資料・考証

オチキスのトリビア

●facebookに先に投稿した話の焼き直し。

「タミヤからオチキスが出る!」という話をした後に、邦人さんから「前の(ルノーR35)とどう違うの?」と言われた。積んでいる砲塔はまったく同じ、車格も同等、車体も同じように鋳造で丸っこく、実際、フランス戦車マニアでなければそう思ってしまうくらいに“キャラ被り”なのは確かだと思う。

そんなわけで、蛇足ながら、ルノーR35とオチキスH35/38/39との簡単な識別点や、「実はここが大きく違う」点、ほかオチキスの特徴など、「オチキスのうんちく」をまとめてみた。これまで書いてきたことの繰り返しもあり、フランス戦車好きなら「そんなん知ってるわい」ということも多いと思うので、まあ、生温い目で見て頂ければ。

ということで、つらつらと。

●オチキス軽戦車概説

▼オチキス製軽戦車はもともと、フランス軍の軽歩兵戦車に対するオチキス社の自主案としてスタートしたもの。戦車開発諮問委員会に計画案が提出されたが、政治的配慮で、改めて要目が示されて国内メーカー数社で競作されることに。結局、この競作のなかから、ルノーR35、オチキスH35、FCM36の3種が採用されることに。このうちFCM36は将来性が買われての採用で、制式化も生産も遅れたうえ、生産量も多くない。

▼オチキス製の最初の試作車は、無砲塔・ケースメート式で機銃装備。後の量産車とは大きく形が異なっていた。その後、装甲増厚が指示され、さらにルノーと共通の砲塔を搭載することになって量産車のスタイルに。

▼オチキスH35はとりあえず採用され200+200輌が発注されたものの、量産車の試験で不整地での操縦性能に著しく難があることが判り、歩兵科は最初の100輌以上の受け取りを拒否。これまた政治的配慮で、残りは騎兵科に押し付けられることに。歩兵科の軽戦車の主力はルノーR35に。その後エンジンが強化され操縦性能も改善されたが、こちらは再び歩兵科での使用がメインに。

▼一般に、エンジン強化前の旧車体のものをH35、エンジン強化された新車体で短砲身37mmSA18装備のものをH38、新車体で長砲身37mmSA38装備をH39と呼ぶことが多いが、これは(戦時中からすでに使われ始めていたらしい)通称。正式名称は、Char léger modèle 1935 H(オチキス製軽戦車1935年型、Hはオチキス社略号)、新車体はChar léger modèle 1935 H modifié 39(オチキス製軽戦車1935年型、39年改型)で、武装による呼び方の別はない。なお、少数ながら旧車体で長砲身に換装されたものも存在する。

▼昔々のエレールのオチキスのキットはH35、H38、H39が選べる贅沢なキットだったが、実際には旧車体のH35はエンジンルームが違うだけでなく、履帯も若干狭いなど細かい違いが多いようで、今日的な目で見るとちょっと無理がある。

●オチキスH35/38/39とルノーR35の違いなど

National_museum_of_military_history_bulg ▼ルノーR35の転輪は片側5つ。オチキスは片側6つ。ルノーの転輪は一貫してゴムリム付き。オチキスは初期はゴムリム付きだが、新車体になってからは全鋼製に。(写真はブルガリア、ソフィアにある現存車。wikimedia commons、File:National Museum of Military History, Bulgaria, Sofia 2012 PD 072.jpg、Bin im Garten氏による)

▼両車種とも似通ったはさみ式ボギー・サスペンションだが、ルノーはゴムスプリングで片側2.5組、オチキスはコイルスプリングで片側3組。ちなみにオチキスのコイルスプリングは、ソミュールの展示車のクローズアップ写真を見るに、巻きが逆方向の2重式になっているらしい。

▼両車種とも鋳造の丸っこさが目に付くが、実際の構成は異なっており、ルノーのシャーシは圧延鋼板製(車体前端と後端は鋳造パーツ。なお、車体前端上面も圧延鋼板)。オチキスはシャーシを含め基本パーツ全てが鋳造。オチキスの車体構成は、車体前部、車台中部右、車台中部左、車台後部、戦闘室、エンジンルーム上部の6パーツ。上掲のソフィアの写真で確認できるように、車体上部の張り出しの下端に、シャーシパーツとの継ぎ目が来る。

▼前述のように、オチキスは試作段階では無砲塔。ルノーは連装機銃装備のものだったが、後に国営ピュトー工場でルノー向けに37mm砲装備の新砲塔が設計され、オチキスも同一の砲塔を積むことに。

▼ルノーの操縦席は左寄り。オチキスの操縦席は右寄り。駆動系の配置の問題によるものと思われるが、なぜ逆?

▼両車種とも追加装備で尾橇があるが、形状は別々。ルノーは車体後面にエンジン点検ハッチがあるため、尾橇はそれを避けて基部がちょっと凝った形状。オチキスはもうちょっと素直な形状。尾橇の支持部はルノーは鉄骨の組合せ、オチキスは板材。

Hnose ▼ルノーは車体前端に楕円のメーカー銘板がねじ止めされている。オチキスは前面にデカデカと社名が鋳込んである。オチキスは下請け工場の別や、おそらく生産時期によって、ロゴに何種かのバリエーションがある。詳しくは別記事参照のこと。鮮明な写真で詳細に確認できるなら、もっとバリエーションは増えそう。

なお、記事中、出典として「chars-francais.net」の写真にたびたび言及、リンクを張っているが、記事中のリンクは全て切れているので注意。サイト、「chars-francais.net」自体は復活しているが、オチキスH35~39の大量の写真は現在はサムネイルしか見られない模様。

オマケ

オチキスは第一次大戦前からの大手軍需メーカーで、1897年型~1914年型重機関銃が特に有名(日本も採用)。創業者はアメリカ人のベンジャミン・ホチキス。

なお、(以前にも一度書いたことがあるが)文房具の米ホチキス社の創業者とは親戚(or兄弟or従兄弟)で、ステープラー(いわゆるホチキス)は機関銃の装弾機構を参考に作られたという話があって、私も昔は「へー、そうなんだー」と思っていたのだが、これは俗説。両社創業者はともに米コネチカット州出身ではあるものの、血縁だったかどうかも確認できないとのこと(wikipediaのステープラーの項に記述あり)。

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FCM 2Cのディテール・メモ(後編)

●たいぶ間が開いてしまったが、フランスの超重戦車、FCM 2Cのディテール・メモの後編。

10両作られた実車の個別ディテールチェック、今回は6→96号車から。なお、前記事同様、「写真がある/ない」と書いているのは、あくまで私が知っている範囲なのはご了承のほどを。

ディテール検証のために見た写真は、基本、「char-francois.net」と「world war photos」のものがメイン。「char-francois.net」は閉じてしまったのでリンクの張りようがないが、「world war photo」(ほぼドイツ軍が接収して後の写真)については、各車記事末尾にリンクを張るようにした。そのうちリンク切れしてしまうことも考えられるが、できれば多くの写真を参照してほしいので。前編掲載の91-95号車に関しても、今後リンクを追加するかも。

本編に入る前に、各車両(全10両)が1940年のドイツ軍による侵攻時に、どのような末路を迎えたかの一覧を挙げておく。

10両作られた実車はすべて同一部隊(開戦時は第51戦車大隊/51e BCC)に配属されたが、独仏の地上戦開始時点で、2両は実質的に廃車状態、残りは動員されてマジノ線後方で待機に入ったが、待機地点に到達前に1両が故障して脱落、その後撤退が決定し鉄道駅に行く途中でさらに1両が故障脱落。

最終的に、6両が専用貨車に載せられて(というか吊り下げられて)後方への輸送が行われたが、ドイツ空軍の攻撃で鉄道網が寸断されて立ち往生、最終的に爆破処分された。

  • 1→91号車「プロヴァンス」:撤退のため鉄道輸送中、積載状態のまま爆破処分。
  • 2→92号車「ピカルディ」撤退で移動中路上で故障しスタック。その後爆破処分。
  • 3→93号車「アルザス」:撤退のため鉄道輸送中、積載状態のまま爆破処分。
  • 4→94号車「ブルターニュ」予備車両として部品取りに使われほぼ廃車状態。
  • 5→95号車「トゥーレーヌ」集結・待機地点への移動中路上で故障しスタック。その後爆破処分。
  • 6→96号車「アンジュー」予備車両として部品取りに使われほぼ廃車状態。
  • 7→97号車「ロレーヌ(旧ノルマンディ)」:撤退のため鉄道輸送中、積載状態のまま爆破処分。
  • 8→98号車「ベリー」:撤退のため鉄道輸送中、積載状態のまま爆破処分。
  • 9→99号車「シャンパーニュ」:撤退のため鉄道輸送中、積載状態のまま爆破処分(爆破失敗)。
  • 10→90号車「ポワトゥー」:撤退のため鉄道輸送中、積載状態のまま爆破処分。

以下、個別の特徴など。

●6号車→96号車 アンジュー(ANJOU)

▼初期

他の2Cと異なり、一桁番号が書かれた時期の写真は(私の手元には)1枚もない。少なくとも写っている範囲には何のマーキングもない、おそらくグリーンの単色塗装の写真が3枚ある(それがなぜ6/96号車と判断できるかといえば、char-francois.netで6/96号車として掲載されていたため。他力本願)。車体前面がしっかり写った写真はないため、そこに固有名「ANJOU」が書かれていたかどうかも判らない。

うち2枚の(演習もしくはテスト中の)写真では、エンジンルーム上に第一次大戦中のイギリスのマークI戦車のような山型の金網付きフレーム?が取り付けられている。これは他の2Cには見られない装備。

残る1枚では、これまた、エンジンルームの前後に鳥居のようなフレームが付いている。用途不明。

以上3枚の写真では、全て、車体横ハッチの上に何やら四角いプレートが付けられている。何か文字が書かれているようにも思えるが、白飛びしていてはっきりわからない。スカートはフルで装着。誘導輪基部先端にカバー?はない。

▼最終状態

wikipediaによれば、第二次世界大戦の勃発直前から進められたオーバーホールにおいて、94号車と96号車は最も調子がよかったために逆に再び予備役に回され、その後、僚車の部品取りに使われたのだという。

もう一両の予備車輛、94号車「ブルターニュ」は、前編に書いたように最終状態の写真が手元には1枚もないが、96号車「アンジュー」は、デポか兵舎のような建物の隣に放置された状態の写真が何枚か残されている。逆に、この96号車は、二桁番号記入後で稼働中の写真がない。

放棄状態の写真では、おそらくグリーン系の単色塗装に、車体左右前端の所定の位置に「96」の車輛番号。どの写真でもメイン砲塔は取り外されていて見当たらない。単に砲塔だけ外されているのではなく、車体側の砲塔リング部分も失われている。

エンジンルーム上のマフラー等も確認できず、エンジンルーム上面版ごと取り外されている可能性がありそう。エンジンルーム前端には何か曲線のフレーム状のものが確認できるが、実際にそこにそのような部品(装備)が取り付けられているのか、あるは曲がった鉄骨のようなものがたまたま載せられているだけなのか、判断できない。

車体前面の写真を見ると、操縦手用バイザーは付けられておらず(ヒンジも見当たらない)、どうやらバイザーは、94号車・96号車が予備役に回されることが決定して以降に追加されたのではないかと推論できそう。また、標準では戦闘室前面左右にあるコの字金具は、この96号車では左側にしかない(94号車では右側にしかなかったのと逆)。スカートは装着していない。誘導輪基部先端のカバー?無し。

車体前面に車輛名の記入無し。車体前面に、進駐してきたドイツ軍が試し撃ちしたものらしい弾痕が数カ所確認できる。車体右側スポンソン後端には、ドイツ軍によって上段:Beutegut(戦利品)、下段:F****114(途中判読できず、部隊名か)と白字で書き込みがある。

サイト「world war photo」には、96号車の写真は1枚だけある。頭の番号は、同サイトが掲載しているFCM 2Cの写真50枚中の何枚目かを示すもの。

  • 37/50:右後方からの撮影。

●7号車→97号車 ノルマンディ(NORMANDIE)→ロレーヌ(LORRAINE)

▼初期

一桁番号時代のものと言い切れる写真は、少なくとも私の知っている範囲ではない。渡渉中などで車体番号が確認できない写真はあるので、もしかしたらその中に紛れている可能性はあるかも。

