四一式山砲

四一式山砲(完成)

●だらだらと製作記を重ねるものの、いつまで経っても完成しない/そのうちフェイドアウト、というのが私の模型製作の常態だが、ソミュアMCG5完成の余勢を駆って、長年、とりあえず迷彩塗装だけして放り出してあった、ファインモールドの1:35、「四一式山砲(山砲兵)」を完成させた。

製作記事それ自体は、2013年の12月にちょろっと書いただけ。もっとも大胆なディテールアップ等はしていないので、そもそもあまり書くこともない。

一週間前の状態(前回記事)からは、若干ウェザリング(墨入れとウェザリングマスターのハイライト)を足しているのだが、正直言って大した変化はない。……が、これ以上やっても単に薄汚さが増すだけのような気がしたので、これで完成ということにする。

●あっちこっちの角度からの完成写真。

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●口径は75mmだが、山砲として分解運搬なども考え小型軽量に作ってあり、模型としても全長10cm弱、幅は4cm強のちんまりとしたもの。明治末期に制式化された砲なので、構造もあちこちに古風な部分もあり、組んでいて結構楽しかった(といっても、組んだのは何年も前だが)。

前回書いたように、妙な迷彩は中華民国軍所属という設定のため。

2013年春に書いたキット紹介からの丸々コピーだが、

「抗戰時期陸軍武器装備 野戰砲兵篇」によれば、中国ではこの砲は非常に好まれ、そのため国内数箇所の工場でコピー生産も行われた。

漢陽兵工廠(現・湖北省武漢市):民国10年(1921年)に開発もしくは生産開始され、「漢十年式75山砲」と呼ばれる。

太原兵工廠(現・山西省太原市):民国13年(1924年)に開発もしくは生産開始され、「晉造一三式」と呼ばれる。

瀋陽兵工廠(現・遼寧省瀋陽市):民国14年(1925年)に開発もしくは生産開始され、「遼一四式」と呼ばれる。

これは生産拠点を複数設けて大量生産を行ったというよりも、当時の状況で言えば、太原兵工廠は閻錫山、瀋陽兵工廠は奉天軍閥の影響下にあり、要するに、中央と有力軍閥がそれぞれ勝手に生産したということらしい。というわけで、(呼び分けるのも面倒臭いので)四一式山砲は中央軍で使われただけでなく、晋綏軍(山西省、綏遠省を地盤とした閻錫山率いる軍)、東北軍では野戦砲兵の主力として使われた。

実戦では、1933年の熱河戦はじめ、日中本格開戦後の太原会戦(日本側呼称は太原作戦)などでも大量に使用された。この間、中央軍では、装備の統一も意図して、ボフォース75mmM1930山砲を標準装備と定めて導入を進めていたが、まだ一部の部隊では四一式山砲を使用していたらしい。

この迷彩自体、「抗戰時期陸軍武器装備 野戰砲兵篇」に出ていた不鮮明な写真の1枚を参考にしたもの。当然ながらモノクロ写真なので、使用されていた迷彩色がこの系統の色でよいのかどうかはまったく不明。

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週末大雨

●「今年の梅雨は早い」と言われていながら実際にはなかなか梅雨入りしなかったり、「梅雨なのにあまり降らないね」なんて思っていたら、いきなりドカ降りしたり。

当地神奈川の隣県にある(しかも県境を越えてすぐ隣町の)熱海では、大規模な土石流が発生。地区名に聞き覚えがあると思ったら、一昨年の春に近所のご夫婦に誘われて行って泊まった保養所のすぐ下というか、脇というか、とにかく宿からの出入りで何度か通ったあたりがざっくり崩れたのだった。

一昨年に遊びに行った時も、(特に問題の伊豆山地区は)急傾斜地の多い逗子・鎌倉なんて比較にならない、坂の町・尾道よりもさらに厳しい感じで、海に向けて落ち込む急斜面にしがみつくように家やらホテルやらがあって、「すごいところだな」という感想を持ったのを思い出した。

被災地の方々には心よりお見舞いを。行方不明の方々は、一人でも多く無事で見つかりますように。

●わが町逗子でも、私の住んでいる場所からはだいぶ遠いものの、横横の逗子インターで土砂崩れが発生した。近所にも少々危なそうな場所もいくつかある。あまり近寄らないようにしないと。

