軍事遺構

ミニスケール2題

●暑くてダレているせいもあって模型作りも低調。ただ、手すさび的に漫然といじっているものはあって、そんな2つを軽く紹介。どちらもミニスケール(1:72)、かつ組立途中。

Img20240702214831 ▼一つ目は、THE WORLD AT WAR 1:72の「巡航戦車Mk.I(A9)CS」。

購入時に書いたレビュー記事はこちら(2020年12月6日

防盾の部分だけ色が違うのは、ディテールアップをしようとかではなくて、いじっているうちにぽとっと落として、そのまま行方不明になってしまったための作り直し。

なお、私は(そこそこ熟練のモデラーではあると思っているが)結構、部品破損や紛失のアクシデントが多いボンコツなので、そのたびに泣く泣く部品を新造する羽目になる。一応、自分自身への戒めもあって、「代わりに自作するパーツは、少なくとも無くした/ダメにした部品とおおよそ同等か、それ以上のものにすること」というハードルを課している(本当にそれを完遂できるかどうかは微妙だが)。

なお、この防盾はまだ工作途中で、これからディテール工作予定。

レビューにも書いたが、このキットの最大の問題点は、指定塗装/デカールが(箱絵も)1940年フランス戦時の大陸派遣軍のものなのに、パーツは、アフリカ戦の大型サンドシールドが入っていること。レビュー記事からの再掲だが、パーツはこんな感じ(左右で形状が違う)。

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さすがにこのためだけに2ポンド砲型を買ってキットを一つ潰すのは嫌だし、キットのパーツを削り込んで、なんとか通常型フェンダーらしく見えるようにした。

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履帯は、エッシーのバレンタインを探し出して換装するなどという贅沢はせず、キットのまま。もっとも、側面から見た時の雰囲気はエッシーの履帯よりキットの方がよいので、換装する効果はちょっと微妙な気もする(ガイドホーンがカマボコなのは、やはりちょっと気になるが)。

Img20240702215005 ▼2つ目は、First to Fight 1:72の「PRAGA RV 6輪トラック」。

購入時のレビュー記事はこちら(2016年12月27日)

もともとチェコスロバキア軍用に作られた軍用トラックで、大戦中はスロバキア、ポーランド、ルーマニア、ドイツでも使われ、小国者的にはちょっと美味しいはずのアイテムなのだが、残念なことに資料写真に乏しい。しかも何しろ元がただのトラックだから、何軍に使われていても塗装やマーキング等で変わり映えがしない。

というわけで、いじり始めてはみたものの、完成に向けての意欲はいまひとつ。

ちなみに、後輪が2軸かつダブルタイヤなので、かなりの重車輛に感じるが、積載量は2tだそうだ。

一応、ちょっとだけ手を加えたのは、幌を張った仕様のキットと共用パーツのため、幌骨の下半分がモールドされていた荷台側板から、その幌骨を削り取ったこと。元パーツは下のような感じ(レビュー記事からの再掲)。

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削り取った跡を、もうちょっと綺麗にする必要はあるかも。

また、この車輛は前後輪ともにポジティブキャンバーが付いている(前後方向から見て、車輪が逆ハの字になっている)。後輪まで、しかもダブルタイヤなのにキャンバー角が付いているのはちょっと珍しいかも。キットはそのままだと前後とも垂直になってしまうので、角度を付けて接着した。当然、角度を付けても後輪内側が接地するよう、接地面は多少ヤスって平らにした。

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ただ、こうして写真で見ると、ちょっと後輪の角度が足りなかったかな?

あとは、キャビン横ドアの後縁にケガキ線を入れた(キャビンとドアが一体化していたので)。

●先週水曜日(26日)、仕事で横須賀へ。ついでに、先日「のの字坂」記事へのコメントでみやまえさんに紹介してもらった、旧東京湾要塞砲台(米ヶ浜砲台)跡地の「平和中央公園」に行ってみる。横須賀中央駅からはすぐ近く……なのだが、結構な高台にあって、いきなり長い階段を上る羽目になってへろへろ(なので、話の発端の電柱の銘板までは見に行かなかった)。

砲台跡地と言っても、元が明治時代の、港湾防御用のものなので、大戦中の高射砲陣地のような円形のベトン(コンクリート)製砲座などは残っていない。弾薬庫?の壕は残っているが、砲そのものがどのように配置されていたかなどは、現状の風景からは想像しづらい。

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ちなみに、この砲台には、日露戦争の際に旅順攻略に持って行った二十八糎榴弾砲(wikipedia記事)と、それより小径・長砲身の二十四糎加農砲(wikipediaに記事無し)が配備されていたらしい。

高台の公園なので見晴らしは良い。東京湾要塞の遺構としては、より大規模かつ濃密に残っている猿島が、ちょっと見下ろす感じに見える。

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みやまえさんお勧めの「横須賀市自然・人文博物館」は臨時休館で入れなかった。残念。

●昨年末に横須賀市のマンホールカードが増えて、新しいカードはドブ板通りの「ドブ板ステーション」で配布されているとのことだったので、行ってみたら水曜定休だった。がっくし。

貰えないとなると悔しくなったので、仕事帰りに足を伸ばして、三浦市のマンホールカードと、横須賀市の3種目のカードを貰いに行く。

三浦市のカードは、三浦市役所(三崎口駅からバス)または三浦市観光インフォメーションセンター(三浦海岸)で同じものが配布されているようで、行きやすい後者のほうへ。

三浦海岸へは(少なくとも覚えている限りでは)初めて行ったが、砂浜がものすごく広いうえにベージュで美しい(写真1枚目)。これに比べると、逗子の砂浜なんて猫の額だし、砂の色は灰色であまり綺麗ではないし、ゴミも多い。すごく負けた気分。東京湾のくせに!東京湾のくせに!

横須賀市の3種目のカード(発行順から言えば2種目?)は、「浦賀奉行所開設300周年記念」の絵柄で、浦賀駅からちょっと歩いた先の「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」が配布場所。写真2枚目はその途中で見た歯医者さんの看板。いや、いくら浦賀でも、この名前はちょっとどうなんだろう……。

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仕事の時間はわずかで、外出時間の大半を「三浦半島をうろうろ」で過ごした感じ。ともあれ、カードは2種増えた。今度改めて、ドブ板通りのものも貰いに行こう……。

●今度の週末は東京都知事選挙投票日。

今回の都知事選、私の知り合いも出馬しているのだが、知り合いといっても、もうかれこれ30年くらい会っていないし、向こうもたぶん覚えていないと思う。そもそも私は東京都民ではないので(都民だった時期はある)、応援も支持もへったくれもないが、とりあえずは「まあ、頑張ってね」くらいは思う。

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梅雨入り前のあれこれまとめ

●今年は梅雨の入りが遅いとか。

実際にはそこそこ雨の日もあるが、まだ「降り続く」という感じではない。梅雨入りは平年は6月7日なのだが、今年は月後半までずれ込みそう、下手をすると「梅雨を飛び越して夏が来た」になる可能性さえあるとかなんとか。