▼後期(1)

車輛番号が「97」となっても、名称はしばらく「NORMANDIE」のままだった(車番の2桁化は1936年、名称変更は1939年)。

比較的多数の写真が残っている状態は、キットのデカールにも取り上げられている、「単色塗装、砲塔左面に大きくノルマンディ地方の盾形紋章、砲塔リング左にNORMANDIEの車輛銘板、戦闘室前面(操縦手バイザー下)に小国旗付き車輛名 」の塗装とマーキング(キットの指定塗装C)。車体前面の楕円のメーカー・プレートは塗り潰されていないらしく明色に写っている写真が確認できる。 「97」の車輛番号はあっても砲塔の盾章が描かれていない写真もあるが、どちらがより初期の状態なのかは不明。

戦闘室前面の小国旗付き車輛名が書かれていない写真もあるが、これに関しては、char-francois.netで97号車として出ていたものの写真に車番を特定できるものは写っておらず、本当に97号車なのか(またそうであったとしても番号が二桁になってからのものかどうか)不明。

車輛のディテール自体はキットで再現されているのと基本は同じ標準仕様だが、操縦手用バイザーは(ヒンジも)付けられていない。スカートは装着している写真、していない写真、両方がある。

ちなみにノルマンディの紋章は「赤地に二頭のヒョウ、またはライオン」。一応、文字で表現されるときは「deux léopards d’or(2頭の金のヒョウ)」と書かれることが多いようだが、絵としてはタテガミ付きでライオンっぽく描かれることもある。これはどちらが正解ということではなく、フランスにおける紋章学上では「ヒョウとライオンは同じもの」扱い(より正確には、描かれた生物学的特徴での区別はなく、姿勢によって lion か léopard か呼び分ける。でもって、Normandieの旗の場合は léopard)なのだそうだ。へー。

D5012_nr_741_f_19410102_panzerkampfwagen

▼後期(2)

時期としては前記の単色時代より後なのか前なのか、実ははっきりしないのだが、車体の仕様としては標準のまま、車体横前端の「97」の番号は同様ながら、車体全体に2色?の迷彩を施した写真も残っている。写真それ自体がやや不鮮明なのではっきりしたことは言えないが、主砲塔部分を見ると、暗色地に明色の大まかな斑点迷彩の様子。

砲塔リング部分に車輛名の銘板が付いているのは判るが、車輛名それ自体は読み取れず、「NORMANDIE」と書かれているのかどうかはっきりしない。

なお、この迷彩の写真はchar-francois.netでは「7-97 normandie 04」として掲載されていたものだが、これとは別に、もう一枚、標準的な車体ディテールで2色迷彩を施された写真、「7-97 normandie 10」も載せられていた。こちらの写真の2色迷彩は帯状で、先の写真とはパターンが異なるが、この写真自体、渡渉中で車体は隠れていて、車輛番号は確認できない(砲塔リング部の銘板も、存在は確認できるが文字は読めない)ため、実際には97号車の写真ではない可能性もある(もちろん、時期によって塗り替えられていた可能性もある)。下記「後期(3)」時期の迷彩とは微妙に違う感じ。

いずれにせよ、どちらの写真でも砲塔の盾形紋章は確認できない。

▼後期(3)

その後、97号車は中隊指揮戦車として独自の改修を受け、この1両のみの独特な仕様となった。おそらく同時期に、車輛名も「LORRAINE」に変更された。改修ポイントは、おおよそ以下の通り。

  • 砲塔上面に増加装甲。若干の隙間を設けたスペースド・アーマー形式のように見える。
  • 主砲塔前の工具箱を除去し、ここにも上面に装甲?を追加。さらに車体前端上面にも増加装甲をボルト止め。砲塔前の戦闘室上面は薄手のスペースドアーマーかも。シャーシ前端上面は厚手の装甲をベタ止めに見える。
  • エンジンルーム上部をさらに一段かさ上げ。かさ上げされた部分は、左右、および前部がオーバーハング(前部は主砲塔をやや巻く感じ)。かさ上げ部分の上面は、中央(やや右寄り)に縦一本にルーバー。その左右は装甲。
  • エンジンルームのかさ上げの結果、もともとエンジンルーム上面に置かれていたマフラーは撤去。排気管は車体左右に這わせて、車体後端まで伸ばされている。特段、マフラー等は設けられていない模様。
  • 左右スポンソン上部に並んでいるグリルには防弾板が取り付けられる。
  • 操縦手用バイザーは装備。前照灯は無し。
  • ほか、無線機を増設?

塗装は、上記「後期(2)」よりももっと大ぶりなパターンの2色迷彩(ただし、後期(2)の迷彩に近いパターンに見える不鮮明な写真もある)。砲塔左面に、「NORMANDIE」時代よりももっとずっと小ぶりな盾章。しかし、本来ロレーヌ地方の旗/盾章は、黄色時に斜めに赤帯、帯の中に3つの鷲章のはずなのだが、写真に写っている盾章は別のデザインに見える。謎。シャーシ前端中央に「LORRAINE」の車輛名。

wikipediaの解説には、「1939年11月15日から12月15日の間」に、97号車は「実験的に追加装甲を施された」とあり、これが上記の改修を指すらしい。

▼最終状態

僚車と共に鉄道輸送状態のまま爆破処分となる。この時には、上記「後期(3)」時期に実施された改修のうち、エンジンルーム上部のかさ上げ部分は撤去されているようだが、その他の、各部の増加装甲、車体後端まで延長された排気管はそのまま。これら、97号車のみの特徴は下の写真でも確認できる(wikimedia commons, File:Char2C 97.jpg

Char2c_97

損傷が激しく、側面装甲は左右とも大穴が開いている。車体左右前端の車輛番号「97」以外のマーキングや塗装の詳細はよくわからない。左面の写真も存在するのだが、砲塔左面の盾章はボンヤリあるような、ないような……。砲塔リング部の車輛銘板も脱落しているように見える。

車輛の前面(特に戦闘室前面、主砲塔前面)は、進駐してきたドイツ軍が標的にしたようで、多数かつ大小の弾痕に覆われている。標的にされた後の写真では操縦手バイザーがヒンジごとないが(車体機銃もないが)、char-francois.netに掲載されていた、鹵獲直後で標的にされる前の写真では両方とも存在が確認できる。ただし、その写真でも前照灯は(支持架ごと)付いていない。

以下はサイト「world war photo」掲載写真へのリンク。

  • 09/50:左前方から。前面の弾痕が痛々しい。側面前端の車番は極かすかに見える。
  • 39/50:撮影条件(立体交差の鉄橋下)が似ているので、上の09と同じ時に撮ったものか。排気管の取り回し変更、側面グリルを塞いだ改造が判る。
  • 41/50:上の39と一連の写真。側面グリルの防弾板はやや隙間を設けているらしい。左側排気管は途中で途切れているが、本来は車体後端まである(おそらく爆破時に欠落)。
  • 47/50:やはり同じ時の撮影か。ドイツ軍に滅多撃ちされた前面。標準では工具箱がある前部天井の仕様違いが判る。

●8号車→98号車 ベリー(BERRY)

▼初期

一桁番号時代(1936年夏以前、第551連隊所属時代)の写真は何枚か存在。下写真はwikimedia commons、File:Issy-les-Moulineaux 31-3-28 manoeuvres de chars- Agence Rol 03.jpg。この写真から読み取れる状態は、

  • 基本、車体の細部ディテールは標準仕様と思われる。
  • ただし、エンジンルーム後部のロッドアンテナが、途中で太さが変わる二段構成になっているのはこの車輛独特?
  • 塗装は単色、スポンソン前端に車輛番号「8」。それだけでなく、シャーシ前面にも番号が記入されているようで、これは他車輛では確認できないマーキングの仕様。

Issylesmoulineaux_31328_manoeuvres_de_ch

他の同時期の写真で見る状態もおおよそ同じだが、角度的にシャーシ前面まで写っているのは(私が知る限りでは)上の1枚だけで、前面の「8」が常に書かれていたか、また車輛名も同時に書かれていたかは定かではない。

操縦手バイザーが付いていたかどうか確認できる写真無し。スカートは装着している写真が多いが、装着していない写真もある。

また、車庫あるいは工場内と思われる場所で写された、ほぼ同時期と思われる写真が1枚あり、その写真では主砲塔が外されて車体の前に置かれており、その砲塔の右前部にも車輛番号「8」が書かれている。ちなみに、砲塔に車輛番号が書かれている事例は、この8号車→98号車以外には見当たらない。

▼後期

車番が「98」に変わり(1936年以降)、かつ「生きている」写真は、私の手元には1枚のみ。

だいぶ不鮮明な写真で、しかもスポンソン部にはべったり汚れの雨だれ模様がついているので、塗装は「う~ん、単色、かなあ?」くらいにしか判らない。スポンソン前端部に「98」の車番。砲塔リング部には(文字は写真が不鮮明で読み取れないものの)車輛銘板。左側、やや後方から撮った写真なので、車両の前面に番号または車輛名が書かれていたかどうかは判らない。砲塔に地方の盾形紋章が書かれているかどうかも(反射していて)よく判らず。

その1枚の写真に関する限りでは、スカート付き。誘導輪基部先端のカバー?は写真が黒く潰れていて確認できず。

無線機が換装されたのか、ロッドアンテナは見当たらず、エンジンルーム左側に沿って3本の柱。おそらく上端にアンテナ線を張り渡しているのではと思う。

▼最終状態

僚車と共に鉄道輸送状態のまま爆破処分。スポンソン前部の左右とも大穴が開いているのは「97」号車同様だが、変形はさらに激しく、鉄道輸送状態で爆破処分された6両中、おそらく最も大きく破損している。

車輛の仕様はおおよそ標準だが、エンジンルーム後部にロッドアンテナの基部は見えない。上記でアンテナ形態が変更されてから戻されていなかった可能性がありそう。左側誘導輪基部前端には箱型カバーあり。右はないが、爆破時に脱落したか?

スカートは左右とも後半は装着、前半がないが、前半部は車体の変形も激しいので、爆破時に脱落したものと考えられる。

塗装は単色ではないかと思うが確証なし。スポンソン前端、誘導輪基部の標準位置に「98」の車輛番号。前面の写真は手元にないので、車体前面の車輛名や、初期にあった車番の記入等は確認できず。当然、操縦手バイザーフラップの有無も確認できず。

非常に興味深いのが、主砲塔にも大小2種の「8」の数字が書き込まれているらしいこと。かなりかすれて見づらいものの、右面は前部に小さく、後部には上下幅いっぱいに大きく書かれている。左面は2種の数字が隣り合って、両方とも装甲の継ぎ目よりも前に書かれている(小数字が前、大数字が後ろ)。左面の数字は写真によっては見えづらく、char-francois.net掲載の写真では確認できなかったが、world war photoのこの写真では何とか確認できる。

前述のように“かすれ”が激しいが、もともとはっきり書かれていたものが炎上で消えかけたのか、あるいは炎上の結果塗り潰されていた数字が再び浮き上がってきたのか、その辺はよく判らない。主砲塔左側面にも大きな白い菱形のような、何かしらマーキングの痕跡のようなものも見えるが、実際にマーキングなのか、単に塗料が焼け焦げた結果なのか、これもよく判らない。

以下、「world war photo」掲載写真へのリンク。

  • 07/50:左前から。激しい損傷具合が判る。誘導輪基部先端のカバー?がある。
  • 18/50:上記解説文中にリンクを張ったもの。左からのクローズアップ。
  • 42/50:右から。戦闘室床面も失われていて、車体が折れそうな損傷。
  • 43/50:右前から。実際既に車体前部と後部では角度が違っているのが判る。こちら側には誘導輪基部のカバー?がない。

●9号車→99号車 シャンパーニュ(CHAMPAGNE)

▼初期

1920年代半ば、9号車のみ、155mm榴弾砲装備の“突撃戦車”仕様、2Cbisに改造された。

主砲は、日本語版wikipediaによればシュナイダー115C 1917年式を元にしたもの、とのことなのだが、2Cbisの搭載砲は非常に肉厚で太短く、シュナイダー115Cとは似ても似つかない形状で「ホンマかいな」という感じ。なお、英語版、仏語版wikipediaにはシュナイダー115Cを元にしたという記述はないようだ。