●3日土曜日。久しぶりにオンラインでF模同窓会飲み会。出席者:はるとまん(たまん)、田一田(でんでん)、私の3名。後になって石黒氏から「済まん、寝過ごした~」というメールが来た。夜8時からの飲み会で寝過ごすって、いったいどういう……。

万年幹事のたまん氏からの、「誰か別の人がやって」というリクエストに応じて私がホストになったが、初めて使ってみようと思ったGoogleMeetは、あれこれいじったものの結局予約方法etcが判らず。

結局Zoomで予約したが、今度は当日・予約時間になって入ろうとしたら、「ミーティングは4日12時からの予定です」などと訳の分からないことを言われて入れなかったり。何度か入り直したりしているうち、数分遅れでたまん氏と合流できた。最初なぜ入れなかったのか等々は今なお謎。

お約束の微妙な音声のラグなどで喋りづらいなかながら、例によって近況報告だの他愛もない話だの。

1年以上前から消息不明の赤板先行氏は、結局その後も音沙汰無し。でんでん氏が自宅に行ってみたところ、片付けられた様子もないが住んでいる様子もない、とのこと。電話やネットは解約されているらしい。実家住所や会社が分かっていればすぐに何があったのかはっきりするのだが、一度会社に行ったことがあるというでんでん氏も、社名や場所を覚えていない由。

私自身、(でんでん氏ほどではないものの)そこそこ赤板氏とは仲が良かったつもりでいるが、それでも、(聞いた覚えがある気はするが)本名は覚えていないし、社名等はそもそも聞いた覚えがない。

ネット上の付き合いというのは、結局のところ、ネットでの連絡が途絶えてしまうとそれっきり、何の伝手もなくなってしまう可能性がある怖さがあるのを改めて思い知った。もちろん、それを以て、「ネットでの付き合いなんて薄っぺらで」なんてことを言い出すつもりは毛頭ない。それは、単純に付き合いのチャンネルとその性格の差であって、付き合いの深さ浅さとは別問題だろうと思う。……とはいっても、何があったかも判らないのはモヤモヤする。

●毎度、SUMICONが終わって、とりあえず一つ何か仕上げることができると、そのまま勢いに乗ってガンガン模型を作れそうな気がしてくる。

たいていは「気がしてくる」だけで、結局いつものスローペースなつまみ食いモデリング生活に戻ってしまうのだが、今回はちょっと気持ちを引っ張って、迷彩塗装まではしたものの仕上げをせずに放り出してあったファインモールドの四一式山砲にウェザリングを施してみた。

me20さんが、2014年に作り始めて放り出してあったカルロ・アルマートP40の製作を再開しているのにちょっと刺激されたもの。ちなみに私の四一式山砲も、改めて調べてみたら、組み立てたのは2013年末。(とりあえず)迷彩塗装を塗ったのは2018年の春だった。

例によって、ウォッシングしたり、ウェザリングマスターで誤魔化したりして、現状がこんな感じ。ちょっとメリハリが足りない気がするので、もう一度墨入れなどするかも。

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ちなみにこの妙な迷彩は、帝国陸軍所属ではなく、中華民国陸軍が戦前に輸入した四一式山砲、もしくは「漢十年式75山砲」「晉造一三式山砲」などの、中国国内のいくつかの工廠で作られたコピー品という設定で作っているため。

フィギュアでも添えないと判らないけれども(添えても判らない?)。

●逗子市から、ワクチン接種の先行予約の案内状が来て、ウェブ経由で予約を取ったところ、そのまますぐに接種日を(月半ばで)決めることができた。新型コロナワクチンの接種は壮大な(しかも拙速な)臨床実験だなあ、とは思うものの、放っておいて感染が拡大し放題になるよりは相対的にリスクが低いと判断できる、ということなのだと思うので、受けろというなら特に文句は言わずに受けに行きたいと思う。

とはいえ、インフルエンザでもその年の流行のタイプに合わせないとワクチンの有効性は下がるわけで、現在どんどん変異株が登場している新型コロナが、現行のワクチンで本当に対処できるのかしらん。

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四一式山砲(山砲兵)

