軍事遺構

サヨナラ、ポスト

●用事があって横浜に連日通っているのだが、23日火曜日はその仕事も梅雨空も“中日”だったので、葉山方面に歩きに行く。

行程は、県道311号をずっと歩いて、桜山隧道を通って葉山町へ。長柄から葉山町役場前、大道入り口を経て御用邸前まで。そこから今度は海沿いに引き返して、鐙摺を通って逗子海岸。海岸経由で帰宅。

●ちょっと前に書いたように、現在、私のスマホでは「Pokémon GO」が起動できなくなっていて、外歩きのモチベーションが下がり気味(かといって、健康上歩かないわけにもいかないので歩きに出たわけだが)。

なお、私のスマホはポケモン的には使えないままだが、代わりに神保町の事務所のGさんが、FREETELの予備機を貸してくれた。私のスマホはau系で、FREETELにSIMを移して使うことはできないが(その辺の仕組みは面倒なので略す)、それでも、Wi-Fi経由であればポケモン専用機として使える。

しかしこれがなかなか微妙で、まず

  • 自宅でなら問題なく使える。
  • 神保町の事務所でも、事務所のWi-Fiに問題なく接続できた。
  • 横浜のヨドバシカメラの館内ではなんとか使えた。
  • が、その他、街の中のFree Wi-Fiの場合は「認証できませんでした。もう一度やり直してください」と出てきて、うまく接続できない。火曜日の散歩の際にも、Wi-Fiが使える葉山町立図書館に寄って試してみたがダメだった。

というわけで、現在、借りたFREETELは、ほぼ自宅内ポケモン専用機となっている。

ちなみに、「8月で32bit機のサポートを打ち切る」としたNIANTICの発表に関しては、その後、「終了予定を延期」ということになった模様。しかし、仮に8月で終了ということだとしても、本来は少なくとも7月末まではサポートすべきはずだが、6月初旬に発生した不具合にも関わらず、一向に解決の気配がない。NIANTICの「Pokémon GO」サポートページにおいても、「確認されている不具合」は、6月9日に


Android 5 または 6 の一部の端末では、アプリを起動できない場合がある

不具合内容:Android 5または6の端末をお持ちのトレーナーの中には、ポケモンGOアプリの読み込み画面を完了しても起動ができない場合がある。

ステータス:調査中


と書かれたきりで変化なし。いやまあ、古い低性能スマホの面倒まで、いちいちいつまでも見てられんよ、というのは判るんだけれども、それならそれで「これ以降はサポートをやめる」と言った期限まではしっかりやるか、できないならすっぱり「やめました」と言ってほしい。

●葉山町内には、現役の丸ポストが以前に調べた時点では9基あり、今回の散歩の経路上には、そのうちの6基がある。せっかくなのでついでに現状の写真も撮っておこう……と思ったら、その最後の1基、森戸神社近くのもの(堀内1047)が根石(台座の石)を残してなくなっていた。

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3枚目は2年前に撮った、「在りし日の姿」。もともとはポストの後ろの空き地は店があったらしく、その店が閉まった後は表に張られた板がポストの形にくり抜かれ、そこから半分現れる「埋まりポスト」状態で何年か存在していたらしい。2年前に見に行った時にはすでに建物がなかったが、結局はポストも撤去されてしまったらしい。なお、Googleのストリートビューを見ると、少なくとも昨年6月にはまだ存在していたことがわかる。

中の収集袋を立ったまま交換すれば済む角型ポストに比べ、丸ポストは体をかがめて手で郵便物を掻き出さねばならず、郵便局員には余計な不便を強いることになる。さらには手紙/はがきの利用自体が減っており、一方でポストの設置基準は昔よりも厳しくなっているようで、古いポストの消滅圧力はいよいよ増している。減っていくのは致し方ないのだが、それでも、できればできるだけ長く現役でいてほしいと思う。

なお、2年前に葉山の丸ポスト9基をまとめて訪ねた記録は以下。

今回確認した残り5基、

  • 堀内671:風早橋バス停近く
  • 堀内1825:向原交差点
  • 一色1818:セブンイレブン葉山一色店
  • 一色2095:町屋倶楽部前
  • 一色1657:近代美術館近く

は、収集時間に変更があった程度で、ちゃんと現存していた。残るうち、長柄769-1(御霊神社前)と、 一色692-2(葉山大道、HACドラッグ向かい)の2基については、比較的最近視認しているのでまず大丈夫。一色1222(一色小から大道を隔てて反対側の住宅地の中)だけは2年前に見たきり。

●なお、以上のような行程で歩いたのは、葉山のポストの現状確認が第一目的ではなく、葉山町のマンホールカードの題材になっているカラーマンホールが御用邸前の一か所だけにあり、それを見たいと思ったため。

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目的のマンホール蓋はより大きい蓋の中にはまった、いわゆる「親子蓋」形式になっており、さらに隣には同じく親子蓋になった(カラーではない)通常版のマンホール蓋がある。

葉山のマンホールカードについてはこちら

●マンホール蓋を見た後、一色の近代美術館脇から海岸に出たら、砂浜への出口のところで突然目の前からにょろにょろとヘビが逃げ出してビックリ(もちろん、のんびり日向ぼっこでもしていたらしいヘビのほうも、突然人が来てビックリだろうが)。

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3枚目写真は2枚目の拡大切り出し。柄模様から、「えっ、これって、もしかしたらマムシ?」とも思ったのだが、帰宅してよく調べてみると、コンクリート壁をほとんど垂直に登ることができる能力と、エラの張っていない頭部の形から見て、アオダイショウの幼蛇であるらしい(それなりに大きく、たぶん1mくらいはあったと思うが)。アオダイショウの幼蛇はマムシに似た模様を持つのだそうだ。

●葉山のポストが一基なくなったことをfacebookに書いたら、地元の知人から「逗子の4基は大丈夫?」と聞かれて、ちょっと心配になったので、土曜日に改めて見回りに行ってみた。結論から言うと、とりあえず全部無事。

●逗子の4基のポストを見回ったついでに、最も東の1基のさらに奥の谷戸に足を伸ばしてみる。

以前、facebookの逗子のニュースグループで、「地元民にしかわからない(俗称としての)地名、ランドマーク名」が話題になった。例えば「サリーちゃんち」(名越の山の上にある洋館)や「うんどこ」(第一運動公園)などがその例だが、そうしたなかに「はっしゃば」というのがあった。

それが今回訪れた一角で、具体的な住所は沼間4丁目12、13、15、16あたり。狭い谷戸に沿って、ハシゴ形の道路で区分けされた細長い住宅地で、南側は「ハイツ東逗子」という集合住宅、北側は戸建て住宅が並んでいる。「はっしゃば」とは、なんだか「ハッテンバ」の仲間と誤解されそうな名前だが当然無関係で、海軍の機関銃工場に付随した試射場(「横須賀海軍工廠造兵部 沼間機銃発射場」)だったことによる。

いつも通り、サイト「東京湾要塞」を虎の巻とした。

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最初の1枚は、地区の見取り図。

続く3枚は、谷戸の下手(南側)から、谷戸東側の道を徐々に北に進んでいく途中写真。こちら側はやや道が曲がっているので、途中まで行かないと北端は見通せない。3枚目が北端近くで、突き当りの向こうには、現在はヨコヨコ(横浜横須賀道路)が通っている。

4枚目は北端から折り返し、西側の道路を南に向いて撮ったもの。こちらは東よりも道路が真っすぐで、南端近くまで見通せる。

5枚目は南端にある街区公園。「柚沢」もしくは「柚子沢」が本来の小字名であるらしいが、読みは「ゆずさわ」ではなく「ゆずっさわ」であるらしいことが、公園名に振られたルビで判る。

6枚目も南端近くで見たマンホール蓋。旧海軍水道の水道路(すいどうみち)からはちょっと離れているにもかかわらず、なぜか横須賀市水道局の蓋。元軍用地なので、軍用水道の支線のようなものでもあったのだろうか? いや、浄水施設も介さないで、そんなことってあるのか?