砲塔は上半分が鏡餅のような独特の鋳造のもの。キューポラは主砲塔と独立して、砲塔の後ろに置かれているらしい。車体側はあまり大きな差異はないようだが、車体銃は除かれているようだ。

写真は、私の手元には斜め右前方、右側方からの不鮮明な2枚があるだけだが、それで確認できる範囲では、塗装はおそらく単色。目立つマーキングは特にないが、車体前端の楕円のメーカー銘板が三色旗に塗り分けられているようだ。

2Cbis仕様への改装はあくまで試験的なもので、後に標準仕様に戻されている。ただ、一桁番号が記入された標準仕様の9号車の写真は、少なくとも私は見たことがない。

▼後期

車番が「99」に変わり(1936年以降)、かつ貨車に積載された放棄/鹵獲状態でない写真は、char-francois.netには2枚。片方は、スポンソン部に雨垂れ状の汚れが激しいので確言は出来ないが、単色塗装に見える。もう片方は最終状態の放棄時と同じ2色迷彩。

前者は車輛から見て左前方から写したもので、側部先端に「99」の車番、砲塔下リング部横に暗色地に白文字の車輛銘板。車体前面は写っていないので、マーキングの有無は不明。砲塔に紋章等は確認できない。

後者は路上?に停車した状態で、右やや前から写されたもの。前述のように、ちょっと前衛芸術っぽい入り組んだ塗分けの2色迷彩で、パターンも鹵獲時と同一。側部先端に「99」の車番。左面や車輛前部は写っていないのでマーキングの有無は不明。周りに人の姿もないので、実際にはフランス軍の下にある時のものか、ドイツに鹵獲された後なのか、いまひとつよく判らないが、後述の、スポンソン部のドイツ軍によって書かれた文字が見当たらないので、一応、フランス軍時代の写真と判断した。

ともに操縦手用バイザーの有無も確認できないが、少なくとも後者は、40年6月の放棄時と極めて近い状態なので、バイザーは付いていたはず。この2枚の写真とも、前面装甲中央の前照灯は支持架ごと未装着、かつスカートも装着していない。誘導輪基部先端のカバー?も無し。

▼最終状態

僚車同様、鉄道輸送状態のまま爆破処分されるはずが、爆破に失敗してほぼ無傷でドイツ軍に鹵獲される。そのため、残されている写真も多い。下写真はwikimedia commons、File:Char2C 99 01 res.jpgPhrontis

Char2c_99_01_res

この時の塗装とマーキング、車輛細部の仕様は、

・ちょっと前衛芸術っぽい入り組んだ塗分けの2色迷彩。比較的明るめに見えるので、MENGキットの「93号車」の塗装指示にある、グリーン/ベージュ系の迷彩か。上方から写した写真を見ると、この2色の塗り分けはエンジンルーム上のマフラーでも確認できるので、このマフラーが、焼けた赤錆状態にはなっていないことがわかる(塗装からあまり時間が経っていないせいもあるかもしれないが、そもそもこのマフラーはあまり高熱にはならないのかもしれない)。

・側部前方に「99」の車番。近くからはっきり写した写真を見ると、右下方向に向かって細くシャドウを入れて数字を目立たせている。

・砲塔下リング部、左側面に車輛銘板。極めて見づらいが、白縁に暗色の地色、それに地色より少しだけ明るめの文字で「CHAMPAGNE」と書かれているらしい。あるいは白地に車輛名が書かれていたものを、暗色で塗り潰した(そしてうっすら車輛名が見える)という可能性もあるかもしれない。白縁部分がガタガタなので、他の車輛のように銘板が付けられているのではなく、車両本体に直接書き込んでいることも考えられる(銘板が浮き上がって歪んでいるという可能性もあるか?)。

・砲塔に地方紋章等の記入は無し。

・車体正面は貨車との接続等できっちり写った写真は無く、全体像が確認できない。ただし、操縦手用バイザーが付いていること、少なくとも操縦手バイザー下には車輛名の記入がないことは確認できる。

・主砲塔、副砲塔のキューポラのドーム状天井には同心円状の塗り分けがある。フランス国籍マークのコケイドに塗られている可能性がありそうだが、白部分が1/3幅には見えないのもちょっと気になる。なお、副砲塔のキューポラは装着したままだが、主砲塔のキューポラは橋下などの通過時に引っかかるのを防ぐために取り外してエンジンルーム上に置かれている。

・誘導輪位置調整装置部の延長(カバー?)もなく、キットが表現している状態ほぼそのままの仕様。スカートは左右ともフルで装着。

・エンジンルーム左後方のアンテナ基部がキットパーツに比べて背が低く写っている写真があるが、これは蛇腹部が破損したものか?(背が高い、キットと同仕様らしい状態で写っている写真もある)。

・ドイツ軍により、両側面に「Erbeutet Pz.Rgt.10」(第10戦車連隊により捕獲、の意味か)とデカデカと書かれている(右側面のみ、10の後にスワスチカ)。迷彩よりも暗色だが、写真によってはコントラストが弱く見えづらいので、黒文字ではないのではと思う。

「world war photos」上の写真。かなり多数ある。

  • 03/50:左前から。比較的鮮明な写真で、ドイツ軍による書き込みもくっきり。
  • 05/50:左前、やや高い位置から。2Cの写真としては割と有名なもの。車体の迷彩が明瞭。
  • 06/50:左斜め後ろから。この写真ではドイツ軍の書き込みのコントラストが弱く見える。
  • 08/50:左斜め前から。
  • 10/50:左斜め後ろから。
  • 12/50:左から。主砲塔のキューポラがマフラー間に置かれているのが判る。
  • 13/50:前方、やや左から。
  • 17/50:左やや前方から。鹵獲後だが側面の書き込みが見えない。書き込まれる前の撮影か。
  • 20/50:左前方から。
  • 23/50:左やや上から。キューポラの同心円状塗り分けが判る。
  • 24/50:左前上から。全体ではないものの上面が判る貴重な写真。マフラーの迷彩も判る。
  • 25/50:左後ろから。
  • 27/50:珍しく右前から。
  • 33/50:左前上から、No.24よりさらに広範囲。キューポラの塗り分け、マフラーの迷彩が明瞭。
  • 36/50:左前から。やや遠景かつやや不鮮明。
  • 38/50:左前から車体のみ。あまり質の高い写真ではないが、車番のシャドウがはっきり判る。

●10号車→90号車 ポワトゥー(POITOU)

90番台になったらいきなり初号車みたいになってしまったが、本来は最終号車。

▼初期

車番「10」時代の写真は、char-francois.netにもworld war photosにもない。

▼後期

車番が「90」に変わり(1936年以降)、かつフランス軍の下にあって「生きている」写真は大別して2種。

ひとつは帯状?に2色迷彩が施され、車体前端のメーカー銘板?の下に車輛名「POITOU」、その下に小さく三色旗が書かれたもの。この状態の写真は数枚あるが、車両を左側から写したものはなく、砲塔のマーキング、その下の銘板の有無については確認できず。ただし、下記のドクロマークは「ぶっちがい骨(crossbones)」の端がほとんど防盾横の照準窓に接するくらいなのだが、この迷彩時で、わずかに左面が見えている写真では、それが見えない。ドクロマークは未記入と考えてよさそう。

おおよそ、キットが表現している仕様に近いが、誘導輪基部先端には箱型カバーが付いている。スカートは未装着。操縦手用バイザーはすでに付いている。前面装甲板中央の前照灯は支持架のみでライト自体は無し。

もうひとつは全面緑色単色で砲塔左面に大きく、海賊旗風のドクロが描かれたもの(つまりキットの指定塗装B)なのだが、これは写真が明らかに人工着色で、マーキングはともかく、車体の塗装はちょっとアテにならない。この塗装で車体前端に車輛名が書かれていたかは、車輛の前に立つ戦車兵に隠れて確認できない。砲塔下リング部の車輛銘板は、暗色に白文字らしいが、少なくとも手元の着色写真では銘板の地色もグリーンに塗られている。

こちらも誘導輪基部先端には箱型カバーが付いており、スカートは未装着。操縦手用バイザーの有無は確認できず。前面装甲板中央の前照灯は支持架のみでライト自体は無し。

上の迷彩の時期と、このドクロ付きの時期のどちらが先かもよく判らない。ただし、下記のように放棄後にドクロマークがわかる写真もあるので、「ドクロ付き」が時期的に後か。

▼最終状態

僚車とともに、鉄道輸送状態で爆破処分。炎上したと思われる痕跡は認められるものの、「99」以外の爆破処分車輛に比べ表面上の破損は軽度で、左右とも側面装甲に大穴は開いていない。塗装及びディテールは――

・前述のように爆破処理の際に炎上したようで、車輛全面が塗装とは考えづらいまだら模様になっており、単色塗装だったのか、迷彩塗装だったのかも判別しづらい。側面前端には僚車同様、白で「90」の車番。

・砲塔下左側面の銘板は、上記「後期」の着色写真と違い、明色の字に暗色の文字。

・不思議なのは、ほとんどの写真で砲塔はマーキング無しに見えるにもかかわらず、かなり剥げかけではあるものの、明瞭に上記「後期」で書かれていた砲塔左面の大きなドクロマークが残っている写真があること(この写真はchar-francois.netにあったものなので、下リンクには入っていない)。爆破放棄直後は、ボロボロの剥げかけながら残っていたものが、その後しばらくですっかり剥がれてしまったのか? あるいは塗り潰されていたマーキングが逆に浮かび上がってきたのか?

・車体前面~砲塔前面に、ドイツ軍が標的にした弾痕複数。とはいえ、「97」号車のように大小の弾痕がびっしりという感じではなく、同一口径の砲(3.7cm?)の弾痕が7カ所ほど。一発は砲身先端に当たっており、砲口右側が破損欠落している(接収時に砲口が破損しているのはこの「90」号車のみ)。

・上記「後期」同様、おおよそキットの仕様だが、誘導輪基部先端には箱型カバー付き。スカートは無し。

「world war photos」上の写真。

  • 26/50:前方より。ドイツ軍に標的にされた弾痕は、他車輛同様白塗料で囲われている。
  • 28/50:右後方より。車輛番号は確認しづらいが、車体の破損状態は軽微な一方、砲口が破損しているように見えるので、おそらく90号車。
  • 30/50:右前方から。
  • 34/50:右前方から。やや遠くからの撮影、かつ不鮮明。
  • 40/50:左前方から。車番は見づらいが弾痕で90号車と判別できる。
  • 46/50:戦闘室/砲塔前面クローズアップ。砲口部合わせ7カ所の弾痕が確認できる。
  • 48/50:同上。

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FCM 2Cのディテール・メモ(前編)

●前回キットレビューの続き。FCM 2Cを作るにあたっての、ディテールに関するメモ。

実車についてはwikipediaにそこそこ詳しい記事が出ているが、とりあえず簡単におさらいしておくと、

  • 第一次世界大戦中に開発が始まるが、政治的・技術的問題がいろいろあって完成は大戦後。
  • ポルシェ・ティーガーに20年以上先立つガス・エレクトリック方式の駆動系(第一次大戦中に実用化されたサン・シャモン突撃戦車も同方式)。
  • 適切な発動機の選定に手間取るが、賠償で得たドイツ・マイバッハ製エンジン(飛行船用)を得てようやく実用化。
  • 10両だけ生産されるも、実用性は低く、主にプロパガンダに利用される。
  • 第二次世界大戦勃発にあたっては、部隊配備はされるものの実戦参加は無理と判断され、ドイツ軍に鹵獲されるのを防ぐため後方への移動(撤退)が決定される。が、鉄道輸送中に立ち往生し爆破処理(それ以前に鉄道駅までもたどり着けず処分された車両もあり)。
  • 開発・生産は、もともと造船所であるFCM社(Forges et Chantiers de la Méditerranée:地中海鉄工・造船所)。同社は日清戦争で使われた三景艦のうち「松島」「厳島」も作っている(「松島」は日清戦争時の連合艦隊旗艦)。

といった感じ。

一応、試作車1両、量産車9両ということになっているが、ほぼ全車並行して製作されていたので、いわば全部試作車のようなもの。戦間期を通して個別に細かな改修も行われたりしたようで、個体差(時期差)もそこそこある。

生産された10両は1~10の車輛番号が振られたが、これは後に(wikipediaによれば1936年夏)、90番台の新番号に変更された。この際、一桁目をそのまま継承したため、旧10号車が、新番号では最も若い番号の90号車になってしまっている。また、各車両にはフランスの地方(旧地域圏または州)に由来する固有名が付けられている。

  • 1号車→91号車 プロヴァンス(PROVENCE)
  • 2号車→92号車 ピカルディ(PICARDIE)
  • 3号車→93号車 アルザス(ALSACE)
  • 4号車→94号車 ブルターニュ(BRETAGNE)
  • 5号車→95号車 トゥーレーヌ(TOURAINE)
  • 6号車→96号車 アンジュー(ANJOU)
  • 7号車→97号車 ノルマンディ(NORMANDIE)→ロレーヌ(LORRAINE)※1939年に改称
  • 8号車→98号車 ベリー(BERRY)
  • 9号車→99号車 シャンパーニュ(CHAMPAGNE)
  • 10号車→90号車 ポワトゥー(POITOU)

以下、個別の特徴など。

なお、残された写真は、1940年に爆破放棄された時のものを除くと「*年*月撮影」といった詳細が判るものは少なく、相対的に「これのほうが古いかな?こっちが新しそう」くらいしか判らない場合が多い。一応、上記のように「番号が一桁か、二桁か」で、1936年以前・以後は分けられるが、以下の「初期」とか「後期」とかいった記述も、「だいたいそんなもの」程度でしかないことはご了承いただきたい。

本当は、手元にある写真を全部ここに貼り付けられれば説明が楽なんだけどなあ。

●1号車→91号車 プロヴァンス(PROVENCE)

▼極初期?