●昔のテレビシリーズの「バットマン」の主題歌って、そのまま続けて

「バットマン来るかと、団地のは~ずれまで、出てみたがぁ~」

って歌いたくなるよね(いつの話題だ……)。

●続けざまに仕上げなければいけない仕事があり、今週に入ってすでに2晩夜なべ仕事。それぞれ明け方数時間(耐えられなくなって)睡眠を挟んでいるので、徹夜ではない。

18日夜になって雨。寒い。天気予報では雪になるかもしれないと言われていたのだが、どうやら冷たい雨のままだったようだ。

F1017541 ●19日午後。

コーヒーを入れたので、お茶請けにシュトレン(ドイツのクリスマス菓子)を切る。娘が勤め先のお客さんから頂いてきたもので、どこかいいお菓子屋のものらしく、見た目は整って綺麗だが、ちと甘過ぎ。

以前にお裾分けで貰った“義兄弟”ドイツ人Pのドイツのママお手製のものは、中のナッツやドライフルーツが片寄っていたり、表面の砂糖は溶けかけてまだらになっていたりするけれど、しっとりほっこり甘過ぎず、実にしみじみと美味しかった。

実はドイツのママは今年一度倒れて、現在リハビリ中とか。P曰く、「シュトレンを作るとしても年が明けてからかな」。お早い回復を切に望む(なんだかこういう流れで言うと、食い気だけで願っているみたいだ)。

ちなみに自宅での私のマグは新潮文庫の「Yonda?」の景品(カバーの隅っこを切り取って送るヤツ)。ところで、今検索して知ったのだが、そのキャンペーンは(だいぶ長いことやっていたのだが)来年1月一杯でついに終了だそうだ。

F1017553 ●先日書きかけで消失してしまった、ファインモールド1:35、四一式山砲(山砲兵型)の製作記を改めて書くつもりでいたのだが、結局のところ、キットをほとんどストレートに組んでいるのみで、あまり書くこともなく、いったい先日は消えて脱力するほど何を書いたのやら自分でも不思議。

というわけで、書き直す前からぐだぐだ。

●気を取り直して。

手元にそれほど資料もなく、先述のように、基本、ストレートで組んだだけだが、以下は手を入れた。

▼防盾の周り(上側方のみ)を削って、縁が薄く見えるようにした。全般的には1:35の火砲のキットとしては充分満足できる細かさだが、防盾はどうしても厚みがあり、せっかくの繊細な印象の足を引っ張っている。

プラバンで作り変えるか、どちらか片面のモールドを一時削ぎ落として薄く削り込むか、などなど検討したが、結局、一番安直な方法に落ち着いた。モールド自体が、一度削って付け直すには細かすぎるためもある。ただ、比較的外周に近いところに細かいディテールが数箇所あるため、削り込む範囲が狭くてカーブが目立つ。

F1017549 ▼左右フレームの後端に穴を開けた。現存の四一式山砲はいくつかあるようだが、どれもあちこち破損・欠損していて元のディテールが判りにくい。この後端部は靖国の現存品を見て開けたのだが、実際には何かでふさがれていた、なんてこともあり得るかも(戦時中の明瞭な写真がなかなかネット上で見当たらない)。

▼左右フレーム後端の外側に付いている、斜めの直方体の突起は、人力で素早く砲の向きを変えるための棒(照準棍っていったっけ?)を差し込むためのもので(たぶん)、実際にはレール形断面になっているため、上下に溝を彫ったが、あまり綺麗には仕上がっていない。なお、実際には真横から見たときに長方形ではなく、差し込みやすいよう、後方が若干(上下幅が狭く)削られている。

▼砲口が丸く窪んでいるだけだったので、もっと深く開口した。

▼なお、靖国の現存砲を見ると、砲各部に、部品の紛失防止用の細かい鎖が付いている。前述のフレーム後端の棒接続突起も、実は中央に固定ピンが差し込まれていて、さらにその固定ピンが小さな鎖で繋がれている。そのあたりを今後ちょっと追加工作するかもしれない。

●砲の模型の面白みの一つは、(実際可動に作らなくても)さまざまな作動部が表に見えているために、どういう目的でどういう部分がどう動くかが推察できるところだと(個人的には)思う。

その点、この四一式山砲は、戦間期の砲なので古風なところと、できるだけ軽量かつ分解運搬が容易なように思い切って簡略化しているところが同居していたりして、ますます興味深い。

F1017550 ▼砲の仰俯機構が、第二次大戦以降の火砲のスタンダードである仰俯軸と同心の歯車ではなく、ネジ式の軸で上下させる仕組みなのは、第一次大戦型の火砲にまま見られる方式のようで、並行して作っている76.2mmプチロフM1902野砲も同じ方式を採っている。

