軍事遺構

ダイコクだましい

●14~16日。某IT系ハッカソンの合宿にオブザーバー参加し、府中で2泊。

根が文系の私には理解できない話も多くて往生するが、ChatGPTの活用に関する講義は面白かった。

基本、単純に何かを訊ねて答えを貰おうという使い方ではNGで、あれやこれや材料を放り込んで対話することで、新たな着眼点を得るのがよい――というような話。そのうち自分でも何か試して(遊んで)みようかな、という気になる。

Img20230716201750 ●普段なかなか行かない方面に行ったついでに、近辺のマンホールカードを入手。

一番左は、上記スケジュールの初日、集合前に市役所に行って手に入れた国分寺市のもの。右2枚は合宿終了後に府中市内2個所を回って貰ってきた、マンガ「ちはやふる」タイアップのカラーマンホール蓋のもの。

実はこれ以外にも、初日に小金井市のマンホールカード2種を貰おうと武蔵小金井で途中下車したのだが、(事前にしっかり確認しなかったこちらが悪いが)2種とも品切れ。また、国分寺市のマンホールカードはもう一種あり、そちらは在庫が確認できていたのだが、合宿の集合時間が迫っていたため、配布場所まで足を延ばせなかった。

また、最終日は午後早めの終了だったので、府中市の配布場所2か所に加え、立川市のカードも貰いに行こうかな、などということも考えていたのだが、あまりの猛暑に歩き回る気力が失せた。カードになっている「ちはやふる」マンホール蓋の実物も、それぞれ配布場所近くに設置されていたはずなのだが、「見に行こう」ということ自体思い浮かばなかった。

●府中市の(「ちはやふる」タイアップではない)通常版マンホール蓋には何種類かあり、何枚か写真を撮ってきた。

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最初の2枚は市の木であるケヤキ。基本デザインは共通だが、細部は異なっていて、ケヤキ自体、「別の植物?」と思ってしまったくらい描き方に差がある。最後の1枚は府中本町駅近くで見た、市の花である梅のカラーマンホール蓋。他に、市の鳥であるヒバリの図案のものなどもあるらしい。

Img20230716150343 ●上掲マンホールカード一番右の配布場所は府中市観光情報センターというところなのだが(ちなみにもう一方は片町文化センター)、同情報センターは、大國魂(おおくにたま)神社というデカイ神社の入り口脇にある。

「神社の隣」ということ自体は下調べで知っていたのだが、なんだかボンヤリと「村の鎮守」レベルのものを想像していて、行ってみて初めて、神社の大きさにたまげた。

後から調べてみると、村の鎮守なんて話ではなく「武蔵の国の総社」であり、「府中」の名の元である、律令時代の国府跡もこの神社の境内にある由。ちなみに祭神である「大國魂大神」とは、大国主命(オオクニヌシノミコト)の別称、ということになっているらしい。

武蔵の国といえば、武蔵と相模の境界が、鎌倉市/横浜市金沢区をまたぐ朝夷奈切通を抜けた先の鼻欠地蔵(鼻缼地蔵)だったと思い出す。地域の中心(国府)から端までずいぶん遠いなあ、と思ったのだが、考えてみれば現在の都道府県レベルの行政区域なので、全然不思議でも何でもない。

●先月上旬の大雨で、逗子マリーナに面する飯島・親不知の崖面が2か所ほど崩落。しばらく前に通りかかったら、補修のため、崖面の草が切り払われていた。左写真は崩落からさほど経っていない時のもの(6月16日)、右が最近(7月21日)。

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この刈り取られた左下あたりが、ちょうど西小坪海面砲台の南砲台の洞口があったと思われる場所で、土砂止めの板張りがなければ、洞口の痕跡くらいは、もしかしたら見えていたかも。

近くの逗子マリーナの上層階とか屋上とかからなら確認できるかもしれないが、さすがに知り合いもいないので上る術がない。

Img20230720103523 ●前回記事で書いた転倒事件のその後。

府中での合宿中は腫れや痣もひどく、その辺の冷たい金属扉などに押し付けて冷やしたり、なんてことも。

あちこち押してみても強い痛みが走ったり、ということもないので、骨折やヒビはないだろうと思っていたのだが、その後腫れや痣が収まってきても、じーんとした痛みが引かない。結局先週になってようやく整形外科に行って、レントゲンを撮ってみたら「やっぱり折れてます」ということになって、添え木(というか添え石膏?)をあてて包帯でぐるぐる巻きに。

来月上旬まではこの状態で、キーボードは打ちづらいし、それ以上にマウスが操作しづらいし。さすがにこれではナイフも持てないので模型製作はしばらくお休み。

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スベスベマンジュウガニ

●「スベスベマンジュウガニ」というカニは、そのファンキーな名前と、一方で名前のイメージに反して毒があるという意外性から、比較的知名度は高い。(おそらく)名前のせいでイジられて、NHKの「みんなのうた」でも取り上げられた歌になったことがあるので(私自身は今回初めて検索して聞いた)、さらに知っている人が増えたかも。

Img20230317154503 先日、材木座海岸を歩いていて、波打ち際に丸っこい、小さいカニの死骸があって、「ああ。たぶんスベスベマンジュウガニってこんな感じのカニなんだろうなあ」と思ったのだが、帰宅して写真をもとに検索してみたら、(むしろ意外なことに)本当にスベスベマンジュウガニだった。こんなご近所にいるカニだったのか……。

