資料・考証

沈頭鋲

●8月15日(すでに日付的には昨日だが)だからといって戦争を振り返らないとイカン、ということではないのだが、たまたま関心に引っかかる話があったので。

●大学時代の後輩であるS君がfacebookに書き込んでいた話題。

この時期お決まりの太平洋戦争振り返り企画の一つで、CBC(中部日本放送)のサイトに『特攻隊を援護し九死に一生を得たパイロット “戦友”と68年ぶりの再会 技術を結集した「零戦」』という記事があり(大元は2013年8月放送の特集番組)、そのなかに、(S君曰く)「昭和時代からよくあるゼロ戦についての間違った俗説、過大評価を相変わらずそのまま載せて」しまった部分がある、とのこと。ちなみにその記事自体はこれ(Yahoo!ニュースによる転載。なぜかCBC本体のサイトでは検索に引っかからなかった)。

なかでもS君が疑問を呈しているのが、

『ボディを接合するリベット「鋲(びょう)」は、頭の部分が平らな「枕頭鋲(ちんとうびょう)」を世界で初めて採用。』

という部分。

私自身、かつて、零戦は初めて落下式増槽を装備したと書いてしまい、その原稿が表に出てから誤りに気付いて(実際には前代の九六艦戦ですでに実用化されている)恥ずかしい思いをしたので大きなことは言えないのだが、この記事はそれ以外にも「零戦はいかにスゴイ機体だったか」的トーンで書かれていて、「なんだかなあ」な気持ちにさせられる。

もちろん、記事中で元搭乗員が零戦の素晴らしさを語っているが、これはあくまで個人の主観であるし、そもそも搭乗員が自分が乗る機体に誇りを持つのは何ら非難すべきことではないので、分けて考えるべき。しかし、地の文が礼賛調なのは、どうにも読んでいて頭の端っこがカユイ気分になる(ということでS君と合意する)。

まあ、どうも書き手は軍事とか飛行機とかに疎そうではあるが、すでに戦争後半で性能的にも見劣りが明らかであったはずの52型に関する米軍側調査書から、「ゼロ戦52型は、中高度・中速度では、どのアメリカの戦闘機より運動性が優れている」と、褒めている箇所だけ抜き出してきている恣意性もちょっとひどい。

●さて、話をちょっと戻して、沈頭鋲について。

S君もfacebookの書き込みですでに指摘しているが、そもそも零戦に先駆けて九六陸攻や九六艦戦で沈頭鋲は使用されており、「世界初」どころか「日本初」でもないわけで、この時点ですでに冒頭引用の一文は誤り、ということになる。

九六陸攻や九六艦戦もまた世界初ではなく、wikipediaには、

世界初のHe70に初飛行で遅れること3年、九六式陸上攻撃機と並び日本で初めて沈頭鋲を全面採用した。(九六式艦上戦闘機

と書かれている(九六陸攻の記事のほうには、沈頭鋲に関しては単に「採用は同じ三菱製の九六式艦上戦闘機と同時」と書かれている)。

これによればハインケルHe70が最初ということになり、実際にwikipedia日本語版のHe70の記事には、

機体表面を滑らかに仕上げる皿リベットの世界初採用

との文言がある。

もっともこれについては、S君もfacebookの書き込みで「本当にドイツのハインケルHe70が世界初かという点にちょっと疑問 」と言及していて、私も「ホンマかいな」という気がしたので、さらに追加で調べてみた。

●まず、He70について、英語版のwikipediaの「Heinkel He 70 Blitz」では、

To meet the demanding speed requirements, care was taken to minimize drag, with flush rivets giving a smooth surface, and fully retractable main landing gear. (厳しい速度要件を満たすため、抗力の減少には細心の注意が払われ、表面を滑らかにするための沈頭鋲や完全引込式の主脚が採用された)

とはあるものの、沈頭鋲採用が世界初であるという記述はない(ドイツ語版でも言及なし)。この時点で、ちょっと日本語版の記述はアヤシイ感じになってくる。

一方、英語版wikipediaのリベットの項のなかの「沈頭鋲」(Flush rivet)の節では、沈頭鋲は1930年代にダグラス社の設計チームが開発したもので、ハワード・ヒューズのH-1レーサーに採用された、と書かれている。しかしヒューズH-1の初飛行は1935年で、1932年末初飛行のHe70より遅く、これまた内容に疑問がある。

(そもそもwikipediaレベルで何か調べ物をした気になっている時点でイカンだろう、と言われればその通りなのだが、今のところは「とりあえず見当を付けてみる」レベルのことしか考えていないので見逃していただきたい)

というわけで、「flush rivet」やら「flush rivet  airclaft」やらで検索を重ねてみて、こんな記事にたどり着いた。

ONE MONROEというサイトの「Who Invented The Rivet? A “Riveting” Bit Of Aviation History.」という記事だが、ここでは、「(外板の)突き合わせ結合(butt joint)と沈頭鋲はハワード・ヒューズが初めて採用したみたいなことを言っているけど、そうじゃないヨ」と前置きした後に、以下のように述べている。

Charles Ward Hall of the Hall-Aluminum Aircraft Corporation submitted a patent proposal for a flush rivet in 1926. Hall’s Buffalo, New York company produced the first aircraft with a riveted fuselage in 1929 with his XFH Naval Fighter Prototype. The first aircraft with butt joints and flush rivets to fly was the Hall PH flying boat of 1929.(ホール・アルミニウム・エアクラフト社のチャールズ・ホールは、1926年に沈頭鋲の特許を出願した。ホールのニューヨーク州バッファローの会社は、1929年にリベット留め胴体を持つ最初の航空機、海軍のXFH試作戦闘機を製作。突き合わせと枕頭鋲を備えた最初の航空機は、1929年のホールPH飛行艇だった。)

この記事自体の裏付けは取れていないが(ホールXFHホールPHも、マイナー機体過ぎてあまり情報なし。とりあえず英語版wikipediaに短い記事はあるが、沈頭鋲に関する言及はなし)、とりあえず現在たどれる限りでは、このあたりが「航空機での沈頭鋲採用」のハシリということになりそうだ。

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KV maniacsメモ(緩衝ゴム内蔵転輪)その2 附:標準型全鋼製転輪

●KV重戦車に使用された緩衝ゴム内蔵転輪の話の続き。緩衝ゴム内蔵転輪のバリエーションを、おおよそ使用時期の早い順に見てみる。

特記のない限りは、基本的なディテールは前回の「構造の概観」の項に記したものに準拠しているものとする。

なお、前回も述べたように、KVの緩衝ゴム内蔵転輪はリム部およびゴム抑え部が別体であり、形状の変遷も「リム部のバリエーション」×「ゴム抑え部のバリエーション」ということになるのだが、当然ながら模型的には全体で一括りなので、以下の変遷も「全体形ベース」で話を進めることにする。「パターンいくつ」という分類は、あくまでここだけの便宜上のもの。

また、各タイプ(車体および転輪)の生産時期については、基本、サイトТяжелые танки КВ-1の記述を参考にしている(google翻訳さん任せなので、意味を取り違えているところもあるかもしれない)。

▼(前史)SMK用転輪

KVの直接の祖先であるSMK多砲塔重戦車は、基本、ほぼそのままKV試作車に受け継がれた足回りを持っている。足回り全般に関する大きな違いは、

  • 片側の転輪数が8つ(KVは6つ)。
  • 履帯はKV標準型とよく似ているが、やや幅が狭い(セータ☆氏によれば660mm幅。KVは700mm幅)。この履帯はKVの試作車・初期生産型の一部でも引き続き使用。
  • 履帯ピッチは同一だが、起動輪はやや小径で、歯数もKVの16枚に対し15枚で1枚少ない。起動輪中央の皿形カバーも周囲が平らになっているなどやや形状が違う。トランぺッターのSMKのキットは、KVの起動輪パーツ(の含まれる枝)がそのまま入っていて、歯数が少ないSMK用はパーツ化されていないような……(少なくともsuper-hobbyの商品紹介ページではそのように見える)。誰かキットをお持ちの方、教えてください。(追記:丞さん情報。足回り丸ごと、KVキットからの流用だそうです。しかも初期型転輪・上部転輪もKV-2初期型のキットでパーツ化されているのに、なぜか標準型のパーツが入っているそうで……。どうしちゃったのトラペ)
  • 誘導輪は、本体はKVと同じもの? ただしハブキャップ形状は違う。

Charsergeimironovitchkirov

転輪に関しては、おおよそ以下のような特徴。

ゴム抑え板は8本リブ・8穴。

  • ハブキャップは、中央のボルト頭(前回「構造の概観」の①)がないように見える(TAKOMのキットのパーツでも表現されていない)。
  • ハブキャップ周囲のリング(前回「構造の概観」の④)に関しては、これまたTAKOMのキットのパーツでは別体表現/刻み目表現がないが、こちらは実車写真(上着色写真の元になった両側面からの写真)では不鮮明ながら周囲の刻み目があるように見える。
  • リム部に関しては、1種類ではなく、「軽め穴がない」「軽め穴が大きい」「軽め穴が小さい」の3種が混ざっている。上写真の元になった、試作完成時?の記録写真によれば、
    左側面: (前方)←無・小・大・小・大・小・大・小
    右側面: 大・小・大・大・大・大・大・無→(前方)
    となっているようだ(写真が不鮮明なので順番はやや不確か)。両側とも第一転輪が穴無しタイプなのは、負荷が掛かる場所には丈夫なものをという判断があったのかも。
  • 冬戦争時、擱座した状態の写真を見ると、左側面第7転輪のみ、ゴム抑え板がリブ無しタイプに替わっているようにも見える。とはいえ、単純に雪が付いていないためにそのように見えている可能性もある。なお、冬戦争時も転輪の穴の「無大小」の配列が上の通りだったかは不明。ただし、少なくとも左側面に関しては、第一転輪は穴無しのままだったように見える。

脱線話。この戦車の名称の元であり、生産工場(キーロフ工場)の名称の元にもなっているのが、1934年に暗殺された共産党幹部セルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフで、従来は、その存在を煙たく思っていたスターリンが密かに手を回して暗殺させた――そのうえで、その存在を英雄的に祭り上げ、その暗殺に関与したとの疑惑をでっちあげて政敵大量粛清のネタとして利用した、というのがほぼ定説となっていた。

しかし最近の研究によれば、その死を政敵粛清の理由として大いに利用したのは確かでも、出発点のキーロフ暗殺そのものにはスターリンは関わっておらず、純粋に共産党幹部を狙ったテロだった、という説が浮上しているらしい。詳しくはこちら(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター、「スラブ研究センターニュース」104号 (2006/2)、「キーロフ殺害の鍵は北大図書館の本棚にあり」マシュー・レノー)。

初期型転輪・パターン1

ゴム抑え板の穴が8カ所の初期型転輪。トランぺッターのKV-2初期型でパーツ化されているタイプ。主に試作車に使用。リム部の軽め穴は、上記SMK用の「大きい穴」「小さい穴」の中間くらいに見える。

  • ゴム抑え板は穴が8カ所、放射状のリブが8本。ゴム抑え板の穴は、後の標準型(6穴タイプ)に比べて、やや小さめのようにも見える。
  • ハブキャップ中央のボルトは、KV-1の最初の試作車U-0では、SMK同様に無いようにも見える。その他の使用例では、はっきりと中央のボルトが確認できるものもある。

(実車使用例)

  1. 試作車U-0(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. KV-2/U-7:新砲塔搭載の試作車RKKA in World War II
  3. 1939年型(砲塔前後が丸い極初期/増加試作型・1940年前半生産):ハブキャップ中央のボルトあり。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

初期型転輪・パターン2

同じくゴム抑え板の穴は8カ所だが、放射状のリブはない。試作車~極初期の生産型に使用。使用例から考えると、リブ付きの後にこのリブ無しタイプが生産されたように思われる。以下写真はwikimedia commonsより、File:Tank Fortepan 93766.jpg(FOTO:FORTEPAN / Mihályi Balázs)。

Tank_fortepan_93766m

  • ゴム抑え板は穴が8カ所、放射状のリブは無し。ゴム抑え板の穴は、上記パターン1同様、後の標準型(6穴タイプ)に比べてやや小さめのようにも見える。
  • フェンダーが「ウィング」タイプの工具箱になっている試作車U-7号車は、このリブ無しタイプを使用しているが、上記U-0号車同様、ハブキャップ中央のボルト頭が無いように見える。なお、その他の使用例では通常、ボルト頭は確認できる。
  • KV-2生産第一ロット(7角砲塔搭載型)では、サイト「Тяжелые танки КВ-1」の当該タイプのページで確認できる限りでは、すべてこの「リブ無しタイプ」の初期型が使われていた。
  • この時期までは、上部転輪はホイールのリム立ち上がり部分に小リブがあるものが使われている(らしい)。