この写真でも、揺架の下にわずかに上下動用の軸が見える。その作動系は左に引き出してあって、左側の上向きのハンドルが仰俯用。

一方で大胆なのは、前代の三一式速射砲譲りなのかと思うが、仰俯軸がそのまま車軸なこと(軸は固定なので別段相互に何の影響もないと思うが)。

▼砲の左右動は、古風な箱型砲架だと、砲架に対して車軸をずらす方式(76.2mmプチロフM1902野砲とか、150mmsIG33重歩兵砲)だったりするが、四一式山砲は個人的には初めて見る方式。砲の揺架は、判りにくいが小さな別体の架台に乗っていて、前端に固定軸があり、後端にやはりネジ式の作動部があり、わずかに左右にスライドするようになっている。

その操作ハンドルが上と下の写真で真ん中にわずかに見えている横向きのものだが、揺架と砲架の左フレームに挟まれて、砲に仰角がかかっていたらものすごく操作しづらそうだ。

▼砲はフレーム左右に砲手と装填手(説明書のフィギュアのところを見ると、どうやら当時の日本陸軍ではそんな呼び方はしなかったらしく、それぞれ「4番砲手」「3番砲手」となっている)の簡易座席があるが、これは折り畳み式。説明書では射撃姿勢での組み立てしか書かれていないが、パーツは折り畳み状態の椅子も入っている(A11→A12、B8→B9)。

F1017552 ▼分解せずに短距離を移動する場合、上記のように椅子を内側に畳むだけでなく、揺架にトラベリングロックを掛ける。

右写真で中央下部に見える丸い輪の付いたパーツがそれで、移動時には上に回して揺架後端の丸い突起に掛ける。パーツはA17が開放時(射撃時)、A15がロック時。

▼さらに後端の駐鋤部も、左右フレームに接続するT字部分で回転して、クルリと上側に折り畳めるようになっているらしい。キットは左右フレームと一体なので折り畳むには改造が必要。

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もふもふ

●サボり癖がついてしまい、長らく更新をほったらかしにしてしまった。その間、まったく書かなかったわけではなく、断片的に書いてUPせずに保存していたりもする。その辺も織り込んで、とりあえず近況。

●11月上旬、神保町通いの季節労働が、なんとか終了。

例年であれば7月頃が本格スタートで、夏が山場なのだが、今年は発注元の都合もあり、ずるずると本格開始が9月までずれ込み、しかも終わりは動かないという、最初からデスマ決定の状況での仕事になってしまった。

更新が滞ったのも、11月上旬にかけては身辺シッチャカメッチャカだったため、その後は魂が抜けた状態になってしまったため。

なんだかもう、これから年末まで何もせずに呆けていたい気分だが、それでは日干しになってしまう。いや、現在既に日干しになりかけ。やればやるほどビンボーになる仕事って、いったい何なんだ……。

●仕事中はとにかく体を動かすことが少ないので、相変わらず暇を見ては散歩に出掛けて生き物の写真を撮る。

最近のメインターゲットは、名越の峠の平場にまとまって咲いたアザミに来るトラマルハナバチ。

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しばらく前から「マルハナバチ国勢調査」にも参加しているので、マルハナバチ類には注意しているつもりなのだが、実際には、トラマルハナバチを夏の初めに見たきり長らくご無沙汰で、夏の初めにしか活動しないハチなのかと思いかねないところだった。

実際には初夏から秋まで長く活動しているハチだそうで……となると、夏の間、こいつらはいったいどこに蜜/花粉集めに行っていたのだろう?

いずれにせよ、写真のトラマルハナバチはじめ、マルハナバチは丸っこくむくむくしたハチで、ミツバチより一回り二回り大きい。気性はおとなしく、「マルハナバチ国勢調査」には、掴んだりしなければ刺されることはなく、特にエサ集めに夢中な時は触っても逃げない、とある。

そんなわけで、せっかくなのでエサ集め中に背中を触らせてもらう。見た目通りもふもふ。しばらく撫でていたい感じだが、なにぶん、忙しく飛び回っているので、すぐ次の花に行ってしまう。