このように、現在では遺構の類は何も残っていないが、当時は、南側に試射を行うための銃座や観測所、弾薬庫などがあり、北端が銃弾を受け止める土手になっていたらしい。現在では、地区の細長さに「なるほど、言われてみればそんな感じだなあ」と思う程度。

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最後に、終戦直後とほぼ現在の空中写真比較。例によって国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」より引用。左は終戦間もない1946年2月22日米軍撮影の「USA-M53-A-7-28」、右は2019年6月16日撮影の「CKT20194-C14-60」から切り出した。

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スヰートポーヅ

20191017_132803_20200611165501 ●神田神保町すずらん通りの焼き餃子の老舗、「スヰートポーヅ」閉店の知らせを、神保町の事務所のC社長のFBへの書き込みで知って大ショック。

向かいの「キッチン南海」が閉まるのもしばらく前に聞いて、医者に食養生を命じられて以来食べていなかった、あの真っ黒いカツカレーを久しぶりに、最後に一度食べたいなあなどと思っていたのだが(ちなみにキッチン南海は、のれん分けの店が近所に新規開店するらしい)。

写真は昨年10月に食べたスヰートポーヅの餃子定食。味噌汁抜きの餃子増量。それほど頻繁に神保町で飯を食べるわけでもないので、たぶんこれがスヰートポーヅで食べた最後だと思う。

スヰートポーヅの餃子は筒形で両脇が閉じておらず、形の上ではちょっと珍奇だが、味は個性的というよりは「ものすごくほっとする、染み込むような味」。ああ、もう一回食べておきたかった。

●Miniartのサイトに、「T-34/85 w/D-5T. PLANT 112. SPRING 1944.」(No.35290)の新しい写真が追加で掲載されたのだが……。ああっ。リブの多いワッフルじゃないぃぃぃぃっ!

リブの多いワッフルだったら、別売されるまで待って使おうと思ってたのにぃぃぃ! うぬぅ。残念。

●どうも「砲台分」の摂取が不足しているような気がして、月初め、二子山上ノ山に登る。

といっても、砲台のリサーチ的なことはほとんど何もせず、二子山上ノ山からさらにどこかへ足を延ばすこともなく、単に登って降りてきただけ(ただ、行きは中腹の南郷中学までバスに乗ったが、帰りは逗子まで歩いた)。1枚目は登る前、南郷上ノ山公園グラウンド端から見上げた二子山上ノ山(と、山頂脇のKDDIのアンテナ)。1枚目は山頂展望台からの横浜方面の眺望。

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この時季、三浦アルプス方面の山歩きをすると、木の梢に大量の白い「チョウ」が舞っているのに行き会う。真っ白だし、飛んでいるのは昼間だし、「チョウ」と思ってしまうのは自然なのだが、実際には昼行性のキアシドクガというガで、5月末~6月頭くらいが羽化・婚姻のシーズンであるらしい。ちなみにドクガ科であるのは確かなのでこの名前だが、一生を通じて無毒らしい。

二子山上ノ山山頂展望台脇に大きなエゴノキがあって、これがキアシドクガの食樹のひとつだそうで、この日も数十、もしかしたら三ケタに達するキアシドクガが乱舞していた。

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先日の三浦アルプス歩きに続いて、途中の道でハンミョウを見つけた。最初、「何か先のほうで飛んだ気がする」くらいしかわからず、ハンミョウかもしれないとソロリソロリと数回往復して、やっと確認。さらに写真を撮るほど近づくまでに数往復した。

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昨年末にちらりとだけ確認できた、探照灯の台座とされるコンクリート柱を今回も観ようと思ったが、藪に隠れて視認できなかった。やはり藪が薄くなる冬季でないとダメなようだ。

オマケ。南郷上ノ山公園事務所棟に貼ってあった、特殊詐欺被害防止キャンペーンのポスター。……なのは確かだが、詐欺のターゲットであるはずのばーちゃんが、むしろ悪の大魔王みたいなのは、どこか間違っているような気がする。

そしてもう一つは帰りのコンビニで見たPOP。なんとなく勢いに飲まれて「楽しんで」しまいました。

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●6月6日の晩以来、外歩きの友「Pokémon GO」が起動しなくなってしまった。

アイコンをタップして、最初にメーカーのNIANTICのロゴ画面が出るのだが、そこでストップしてしまってどうにもならない。

NIANTICのサポートにも連絡したのだが、なんとなくテンプレっぽい返事が2回ほど来た後、ようやく昨日になって「不具合であることを確認し、現在修正対応中」との返答が来た。とはいえ、一応不具合と確定したのみで、現時点(11日夕)、まだ復旧の兆しなし。

別に「Pokémon GOのために外出している!」という意識はなかった(と自分では思っていた)のだが、使えなくなってみると出掛けるモチベーションがだいぶ低下していて、「Pokémon GO」がどうこう以前に、「そんなことでいいのかオレ」状態。

●そんなこんなで日曜日から数日家に閉じこもっていたら、足がぱんぱんにむくんで、エコノミークラス症候群で死ぬんじゃないかくらいの状態に。

さすがにこれはまずいと思って昨10日、近所を散歩したら、マダケの竹林の周辺にタケノコがにょきにょき出ていた。よくあるモウソウチクの場合、タケノコの旬は早春だったと思うが、マダケってこんなに遅かったのか……。いや、そういえば採って食べたことがないな、と思い、そもそもどんな状態が「マダケのタケノコの食べ頃」なのかもよく判らなかったが、それなりに柔らかそうなのを選んで数本収穫。さすがにモウソウチクのように地面から頭が覗くかどうかくらいではマダケの大きさでは食べるところがないので、地面から10cmとか15cmとか出ているものを、根元で折り取って持って帰った。

タケノコの採りたてはえぐみが少ないと聞いたので、コメのとぎ汁などは使わず、さっと一度下茹でして湯を替えるだけで料理。日本酒、みりん、出汁昆布で似て、醤油と少々の塩で味付け。名越の大切岸で見つけたサンショウの苗木の若い葉っぱを乗せた。

えぐみもなく柔らかく美味。

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これに味を占め、雨が降り出す前にと、今日再び昼前に行って数本収穫。今度は皮付きのままざっくり縦に切れ目を入れて、アルミホイルでくるんでオーブントースターで蒸し焼きに。いい具合に出来たら皮を剥いて岩塩を振って食べた。

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調子に乗って3本も食べたら、最後のほうはちょっと苦かった(ただし、えぐいというほどではなかった)。よく見ると、昨日採ったものよりも縦横比が「縦長」傾向になっていたかも。

●ついで。名越の大切岸のイワタバコが見ごろ。昨10日撮影。

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畠山高角砲台

●「こりゃもう、二度は採って食わないな」と思ったニリンソウだが、前回書いたように、改めて調べると、一度乾燥させてオハウ(アイヌ料理の汁物)に入れると美味いらしい。「肉の味が倍になる」というアシリパさんの言だけでなく、それを頼りに実際に料理したというネット上のいくつかの記事でも「ヒンナ、ヒンナ!(おいしい)」と絶賛されていて、「これはもう一度試してみねばなるまい」と思った次第。

そう思うと我慢できず、どうやら今度の週末以降しばらく天気も悪いらしいので、「じゃあ、休みを前倒しにしよう」と、仕事をサボる勝手な言い訳を(自分自身に)しつつ、25日水曜日、もう一度三浦アルプスに出向く。

特に迷うこともなく、目当ての場所に到達。とはいっても、たった数日前に行った場所にたどり着けないようなら、それはそれでヤバイ。

白い花が咲いていて形態にブレのない群生のなかから、葉柄を根元までたどって慎重に収穫。それはそれとして、前回……。

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上写真に写っているなかで左上に写っている、やや葉がとがり加減のものはトリカブト、と書いたのだが、今回改めて同じ場所を見たら、それらの株のいくつかからニリンソウのつぼみが出ていた。実際には、

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青丸でくくったあたりはニリンソウで、赤丸でくくったものがトリカブトであるようだ。いいんだよ!毒を安全と間違えなければ、安全を毒と間違うのはセーフなんだよ!