車体中央のエンジンルーム左右に、排気管取り出しの突出部がない写真がある。おそらく、これが初期形態。2Cは最終的にマイバッハのエンジンに落ち着くまでに何度かのエンジン換装を経ているので、マイバッハ以前のエンジン搭載時の形態か。この状態の写真では、エンジンルーム上左右に柵状のアンテナ?を装着。中央に大型のリールを搭載(通信ケーブルか?)。標準型では塞がれてハッチが設けられた、エンジンルーム上面後部も通風孔のまま?

なお、この仕様の場合、排気管はどこに出ているのかよく判らない。エンジンルーム最前部に、小ぶりな筒状のパーツが縦に2つ並んでいるのが確認できるので、これがマフラーかもしれない。

なお、当初は車体銃が搭載されていなかったようで、前面銃架部分は丸いパッチで塞がれている。操縦手用バイザーフラップ、前照灯無し。前方のやや遠くから撮られた1枚を見ると、シャーシ前面の製造メーカー銘板と思われる楕円のプレートが付いていないようにも見える。

▼初期

エンジンルーム左右に突出部を設けて排気管を出し、エンジンルーム上にマフラーを置いた標準形態に改修。誘導輪位置調整装置部分に車輛番号「1」を白で記入。車輛番号「91」に変更後も、エンジンルーム上に柵状のアンテナ(?)が確認できる写真があるので、車輛番号「1」時代は一貫して柵状アンテナ装備か。

▼後期

車輛番号「91」に変更。それからあまり間もない時期と思われる写真では、柵状アンテナ(?)装備、砲塔リング左側に「PROVENCE」の銘板。車体銃は当初はまだ装備していない模様。前面装甲板左右のコの字金具に、何か長方体のものが差し込まれている様子の写真あり。またこの時期、ごく大雑把に水平方向に塗り分けた迷彩が施されているようにも見える。

車輛番号変更以来?、誘導輪位置調整装置部分先端に箱型カバーを装着。これは最期の爆破処分時の写真でも確認できる。

▼最終状態

1940年6月半ば、ムーズ駅近くの鉄路上で積載状態のまま爆破処分。エンジンルーム上の柵状のアンテナは、少なくともそのしばらく前から装備していない。この時には、スポンソン部および車体前面の車体機銃は装備。操縦手用装甲バイザ―フラップも完備。車体前面中央の前照灯はフタ付き。

爆破処分による損傷は特に車体右前方で大きいが、放棄から間もないと思われる写真では、変形はしているものの装甲板はそのまま。ただし、しばらく後の写真では右前部のパネル2枚分が失われ、大きな穴が開いている。

極初期から最期に至るまで、私が確認できた写真では一貫してスカートを装着。最期のみ、爆破変形した右前半のスカートが脱落している。

●2号車→92号車 ピカルディ(PICARDIE)

▼初期

エンジンルーム上にマフラーを置いた標準形態。誘導輪位置調整装置先端も、キットと同様の状態に見える。

誘導輪位置調整装置部分に車輛番号「2」を記入。記入された車輛番号「2」が白字の写真と、濃色(黒?赤?)の写真とがある。車輛番号が未記入に見える写真もあるが、写真写りの問題で、暗色の番号が見えないだけの可能性もあるかもしれない。

この時期に砲塔リング左の銘板は認められない。

1号車のような柵状アンテナ装備状態の写真はないが、一方で、ロッドアンテナの基部も見当たらないような……。

▼後期

車輛番号「92」が記入され、かつ「活きている」状態の写真は、私の手元には1枚のみ。車体前半しか写っていないので情報量は多くないが、おそらく塗装は単色。スカートが装着されている。

▼最終状態

路上に放置。wikipediaの解説によれば、撤退のため鉄道駅に移動中、ピエンヌ(Piennes:地名)で電気系統の故障のため脱落、その後爆破処理された由。残された写真では、外部に大きな損傷は認められない。スカートは未装着、車体後部に尾橇が付けられている。車体前端の牽引具にはピン(ボルト?)が差し込まれている。エンジンルーム後部に、ロッドアンテナの基部は無いように見受けられる。

上時期同様に、誘導輪位置調整装置部分に白数字の「92」、砲塔リング左の銘板は付けられていない様子。

車体色は汚れているのか焦げているのか、かなりまだら模様になっていて、単色なのか迷彩なのか、ちょっと判別しづらい感じ。斜め前から撮った写真を見ると、シャーシ前面の製造メーカー銘板は、車体色で塗り潰されているように見える。

●3号車→93号車 アルザス(ALSACE)

Char2cpainting8 ▼初期

初期(1936年夏以前、第551連隊所属時代)のものと思われる写真には、

  1. おそらく単色塗装で、誘導輪位置調整装置部分に白数字の「3」(くっきり)。砲塔リング部左に白塗り黒文字?の「ALSACE」の銘板、エンジンルーム上は標準配置。掲示の写真はこの状態(wikimedia commons、File:Char2Cpainting8.JPG)。色は人工着色なのでアテにならない。
  2. 誘導輪位置調整装置部分に白数字の「3」(かすれて消えかけ)、少なくとも砲塔部を見ると、第一次大戦中のような複雑な迷彩塗装。エンジンルーム上はなぜか左側から取り回した排気管が繋がる後部マフラーのみ(写真の修整じゃないだろうなあ)。エンジンルーム横に柵状アンテナ。また、左側面に、おそらく車体上部に上るときに使うのだと思われるハシゴがぶら下げられている。
  3. おそらく単色塗装で、誘導輪位置調整装置部分に車輛番号確認できず。砲塔リング部左に白塗り黒文字?の「ALSACE」の銘板、エンジンルーム上は標準配置。

――の3種の状態が確認できる。いずれの写真でもスカートは完備。どれが古くてどれが新しいのかよく判らないが、エンジンルーム上のレイアウトが異なる2番目がより初期の状態と考えるのが妥当か?

▼後期

1936年夏以降のある時点で、コントラストと塗り分けラインが明瞭な2色迷彩が施される。誘導輪位置調整装置部分に白数字の「93」、砲塔リング部左に「ALSACE」の銘板。砲塔左面には大きく地域圏の盾形紋章。パレードか、何かのイベント時の「お化粧」だったらしく、ロッドアンテナ先端から前後砲塔に向けて綱を張り(前方は主砲、後方はよくわからないが、副砲塔の機銃か)、大量のフランス国旗の小旗を飾っている。キットの指定塗装/デカール3種のうちの1種に選ばれているのがこの状態(ただしデカールに小旗の飾りは付いていない)。スカートは装着していない。

もう一枚、1936年以降の冬に撮られたと思しき正面からの写真がある。塗装は暗色の単色塗装に見えるが、周りが雪なので暗く潰れている可能性もある。シャーシ正面に白字で「ALSACE」の車輛名。前照灯、操縦手用バイザーフラップ付き。シャーシ前面のメーカー銘板は、付いていないか、あるいは車体色で塗り潰されているか。角度的に、砲塔リング部の銘板や誘導輪位置調整装置部分の車輛番号、砲塔側面の紋章の有無は確認できない。スカートの有無も確認できない(内側は角度的には見えていても良いのだが、陰になっていて判別不能)。

▼最終状態

1940年6月半ば、ムーズ駅近くの鉄路上で積載状態のまま爆破処分。

91号車同様、爆破による損傷は特に車体右前方で大きいが、これまた、一部破損はあるものの装甲板が揃っていて履帯の脱落もない写真と、装甲板が外れ履帯も切れて垂れ下がっている写真と、2種の状態の写真がある。爆破処分された車両に対し、改めてドイツ軍が爆破なり攻撃なりしたのか?

スカートは未装着。また、この時の93号車は、誘導輪位置調整装置先端に半月状のパーツが見える。標準形態と違うというより、誘導輪を再前方に振ったために、通常は見えていない部分は見えている、ということかもしれない。

塗装は基本、薄汚れているのか、爆破時に炎上して焼け焦げているのか、むらのある単色塗装にも見えるのだが、写りのよい写真の中に、砲塔のアルザス地方の盾形紋章と、上と同じ迷彩模様がうっすら見えるものがある。砲塔リング部左の銘板も、薄汚れて(あるいは字が消えかけて)見づらいが付いている。

誘導輪位置調整装置部分の車輛番号「93」は、右側は焦げたか汚れたかで、左上部に向けてやや消えかけ。左側ははっきり綺麗に見える。それに対し、砲塔の盾形紋章はほとんど消えかけている感じで、もちろん焦げたり汚れたりしているのかもしれないが、もともとプロパガンダ用に描かれたものを、実戦使用としては目立ちすぎるので消そうとした(そして消え残った)可能性もあるかもしれない。

不思議なのは迷彩塗装で、パターンがはっきりわかる部分で比較して、上の「後期」の項に書いた迷彩塗装と同一なのは判るが、それにしてはコントラストが近くて判りづらい。単なる写真の質の問題なのか、あるいは上記の塗装から数年経って、もともと“儀式用”に落ちやすい塗料で臨時に施されたために剥がれたり褪せたりしたのか。いろいろ可能性は考えられるものの、真相は不明。

●4号車→94号車 ブルターニュ(BRETAGNE)

▼初期

1936年夏以前、第551連隊所属時代の車番「4」時代の写真では、その車番が白数字のものと、黒(?)数字のものとがある。エンジンルーム上部、誘導輪位置調整装置部分前端は標準(キットと同じ)状態。スカート完備。

▼後期

車輛番号が「94」に変更になって以降、演習中なのか、池か濠を渡ったり、歩兵が随伴して走行中だったりという(おそらく一連の)写真が何枚か残されている。車輛のディテール的にはおおよそ初期と変わりがないが、誘導輪位置調整装置前端に箱型カバーが追加されており、初期の写真では確認できなかったロッドアンテナが付けられている。また、尾橇を装着している。スカートは変わらず完備。

塗装は暗色の、おそらく単色塗装。誘導輪位置調整装置部分に白数字で「94」。砲塔に大きくブルターニュ地方の盾形紋章。砲塔リング部左に、白地に暗色文字で「BRETAGNE」の銘板。

正面から写した、おそらくこの時期のものと思われる写真を見ると、戦闘室前面左右のコの字金具は右側のみで、長方形の物体が差し込まれている(もしかしたらジャッキ?)。車輛名「BRETAGNE」の記入位置は、93号車「ALSACE」と異なり、戦闘室前面の操縦手バイザー下に小さなフランス国旗マーク付きで書かれている。また、シャーシ前面の製造メーカー銘板は車体とは明らかに異なる明色。真鍮色の可能性もあるかも。

▼最終状態

(少なくとも私の手元には)1940年戦役時の94号車の最期を示すような写真は1枚もない。wikipediaの解説によれば、94号車と96号車は、1939年10月以降予備車に回され、僚車の稼働状態維持のための部品取りに使われて、部隊配備から外されていたらしい。