(実車使用例)

  1. 上写真:上の写真には砲塔が写っていないが、一連の別写真から、L-11搭載の1939年型であることが確認できる。
  2. 試作車U-7:ハブキャップ中央のボルトは無いように見える。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1939年型:1940年夏頃生産の仕様。ハブキャップ中央のボルトはある。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  4. KV-2 生産第1ロット(「Тяжелые танки КВ-1」より)

標準型転輪・パターン1

ゴム抑え板がリブ12本、穴6カ所に変わったもので、「Тяжелые танки КВ-1」のL-11搭載型(いわゆる1939年型)のページによれば、1940年9月頃の生産車から用いられるようになったらしい。以後、F-32搭載の1940年型の中途(1941年7月頃?)までの生産車に広く用いられている。写真は前回載せたものの書き込み無し版。wikimedia commons、File:KV-1 1942 Parola.jpgVT1978)より切り出し。

Kvwheel03

  • リム部はおそらく初期型転輪とまったく同一。
  • ゴム抑え板の放射状リブは12本で、丸穴はリブで仕切られた部分の1つおきに開いている。初期型ゴム抑え板に比べ、丸穴はやや大きく浅い(ゴムが表面近くまで出ている)感じがする。
  • 初期――KV-1は1940年型の初期(1941年1~2月頃の生産)まで、KV-2は生産第2ロット(1940年末)までは上部転輪がリブ付き。以降はリブ無しが一般的。ただしリブ無しはなくなったわけではなく、後にチェリャビンスクでの生産分では復活したりしているのでややこしい。

(実車使用例)

  1. 1939年型:1940年秋頃生産の仕様。車体銃がなく(別写真で確認できる)砲塔の手すりがペリスコープより後ろにある。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. 1940年型:1941年前半に生産された、1940年型の初期タイプ。砲塔は溶接線がエッジにある初期型。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1940年型エクラナミ(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  4. KV-2 生産第3ロット(「World War Photos」より)

標準型転輪・パターン2

ゴム抑え板は上記の標準型パターン1と同一だが、リム部に軽め穴がまったくない。それほど生産数は多くないものと思われるが、1941年夏(7月頃?)の生産車、1940年型エクラナミや、同時期に生産された増加装甲無しの1940年型(75mmおよび90mm装甲の溶接砲塔型)に使われている例が散見される。上記の標準型パターン1、下記の標準型パターン3と混ぜ履きになっている例もあり。

実物は現存していない……と思っていたのだが、ソミュールにある元RONA(ロシア自由軍)所属車は、下のパターン3を主に装着しているものの、左側第3転輪(?)の内側は穴無しリムになっているように見える(はっきり写っている写真が手元に無い)。

(実車使用例)

  1. 1940年型エクラナミ(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. 1940年型エクラナミ(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1940年型エクラナミ:穴無し転輪と穴あり転輪を混用している例。 (「Тяжелые танки КВ-1」より)
  4. 1940年型:穴あり転輪と混用している例。別写真で右側面も第4転輪のみ穴ありなのが確認できる。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

標準型転輪・パターン3

リム部の穴と穴の間に強化リブが設けられたタイプ。上記穴無しのパターン2とほぼ同時期か、その直後に登場。1940年型エクラナミや、同時期に生産された増加装甲無しの1940年型から、キーロフ工場がチェリャビンスクに疎開して以降、主砲がZIS-5に換装された1941年型の初期に至るまで標準的に使用されている。

写真はキーロフスクの短バッスルタイプの溶接砲塔搭載の1940年型。wikimedia commons、File:KV-1.JPGOne half 3544、パブリックドメイン)より切り出し。

Kvwheel05

リム部の強化リブは穴と同数の12個。

  • リム部のリブは穴と穴のちょうど中間ではなく、通常、正面から見て、時計回り方向にずれる。直線的に描き表すと、|〇 |〇 |〇 (↑外周) のような感じ。これは裏面も同様で、つまり、リブ位置は表と裏とでは食い違っている。タミヤの新KVのパーツでは、裏面は鏡写し(つまり表裏でリブが同一位置)になっている。ただし、下記のように前記と逆配列(つまりタミヤの裏面と同じ)になっている例もある(その場合裏面はどうなっているのか?)。リブと穴の間隔がちょっと違う(ように見える)例もあるので、下請け工場による若干の差異があった可能性がある。
  • リム部のリブは緩衝ゴム取付位置外周まで届いており、内側に向けて、緩やかにカーブしながら低くなっている。
  • リブの部分を残してリム部外周が変形し、縁部が円ではなく緩やかな12角形のようになってしまっているものもある。もっとも、現存博物館車両では時々見るものの、戦時中に変形するほど使い込まれる例はそれほど多くなかったのでは、という気がする(当時の写真でも若干は確認できるが)。
  • 組み合わせる上部転輪はリブ無しゴムリム付きが主だが、チェリャビンスクで生産が開始されたZIS-5搭載型(1941年型)では全鋼製上部転輪が使われ始める。

(実車使用例)

  1. 1940年型エクラナミ:穴無し(パターン2)と混用、というだけでなく、よく見ると第5、第6転輪のリム部の穴とリブの位置関係が通常と逆になっているという極レアもの。このタイプの存在についてはセータ☆さんに教えていただいた。(「world war photos」より)
  2. 1940年型エクラナミ:同じく穴とリブの位置関係の変則例。破損した第一転輪内側リムのリブが、通常よりやや「穴と穴の真ん中」に寄っているように見える。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1940年型/371工場砲塔搭載型:この仕様の場合、転輪は基本このタイプのみ。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

▼標準型転輪・パターン4

パターン3同様にリブ付きリムだが、リブの数が少ない上に形状が違うタイプ。セータ☆氏が以前に記事にまとめていて、それで存在を知った。セータ☆氏は、このタイプの転輪を「ハーフリブ・タイプ」と呼んでいる。同記事を読んでもらえれば「今のところ判っていることは全部判る!」くらいなのだが、以下に簡単にポイントをまとめる。使用例は少なく、主に、チェリャビンスクで生産が本格的に始まった頃(1941年8~9月頃?)に生産された、主砲がF-32・短バッスルの溶接砲塔搭載型に使われている。生産時期はそれよりやや下るが、タミヤが新KV-1で箱絵/デカールに選択した116戦車旅団所属「スターリンの為に」も、少なくとも左側第1転輪にこのタイプを使用している(セータ☆氏の記事に写真あり)。

  • リブの数が通常(パターン3)の半分で、穴の間の一つ置きにしかない。
  • リブの位置が片方に寄っておらず、穴と穴のちょうど中間にある。
  • タイプ3ではリブがゴム抑え板周囲まで届いているのに対し、こちらは短く中ほどまでしかないうえ、傾きも直線的。いわば三角定規を立てたような感じ。何しろ限られた戦時中の写真でしか見たことがないので、裏表のリブの位置関係は不明。パターン3のリブ位置が表裏で食い違っていることを考えると、このタイプでも互い違いの配列になっている可能性もあるかも。
  • 緩衝ゴム内蔵転輪の他のすべてのタイプと違い、リム外周部縁の「巻き込み」がない(ように見える)。そのため、接地面(履帯に当たる面)はより平らで、縁は薄く見える。下図は、この形式の転輪とパターン3の転輪の、リム外周とリブの形状の比較。あくまで「こんな感じ」の比較ポンチ絵で、寸法比率等はいい加減。
  • チェリャビンスクでのKVの生産では、当初はリブ付きの上部転輪が復活使用されていて、この転輪との組み合わせでもそれが主。

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(実車使用例)

  1. 1940年型チェリャビンスク工場製(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. 1940年型チェリャビンスク工場製:写っているなかでは第一転輪だけがこのタイプで、第2~4転輪はパターン1、第5転輪はパターン3と3種混用。見比べて、このタイプは縁の回り込みがないらしいことも見て取れる。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

オマケ。

標準型・全鋼製転輪

KVの生産がチェリャビンスクに移って以降、当初はそのまま緩衝ゴム内蔵転輪が使用されていたが、1941年型(ZIS-5搭載型)が登場してしばらく後、さらに製造の簡略化が進んだ全鋼製転輪が登場する。転輪それ自体の緩衝機能はなくなってしまうわけだが、それほど高速走行しないはずの重戦車なら許容範囲、ということだろうか。以後、IS重戦車まで(形状は異なるものの)全鋼製転輪が使用される。

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写真は前々回も使用したもの。wikimedia commons、File:KV-1 front-right 2017 Bovington.jpg(Morio)より切り出し加工。

  • それまでの緩衝ゴム内蔵転輪では、複列のそれぞれの片側も表裏対称だったが、新しい全鋼製転輪は深く窪んだ「片面モールド」状態のものを背中合わせに結合した形状。
  • 表面に放射状に並ぶ強化リブは、ハブ側からリム部まで(徐々に背が低くなって)到達するメインのものは6本。逆にリム側から内側に向け中途まで伸びるサブのリブは、メインのリブの間に2本ずつで12本。
  • 車軸を囲むハブ部分は、単純な円柱状のものと、ごく緩やかな6角柱状のものと2種類がある(セータ☆さんに言われて初めて気付いた……)。6角柱状のものの場合、頂点は前記の1対のサブリブの間に来る。必然的に、メインリブは各辺の真ん中から出ることになる。博物館車両のクローズアップ写真ではなんとか確認できるが、戦時中の写真でははっきり鑑別できるものは少なく、どちらが多数派なのかは不明。上写真のものは六角柱タイプ。改めて確認して、「ありゃ、これもそうだった!」的な。なお、Tankograd - Soviet Special No.2003 "KV-1 Soviet Heavy Tank of WWII - Late Version" の図面では、この部分を8角柱と解釈している。うーん。さすがにそれはないんじゃないかなあ……。
  • 転輪本体の断面形状(片側)は、金だらい状に「底」が平らではなく、中心に向かって浅く窪んだすり鉢状になっている。旧タミヤやトランぺッターの後期型KVのキットでは平らになっている。前々回記事で書いた疑問を、セータ☆さんがスパっと解決してくれた。ありがとうございます。 (追記)その後、現存の転輪を横(軸方向に直交する向き)から写した写真を見つけることができた。LEGION-AFVのwalkaroundアーカイブの、ロプシャの展示車両の写真のなかにあった(KV-1_Ropsha_185.JPG、およびKV-1_Ropsha_595.JPG)。これをみると、窪んでいると言っても極々浅く皿状であることと、転輪の内外は別々に作って中央で結合しているらしいことがわかる(後者に関しては、単純に“パーティングライン”である可能性もある)。
  • 緩衝ゴム内蔵転輪と違い、ハブキャップ周りの別体の刻み目付きリングはなく、ハブキャップは転輪本体中心の(前述の)円筒にやや埋まった格好。
  • 内外の転輪の結合部には、ごく小さな補強リブがある。トランぺッターのパーツでは10本。セータ☆さんに教えて貰ったDT35のアフターパーツでは12本?(ロプシャの上記2枚の写真からはちょっと判断しづらい感じ?)

このタイプの転輪は1942年型まで使用され、KV-1s以降は、さらに数種の全鋼製転輪が使われることになる(1s系の製作にはまだまったく手を付けていないので、何か書けるほど知識の整理もついていない)。

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KV maniacsメモ(緩衝ゴム内蔵転輪)その1

●調べものついでの備忘録。

基本、「今、私がわかっていること」を羅列しているだけなので、あっと驚く新事実の類はない(はず)。むしろ「他にもこんなタイプが確認できる」とか、「触れておいたほうがいいことに触れていない」とか、事実誤認とか、その手の問題があったらビシビシ指摘して頂けると有り難いです。

KV重戦車は、その直接の祖先であるSMK多砲塔戦車時代から、チェリャビンスクに工場が移転して直後のZIS-5搭載型(いわゆる1941年型)の初期(サイト「Тяжелые танки КВ-1」の解説によれば、1941年11月初旬)まで、一貫して緩衝ゴムを内蔵した鋼製リム転輪を使用している。

一般に(第二次大戦直前あたりからの)戦車の転輪は外周にゴムリムを付けて緩衝用とするが、KVのこの転輪は外周(リム)部は鋼製とし、これとハブ部との間に緩衝ゴムを挟み込んでいる。この形式の場合、履帯と転輪の接触音はやかましくなりそうだが、ゴムの損耗は抑えることができる。

緩衝ゴム内蔵転輪はT-34の一部やT-50軽戦車にも使われたほか、敵国ドイツもこれを模倣し、ティーガーIIほかに同様の構造の転輪を導入している。

構造の概観

複列式で外側・内側は同形。ついでにそれぞれ表裏も同形。鋼製のリムを、緩衝ゴムとゴム抑え板で両側からサンドイッチする形になっている。つまり、リム部は1組2枚、ゴム抑え板は片側表裏2枚×2で4枚。リム部とゴム抑え板の間にあるドーナツ状の緩衝ゴムも表裏2枚×2で計4枚。ハブキャップ、ハブキャップ周りのリング(ゴム抑え板をハブキャップに固定するもの?)各1、などという構成になっている。

Tankograd - Soviet Special No.2003 "KV-1 Soviet Heavy Tank of WWII - Late Version" に緩衝ゴム内蔵転輪の簡単な断面図や、ゴム抑え板・リム部それぞれ単体のイラストも出ているので、可能な方はチェックするよろし(p.54)。

生産時期によって形状にはいくつかのバリエーションがあるが、標準型を例に基本ディテールを見てみることにする。写真はフィンランド、パロラ戦車博物館所蔵のKV-1、1942年型。wikimedia commons、File:KV-1 1942 Parola.jpgVT1978)より切り出し加工した。この車両は戦時中にフィンランド軍が鹵獲使用した2両のKV-1のうちのひとつで、損耗部品を撃破車輛から調達しているため、1942年型であるにもかかわらず初期型の緩衝ゴム内蔵転輪を混ぜ履きしている。

Kvwheel04

:ハブキャップの中央には尖頭ボルト(あるいは丸頭ボルト)が1つ。単純にハブキャップ表面にあるのではなく、周囲は軽く一段、丸く窪んでいる。SMK用~極初期にはないようなので、グリースアップ用に追加されたもの?