とにかく、アザミはかなりお気に入りのようで、今月初めには周りじゅうでわんわん羽音がするほど、おそらく10匹以上来ていたのではと思う。ただしその後、アザミの花も盛りを過ぎ、気温も下がってきたので、今ではだいぶ活動が低調。21日に行ったら1匹もおらず、もう会えないかと思った頃にようやく2匹飛んできた。

●余談。

マルハナバチを英語で言えばバンブルビー(bumblebee)。バンブルビーといえば、マニアックなビートルズ者にとって特別な響きで、というのも、「L.S.Bumblebee」という「ビートルズの未発表曲」が長く海賊版によく取り上げられていたからである。

しかし、これは以前取り上げた「Have you heard the word」同様、ビートルズとは関係のない歌で、ピーター・クック、ダトリー・ムーアが吹き込んだコメディ曲。

曲もサイケ調、声もジョン・レノンに似ている「Have you heard the word」に対して、「L.S.Bumblebee」はまるっきりビートルズには聞こえないように思うのだが如何。

それにしても、今ならたちまち出自が特定されてネット上で拡散、数日で「ビートルズじゃない」と皆にバレてしまうところ、何年も「未発表曲?」で通用してしまうところが70年代。

ところで、アタマの「L.S.」って何? 今は無き模型メーカー?

●余談2(言ってみればブログ全部が余談だけれど)。

マルハナバチをドイツ語で言えばフンメル(hummel)。戦車者にとってフンメルといえば超有名車輌で、WW2ドイツの、III号戦車とIV号戦車のパーツを流用したハイブリッド車台に150mm榴弾砲を載せた自走砲。

考えてみれば戦車モデラーをやって長いが、今まで一度もフンメルを組んだことも、組んでみようと思ったこともない。嫌いではないのだけれど、そもそも大戦初期の車輌を除き、ドイツ戦車は他国に供与したものが趣味の中心なので、どうやらドイツ軍でしか使っていないらしいフンメルはなかなかひっかからない。

F1017278●トラマルさんが訪れるアザミが咲く藪の隅っこで見つけた、もうひとつのもふもふ。

ヨモギの葉裏に並んでいる虫こぶで、帰宅後調べてみると、「ヨモギハシロケタマフシ」というものであるらしい。毎度、虫こぶっていうのはマンマな名前だなあ。

ヨモギシロケフシタマバエなる寄生バエの産卵によって生成されるものである由。「ヨモギハシロケタマバエ」にはならないところがミソ(なのか?)。

F1017158●右写真、鎌倉・小町通りにて。……みくる? みくるんるん?

●21日、午後遅く散歩に出て、名越切通を越え、大町に降りる。

空を見上げると、まるっきり雲ひとつない快晴で……と思ったら北東の空にちんまりした千切れ雲がひとつあったけれど、とにかくそんな具合だったので、はたと「今日は夕焼けの富士が綺麗に見えるかもしれない」と思い至る。

ハイランドの隅の公園とか、あちこちの尾根筋の展望台とか、逗子マリーナとか、逗子・鎌倉近辺は富士山が見える場所は多いのだけれど、とはいっても、もやっていたり、雲がかかっていたりで、綺麗に見える日はそれほど多くない。

大町から近く、富士山が見えそうな見晴らしのいい場所となると、祇園山ハイキングコースの南端の展望台が、大町の八雲神社裏から登ってすぐ。

しかしよく考えると、夕暮れの富士山を眺めたら帰りは暗くなっているはずで、真っ暗ななか、細い山道を降りてくるのは危なすぎる。そもそも祇園山ハイキングコースの降り口は3つあるが、八雲神社以外の2つは、北端は鎌倉陥落の際に北条一族数百人が自害したと伝えられる「北条高時腹切りやぐら」、まん中も室町時代、佐竹・上杉の戦いで佐竹常元主従13名が自刃したという「佐竹やぐら」のある妙本寺の墓地に降りる。心霊スポット好きにはうってつけのハイキングコースといえる。

F1017336結局、山の上はやめて、海岸に出ることに。材木座海岸から小坪の逗子マリーナまで、夕焼けに浮かぶ富士を眺めながら歩く。ちなみに材木座海岸からだと、極楽寺~稲村ガ崎あたりの鎌倉の山が手前にかぶってしまうので、あまり見栄えはよくない。