●5号車→95号車 トゥーレーヌ(TOURAINE)

▼初期

一桁番号時代の写真は確認できない。

▼後期

番号の隣り合った94号車「ブルターニュ」に近い仕様と塗装。おそらく暗色の単色塗装で、誘導輪位置調整装置部分に白数字で「95」。一部の写真では、左側面の「95」の5の字が消えかけている。砲塔に大きくトゥーレーヌ地方の盾形紋章(描かれていない写真もある)。砲塔リング部左に「TOURAINE」の銘板(文字は暗色、銘板の地色は明色だが、金属光沢のようにも見える)。誘導輪位置調整装置前端に箱型カバー付き。エンジンルーム後方に、ロッドアンテナを装備。ただしスカートは未装着。94号車と違い、この時期に撮られた写真では尾橇は装備していない。

この95号車「トゥーレーヌ」だけの独自装備が、砲塔前上部、主砲防盾の左右に追加された、ライト装着用と思われるY字のステイ(戦闘室前面中央の前照灯用ステイと似た形状のもの)。ただし、ライトそのものは付けられていない。なお、そのステイは正面を向いておらず、砲塔の取付面に沿う形で左右に斜めに振られている。シャーシ前面のメーカー銘板は明色。

右後方車体ハッチ上に、雨どいのようなものが付けられている写真がある(左側面ハッチ上には確認できない)。これも「トゥーレーヌ」のみに見られるもの。

▼最終状態

1940年のドイツ軍侵攻開始時点で、95号車は故障しており部隊の集結・待機場所にも行けず、メリ=マンヴィル(Mairy-Mainville:地名)の路上でスタック、修理中。結局最後まで動けず、同地で爆破放棄された。

その後の写真を見ると、おそらくエンジンルーム上面パネルは取り外されていて、車外にエンジンその他が散乱している。

戦車本体は尾橇付き、スカートを装着。主砲塔に簡易クレーンが装着されており、これで、砲塔横の四角い穴がクレーン基部を取り付けるために使われているのが確認できる。「独自装備」の砲塔のライト(?)ステイはこの時も付いている。右後方車体ハッチ上の雨どいのようなものも、この時点でも付いているのが確認できる。放棄後の左側面写真は無く、左ハッチにも付いていたかは不明。

砲塔左側面には、ごくうっすらと地方の盾形紋章が見えており、薄く塗り潰されたものが見えているか、あるいは消し残ったものかと思われる。

●長くなったので今回はここまで。

 

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フレンチの鉄人

●フランス軍AFVの製作/考証の際に非常に頼りにしていたサイト、「chars-francois.net」が、いつの間にか閉鎖されていた。

このサイトが有り難かったのは、とにかく個別の車種についてかき集められるだけかき集めた写真を、登録番号順にアーカイブしてあったこと。特に、個人的には、ここの写真を頼りにルノーR35の仕様変遷などを辿っていたので、無くなったのは非常に残念。

主に「chars-francois.net」を頼りにしたR35考証の一部は以下の記事を参照のこと。

ルノーR35考証メモ
ルノーR35考証メモ(2)

なお、上記記事(2)で触れているように、R35の登録番号順の仕様メモはエクセルシートにまとめていたのだが、先年のハードディスク・クラッシュで吹っ飛んでしまった。内容にも一部不足を感じていたので、これを機会に、改めて暇を見て「chars-francois.net」の写真を元にまとめ直そう、なんて思っていたのだった。――「いつまでもあると思うな親と金とネットコンテンツ」ってヤツですなあ。

他にも、例えばB1bisとかD2などについては、登録番号と車両の固有名、所属部隊などもリスト化したうえで写真を集めてあったのが有り難かった。

現時点で、サイトの一部についてはウェブ・アーカイブでまだ見られるが、写真は一部しか開かないし、それもいつまでもつかどうか。

もっとも、上記のように、フランス軍AFVの写真を「かき集められるだけかき集め」ている一方で、それらの写真の全部がパブリック・ドメインではないだろうし、使用許諾は大丈夫なのかしらん?とも思っていて、もしかして、サイトが無くなってしまったのはそのへんの絡みもあったのかも、と邪推してみたり。そうは言っても、う~ん、つくづく惜しい。

そのうち場所を変えて復活してくれないものか。甦れ、アイアンシェフ!

●ちなみに、以前「開かなくなっちゃった! どうした!?」と騒いでいた、フィンランド軍“直営”の写真アーカイブは、めでたく復活した。よかったよかった。御用のある方は以下へ。

Finnish Wartime Photograph Archive

●先々週末(19~21日)、昨年に引き続いて、府中で某IT系ハッカソンの合宿。ただし、19日(金曜日)は別件の仕事の締め切り&打ち上げがあって、20日朝から参加する。

21日は午後も早めに終了。ちょうどやっていたポケモンgoのコミュニティ・デーのイベントをこなしつつ、国分寺跡を経由して西国分寺まで歩く。猛烈に暑かったが、昨年の合宿時よりはマシだったかな……。さらに今年も若干の寄り道をして、付近のマンホールカード4種を貰った(国分寺市1種、国立市1種、立川市2種)。

Img20240721151751 Img20240721210156

今回貰った国分寺市、国立市、立川市の3市とも、もう1種ずつマンホールカードがあるが、国分寺市のものは昨年入手済み。国立市、立川市のもう1種は、配布時間(施設窓口の開いている時間)に間に合わなかったので今回はパス。

●わが町逗子の丸ポストは、つい最近まで4基あったのだが、そのうち2基が新しい角ポストに替わってしまっていることが判明した。

なくなった2基を含めての4基を西側から順に並べると(写真も同順)、

  1. 桜山1丁目2-21:逗子~東逗子間、水道路沿い。寿し魚友横。
  2. 池子2丁目20-4:東逗子団地管理組合事務所前。
  3. 沼間3丁目2-1:東逗子駅先、県道24号線沿い。元長谷川たばこ店前。沼間講中庚申塔群横。
  4. 沼間4丁目5-24:横横道路逗子インター近く、県道から北にちょっと入った住宅地。

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このうち、2番と4番が最近なくなったもの。2番の東逗子団地管理組合事務所前のポストは、アリが沸いたとかで使用禁止の張り紙がされてしばらく後に新ポストに置き換わってしまったとか。

考えてみれば残りの2基も最近確認していないので、現時点で無事かどうか多少の不安あり。できるだけ長く生き残って欲しいなあ。

 

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沈頭鋲

●8月15日(すでに日付的には昨日だが)だからといって戦争を振り返らないとイカン、ということではないのだが、たまたま関心に引っかかる話があったので。

●大学時代の後輩であるS君がfacebookに書き込んでいた話題。

この時期お決まりの太平洋戦争振り返り企画の一つで、CBC(中部日本放送)のサイトに『特攻隊を援護し九死に一生を得たパイロット “戦友”と68年ぶりの再会 技術を結集した「零戦」』という記事があり(大元は2013年8月放送の特集番組)、そのなかに、(S君曰く)「昭和時代からよくあるゼロ戦についての間違った俗説、過大評価を相変わらずそのまま載せて」しまった部分がある、とのこと。ちなみにその記事自体はこれ(Yahoo!ニュースによる転載。なぜかCBC本体のサイトでは検索に引っかからなかった)。

なかでもS君が疑問を呈しているのが、

『ボディを接合するリベット「鋲(びょう)」は、頭の部分が平らな「枕頭鋲(ちんとうびょう)」を世界で初めて採用。』

という部分。

私自身、かつて、零戦は初めて落下式増槽を装備したと書いてしまい、その原稿が表に出てから誤りに気付いて(実際には前代の九六艦戦ですでに実用化されている)恥ずかしい思いをしたので大きなことは言えないのだが、この記事はそれ以外にも「零戦はいかにスゴイ機体だったか」的トーンで書かれていて、「なんだかなあ」な気持ちにさせられる。

もちろん、記事中で元搭乗員が零戦の素晴らしさを語っているが、これはあくまで個人の主観であるし、そもそも搭乗員が自分が乗る機体に誇りを持つのは何ら非難すべきことではないので、分けて考えるべき。しかし、地の文が礼賛調なのは、どうにも読んでいて頭の端っこがカユイ気分になる(ということでS君と合意する)。

まあ、どうも書き手は軍事とか飛行機とかに疎そうではあるが、すでに戦争後半で性能的にも見劣りが明らかであったはずの52型に関する米軍側調査書から、「ゼロ戦52型は、中高度・中速度では、どのアメリカの戦闘機より運動性が優れている」と、褒めている箇所だけ抜き出してきている恣意性もちょっとひどい。

●さて、話をちょっと戻して、沈頭鋲について。

S君もfacebookの書き込みですでに指摘しているが、そもそも零戦に先駆けて九六陸攻や九六艦戦で沈頭鋲は使用されており、「世界初」どころか「日本初」でもないわけで、この時点ですでに冒頭引用の一文は誤り、ということになる。

九六陸攻や九六艦戦もまた世界初ではなく、wikipediaには、

世界初のHe70に初飛行で遅れること3年、九六式陸上攻撃機と並び日本で初めて沈頭鋲を全面採用した。(九六式艦上戦闘機

と書かれている(九六陸攻の記事のほうには、沈頭鋲に関しては単に「採用は同じ三菱製の九六式艦上戦闘機と同時」と書かれている)。

これによればハインケルHe70が最初ということになり、実際にwikipedia日本語版のHe70の記事には、

機体表面を滑らかに仕上げる皿リベットの世界初採用

との文言がある。

もっともこれについては、S君もfacebookの書き込みで「本当にドイツのハインケルHe70が世界初かという点にちょっと疑問 」と言及していて、私も「ホンマかいな」という気がしたので、さらに追加で調べてみた。

●まず、He70について、英語版のwikipediaの「Heinkel He 70 Blitz」では、

To meet the demanding speed requirements, care was taken to minimize drag, with flush rivets giving a smooth surface, and fully retractable main landing gear. (厳しい速度要件を満たすため、抗力の減少には細心の注意が払われ、表面を滑らかにするための沈頭鋲や完全引込式の主脚が採用された)

とはあるものの、沈頭鋲採用が世界初であるという記述はない(ドイツ語版でも言及なし)。この時点で、ちょっと日本語版の記述はアヤシイ感じになってくる。

一方、英語版wikipediaのリベットの項のなかの「沈頭鋲」(Flush rivet)の節では、沈頭鋲は1930年代にダグラス社の設計チームが開発したもので、ハワード・ヒューズのH-1レーサーに採用された、と書かれている。しかしヒューズH-1の初飛行は1935年で、1932年末初飛行のHe70より遅く、これまた内容に疑問がある。

(そもそもwikipediaレベルで何か調べ物をした気になっている時点でイカンだろう、と言われればその通りなのだが、今のところは「とりあえず見当を付けてみる」レベルのことしか考えていないので見逃していただきたい)

というわけで、「flush rivet」やら「flush rivet  airclaft」やらで検索を重ねてみて、こんな記事にたどり着いた。

ONE MONROEというサイトの「Who Invented The Rivet? A “Riveting” Bit Of Aviation History.」という記事だが、ここでは、「(外板の)突き合わせ結合(butt joint)と沈頭鋲はハワード・ヒューズが初めて採用したみたいなことを言っているけど、そうじゃないヨ」と前置きした後に、以下のように述べている。

Charles Ward Hall of the Hall-Aluminum Aircraft Corporation submitted a patent proposal for a flush rivet in 1926. Hall’s Buffalo, New York company produced the first aircraft with a riveted fuselage in 1929 with his XFH Naval Fighter Prototype. The first aircraft with butt joints and flush rivets to fly was the Hall PH flying boat of 1929.(ホール・アルミニウム・エアクラフト社のチャールズ・ホールは、1926年に沈頭鋲の特許を出願した。ホールのニューヨーク州バッファローの会社は、1929年にリベット留め胴体を持つ最初の航空機、海軍のXFH試作戦闘機を製作。突き合わせと枕頭鋲を備えた最初の航空機は、1929年のホールPH飛行艇だった。)

この記事自体の裏付けは取れていないが(ホールXFHホールPHも、マイナー機体過ぎてあまり情報なし。とりあえず英語版wikipediaに短い記事はあるが、沈頭鋲に関する言及はなし)、とりあえず現在たどれる限りでは、このあたりが「航空機での沈頭鋲採用」のハシリということになりそうだ。