:ハブキャップ端2か所に小さい平頭ボルト。ハブキャップの固定用? Ⅾ字型の座金?を介していて、土台のハブキャップもU字型に窪み、取付面を平らにしている。ボルト頭自体は①の中央のボルトよりやや小さい。D字型の座金は③で述べる段差と一体化しているように見えるケース(パロラの1940年型エクラナミ)も、まったく独立しているケース(キーロフスクの1940年型後期型)もある。もしかしたら時期的な差もあるかも。上写真のものは……うーん、よくわかんないやー。

:ハブキャップ周囲にわずかな段差。内側の低い段には、miniarmの別売転輪で表現されているように、どうやら一か所に切れ目がある(Cリング状態)。切れ目はおおよそ、②のボルト位置と直交する近辺にあることが多いようだが(90度よりはちょっとずれているのが普通?)、明らかにまるっきりずれているものもある。実は適当? 現存博物館車両でちょっと状態の悪いものだと、この低い段の部分が剥がれて浮き上がっているものが確認できるので、ハブキャップにもともとモールドされているわけではないらしい。

上写真の転輪ではその切れ目がはっきり確認できないが、角度のせいで見えないのか、そもそも切れ目がないのか、ちょっとよくわからない。上写真以外、もっときちんとクローズアップでも、この切れ目がないように見えるものもあって、(1).基本、切れ目は必ずあって、ないように見えるものはたまたそう見えるだけ、(2).実は切れ目があるものと無いもの、バリエーションがある、(3).そもそも切れ目があるように見えるもの自体、破損によるもので、正規の状態ではない――のどれに当たるのか、私自身どうもよくわかっていない。

:ハブキャップ周囲のリング。周囲8カ所に刻み目がある。ハブ部へのゴム抑え板の固定用か何か? ハブキャップ外側がスクリューになっていて、そこにこのリングを取り付けるらしい。リング部が二重に見える内側はハブキャップ外周(たぶん)。タミヤの新KVのパーツでは再現されておらず、単純にリング状に盛り上がっているだけで別体表現も刻み目もない。

:ゴム抑え板。内外、表裏合計4枚同形。タミヤの新KVでは、内側2か所では再現されていない。

:ゴム抑え板には初期型で8カ所、標準型で6カ所の丸穴。穴の中はおそらく緩衝用ゴムが露出している。写真の車両は展示場所にずっと置きっぱなしなので丸穴の中も車体色になっているが、余所の展示車両では伸縮のためかゴム部分は塗装が剥げてゴム色になっているものが散見される。標準型は12本の放射状リブ。初期型では8本のリブがあったりなかったり。

:リム部とゴム抑え板の間には僅かにサンドイッチされた緩衝用ゴムが覗いている。リム部はゴム外周に当たる部分でゴムを受けるようにわずかに盛り上がっている。ゴムが(というよりリム部が)ずれないようにするためか。このため、この「サンドイッチの断面」部分では、ゴム抑え板・緩衝ゴム・リムの立ち上がり部分、の三段重ね構造が見える。緩衝ゴムにパーティングラインが入って四段状態に見えることも。

:一部のタイプを除いて、リム部には12個の軽め穴。リム部は緩衝ゴムを介してハブから独立しているため、ゴム抑え板の穴やリブと、リム部の穴の位置関係は一定しない(はず)。またこの写真では内外のリム部の穴がたまたまほぼ同じ位置にあるが、これも適当にずれているのが普通と思われる。トランぺッターのキットでは内外のリム穴位置が揃うように、またタミヤの新キットでは内外のリム位置に加えてゴム抑え板の位置も一定になるようにパーツにダボが作られているが、むしろかえって不自然ではないかと思う。

:一部のタイプを除いて、リム外周の縁部は僅かに内側に向けて巻いた形状になっており、そのため外周部内側は窪んだ状態になる。既存のインジェクションキットのパーツでこの形状を再現しているものはない。リム外周の接地面(履帯に当たる面)中央には、摩耗が進んでいない場合には製造時のパーティングラインが残っている。

転輪の寸法

転輪の寸法に関しては、ポーランド、PELTAのKV本によれば、緩衝ゴム内蔵転輪の直径は590mm(後期の全鋼製転輪は600mm)だそうだ。青木伸也氏のtwitterに書いてあった(まさにその本を私自身も持っているのだが、今パッと出てこない)。えっ、緩衝ゴム内蔵転輪と全鋼製転輪で直径違うの!?

これに関しては実測データも複数あり、まさに上で触れたフィンランド、パロラ戦車博物館所蔵のKV-1、1942年型の転輪にメジャーを当てて測ってきた値が「困ったときのかさぴー頼み」かさぱのす氏のレポートにある。一応主要なところだけ引用すると、「直径:約570mm、厚み:約300mm、内外転輪各々の厚み:約110mm」(ちなみに後期の全鋼製転輪は直径:約590mm、厚み:約300mm )だそうだ。「約」が付くのは事後変形等々で、「ひとつひとつ、また測るところによっても、わずかながらにいちいち寸法が違う!」 ためである由。

もうひとつ実測データとしては、キーロフスクに現存する371工場製強化砲塔搭載の1940年型後期型の転輪にメジャーを当てた写真が「www.dishmodels.ru」に上がっており、そちらではおおよそ直径590mm、リム部の幅は95mmを指している。うーん。

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えのすい

●10日土曜日。息子一家と新江ノ島水族館に行く。

チビ(4歳)的にはイルカのショーだったようだが、個人的には、「えのすい」といえばやはりクラゲ。

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●ダイオウグソクムシの水槽を見に行ったら、相変わらず「生きてるんだか死んでるんだか」状態で底でじっとしていたが、水槽の展示名称が「オオグソクムシの一種」になっていた。

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その理由も掲示されていたが、どうやら、過去飼育していた個体(死体)を台湾の専門家が調べたところ、ダイオウグソクムシとは違う新種が混じっていたとのこと。ただし、その新種(エノスイグソクムシという和名が付いた由)はダイオウグソクムシとよく似ていて外見では区別しづらく、現在飼育・展示中のものを生きたままDNA検査等は難しいため、展示名を「~の一種」にしたのだそうだ。えのすいのサイトにある、より詳し解説はこちら

●ゴマフアザラシ(だったかな?)の水槽で、ギリギリ隅っこの鋭角になった部分に一頭が頭を下にしたままきっちりはまり込んでピクリとも動かない。いわば犬神家の助清状態(全体が水没しているが)。

それを見た息子が「あれは死んでるんじゃないか。(いかに海生とはいえ)息をしないといけない哺乳類が、水中で逆さになってピクリともしないのはおかしい」と心配する。しばらく見ていても全く動かないので、とうとう息子嫁が近くの職員に聞きにいったのだが、結果、「アレは何故かあそこに挟まってるのが好き」だというのが判明。

更にしばらく見ていたら、もそもそ動いて海面に浮かんで息継ぎをして(?)、それから再度、先刻よりもさらにぎゅっと角に体を詰め込んで逆立ちをした。

子どもが押し入れの隅っこなどにお気に入りの居場所を見つけるようなものか?

●KVの履帯および転輪の変遷/ディテールのチェック作業のこぼれ話。

生産工場がチェリャビンスクに疎開して以降、ZIS-5搭載型(いわゆる1941年型)の後期からは、KVは緩衝ゴムを内蔵していない全鋼製の転輪が使用されるようになる。タミヤの旧KV-1の最初のキット(キット名称「KV-1C」)にも付けられていた転輪なので、見た目に関しては割とお馴染と感じる人も多いはず。以下写真はボービントン所蔵の鋳造砲塔搭載1941年型のもの。wikimedia commons、File:KV-1 front-right 2017 Bovington.jpg(Morio)より切り出し加工。

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この転輪、初期の緩衝ゴム内蔵転輪や、後のJS用転輪とは違って複列のホイールディスクは裏表非対称で、表側は深く窪んで強化リブがあり、これが背中合わせにされた形状となっている(鋳造の場合は、プラモデルのように同形のパーツをくっつけているのではなく内外一体で作られているのかもしれないが)。

タミヤの旧キットのパーツでも、トランぺッターのパーツでも、このホイールの裏面は真っ平ら、つまり断面でみると (ホイール全体で言えば ][ )という形状になっているのだが、実物の写真を見ているうち、「これ、底は平らじゃなくて、中央に向けてちょっと窪んでるんじゃない?」という疑問がわいてきた。これは、同じく平らだと思っていた後期型の全鋼製上部転輪が、実は中心に向けて窪んでいた(タミヤの新KV-1のキットではそうなっている) のが判ってびっくりした、というのも少し手伝っている。

6方向に延びているメインのリブは外側に向けて背が低くなっていて、それもあって「なんとなくそう見えるだけ」という可能性もあるので、上写真をもとに、リブの根本に線を引いてみた。

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ホイールディスクの底面が真っ平ら(同一平面)だった場合には、正反対の位置にあるリブの根元のラインは一直線になるはず。しかし、写真のように2組のリブ(黄色およびオレンジ)で引いてみた線はどれも若干の角度のズレがある。

これは、やっぱり窪んでたんだ!!――と断定しかけたのだが、改めて考えてみると、このリブは(前述のように)中央で高く、外側で低いので、根元部分の厚みも中央に向けて増しているかもしれない。その場合は、向かい合わせのリブの根元のラインは一直線にならなくても不思議はないことになる(そもそも入隅がビシッと角になっているわけではなく、やや曖昧なところに適当に線を引いているので、線の引き方自体が正確かという問題もある)。

転輪を真横方向(転輪軸に対して直交方向)から撮った写真があるとかでなければ、実物を見てみないことにはよく判らない話なので、現時点では答は出しようがなく、モヤモヤ状態。こんな時(だけ)の神頼み的に、かさぱのす氏に「どう?パロラでじ~っくり写真撮ってない?」と問い合わせてみたが、「知らんわそんなもん(大意)」というお返事であった。

そういえば、どこかの資料にこのタイプの転輪の断面図とか出てないかしらね。

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“イン・アクションもどき”の素敵な世界

●前回更新からすっかり間が開いてしまった。

その間、「横浜AFVの会(仮)」参加など、イベント的にもあれこれあったのだが、なんとなく書きそびれてしまった。模型もいじらなかったわけではないが、いつも以上につまみ食い状態なので、記事に書くほどの進展なし。というわけで、ヒマネタを一本。

●実車・実機の洋書資料なんて、ベロナ・タンク・プリントとかプロファイル・シリーズくらいしか……というのは流石に大昔過ぎるとして、それからちょっと時代が下った一頃。今ほど資料が豊富でなかった「昭和のモデラー」にとって、当時の水準を1つ抜けた感じの内容で有難さ抜群だったのが、スコードロン・シグナルの「イン・アクション」(squadron/signal publicationsの「airclaft in action」および「armor in action」シリーズ)ではないかと思う。

横長A4のソフトカバー、ページ数はおおよそ50pあるかないかくらいの手頃さ。基本、1機種・車種1冊のモノグラフなので、「**を作ろう」と思ったときに、そのネタがイン・アクションで出ているというだけで、ある程度間に合ってしまう感じだった。