2019年秋のように、またいきなり暴風雨が複数回やって来るみたいな、異常な天気続きにならなければよいけれど。

●また当「かばぶ」の更新をさぼって、ずいぶん間が開いてしまった。その間のあれやこれや。

●「プレッツェル行脚」のその後。

逗子に隣接する葉山町長柄の外れに「earth7716factory(アースなないろファクトリー)」というパン屋さんがあり、そこのプレッツェルを、義妹が買ってきてくれた(5月中旬)。

しっかりと「革靴のような色艶」の“ラウゲン・ブレーツェル”(ラウゲン液処理されたプレッツェル)で、これまで食べたソフトタイプのプレッツェルの中でも最上位クラス、と感じた。残念なのは、その店が(距離自体はそれほどでもないのだが)車でもないと行きづらい、非常に不便な場所にあること。

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プレッツェル話その2。JR新橋駅構内、ecute内にあったドイツ飲み屋で、ソフトプレッツェルのテイクアウトもしていた「le petit IMBISS」が、先日行ったら閉店していた。うーむ。残念。

●前回書いた、沼間~田浦の山歩きで収穫したクサイチゴは、やや中途半端な量だったが、煮詰めてジャムに。昨年よりも色よく仕上がった。

もともと、我が家の近所では一番普通に採れたカジイチゴは、一番茂っていて毎年楽しみにしていた場所がごっそり刈り取られてしまったのだが、別の場所で、しっかり旬の味を楽しむくらいにはつまみ食いできた(最後の写真)。

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5月の終わり頃からは、ここ数年恒例のマダケのタケノコを収穫。いつも通り、メンマ風のピリ辛炒めや土佐煮なども作ったが、今年の初挑戦として味噌焼きも。単純に醤油を垂らして焼くよりも美味しかった。これは定番に採用しよう。

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●ポカリスエットのCMに、地元町内のバス停が出ている!……というのを、facebookの地元のニュースグループで教えて貰った。ありゃま、ほんとだー。

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左、CMキャプチャ画像は、ポカリスエットCM・「潜在能力は君の中。」春篇より。

ちなみにこのバス停は、京急バス【鎌40】逗子駅発・鎌倉駅行きの「小坪海岸」バス停。同系統でも鎌倉駅発・逗子駅行きは経路がやや異なり、このバス停は通らない。

よく見ると、「バス停の形が違う」「道路端に白線が引かれている」などなど若干の違いもあるのだが、ストリートビューで10年ほど遡ってもCMアニメの状態は確認できないので、おそらくアニメにした際の改変。

Img20240608173106 ●終戦直後に爆発事故があった「西小坪海面砲台」については、これまでも何度かここで話題にしているが、これに関して、今月下旬に講演会が開かれるそうだ。

地域の掲示板に貼られていたパンフが右。

現在はちょっと入れたり入れなかったり、微妙な場所に置かれている慰霊碑が、元の「南砲台」洞口近くに移設される件についてもパンフ解説文中に触れられており、(話としては聞いていたが)本決まりになったらしいことがわかる。

●模型話も書こうと思っていたが、だらだら長くなりそうなので改めて。

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のの字坂

●11日土曜日。横須賀、田浦のプチ名所である「のの字坂」を見に行く。

以前、田浦の旧軍用倉庫群と引込線跡を見に行った際、記事の末尾でちょろっと触れたもの。

もっとも、それを目的に田浦を目指したわけではなく、逗子の沼間から漫然と山道を歩いて田浦に抜け、「そういえば、そんなのがあったな」と思い出して、ついでに寄ったまで。

「のの字坂」は、JR田浦駅から、南へ400~500メートルほど。ゆるゆると谷戸を登って行った先にある。

ループ式の道路というと、高速道路のインターチェンジとか、風光明媚な山地の観光ルートがイメージされるが、これほど“ちんまり”かつ鄙びた感じのループ道路は、ちょっと珍しいかも。しかもくるりと一周、だけではなくて、1+2/3周くらいする。地図上で見ると、「のの字」どころか、プレッツェルっぽくさえある。

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左写真は、谷戸を登って「のの字坂」の出発点。ループした道路が小さな橋をまたいで上を通る。この橋の名前も「のの字橋」というらしく、GoogleMapsにも出ている。右写真は、「のの字坂」をだいぶ上った辺りから見下ろして撮ったもの。右奥に「のの字橋」が見える。

残念ながら草木が茂っていてループの様子はそれほど綺麗に写っていない。葉が落ちる冬なら、もうちょっとはっきり撮れるかな? なお、ループの真ん中は小さな児童公園になっている。

●さて、この「のの字坂」。たたずまいだけでもそれなりに魅力的ではあるが、横須賀市の「地域の歴史を歩く」-「田浦を歩く」のなかの紹介ページには、次のような記述がある(ちなみに、この「田浦を歩く」は、「平成17年に『田浦地域文化振興懇話会』によって発行された冊子『田浦をあるく』から抜粋し作成したもの」である由)。

戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路である。

となると、なかなか凝った砲台道ということになる。しかし、以前の記事でもそのように紹介したのだが、これについてはどうも怪しいことが判明した。

例によって、国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」で、古い空撮写真を閲覧してみた。

左は1946年2月15日、米軍撮影による 「USA-M46-A-7-2-77」から、右は1963年6月22日の国土地理院による「MKT637-C18-9」から、それぞれ切り出し加工したもの。

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右写真では、下辺ほぼ中央に特徴的なグルグルの「のの字坂」がはっきり判るが、終戦直後の左写真では存在が確認できない。上で紹介した「田浦を歩く」の記事では、

道をつなぐ陸橋を「のの字橋」(いわゆるループ橋)といい、はじめは橋も木製であったという。

とあるから、当初は道も細くて写真でも紛れてしまってよく判らないだけ、ということも有り得なくはないが、通常、「砲台道」は物資を運ぶ自動車や荷車が通れるだけの道幅は確保されているはずなので(また、それだからこそループが必要になったはずなので)、可能性は低そう。

まあ、「のの字坂」が戦後生まれであれば、土地のお年寄りに聞けばスパッと解決しそうではあるが。

Img20240511172311 なお、引用写真で黄色矢印で示したものは田浦駅。黄緑矢印で示した円形の大きな窪地は、GoogleMapsでも「城の台砲台跡」と表示され、また、激しい藪を攻略してこの地点を探訪したブログ記事なども散見されるが、以前も書いたように、ディテールから見てここが砲台跡とは考えられない。右写真は田浦駅ホームから見た、「謎窪地」のある尾根の張り出し。

サイト「東京湾要塞」では、この窪地は貯油施設跡ではと推測、城の台砲台の場所は右写真赤丸あたりではないかとしている。もっとも、こちらも「う~ん、どうかなあ」という感じではある。そもそも、「城の台(しろんだ、と読む)砲台」というもの自体、海軍の高角砲陣地のリストには出ておらず、存在そのものが若干怪しい。