なお、写真はパッと見で「こっちが上かな」と撮ったのだが、帰ってよく見たら天地が逆だった。写真下が本来の頭側。

●その材木座近辺の軍事遺構について少々。

住吉城址~扇山の裾は、突端の西小坪海面砲台をはじめとして、洞窟陣地跡が点在している。

光明寺の裏山、鎌倉第一中学校北側脇の駐車場奥の崖面に、いかにも戦時中のものと思われる、コンクリート巻きの洞口があるのに(今更)気付いた。

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よく似た洞口は、光明寺の本堂(大殿)真裏の崖面にもある。現在光明寺の大殿は大規模な保存修理工事中で、それに合わせて本堂裏の道も足場で若干かさ上げされていて、洞口も半分隠れている。

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上の駐車場のものとよく似ているが、よく見るとコンクリート巻きの上部が上は緩いアーチ型、こちらは直線の屋根型。また、洞の入り口近く数メートル分は洞横も半露出になっていて、コンクリートが外側からも確認できる(2枚目写真)、洞窟自体は真っ直ぐでなく、ちょっと「くの字」型。内部は、現在もお寺が資材置き場的に使っているらしい。覗き込むように撮った写真からみて、奥はちょっと広がっているようで、その部分は素掘りかも。

4枚目は洞窟と無関係で、その洞窟の対面側、保存修理中の大殿を覆うパネル一部が透明で、中をちょっと覗き見できるようになっている。現在の大殿は、外壁も内壁も床面も全部取り払って、骨組みだけになっているようだ。

●光明寺からまた山側に戻って、第一中学前の道が材木座~姥子台間の道に当たるわずか手前の崖面にも、洞窟陣地跡がある。崩落防護網や藪のせいで、普段は存在自体がなかなか確認できないのだが、たまたま午後の陽が当たってわずかにコンクリートの構造物が見えた。ここは単純な洞口ではなくて、内側が一段窪んで銃眼がしつらえてあるらしい。

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しかし写真にすると、やっぱり判りづらいなあ……。

Img20230319173056 ●20日月曜日。仕事先の事務所で数年ぶりの花見。千鳥ヶ淵、英国大使館前にて。久しぶりに都心に出た。

とはいえ、まだこの時は三分咲き程度。

前日に今年初収穫したアケビの芽を茹でて持って行った。出がけに逗子駅前OKストアで買っていった使い切りの胡麻ドレッシングで食す。これはこれで好評だったものの、数人に「今年はノビルはないの?」と言われた。

花見の席の近くを通りかかった女性のひとりが、いわゆる“胸開きタートルネック”を着ていて驚く。え?あれってネタとか伝説上の存在とかじゃなかったの?

●ほか、春の収穫ネタ。

私自身はもともとツワブキは、独特の味のクセがあまり好きではなく、好んで収穫しようと思わないのだが、義妹は好きで、日常的にあれこれ採っている私に「ツワブキはまだ? あれって下処理はどうするんだっけ」などと聞いてくる。

たまたま散歩に出た際に、ちょうどよい具合に若い葉が出ているツワブキを見つけたので、「ついでだから採って行ってやろう」と一束摘んで義妹宅に持っていったら、「ちょうど今日採ってきて今煮たところだよ! 持って帰って自分で作ってよ」と言われてしまった。なんという間の悪さよ。

というわけで仕方がないので、久々に(以前作った時の手順はすっかり忘れてしまったので、改めてネットなど見つつ)佃煮(風?)を作る。

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下処理は一茹でして皮むき。……前に作った時って、皮剥いたかなあ。

適当に刻んで、まずは日本酒、顆粒だし、醤油と、みりん、砂糖を少々。刻んだ鷹の爪を心持多め。色が薄い気がしたので、もうちょっとちゃんと味が染み込むようにと、途中で一度、すこしだけ水を差している。水気が飛ぶまで炒め煮して終わり。

意外なくらい美味しく出来て、これだけで飯が食えてしまう感じ。ツワブキを見直す。この春のうちに、あと数度は作ってもいいかも。

某所に「ミズはもう生え始めたかな?」と見に行ったら、まだ本当に生え始めで、5~10cm程度だった。せめて40cmくらいまでは育たないと。

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花見のあと、アケビの芽は自分用に(今日までに)もう2度収穫。どちらも(私的)定番の「卵ご飯に大量投入」で食べる。美味し。

●DHCといえば、世間的には(ネトウヨ系の)薬屋さんかもしれないが、個人的には見かけるたびに「デ・ハビランド・カナダだ~」と思う。飛行機マニアあるある?

それはそれとして、薬屋さんのほうのDHCは、もともと「大学翻訳センター」の頭文字だそうだ。……は?

●YouTubeの有隣堂clip「神奈川あるあるの世界 clip」というのをたまたま見ていたら、通勤ラッシュの話題で、

「幸せな人生って、南武線に何回乗らずに済んだかっていう人生だと思うんですよね」

と言っていて、中学・高校の6年間、南武線に乗って通学していた私は、人生の幸せをものすごい勢いですり減らしたんだなあ、と思った。

ちなみに中学の時だったか、ドアにぎゅうぎゅうに押し付けられて、腕時計のガラスを割ったことがある(むしろよくそれで腕が折れなかったものだと思う)。もっとも、通勤ラッシュ時の混雑度のすごさは、南武線よりも、大学時代に使っていた(かつての)新玉川線のほうがひどかったように思う。

単純に乗車率の問題だけでなく、当時の車輛の吊革の配置などもあるのかもしれないが、新玉川線の場合は発着時の「潮汐作用」もひどくて、身体が半ば浮いたまま、発着のたびに自分の意志と関係なく態勢変えを強いられるのがツラかった。

ここ数十年で、列車運行の改善とか時差通勤とかでラッシュはだいぶ軽減されたと思うので、今はあれほどの殺人的ラッシュは稀なのかも。

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路上のバルケンクロイツ

●先日も紹介した「横須賀トンネルマップ」の中に、田浦港町-長浦間の「比与宇(ひよう)隧道」というのが出ていた。もともと軍事用の引込線のトンネルで、内部で荷物の積み下ろしができるよう、線路と車道が並ぶ珍しい形式であった由。