そんな具合なので、この「イン・アクション」シリーズが、世界中で、ある種モノグラフのスタンダードとして扱われたことは想像に難くなく、それを示すように、ほとんど同じ体裁の「イン・アクション」フォロワーというか「イン・アクション」もどきが、一時期、あっちこっちから出版された。

先日、旧スポジニア~ミラージュ・ホビーの1:48、ルブリンR-XIIIDをちょっといじった際に、そんな「イン・アクション」もどきのモノグラフを引っ張り出したのだが、ついでに、我が家にどれくらい「もどき」があるかをチェックしてみた。以下、その紹介。

PODZUN-PALLAS-VERLAG(Waffen-Arsenal)およびSCHIFFER MILITARY

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左上3冊がPODZUN-PALLAS-VERLAG(Waffen-Arsenal)。大学時代の模型サークルでは、「ぽっつんのいんあくしょん」なんて言われていたような。出版しているPODZUN-PALLAS-VERLAGはドイツの会社で、Waffen-Arsenalはシリーズ名。中身は全面ドイツ語のみ。

その後に出版されている緑表紙・縦長判型のWaffen-Arsenalも同じPODZUN-PALLAS-VERLAG社刊だが、この横長イン・アクションもどきシリーズと、緑表紙シリーズに連続性があるのかどうか(つまりある時点から判型が切り替わったのか、それとも別のシリーズとして出されたのか)は不明。なお、出版社名は初期のものはPODZUN-VERLAGとなっているので(左下の35(t)など)、途中で(合併等の理由で?)社名が変わったらしい。

単純に「スコードロンのイン・アクションの真似」で終わらないのは、一部、スコードロンのイン・アクション・シリーズに、このPODZUN 版からの翻訳ものがあったり(例えば「German Railroad Guns in Action」)、逆にスコドロのイン・アクションの独訳版がPODZUNのシリーズに含まれていること。何らかの提携関係のようなものがあったのかも。

スコドロのイン・アクションでは出ていない(あるいは出ていなかった)ネタを扱っていたり、同一ネタでも写真選択が違うのが魅力だが、中身の質はちょっと落ちる感じ。例えば上写真中上の「T-34とバリエーション」は、(少なくとも私の持っている版は)1988年刊だが、T-34-76の分類は、生産時期に係りなく砲塔の見た目で分けた、大戦中のドイツ軍のA型~F型を採用している。ちなみに1983年刊のスコドロの「T-34 in action」(S. Zaloga, J. Grandsen)では、すでに年式・生産工場別の分類がなされている。なお、「T-34とバリエーション」の表紙は表2~表4まで含めてタミヤのボックスアートを借用しているが、奥付(洋書なので前付?)に「TAMIYA」の名前があるので、許可を取って使用しているものらしい。

初期に出た、左下の35(t)の巻は表紙に「mit Poster(ポスター付き)」と書かれているが、これは2つ折りになった表紙と同じカラーイラストが挟まれていた。……特に嬉しくない。

さて、「ぽっつんのいんあくしょん」は本家で出ていないネタがあるのが魅力といっても、記述が全面ドイツ語というのは敷居が高すぎる。そんな状況を救ってくれたのがSCHIFFER PUBLISHINGから出た、「ぽっつんのいんあくしょん」の英訳版。それまで読めなかったものが多少なりとも読めるとあって、例えば写真右上の「第一次大戦のドイツ戦車」は、PODZUN版も持っていたのに改めてSCHIFFER版を買いなおした覚えがある(その際にPODZUN版は誰かにあげたか売ったかしたような気がする)。

もっとも流石に軒並み買い直すような余裕はなく、「ちっ、英語版が出るならもうちょっと待ってればよかったぜー」なんて思ったような覚えも。

Wydawnictwo Militaria

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ポーランドの一大モノグラフ・シリーズのWydawnictwo Militariaだが、初期(1990年代中頃)にはイン・アクション・スタイルのものを出していた。たぶん、このスタイルで出ていたのは航空機のみ。スコドロのイン・アクションと同様、カラー側面図のページも挟まっている。ただし、イン・アクションと違ってカラー図はセンターページではなく、センターの見開きは基本、透視構造解説図。

特色はなんといっても、他ではなかなか取り上げられない機種を扱っていること。ドイツ機も「He59」などずいぶんなマイナー機まで取り上げているが、さすがにこれについては素材不足だったと見えて、表紙も含めて20ページしかない。「He60 He114 Ar95」は一山ナンボ的に3機種まとめて32ページ。一方で自国ポーランド機は、第1集の「ルブリンR-XIII」が48ページ、第2集の「PZL P-24」は58ページもあって、内容も非常に濃い。なお、本文はポーランド語だが、写真キャプションは英語併記なのが有り難い。

他にも、この判型のシリーズのひとつとして、「WINGS IN DISTRESS ~ POLISH AIRCRAFT 1918-1939」――戦間期のポーランド機の、事故で壊れた状態のものばかりを集めているという、ちょっと変わった写真集などもある。

АРМАДА

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出版社はおそらくЭКСПРИНТ(エクスプリント)というところで、АРМАДА(アルマダ)はシリーズ名。ロシアの出版物で、後には縦長判型になるのだが、これも上記のWydawnictwo Militaria同様、初期にはイン・アクション・スタイルのものを出していた(たぶん1990年代後半から2000年代初頭)。ウェブ上の英語ソースだと「ARMADA horizontal(アルマダの横版)」などと呼ばれていたりする。

スコドロのイン・アクションのようなセンターカラーページはなく、基本、表2~表4がカラー側面図ページ(表4=裏表紙はシリーズ紹介の自社広告の場合あり)。個々の写真は割と小さ目な印象。解説はロシア語オンリーだが、写真キャプションは英語併記。

ネタ的にはさすがロシアという感じで、イリヤ・ムロメッツとか草創期のソ連戦車とか、他では到底望めないものを取り上げていたり、BTだけで3分冊だったり。T-26は、私は1巻目しか持っていなくて「ああ、続きは買いそびれていたか」と思ったのだが、改めて検索すると、2巻以降の情報が出てこない。そもそも2巻以降は出ていないまま?(ちなみにT-26の著者はスヴィリン、コロミェツの2人で、「フロントバヤ・イルストラツィヤ」のT-26と同一)

ФАРК ООД / FARK OOD

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ブルガリアのФАРК ООДというところから出た、「AIR POWER OF THE KINGDOM OF BULGARIA(ブルガリア王国の航空戦力)」と題する「うん、さすがにそれは他の国では出ようがないよね」という内容の4冊組。2001年刊。確かnifty模型フォーラム仲間のはほちん氏に頼んで、通販で一緒に入手して貰ったような覚えがある。

1巻目が同国の航空黎明期~バルカン戦争期、2巻目が第一次世界大戦、3巻目が戦間期で、4巻目が第二次世界大戦。ネタ的な珍しさもさることながら、ページを基本左右に区切って、本文もブルガリア語と英語の完全併記(表紙の題名も2言語併記)なのが有り難い。同国のミリタリー系の資料だと、アンジェラ出版というところから出た「Armored Vehicles 1935-1945」もブルガリア語と英語の完全言語併記だった。国際的にはマイナーな言語であることを自覚して、少しでも海外の読者にも読んでもらえるようにという配慮なのだろうと思う。当然、解説の分量は半分になってしまうわけだが、「全然読めない100」よりも「なんとか少しは読める50」のほうがはるかによい。

表紙以外のカラーページは無し。写真自体は比較的鮮明なものが多く収録されている。

▼その他(Hawk publicationMPM

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Hawk publicationはポーランドの出版社。模型資料的なものは、検索してもこのI.A.R. 80/81しか見当たらない。これ一冊しか出ていない可能性も……。1991年刊。

写真のレイアウト、センターのカラー側面図、イラストの配置など、内容的には、今回取り上げた中で、本家スコドロの「イン・アクション」に最も近い。ただしページ数は表紙含め18ページしかない。なぜか8つ折りの1:25巨大図面付き。今でこそI.A.R. 80/81の資料は他でもちらほら出ているが、なかなか要所を突いた内容で、生産ロット別の主翼パネルの変遷イラストなど、模型製作的にも有用度が高い。ただし記述は写真キャプション含めて全面ポーランド語のみ。惜しい。

もう一方の「Junkers Ju87A STUKA」は、言わずと知れたチェコの模型メーカー、MPM(現Special Hobby)が出したもの。これも同じく1991年刊。奥付(前付?)を見ると、どうも中身自体は、その後AVIA B-534や38(t)の優れたモノグラフを出しているMBIが請け負ったものらしい。まだチェコとスロバキアが分かれる前なので、「Printed in Czechoslovakia」とある。

モノグラフ資料として、ある程度サブタイプを区切って出すことは(特に生産時期が長く生産数も多かった機種・車種の場合は)ままあるが、Ju87Aのようにドマイナーな初期型の1タイプだけで出すというのはちょっと奇異に感じるかも。もっともこれは、もともとバキュームフォームキット・メーカーだったMPMが、簡易インジェクションのフルキットに乗り出した最初期にJu87Aを出したことによるもので(実は我が家にストックあり)、写真にもあるように、表紙の隅には「for MPM model of Ju87A」と、自社キット用に出した資料であると明記されている。

ページ数は表紙含め26ページ。冒頭解説文は3ページずつ、チェコ語と英語。あとのページに文章はなく、写真とイラストのみ。コクピット内部や機構などは、かなり資料性の高いイラストが入っている。

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KV maniacsメモ ― KV-2のおさらい(2)

●タミヤのKV-2発売前の、KV-2の仕様とディテールのおさらい。

第2回目は具体的に場所(ポイント)ベースで、いわば「ゆびさしかくにん」的イメージで。

ココログの仕様上、写真をクリックするとページ自体が切り替わってしまうので、写真を見る際には右クリックで「(リンクを)新しいウィンドウで開く」にすると、写真を参照しつつ本文を読めると思います。

砲塔

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1.駐退機カバー側面に、ボルトアクセス用の溝がある(左2カ所、右1カ所)のが、MT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)の大きな特徴。ただし写真のコントラストによっては判別しづらいことがある。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)では溝がなく、おそらく駐退機カバーそのものがやや狭い。

2.砲口部分に「たが」状に段があるのはMT-2砲塔に搭載された主砲の特徴で、MT-1砲塔時代にはこの段差はない。リング部分には4方向にネジ穴(MT-1砲塔時代にも、リング状段差はないがネジ穴はある)。

3.砲身は全体にスリーブがかぶせられていて、途中2カ所に継ぎ目がある。細い継ぎ目なので、通常の写真では判別できないことが多い。写真の作例では(トラペのキットの砲身長を修正したので)元の筋彫りを埋めたあと、継ぎ目を彫り直していない。

4.砲耳カバー位置決め用に溶接されたリブは、MT-2試作砲塔(U-7に搭載)には見られない。

5.埋め込みボルトの溶接跡(前後面左右、前面は1列あたり8カ所、後面は7カ所)があるのはMT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)の特徴で、MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)にはない。

6.前面装甲はMT-2砲塔前期型、後期型ともに小口が側面に出る。後面装甲は、前期型では小口が側面に出ず、溶接線がエッジにある。

7.上面3方向の固定ペリスコープのカバーに取付用ベロがあるのはMT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)ではベロ無しらしい。

8.前回記事をUPした日の晩、nifty F模型時代の仲間たちとオンライン飲み会をしていたら、“ハラT”青木伸也氏に、「タミヤの新KVのツノ形ペリスコープは下の方にタガ状に段があるけど、段の有無と時期の関係はどうよ?」と聞かれた(共通枝の部分に入っているので、KV-2でも同一パーツを使うことになるはず)。いやオレ、タミヤのツノ形ペリスコープに段があること自体に気付いてなかったよ……。ヌルし。

改めて調べてみると――といっても、ここがはっきり写っていて仕様が判別できる当時の写真が少ないのだが、とりあえず、MT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)でも、段付きツノ形ペリスコープの使用例は見つかった。KV-1でも、1941年春頃に生産されたと思しき車輛で、明らかに段付きを使っている例がある(「グランドパワー」97/10、p29下)。また、MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)でも、「これは段付きじゃないかなあ」という例もあり。

一方で、沼にスタックしている有名なMT-1砲塔搭載車のツノ形は段無し。MT-2砲塔後期型でも、「これは段無しっぽいな」という写真もあり。というわけで、現時点での私の見解は、「少なくともMT-2砲塔型では段付き・段無し混在じゃない?」という玉虫色のもの。なお、ツノ形ペリスコープカバーの頂部には小穴がある。

9.砲塔後面には、MT-1はアクセスパネルとピストルポートだけだったが、MT-2になってからは機銃マウントが付く。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)の時期、KV-1のほうの砲塔後面の機銃マウントは外部防盾無しの半球形のものだったが、KV-2では最初から外部防盾付きのもの(ただしKV-1でも車体機銃は当初から外部防盾付き)。MT-2試作砲塔(U-7に搭載)は搭載位置が丸く窪んでいるだけで、機銃マウント自体は未装備。