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そんなこんなで、収穫してきたのが上左。現在はタコ糸で茎を縛って、ドライフラワー風に吊るして乾燥中。右はついでに採ってきたアケビの芽。

なお、乾燥についてはネット上の“食レポ”でただ単に干すと書かれていたので上のようにしたのだが、その後さらに調べると、アイヌの古老の話として「一度茹でてから干す」のが正統な手順であるらしいことが判明。この次はそうしよう……(←すでに次がある前提)。

なお、この手の発見は続くもので、いちいち葉山の外れまで採りに行かなくても、もっと近場で群生している場所を見つけてしまった。うん。コロナに倒れるくらいなら、その前にニリンソウを食おう。

●せっかく山に登って、数日前とまったく同じ道を歩くのも面白みがないので、乳頭山下から東にそれて、畠山に向かう。

前回(初めて)登った時には、その畠山も海軍の高角砲台跡であると知らず、まったく遺構のチェックなどもしなかったので、改めて確かめてみたいと思っていた。

前回登ったのは一昨年の5月末。今回も尾根伝いに東京湾要塞地帯標を一四号、一三号、一二号とカウントダウンしながら歩く。

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1、2枚目はどちらも一四号。ちなみに、一四号、一三号は尾根道の鞍部(窪んだ部分)にあって分岐点にもなっているので道案内の標識と隣り合わせ。一二号は畠山の一つ手前のピークにある。なお、一昨年の記事で、参考として「東京湾要塞」の地帯標のページにリンクを張ったが、当時はYahoo!ジオシティーズにサイトが置かれていて、すでにリンク切れになっているので、改めて張っておく(とはいっても、軍事遺構の記事では何度となくリンクを張っていて、最近のものはすでに新しいものに変わっているはず)。

●一二号を過ぎてさらに歩くと、細い尾根道が、砲台道と思われるそれなりの道幅でとても人工臭がする道に突き当たる。最初に畠山に行ったときは、「え? なんでこんなにマトモな道が?」と思ったのだが、砲台道であると判ると納得がいく。

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1枚目は、要塞地帯標のある尾根道から見た砲台道への合流地点。道の向かい側に案内標識が立っている。標識は「← 塚山公園 1.5km」「畠山 0.1km →」。

2枚目は、合流地点から砲台道をやや下ったところから振り返って撮ったもの。標識には、先ほどはちょうど撮影方向で見えなかった尾根道方向を指しているものが見えている。内容は「乳頭山 1.2km →」。写真中央に細く続くのが山頂広場への道。砲台道の常として、ゆるい傾斜で山頂広場を巻くように進む(といってもこの辺りはまっすぐに近い)。

3、4枚目はその山頂広場への途中。現在は下草や灌木が茂って人が通る部分は踏み分け道程度になってしまっているが、本来の道幅は自動車が通れるくらい(機械化が遅れていた日本軍のことなので、実際に資材を自動車で運んでいたかどうかは判らないが)であることがなんとなく見て取れる。

●そして、歩くことわずかで山頂広場に着く。

まずは恒例、終戦直後の米軍による空撮(1946年2月15日、USA-M46-A-7-2-105からの切り出し)。国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。

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これを見ると、山頂に4基の砲座が円弧状に並んでいるが、実際には(いつもの国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」によれば)、終戦時に配備されていたのは一二糎高角砲(単装)3門のみであったようだ。

円弧状に砲座が並んでいるのは、管制上の理由でか、他の砲台でもよく見られる配置だが、特にこの畠山の場合は、実際の地形図と対照すると山の頂部そのものが円弧状になっているためというのが大きそう。

そして現況。

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1枚目は、山頂広場に到着したあたりから北(北東?)方向を撮ったもの。2枚目はそのまま端近くまで歩いて、振り返って撮ったもの。1枚目では中央やや右側(わかりづらい)、2枚目では中央左側に、この山頂広場のヌシ的な石仏(馬頭観音)が写っている。その正面からの写真がこちら(一昨年も同様の写真を上げたが)。

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てっぺんに誰かの忘れ物の手袋。

とりあえず、上写真でもわかるように、現状の山頂広場は周囲が木に囲まれて見通しが悪く、そもそも山頂の平らな部分がどこからどこまであるのか、というのもよく判らない。

配備されたのが一二糎単装高角砲だということもあり、砲座は武山(砲台山)や小坪(披露山)、衣笠のようなベトン製の堅固なものではなく、二子山同様の土盛り/直掘りであったようで、さらに当時の様子が伺いづらくなっている。

上の1枚目写真の左奥方向(2枚目写真の右さらに後ろ方向)の藪の奥を覗くと、緩やかに窪んだ場所があり、もしかしたらこれが砲座あとの一つなのではないか、と思われる。

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もっとも、実際に三次元で(自分の目で)見て、やっと「窪んでるなあ」と判る程度なので、写真で二次元にしてしまうと窪んでいるかどうかも、スケール感もよく判らない。ただの藪の写真で申し訳なし。

そしてもう一枚は、山頂への入り口付近に戻って、そのすぐ脇の藪のなか(上の全景写真1枚目でいうと、すぐ左手)。こちらにはもっと深い窪地があった。

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これは写真に撮っても窪地であるのが判る。とはいっても、上の米軍空撮を見ると、砲台道からの“とっつき”すぐ脇に砲座はなく、むしろ山頂広場の逆側の縁にある感じ。どうもよく判らない。

二子山の場合、探照灯の台座かとされるコンクリート製の構造物などあるが、こちらはそれらも確認できるものはなく、とにかく「言われてみなけりゃ何も判らん」状態と言える。

なお、いつもの通り参考資料は以下の2サイト。

前者の場合、私よりもだいぶマシな遺構確認ができているが、実際には「う~ん。そんなのどこに隠れてるのかなあ」状態。

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最高峰

●東日本大震災から9年。……え、もう9年?

そして日本の(そして世界の)社会はある意味では似たような、ある意味では全然違う「災厄」に見舞われ中。

考えてみれば東日本大震災は「その瞬間」の被害の大きさは途轍もなかったが、その後は(起きてしまった災害によって逼迫してくる状況も処々にあったとしても)基本は「どう復旧・復興していくか」であったのに対して、現在進行中の新型コロナの場合は、普通の生活の中にじわじわと染み込むように広がってきて、しかも「どこまでいくのか」「いつ収まるのか」が全然見えてこないのが違う。いずれ緩やかに収まってくれるのかもしれず、しかしもしかしたら、トータルの被害はとんでもないことになる可能性もあるかもしれない。

東日本大震災の時にも「ワカメ(あるいはノリ)を食べよう」とか「化学工場の爆発で毒の雨が降る」とかいったバカなチェーンメールは来たけれども、今回も「コロナによく効く花崗岩」とか同アオサとか、ウイルスは温度何度/湿度何度で死滅するとか、買い占めとか転売とか――まあ、人間、そうそう学びはしませんわな。

そういえば今回はコンビニの窓に「本日!うろばんが」とか張り出されないですね(今回の場合は日本じゃなくて世界?)。

●二子山の高角砲台跡については、これまでに2度ほどレポートしている。

二子山は、「魚が跳ねた格好」に例えられる逗子市のシッポの部分、「桜山大山」地区の北西側、葉山町長柄との境にあって、標高は東側の上ノ山が208m(山頂の一等三角点のデータでは207.81m)、西側の下ノ山が206m。上ノ山は逗子市の最高峰となっている。

たかが208mとはいっても流石は最高峰。逗子市域の中ではほぼ反対側の小坪近辺からでも、ちょっと高いところに行くと、その寄り添うような、「なるほど、双子なんだな」と思う姿を見ることができる。もちろんしばらく前までは、東南側に山々が連なっていても「うん、山だ」くらいにしか認識していなかったのだが、一度二子山の姿を見覚えると、「あ、ここからも見えるのか」等々気になるようになった。

というわけで、小坪近辺のあちこちから見た二子山。

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最初は名越の大切岸から。向かって左が上ノ山、右が下ノ山。この角度からだと、二つの山の間のV字の谷がくっきりと綺麗。