●「のの字坂」のオマケ。

「のの字坂」に行く途中、ちょっとオシャレなトンネルがあった。

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「ながかまトンネル」の名は、長浦-失鎌(しっかま)間を結んでいるためで、字名「失鎌」は鎌を失うほど草藪に埋もれた地区だったからとか。JR田浦駅の横須賀側のトンネル名は同じく「しっかま」と読んで「七釜」と書くが、これは、「かま(鎌→釜)を失う」という名前では、鉄道(当時は蒸気機関車)のトンネル名として縁起が悪いというので字を変えたものだそうだ。

そこそこの幅があるトンネルだが、写真には写っていないものの、手前に車止めの柵があるので(少なくとも平時は)人道専用。ちょっと調べてみると、細かい谷戸の多い横須賀ならではの「防災トンネル」で、土砂崩れなどで谷戸の奥が孤立することがないように開削されたものである由。

以前のちょっと話題に出した「横須賀トンネルマップ」に出てるかな?と思ったが、これは出ていなかった。ただし、同じ防災トンネルである「西逸見吉倉隧道」が出ていた(21番)。ちなみに横須賀市内にこの手の「防災トンネル」は、現在5カ所あるそうだ(横須賀市「防災に関する道路などの整備」)。

●話は前後するが、突発的に田浦まで山歩きしてしまったのは、「クサイチゴ狩り」のため。

もともとは、長柄桜山古墳群に「クサイチゴ&“化粧直し”された1号墳見物」に行ったのだが、さすが、先月末に“新装開店”セレモニーも済んだばかりで人の往来も多いためか、目当てのクサイチゴの藪はほとんど実が残っておらず、2,3粒をつまみ食いできただけだった。

食べられないとなるとかえって欲しくなり、くやしんぼうのいやしんぼうで、より山奥の目当ての場所に分け入ってしまった(一応、それでそこそこの量は採れた)。

まあ、せっかくのいい天気に長柄桜山古墳群に行ったので、その写真も少々。

1枚目は、長柄桜山古墳群2号墳からの相模湾の眺め。2枚目はもうちょっと内陸側にある、1号墳からの同様の眺め。

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ちなみに1号墳からは東京湾側も見渡せる。現時点では被葬者については判っていないが、神奈川県内でも最大級の古墳であること、古代の太平洋側の交通の要衝を見下ろす位置にあることから、この地域を支配したかなりの権力者のものであろうとは言われている。

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2群目1枚目は、2号墳からの尾根道を辿って1号墳に出たところで1枚。前方後円墳の「前方」脇から撮ったもの。2枚目は墳丘上に上り、「前方」部から「後円」部を撮ったもの。3枚目は逆に「後円」から「前方」を見下ろしたもの。手前の黒い部分は、埋葬された木棺が腐って発生した腐食抗跡の位置を示したもの。4枚目は発見された埴輪のレプリカ越しの相模湾。

墳丘上の樹木はすべて伐採せず、あえてまばらに残してあるのは(整備上の意図がどこにあったにせよ)なかなかオシャレでいいと思う。なお、この一号墳は前方後円墳としてはややいびつ。2枚目写真で、「前方」から「後円」を見た時に右手の木立のほうが密度が濃いのは、特にこちら側の形が崩れているのを紛らわせる意味もあるかも。

その場に立って見ているだけだと古墳のスケールもあって形状が把握しづらいが、市のページにある空撮写真はなかなか格好よい。

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ブレーツェルは電気ブランの夢をみるか

●20日、仕事で初台に行く。どういう経路で行き来すればいいのか微妙に迷う辺りだが、行きは東横線/副都心線の新宿三丁目乗り換え、帰りは明大前で井の頭線に乗り換えて渋谷から東横線。

午後遅くの用事だったので小腹が空いていたこともあり、行きに横浜でTOMCATのプレッツェル(左)、帰りには(ネットで探して)西新宿のMORETHAN BAKERYのプレッツェル(右、セブンイレブンのコーヒー添え)と、2種のソフトタイプ(パンタイプ)のものを買い食い。

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TOMCATのプレッツェルは、以前に「なんだか、プレッツェルというより、『普通に美味しい塩バターパン』という気がする」と、(本場のプレッツェルを知っているわけでもないのに)したり顔で評価したヤツだが、たまたま店の前を通ったら、「焼きたて」の札付きでバットに並べられていたので、つい買ってしまった。焼きたてのためか「普通に美味しい」が「結構美味しい」にグレードアップしていた感じ。見た目は、革靴のような色艶が、いかにもBREZEL(ブレーツェル)な印象で良し(あくまで個人の主観です)。ちなみに、プレッツェル/ブレーツェル独特の色艶は、焼く前に生地を水酸化ナトリウム水溶液をくぐらせることで出るものである由(wikipediaより)。でもやっぱり、この店のはちょっとふかふかし過ぎかなあ(重ねて言いますが、あくまで主観です)。

MORETHAN BAKERYは新宿中央公園裏手の通りに面したホテル1Fにあるパン屋。仕事帰り、「近所にプレッツェルを売っているパン屋は無いか」と検索して、閉店数分前に滑り込んで購入。全体にねじりの入った、ちょっと変則形状。これも結構バター味強め。塩も局地的でなく、全体にまばらに均等に付いていて、部分的な太さ/細さの差もないので、どこからどこまで同じ食感と味を楽しめる。そのぶん、「うはー。そうかあ。これがブレーツェルかあ」感は薄いかも。美味しいけど。

●本国ドイツにおけるブレーツェルの立場というのは(ソフトもハードも)、おおよそ「ビールのおつまみ」というものなのだそう。先日会った兄弟分のドイツ人Pも、だいたいそんな認識だった。

しかし、基本、自宅で酒を飲まない私は、現時点ではビールのつまみとしてプレッツェルを食べたことがなく、もっぱらプレッツェルのお供はコーヒー。ただ、バター味の強い系のプレッツェルの場合は、結構これは合う、気がしてきた。

一方で、以前、「ビールと一緒でこそ真価を発揮するのでは」と書いたが、そもそも、日本人の感覚としてビールに一番よく合うのって、やっぱり揚げモンじゃね?とか思ったりする。

前にケン太さんに「ジンジャーエールと合う」というコメントを頂いたが、確かに甘い炭酸系には合いそう。お酒もサワーとか、甘いリキュール系のほうが、むしろビールより合うのでは?という気もする。表題に電気ブランを出したのは単に語呂の問題でしかないが、実は意外によく合うかもしれない。

なお、ドイツ人Pに、「今のところ気に入ってるプレーツェルはコレだ」と、鎌倉Bergfeldのものの写真(下)を見せたのだが、どうも「3つの穴の大きさが不均等」という点がお気に召さないらしい。え?こだわるのそこなの?