車体前部

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10.車体前端の装甲板接合用のアングル材の埋め込みボルトは、MT-1砲塔搭載型(試作車および生産第1シリーズ)では17カ所。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では11カ所(上下列とも)。

11.戦闘室前面、シャーシ前面とも、KV-2は一貫して増加装甲無しのベア(裸)状態。KV-1でもここに増加装甲が付くのは1940年型エクラナミ以降。

12.MT-1砲塔搭載型(試作車および生産第1シリーズ)は車体機銃がなくピストルポートの装甲栓。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では機銃マウント付き。MT-1砲塔搭載型の装甲栓はその後の機銃マウントよりもやや内側。

13.前照灯、ホーンの配線引込部は、MT-1砲塔搭載型ではMT-2砲塔搭載型よりやや内側。ただし、その「内側」度合いにバリエーションがある感じ。なお、ホーンやアンテナベースの位置は、試作車では生産車と異なっているものがある。

14.操縦手用の固定ペリスコープカバーは、砲塔のものと違って後期まで一貫してベロ無しの直付け。

20211229_235546 15.作例の鋳造?の牽引ワイヤーのヘッド部はMT-2砲塔搭載後期型(第3シリーズ)より。MT-2砲塔搭載前期型(第2シリーズ)以前はワイヤー自体を丸めたヘッド部で、トラペのKVのキットにはそのパーツも入っている(右写真)。

16.後期の一部車輌には、車体ハッチ前方に跳弾リブが追加されている。

17.後期の一部車輌では、戦闘室側面に、砲塔リングガード保護を兼ねた増加装甲が溶接されている。KV-1の1940年型後期型にも見られるものだが(生産時期はKV-2より数カ月遅い)、KV-1の場合、増加装甲下部にはアーチ状の切れ込みがあるもの(軽量化のため?)、ないものの2種が確認できる。今回改めて写真をひっかき回したところ、KV-2ではアーチ形の切れ込みがあるものは確認できたが、切れ込みのないタイプは、はっきりと確認できる写真が見当たらなかった。また、そもそも下部を切り詰めて、上端部だけになったタイプもあるようだ。

18.後期の一部車輌では、砲塔リング前方に、楔形のリングガードのリブが増設されている。「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」の記述によれば、これら増加装甲類は、一度前線部隊に配属された車輛が、修理のためにレニングラードに戻された際に追加で装着されたものであるらしい。1940年末生産のMT-2砲塔搭載前期型(第2シリーズ)でも同様の改修を受けた車輌があったかどうかは未確認。

19.後期の一部車輌では、フェンダー上に角型増加燃料タンクが搭載される。これについても上記増加装甲、跳弾リブと同様。16以降の改修が必ず4点セットになっているかどうかは確認しきれていないが、その可能性は高そうな気がする。

車体後部

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20.エンジンデッキの取付ボルトは、少なくとも初期は尖頭ボルトが基本ではないかと思う。後には(っていつから?)平頭ボルトが使われ始めている可能性あり。ただし、KV-1でも1940年型の後期(装甲強化砲塔搭載の1941年後半生産型)で尖頭ボルトの例がある。同じくKV-1で、1941年6月生産とされる車輌のデッキで、尖頭ボルトと平頭ボルトが混用されている例もある。

21.ラジエーターグリルのメッシュカバーは、MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)では前端まで凸だが、MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では、KV-1同様に前端が平らにつぶれている。

22.エンジンデッキ前端両側のボルトは左右3つずつ。タミヤはOKだがトラペのキットは2つしかないので真ん中1つを追加する必要がある。

23.エンジン点検ハッチのふくらみ中央には、KV-1の場合は生産時期によって(?)通風孔のポッチが付いている場合があるが、KV-2は、全型を通じて、当時の写真でポッチが付いているものは確認できない。現存車輛であるモスクワ中央軍事博物館の展示車輛は通風孔のポッチがあるが、同車輛の細部部品はかなりの部分が寄せ集めなので、ハッチも他から持ってきたものである可能性が高いと思う。

24.車体上部後端の曲面装甲は、MT-1(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)ではエンジンデッキに合わせて上部が面取りされている。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では未処理のためエンジンデッキよりやや盛り上がっている。

20211229_235531 25.フェンダー上の工具箱は、MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)とMT-2砲塔搭載型の前期(第2シリーズ)では左右にベロがなく、蓋中央に取っ手がない初期タイプで、左フェンダーに2つ、右フェンダーに1つ。1941年に生産されたMT-2砲塔搭載型の後期(第3シリーズ)では、蓋の左右にベロがあり、蓋中央に取っ手がある後期タイプで、左フェンダーに1つ、右フェンダーに2つ搭載。トランぺッターのKV-2のキットには初期タイプのパーツ(右写真)も入っている。ただし、幅を広く間違えているフェンダーに合わせて作ってあるので、フェンダーを修正、あるいはタミヤに流用の場合にはそのままでは使えない。

26.フェンダー内外のフチのL字材は、少なくともKV-1では小リベット止めの場合と溶接の場合とがあるようで、タミヤのキットは(少なくともKV-1では)リベット表現がないので溶接タイプということになる。KV-1では、1940年型エクラナミと、その後の1940年型の装甲強化砲塔搭載型で溶接タイプが見られる。KV-2の場合、小リベット止めであると確認できる写真はあるが、溶接止めであると確認できる写真は今のところ見付からない。このフェンダーの構造と仕様、戦車の生産時期との関係についてはセータ☆さんの記事に詳しい。

27.車体後部オーバーハング下には整流板と尾灯。作例では尾灯にカバーを付けているが、全車標準でこれが付いているかどうかはちょっとあやふや。整流板も尾灯も見当たらない車輛の写真もあるが、これは撃破時に脱落したものか(後端中央部に弾痕もあるようなので)。KV-1でも、開戦前に製造されたと思われる車輌で尾灯も整流板もない写真があったりするので(「グランドパワー」97/10、p29下)、ちょっと気になるが。

28.シャーシ後面装甲の下端は、タミヤの新KV-1では車体床面から一段出っ張っているが、これはおそらく、工場がチェリャビンスクに移転して以降の特徴で、KV-2では全車、床面に合わせて面取りしてある。ただし、タミヤの同パーツ(B16)は、フェンダーや誘導輪基部と一緒のB枝なので、もしかしたらKV-2発売にあたって初期仕様に丸々交換されているかも。されていたらいいなあ(希望)。

足回り

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29.転輪は緩衝ゴム内蔵型。試作車~MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)は、SMKでも用いられた、ゴム抑え板の穴が8穴のもの。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では6穴のKV用標準型が使われている。リムに小リブ付きだったり、穴がなかったりするバリエーションは、おそらくKV-2生産終了後に登場したものなので、修理時に紛れ込んだとかのレアケースがあるかどうか、程度。

30.上部転輪は、写真ではなかなかタイプの判別がしづらいが、少なくとも、MT-2砲塔搭載型の前期(生産第2シリーズ)までは小リブ付きのものが、MT-2砲塔搭載型の後期(第3シリーズ)ではリブ無しのものが使われているようで、それぞれの組み合わせの例は写真で確認できる。

31.起動輪は一貫して、ハブ部の皿形カバーのボルト数が16個の初期型。

32.サスペンションアーム基部、トーションバーとの接続ボルトは6つの初期型。

33.履帯はKV初期標準、700mm幅の1ピースタイプ。試作車~MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)の一部では、SMK由来の650mm幅も用いられているようだ。

(文中でリンクを張っている当時の実車写真はサイト「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」のもの)

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KV maniacsメモ ― KV-2のおさらい(1)

640px2_1 ●11月30日付でも書いたが、タミヤから近々KV-2が発売される。

個人的には「砲塔に『安倍晋三』と書かれていなかったら買おうかな……どうしようかな……」くらいのスタンスだが(しつこい)、一応、KV-2についてのおさらいを少々。

基本、個人的な理解の虫干しのようなものなので、誤解とか、最新の考証に追い付いていない部分とかもあるかもしれない。その辺はご了承を(というか、指摘していただけると有り難い)。

ついでに、もう10年以上前にほぼ工作終了して、そのまま放り出してあるトランぺッターのKV-2の製作記はこちら。記事中でも仕様の考証にちょろっと言及しているが、古いので、今回書くものとは若干の齟齬が出ているはず。その辺も併せてご了承を。

(冒頭写真はwikimedia commons、“File:Кв-2 1.jpg”、Gandvik

実車のタイプと生産

フィンランドとの冬戦争(1939/40年冬)のさなか、フィンランド軍防衛線突破用として、制式採用されたばかりのKVに、152mm榴弾砲M-10を搭載したタイプが計画され、1、2カ月というごく短期間のうちに試作車が作られ、40年2月半ば、フィンランド戦線に実戦評価試験のために送られた。

当初「大砲塔KV」と呼ばれたこの車輛は、十分開発要求を満たすものとして採用と生産が決定。40年7月から量産が開始された。

生産初期のものは、全て平面の装甲板で構成された(平面形が)7角形の砲塔(MT-1砲塔)を搭載していたが、中途から装甲板構成が簡略化され、両側面が緩くカーブした1枚板になり、背もやや低められた新砲塔(MT-2砲塔)に変更された(砲塔名称はTankograd “KV-2”より)。

その昔、「グランドパワー」1997/10号の解説では旧型の砲塔を載せているのは試作型1輌、増加試作型(先行量産型)3輌、Tankograd「KV-2」(2004年)では4~6輌と書かれていたが、その後の研究では、旧型砲塔の初期型はもっと多いとされている。実際に、撃破されてドイツ軍側に撮影された初期型を見ても、壊れ具合/背景などはかなりのバリエーションがあり、それなりの数が生産されたらしいことがわかる(昔はそもそも初期型の写真があまり出回っていなかったので、4輌と言われればそうなのかなー、くらいの印象だった)。

サイト「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」によれば、KV-1の総生産数は204輌、その内訳は次のようであるという(数字のもともとの出所は、マキシム・コロミェツ氏の資料とのこと。“Тяжелый танк КВ-2 - ≪Неуязвимый≫ колосс Сталина”(2011)かな?)。

  • 1940年2月(3輌)~3月(1輌):計4輌。7角砲塔搭載の試作車輛(U-1~U-4)。
  • 1940年7月(10輌)~8月(10輌):計20輌。7角砲塔搭載の初期型(シリアル番号 A-3603~A-3622)。
  • 1940年11月(25輌)~12月(55輌):計80輌。新型砲塔搭載型(シリアル番号  A-3718、A-3720~A-3727、A-3731~A-3739、B-9601~B-9604、B-9607~9610、 B-9629~B-9631、B-9633~B-968)。
  • 1941年5月(60輌)~6月(40輌):計100輌。新型砲塔搭載型、追加生産分(シリアル番号 B-4662~B-4761)

この辺がまたちょっとよく判らないところで、Wydawnictwo Militariaによれば試作車輛は「U-0」から始まっている。Tankogradによると、40年春に作られた試作車輛は、U-0、U-1、U-3、U-4の4輌となっている(U-2はKV-1)。これらとは別に、新砲塔搭載のプロトタイプの「U-7」というのがあるが、これは、テストベッドとしてキーロフ工場に残されていたKV-1試作車の改装らしい。実際、写真を見ても車体はだいぶ古い特徴を残している。この際にU-7から降ろされた試作型KV-1の(後部が丸い)砲塔は、通常の1940年型車体に載せて使われたらしい(確か新しい車体に古い砲塔を載せた写真があったはず)。

まあ、模型を作るうえでは正確に何輌だったとかシリアルが何番だったかというのは、普通、それほど重要ではなく、生産の流れについては

  • KV-2は全部で200輌程度生産された。
  • 7角砲塔の初期型は、従来言われていたような数輌のみでなく、どうやら20輌くらい生産されたらしい。
  • 新砲塔搭載の主量産型は、40年末と41年晩春の2期に分けて生産されている。
  • 生産工場であるキーロフ工場(キーロフスキー工場)がチェリャビンスクに疎開する1941年秋以前に生産が終了しているので、KV-2は全車、レニングラード・キーロフ工場(LKZ)製。

くらいのことが判っていればよい(と思う)。

生産時期別の仕様の特徴

試作車~初期生産型(仮に第1シリーズと呼称)

7角形砲塔(MT-1砲塔)を搭載。試作車が作られた時期は、KV-1もまだ試作段階。初期生産型の40年7月~8月は、KV-1はL-11搭載のいわゆる「1939年型」の生産の前半くらいなので、車体の特徴もそれに準じている。