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KV maniacsメモ(緩衝ゴム内蔵転輪)その2 附:標準型全鋼製転輪

●KV重戦車に使用された緩衝ゴム内蔵転輪の話の続き。緩衝ゴム内蔵転輪のバリエーションを、おおよそ使用時期の早い順に見てみる。

特記のない限りは、基本的なディテールは前回の「構造の概観」の項に記したものに準拠しているものとする。

なお、前回も述べたように、KVの緩衝ゴム内蔵転輪はリム部およびゴム抑え部が別体であり、形状の変遷も「リム部のバリエーション」×「ゴム抑え部のバリエーション」ということになるのだが、当然ながら模型的には全体で一括りなので、以下の変遷も「全体形ベース」で話を進めることにする。「パターンいくつ」という分類は、あくまでここだけの便宜上のもの。

また、各タイプ(車体および転輪)の生産時期については、基本、サイトТяжелые танки КВ-1の記述を参考にしている(google翻訳さん任せなので、意味を取り違えているところもあるかもしれない)。

▼(前史)SMK用転輪

KVの直接の祖先であるSMK多砲塔重戦車は、基本、ほぼそのままKV試作車に受け継がれた足回りを持っている。足回り全般に関する大きな違いは、

  • 片側の転輪数が8つ(KVは6つ)。
  • 履帯はKV標準型とよく似ているが、やや幅が狭い(セータ☆氏によれば660mm幅。KVは700mm幅)。この履帯はKVの試作車・初期生産型の一部でも引き続き使用。
  • 履帯ピッチは同一だが、起動輪はやや小径で、歯数もKVの16枚に対し15枚で1枚少ない。起動輪中央の皿形カバーも周囲が平らになっているなどやや形状が違う。トランぺッターのSMKのキットは、KVの起動輪パーツ(の含まれる枝)がそのまま入っていて、歯数が少ないSMK用はパーツ化されていないような……(少なくともsuper-hobbyの商品紹介ページではそのように見える)。誰かキットをお持ちの方、教えてください。(追記:丞さん情報。足回り丸ごと、KVキットからの流用だそうです。しかも初期型転輪・上部転輪もKV-2初期型のキットでパーツ化されているのに、なぜか標準型のパーツが入っているそうで……。どうしちゃったのトラペ)
  • 誘導輪は、本体はKVと同じもの? ただしハブキャップ形状は違う。

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転輪に関しては、おおよそ以下のような特徴。

ゴム抑え板は8本リブ・8穴。

  • ハブキャップは、中央のボルト頭(前回「構造の概観」の①)がないように見える(TAKOMのキットのパーツでも表現されていない)。
  • ハブキャップ周囲のリング(前回「構造の概観」の④)に関しては、これまたTAKOMのキットのパーツでは別体表現/刻み目表現がないが、こちらは実車写真(上着色写真の元になった両側面からの写真)では不鮮明ながら周囲の刻み目があるように見える。
  • リム部に関しては、1種類ではなく、「軽め穴がない」「軽め穴が大きい」「軽め穴が小さい」の3種が混ざっている。上写真の元になった、試作完成時?の記録写真によれば、
    左側面: (前方)←無・小・大・小・大・小・大・小
    右側面: 大・小・大・大・大・大・大・無→(前方)
    となっているようだ(写真が不鮮明なので順番はやや不確か)。両側とも第一転輪が穴無しタイプなのは、負荷が掛かる場所には丈夫なものをという判断があったのかも。
  • 冬戦争時、擱座した状態の写真を見ると、左側面第7転輪のみ、ゴム抑え板がリブ無しタイプに替わっているようにも見える。とはいえ、単純に雪が付いていないためにそのように見えている可能性もある。なお、冬戦争時も転輪の穴の「無大小」の配列が上の通りだったかは不明。ただし、少なくとも左側面に関しては、第一転輪は穴無しのままだったように見える。

脱線話。この戦車の名称の元であり、生産工場(キーロフ工場)の名称の元にもなっているのが、1934年に暗殺された共産党幹部セルゲイ・ミロノヴィチ・キーロフで、従来は、その存在を煙たく思っていたスターリンが密かに手を回して暗殺させた――そのうえで、その存在を英雄的に祭り上げ、その暗殺に関与したとの疑惑をでっちあげて政敵大量粛清のネタとして利用した、というのがほぼ定説となっていた。

しかし最近の研究によれば、その死を政敵粛清の理由として大いに利用したのは確かでも、出発点のキーロフ暗殺そのものにはスターリンは関わっておらず、純粋に共産党幹部を狙ったテロだった、という説が浮上しているらしい。詳しくはこちら(北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター、「スラブ研究センターニュース」104号 (2006/2)、「キーロフ殺害の鍵は北大図書館の本棚にあり」マシュー・レノー)。

初期型転輪・パターン1

ゴム抑え板の穴が8カ所の初期型転輪。トランぺッターのKV-2初期型でパーツ化されているタイプ。主に試作車に使用。リム部の軽め穴は、上記SMK用の「大きい穴」「小さい穴」の中間くらいに見える。

  • ゴム抑え板は穴が8カ所、放射状のリブが8本。ゴム抑え板の穴は、後の標準型(6穴タイプ)に比べて、やや小さめのようにも見える。
  • ハブキャップ中央のボルトは、KV-1の最初の試作車U-0では、SMK同様に無いようにも見える。その他の使用例では、はっきりと中央のボルトが確認できるものもある。

(実車使用例)

  1. 試作車U-0(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. KV-2/U-7:新砲塔搭載の試作車RKKA in World War II
  3. 1939年型(砲塔前後が丸い極初期/増加試作型・1940年前半生産):ハブキャップ中央のボルトあり。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

初期型転輪・パターン2

同じくゴム抑え板の穴は8カ所だが、放射状のリブはない。試作車~極初期の生産型に使用。使用例から考えると、リブ付きの後にこのリブ無しタイプが生産されたように思われる。以下写真はwikimedia commonsより、File:Tank Fortepan 93766.jpg(FOTO:FORTEPAN / Mihályi Balázs)。

Tank_fortepan_93766m

  • ゴム抑え板は穴が8カ所、放射状のリブは無し。ゴム抑え板の穴は、上記パターン1同様、後の標準型(6穴タイプ)に比べてやや小さめのようにも見える。
  • フェンダーが「ウィング」タイプの工具箱になっている試作車U-7号車は、このリブ無しタイプを使用しているが、上記U-0号車同様、ハブキャップ中央のボルト頭が無いように見える。なお、その他の使用例では通常、ボルト頭は確認できる。
  • KV-2生産第一ロット(7角砲塔搭載型)では、サイト「Тяжелые танки КВ-1」の当該タイプのページで確認できる限りでは、すべてこの「リブ無しタイプ」の初期型が使われていた。
  • この時期までは、上部転輪はホイールのリム立ち上がり部分に小リブがあるものが使われている(らしい)。

(実車使用例)

  1. 上写真:上の写真には砲塔が写っていないが、一連の別写真から、L-11搭載の1939年型であることが確認できる。
  2. 試作車U-7:ハブキャップ中央のボルトは無いように見える。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1939年型:1940年夏頃生産の仕様。ハブキャップ中央のボルトはある。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  4. KV-2 生産第1ロット(「Тяжелые танки КВ-1」より)

標準型転輪・パターン1

ゴム抑え板がリブ12本、穴6カ所に変わったもので、「Тяжелые танки КВ-1」のL-11搭載型(いわゆる1939年型)のページによれば、1940年9月頃の生産車から用いられるようになったらしい。以後、F-32搭載の1940年型の中途(1941年7月頃?)までの生産車に広く用いられている。写真は前回載せたものの書き込み無し版。wikimedia commons、File:KV-1 1942 Parola.jpgVT1978)より切り出し。

Kvwheel03

  • リム部はおそらく初期型転輪とまったく同一。
  • ゴム抑え板の放射状リブは12本で、丸穴はリブで仕切られた部分の1つおきに開いている。初期型ゴム抑え板に比べ、丸穴はやや大きく浅い(ゴムが表面近くまで出ている)感じがする。
  • 初期――KV-1は1940年型の初期(1941年1~2月頃の生産)まで、KV-2は生産第2ロット(1940年末)までは上部転輪がリブ付き。以降はリブ無しが一般的。ただしリブ無しはなくなったわけではなく、後にチェリャビンスクでの生産分では復活したりしているのでややこしい。

(実車使用例)

  1. 1939年型:1940年秋頃生産の仕様。車体銃がなく(別写真で確認できる)砲塔の手すりがペリスコープより後ろにある。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. 1940年型:1941年前半に生産された、1940年型の初期タイプ。砲塔は溶接線がエッジにある初期型。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1940年型エクラナミ(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  4. KV-2 生産第3ロット(「World War Photos」より)

標準型転輪・パターン2

ゴム抑え板は上記の標準型パターン1と同一だが、リム部に軽め穴がまったくない。それほど生産数は多くないものと思われるが、1941年夏(7月頃?)の生産車、1940年型エクラナミや、同時期に生産された増加装甲無しの1940年型(75mmおよび90mm装甲の溶接砲塔型)に使われている例が散見される。上記の標準型パターン1、下記の標準型パターン3と混ぜ履きになっている例もあり。

実物は現存していない……と思っていたのだが、ソミュールにある元RONA(ロシア自由軍)所属車は、下のパターン3を主に装着しているものの、左側第3転輪(?)の内側は穴無しリムになっているように見える(はっきり写っている写真が手元に無い)。

(実車使用例)

  1. 1940年型エクラナミ(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. 1940年型エクラナミ(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1940年型エクラナミ:穴無し転輪と穴あり転輪を混用している例。 (「Тяжелые танки КВ-1」より)
  4. 1940年型:穴あり転輪と混用している例。別写真で右側面も第4転輪のみ穴ありなのが確認できる。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

標準型転輪・パターン3

リム部の穴と穴の間に強化リブが設けられたタイプ。上記穴無しのパターン2とほぼ同時期か、その直後に登場。1940年型エクラナミや、同時期に生産された増加装甲無しの1940年型から、キーロフ工場がチェリャビンスクに疎開して以降、主砲がZIS-5に換装された1941年型の初期に至るまで標準的に使用されている。

写真はキーロフスクの短バッスルタイプの溶接砲塔搭載の1940年型。wikimedia commons、File:KV-1.JPGOne half 3544、パブリックドメイン)より切り出し。

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リム部の強化リブは穴と同数の12個。

  • リム部のリブは穴と穴のちょうど中間ではなく、通常、正面から見て、時計回り方向にずれる。直線的に描き表すと、|〇 |〇 |〇 (↑外周) のような感じ。これは裏面も同様で、つまり、リブ位置は表と裏とでは食い違っている。タミヤの新KVのパーツでは、裏面は鏡写し(つまり表裏でリブが同一位置)になっている。ただし、下記のように前記と逆配列(つまりタミヤの裏面と同じ)になっている例もある(その場合裏面はどうなっているのか?)。リブと穴の間隔がちょっと違う(ように見える)例もあるので、下請け工場による若干の差異があった可能性がある。
  • リム部のリブは緩衝ゴム取付位置外周まで届いており、内側に向けて、緩やかにカーブしながら低くなっている。
  • リブの部分を残してリム部外周が変形し、縁部が円ではなく緩やかな12角形のようになってしまっているものもある。もっとも、現存博物館車両では時々見るものの、戦時中に変形するほど使い込まれる例はそれほど多くなかったのでは、という気がする(当時の写真でも若干は確認できるが)。
  • 組み合わせる上部転輪はリブ無しゴムリム付きが主だが、チェリャビンスクで生産が開始されたZIS-5搭載型(1941年型)では全鋼製上部転輪が使われ始める。

(実車使用例)

  1. 1940年型エクラナミ:穴無し(パターン2)と混用、というだけでなく、よく見ると第5、第6転輪のリム部の穴とリブの位置関係が通常と逆になっているという極レアもの。このタイプの存在についてはセータ☆さんに教えていただいた。(「world war photos」より)
  2. 1940年型エクラナミ:同じく穴とリブの位置関係の変則例。破損した第一転輪内側リムのリブが、通常よりやや「穴と穴の真ん中」に寄っているように見える。(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  3. 1940年型/371工場砲塔搭載型:この仕様の場合、転輪は基本このタイプのみ。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