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次の3枚は久木、法性寺奥の院から。横須賀線と「すいどうみち」の通る名越(久木)の谷戸と、逗子中心市街地越しに見る逗子南方の山々。1、2枚目は数日前に撮った西日を浴びる風景。3枚目は昨年末、お昼前に撮ったもの。

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小坪1丁目の通称「はげ山」から、山の上の住宅地である亀ヶ岡団地越しに見る二子山。

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次の二枚は大崎公園の突端から、逗子海岸越しに見る二子山。名越あたりからするとだいぶ南に移動しているので、二子山も、下ノ山が上ノ山の手前にかぶさるような形になり、間の谷もだいぶ隠れているうえ、手前にある下ノ山の方が高く見える。

逗子の砂浜の右端に見える渚橋の真上には、割と特徴的に三角に尖った山が見える。三浦アルプスの山々のピークのひとつだと思うが、どうも特によく知られた名前がある山ではないらしい。一方、左写真で逗子湾の左下海上に見えるのは浪子不動前の不如帰碑。

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披露山公園から。左は公園の突端から。右は展望台からだが、この季節なので枝の間からなんとか「二子山だな」と確認できる程度。もっとも大戦中は山頂付近に木はなかったので、二子山高角砲台と披露山の小坪高角砲台は、戦闘中は互いの発砲炎などはよく見えただろう。

二子山高角砲台からは、その向こうにある畠山や(先日訪れた)衣笠の砲台の活動も見えたろうと思う。

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披露山の東側斜面、尾崎行雄の「風雲閣」跡近辺から、逗子中心市街地越しに見る。ちょうど二子山の手前に見える大きな白い建物は逗子開成。

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すいどうみち(県道311号)から小坪漁港方面に折れる「小坪街道」上から。1枚目は切通入口近辺から。2枚目はもっと「すいどうみち」側に降りて、第二逗子幼稚園横あたりから。

●我が家のちび(といってももうすぐ小学校高学年なので、だいぶお年頃になってきた)の最近の作品。

「メイドインアビス」のミーティ。

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作品を知らない人からすると、「下手で形が崩れている」と思うかもしれないが、実際にはこのキャラクターはとある経緯から非対称にぐずぐずに崩れた体を持っていて、この(設計も自分でやったらしい)ミニぬいぐるみはかなり的確に特徴を捉えている。猛獣のようなツメは竹串の先を黒く塗って付けたとのことで妙に凝っている。

……そのうち、何か模型製作の下請けを頼みたくなってきた。

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衣笠高角砲台再訪

●我が街・逗子と、その周辺の軍事遺構、特に高角砲台に関しては割と積極的に訪ね歩いているのだが、衣笠高角砲台は基本、何の手入れもされていない状態で、昨夏チャレンジしたときには笹薮に阻まれて結局山頂の砲台までたどり着けなかったのだった。その時の探訪記はこちら

そもそも草深い夏に行くのがいけないのであって、冬になったら再挑戦しようと思っていたところ、hn-nhさんが計画に乗ってくれ、さらに比較的ご近所のみやまえさんも加わってくれたので、勇気百倍で出掛けることにしたのだった。

衣笠高角砲台についての基本的な事項は、毎度お世話になっている以下の2サイトを参照のこと(おんぶにだっこ)。

また、現地を訪れるにあたっては、以下の探訪記あたりを参考にした。

●そんなわけで6日木曜日、平日昼前にJR衣笠駅で集合する。hn-nhさんとはここ数回の年末の東京AFVの会で顔を合わせていて、みやまえさんとはネット上でそれなりに長くお付き合いがあるが、直接お会いするのはたぶん初めて。駅前のモスバーガーで軽く昼食をとって出発(というと、さっさと出掛けたように聞こえるが、実はここですでに模型談議その他でそこそこ時間を費やした)。

前回一人で行ったときには「しょうぶ園」までバスに乗ったのだが、今回は、先人の探訪記で「ふもとの兵舎跡」と紹介されていた遺構も見たかったので、最初から歩きで目的地に向かう。

こちらのサイトでは衣笠中学校の南西と書いてあったので、学校にほぼ隣接しているのかと思ったが、実際にはもっと(直線距離で300m程度?)西。畑の中にコンクリートの、何かの基礎のようなものが露出している。

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かなり細長い、中央横一直線の入った長方形(仮にA枠とする)。その向こう、写真向かって右には、深めのバスタブ状のものが複数(B枠)。逆に最初の長方形の左の向こう側には背の低い長方形(C枠)。

それぞれが個別で何かの建物の基礎だったと考えるには小さいので、これ全体を覆うような建物の、水回り(例えば炊事場とか風呂とかトイレとか)だろうか。バスタブ状のB枠は、一部が地面から浮き上がったり、またその結果としてやや傾いだりしているが、下辺の処理を見るに、移動可能のものを単にそこに置いたというのではなく、もともとその場所にあったものが、下の土が流れて下辺が露出してしまったふうに感じられる。最後の写真はA枠の一部を接写したもの。綺麗に丸くなった川砂利が使われていて、それなりに古いものであろうことは推察できる。

●ここで(いまさらの)ロケーションのおさらい。

まずは現状。オープンストリートマップ(OSM)より切り出し加工。

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①:衣笠駅 ②:上述のふもとの遺構(と思しきもの) ③:現在ある道から、半ば藪に埋もれた旧砲台道への分岐 ④:砲台推定位置

地図内のオレンジの枠線は、下の米軍撮影空中写真(国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。写真整理番号USA-M46-A-7-2-129、1946年2月15日撮影)で切り出した部分(おおよそ)を示す。

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●ここで改めて、上のふもとの「兵舎らしき遺構」を確認してみる。米軍の空撮の当該部分を拡大してみる(上写真の上側の黄枠)。

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これを見ると、1946年2月時点で、すでに目立つ建物等は残っていなかったように見える。写真写りの問題なのかもしれないが、上で、元からそこにあったように見えると書いたB枠相当のものも確認できない。こうなると、兵舎だったのかどうか(そもそも砲台に付随した施設だったのかどうか)も若干怪しくなってくる。とりあえず「古そうなもの」なのは確かだが、実際は何だったのか。地元で話が伝わっていたりしないだろうか(畑に人がいれば聞けたのだが)。

●「兵舎らしき遺構」の先辺りから、足元は砂利道になる。OSMでは破線の細い山道が2本描かれているが、外側(西側)のほうを歩く(東側への分岐は気が付かなかった)。道幅からも、上の空撮からも、こちらがもともとの砲台道だったように思える。

夏には藪に埋もれてすぐには判らなかった山頂への分岐(上の地図の③、下の空撮写真切り出しのAポイント)だが、藪が薄くなり、踏み分け道も判りやすくなっていた。「これは山頂の砲台まで、割とすんなり行けるのでは」と期待も高まる(というのが大きな間違いだったのが後に判明する)。

夏に登った時からあった気がする古い倒木や、昨秋の台風で新たに倒れたと思しき倒木なども時に乗り越えたりくぐったりしつつ、中腹をぐるりと時計回りに巻いて進む。そういえば今回は、途中の山道の写真は全然撮らなかったな……。

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改めて、砲台周辺のみの切り出し拡大(最初に掲示した空撮写真のおおよそ下黄枠部)。砲台の北東側(おおよそBポイント)には、前回も入り口写真をUPした洞窟がある。その近くには外方向への分岐があり、何らかの付随施設があったらしい(Cポイント)。夏に行ったときには気付けなかったが、今回はその分岐が(誰かが草を刈って踏み分けたような跡があり)判り、その先の藪の中には、コンクリートの基礎が確認できた。

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いや、まあ、この写真だとただの藪にしか見えないけれど……。

「本道」に引き返し、そのまま割とまともに踏み分け道っぽいルートを道なりに進むと、前回も確認できた足元のコンクリートの基礎群、およびその先には高さ約2mの直方体の建物に行き当たる(Dポイント)。空撮写真を見ると、小さな建物群が固まっていたようにも見える。聴音所、もしくは計算所等の施設だったのではと考えられる。