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●冒頭、MORETHAN BAKERYのプレッツェルと一緒に写っているコーヒーは、西新宿~初台間のセブンイレブンで買ったもの。

セブンイレブンのレギュラーコーヒーは、確か1,2年前から「軽いーふつうー濃い」の3段階で濃さを選べるようになっているのだが、その店舗のコーヒーマシンは、今年9月下旬から登場のさらに新型だそうで、「ふつうー濃いーもっと濃い」の3段階選択式になっていた。「軽い」の売れ行き、あんまりよくなかったのかなあ。ヘビーローストの濃いコーヒーが好きな私は、もちろん「もっと濃い」を選択。近所のセブンイレブンのマシンも更新されないかな。

●「ダンジョン飯」、遂に完結。

「そろそろ次巻が出る頃じゃないかなあ」などと呑気に構えていたのだが、いきなり本屋で13巻、14巻が並んでいてびっくり。「あれ? オレ、1巻買い逃していた?」と思ったのだが、2巻同時発売だった。

このマンガ、一応は「ダンジョンで竜に食われた妹を取り戻す」という目標はあるものの、最初はのほほんと変な料理番組ノリでダンジョン素材の料理を重ねていくばかり。しかも、何しろ料理の素材が最初から「現実に存在しないもの」なので、いわゆる「飯テロ」要素も薄く、なんとなくピントがボケてる?みたいなイメージを持っていた。

しかし、一度は救出・蘇生した妹がドラゴンキメラになり、さらにダンジョンの主だの悪魔だのが絡むようになると、急に話が深く入り組んできて、俄然面白くなってきた。くすりと笑える要素の挟み方も良い。

結末もなかなか素敵な締め方。

●以前からちょっとだけ気になっていた小説、「同志少女よ、銃を取れ」――じゃなかった、「同志少女よ、敵を撃て」だが、先日の関西行きの際にはるとまん氏からも薦められたので、図書館で予約。人気のようでだいぶ待たされそう、と思ったのだが、約一か月待ちで「本が用意できました」の連絡がきた。

ちょうど正月を挟むので、かなりのんびり読む時間が確保できた、と思ったのだが、読み始めたらほとんど一気に、2日で読み終えてしまった。感想は次回。

●米軍の上陸作戦に備えた洞窟砲台である「西小坪海面砲台」については当「かばぶ」でも何回か取り上げている。

今年初夏の大雨で崖面が一部崩れたことについても既報だが、その崖面の補修工事のため、もともと小坪と飯島/材木座を結ぶ「親不知」の崖縁の道だったと思われる場所がすっかり草刈りされていた。

一応、崩落の後なので簡易の柵が組まれて立入禁止となっているので、下写真はその柵のラインを越えない場所から写したもの(左)、と、その手前の庚申塔(右)。庚申塔も長らく藪の中に沈んでいたので、こんなふうに綺麗に並んだ姿を見るのは久しぶり。

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藪が切り開かれれば、もしかしたらこの辺りからでも南砲台の入り口跡を確認できるのではと期待したのだが、どうやらもうちょっと先まで行かないと見えないようだ。

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ダイコクだましい

●14~16日。某IT系ハッカソンの合宿にオブザーバー参加し、府中で2泊。

根が文系の私には理解できない話も多くて往生するが、ChatGPTの活用に関する講義は面白かった。

基本、単純に何かを訊ねて答えを貰おうという使い方ではNGで、あれやこれや材料を放り込んで対話することで、新たな着眼点を得るのがよい――というような話。そのうち自分でも何か試して(遊んで)みようかな、という気になる。

Img20230716201750 ●普段なかなか行かない方面に行ったついでに、近辺のマンホールカードを入手。

一番左は、上記スケジュールの初日、集合前に市役所に行って手に入れた国分寺市のもの。右2枚は合宿終了後に府中市内2個所を回って貰ってきた、マンガ「ちはやふる」タイアップのカラーマンホール蓋のもの。

実はこれ以外にも、初日に小金井市のマンホールカード2種を貰おうと武蔵小金井で途中下車したのだが、(事前にしっかり確認しなかったこちらが悪いが)2種とも品切れ。また、国分寺市のマンホールカードはもう一種あり、そちらは在庫が確認できていたのだが、合宿の集合時間が迫っていたため、配布場所まで足を延ばせなかった。

また、最終日は午後早めの終了だったので、府中市の配布場所2か所に加え、立川市のカードも貰いに行こうかな、などということも考えていたのだが、あまりの猛暑に歩き回る気力が失せた。カードになっている「ちはやふる」マンホール蓋の実物も、それぞれ配布場所近くに設置されていたはずなのだが、「見に行こう」ということ自体思い浮かばなかった。

●府中市の(「ちはやふる」タイアップではない)通常版マンホール蓋には何種類かあり、何枚か写真を撮ってきた。

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最初の2枚は市の木であるケヤキ。基本デザインは共通だが、細部は異なっていて、ケヤキ自体、「別の植物?」と思ってしまったくらい描き方に差がある。最後の1枚は府中本町駅近くで見た、市の花である梅のカラーマンホール蓋。他に、市の鳥であるヒバリの図案のものなどもあるらしい。

Img20230716150343 ●上掲マンホールカード一番右の配布場所は府中市観光情報センターというところなのだが(ちなみにもう一方は片町文化センター)、同情報センターは、大國魂(おおくにたま)神社というデカイ神社の入り口脇にある。

「神社の隣」ということ自体は下調べで知っていたのだが、なんだかボンヤリと「村の鎮守」レベルのものを想像していて、行ってみて初めて、神社の大きさにたまげた。

後から調べてみると、村の鎮守なんて話ではなく「武蔵の国の総社」であり、「府中」の名の元である、律令時代の国府跡もこの神社の境内にある由。ちなみに祭神である「大國魂大神」とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称、ということになっているらしい。

武蔵の国といえば、武蔵と相模の境界が、鎌倉市/横浜市金沢区をまたぐ朝夷奈切通を抜けた先の鼻欠地蔵(鼻缼地蔵)だったと思い出す。地域の中心(国府)から端までずいぶん遠いなあ、と思ったのだが、考えてみれば現在の都道府県レベルの行政区域なので、全然不思議でも何でもない。

●先月上旬の大雨で、逗子マリーナに面する飯島・親不知の崖面が2か所ほど崩落。しばらく前に通りかかったら、補修のため、崖面の草が切り払われていた。左写真は崩落からさほど経っていない時のもの(6月16日)、右が最近(7月21日)。

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この刈り取られた左下あたりが、ちょうど西小坪海面砲台の南砲台の洞口があったと思われる場所で、土砂止めの板張りがなければ、洞口の痕跡くらいは、もしかしたら見えていたかも。

近くの逗子マリーナの上層階とか屋上とかからなら確認できるかもしれないが、さすがに知り合いもいないので上る術がない。

Img20230720103523 ●前回記事で書いた転倒事件のその後。

府中での合宿中は腫れや痣もひどく、その辺の冷たい金属扉などに押し付けて冷やしたり、なんてことも。

あちこち押してみても強い痛みが走ったり、ということもないので、骨折やヒビはないだろうと思っていたのだが、その後腫れや痣が収まってきても、じーんとした痛みが引かない。結局先週になってようやく整形外科に行って、レントゲンを撮ってみたら「やっぱり折れてます」ということになって、添え木(というか添え石膏?)をあてて包帯でぐるぐる巻きに。

来月上旬まではこの状態で、キーボードは打ちづらいし、それ以上にマウスが操作しづらいし。さすがにこれではナイフも持てないので模型製作はしばらくお休み。

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スベスベマンジュウガニ

●「スベスベマンジュウガニ」というカニは、そのファンキーな名前と、一方で名前のイメージに反して毒があるという意外性から、比較的知名度は高い。(おそらく)名前のせいでイジられて、NHKの「みんなのうた」でも取り上げられた歌になったことがあるので(私自身は今回初めて検索して聞いた)、さらに知っている人が増えたかも。