▼標準型転輪・パターン4

パターン3同様にリブ付きリムだが、リブの数が少ない上に形状が違うタイプ。セータ☆氏が以前に記事にまとめていて、それで存在を知った。セータ☆氏は、このタイプの転輪を「ハーフリブ・タイプ」と呼んでいる。同記事を読んでもらえれば「今のところ判っていることは全部判る!」くらいなのだが、以下に簡単にポイントをまとめる。使用例は少なく、主に、チェリャビンスクで生産が本格的に始まった頃(1941年8~9月頃?)に生産された、主砲がF-32・短バッスルの溶接砲塔搭載型に使われている。生産時期はそれよりやや下るが、タミヤが新KV-1で箱絵/デカールに選択した116戦車旅団所属「スターリンの為に」も、少なくとも左側第1転輪にこのタイプを使用している(セータ☆氏の記事に写真あり)。

  • リブの数が通常(パターン3)の半分で、穴の間の一つ置きにしかない。
  • リブの位置が片方に寄っておらず、穴と穴のちょうど中間にある。
  • タイプ3ではリブがゴム抑え板周囲まで届いているのに対し、こちらは短く中ほどまでしかないうえ、傾きも直線的。いわば三角定規を立てたような感じ。何しろ限られた戦時中の写真でしか見たことがないので、裏表のリブの位置関係は不明。パターン3のリブ位置が表裏で食い違っていることを考えると、このタイプでも互い違いの配列になっている可能性もあるかも。
  • 緩衝ゴム内蔵転輪の他のすべてのタイプと違い、リム外周部縁の「巻き込み」がない(ように見える)。そのため、接地面(履帯に当たる面)はより平らで、縁は薄く見える。下図は、この形式の転輪とパターン3の転輪の、リム外周とリブの形状の比較。あくまで「こんな感じ」の比較ポンチ絵で、寸法比率等はいい加減。
  • チェリャビンスクでのKVの生産では、当初はリブ付きの上部転輪が復活使用されていて、この転輪との組み合わせでもそれが主。

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(実車使用例)

  1. 1940年型チェリャビンスク工場製(「Тяжелые танки КВ-1」より)
  2. 1940年型チェリャビンスク工場製:写っているなかでは第一転輪だけがこのタイプで、第2~4転輪はパターン1、第5転輪はパターン3と3種混用。見比べて、このタイプは縁の回り込みがないらしいことも見て取れる。(「Тяжелые танки КВ-1」より)

オマケ。

標準型・全鋼製転輪

KVの生産がチェリャビンスクに移って以降、当初はそのまま緩衝ゴム内蔵転輪が使用されていたが、1941年型(ZIS-5搭載型)が登場してしばらく後、さらに製造の簡略化が進んだ全鋼製転輪が登場する。転輪それ自体の緩衝機能はなくなってしまうわけだが、それほど高速走行しないはずの重戦車なら許容範囲、ということだろうか。以後、IS重戦車まで(形状は異なるものの)全鋼製転輪が使用される。

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写真は前々回も使用したもの。wikimedia commons、File:KV-1 front-right 2017 Bovington.jpg(Morio)より切り出し加工。

  • それまでの緩衝ゴム内蔵転輪では、複列のそれぞれの片側も表裏対称だったが、新しい全鋼製転輪は深く窪んだ「片面モールド」状態のものを背中合わせに結合した形状。
  • 表面に放射状に並ぶ強化リブは、ハブ側からリム部まで(徐々に背が低くなって)到達するメインのものは6本。逆にリム側から内側に向け中途まで伸びるサブのリブは、メインのリブの間に2本ずつで12本。
  • 車軸を囲むハブ部分は、単純な円柱状のものと、ごく緩やかな6角柱状のものと2種類がある(セータ☆さんに言われて初めて気付いた……)。6角柱状のものの場合、頂点は前記の1対のサブリブの間に来る。必然的に、メインリブは各辺の真ん中から出ることになる。博物館車両のクローズアップ写真ではなんとか確認できるが、戦時中の写真でははっきり鑑別できるものは少なく、どちらが多数派なのかは不明。上写真のものは六角柱タイプ。改めて確認して、「ありゃ、これもそうだった!」的な。なお、Tankograd - Soviet Special No.2003 "KV-1 Soviet Heavy Tank of WWII - Late Version" の図面では、この部分を8角柱と解釈している。うーん。さすがにそれはないんじゃないかなあ……。
  • 転輪本体の断面形状(片側)は、金だらい状に「底」が平らではなく、中心に向かって浅く窪んだすり鉢状になっている。旧タミヤやトランぺッターの後期型KVのキットでは平らになっている。前々回記事で書いた疑問を、セータ☆さんがスパっと解決してくれた。ありがとうございます。 (追記)その後、現存の転輪を横(軸方向に直交する向き)から写した写真を見つけることができた。LEGION-AFVのwalkaroundアーカイブの、ロプシャの展示車両の写真のなかにあった(KV-1_Ropsha_185.JPG、およびKV-1_Ropsha_595.JPG)。これをみると、窪んでいると言っても極々浅く皿状であることと、転輪の内外は別々に作って中央で結合しているらしいことがわかる(後者に関しては、単純に“パーティングライン”である可能性もある)。
  • 緩衝ゴム内蔵転輪と違い、ハブキャップ周りの別体の刻み目付きリングはなく、ハブキャップは転輪本体中心の(前述の)円筒にやや埋まった格好。
  • 内外の転輪の結合部には、ごく小さな補強リブがある。トランぺッターのパーツでは10本。セータ☆さんに教えて貰ったDT35のアフターパーツでは12本?(ロプシャの上記2枚の写真からはちょっと判断しづらい感じ?)

このタイプの転輪は1942年型まで使用され、KV-1s以降は、さらに数種の全鋼製転輪が使われることになる(1s系の製作にはまだまったく手を付けていないので、何か書けるほど知識の整理もついていない)。

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KV maniacsメモ(緩衝ゴム内蔵転輪)その1

●調べものついでの備忘録。

基本、「今、私がわかっていること」を羅列しているだけなので、あっと驚く新事実の類はない(はず)。むしろ「他にもこんなタイプが確認できる」とか、「触れておいたほうがいいことに触れていない」とか、事実誤認とか、その手の問題があったらビシビシ指摘して頂けると有り難いです。

KV重戦車は、その直接の祖先であるSMK多砲塔戦車時代から、チェリャビンスクに工場が移転して直後のZIS-5搭載型(いわゆる1941年型)の初期(サイト「Тяжелые танки КВ-1」の解説によれば、1941年11月初旬)まで、一貫して緩衝ゴムを内蔵した鋼製リム転輪を使用している。

一般に(第二次大戦直前あたりからの)戦車の転輪は外周にゴムリムを付けて緩衝用とするが、KVのこの転輪は外周(リム)部は鋼製とし、これとハブ部との間に緩衝ゴムを挟み込んでいる。この形式の場合、履帯と転輪の接触音はやかましくなりそうだが、ゴムの損耗は抑えることができる。

緩衝ゴム内蔵転輪はT-34の一部やT-50軽戦車にも使われたほか、敵国ドイツもこれを模倣し、ティーガーIIほかに同様の構造の転輪を導入している。

構造の概観

複列式で外側・内側は同形。ついでにそれぞれ表裏も同形。鋼製のリムを、緩衝ゴムとゴム抑え板で両側からサンドイッチする形になっている。つまり、リム部は1組2枚、ゴム抑え板は片側表裏2枚×2で4枚。リム部とゴム抑え板の間にあるドーナツ状の緩衝ゴムも表裏2枚×2で計4枚。ハブキャップ、ハブキャップ周りのリング(ゴム抑え板をハブキャップに固定するもの?)各1、などという構成になっている。

Tankograd - Soviet Special No.2003 "KV-1 Soviet Heavy Tank of WWII - Late Version" に緩衝ゴム内蔵転輪の簡単な断面図や、ゴム抑え板・リム部それぞれ単体のイラストも出ているので、可能な方はチェックするよろし(p.54)。

生産時期によって形状にはいくつかのバリエーションがあるが、標準型を例に基本ディテールを見てみることにする。写真はフィンランド、パロラ戦車博物館所蔵のKV-1、1942年型。wikimedia commons、File:KV-1 1942 Parola.jpgVT1978)より切り出し加工した。この車両は戦時中にフィンランド軍が鹵獲使用した2両のKV-1のうちのひとつで、損耗部品を撃破車輛から調達しているため、1942年型であるにもかかわらず初期型の緩衝ゴム内蔵転輪を混ぜ履きしている。

Kvwheel04

:ハブキャップの中央には尖頭ボルト(あるいは丸頭ボルト)が1つ。単純にハブキャップ表面にあるのではなく、周囲は軽く一段、丸く窪んでいる。SMK用~極初期にはないようなので、グリースアップ用に追加されたもの?

:ハブキャップ端2か所に小さい平頭ボルト。ハブキャップの固定用? Ⅾ字型の座金?を介していて、土台のハブキャップもU字型に窪み、取付面を平らにしている。ボルト頭自体は①の中央のボルトよりやや小さい。D字型の座金は③で述べる段差と一体化しているように見えるケース(パロラの1940年型エクラナミ)も、まったく独立しているケース(キーロフスクの1940年型後期型)もある。もしかしたら時期的な差もあるかも。上写真のものは……うーん、よくわかんないやー。

:ハブキャップ周囲にわずかな段差。内側の低い段には、miniarmの別売転輪で表現されているように、どうやら一か所に切れ目がある(Cリング状態)。切れ目はおおよそ、②のボルト位置と直交する近辺にあることが多いようだが(90度よりはちょっとずれているのが普通?)、明らかにまるっきりずれているものもある。実は適当? 現存博物館車両でちょっと状態の悪いものだと、この低い段の部分が剥がれて浮き上がっているものが確認できるので、ハブキャップにもともとモールドされているわけではないらしい。

上写真の転輪ではその切れ目がはっきり確認できないが、角度のせいで見えないのか、そもそも切れ目がないのか、ちょっとよくわからない。上写真以外、もっときちんとクローズアップでも、この切れ目がないように見えるものもあって、(1).基本、切れ目は必ずあって、ないように見えるものはたまたそう見えるだけ、(2).実は切れ目があるものと無いもの、バリエーションがある、(3).そもそも切れ目があるように見えるもの自体、破損によるもので、正規の状態ではない――のどれに当たるのか、私自身どうもよくわかっていない。

:ハブキャップ周囲のリング。周囲8カ所に刻み目がある。ハブ部へのゴム抑え板の固定用か何か? ハブキャップ外側がスクリューになっていて、そこにこのリングを取り付けるらしい。リング部が二重に見える内側はハブキャップ外周(たぶん)。タミヤの新KVのパーツでは再現されておらず、単純にリング状に盛り上がっているだけで別体表現も刻み目もない。

:ゴム抑え板。内外、表裏合計4枚同形。タミヤの新KVでは、内側2か所では再現されていない。

:ゴム抑え板には初期型で8カ所、標準型で6カ所の丸穴。穴の中はおそらく緩衝用ゴムが露出している。写真の車両は展示場所にずっと置きっぱなしなので丸穴の中も車体色になっているが、余所の展示車両では伸縮のためかゴム部分は塗装が剥げてゴム色になっているものが散見される。標準型は12本の放射状リブ。初期型では8本のリブがあったりなかったり。

:リム部とゴム抑え板の間には僅かにサンドイッチされた緩衝用ゴムが覗いている。リム部はゴム外周に当たる部分でゴムを受けるようにわずかに盛り上がっている。ゴムが(というよりリム部が)ずれないようにするためか。このため、この「サンドイッチの断面」部分では、ゴム抑え板・緩衝ゴム・リムの立ち上がり部分、の三段重ね構造が見える。緩衝ゴムにパーティングラインが入って四段状態に見えることも。

:一部のタイプを除いて、リム部には12個の軽め穴。リム部は緩衝ゴムを介してハブから独立しているため、ゴム抑え板の穴やリブと、リム部の穴の位置関係は一定しない(はず)。またこの写真では内外のリム部の穴がたまたまほぼ同じ位置にあるが、これも適当にずれているのが普通と思われる。トランぺッターのキットでは内外のリム穴位置が揃うように、またタミヤの新キットでは内外のリム位置に加えてゴム抑え板の位置も一定になるようにパーツにダボが作られているが、むしろかえって不自然ではないかと思う。

:一部のタイプを除いて、リム外周の縁部は僅かに内側に向けて巻いた形状になっており、そのため外周部内側は窪んだ状態になる。既存のインジェクションキットのパーツでこの形状を再現しているものはない。リム外周の接地面(履帯に当たる面)中央には、摩耗が進んでいない場合には製造時のパーティングラインが残っている。

転輪の寸法

転輪の寸法に関しては、ポーランド、PELTAのKV本によれば、緩衝ゴム内蔵転輪の直径は590mm(後期の全鋼製転輪は600mm)だそうだ。青木伸也氏のtwitterに書いてあった(まさにその本を私自身も持っているのだが、今パッと出てこない)。えっ、緩衝ゴム内蔵転輪と全鋼製転輪で直径違うの!?