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「このへんは前回結構写真を撮ったから」みたいな意識でいて、あまり真面目に撮影していない。いかんね。

1枚目は、一群の「主役」的な直方体の建物を計測するh隊員とm隊員。この建物はレンガ積みの上からコンクリートをかぶせた構造で、2枚目は建物の入り口内側のコンクリートが剥がれてレンガが見えている箇所。3枚目はやはり入り口脇の外側頂部付近で、レンガが段ごとに長手と小口が見えているイギリス積みであることが判る。この建物は頂部も一部は崩れているものの、この部分を見るとレンガ+コンクリートの本来の高さもここまでで、この上はもっと簡素な造りの屋根が乗せられていたのではと思われる。

●少し引き返し、改めて山頂広場方面への道の痕跡をたどる。前回はほんの少々進んだところで笹薮に阻まれ、それ以上進むのは断念した。それに比べると、今回は季節柄、まだ進みやすい……と思ったのも束の間。

おそらく、上空撮写真のEポイント近くまで進んだあたりで、濃い笹薮に突っ込んでにっちもさっちも行かなくなってしまった。なお、空撮ではEポイントに何らかの小施設が確認できるが、今回は(とにかく藪を漕ぐのに必死で)その基礎等痕跡は発見できなかった。

せっかくのリベンジなのに、前回からさほど進歩もなく諦めるのは悔しい……というのに加えて、今回は、酷い目に遭うにしても2人も道連れがいることもあって(失礼)、なんとか強行突破できないか、やや戻ったポイントから山頂に向けての斜面を突っ切ってみることにする。

冬だから藪が薄くなっている、と言っても、笹薮の笹はそのまま濃密に茂っていて、それをかき分けて進む。笹の細かい枯れ葉のかけらとか、枯れ枝のかけらとかが頭上からパラパラ降ってきて、襟から背中に潜り込んだりして散々な思いをする。後からみやまえさんに「あの段階から進もうとするとは思わなかった」と言われたが、いや、絶対に一人なら進んでません。なお、この時の様子は(藪漕ぎが大変すぎて)まったく写真に残していない。

「とにかくこの先にあることだけは確かなんだから」という思いだけで進んで、登り切ったあたりで砲座の遺構にたどり着いた。

●すり鉢型の砲座は、基本、小坪高角砲台(披露山)や武山高角砲台(砲台山)と同形で、配備された砲も同じ四十口径八九式十二糎七高角砲 。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」(終戦直後にまとめられた各陣地の配備品ほかのリスト)によれば、終戦時には同砲2基4門。上空撮写真でいえば、ET顔の陣地の左右両目の部分が砲座で、下側の2連の◎はやや小さいので、測距儀とか聴音器、探照灯とかだろうか。

たどり着いた砲座自体、ほぼ藪の中に埋もれていて見通しも悪く、基本、部分写真しか撮れなかった。

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上の3枚はすり鉢状の砲座の内壁。1枚目、弾薬仮置場とされる壁龕の向こうには小さな通路が見える。最初はこれが砲座への入り口階段かと思ったのだが、披露山や砲台山の入り口階段より明らかに狭く、階段それ自体もない。後から、入り口階段はさらに向こうに別に存在していたことが判明したので、これは、披露山や砲台山の砲座にはなかった(塹壕状の)小通路の口らしい。披露山と砲台山にも違いがあるので、同じように見えてどこも何かしら独特の部分があるようだ。

2枚目写真はその小通路口からさらに向こう側を撮ったもの。3枚目写真はさらに進んで、待避所(?)入口から振り返って小通路口、壁龕を撮ったもの。

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壁龕2か所。内部のコンクリート肌は風雨にさらされることもなく、非常にきれいなままに残されている(ただし1枚目の壁龕は入口近辺が若干崩れている)。

待避所は、すり鉢状の円周から一段窪んで入り口の壁面があり、その奥に部屋があるという二段構えだったようだ。円周から一段窪んだ両側は径方向に壁面を切っているので、入り口との壁面は鋭角で接している(判りにくい説明)。以下、待避所のディテール。

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上部はコンクリートが崩れた跡があり、もとはコンクリートの天井があったものが崩落したらしい。高さから考えると、現在は落ち葉等々で埋まっているが、砲座よりも一段低く作られている可能性もありそう。現在は露天になってしまっているが、壁面は壁龕同様に滑らかな状態が保たれている。

待避所のさらに向こうに、本来の砲座への入り口だった階段跡が発見できた。現在は両側の壁が残っているだけで、階段自体は崩れてなくなってしまっているが、側壁に階段の跡が認められた。

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ちなみに、この入り口階段はほぼ北を向いていて、その向こうは、少し先から北東方向に急斜面になっていた。したがって(藪の中でだいぶ方向が怪しくなっていたが)、我々がたどり着いたこの砲座は山頂陣地の東側のもの(上空撮のFポイント)だったと思われる。

砲座の中央には、もともと四十口径八九式十二糎七高角砲が据え付けられていた穴が残っている。これは披露山や砲台山ではすでに埋められてしまっている部分。

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コンクリートが2段(?)の円筒状に窪んでいて、これは、公園に改装される前の披露山の砲座でも同様だったことが判っている。

本来はこの周辺に指揮所と思しき建物跡やもう一つの砲座もあるはずなのだが、とにかく藪が深く、「もうここに着いただけで十分」という気分になっていたため、この砲座の探索だけで引き返すことにした。なお、帰途の藪漕ぎでも途中で方向がよくわからなくなり、道を外れて登り始めた場所ではなく、最初に「ここは藪が深くてこれ以上進めないよ」と言っていた場所に到着した。いい加減だなあ。

なお、山頂広場をかすめてそのまま西に行った場所には、兵舎らしき大きな建物があったらしいことが空撮でわかる(Gポイント)。

●帰途、行きにはスルーした壕(Bポイント)を覗く。

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入口近辺は素掘りの荒々しい岩肌だが、数m先からはコンクリートが巻かれた壁面に変わる。1枚目が入り口近くから奥を覗いたもの。2枚目はやや進んだ位置から。突き当りから通路は左右に分かれ、壕全体はT字型をしている。古い自動車シートやカブの残骸などが落ちていて、かつてはゴミ捨て場か物置かになっていたようだ。3枚目はT字に分かれた左側で、右側も似たような構造。両側に小部屋のような壁龕が並んでいる。本来の用途は弾薬庫だろうか。「東京湾要塞」では「発電機が置かれていたのではないか」と推察している。

コンクリートのアーチ状の壁面には、型枠跡もはっきり残っている。……そしてこの季節にもしぶとく活動しているオオゲジがいた。

●倒木だらけの踏み分け道程度で、「人間の通る道に戻ってきた」としみじみと語るみやまえさん。「人間の通る道」のハードルがものすごく低くなってる……。

その後、「もっとちゃんとした人間の通る道」まで戻り、前回同様、衣笠城址を経由して、バスに乗って横須賀中央まで。

いつも一人で山歩きする時には昼食をとってからのんびり出掛けることが多いので、山から下りてきたころには夕方になってしまうのだが、この日はまだ時間がたっぷり。三笠公園でコンビニコーヒーを飲んだり、(このところ個人的に第二次マンホールブームなので)ふと思い出して横須賀市役所に行ってマンホールカードを貰ったり。

夕方までぶらぶらし、その後、3人で軽くビールで乾杯し解散。実り多かった……。hn-nhさん、みやまえさん、どうもありがとうございます。

なお、今回の探索行ではhn-nhさんがレーザーポインターで遺構の大きさ等をいくつか計測していたので、もうちょっと中身のあるレポートが、いずれhn-nhさんの「ミカンセーキ」に載るかもしれない。


●娘に、「私がお金を出すから、代わりに『メイドインアビス』の映画を観に行ってほしい」と言われ、私自身、「メイドインアビス」というマンガ/アニメは好きなので断る理由もなく、金曜日、川崎の実家に行くついでにいそいそと観に行く。