Img20230317154503 先日、材木座海岸を歩いていて、波打ち際に丸っこい、小さいカニの死骸があって、「ああ。たぶんスベスベマンジュウガニってこんな感じのカニなんだろうなあ」と思ったのだが、帰宅して写真をもとに検索してみたら、(むしろ意外なことに)本当にスベスベマンジュウガニだった。こんなご近所にいるカニだったのか……。

なお、写真はパッと見で「こっちが上かな」と撮ったのだが、帰ってよく見たら天地が逆だった。写真下が本来の頭側。

●その材木座近辺の軍事遺構について少々。

住吉城址~扇山の裾は、突端の西小坪海面砲台をはじめとして、洞窟陣地跡が点在している。

光明寺の裏山、鎌倉第一中学校北側脇の駐車場奥の崖面に、いかにも戦時中のものと思われる、コンクリート巻きの洞口があるのに(今更)気付いた。

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よく似た洞口は、光明寺の本堂(大殿)真裏の崖面にもある。現在光明寺の大殿は大規模な保存修理工事中で、それに合わせて本堂裏の道も足場で若干かさ上げされていて、洞口も半分隠れている。

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上の駐車場のものとよく似ているが、よく見るとコンクリート巻きの上部が上は緩いアーチ型、こちらは直線の屋根型。また、洞の入り口近く数メートル分は洞横も半露出になっていて、コンクリートが外側からも確認できる(2枚目写真)、洞窟自体は真っ直ぐでなく、ちょっと「くの字」型。内部は、現在もお寺が資材置き場的に使っているらしい。覗き込むように撮った写真からみて、奥はちょっと広がっているようで、その部分は素掘りかも。

4枚目は洞窟と無関係で、その洞窟の対面側、保存修理中の大殿を覆うパネル一部が透明で、中をちょっと覗き見できるようになっている。現在の大殿は、外壁も内壁も床面も全部取り払って、骨組みだけになっているようだ。

●光明寺からまた山側に戻って、第一中学前の道が材木座~姥子台間の道に当たるわずか手前の崖面にも、洞窟陣地跡がある。崩落防護網や藪のせいで、普段は存在自体がなかなか確認できないのだが、たまたま午後の陽が当たってわずかにコンクリートの構造物が見えた。ここは単純な洞口ではなくて、内側が一段窪んで銃眼がしつらえてあるらしい。

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しかし写真にすると、やっぱり判りづらいなあ……。

Img20230319173056 ●20日月曜日。仕事先の事務所で数年ぶりの花見。千鳥ヶ淵、英国大使館前にて。久しぶりに都心に出た。

とはいえ、まだこの時は三分咲き程度。

前日に今年初収穫したアケビの芽を茹でて持って行った。出がけに逗子駅前OKストアで買っていった使い切りの胡麻ドレッシングで食す。これはこれで好評だったものの、数人に「今年はノビルはないの?」と言われた。

花見の席の近くを通りかかった女性のひとりが、いわゆる“胸開きタートルネック”を着ていて驚く。え?あれってネタとか伝説上の存在とかじゃなかったの?

●ほか、春の収穫ネタ。

私自身はもともとツワブキは、独特の味のクセがあまり好きではなく、好んで収穫しようと思わないのだが、義妹は好きで、日常的にあれこれ採っている私に「ツワブキはまだ? あれって下処理はどうするんだっけ」などと聞いてくる。

たまたま散歩に出た際に、ちょうどよい具合に若い葉が出ているツワブキを見つけたので、「ついでだから採って行ってやろう」と一束摘んで義妹宅に持っていったら、「ちょうど今日採ってきて今煮たところだよ! 持って帰って自分で作ってよ」と言われてしまった。なんという間の悪さよ。

というわけで仕方がないので、久々に(以前作った時の手順はすっかり忘れてしまったので、改めてネットなど見つつ)佃煮(風?)を作る。

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下処理は一茹でして皮むき。……前に作った時って、皮剥いたかなあ。

適当に刻んで、まずは日本酒、顆粒だし、醤油と、みりん、砂糖を少々。刻んだ鷹の爪を心持多め。色が薄い気がしたので、もうちょっとちゃんと味が染み込むようにと、途中で一度、すこしだけ水を差している。水気が飛ぶまで炒め煮して終わり。

意外なくらい美味しく出来て、これだけで飯が食えてしまう感じ。ツワブキを見直す。この春のうちに、あと数度は作ってもいいかも。

某所に「ミズはもう生え始めたかな?」と見に行ったら、まだ本当に生え始めで、5~10cm程度だった。せめて40cmくらいまでは育たないと。

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花見のあと、アケビの芽は自分用に(今日までに)もう2度収穫。どちらも(私的)定番の「卵ご飯に大量投入」で食べる。美味し。

●DHCといえば、世間的には(ネトウヨ系の)薬屋さんかもしれないが、個人的には見かけるたびに「デ・ハビランド・カナダだ~」と思う。飛行機マニアあるある?

それはそれとして、薬屋さんのほうのDHCは、もともと「大学翻訳センター」の頭文字だそうだ。……は?

●YouTubeの有隣堂clip「神奈川あるあるの世界 clip」というのをたまたま見ていたら、通勤ラッシュの話題で、

「幸せな人生って、南武線に何回乗らずに済んだかっていう人生だと思うんですよね」

と言っていて、中学・高校の6年間、南武線に乗って通学していた私は、人生の幸せをものすごい勢いですり減らしたんだなあ、と思った。

ちなみに中学の時だったか、ドアにぎゅうぎゅうに押し付けられて、腕時計のガラスを割ったことがある(むしろよくそれで腕が折れなかったものだと思う)。もっとも、通勤ラッシュ時の混雑度のすごさは、南武線よりも、大学時代に使っていた(かつての)新玉川線のほうがひどかったように思う。

単純に乗車率の問題だけでなく、当時の車輛の吊革の配置などもあるのかもしれないが、新玉川線の場合は発着時の「潮汐作用」もひどくて、身体が半ば浮いたまま、発着のたびに自分の意志と関係なく態勢変えを強いられるのがツラかった。

ここ数十年で、列車運行の改善とか時差通勤とかでラッシュはだいぶ軽減されたと思うので、今はあれほどの殺人的ラッシュは稀なのかも。

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路上のバルケンクロイツ

●先日も紹介した「横須賀トンネルマップ」の中に、田浦港町-長浦間の「比与宇(ひよう)隧道」というのが出ていた。もともと軍事用の引込線のトンネルで、内部で荷物の積み下ろしができるよう、線路と車道が並ぶ珍しい形式であった由。