何か格好いい!見に行きたい!という気持ちが俄かに盛り上がったので、田浦まで出かける。JR田浦駅では、跨線橋を渡りちょっと「裏口感」がある北側(海側)へ。

Img20230311144515 跨線橋の上から、田浦駅を両側から挟むトンネルのうち、横須賀側の七釜(しっかま)トンネル群を撮る。

以前にも書いたことがあるし、横須賀市の観光情報のページでも紹介されているが、中央の現・下り線トンネルが開業当初の明治のもの。右の上り線が大正の開削。一番左の大きいものが昭和になって作られた、軍事輸送の引込線用で、こちらはまったく廃線になっている。このトンネルを見るたび、雨に濡れるのがイヤで引きこもったヘンリー(「きかんしゃトーマス」より)のトンネルっぽいなあ、と思う。

この写真だと、廃線トンネルには向かって左側に一線だけ入っているように見えるが、実際には(藪に埋もれたか撤去されたかで)右にももう一線入っている。

●JR田浦駅を降りて目的地の比与宇隧道に向かう途中、海側に並ぶ大型倉庫群は、見るからに年代物が多い。

改めて調べてみて意外だったのだが、軍港・横須賀は、大戦中、ドーリットルの日本本土初空襲の際の1機や、主には艦載機による散発的な銃爆撃があった(あるいは東京空襲の行き帰りの際の置き土産)程度で、本格的な空襲は受けておらず、田浦の倉庫群も多くが大戦前・大戦中からの生き残りなのだという。

横須賀が本格的な空襲から逃れたのは、アメリカが戦後利用することを見越してのことだったなどと言われることもあるらしいが、実際にはこれは俗説で、どうも「たまたま」だったらしい。このあたりは、wikipediaの「横須賀空襲」の記事で概略が掴める。

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1枚目の写真は(割と駅を降りてすぐのところにある)相模運輸倉庫F号倉庫。近辺の倉庫の中でも一番の古株らしく、1917年(大正6年)建造。横須賀市のサイトでも、これ一棟が特別に紹介されている。近辺の軍事遺構のガイドとして常々活用させてもらっている「東京湾要塞」の記事「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」によれば、元々は「第三水雷庫」であった由。普通にコンクリート建のように見えるが、レンガ造りの上からモルタルを被せているらしい。

2枚目の写真は、F号からひとつ置いて隣、相模運輸倉庫K号倉庫。1928年(昭和3年)。旧・光学兵器倉庫だそうだ(「東京湾要塞」による)。

3枚目はだいぶ比与宇隧道に近付いて、相模運輸倉庫の本社事務所の隣にある、巨大なトタン葺き倉庫。同社の5号倉庫。大きさとサビっぷりに感心して撮ってきたのだが、これは1940年(昭和15年)建造。このあたりは第二海軍航空廠横須賀補給工場の倉庫群で、この現・5号倉庫も、発動機倉庫であったらしい。

Img20230311145510 ●上の5号倉庫脇を過ぎてすぐ、道路脇に珍しい線路の平面交差が2つ隣り合っている。このあたりの海軍の倉庫群を細かく連絡していた引込線のもの。その昔、タモリ倶楽部でも比与宇隧道とセットで紹介されたとか。

写真は駅方面から歩いてきて、比与宇隧道方向を向いて撮ったもの。写真にも遠くにちらりと、比与宇隧道の入り口が写っている。

線路それ自体はまったくの廃線で、道路方向にはまだ多少前後が続いているものの、道路を横切るほうは交差のすぐ脇でぶっつり途切れている。

2連の平面交差をもっと寄って撮ったのが下写真。1、2枚目が上写真の手前の交差、3、4枚目が奥の交差。レールの継ぎ方がなぜかそれぞれで異なっている。

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レールはほとんど直角に交わっていて、ギャップはそれなりに広いから、通過の際にはかなりガタゴトいっただろうなあ……。

●そして今回の訪問のメインの目的地である比与宇隧道。

手元にある「横須賀トンネルマップ」の掲載写真がいささか古く、いかにもトンネル直前まで引込線が残っているように撮られているのだが、現状ではかなり手前で線路は消失していて、すでに「普通の(ちょっと狭めの)二車線道路トンネル」にしか見えず、いささか拍子抜け。

トンネルは田浦港町(田浦駅側)と長浦(横須賀側)を結んでいて、冒頭書いたように、かつては線路と車道が並行し、トンネル内部で荷物の積み下ろしをするようになっていたらしい。というだけでなく、トンネルの南面(田浦側から入って右側)にはそのまま大規模な地下倉庫(地下陣地)が広がっていて、現在でも塞がれた洞口が4つ確認できる。この地下壕に関しても、「東京湾要塞」に見取り図付きの記事がある。

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●今回紹介の一帯の、終戦直後の米軍による空撮写真が以下。国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」、「USA-M46-A-7-2-77(1946年2月15日撮影)」から切り出し加工。

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丸数字を振ったのが最初に紹介した倉庫で、①がF号、②がK号、③が5号。今回はこの3つの倉庫の写真しか撮っていないが、周囲の倉庫群も、この頃から今までそれほど大きくは変化していない。

アルファベットは、Aが田浦駅。Bが引込線の平面交差地点。Cが比与宇隧道の田浦側入り口。この写真でも判るように、田浦駅から七釜トンネルを抜けて分岐した引込線は、平面交差(上の現状写真では横方向の線路)を通って第二海軍航空廠倉庫群の区画に入る。