そもそもなぜ「娘の代わりに」なのかというと、上映週ごとに変わる入場特典のプレゼントがあり(しかもその中にも種類があって何が当たるかはランダム)、娘はすでに2回もこの映画を観に行ったのだという。さらに、本編上映前に映されるオマケ短編も週替わりなのだそうだ。何そのAKB商法。最近の映画、あざと過ぎる……。

とはいえ映画そのものは面白く(というか切なく悲しく)、しかももう4週目の平日ということもあってガラガラで、ゆっくりと楽しむことができた。内容自体は「to be continued」(そもそも原作もまだ終わっていない)、放映時期は決まっていないものの、テレビ第二シリーズに続くのだそうな。

ちなみに貰ってきた入場特典は5種類?の絵柄の付箋紙なのだが、まさに娘が欲しいと思っていたものがピンポイントで入っていたとかで狂喜していた。その絵柄というのが、ボンドルド(いわば敵役)の手下。欲しがるものがマニアックすぎる。

●ひとつ前の投稿への青木伸也氏のコメントで「タミヤの新KVについてmissing-lynxでは『砲塔がちゃんと左右非対称になっとるんかいね』という話題が出てる」という話を聞いて仰天。知らなかったよ……。

というわけで、青木氏同様、慌てて手元の資料をひっくり返して見たのだが、

  • フロントバヤの「イストリヤ・タンカ・KB」上下(2002年?)
  • Wydawnictwo Militariaの「KW vol.1」no.163(2002年)
  • タンコグラードの「KV-1」上下(2005年)

と、すべて溶接砲塔は非対称に描かれていた。下の写真は、フロントバヤとタンコグラードの、それぞれ1940年型エクラナミの平面図ページ。

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エクラナミを選んだのは、増加装甲で左右に広がっているために、車体側面との距離がぱっと見で分かりやすかったため。

いずれにしても、少なくとも20年近く前から、「知っている人は知っていること」だったわけで、乗り遅れ感が甚だしい。KVマニアを堂々と名乗る資格なし!

さて、これに関してはhn-nhさんが新橋のタミヤ・プラモデル・ファクトリーで見本を確認してきたというのを(上の衣笠砲台探索行の際に)聞き、写真も見せてもらったが、しっかり非対称に、左が右より前方に絞った形状になっているようだ。この詳細に関してはhn-nhさんの「ミカンセーキ」の記事を参照のこと。

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小坪の穴

●タミヤがルノーR35を出すという噂を昨年秋にめがーぬさんから聞いて、こちらはまだ本当かどうか判らないが(ただしHobbyEasyやScalemateには、35376と製品番号まで明記されている)、今度はネタ的にはもっとびっくり、ICMからFCM36が出るそうだ。最近またじわじわと活動を再開しているPMMSのNew Kit Newsのコーナーより。……今年はフランスものAFVの当たり年になるのか?

Fcm1 かつてのNKCのレジンキットは組むだけ組んで、そのままどこに仕舞い込んだか、行方不明(右写真。すぐ身近の棚の前にキットの箱が置いてあったので、「あ、こんなところにあったじゃん」と思って開けてみたら、1:72のPZL P-24の完成品が入っていた)。R35もエレール改造のVanatorul de care R-35が未完なうえにHOBBYBOSSのキットも買ってしまっているが……。上記2キットは出たら買う! タミヤの38(t)は買っていないけれども!

●スマホでポケモンgoのスクリーンショットを撮ったら、そのショットの数枚に、googleフォトから大胆な撮影場所推定を付けられた。どこまでポケモン採りに行ってるんだオレ……。

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20200104_144252 ●逗子、小坪の漁港の南側の磯に面した、大崎の崖下には、ポコポコと人工の洞窟が口を開けている。右は、磯場への入り口付近から崖面を撮ったもの。崖面がデコボコしているので、この写真に写っているのは、おそらく、1番目、2番目、4番目の入り口。

中の様子から見ても歴史の古いものとも思えず、おそらく戦時中に掘られたものだと思うのだが、これについて、いつ、どのような目的で掘られたものかという資料には今のところお目にかかったことはない。

今まで、外から中を覗き込んだことはあったけれども入ったことはなかったのだが、この季節ならゲジゲジやフナムシが群れていることもなさそうだし、数日前、散歩のついででちょっと中を見てみた。

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1枚目:(漁港側から数えて)1番目を覗き込んで撮影。数mで突き当り、左はすぐ行き止まり。右は2番、3番の穴と連結。

2枚目:2番目入り口から中を撮影。奥は広くなっており、突き当りは壁状の仕切りを残して小部屋状に四角く掘り込んである。

3枚目:2番目奥から1番目方向を撮影。

4枚目:奥向かって右側の「小部屋」。

5枚目:3番目突き当り辺りから2番目奥を振り返って撮影。

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6枚目:4番目入り口から中を覗き込んで撮影。奥は突き当り、左右に分岐がある十字架状。左は突き当りで1~3番穴には連結していない。右は5番穴と連結。

7枚目:同じく4番穴。ちょっと中に入って、正面突き当りと左突き当りの穴を撮影。

8枚目:4番穴から5番穴への横穴途中は奥が深くなって小部屋状になっている。

9枚目:同上。奥の壁は工具で削り取った跡がはっきり残っている。

10枚目:5番穴から4番穴方向を振り返る。右手が8、9枚目の「部屋」。

11枚目:5番穴入り口から相模湾/江の島を見る。

弾薬庫にしては、披露山の小坪高角砲台にも、漁港を挟んで反対側の西小坪海面砲台にも(オマケでいえば現大崎公園にあったという対空機銃座にも)距離とか高低差でかなり“遠い”し、そもそも、穴それ自体が浅く、風雨が荒いと中まで吹き込んできそうなので、何かものを収蔵するのに適しているとは思えない。

銃眼のような拵えは全く見られないので、銃撃陣地ではありえず、監視所としてもちょっと吹き曝し過ぎるような。あるいは、ここは陣地としては手を付け始めたばかりで、さらに大崎突端方向に深く掘り進んでいく計画があったのかもしれない。

現在小部屋状になっている部分は奥の壁が綺麗に垂直に削られているので、その部分をさらに奥に掘る計画があったとは思えないが、例えば4番穴の正面突き当りなどは、その先が作られる予定があったとしても不思議ではない気がする。

F1030105 右写真は、今からもう10年近く前(2011年)、春の大潮の時に磯の上から撮った洞窟群の全景(その頃に、当かばぶにUPしたものの再掲)。

今回入ってみた1~5番穴よりもさらに岬突端方向(向かって右側)に、さらに2つの開口部があるのがわかる。そのうち機会があったら、こっちもちょっと覗いてみよう……。

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大楠山特設見張所

●金曜日午後、大楠山(横須賀市)に登る。三浦半島の最高峰、かつ関東100名山の100番目であるらしい。241.3mしかないのに!

特にはっきりした目的があるわけではなく、

  • 近年、この辺の山のハイキングコースはおおよそ歩いたにも関わらず、大楠山には行っていない(ただし、主要ルートの一つであるゴルフ場脇を歩いた覚えがあるので、だいぶ昔に一度上ったことがあるのは確か)。
  • 大楠山に登るなら、暑くなく、藪も濃くない季節にしようと思っていた。
  • 先日の2度の台風で、この辺の山のハイキングコースはだいぶ痛めつけられているが、ネットでちらりと調べてみた限り、大楠山の主要ルートは大丈夫らしい。
  • とりあえず、今ヒマ。

などの理由による。

●大楠山への登山(というよりハイキング)の主要ルートは4~5つあるのだが、今回は逗子から衣笠行きのバスに乗って「大楠登山口」下車。阿部倉温泉経由で、ゴルフ場(葉山国際カンツリー倶楽部)脇を通って登頂。帰りは前田橋へ。大雑把に言うと、北から登って南西に降りた感じ。

昼食をとってすぐに出掛けるつもりがちょっとぐずぐずし、その遅れがバスの待ち時間などで増幅されて、バス停を降りて歩き始めたのはすでに2時過ぎ。しかも実際にハイキングコースの山道を登り始めるまでに3度も道を間違えた。おかげで、前田橋で人里に出ることにはもうかなり暮れはじめ。冬のハイキングは時間がタイトなので気を付けなければいかんね……。

