場をかすめてそのまま西に行った場所には、兵舎らしき大きな建物があったらしいことが空撮でわかる(Gポイント)。

●帰途、行きにはスルーした壕(Bポイント)を覗く。

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入口近辺は素掘りの荒々しい岩肌だが、数m先からはコンクリートが巻かれた壁面に変わる。1枚目が入り口近くから奥を覗いたもの。2枚目はやや進んだ位置から。突き当りから通路は左右に分かれ、壕全体はT字型をしている。古い自動車シートやカブの残骸などが落ちていて、かつてはゴミ捨て場か物置かになっていたようだ。3枚目はT字に分かれた左側で、右側も似たような構造。両側に小部屋のような壁龕が並んでいる。本来の用途は弾薬庫だろうか。「東京湾要塞」では「発電機が置かれていたのではないか」と推察している。

コンクリートのアーチ状の壁面には、型枠跡もはっきり残っている。……そしてこの季節にもしぶとく活動しているオオゲジがいた。

●倒木だらけの踏み分け道程度で、「人間の通る道に戻ってきた」としみじみと語るみやまえさん。「人間の通る道」のハードルがものすごく低くなってる……。

その後、「もっとちゃんとした人間の通る道」まで戻り、前回同様、衣笠城址を経由して、バスに乗って横須賀中央まで。

いつも一人で山歩きする時には昼食をとってからのんびり出掛けることが多いので、山から下りてきたころには夕方になってしまうのだが、この日はまだ時間がたっぷり。三笠公園でコンビニコーヒーを飲んだり、(このところ個人的に第二次マンホールブームなので)ふと思い出して横須賀市役所に行ってマンホールカードを貰ったり。

夕方までぶらぶらし、その後、3人で軽くビールで乾杯し解散。実り多かった……。hn-nhさん、みやまえさん、どうもありがとうございます。

なお、今回の探索行ではhn-nhさんがレーザーポインターで遺構の大きさ等をいくつか計測していたので、もうちょっと中身のあるレポートが、いずれhn-nhさんの「ミカンセーキ」に載るかもしれない。


●娘に、「私がお金を出すから、代わりに『メイドインアビス』の映画を観に行ってほしい」と言われ、私自身、「メイドインアビス」というマンガ/アニメは好きなので断る理由もなく、金曜日、川崎の実家に行くついでにいそいそと観に行く。

そもそもなぜ「娘の代わりに」なのかというと、上映週ごとに変わる入場特典のプレゼントがあり(しかもその中にも種類があって何が当たるかはランダム)、娘はすでに2回もこの映画を観に行ったのだという。さらに、本編上映前に映されるオマケ短編も週替わりなのだそうだ。何そのAKB商法。最近の映画、あざと過ぎる……。

とはいえ映画そのものは面白く(というか切なく悲しく)、しかももう4週目の平日ということもあってガラガラで、ゆっくりと楽しむことができた。内容自体は「to be continued」(そもそも原作もまだ終わっていない)、放映時期は決まっていないものの、テレビ第二シリーズに続くのだそうな。

ちなみに貰ってきた入場特典は5種類?の絵柄の付箋紙なのだが、まさに娘が欲しいと思っていたものがピンポイントで入っていたとかで狂喜していた。その絵柄というのが、ボンドルド(いわば敵役)の手下。欲しがるものがマニアックすぎる。

●ひとつ前の投稿への青木伸也氏のコメントで「タミヤの新KVについてmissing-lynxでは『砲塔がちゃんと左右非対称になっとるんかいね』という話題が出てる」という話を聞いて仰天。知らなかったよ……。

というわけで、青木氏同様、慌てて手元の資料をひっくり返して見たのだが、

  • フロントバヤの「イストリヤ・タンカ・KB」上下(2002年?)
  • Wydawnictwo Militariaの「KW vol.1」no.163(2002年)
  • タンコグラードの「KV-1」上下(2005年)

と、すべて溶接砲塔は非対称に描かれていた。下の写真は、フロントバヤとタンコグラードの、それぞれ1940年型エクラナミの平面図ページ。

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エクラナミを選んだのは、増加装甲で左右に広がっているために、車体側面との距離がぱっと見で分かりやすかったため。

いずれにしても、少なくとも20年近く前から、「知っている人は知っていること」だったわけで、乗り遅れ感が甚だしい。KVマニアを堂々と名乗る資格なし!

さて、これに関してはhn-nhさんが新橋のタミヤ・プラモデル・ファクトリーで見本を確認してきたというのを(上の衣笠砲台探索行の際に)聞き、写真も見せてもらったが、しっかり非対称に、左が右より前方に絞った形状になっているようだ。この詳細に関してはhn-nhさんの「ミカンセーキ」の記事を参照のこと。

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