転輪は緩衝ゴム内蔵型の中でも初期のもので、内蔵ゴムが覗く小穴が8つのタイプ(標準型は6穴)。ゴム抑え板のリブがないものを使っている例が多い気がする。ゴムリムありの上部転輪は小リブ付きが標準? 履帯は、試作車では(あるいは生産車の一部も)SMK時代からの650mm幅のものが混じっているようだ。

車体前端の装甲板接合用のアングル材は、埋め込みボルト数が後のタイプよりもやけに数が多くて17本。

エンジンデッキの固定は尖頭ボルト。後端の丸めた装甲の頂部は、KV-1 1939年型同様に面取りされている。ラジエーターグリル前端は平たくつぶれておらず、前から後ろまでカマボコ型。KV-1の場合は1939年型でも先端がつぶれている(さらに初期は内側に開口部のあるダクトが付いている)ようなので、この形状のグリルはKV-2初期型のみの特徴か。

主砲は後の新砲塔(MT-2)搭載型と違って、砲口部に一段盛り上がったリングがない。ただし、スリーブ固定用?の、前端部の4方向のネジ穴?は、この時期から存在しているようだ。MT-2砲塔型と同じ位置に砲身スリーブの分割線があるかどうかは、鮮明な写真が手元になくてよく判らない。

なお、最初の試作車(U-0)は、車体ハッチの形状が違う、車体後端ディテールが違う、車体前端アングル材の埋め込みボルトが出っ張っていて明瞭など、だいぶ細部に差がある。以降の試作車も、U-1は砲塔ビジョンスリットとピストルポートの位置が開け直されていたり、U-3は当初、工具箱がフェンダーと一体化した「飛行機の翼」フェンダーを付けていたり(後に通常仕様に改修されたらしい)、砲塔手すり位置が1輌ごとに微妙に違ったりと、それぞれ少しずつ異なっている。

主量産型(第2シリーズ)

形状が大きく手直しされ、面構成も簡略化、やや小型・軽量となった新型砲塔(MT-2)を搭載して生産されたシリーズ。生産時期は1940年末(11~12月)で、KV-1ではL-11搭載の1939年型の生産最終フェイズにあたり、すでに車体の仕様は1940年型とほぼ同様で、車体前面に機銃が装備されるようになっている。KV-2の車体もこれに準じる。

車体前端の装甲板接合用のアングル材の埋め込みボルトは11本に減少。エンジンデッキ上のラジエーターグリルは、この型より、KV-1同様に最前部が平らにつぶれた形状になる。後端の丸い装甲の頂部の面取りも、最初からなくなっているのではと思う。

転輪は標準型の緩衝ゴム内蔵転輪に変更。履帯も標準の700mmワンピースタイプのみが使われている。上部転輪ははっきりディテールが判る写真が少ないが、「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」のKV-1のディテール変遷の解説を見ると、この時期まではまだリブ付きだったような感じ。ただし、下記の初期仕様のMT-2砲塔を載せていても、「これ、リブ無し上部転輪じゃないかなあ……」みたいな写真もあって、ちょっとあやふや。

U-7に搭載されたMT-2の試作砲塔では、砲塔前面に、砲耳バルジの位置決め用の両側のリブがなかったが、量産型ではすべて付いている模様。また試作砲塔では砲塔後面の機銃マウントがなかったが(一応、当初から付けられる予定だったらしく、その位置に丸い窪みはある)、量産型砲塔では全車機銃マウントがある、と思う。

搭載された主砲には若干のディテール変化があり、砲口部に「たが」状に段が付く。また、砲身は実際には外側に保護スリーブ?がかぶせられていて、途中2カ所にその分割線がある。

一部不確かな点もあるが、翌年晩春の第3シリーズと比べると、以下のような違いがある。一部は不確かで、また、この第2シリーズの生産途中で変更されたものもあるかも。

MT-2砲塔の装甲板接合方法の違い。おそらく前後面とも、補強用の埋め込みボルトが使われていない(少なくとも表に見えていない)。また、前面装甲板は後期型同様、砲塔側部に小口が見えているが、砲塔後面はエッジに溶接ラインがあり、小口は見えていない。

主砲の駐退機カバーが、後のタイプと比べやや「痩せて」いるらしく、その外側にあるボルトのための逃げ溝がない。これに関しては、写真のコントラストによって、有無がよく判らない場合も多いが、向かって右側(車輌からすれば左側)の最上部のボルトが、駐退機カバーのラインより内側に食い込んでいるか、外側に出ているかも見分けの助けになる(実際にはこれも結構見え方が微妙だが)。

砲塔ペリスコープカバーの違い。カバー接合用のベロがなく、裾部分でダイレクトに砲塔上面に溶接されている。なお、車体前部、ドライバー用ペリスコープカバーは、後の型になっても一貫してベロがない。

エンジンデッキの固定ボルトは尖頭タイプ?

フェンダー上の工具箱は、MT-1砲塔搭載型同様、左に2つ、右に1つ。初期型の、両側にベロがかぶさらないタイプが標準。牽引用ワイヤーロープの両端も、MT-1搭載型と同じく編み込み型。

割と有名な、ドイツ軍作成の対戦車教材フィルムに登場するKV-2がこの主生産型初期ロットのもので、砲塔ディテールが確認できる。また、有名なIII/IV号戦車のキューポラを増設したKV-2も初期ロットのもので、後期ロットのキットをベースにしてしまったトラペの製品は、正確を期すなら若干の改造を要する。

主量産型(第3シリーズ)

新型砲塔(MT-2)を搭載し、前ロットから数カ月の間を開けて改めて生産されたもの。1941年5~6月は、KV-1で言うと、主砲がF-32に変わった、いわゆる「1940年型」の初期にあたり、増加装甲付きの「1940年型エクラナミ」がそろそろ生産されるかな?まだかな?くらいの時期。したがって、エクラナミの生産途中から導入された、緩衝ゴム内蔵転輪の中期以降のバリエーション、穴無しリムや小リブ付きリムはKV-2では確認できず、すべて標準タイプの転輪が使われている。上部転輪はおそらくリブ無しが標準。

エンジンデッキ上のボルトは、なにぶんにもエンジンデッキをクローズアップで鮮明に写した写真が少ないが、はっきり確認できる例では尖頭ボルト。ただし同時期のKV-1から類推するに、尖頭ボルトもあり、平頭ボルトもあり、という感じではないかと思う(エクラナミ以前と思われるKV-1で平頭ボルトの仕様が確認でき(例えば「グランドパワー」97/10のp29上)、一方でエクラナミでも尖頭ボルトを使っているように見える写真(同p35)、エクラナミ以後の生産車で尖頭ボルトを使っている例(同p42上)もある)。

フェンダー上の工具箱は、両サイドのベロ付き、左に1つ、右に2つが標準。牽引用ワイヤー両端は鋳造(?)のもの。ちなみに初期の編み込みタイプはフェンダーステイの三角穴を通し、鋳造タイプは穴を通らないのでステイの上を這わせて搭載する。

MT-2砲塔には若干の手直しが入り、砲塔前面、後面に接合補助用の埋め込みボルトが確認できるようになる。砲塔後面も、前面同様に装甲板の小口が側面に出る形に変更。またペリスコープカバーは(車体前方のものも含め)ベロ付きに変更。

主砲は駐退機カバーの両側に、ボルトアクセスのための逃げ溝(右1カ所、左2カ所)が設けられる。見た目ではわかりにくいが、おそらく駐退機カバーがやや膨らみが増したのだと思う。

さて、ここから先がちょっと謎含みな感じなのだが、おそらく最末期に生産された一部車輌のみの特徴として、砲塔リングガード、車体ハッチの跳弾リブ、戦闘室側面の増加装甲、フェンダー上の角型増加燃料タンクなどが追加された例が確認できる。たとえば角型燃料タンクと車体ハッチの跳弾リブはこの写真などが判りやすい。戦闘室側面増加装甲はこれ(角型燃料タンクと車体ハッチの跳弾リブもあり)やこれ。楔形のターレットリングガード(と側面の増加装甲のセット)は、ちょっと不鮮明だがこれ(すべて「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」より)。

これが不思議なのは、いずれも、KV-1ではエクラナミの後期やその後の1940年型後期型で導入された(つまりKV-2の生産終了後に導入された)と思われる特徴であること。「もしかしたらKV-1の40年型後期型の車体にKV-2の砲塔を載せたハイブリッド?」などと考えたこともあったのだが、その場合、戦闘室前面/シャーシ前面の増加装甲がないことが矛盾する(KV-1の1940年型の後期型ではそれが標準で装着されている)。あるいは、KV-2の残存車輛に、KV-1のちょっと新しいタイプに準じたアップデートを(デポあたりで)施した車輛なのかもしれない。

……と、つらつら書いてきたが、どうにも文章ばかりでは判りにくいので、改めて模型写真と対応させてディテール説明を書こうかと思う(最初からそうしろよ的な)。

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ロレーヌへの道(2)――実車と資料

●タミヤから発売された「ドイツ対戦車自走砲 マーダーI」改め「フランス軍ロレーヌ牽引車」(の改造ベース)に関するあれこれの続き。

●実車(もちろんロレーヌ牽引車のほう)について。自分自身の頭の整理のために。

フランス軍において、もともと装甲部隊の補給用に開発された軽装甲の全装軌車輛。

1934年に出された装甲部隊随伴車輛の開発要求に基づくもので、ロレーヌ社は同時期に開発が進められていた歩兵用補給車輛の拡大版でこの要求に応えた。ちなみに歩兵用補給車輛は、ルノーUE(Chenillette de revitaillemont d'Infantrie modèle 1931 R:歩兵用補給小型装軌車31R)の後継車輛となるものだが、こちらはほとんど変わり映えのしない小改良型のUE2(Chenillette de revitaillemont d'Infantrie modèle 1937 R:歩兵用補給小型装軌車37R)が採用されている。

ロレーヌ社が装甲部隊用に開発したのは、歩兵用補給車輛の延長版で、歩兵用がリーフスプリング懸架の片側2ボギーだったものを片側3ボギーとし、併せて荷台が後方に拡大されている(このため、車幅に対してかなり縦長な車輛になっている)。これは「Tracteur de ravitaillement pour chars modèle 1937 L(TRC 37L:戦車用補給牽引車1937年型L)」として採用されたが、実際は、テストやら改良やらでもたつき、量産開始は1939年頭までずれ込んだらしい。同年9月1日の大戦勃発までに発注452輌中212輌が生産され、その後も1940年末を目途に560輌が追加発注され、40年6月のフランス陥落までに270輌が生産されている。つまり、フランス陥落までに生産されたTRC 37Lは、500輌弱ということになる。

ちなみに正式名称末尾の「L」について、このサイト(もとはロシア語?の機械翻訳)では、最初の短車体のものがロレーヌ37、長車体がロレーヌ37Lであると、なんだか「長い(long/longue)」の頭文字であるかのように書いているが、上記のルノーUE系の正式名称や「軽戦車35H(オチキスH35)」「軽戦車35R(ルノーR35)」などと同様、単純にメーカー名の頭文字のはず。

メーカーのロレーヌは、装甲車輛としてはこの牽引車1種しか作っていないが、機関車メーカーとして19世紀末に創業、その後自動車や航空機エンジンを製造してきた割と老舗のメーカーだそうな。ロレーヌ・ディートリヒ(1928年までの社名、もっとも正式社名はもっと長ったらしい)の航空機エンジンは戦間期のヒット作であるポテーズ25やブレゲー19などに搭載されているので、その辺の飛行機が好きだとちょっと聞き覚えがあるかも。……なんてことを言いつつ、私自身は割と最近になって、ようやく「えっ、ロレーヌ牽引車のロレーヌって、ロレーヌ・ディートリヒのロレーヌだったのか!」と気付いた。というわけで、1940年戦役時、これの他にも数種のソフトスキンの同社製軍用車輛は使われているようだ。なお、ロレーヌ牽引車の搭載エンジンが自社製ではなく、別の自動車メーカーであるドライエ製なのは謎。

TRC 37L用には、ルノーUE同様、専用の装軌式トレーラーが用意されたが、これは通常の物資輸送の他、燃料タンクを搭載した補給車として多用されたらしい。

主要バリエーションとしては、兵員輸送用の「Voiture blindée de chasseurs portés modèle 1938 L(VBCP 38L: 随伴歩兵装甲車1938年型L」があり、これはTRC 37Lの貨物室装甲を上方に延長、箱型の兵員室としたもので、ここに4名が搭乗。これまた装甲を上方に延長した装軌式トレーラーに6名が搭乗、計10名の兵員を輸送する。VBCP 38Lは、240輌が発注され戦争勃発までに9輌が完成、さらにフランス陥落までに140輌が生産されている。