●山道に入る前、「両面地蔵」というちょっと変わったお地蔵さんの名前を見つけたので(ポケモンgoのポケストップになっていた)、ちょっと寄ってみる。小さなお堂の格子越しに撮った写真が以下。

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名前から、顔が2つあるお地蔵さんなのか、などと勝手に想像したのだが、そうではなくて、どうやら石の両面に地蔵を浮彫にしたものらしい。調べてみると、同じ横須賀市にある宋円寺という寺に同形式の「両面地蔵」が10基ほどあり、平安時代末期の武将、鎌倉権五郎景政が盲目の身で自ら彫ったという怪しげな言い伝えがあるそうな(鎌倉権五郎景政は後三年の役で片目を射られた話は伝わっているが、両目が見えなくなった話は、この伝承以外にはないはず)。

この祠の両面地蔵が宋円寺のものと何か関連があるのかどうかや、そもそも「両面地蔵」という像容(像の形態)の意味等についてはわからなかった。わざわざ両面に彫るには、それなりの理由がありそうだけどなあ……。

●さて。この近辺にあった戦時中の軍事施設に関しては、ほとんど虎の巻的に参照させていただいているサイト「東京湾要塞」には大楠山に関する記述はなく、そのため、今回は施設探訪などというつもりはない、単なる山歩きのつもりだったのだが、頂上に着くと、明らかに軍事遺構っぽい、こんなものが。

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1枚目。頂上広場でいきなり目に入るコンクリートのテーブル状構築物。5分の2程度が欠損しているが、元は8角形だろうか。ディテールは異なるものの、これまで何カ所かで見てきた砲座や銃座に感じが似ている。ただし、他では見られない用途不明の溝がある。元からこのように地面から出っ張ってテーブル状だったのか、それとも元は地面と同レベルで、その後周りの土が削れてなくなってしまったのかは不明。

2枚目。その脇にあった、同じくコンクリートの小構築物。2つ出っ張っているが、よく見ると写真右側にも地面すれすれにもう一つ。位置関係からみて、どうも最初は4か所に四角く並んでいたのではないかと思う。何かを据え付けるための脚のように見え、逗子の大崎公園にある機銃座跡といわれるものにも似ている。

3枚目。先の2枚に写っていた2つの構造物の位置関係。

4枚目。1枚目の写真で向こう側に写っていた三角点。円筒状のコンクリート製構造物の上に据えられているが、この円筒は三角点設置のためにわざわざ作ったものなのか、それとも元からあったものを流用したのかはよくわからない。

帰宅してから調べてみると、ここ、大楠山の頂上には海軍の「特設見張所」なるものがあり、電探や対空機銃が設置されていたらしい。1枚目の“テーブル”が電探の台座のようだ。出典はこちら

なお、上記リンクのページにも、国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」から米軍の空撮写真が引用されているが、近隣の防空砲台と違い、ここについては「何かあった」という痕跡がよくわからない。実際、私も写真を閲覧してみたのだが、そもそもこの一帯の土地利用は現在は激変しているうえ、過去の写真ではそもそも田舎過ぎて目立つランドマーク等がなく、「そもそもどこが大楠山頂なのか」自体、どうもよくわからなかった。

●山頂広場の西側には、売店と展望台がある。基本、バカと煙の類なので登っていい場所には登ってみたくなるのだが、残念なことに展望台入り口の扉は鍵が掛かっていて入れなかった。無念なり。

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売店も閉まっていたので、「売店が開いている時間だけ展望台も開いている」という仕組みかもしれない。とはいえ、いつなら登れるのか/いつなら売店が開いているのか等々について現地には何も書かれていなかったし、横須賀市の案内ページや観光ページなどにも記載がなく不明。

●さらにその西側、山頂からちょっと下った肩の部分には、現代の「特設見張所」、レーダー施設がある。もっとも防衛目的のものではなく、国交省所有の雨量観測所。

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レーダー塔の隣には(かなり低いが)展望台があり、2枚目はそこからレーダー塔を見上げて撮ったもの。3枚目は展望台から南を向いて撮ったもので、写っているのは三浦半島西岸(油壷方面)。

●前述のように大楠山では(少なくとも私の通った2ルートでは)、台風の後遺症はおおよそ片付けられている感じ。

道にかぶさるような倒木その他に関しては、行きのルートで一か所、ゴルフ場のフェンスが倒れたままになっていたのと(左写真)、帰りで一か所、倒木がかぶさってトンネル状になっていた程度(右写真)。

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ちなみに左側も身をかがめれば通れる程度で、右は(一見狭いようだが)中背の私がまったく身をかがめなくても通れる高さがあった。

●と、大楠山はそんな感じなのだが、鎌倉周辺のハイキングコースはもっとずたずたになっているようで、現在はほぼどのルートも通行禁止。復旧は来年の6月ころまでかかるらしい。

先日、逗子のハイランドから、池子の米軍接収地の北辺の尾根をぐるっと歩く「やまなみルート」を歩いたのだが、(割と時間も遅めだったので)十二所果樹園から朝夷奈切通入口に降りるつもりでいたところ、果樹園を降りる道が「がけ崩れのため通行禁止」とのことで、結局六浦まで歩き続けることになった。

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二子山再々訪

●季節労働が終わって平日でも余裕があるので、21日木曜日、午後になってふらふらと二子山(二子山高角砲台跡)まで歩きに行く。

以前の探訪記事はこちら

実を言うと最近、一度登ろうとしたのだが、やはり午後に出発して、家から直接歩いて行ったら、ふもとの南郷トンネル入り口あたりで夕方近くなってしまって断念。今回は素直に、逗子駅から南郷中学校行のバスに乗る。

以前の記事で書いたように、二子山上ノ山までは元砲台道が通っているのでほぼ散歩感覚で登れる。先の2つの台風(特に第15号)のせいで、このあたりの山は倒木だらけのため、ちょっと山奥まで歩きに行くのは不安があるが、広い道が通っている二子山上ノ山はその点問題がない。

●山頂に現在1基だけ確認できる砲台(の土塁跡)については、前回も写真を載せたので今更だが、せっかく撮ったのでもう一度。

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1枚目は下ノ山方向(西南方向)から。街角でもよく見かける、新興宗教関連団体による世界平和祈念の白柱がまさに砲台跡に立っているのは、判ってやっているのかどうかは不明。2枚目は北側から。最も土塁が低くなった部分越しに展望台を仰ぐ。この写真では視野から外れているが、向かって右側の「こぶ」に先述の白柱が立っている。

●今回、二子山砲台跡に上った第一目的は、前回、初夏に上った時には藪が深くて確認できなかった、探照灯の台座とされるコンクリートの構造物を視認したいと思ったこと。

この辺の山では冬になったといっても劇的に見晴らしがよくなるわけでもなく、しばらくうろうろと藪を覗いて探す羽目になったが、なんとか見つけることができた。藪越しに撮ったので「なんだそりゃ」というお粗末な写真だが、とりあえず以下に2枚。どちらも対象は同じ柱で、覗く位置がちょっとずれているだけ。

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……いやまあ、勝手に草刈りするわけにもいかないし(そもそも道具も持っていないし)。

武山砲台(砲台山)の山頂手前の道端にあるコンクリート柱とほぼ同形状で、四角いコンクリートの柱の上に丸い台座が載っている。藪が深いために今回は1本しか確認できなかったが、実際には、5mほど隣にもう一本同形状の柱があるのだそうで、要するに、配置も砲台山の写真の物とほぼ一緒ということになる。

柱の所在等々に関してのソースは、いつもながらサイト「東京湾要塞」(同サイト内、二子山のページ、および砲台山のページ)。

ほぼ同じ形状・大きさ・配置で、砲台山のほうは計算所(の計算装置用)の基礎、二子山は探照灯の台座とされている根拠はよくわからない。ただし、砲台山には道端のコンクリート柱のほかにもう一本(?)、ほぼ同形状の探照灯用とされる台座が残っているようだ。