何か格好いい!見に行きたい!という気持ちが俄かに盛り上がったので、田浦まで出かける。JR田浦駅では、跨線橋を渡りちょっと「裏口感」がある北側(海側)へ。

Img20230311144515 跨線橋の上から、田浦駅を両側から挟むトンネルのうち、横須賀側の七釜(しっかま)トンネル群を撮る。

以前にも書いたことがあるし、横須賀市の観光情報のページでも紹介されているが、中央の現・下り線トンネルが開業当初の明治のもの。右の上り線が大正の開削。一番左の大きいものが昭和になって作られた、軍事輸送の引込線用で、こちらはまったく廃線になっている。このトンネルを見るたび、雨に濡れるのがイヤで引きこもったヘンリー(「きかんしゃトーマス」より)のトンネルっぽいなあ、と思う。

この写真だと、廃線トンネルには向かって左側に一線だけ入っているように見えるが、実際には(藪に埋もれたか撤去されたかで)右にももう一線入っている。

●JR田浦駅を降りて目的地の比与宇隧道に向かう途中、海側に並ぶ大型倉庫群は、見るからに年代物が多い。

改めて調べてみて意外だったのだが、軍港・横須賀は、大戦中、ドーリットルの日本本土初空襲の際の1機や、主には艦載機による散発的な銃爆撃があった(あるいは東京空襲の行き帰りの際の置き土産)程度で、本格的な空襲は受けておらず、田浦の倉庫群も多くが大戦前・大戦中からの生き残りなのだという。

横須賀が本格的な空襲から逃れたのは、アメリカが戦後利用することを見越してのことだったなどと言われることもあるらしいが、実際にはこれは俗説で、どうも「たまたま」だったらしい。このあたりは、wikipediaの「横須賀空襲」の記事で概略が掴める。

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1枚目の写真は(割と駅を降りてすぐのところにある)相模運輸倉庫F号倉庫。近辺の倉庫の中でも一番の古株らしく、1917年(大正6年)建造。横須賀市のサイトでも、これ一棟が特別に紹介されている。近辺の軍事遺構のガイドとして常々活用させてもらっている「東京湾要塞」の記事「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」によれば、元々は「第三水雷庫」であった由。普通にコンクリート建のように見えるが、レンガ造りの上からモルタルを被せているらしい。

2枚目の写真は、F号からひとつ置いて隣、相模運輸倉庫K号倉庫。1928年(昭和3年)。旧・光学兵器倉庫だそうだ(「東京湾要塞」による)。

3枚目はだいぶ比与宇隧道に近付いて、相模運輸倉庫の本社事務所の隣にある、巨大なトタン葺き倉庫。同社の5号倉庫。大きさとサビっぷりに感心して撮ってきたのだが、これは1940年(昭和15年)建造。このあたりは第二海軍航空廠横須賀補給工場の倉庫群で、この現・5号倉庫も、発動機倉庫であったらしい。

Img20230311145510 ●上の5号倉庫脇を過ぎてすぐ、道路脇に珍しい線路の平面交差が2つ隣り合っている。このあたりの海軍の倉庫群を細かく連絡していた引込線のもの。その昔、タモリ倶楽部でも比与宇隧道とセットで紹介されたとか。

写真は駅方面から歩いてきて、比与宇隧道方向を向いて撮ったもの。写真にも遠くにちらりと、比与宇隧道の入り口が写っている。

線路それ自体はまったくの廃線で、道路方向にはまだ多少前後が続いているものの、道路を横切るほうは交差のすぐ脇でぶっつり途切れている。

2連の平面交差をもっと寄って撮ったのが下写真。1、2枚目が上写真の手前の交差、3、4枚目が奥の交差。レールの継ぎ方がなぜかそれぞれで異なっている。

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レールはほとんど直角に交わっていて、ギャップはそれなりに広いから、通過の際にはかなりガタゴトいっただろうなあ……。

●そして今回の訪問のメインの目的地である比与宇隧道。

手元にある「横須賀トンネルマップ」の掲載写真がいささか古く、いかにもトンネル直前まで引込線が残っているように撮られているのだが、現状ではかなり手前で線路は消失していて、すでに「普通の(ちょっと狭めの)二車線道路トンネル」にしか見えず、いささか拍子抜け。

トンネルは田浦港町(田浦駅側)と長浦(横須賀側)を結んでいて、冒頭書いたように、かつては線路と車道が並行し、トンネル内部で荷物の積み下ろしをするようになっていたらしい。というだけでなく、トンネルの南面(田浦側から入って右側)にはそのまま大規模な地下倉庫(地下陣地)が広がっていて、現在でも塞がれた洞口が4つ確認できる。この地下壕に関しても、「東京湾要塞」に見取り図付きの記事がある。

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●今回紹介の一帯の、終戦直後の米軍による空撮写真が以下。国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」、「USA-M46-A-7-2-77(1946年2月15日撮影)」から切り出し加工。

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丸数字を振ったのが最初に紹介した倉庫で、①がF号、②がK号、③が5号。今回はこの3つの倉庫の写真しか撮っていないが、周囲の倉庫群も、この頃から今までそれほど大きくは変化していない。

アルファベットは、Aが田浦駅。Bが引込線の平面交差地点。Cが比与宇隧道の田浦側入り口。この写真でも判るように、田浦駅から七釜トンネルを抜けて分岐した引込線は、平面交差(上の現状写真では横方向の線路)を通って第二海軍航空廠倉庫群の区画に入る。

平面交差のやや手前から右への分岐があったようで、これは比与宇隧道に向かう。その引込線は、比与宇隧道隧道内でスイッチバックする形で、今度は平面交差を東西方向(上の現状写真では道路沿いの縦方向の線路)で横切り、横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群に連絡していたらしい。

なお、Dで示したのは、おいそれと入れる場所ではないが、田浦駅のすぐ横にある小高い丘に現在でも残っている巨大な丸い窪地。ネット上では高角砲陣地の砲座跡ではないか等と紹介されていることもあるが、中心に謎のコンクリート柱があり、普通に対空砲が据え付けられる状態ではない。「東京湾要塞」の「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」ページでは、地下貯油タンクではないかと書かれている。

この付近に「城の台(しろんだ)砲台」と呼ばれる対空陣地があったとの話もあるが、これはこの「謎窪地」よりももうちょっと南にあったようだ。そこに向けての旧・砲台道と思われる道が、勾配を緩くするためにループさせた「のの字坂/のの字橋」と呼ばれる場所も附近にあり、今回は見られなかったが、そのうち訪問してみたい。F号倉庫同様、市のサイトに紹介ページ有り。

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続・鷹取山高角砲台

●兄が知り合いを連れて逗子近辺の山歩きに来たいというので、その計画を立てる。

もともと、兄の友人のHさんが鷹取山の磨崖仏を見たいと言っていたのが計画の出発点なので、神武寺ー鷹取山のルートは固定。しかしそれだけだと1時間も歩けば終わってしまうので、逆に追浜集合にして鷹取山→神武寺→東逗子と歩き、そのあと三浦アルプス北尾根ルートに上がって二子山に行くか、あるいは連れて行く皆さんの足が大丈夫なら再び東京湾側に歩いて田浦梅林で咲き始めの梅を見る、というような感じでどうですかね(ってここで聞いてどうする)。