さすがに車輛本体に兵員が4名しか収容できないのはマズイと思ったらしく、さほど間を置かず改良型の「Voiture blindée de chasseurs portés modèle 1939 L(VBCP 38L: 随伴歩兵装甲車1939年型L」が採用されている。VBCP 38Lが、基本、「TRC 37Lの貨物室が背高になっただけ」の車輛だったのに対し、VBCP 39Lは装甲兵員輸送車として全面的に改設計されており、車体前部の背を高めて操縦手席とエンジンルームを前方に寄せて後部の兵員室を拡大。兵員室のキャパシティは8名となっている。戦争勃発後のVBCPの追加発注200輌は、この39Lに対して行われたらしいが、結局のところ、試作だけに終わった。

1939年後半以降、VBCP 38Lのうち、少なくとも10輌が無線指揮車に改装されている。どうも特別に制式名称等はないようだが、ロレーヌ38L PCなどと呼ばれている。PCはたぶんposte de commandement(英語で言えばコマンドポスト)の略。形状は基本VBCP 38Lのままだが、兵員室内には無線機が置かれ、兵員室前面中央には、大戦中のフランスAFVでお馴染みの大きな蛇腹が根元に付いたアンテナ。他にも数カ所小アンテナが立てられている。

1940年のドイツ侵攻時、対戦車戦力の不足を受け、1輌のTRC 37Lが47mm対戦車砲を搭載した自走砲に改装された。レイアウト的には後のマーダーIとまったく同じで、エンジンデッキ後方に47mm対戦車砲の砲架を載せているが、戦闘室を囲む装甲は(少なくとも製作時点では)無く、まったく「単純に砲を載せてみました」状態のもの。同時期に、やはり即興的に作られた装輪式のラフリーW15 TCCが70輌作られたのに対して、この37L対戦車自走砲は試作のみに終わっている。

――といったところが1940年戦役までのロレーヌの開発/生産の様子だが、その後、ヴィシー政権下で限定的に(「林業用トラクター」の名目で?)生産が行われた模様。それの全部なのか、一部なのかがよく判らないのだが、ボギー2つの短車体型が作られた模様。現存の、ドイツによる自走砲改装物以外のロレーヌは短車体のタイプが多いが、これはそのような理由によるもののようだ。なお、最初に述べた歩兵用補給車輛としての試作型の短車体のタイプは、ルノーUE同様の後方に傾けられるダンプ型の荷台を持つが、戦中生産型は固定式らしい。

以上の内容は、主に以下の資料に拠っている。

* François Vauvillier, Jean-Michel Touraine “L'AUTOMOBILE SOUS L'UNIFORME 1939-40”, MASSIN EDITEUR, 1992
* Chars et Blindés Francais sur le Net (Chars-francais.net)
* 日本語版wikipedia「ロレーヌ37L」
* 英語版wikipedia “Lorraine 37L”

特に37L、38Lの発注数、生産数等については“L'AUTOMOBILE SOUS L'UNIFORM 1939-40”に従っている。ほか、紙資料として大昔の「プロファイル」シリーズのロレーヌ牽引車の号を持っているのだが、積んだ資料のどこにあるのか見つけられなかった。いまさらあっても役に立つのか判らない大昔の薄っぺらい資料だが、まさか車内の写真とか出てないだろうな……。

出版物としては、ほかにシュピールベルガーの鹵獲戦車本にも当然出ているが、原型のロレーヌに関して言えば「うわ、ここにこんなのが出てたかあ!」的な内容は無し。現時点でのフランス軍車輛の虎の巻的な資料シリーズであるパスカル・ダンジューさんの「TRACKSTORY」からは、まだロレーヌは出ていない(出てくれれば「一発解決!」とか行きそうなのに)。

●現存実車に関するネット上の資料。

とりあえずは、どれくらい、どんな状態のものが、どこに残っているのかについては、各国各種AFVの現存実車に関してマメにPDFでまとめてくれている「Shadock's Website」の「Surviving  Panzer」から、

Surviving Lorraine 37L Tractors

ついでにロレーヌを含む鹵獲戦車ベースのドイツの自走砲については、

Surviving German SPGs based on foreign chassis

上のリストで確認できる限り、オリジナルに近い状態で現存しているのは、まずは2000年にベルリン近郊で掘り出され、現在はドレスデンの軍事史博物館に収められている、2輌のVBCP 38L。これのwalkaround写真が出回ってくれるととても嬉しいのだが、現時点ではネット上では見当たらない。

次のフランス国内の個人蔵という1輌は、別角度で別塗装の写真も他で見たことがあるが、側面にラジエーターグリルが付いていることから見て、ドイツの自走砲からの逆改造品である可能性大。これも私はwalkaround写真を見たことがないが、あったとしても荷台内部の状態などは当てにできなそう。

その次の大掛かりなレストア中車輛は、どこまでオリジナルの部品が残っているのか不明。あとはかなり状態が悪そうな2輌が続き、残りは短車体ばかり。同じく補助車輛のルノーUEが30輌以上現存しているのに比べるとかなりお寒い状況だが、これはロレーヌ牽引車の使い勝手が良くて使いつぶされてしまったからという理由もあるかもしれないが、そもそも生産台数の桁が違うことが大きそう。

そんなこんなで、結局のところ、長車体型の現存実車のディテールウォッチについては、主にドイツ軍の自走砲に頼るほかないということになる。以下、現存実車の主なwalkaround。

▼ソミュールのマーダーI

タミヤのキット付属のリーフレットにも10枚ほど写真が掲載されている。エンジンルームの天井が単純に鉄板で塞がれているなどベストコンディションとはいえないが、他はそれなり?

SVSM Gallery:SdKfz 135 Marder I, Musee des Blindes, Saumur, France, by Vladimir Yakubov

各種walkaround写真が豊富なSVSM Galleryより。写真80枚。「net-maquettes.com」に上がっているのも同じ写真。

LEGION AFV:Marder I

写真43枚。

▼アバディーンのSd.Kfz.135/1 sFH13/1(Sf)(おそらく現在Fort Sillにあるもの)

アバディーンの15cm自走砲型。野外展示で戦闘室上も鉄板で塞がれていたり、ちょっと可哀想な状態。

SVSM Gallery:SdKfz 135/1 15cm sFH13/1 (Sf) auf Geschutzwagen Lorraine Schlepper(f), Aberdeen Proving Ground, by Matthew Flegal

写真は7枚のみ。

Prime Portal:Sd.Kfz.135/1 Walk Around

こちらのほうが写真は多めで29枚。「net-maquettes.com」に上がっているのも同じ写真。

▼モスクワの10,5 cm LeFH 18-4 auf Geschutzwagen Lr.S. (f)(12/2追加)

モスクワの大祖国戦争中央博物館所蔵のもの。(上記のPDFによれば)フランス、Trunのスクラップヤードにあったものをレストアした車輛だとのことで、10.5cm自走砲としてのオリジナル度に関しては私にはよく判らないが、少なくとも、ベース車体のロレーヌに関しソミュールの車輛と比較検討するには結構役立つ。

SCALEMODELS.ru:САУ 10,5 cm LeFH 18-4 auf Geschutzwagen Lr.S. (f) Alkett, Моторы Войны 2016, Крокус-Экспо, Москва, Россия

写真159枚と非常に詳細。ソミュールのマーダーとは、改装で隠れた部分/潰れてしまった部分が微妙に違うのも有り難い。

SCALEMODELS.ru:САУ 10,5 cm LeFH 18-4 auf Geschutzwagen Lr.S. (f) Alkett, музей Моторы Войны, Москва, Россия

上記と同じ車両のレストア途中(砲未搭載状態)の写真。97枚。

▼オマケ。短車体型の動画。

La journée de la chenille - Lorraine 37L

短車体型の動画はYouTubeに何本か上がっているが、これはその中で比較的長く、しかも荷台の中のチラ見えシーンもあるもの。長車体型では上面に開いていたラジエーターグリルが後ろ(荷台)側になっていること、荷台後部のディテールも長車体型と全く違うことなどが判る。

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図書館

20200612_142214 ●市立図書館が、なお制限はあるものの閲覧・貸出再開されたので、12日金曜日、久々に本を借りに行く。

常に入り浸るほど「図書館ホリック」ではないものの、行けないとなると何だかむずむずし出すくらいには図書館好きではある。

利用頻度を下げるために貸出期間が3週間に伸びており、まとめて3冊借りてきた。持って帰るのが重かった……。

▼「増補・改訂 アイヌ文化の基礎知識」監修:アイヌ民族博物館 増補・改訂版監修:小島恭子 草風館

たまたまアイヌ関係の棚が目に入って、その中で割と読み易そうで、書名通りに「基礎知識」のレベルが上がりそうだったので借りてきた本。私自身が琉球系ということもあって、「ヤマトではない日本」は常に興味の対象。

▼「世界の戦車 1915~1945」ピーター・チェンバレン&クリス・エリス 大日本絵画

AFVマニアならおなじみの、第二次大戦までの戦車のエンサイクロペディア。この日本語版が発売されるよりも前から英語版の(より大判の)原著は持っていて、そのせいで日本語版は結局買わなかった。今から見ると、たぶん内容的には「えー?」という部分も結構あるのではと思うが、マイナーな戦車の系統とか、概略を知るのにものすごくお世話になった本。戦車を生産していない国を含め、小国の使用(輸入)状況について巻末にまとめてあるのが個人的にはポイントが高い。とはいっても、英語が不得意な私は内容をしっかり読み込んであるわけではなく(まあ、そもそも読み込むようなタイプの本でもないが)、この際改めてざっと読んでみようと思って。

▼「重戦車大隊記録集1陸軍編」ウォルフガング・シュナイダー 大日本絵画

ティーガーを作る人には、おそらくバイブルとも言えるのではないかという大冊の1巻目(2はSS編)。大戦後半のドイツ軍は基本的に対象から外れる私は絶対に買わない本ではあるけれど、かといって興味がないわけではなく(ティーガーのキットも一応持っているし)、ちょっとした「お勉強」用に。

●「Pokémon GO」につき、NIANTICから公式発表。再来月、2020年8月上旬予定のアップデートをもって、32ビット版Android端末への「Pokémon GO」のサポートを終了するとのこと。

こうした足切りの基準になるにもかかわらず、スマホの公表されたスペックには32bitなのか64bitなのか明記されていないのが普通だそうで、そのこと自体、端末メーカーに文句を言いたいところだが、とりあえず、「CPU-Z」というアプリで、私のスマホがどちらなのか確認できた。……32bitだった。あうう。

「Pokémon GO」のために端末を買い替えるのも癪だし(お金もないし)、どうしたってそのうち、端末がヘタれば買い替えることになるので、それまで「Pokémon GO」は封印ということにしようと思う。

そもそもここ数日の、アプリが起動できない不具合に関しても、公式発表では「Android 5 または 6 の一部の端末」で発生していることになっているが、これって要するに32bit端末ということなのではないだろうか。

当然、そのうち32bitがサポート対象外になるのは当然だったとしても、今回の不具合発生が「ああもう、やってらんないや~」のきっかけになったような気も(ちなみに不具合は現在も未解消)。

●「アハトゥンク・パンツァー」の著者、尾藤さんの「パンツァーメモ」の掲示板で掲示板で、尾藤さんに、スロバキア軍の38(t)、完成していたらブログで見せて下さいと言われてギクリとする。……数年前、完成直前まで持っていって、それっきりになっていたので。

どこにしまったっけな、と、身近な模型箱をごそごそと漁って、なんとか本体は発見。ブレダ20mm搭載I号戦車A型(未塗装)とともに、ヴィッカース水陸両用戦車の箱にしまってあった(この脈絡のなさ……)。

というわけで、製作記の現状の最終回(ちなみに2016年の4月)から何の進展もしていないのだが、現状は以下の通り。

20200613_214011 20200613_213940

私の35AFVの作りかけの中では、最も完成に近い状態かも。しかし、なんでここまで塗って中途半端に放置するかなあ。

なぜか起動輪が片方行方不明。履帯もないが、これは本来のキットの箱に入っているはず……だが、それがどこにいったやら。そっちの箱にもう片方の起動輪も入っているといいなあ。

ちなみに尾藤さんの「パンツァーメモ」では、III号E型、F型に続いて、38(t)戦車各型の完成品写真が披露されている。特に38(t)に関しては、個人的に電撃戦の主役であるA型、B型がツボなのだが、尾藤さんの作品で、意外に細かくA型とB型が違うのを知ってびっくり。物干し竿みたいなアンテナくらいしか違わないのかと思っていた。

A型は転輪も違うというのは知らなかった。スロバキア陸軍の、チェコ迷彩の最初の5輌はどうだったかなあ、と思って写真を漁ってみたが、3色迷彩の時期ののV-3000が初期型転輪っぽいかな?という感じ。カーキに塗り直されたV-3003は通常転輪のようだ。