なお、この記事を見て「よし、オレも見に行こう」と思う酔狂な人はあまりいないと思うが、一応、柱の位置を解説しておくと、山頂広場から二子山下ノ山方面への道に入り、5~10mほど進んだあたりで右に折れて藪に踏み込む道があるので、それを辿り、KDDIの中継所施設のちょうど裏手、進行方向左手の藪の中に立っている。おおよその位置でいうと、下写真(展望台上から西を向いて撮ったもの。手前の地面にあるのが一等三角点)の矢印あたり。

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Old Gun Base

●毎年秋は、決まって請ける季節仕事でわたわたする。

実を言えば今年は奇跡的に早くスタートしたので、最初のうちは「いぇ~い。余裕♪」なんて思っていたのだが、結局、後半はいつも通りに怒涛の催促に見舞われた。いかんね。

その仕事も先週末ですっかり片付いたので、とりあえず今は嵐の後の薄らボンヤリ状態。

Screenshot_20191115144952 ●上記仕事の最後のジタバタで、先週は水~金と神保町に日参していたのだが、金曜日は午前中に発注元に資料を持って行った後は、「何か問題があったら呼んでください」と言って、事務所で待機状態。

特にすることもないので、午後、北の丸公園から千鳥ヶ淵方面に散歩に出た。竹橋から英国大使館方面に抜ける、いわゆる「代官町通り」沿いに、大戦中の対空機銃の台座が残されているというのを(割と最近)知ったので、それを見に行くというのが第一目的。神保町~一ツ橋近辺にはもう何十年も通っているにもかかわらず、そんな遺構があるのは知らなかった。

代官町通りの西半分は、通りの南側は皇居の塀、北側は千鳥ヶ淵との間の堤になって一段高くなっていて、堤の上は「千鳥ヶ淵さんぽみち」と言う名の遊歩道になっている。件の台座は、この「さんぽみち」上にある。行ってみてわかったが、「Old Gun Base, Chiyoda」の名称で、「Pokémon GO」のポケストップにも採用されていた。

上では「対空機銃」と書いたが、実際には20mmの対空機関砲の台座で、コンクリートでできた二重円筒状のもの。「千鳥ヶ淵さんぽみち」の、そのまた西側に、割と近接して7つ存在している。配置は一直線でも円弧状でもなく不揃いだが、それぞれの間隔は同じくらい(10m程度)。(11/21追記。これに関して、hn-nhさんから「かつての配置と違う」という情報を頂いた。後述。)

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最初の1枚は、台座のある場所全体を東端から見たもの。2枚目以降は、東端から順番に4つ目まで。

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次は途中から、西側の3基を眺めたもの。続く写真は5基めと6基め。最西端の1基は、ちらりと写っているように、外国人のカップルが仲良くお弁当中(さらにその後はイチャイチャ中)だったために個別写真は撮れなかった。

1基の全体の直径は、測ってはいないが、目測で170cm程度だろうか。2mはなかったように思う。実際に使用されていた時にどういう状態だったのかは(きちんとした資料等が検索で見当たらなかったので)判らないが、内側の一段高くなった円筒上に、高射機関砲のターンテーブル状の砲架が載っていたのではないかなあ、と思う。現在は、ベンチとして使用することを考えてだと思うが、薄い自然石のプレートがモザイク状に張られている(一部剥がれたりしているけれど)。ちょうど腰掛けるのによい高さだけれど、内側の段自体が後から作られたもの……ではないような気がする。いや知らんけど。

ここに据え付けられていた高射機関砲に関してだが、環境省の「千鳥ヶ淵さんぽみち」紹介のページにも、「代官町通り沿い堤塘に残る「高射機関砲台跡」」とあるだけで、詳細は書かれていない。ほか、ネット上でヒットするのは、この台座の探訪記に類するものばかりだが、それらによると、

だそうだ(おおもとの出典は何なのだろう?)。

九八式二十粍高射機関砲は名称の通り1938年に正式化されたものだが、その後、これをベースにいろいろ改良型・発展型が作られたらしく、そのうちどんな仕様のものがこの台座に据え付けられたのかはよく判らない。

台座の格好を見る限りでは、中国で鹵獲した「ラ式二十粍高射機関砲(要するにFlak30)」を参考に砲架を新型にした改良型、二式二十粍高射機関砲あたりが怪しそうだ(Flak30のように、ターンテーブル式の架台付きだったようなので)。

wikipediaの記述に、さらにその発展形として出てくる二式多連二十粍高射機関砲というのも怪しい。専用の指揮装置をつないで、複数の砲が連動して目標を追尾する画期的なシステムだが、昭和19年に正式化されたものの16門が製造配備されただけ、とある。しかし、そんな虎の子の新兵器であればこそ、皇居防衛用に使われたとしても不思議ではない(陣地の構築時期とも合致する)。もっとも、このシステムは「6基が連動する」とあるので、台座が7基あるこの場所とはちょっと齟齬がある(いや、1基は照準装置用だったとか……)。

●なお、この対空機関砲陣地の有効性に関して、「高度10000mを飛来するB-29に対しては(まったく弾が届かずに)役に立たなかった」という記述が多いが、20mmクラスの対空機関砲は低空で飛来する小型機が主な目標で、大型爆撃機相手はそもそも想定されていないはず。おそらくこの高射機関砲陣地は、低空からピンポイントで皇居が銃爆撃される危険に対処すべく設置されたのだと思う。いやまあ、陸軍のことなので、本土空襲が始まって、とにかく「皇居をお守りする」格好だけでも付けなきゃイカンというので、届くとか届かないとか関係なしに「何か置いとけ~」と作った可能性も皆無ではなさそうだけれど。

ちなみにB-29が高高度から爆撃を行ったのは本土空襲の初期だけで、その後は低空爆撃に切り替えているため「高度10000mを飛来する」というのも誤りだが、その「低空」も高度2000m前後だったようなので、20mm機関砲クラスでは有効射程ギリギリというところだろう。

●11月21日追記。

機関砲台座の配置に関し、上で「配置は一直線でも円弧状でもなく不揃い」と書いたが、hn-nhさんからのコメントで、かつてと現在とでは台座の位置が異なっている旨、ご指摘を頂いた。

根拠は、終戦後間もない時期の米軍による空撮写真。以前にも逗子~横須賀あたりの高角砲台をレポートする際、過去の様子を探るのによく利用している国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」に出ているものだが、今回は(台座それ自体が大きなものではないこともあって)参照するのをころっと失念していた。というわけでで、下は米軍による1947年9月8日撮影、写真整理コード「M451-33」から切り出したもの(hn-nhさんがコメントで引用したものとは同日・同コースの一連の写真の1枚違いだが、基本、写り具合は同じ)。

Chidori

ほぼ同じ範囲をGoogleMapsで表示させてみたのがこちら。一部樹木に隠れていて7つ全部は確認できないが、とにかく、上写真とは全く配置が異なっている。

戦後すぐの状態を見ると、hn-nhさんのコメントの通り、北側に向けて扇形に6基、さらに扇の要部分に1基が配置されている。また、現状のようにただコンクリート製の台座があるだけでなく、周囲をドーナツ状に土塁で囲っているらしいことも判る。ちなみに国土地理院の上記ライブラリには戦時中(1944年)撮影のものもある。解像度があまり高くないので引用は上の写真としたが、戦時中のものをみても、配置は扇型であったことは確認できる。

そもそもこうしたものが現存しているのは、コンクリートでがっちり構築してしまっておいそれと撤去・移動できないからなのだと思っていたのだが、この機関砲座に関しては、少なくとも「処分するには金がかかるから」程度の理由はあったかもしれないが、「簡単に動かせない」というものでもなかったようだ。

それにしても、こんなふうに「扇形に6基、要に1基」という配置だと、6基が実際の機関砲で、1基は管制装置だったかもしれず、となると、装備された砲が、上でちょっとだけ触れた(6基+管制装置で一組だったという)「二式多連二十粍高射機関砲(ケキ砲II型)」なるものであった可能性がちょっと上がってきた気もする。

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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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