平面交差のやや手前から右への分岐があったようで、これは比与宇隧道に向かう。その引込線は、比与宇隧道隧道内でスイッチバックする形で、今度は平面交差を東西方向(上の現状写真では道路沿いの縦方向の線路)で横切り、横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群に連絡していたらしい。

なお、Dで示したのは、おいそれと入れる場所ではないが、田浦駅のすぐ横にある小高い丘に現在でも残っている巨大な丸い窪地。ネット上では高角砲陣地の砲座跡ではないか等と紹介されていることもあるが、中心に謎のコンクリート柱があり、普通に対空砲が据え付けられる状態ではない。「東京湾要塞」の「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」ページでは、地下貯油タンクではないかと書かれている。

この付近に「城の台(しろんだ)砲台」と呼ばれる対空陣地があったとの話もあるが、これはこの「謎窪地」よりももうちょっと南にあったようだ。そこに向けての旧・砲台道と思われる道が、勾配を緩くするためにループさせた「のの字坂/のの字橋」と呼ばれる場所も附近にあり、今回は見られなかったが、そのうち訪問してみたい。F号倉庫同様、市のサイトに紹介ページ有り。

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続・鷹取山高角砲台

●兄が知り合いを連れて逗子近辺の山歩きに来たいというので、その計画を立てる。

もともと、兄の友人のHさんが鷹取山の磨崖仏を見たいと言っていたのが計画の出発点なので、神武寺ー鷹取山のルートは固定。しかしそれだけだと1時間も歩けば終わってしまうので、逆に追浜集合にして鷹取山→神武寺→東逗子と歩き、そのあと三浦アルプス北尾根ルートに上がって二子山に行くか、あるいは連れて行く皆さんの足が大丈夫なら再び東京湾側に歩いて田浦梅林で咲き始めの梅を見る、というような感じでどうですかね(ってここで聞いてどうする)。

一応、予定では来週25日土曜日。前日24日に少し雨が降る可能性があるとの予報が出ているのが少し心配。

●そんな計画の下見を兼ねて、本日18日、東逗子から神武寺経由で鷹取山まで(ちょっと久々に)歩く。そのついでに、以前にも書いた海軍の鷹取山高角砲台の跡地の実地調査をしてみる(というほどのものでもないが)。

鷹取山それ自体にはこれまでも何度か行っているのだが、鷹取山高角砲台の場所を私自身がきちんと調べたのは前回(2021年4月)に訪れた後のこと。当然ながら、陣地があった(と思われる)場所に行ってみるのも初めて。終戦直後の砲台周辺の状態と、現状と比較に関しては、前回記事に載せた写真を再掲しておく。

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写真はともに国土地理院の国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」からで、

  • 左:1946年3月5日、米軍撮影(写真コード「USA-M64-A-6-69」から切り出し加工)。
  • 右:2019年8月7日撮影(写真コード「CKT20194-C13-58」から切り出し加工)。

写真中央の楕円が高角砲台(の場所)で、矢印と丸数字は、①追浜駅、②追浜小学校、③鷹取山山頂。

上と同じ写真から、さらに陣地部分に寄って切り出したのが下写真。左は前回記事と同じ。右は今回新たに切り出し加工。

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今回現地で撮った写真が下の2枚で、それぞれ、撮影ポイントと撮った方向を上右写真でA,Bで書き入れた。

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左写真がAポイントから砲台方向を撮ったもの。左に曲がって下る道路はこの住宅地(湘南鷹取)の、いわば「中央通り」で、そのまま下っていくと京急線/国道16号に突き当たる。この住宅地は鷹取山山頂から北側の高台を(西武が)切り開いて造成したものだが、左写真で判るように、高角砲台があった場所は鷹取山北側斜面が再びちょっと盛り上がった小ピークになっている。

鷹取山山頂はもともと近代の石切場跡で(ちょうど東京湾を挟んで向かいの鋸山のように)ゴツゴツしているために高角砲陣地を作るには面倒だったのに対し、こちらは特に制約がなく都合がよかったのではと思う。確かに南側には鷹取山山頂があるが、鷹取山山頂とこの地点の標高差は35~40m程度で、そこそこ離れている(500mほど)ため、それほど空を遮っている感はない。

右写真は、左のAポイントからゆるゆる坂を上がって、高角砲台があったと思われる場所の南端あたりのBポイントから撮ったもの。写真を撮った場所がもっとも高く、そこから住宅地は再び緩やかに下っている。

これがやや不思議なところ。これまで付近で見た高角砲台は、どれも山のてっぺんが平らに整地され、各砲座は同一レベルに配置されている。しかし、当時もこの通りの地形であったとすれば、鷹取山高角砲台は、南から北に向けて砲座が低くなっていたことになる。「宅地造成の際に少し削った」なんてことはあり得るのだろうか。そもそも宅地として利用する際も平らであった方が都合がよいはずで、わざわざ傾斜地にする必然性は低い気がする。謎。

なお、前回も書いたが、ここ鷹取山高角砲台の主装備は十二糎高角砲(単装)のようなので、二子山砲台同様、砲座は単なる土塁だったと思われ、住宅の下に何らかの遺構が残っている可能性は低い。

●高角砲台跡地から、追浜駅の裏手に降りる。

昔からの谷戸の住宅地の脇で、素敵感の高いトンネルに遭遇。

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明らかに地元住民の便のために谷戸と谷戸をつなぐ形で掘られた小隧道。レンガ積みのポータルは新しく、トンネル内は鋼板張りだが、おそらくもとは素掘りだったのだろうと思わせる佇まい。