右は確か飯島の公園あたりからのもの。手前左は江ノ島、右が稲村ガ崎。富士の左に盛り上がっているのは箱根で、小さく尖っているのはたぶん箱根の北の端の金時山。

F1017217●ところで先に話に出てきた妙本寺の墓地、佐竹やぐらのちょっと横には、こんな墓碑が立ったお墓がある。ウルトラ者は参るべし。

●この歳になるまで、「ウナ電」(至急報の電報)の「ウナ」は、何かウナギに関係しているのではと漠然と思っていた。まあ、一般に「速い」というイメージを表すのにウナギを持ってくることはないとは思うけれど。

しかし、まるで意味なく割り振られたカナかというとそうではなく、もともと英語の略号で「至急(urgent)」の最初の2文字、URのモールス信号に対応するカナ文字だそうだ。

世の中、いろいろ未知の知識体系があるもんだなあと思う、が、それが何かの役に立つのかどうかはまた別の話だ。……そもそも至急電報なんて今さら打たなそうだ。

●続・どうでもいい知識。総務省のキャッチフレーズは、

「実はここにも総務省」

だそうだ。本当にどうでもいいぞ!

しかもせっかくキャッチフレーズを策定しておきながら、なんだかサイトの隅っこのほうにこっそり書いてあるところがまたなんとも。

こうこっそり書かれると、このキャッチフレーズの意味は

ほら、あなたの後ろにも総務省 とか
いつもニコニコあなたの隣に這いよる総務省 とか
気をつけよう暗い夜道と総務省 とか

何かソッチ系なのかと思ってしまいそうだ。

F1017406●久々にちっくりちっくり模型いじり中。以前の「大砲2題」の続き。同じ75mm砲だけれど、スケール違いかと思うほど大きさが違う。

半年前から大して進んでいないように見えるが実際に進んでいない。わはははは。

UMのプチロフ野砲M1902(奥)はずいぶん大らかな出来で、細部もだるい感じなので、少ない資料を手掛かりに少しずつディテールアップしているが、さすがに手前の四一式山砲ほどの解像度にはどうしても至らない。

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大砲2題

●久しぶりの更新なので、これまた久しぶりに、多少なりともモデラーらしい話を、というわけで、最近いじったり買ったりした大砲キット2種に関して。

あ。アカデミーのプラハのヘッツァーの話もしようと思っていたんだった。まあ、それに関してはまた追い追い。ヲイヲイ。

●発売されたのは少々前になるが、一つ目は、ウクライナのUM(UM Military Technics)製、76.2mm M1902野砲。実物は帝政ロシア時代、サンクト・ペテルブルクのプチロフ工廠で開発されたもので、日露戦争でも使われたほか、数次の改良を経て、第二次大戦でも使用されている。

また、第一次大戦、ロシア革命戦争などを通じて大量に周辺国に流出しており、戦間期から第二次大戦にかけ、フィンランド、ポーランド、ルーマニアなどで使用されたほか、ドイツ軍でも鹵獲使用されている。

UMはこれを4バージョン出していて、一応キット名称に忠実に書くと、

"Russian Trekhdyujmovka" Model 1902 (#623)
 防盾無しの最初期型。防盾の代わりに、輸送時用に砲兵が座る椅子が砲身左右にある。

3" Field Gun Model 1902 (#624)
 1906年以降の、防盾付き仕様。

76.2mm Gun Model 1902/1930 (#625)
 戦間期の改修型で、砲身を30口径から40口径に延長。

3" Field (ex Russian) Gun Model 1902(late) (#627)
 周辺国仕様(ポーランド仕様、フィンランド仕様、ドイツ仕様)

F1033383当然私が買ったのは4番目。もっとも、中身のプラパーツ(1枚)は共通で、エッチングパーツとデカールでそれぞれちょっとした差異を出している。エッチングパーツは防盾その他(1作目は椅子)。ちなみに4番目だけ製品番号が1個飛んでいるのはなぜだか不明。もう一種類、何か出す気だったのかなあ……。

もっとも、本国ソ連での戦間期の改良型M02/30は、本来砲架がまったくリニューアルされているのだが、キットの砲架は共通。新砲架に30口径の旧砲身を積んだタイプはあるようなのだが、キットのようにその逆の仕様があったかどうかは不明。