戦争中盤以降に入手したドイツ軍の中古車両の中にも何輌かのA型が混じっているが、こちらは流石に後期型(というか標準型)の転輪に交換されているかもしれない。

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ごみ取り権助(T-34-85 m1943)(4.5)

●T-34-85 1943年型の今後の製作を進めていく上での若干の考証。

アカデミーのキットにおける、112工場製仕様として若干詰め切れていない部分、および、1943年型を作るうえで「バックデート」すべき点については、キットレビューおよび製作記の初回以降でも触れた(それらについては、これまでも書いたように、グムカのブログ記事「アカデミーの車体を、より1943年型らしくする」に負うところも大きい)。

ただ、よくよく当時の写真を見ると、それだけで済まなそうな部分もいくつか目についてくる。

車体工作上で面倒なのは(すでに作業を終えた)ラジエーター上カバーの形状改修だが、工作として厄介、あるいは考証上厄介なネタが主に2つ残っている。今回は作業の進捗報告は無しで、その辺について少々。

起動輪

厄介ネタのその1が起動輪。アカデミーのキットには駆動用ローラーピン頭部分が戦後型のフラットな、後期標準型起動輪が付いている。一方で、転輪を若干初期の仕様に変えようと思って仕入れたMiniartの転輪セットには、表側がキャッスルナットになった戦中標準の姿の後期型起動輪が付いていて、基本、普通の(つまりZIS-S-53装備の)T-34-85の戦中仕様を作ろうと思えば、そちらに交換するだけで済む。

しかし、112工場製車輛の場合、どうやら-85の1943年型は(あるいはZIS-S-53装備の1944年型の極初期も?)ハブの周りにボルト列があり、リム部が別体になったより初期の形質の起動輪を使っているようだ。

実際のところ、起動輪は履帯の陰になって仕様をちゃんと確認できないケースも多いのだが、少なくとも、確かに形状が確認できる写真では(私が見た限りでは)そうなっている。

キットでいえば、例えばドラゴンの1940年型~1941年型キットに入っている起動輪パーツのバリエーションになるが、同工場製車輛の場合は、リム部が2重のリングではなく、ムクの鋼製になっているものが使われているのが普通のようだ。

このタイプの起動輪は、私が知る限りではパーツ化されていない(レジンとか3Dプリントのアフターパーツでは出ているのかもしれない)。

F1015538 右は、以前に112工場製の1941年戦時簡易型(同工場製最初期の、ガソリンエンジン搭載型と言われている仕様)用に、ドラゴンのパーツから改造したもの。ただし、この写真ではローラーピン頭が円錐形だが、標準の後期型起動輪同様、途中から(-76の1943年型あたりから?)キャッスルナットが表になっているため、今回はさらに面倒な改修作業が必要になる。やれやれ……(実を言えば、写真の1941年戦時簡易型用も、まだ片側分しか作っていない)。

ちなみに、-85の1943年型でも使われていることからわかるように、それ以前の112工場生産型では基本すべてこのタイプのはずなのだが、1:35ではドラゴンの「112工場製」と銘打たれている複数のキット、1:48ではタミヤの-76、ホビーボスの「112工場製1942年生産型」のいずれも、この特徴は再現されていない。ドラゴンのキットのいくつかでは、リム部がムクでないごく普通の初期型起動輪パーツが入っているが、後期型起動輪しか入っていないものもある(AFVクラブの1:35の「T-34/76 1942 Factory 112」は3種の起動輪が入っているが、これも一般的な初期型と後期型、およびスターリングラード工場製に使われているタイプの3種のようだ)。

予備燃料タンク支持架

アカデミーのキットの燃料タンク支持架は、(成形上の都合で内側が埋まっているものの)帯金をM字に曲げ、ロッドを差し渡した、183工場仕様と同形状のものになっている。

Marcia_nel_fango しかし、一本の取付けベルトを支持架側で止める183工場タイプの支持架に対して、112工場製車輛の場合は燃料タンクの外側(車体後方から右側タンクを見た場合、おおよそ2時くらいの位置)で止める(つまりベルトは2分割されている)ようになっていて、当然、支持架も別の形状であろうことが推察される。右写真はwikimedia commonsより(パブリック・ドメイン)。

いくつかの写真から、112工場製車輛では、基本、台形の板状の支持架が使われていたらしいことが判る。ディテールが判る鮮明な写真がなかなかなくて苦労するのだが、比較的有名な写真で(しかも-85の1943年型で)しっかり写っている写真もある。

また、これも比較的有名な、ドイツ軍が鹵獲してマーキングを書き込んでいる鍛造砲塔型の-76 1943年型で、やはり台形の燃料タンク支持架のを付けている車輛もある(例えばこのページの写真3枚目)。しかしよく見ると、台形の支持架側面にベルトを止めるベロがあり、支持架側で一本ベルトを締め付ける仕様になっているらしいことが判る。どうやら一般的な112工場仕様の支持架とは違うようだ。これはキーロフスキー工場製だろうか?


●そんなこんなで、112工場製仕様の(特に予備燃料タンク支持架の)ディテールがよりよく判る鮮明な写真はないものだろうか

と思いつつネット上の写真を漁っていると、20年ほど前にエストニアの沼地からサルベージされ、T-34マニアの間でそこそこ話題になった(鹵獲ドイツ軍マーク入りの)-76 1943年型が、まさに112工場製車輛で、前述のタイプの燃料タンク支持架をしっかり付けているのに行き当たった。たとえば以下の2サイトあたりを参照のこと。

すごい! まさに知りたい部分が現存してるんじゃん!

とりあえずネットで漁った写真には沼地から引き揚げている時の写真しかなく、しかし、引き揚げられたのが20年前なら、綺麗にレストアされた(望ましいのはレストアよりも単純に“掃除”されている状態だが)walkaround写真もあるのではないだろうか?――というわけで、facebookで最近加入した「The T-34 Interest Group」で、「誰かそういう写真を知らない?」と質問を上げてみた。

いくつか「いいね!」を貰った後で(「いや、欲しいのは情報なんだ! 『いいね!』じゃないんだ!」と思い始めたところで)、思わずビンゴ!と叫びたくなる、この車輛のレストア中の写真が多数上がっている(エストニア語の)掲示板(スレタイトル:tanki T-34/76 restaureerimine」を紹介してもらえた。なお、ページを開くとべろんと広告が下りてきたりするが、下端の「▲」をクリックすると畳める)。

ありがたやありがたや……。

望んだ燃料タンク支持架部分のみのクローズアップ写真はなかったが、比較的単純な形状だけにここに出ている写真だけでもおおよそのことは判るし、レストア中でバラバラにした写真からは普段は見えない部分も判り、思いがけない収穫も多々あった。とりあえず、これらの写真の“見どころ”を列記してみる。

▼予備燃料タンク支持架は、基本形状は台形の板の台座に、タンクのホールド部分に帯材の付いた比較的単純な形状(ただし右側面最前部の支持架は、上辺にも帯材のようなものが追加されているようにも見える。

台形の左右(というか上下)辺は同じ傾きではなく、若干下側の傾斜の方がキツイような気がするが、よく見ると上辺が揃っていないような気も。単純に切り出しが適当なだけかもしれない。

台座の帯金側の両端に小さな穴が開いていて、ベルトの取付けに関係のある部分だと思われるが、ベルトそれ自体は失われているため詳細は判らない。ここをどうするかが課題だなあ……。戦時中の写真で、これが判るものってないかしらん。

ホールド部分の帯金は、台座がその中心ラインに来るように付けられているのか、どちらかにズレているのかは、クローズアップがないので今一つよく判らない。

また、車体に対しては、台座部分にベロなどはなく、単純に板材を立てた状態で溶接してあるようだ。この写真で、根元に光が差している部分が見えるので、台座は両側と真ん中の3カ所で破線状に溶接してあるようだ。

▼起動輪は、基本初期の形質でリム部がムクになっているタイプ(例えばこの写真)。上で考察したように、駆動用のローラー軸部は、起動輪の表側でキャッスルナットになっている。

また、この写真を見ると、裏側は円錐形の軸頭になっており、要するに、-76の1941年戦時簡易型あたりとこの時期とでは、起動輪それ自体のパーツに変更があったわけではなく、何らかの理由で裏表が逆転しただけ、ということが判る。これはおそらく、183工場製等で先に使われた後期型起動輪においても同様だと思われる(ドラゴンの(戦中型仕様の)後期型起動輪だと、両側ともキャッスルナットになっていたりするが)。

▼履帯ピン打ち戻し板は、アカデミーのキットに入っているような起動輪前方のザブトン型ではなく、より初期の形質である、起動輪付け根部分上方の扇型(この写真ほか)。この車輛はキューポラ付きの43年型で、前面装甲板の組み継ぎもすでに廃止されており、-85の1943年型の直前に生産されていた仕様と考えられる。組立中の-85の1943年型も扇型打ち戻し板にしておいたほうが無難か。

なお。Wydawnictwo Militariaの#275「T-34/85」では、-85でも初期(1944年初頭)には前面装甲板が組み継ぎのものが生産されたとする図面を載せているが、これはちょっとアヤシイ気がする。

Tr50l12 ▼履帯は、引き上げ時の写真では泥のために詳細が判らないが、レストア時の写真で、後期500mmワッフルタイプのうち、センターガイドのついている履板のリブが両側目一杯まであるバリエーションであることが確認できる(レストア時に他から持ってきて交換されていなければ)。

右画像は、一番上がこのタイプ。中がより一般的な500mmワッフル。ガイドが付いていない方のリンク(下)は通常タイプで変わらず。矢印は正規の取付け方向における履帯の回転方向。

-85の1943年型でも、パターンがしっかり確認できる写真ではこのタイプを履いており、贅沢を言えばこのタイプを履かせて作りたい気がする。……が、このタイプの別売履帯なんて出てたかなあ。

▼サスアームはあらまあびっくり。183工場ではおそらく1942年型の中途くらいから使われ始めた角形断面ではなく、より初期の形質である丸形断面のサスアームだった(ただし、STZの1942年生産型同様、根元の外れ止めはすでに導入されている)。主にこの写真より。

また、第1転輪用アームは、ドラゴンがパーツ化している初期型アームとは違い、車体側軸部頭が第2転輪以降用と同形。つまり、ドラゴンがパーツ化している初期型の丸形アームと、後期型の角形アームの中間的な形質ということになる。私がSTZ 1942年生産仕様を作ったときには、第1転輪用アームはキットのまま使ってしまったが、STZでも1942年生産型あたりはこの形状になっている可能性がありそう。

なお、第2~第5転輪用サスアームは左右の互換性はないが、第1転輪用は上下にダンパー受けがあり、左右同形になっているらしいことがで確認できる。

ちなみにドラゴンの「OT-34/76 Mod.1943 (No.112 Factory)」では、丸形断面の初期型アームも入っているが不要部品扱いで(外れ止めのベロも無し)、角形断面のアームを使うよう指示されている。

しかしこの時期、まだ丸形断面のアームを使っているとなると、-85の1943年型も丸形サスアームの可能性があるかもしれない。

▼第一転輪サスアーム用のダンパーがダブルになっているが、2つのダンパーの間に隙間はなく、台座はピッタリくっついている(この写真)。アカデミーのキットをそのまま作ると、若干の隙間が開く。まあ、転輪を付けたら見えないからいいけれども。

▼転輪は、引き上げ時の写真ではよく判らないが、リム部のゴムは「穴・刻み目あり」多数に、「穴のみ」タイプが混じっているのがこの写真で判る。面白いことに、一つの転輪の内外で違うタイプのリムが使われているものも(この写真)。

誘導輪は小穴の縁に盛り上がりがあるタイプ(この写真)。というわけで、私の-85 1943年型は、Miniart製ではなく、やはりアカデミーのキットの誘導輪を(ハブキャップを加工して)使うように再び路線変更するとに。

▼現時点で私のT-34-85には付けていないが、どうやら-85の1943年型でも、この車輛同様、車体機銃防盾直下の跳弾リブは付いていそうな感じ……(鮮明な写真がなく、有無が判りづらいが)。

ちなみにこの写真では、その跳弾リブのほか、私が112工場製車輛の特徴の一つと考えている誘導輪位置調整装置のボルト頭の「でべそ」もしっかり確認できる。また、-76の43年型ですでに角形ノーズ(前端のコーナー材)が存在することも判る。

操縦手ハッチの写真で、ペリスコープカバーが付く部分の外側左右に、正体不明の円筒形の小突起が確認できる(しかも左側は1/3ほど削れている)。よくよく資料写真を見直すと、112工場製1941年戦時簡易型の現存車輛でも同様の突起が確認できるものがあった。謎。

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