帰宅後、この「向坂隧道」について改めて調べたら、トンネルファンなら押さえておきたい「横須賀トンネルマップ」に記載されたトンネルの栄えある第1番だった。昭和8年開削、現地で想像した通り、レンガ積みポータルと扁額は昭和58年の改修で追加されたらしい。「横須賀トンネルマップ」、私は紙版も持っているが、貰ってきてからあまり活用していなかった。改めてしっかり読んで、面白そうなトンネルをピックアップして訪れてみたい。

●向坂隧道を抜けてちょっと先で見掛けた小稲荷。

たぶん、もともとは崖面の窪みに小さな祠を置いたものだったんだろうなあ。崩落防止のために崖面をコンクリで固めた際に、安易にどこかに移したりせず、そのままそこでお祀りするためにこうしたんだろうなあ。

……というのは判る! 判るんだけど! いや、もうちょっとどうにかならなかったのか、これは。

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ちなみにトゥラーン中戦車の“シュルツェン”に使われたのと同様な(汎用性の低い形容)パンチングボードの扉の向こうに、おそらくもともとあったものだろう、小さな石の祠が収まっている。

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謹賀新年2023

●明けましておめでとうございます。

本年も――おそらくこれまで同様に当「かばぶ」はぐだぐだな内容だと思いますが、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

●例年通り、大晦日に川崎の実家に行って、母・兄と年越し。

1日にはドイツ人Pと、Pの長女Jが遊びに来て、午後中まったり飲み食いしながらお喋り。Pらの帰宅後、甥(兄の次男)Gが彼女連れで来る。田舎の叔父宅に電話したり、なんだかんだと、それなりに正月らしかったかも。

2日は兄と墓参りに行き、そのまま、津田山の墓地から東急田園都市線の宮崎台駅まで延々と歩く。横浜に寄って帰宅。

Img20230103133901 ●3日、ふと思い立って(特に用事もなく)稲村ケ崎まで往復歩く。

初詣客で混んでいるであろう鎌倉中心部には立ち寄らず。個人的には、「初詣」というものに格段の重要性を感じていないが、たまたま前を通るし、ということで、小坪の天王社(須賀神社)でお賽銭。

この小坪天王社は、“おらが村”である小坪村の総鎮守である天照大神社の境外末社。天照大神社は披露山の端っこにあり、小坪漁港側からだと、かなり長い急階段を上がる必要がある。要するに「市役所に行くのが面倒なので出張所で」という感じ。名前の通り、本社の祭神は天照大神だが、天王社のほうは牛頭天王/スサノオノミコト。

もっとも、小坪村の夏祭り(天王祭)はこの小坪天王社のお祭りだし、さらには、小坪天王社(のスサノオノミコト)と葉山の森山神社(のクシナダヒメ)は夫婦神ということで、32年ごとに天王社の神輿が森山神社に行く「三十三年祭」というのがある(祭りがある年も1年と数えるので32年周期でも三十三年祭)。次は2028年である由。なお、小坪天王社は御覧のように祠に毛の生えた程度の小さな神社だが、葉山の森山神社は結構大きい。

●その他、(特に正月とは関係のない)正月風景。

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前々回に書いた西小坪海面砲台現状に関する補足。逗子マリーナ6号棟正面の擁壁上の柵越しに、わずかに崖裾部が見えた。どうやら、擁壁上の段(かつての親不知の崖路跡?)の向こうの崖裾部は、格子状のコンクリート擁壁で覆われているようだ。崖の左右一杯までこの処理が行われているとすると、かつての洞窟砲台の洞口も完全に覆われて、何も痕跡は確認できなくなっているかもしれない。

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小坪の飯島(逗子マリーナの端)から、目的地の稲村ケ崎越しの富士山。この日はほぼ一日中、富士山は雲被り。

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由比ガ浜の波打ち際の細かい貝殻の集積。そしていつもとは逆視点。由比ガ浜の割と端っこ(稲瀬川あたり)から材木座・逗子方面を振り返って1枚。

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稲村ケ崎突端の銃眼と、その拡大。この斜め下には「伏龍」出撃基地とされる洞口があるが、大潮の時くらいしか近付けないようだ(私自身はそんなタイミングで訪れたことがなく、洞口は見たことがない)。

しかし、(銃眼があるからには、何らかの陣地だったのは確かだとしても)波の荒い岬の突端から、重い潜水装備に刺突機雷を担いだ兵が、海底を歩いてある程度以上の範囲に展開できたとは思えない。そもそも米軍が、海岸線に急斜面が迫る七里ガ浜や、山に囲まれてその後の展開に支障が出そうな旧都鎌倉に上陸作戦を敢行するとも思えないから、対上陸用舟艇の特攻兵器である伏龍をここに配置した可能性は低いのではと思う(訓練基地だった、というならまた別だが)。

小さなモーターボートに爆薬を摘んだ「震洋」の基地だったという説もあるそうだが、写真で見る洞口は、小さな舟艇でも出入りできたのかどうか怪しい(洞内に複数の舟艇を収容できたのかどうかも怪しい)。

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夕方、再び飯島あたりまで戻ってきて、振り返って1枚。手前から和賀江島(鎌倉時代の船着き場跡)、稲村ケ崎、江の島の向こうの富士山。多少雲は残っていても、シルエットならOK。

●AIRFIX 1:48、アルビオン燃料補給車の製作の続き。

荷台の燃料タンクの後ろにはポンプ室?があって、後面の扉は開閉選択式。中には一応、それらしく機器のパーツが入っているが、若干手を加えた。

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奥の壁にあるメーター付きの筒形パーツは、もともとキットにモールドがあったが、立体感に乏しいので削り落として作り変えた。横の壁にも何やら「付属の品」を追加。