F1033376プラパーツはご覧のようになかなか大らかな出来で、一時代前のタミヤの37mm対戦車砲や75mm対戦車砲などに比べても少々落ちる。だが、砲自体が、例えば第二次大戦中の対空機関砲などに比べると、それほど精緻な機構が詰まった感じではないので比較的救われている。少なくとも、(ほぼ同時代・同クラスの砲のキットの)TOM/RPMのCanon de 75 modèle 1897に比べればだいぶマシ。砲本体はともかく、華奢さが問われる防盾がエッチングなのもアドバンテージと言えそう。

F1033380右のエッチングは周辺国仕様キット(#627)のものだが、防盾を中心とするメインのエッチングは標準仕様(#624)と同一で、ちょっと見えにくいが、その裏側に#627専用の、防盾裏側に付く収納箱の小エッチングが入っている。

以下、気になる点をいくつか。

実物の砲では、排莢時に熱い薬莢が脚に当たってあちこち跳ねないようにするためなのか、単脚の中央に溝が掘ってある(M02/30の新型砲架は元から大穴が開いているので関係ない)。

F1034034これが、キットでは浅く平らに窪んでいるだけなのだが、実際には半円断面にもっと深く窪んでいる。平面形も、キットでは単純な細長い楕円形だが、実際には後ろに行くほど深く広くなっているはず。説明書に削り込むよう指示があるので、本来、窪みがもっと深いことはメーカーも把握しているにもかかわらず、パーツがそういう形状になっていないのはどうにも謎。あるいは金型を作ってしまってから気付いたのだろうか。

また、砲手・装填手用の椅子は、組立説明図では砲架の左右に対称に付けるようになっているが、実際は、塗装図にあるように、左右で取り付け位置が前後にずれている。ただし、塗装図に描かれた位置は、左右ともリベット1つもしくは2つぶん後ろにずれている可能性がある。なお、支持架に対するサドルの取り付け方も左右で異なり、サドルの下の縦の主軸の位置が、右シートではサドルの前側、左シートでは後ろ側にある。

また、砲架の左側面には標桿とクリーニングロッドが付くが(右にも?)、キットでは省略されている。

F1034039●もうひとつ。ファインモールドの四一式山砲(山砲兵仕様)について。

こちらはまだパーツを洗っただけで、まるで組んでいないが、UMのM02野砲をいじった目でこういう確かなメーカーの新キットを見ると、もうそれだけでじんわり感動してしまう。

もっとも、元が小さく華奢な砲なので当然なのだが、箱の大きさと比べ中はがらんとしたもの。ランナーは4枚だがうち2枚はフィギュアと装備品。砲は、同時発売の連隊砲仕様と共通の砲の基本パーツの小さめのランナーと、さらに小さな山砲兵仕様用ランナー(防盾ほか)。

なお、防盾は薄めに仕上がっているとはいえ、やはりプラパーツでは厚い。そのうちエッチングパーツでも出るかなあ……。

ところで私にしては珍しいネタを仕入れているのは、実はこの山砲、中国軍でも多用されているため。

「抗戰時期陸軍武器装備 野戰砲兵篇」によれば、中国ではこの砲は非常に好まれ、そのため国内数箇所の工場でコピー生産も行われた。

漢陽兵工廠(現・湖北省武漢市):民国10年(1921年)に開発もしくは生産開始され、「漢十年式75山砲」と呼ばれる。

太原兵工廠(現・山西省太原市):民国13年(1924年)に開発もしくは生産開始され、「晉造一三式」と呼ばれる。

瀋陽兵工廠(現・遼寧省瀋陽市):民国14年(1925年)に開発もしくは生産開始され、「遼一四式」と呼ばれる。

これは生産拠点を複数設けて大量生産を行ったというよりも、当時の状況で言えば、太原兵工廠は閻錫山、瀋陽兵工廠は奉天軍閥の影響下にあり、要するに、中央と有力軍閥がそれぞれ勝手に生産したということらしい。というわけで、(呼び分けるのも面倒臭いので)四一式山砲は中央軍で使われただけでなく、晋綏軍(山西省、綏遠省を地盤とした閻錫山率いる軍)、東北軍では野戦砲兵の主力として使われた。

実戦では、1933年の熱河戦はじめ、日中本格開戦後の太原会戦(日本側呼称は太原作戦)などでも大量に使用された。この間、中央軍では、装備の統一も意図して、ボフォース75mmM1930山砲を標準装備と定めて導入を進めていたが、まだ一部の部隊では四一式山砲を使用していたらしい。

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