一応、予定では来週25日土曜日。前日24日に少し雨が降る可能性があるとの予報が出ているのが少し心配。

●そんな計画の下見を兼ねて、本日18日、東逗子から神武寺経由で鷹取山まで(ちょっと久々に)歩く。そのついでに、以前にも書いた海軍の鷹取山高角砲台の跡地の実地調査をしてみる(というほどのものでもないが)。

鷹取山それ自体にはこれまでも何度か行っているのだが、鷹取山高角砲台の場所を私自身がきちんと調べたのは前回(2021年4月)に訪れた後のこと。当然ながら、陣地があった(と思われる)場所に行ってみるのも初めて。終戦直後の砲台周辺の状態と、現状と比較に関しては、前回記事に載せた写真を再掲しておく。

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写真はともに国土地理院の国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」からで、

  • 左:1946年3月5日、米軍撮影(写真コード「USA-M64-A-6-69」から切り出し加工)。
  • 右:2019年8月7日撮影(写真コード「CKT20194-C13-58」から切り出し加工)。

写真中央の楕円が高角砲台(の場所)で、矢印と丸数字は、①追浜駅、②追浜小学校、③鷹取山山頂。

上と同じ写真から、さらに陣地部分に寄って切り出したのが下写真。左は前回記事と同じ。右は今回新たに切り出し加工。

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今回現地で撮った写真が下の2枚で、それぞれ、撮影ポイントと撮った方向を上右写真でA,Bで書き入れた。

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左写真がAポイントから砲台方向を撮ったもの。左に曲がって下る道路はこの住宅地(湘南鷹取)の、いわば「中央通り」で、そのまま下っていくと京急線/国道16号に突き当たる。この住宅地は鷹取山山頂から北側の高台を(西武が)切り開いて造成したものだが、左写真で判るように、高角砲台があった場所は鷹取山北側斜面が再びちょっと盛り上がった小ピークになっている。

鷹取山山頂はもともと近代の石切場跡で(ちょうど東京湾を挟んで向かいの鋸山のように)ゴツゴツしているために高角砲陣地を作るには面倒だったのに対し、こちらは特に制約がなく都合がよかったのではと思う。確かに南側には鷹取山山頂があるが、鷹取山山頂とこの地点の標高差は35~40m程度で、そこそこ離れている(500mほど)ため、それほど空を遮っている感はない。

右写真は、左のAポイントからゆるゆる坂を上がって、高角砲台があったと思われる場所の南端あたりのBポイントから撮ったもの。写真を撮った場所がもっとも高く、そこから住宅地は再び緩やかに下っている。

これがやや不思議なところ。これまで付近で見た高角砲台は、どれも山のてっぺんが平らに整地され、各砲座は同一レベルに配置されている。しかし、当時もこの通りの地形であったとすれば、鷹取山高角砲台は、南から北に向けて砲座が低くなっていたことになる。「宅地造成の際に少し削った」なんてことはあり得るのだろうか。そもそも宅地として利用する際も平らであった方が都合がよいはずで、わざわざ傾斜地にする必然性は低い気がする。謎。

なお、前回も書いたが、ここ鷹取山高角砲台の主装備は十二糎高角砲(単装)のようなので、二子山砲台同様、砲座は単なる土塁だったと思われ、住宅の下に何らかの遺構が残っている可能性は低い。

●高角砲台跡地から、追浜駅の裏手に降りる。

昔からの谷戸の住宅地の脇で、素敵感の高いトンネルに遭遇。

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明らかに地元住民の便のために谷戸と谷戸をつなぐ形で掘られた小隧道。レンガ積みのポータルは新しく、トンネル内は鋼板張りだが、おそらくもとは素掘りだったのだろうと思わせる佇まい。

帰宅後、この「向坂隧道」について改めて調べたら、トンネルファンなら押さえておきたい「横須賀トンネルマップ」に記載されたトンネルの栄えある第1番だった。昭和8年開削、現地で想像した通り、レンガ積みポータルと扁額は昭和58年の改修で追加されたらしい。「横須賀トンネルマップ」、私は紙版も持っているが、貰ってきてからあまり活用していなかった。改めてしっかり読んで、面白そうなトンネルをピックアップして訪れてみたい。

●向坂隧道を抜けてちょっと先で見掛けた小稲荷。

たぶん、もともとは崖面の窪みに小さな祠を置いたものだったんだろうなあ。崩落防止のために崖面をコンクリで固めた際に、安易にどこかに移したりせず、そのままそこでお祀りするためにこうしたんだろうなあ。

……というのは判る! 判るんだけど! いや、もうちょっとどうにかならなかったのか、これは。

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ちなみにトゥラーン中戦車の“シュルツェン”に使われたのと同様な(汎用性の低い形容)パンチングボードの扉の向こうに、おそらくもともとあったものだろう、小さな石の祠が収まっている。

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謹賀新年2023

●明けましておめでとうございます。

本年も――おそらくこれまで同様に当「かばぶ」はぐだぐだな内容だと思いますが、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

●例年通り、大晦日に川崎の実家に行って、母・兄と年越し。

1日にはドイツ人Pと、Pの長女Jが遊びに来て、午後中まったり飲み食いしながらお喋り。Pらの帰宅後、甥(兄の次男)Gが彼女連れで来る。田舎の叔父宅に電話したり、なんだかんだと、それなりに正月らしかったかも。

2日は兄と墓参りに行き、そのまま、津田山の墓地から東急田園都市線の宮崎台駅まで延々と歩く。横浜に寄って帰宅。

Img20230103133901 ●3日、ふと思い立って(特に用事もなく)稲村ケ崎まで往復歩く。

初詣客で混んでいるであろう鎌倉中心部には立ち寄らず。個人的には、「初詣」というものに格段の重要性を感じていないが、たまたま前を通るし、ということで、小坪の天王社(須賀神社)でお賽銭。

この小坪天王社は、“おらが村”である小坪村の総鎮守である天照大神社の境外末社。天照大神社は披露山の端っこにあり、小坪漁港側からだと、かなり長い急階段を上がる必要がある。要するに「市役所に行くのが面倒なので出張所で」という感じ。名前の通り、本社の祭神は天照大神だが、天王社のほうは牛頭天王/スサノオノミコト。

もっとも、小坪村の夏祭り(天王祭)はこの小坪天王社のお祭りだし、さらには、小坪天王社(のスサノオノミコト)と葉山の森山神社(のクシナダヒメ)は夫婦神ということで、32年ごとに天王社の神輿が森山神社に行く「三十三年祭」というのがある(祭りがある年も1年と数えるので32年周期でも三十三年祭)。次は2028年である由。なお、小坪天王社は御覧のように祠に毛の生えた程度の小さな神社だが、葉山の森山神社は結構大きい。

●その他、(特に正月とは関係のない)正月風景。

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前々回に書いた西小坪海面砲台現状に関する補足。逗子マリーナ6号棟正面の擁壁上の柵越しに、わずかに崖裾部が見えた。どうやら、擁壁上の段(かつての親不知の崖路跡?)の向こうの崖裾部は、格子状のコンクリート擁壁で覆われているようだ。崖の左右一杯までこの処理が行われているとすると、かつての洞窟砲台の洞口も完全に覆われて、何も痕跡は確認できなくなっているかもしれない。