とはいえ、もともとキットに含まれていたメインの内部機器パーツ自体の形状が結構怪しく、本当はもうちょっと、向かって左側にスペースも開いていて、先述の「奥の壁のパーツ」が見えていないとおかしい。が、そこをとやかく言いだすとこのメインの機器パーツ自体、1から作り直さないといけなくなって激しく面倒なので、適当なところでお茶を濁した。機器の後ろにもう少しパイプ類もあるのだが、どこからどこに繋がっているのかが判らないので、こちらも工作は諦めた。ヌルし。

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彫師

Img20221229015336 ●アルビオン燃料補給車の前部フェンダー、左右ともそれなりに「窪んでいる」状態まで彫り込んだ。やれやれ。もっとも、プラが柔らかいので思ったよりは早く片付いた。

シャーシフレームにそれなりにパーツも付けてみて、ここまで組んでの感想いくつか。

▼パーツの位置決め、方向決めがやや曖昧。もちろん、一頃の東欧キットのように「部品をどこに、どう付けたらいいかわからん!」ということは基本ないが、例えば4カ所のリーフスプリングが、シャーシフレームに対してしっかり真っ直ぐになっているかどうかは「部品任せ」では決まらない。ここが歪んでいると、後々4輪がきちんと接地しないことになりかねないので、ピッタリ決まるような何らかの工夫が欲しかった。

▼バリ等はないが、入り組んだ部分のパーティングライン、微妙な型ズレの直しが面倒(ほぼ見えなさそうなところはそもそも本気で直していないが)。

▼近接部位のパーツがあっちの枝、こっちの枝にバラバラに配置されていて、いちいち探すのが面倒。別にタミヤとかでなくても、普通のメーカーなら例えばエンジン周りならひとまとまりで同じ枝になっていそうなものだが、このキットの場合A枝、B枝、C枝、D枝に分散している。なんで!?

▼謎の部品取り付け手順。「絶対、これはこの段階じゃないだろ!」という指示がある。例えばエンジン側面に取り付けるパーツB12が、エンジン本体をシャーシフレームに付けた後に取り付けるよう指示されているが、あらかじめ付けておいたほうが楽。その上に付く排気管D15もエンジン取付前のほうが付けやすいと思う。

▼一方で組立説明図は多色刷りで丁寧。1ステップ前で取り付けたパーツは色を変えて図示し、取付後の姿がはっきりわかるようにしている。それでも見難い部分に関しては、別途向きを変えた別図など添えていて間違えにくいようにしている。

●そういえば、今季はフユイチゴを食べていなかった!といきなり思い出し、日曜日、例年つまみ食いしている某所に出掛ける。

昨年同様、途中で「山歩きのおやつ」として「小倉&マーガリン」のコッペパンを仕入れ、現地でこれでもかとフユイチゴをトッピングして食べる。美味し。

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鎌倉市図書館に「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」(鎌倉市中央図書館近代史資料収集室/CPCの会、2004年)という冊子があり、図書館サイトでPDFで閲覧もできるようになっている(興味のある方は図書館サイトで書誌名で検索のこと)。

このなかに西小坪海面砲台のことも出ていて、それによれば、砲の据えられた二つの洞窟は、現在の逗子マリーナ6号棟正面の崖の、ちょうど6号棟の左右端の前あたりにあったらしい。

Img20221220151344 崖に向かって右側の擁壁には、現在上側で通行止めになっている階段があるが、これは上記資料によれば、洞窟の爆発事故で亡くなった子供たちの慰霊の地蔵へのアクセス用に設けられたものだという。

以前の記事に書いたように、この地蔵は現在では小坪海岸トンネル入り口上になるが、もともとは南砲台の洞窟前に置かれていたものだという。その当時の写真も、逗子市役所の写真アーカイブ「逗子フォト」にある(「小坪の洞窟砲台」で検索すると出てくる)。

というわけで、南砲台の洞窟は、この階段を上がってすぐの場所にあったはず。藪が多少は薄くなる(はずの)冬なら、もしかしたら洞口の痕跡くらいは見えるかもしれない――などと考えていたのを、先週通りかかった時に思い出し、ちょっと上まで登ってみた。

階段そのものが草藪と化していて、上るだけでも面倒だったが……結果。冬だろうと藪が濃くて、その向こう側はまったく見通せなかった。

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1枚目は通行止めの鉄棒越しに、ほぼ真っ直ぐ崖方向を向いて撮ったもの。2枚目は飯島方向(崖に向かって左方向)。3枚目は振り返って草ぼーぼーの階段を撮ったもの。

洞口はコンクリートが巻かれていたので、洞窟自体は埋められていても、藪さえなければ痕跡くらいは見えそうなものだが、残念。

●仕事先の神保町の事務所のC社長夫妻がコロナ罹患。ほぼ同時にその事務所での仕事仲間のE君も発症し(家に受験生がいるとのことで)隔離施設入り。一気に身近に迫ってきた感。

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帆船恋路?

●息子のところのチビ娘(ジャスト4歳)は、なぜかサーフボードのことを「はんしぇんこいじー」と呼ぶ。

当地は海辺の町なので、たまにお泊りに来れば、近所を散歩する際に割と頻繁にサーフボードを目にすることになるが、「あれは何?」と聞くと必ず「はんしぇんこいじー(だよ)!」と言うので、彼女の中ではサーフボードを指す一般名詞として定着しているらしい。

大航海時代に見慣れぬ動物を見て「あれはなんて言うんだ?」と尋ねた時に、現地民に「なしてそげなこと聞くだ?」と言われたのがそのままヨーロッパでの生物種名になってしまった(ただし、カンガルーという名前の由来がそうだというのは俗説だそうだ)――なんて事例と似たような感じで、「幼児が(誤解に基づいた)謎名称を使う」というのは一般によくある。

とはいえ、何かのはずみで覚えたというには妙に(音の繋がりが)凝っていて長い。しかし、本人に聞いても「はんしぇんこいじーだからはんしぇんこいじーなんだよ」的な答しか返ってこないし、息子夫婦も心当たりがないそうだ。

ちなみにうちの娘は小さい頃に自動車のことを「びあん」または「びあま」と呼んでいたが、これは理由がはっきりしていて、当時乗せてもらえる機会が多かった義弟の車が日産のBe-1だったため。「びあま」は「びーわん」と「くるま」が折衷されたものか。

F1019591 ●JR逗子駅の東逗子駅側には操車場があるが、その操車場から本線を挟んで反対側には、京急逗子線と合流する分岐がある。

京急金沢八景駅近くにある鉄道車両工場、総合車両製作所横浜事業所との連絡線(回送線)で、時折、見慣れない車両がこの線路を通って出入りするので、それらの出入り情報を掴んだ鉄な人がカメラを抱えて集まっていることもある。

また、京急側の合流地点である神武寺駅から向こうは、京急の標準軌の内側にもう一本、狭軌用のレールが引かれた三線軌条になっているなど、なかなかマニア的にそそるものがある。以前にも載せたことがある写真だが、この回送線の、山の根-池子間の小トンネルも、なかなか佇まいに風情があってよい。

以前にも書いたように、この回送線は、もともと海軍工廠であった総合車両製作所横浜事業所や、池子弾薬庫の搬入・搬出用引込線との連絡用に、軍用線路として作られている。そしてこれはつい最近知ったのだが、どうやら、この回送線の京急と共用でない部分(逗子-神武寺間)は、池子弾薬庫と一体で米軍に接収されていて、(借り手としては総合車両製作所になるのかJR貨物になるのかよくわからないが)米軍から使用許可を得て使っている、という形になっているらしい。

池子弾薬庫跡地に関する逗子市のページでは範囲についてはよくわからないが、神奈川県のページに添付されたパンフの地図では、シッポのように細く回送線部分が伸びているのが確認できる。

と、そんな所属を示すように、回送線の逗子側の始点には、「米軍池子線」の路線名表示がある。場所は、つい先日廃止になった山の根踏切の少し逗子駅寄り。

横にあるのは、始点を示すものと思われる距離標(キロポスト)だが、表記が単純に「0」ではなく「0|0」である理由は鉄な人ではない私にはよくわからない。ちなみに「米軍池子線」と書かれた三角札の反対側(逗子駅方面に向かって見える側)には「JR貨物」と書かれている。

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山の根の尾根再訪

●駅前に用事があって出たついでに、突発的に、JR逗子駅北側の山の根の尾根を歩く。

初めてここを歩いたのは2015年の4月で、その後2、3度歩いているが、今回はだいぶ久しぶり(数年ぶり)だと思う。

逗子市山の根は前記のようにJR逗子駅北側の地区で、逗子の町域としては最小面積(0.51平方キロ)。南側は横須賀線の線路に区切られ、北側は尾根に囲まれている。尾根の西側は逗子市久木との境界、東側は逗子市池子との境界になる。

尾根の上には一応細い山道がずっと通っていて、数か所に行先案内表示まであるのだが、その一方で、この尾根への数か所の上り口には何の案内もなく(むしろ、そのうちの一か所の熊野神社東側には「山越えはできません」と書かれている)、逗子のいくつかの山歩き案内にもこのルートは載っていない。

●北側尾根の、久木小学校・中学校共同グラウンドを見下ろす少し手前あたりから、点々と海軍標石がある。尾根の北側は町域としては久木だが、(共同グラウンドも含めて)旧・池子弾薬庫跡地なので、その境界を示すために標石が置かれたものと思われる。

以前の記事にもいくつか載せたが、今回も写真を撮ったので、改めて載せることにする。

▼まずは前半。共同グラウンドへの降り口よりも西側のもの。以下の写真はすべて西→東の順番。

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あまり丹念に撮影はしていなくて、歩きながら「あ、ここにあった」と基本1枚ずつしか撮っていないので、ピンボケ混じり。すでにこの季節、歩いていると蚊が寄ってきたり、蜘蛛の巣に頭を突っ込んだりするので、なかなか落ち着いて写真を撮る気持ちになれない。やはり、きちんと調査するなら冬の間に登るべき。

▼後半。共同グラウンドへの降り口の案内と、それより東側の標石。

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とりあえず今回は15基の標石を確認しているが、過去に同じルートで撮った写真と見比べてみると、(細部の様子や傾きなどから見て)今回は撮っていない標石もあったりするので、藪にまぎれているなどでいくつか見落としているようだ。たぶん、全部では20基弱あるのだと思う。

なお、よく見ると表記面が一段窪んでいるのが多数派だが、少数、窪んでいないタイプも混じっているようだ。

ちなみに、同じ海軍標石でも、水道路沿いのものは表記が「ダブル山形・海」だけで、字体も異なる。また池子弾薬庫跡地北端あたり(横浜市域内)の尾根にあるものは、表記は「ダブル山形・海軍」だが、これまた字体が違う。下写真は、左が水道路のもの、右が池子弾薬庫跡地北端あたりの尾根のもの。

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ちなみに、横須賀軍用水道半原系は明治末年に始まり大正10年(1921年)に完成。池子弾薬庫は昭和13年(1938年)に一部地域の買収が始まっているが、上の標石がある久木の旧・柏原地区は昭和16年(1941年)に買収が行われている。横浜市側の区域がいつ買収されたのかはよくわからないが(横浜市サイトでは米軍が接収した日付しか出ていない)、wikipediaでは「1942年(昭和17年)には、横浜市金沢区側(当時、磯子区)に海軍の毒ガス弾の製造工場(谷戸田注填場)が設置された」とある。