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小坪の飯島(逗子マリーナの端)から、目的地の稲村ケ崎越しの富士山。この日はほぼ一日中、富士山は雲被り。

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由比ガ浜の波打ち際の細かい貝殻の集積。そしていつもとは逆視点。由比ガ浜の割と端っこ(稲瀬川あたり)から材木座・逗子方面を振り返って1枚。

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稲村ケ崎突端の銃眼と、その拡大。この斜め下には「伏龍」出撃基地とされる洞口があるが、大潮の時くらいしか近付けないようだ(私自身はそんなタイミングで訪れたことがなく、洞口は見たことがない)。

しかし、(銃眼があるからには、何らかの陣地だったのは確かだとしても)波の荒い岬の突端から、重い潜水装備に刺突機雷を担いだ兵が、海底を歩いてある程度以上の範囲に展開できたとは思えない。そもそも米軍が、海岸線に急斜面が迫る七里ガ浜や、山に囲まれてその後の展開に支障が出そうな旧都鎌倉に上陸作戦を敢行するとも思えないから、対上陸用舟艇の特攻兵器である伏龍をここに配置した可能性は低いのではと思う(訓練基地だった、というならまた別だが)。

小さなモーターボートに爆薬を摘んだ「震洋」の基地だったという説もあるそうだが、写真で見る洞口は、小さな舟艇でも出入りできたのかどうか怪しい(洞内に複数の舟艇を収容できたのかどうかも怪しい)。

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夕方、再び飯島あたりまで戻ってきて、振り返って1枚。手前から和賀江島(鎌倉時代の船着き場跡)、稲村ケ崎、江の島の向こうの富士山。多少雲は残っていても、シルエットならOK。

●AIRFIX 1:48、アルビオン燃料補給車の製作の続き。

荷台の燃料タンクの後ろにはポンプ室?があって、後面の扉は開閉選択式。中には一応、それらしく機器のパーツが入っているが、若干手を加えた。

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奥の壁にあるメーター付きの筒形パーツは、もともとキットにモールドがあったが、立体感に乏しいので削り落として作り変えた。横の壁にも何やら「付属の品」を追加。

とはいえ、もともとキットに含まれていたメインの内部機器パーツ自体の形状が結構怪しく、本当はもうちょっと、向かって左側にスペースも開いていて、先述の「奥の壁のパーツ」が見えていないとおかしい。が、そこをとやかく言いだすとこのメインの機器パーツ自体、1から作り直さないといけなくなって激しく面倒なので、適当なところでお茶を濁した。機器の後ろにもう少しパイプ類もあるのだが、どこからどこに繋がっているのかが判らないので、こちらも工作は諦めた。ヌルし。

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彫師

Img20221229015336 ●アルビオン燃料補給車の前部フェンダー、左右ともそれなりに「窪んでいる」状態まで彫り込んだ。やれやれ。もっとも、プラが柔らかいので思ったよりは早く片付いた。

シャーシフレームにそれなりにパーツも付けてみて、ここまで組んでの感想いくつか。

▼パーツの位置決め、方向決めがやや曖昧。もちろん、一頃の東欧キットのように「部品をどこに、どう付けたらいいかわからん!」ということは基本ないが、例えば4カ所のリーフスプリングが、シャーシフレームに対してしっかり真っ直ぐになっているかどうかは「部品任せ」では決まらない。ここが歪んでいると、後々4輪がきちんと接地しないことになりかねないので、ピッタリ決まるような何らかの工夫が欲しかった。

▼バリ等はないが、入り組んだ部分のパーティングライン、微妙な型ズレの直しが面倒(ほぼ見えなさそうなところはそもそも本気で直していないが)。

▼近接部位のパーツがあっちの枝、こっちの枝にバラバラに配置されていて、いちいち探すのが面倒。別にタミヤとかでなくても、普通のメーカーなら例えばエンジン周りならひとまとまりで同じ枝になっていそうなものだが、このキットの場合A枝、B枝、C枝、D枝に分散している。なんで!?

▼謎の部品取り付け手順。「絶対、これはこの段階じゃないだろ!」という指示がある。例えばエンジン側面に取り付けるパーツB12が、エンジン本体をシャーシフレームに付けた後に取り付けるよう指示されているが、あらかじめ付けておいたほうが楽。その上に付く排気管D15もエンジン取付前のほうが付けやすいと思う。

▼一方で組立説明図は多色刷りで丁寧。1ステップ前で取り付けたパーツは色を変えて図示し、取付後の姿がはっきりわかるようにしている。それでも見難い部分に関しては、別途向きを変えた別図など添えていて間違えにくいようにしている。

●そういえば、今季はフユイチゴを食べていなかった!といきなり思い出し、日曜日、例年つまみ食いしている某所に出掛ける。

昨年同様、途中で「山歩きのおやつ」として「小倉&マーガリン」のコッペパンを仕入れ、現地でこれでもかとフユイチゴをトッピングして食べる。美味し。

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鎌倉市図書館に「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」(鎌倉市中央図書館近代史資料収集室/CPCの会、2004年)という冊子があり、図書館サイトでPDFで閲覧もできるようになっている(興味のある方は図書館サイトで書誌名で検索のこと)。

このなかに西小坪海面砲台のことも出ていて、それによれば、砲の据えられた二つの洞窟は、現在の逗子マリーナ6号棟正面の崖の、ちょうど6号棟の左右端の前あたりにあったらしい。

Img20221220151344 崖に向かって右側の擁壁には、現在上側で通行止めになっている階段があるが、これは上記資料によれば、洞窟の爆発事故で亡くなった子供たちの慰霊の地蔵へのアクセス用に設けられたものだという。

以前の記事に書いたように、この地蔵は現在では小坪海岸トンネル入り口上になるが、もともとは南砲台の洞窟前に置かれていたものだという。その当時の写真も、逗子市役所の写真アーカイブ「逗子フォト」にある(「小坪の洞窟砲台」で検索すると出てくる)。

というわけで、南砲台の洞窟は、この階段を上がってすぐの場所にあったはず。藪が多少は薄くなる(はずの)冬なら、もしかしたら洞口の痕跡くらいは見えるかもしれない――などと考えていたのを、先週通りかかった時に思い出し、ちょっと上まで登ってみた。

階段そのものが草藪と化していて、上るだけでも面倒だったが……結果。冬だろうと藪が濃くて、その向こう側はまったく見通せなかった。

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1枚目は通行止めの鉄棒越しに、ほぼ真っ直ぐ崖方向を向いて撮ったもの。2枚目は飯島方向(崖に向かって左方向)。3枚目は振り返って草ぼーぼーの階段を撮ったもの。

洞口はコンクリートが巻かれていたので、洞窟自体は埋められていても、藪さえなければ痕跡くらいは見えそうなものだが、残念。

●仕事先の神保町の事務所のC社長夫妻がコロナ罹患。ほぼ同時にその事務所での仕事仲間のE君も発症し(家に受験生がいるとのことで)隔離施設入り。一気に身近に迫ってきた感。

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