おおよそ用地買収とともに標石が設置されたのだとすれば、水道路標石→山の根標石→横浜標石の順番で旧~新タイプということになる。年代別ということ以外に、「発注先によって仕様が適当」という可能性もあるかもしれないが。

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逗子市のマンホールカード

●全国の自治体が「下水道広報プラットフォーム」と共同で発行する「マンホールカード」の第16弾42種のうちの1つとして、逗子市のものが発行された。

第16弾の配布は今日、1月15日からで、逗子市のものも市役所(通常は2階の下水道課窓口、土日祝日は裏手の警備員室)で配布が始まっている。というわけで、早速1枚貰って来た。

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駅前に(1枚だけの)カラーマンホール蓋が設置されたのは一昨年の夏。その時から、マンホールカード発行の申請を検討とされていたので、近々出るんだろうなあと思っていたのだが、つい最近、「そういえばどうなったかな」と検索してみて発行を知った。まあ、あわてて貰わなくてもしばらくは無くならないと思うけれど。

●同じく路上蓋関連。

先日日曜日のことなのだが、逗子市久木の路上で、海軍の水道弁(仕切弁とか止水弁とか)の蓋を見つけた。

二連・二重の山形と錨は海軍を示す。左右に矢印があって、その下に「■」マークがあるが、これはすり減って読めないだけで、本来は「開・閉」の文字だったのではないかと想像。

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場所は久木小学校の裏手、妙光寺の門前ちょっと脇。街区で言うと久木2丁目1と6丁目1の間になる。普段から散歩のときなどに頻繁に通る場所なのに(もう20年以上通っているはずなのに)今まで全く気付かなかった。

こうした海軍に関わる水道施設の遺物は、軍用水道上に作られた「水道路(すいどうみち)」沿いには多数残っているが、ここは水道路(このあたりでは県道311号線)からは外れている。浄水場に到達する前の水道から枝分かれしているとは考えづらいので(上水道の構造自体に詳しくないので勝手な想像だが)、これは逗子市(当時は逗子町、あるいは1943年以降であれば横須賀市)の水道から、久木の奥にあった横須賀海軍工廠工員宿舎、あるいはさらにその奥の池子弾薬庫方面へと引かれた旧・海軍専用経路なのではないかと思う。

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2枚目写真は「水道路」上、JR逗子駅から東逗子方面へ、京急の踏切を越えたあたりにある同様の栓蓋。かなりすり減っているが、かろうじて山形と錨の海軍マークが見える。久木の蓋とは、全体形はほぼ同じだが絵柄は別物。

●何日か前のテレビニュースで、確か、コロナ禍でごみ収集の人員にも不足が出始めているという内容だったと思うのだが、東京の下町の路地でごみ収集している映像が流れていて、そのごみ収集車がなんとターレだった。確かに軽トラでも入りにくいような路地でごみ収集するにはターレはうってつけ。何区だったかなあ。

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謹賀新年2022

●本年もよろしくお願い申し上げます。

世界的に今なおコロナ禍下にあり、なかなか「明けまして」とも「おめでとうございます」とも言い難い状況であるのは確かですが、なんとか少しでも明るい方向に向かって行ってくれればと思います。……今年は東京AFVの会があるといいなあ。

●例年通り、大晦日に川崎の実家に行って、母、兄と年越し。大晦日には兄が作ってくれた蕎麦を食い、元日には兄が作ってくれた雑煮を食う。……オレ何にもしてないぢゃん。

●母もだいぶ認知症が進んできて、数分前に言ったことを忘れて同じことを繰り返すのを、こちらも同じように返したり。

「そのうち、息子の顔も忘れて『あんた誰?』って言うようになるよ」

と、自分で言っているうちはまだいいかなあ、なんて思ったりする。

●特段やることもなく、大晦日は紅白歌合戦の最初のほうだけ見る。なんというか、「無理矢理盛り上げよう感」が強すぎて痛々しい。

せっかく司会に大泉洋を据えるのなら、「どうでしょう」のぐだぐだなノリで、

「いいですかぁ? 『紅白』もねぇ、四六時中面白いわけじゃないんですよ?」とか、

「奥さーん。知ってるでしょう? 大泉洋でございます。オイ、『紅白』観ねぇか?」とか……。

あるいは、いっそのこと藤村Dにも一緒に出てもらって、

「ええええ? 『紅白』? またやるの? もういいじゃない、去年やったんだし」
「バカ野郎、お前『紅白』舐めてんじゃねえ。やるっていったらやるんだよ」

みたいな掛け合いを見せてくれるとか。それくらいしないと、もう紅白は生き返らない気がする(……むしろとどめを刺す?)。

●なんだかんだぐうたらしている間に三が日も過ぎ、通常営業に復帰(できているかどうかはさておき)。

4日は今年初砲台。といっても、ご近所の披露山。

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写真1枚目から――。

一番北側の、花壇に姿を変えた第一砲台(仮称)。写している自分の影入り。hn-nhさんが腕を突っ込んで内壁の傾斜を確かめた周囲の池は、睡蓮が刈り込まれて寒々とした感じ。

展望台の土台となった真ん中の第二砲台、越しに見る富士山。実際にはここには砲は据えられなかった模様。

ほぼ原型のまま猿舎に再利用された南端の第三砲台。檻のせいか、掘り下げられているせいか、同じ径のはずなのに花壇よりこちらのほうが大きく見える。錯視の実験のよう。それを言うなら、ここの展望台2階の床は(確か前にも書いたが)、おそらく外側に傾いた外周の壁のために、常に自分がいる場所が一番高く、床が傾斜して見えてちょっとクラクラする。披露山錯視公園。

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