これに関しては実測データも複数あり、まさに上で触れたフィンランド、パロラ戦車博物館所蔵のKV-1、1942年型の転輪にメジャーを当てて測ってきた値が「困ったときのかさぴー頼み」かさぱのす氏のレポートにある。一応主要なところだけ引用すると、「直径:約570mm、厚み:約300mm、内外転輪各々の厚み:約110mm」(ちなみに後期の全鋼製転輪は直径:約590mm、厚み:約300mm )だそうだ。「約」が付くのは事後変形等々で、「ひとつひとつ、また測るところによっても、わずかながらにいちいち寸法が違う!」 ためである由。

もうひとつ実測データとしては、キーロフスクに現存する371工場製強化砲塔搭載の1940年型後期型の転輪にメジャーを当てた写真が「www.dishmodels.ru」に上がっており、そちらではおおよそ直径590mm、リム部の幅は95mmを指している。うーん。

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えのすい

●10日土曜日。息子一家と新江ノ島水族館に行く。

チビ(4歳)的にはイルカのショーだったようだが、個人的には、「えのすい」といえばやはりクラゲ。

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●ダイオウグソクムシの水槽を見に行ったら、相変わらず「生きてるんだか死んでるんだか」状態で底でじっとしていたが、水槽の展示名称が「オオグソクムシの一種」になっていた。

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その理由も掲示されていたが、どうやら、過去飼育していた個体(死体)を台湾の専門家が調べたところ、ダイオウグソクムシとは違う新種が混じっていたとのこと。ただし、その新種(エノスイグソクムシという和名が付いた由)はダイオウグソクムシとよく似ていて外見では区別しづらく、現在飼育・展示中のものを生きたままDNA検査等は難しいため、展示名を「~の一種」にしたのだそうだ。えのすいのサイトにある、より詳し解説はこちら

●ゴマフアザラシ(だったかな?)の水槽で、ギリギリ隅っこの鋭角になった部分に一頭が頭を下にしたままきっちりはまり込んでピクリとも動かない。いわば犬神家の助清状態(全体が水没しているが)。

それを見た息子が「あれは死んでるんじゃないか。(いかに海生とはいえ)息をしないといけない哺乳類が、水中で逆さになってピクリともしないのはおかしい」と心配する。しばらく見ていても全く動かないので、とうとう息子嫁が近くの職員に聞きにいったのだが、結果、「アレは何故かあそこに挟まってるのが好き」だというのが判明。

更にしばらく見ていたら、もそもそ動いて海面に浮かんで息継ぎをして(?)、それから再度、先刻よりもさらにぎゅっと角に体を詰め込んで逆立ちをした。

子どもが押し入れの隅っこなどにお気に入りの居場所を見つけるようなものか?

●KVの履帯および転輪の変遷/ディテールのチェック作業のこぼれ話。

生産工場がチェリャビンスクに疎開して以降、ZIS-5搭載型(いわゆる1941年型)の後期からは、KVは緩衝ゴムを内蔵していない全鋼製の転輪が使用されるようになる。タミヤの旧KV-1の最初のキット(キット名称「KV-1C」)にも付けられていた転輪なので、見た目に関しては割とお馴染と感じる人も多いはず。以下写真はボービントン所蔵の鋳造砲塔搭載1941年型のもの。wikimedia commons、File:KV-1 front-right 2017 Bovington.jpg(Morio)より切り出し加工。

Kvwheel02 

この転輪、初期の緩衝ゴム内蔵転輪や、後のJS用転輪とは違って複列のホイールディスクは裏表非対称で、表側は深く窪んで強化リブがあり、これが背中合わせにされた形状となっている(鋳造の場合は、プラモデルのように同形のパーツをくっつけているのではなく内外一体で作られているのかもしれないが)。

タミヤの旧キットのパーツでも、トランぺッターのパーツでも、このホイールの裏面は真っ平ら、つまり断面でみると (ホイール全体で言えば ][ )という形状になっているのだが、実物の写真を見ているうち、「これ、底は平らじゃなくて、中央に向けてちょっと窪んでるんじゃない?」という疑問がわいてきた。これは、同じく平らだと思っていた後期型の全鋼製上部転輪が、実は中心に向けて窪んでいた(タミヤの新KV-1のキットではそうなっている) のが判ってびっくりした、というのも少し手伝っている。

6方向に延びているメインのリブは外側に向けて背が低くなっていて、それもあって「なんとなくそう見えるだけ」という可能性もあるので、上写真をもとに、リブの根本に線を引いてみた。

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ホイールディスクの底面が真っ平ら(同一平面)だった場合には、正反対の位置にあるリブの根元のラインは一直線になるはず。しかし、写真のように2組のリブ(黄色およびオレンジ)で引いてみた線はどれも若干の角度のズレがある。

これは、やっぱり窪んでたんだ!!――と断定しかけたのだが、改めて考えてみると、このリブは(前述のように)中央で高く、外側で低いので、根元部分の厚みも中央に向けて増しているかもしれない。その場合は、向かい合わせのリブの根元のラインは一直線にならなくても不思議はないことになる(そもそも入隅がビシッと角になっているわけではなく、やや曖昧なところに適当に線を引いているので、線の引き方自体が正確かという問題もある)。

転輪を真横方向(転輪軸に対して直交方向)から撮った写真があるとかでなければ、実物を見てみないことにはよく判らない話なので、現時点では答は出しようがなく、モヤモヤ状態。こんな時(だけ)の神頼み的に、かさぱのす氏に「どう?パロラでじ~っくり写真撮ってない?」と問い合わせてみたが、「知らんわそんなもん(大意)」というお返事であった。

そういえば、どこかの資料にこのタイプの転輪の断面図とか出てないかしらね。

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“イン・アクションもどき”の素敵な世界

●前回更新からすっかり間が開いてしまった。

その間、「横浜AFVの会(仮)」参加など、イベント的にもあれこれあったのだが、なんとなく書きそびれてしまった。模型もいじらなかったわけではないが、いつも以上につまみ食い状態なので、記事に書くほどの進展なし。というわけで、ヒマネタを一本。

●実車・実機の洋書資料なんて、ベロナ・タンク・プリントとかプロファイル・シリーズくらいしか……というのは流石に大昔過ぎるとして、それからちょっと時代が下った一頃。今ほど資料が豊富でなかった「昭和のモデラー」にとって、当時の水準を1つ抜けた感じの内容で有難さ抜群だったのが、スコードロン・シグナルの「イン・アクション」(squadron/signal publicationsの「airclaft in action」および「armor in action」シリーズ)ではないかと思う。

横長A4のソフトカバー、ページ数はおおよそ50pあるかないかくらいの手頃さ。基本、1機種・車種1冊のモノグラフなので、「**を作ろう」と思ったときに、そのネタがイン・アクションで出ているというだけで、ある程度間に合ってしまう感じだった。

そんな具合なので、この「イン・アクション」シリーズが、世界中で、ある種モノグラフのスタンダードとして扱われたことは想像に難くなく、それを示すように、ほとんど同じ体裁の「イン・アクション」フォロワーというか「イン・アクション」もどきが、一時期、あっちこっちから出版された。

先日、旧スポジニア~ミラージュ・ホビーの1:48、ルブリンR-XIIIDをちょっといじった際に、そんな「イン・アクション」もどきのモノグラフを引っ張り出したのだが、ついでに、我が家にどれくらい「もどき」があるかをチェックしてみた。以下、その紹介。

PODZUN-PALLAS-VERLAG(Waffen-Arsenal)およびSCHIFFER MILITARY

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左上3冊がPODZUN-PALLAS-VERLAG(Waffen-Arsenal)。大学時代の模型サークルでは、「ぽっつんのいんあくしょん」なんて言われていたような。出版しているPODZUN-PALLAS-VERLAGはドイツの会社で、Waffen-Arsenalはシリーズ名。中身は全面ドイツ語のみ。

その後に出版されている緑表紙・縦長判型のWaffen-Arsenalも同じPODZUN-PALLAS-VERLAG社刊だが、この横長イン・アクションもどきシリーズと、緑表紙シリーズに連続性があるのかどうか(つまりある時点から判型が切り替わったのか、それとも別のシリーズとして出されたのか)は不明。なお、出版社名は初期のものはPODZUN-VERLAGとなっているので(左下の35(t)など)、途中で(合併等の理由で?)社名が変わったらしい。

単純に「スコードロンのイン・アクションの真似」で終わらないのは、一部、スコードロンのイン・アクション・シリーズに、このPODZUN 版からの翻訳ものがあったり(例えば「German Railroad Guns in Action」)、逆にスコドロのイン・アクションの独訳版がPODZUNのシリーズに含まれていること。何らかの提携関係のようなものがあったのかも。

スコドロのイン・アクションでは出ていない(あるいは出ていなかった)ネタを扱っていたり、同一ネタでも写真選択が違うのが魅力だが、中身の質はちょっと落ちる感じ。例えば上写真中上の「T-34とバリエーション」は、(少なくとも私の持っている版は)1988年刊だが、T-34-76の分類は、生産時期に係りなく砲塔の見た目で分けた、大戦中のドイツ軍のA型~F型を採用している。ちなみに1983年刊のスコドロの「T-34 in action」(S. Zaloga, J. Grandsen)では、すでに年式・生産工場別の分類がなされている。なお、「T-34とバリエーション」の表紙は表2~表4まで含めてタミヤのボックスアートを借用しているが、奥付(洋書なので前付?)に「TAMIYA」の名前があるので、許可を取って使用しているものらしい。

初期に出た、左下の35(t)の巻は表紙に「mit Poster(ポスター付き)」と書かれているが、これは2つ折りになった表紙と同じカラーイラストが挟まれていた。……特に嬉しくない。

さて、「ぽっつんのいんあくしょん」は本家で出ていないネタがあるのが魅力といっても、記述が全面ドイツ語というのは敷居が高すぎる。そんな状況を救ってくれたのがSCHIFFER PUBLISHINGから出た、「ぽっつんのいんあくしょん」の英訳版。それまで読めなかったものが多少なりとも読めるとあって、例えば写真右上の「第一次大戦のドイツ戦車」は、PODZUN版も持っていたのに改めてSCHIFFER版を買いなおした覚えがある(その際にPODZUN版は誰かにあげたか売ったかしたような気がする)。

もっとも流石に軒並み買い直すような余裕はなく、「ちっ、英語版が出るならもうちょっと待ってればよかったぜー」なんて思ったような覚えも。

Wydawnictwo Militaria

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ポーランドの一大モノグラフ・シリーズのWydawnictwo Militariaだが、初期(1990年代中頃)にはイン・アクション・スタイルのものを出していた。たぶん、このスタイルで出ていたのは航空機のみ。スコドロのイン・アクションと同様、カラー側面図のページも挟まっている。ただし、イン・アクションと違ってカラー図はセンターページではなく、センターの見開きは基本、透視構造解説図。

特色はなんといっても、他ではなかなか取り上げられない機種を扱っていること。ドイツ機も「He59」などずいぶんなマイナー機まで取り上げているが、さすがにこれについては素材不足だったと見えて、表紙も含めて20ページしかない。「He60 He114 Ar95」は一山ナンボ的に3機種まとめて32ページ。一方で自国ポーランド機は、第1集の「ルブリンR-XIII」が48ページ、第2集の「PZL P-24」は58ページもあって、内容も非常に濃い。なお、本文はポーランド語だが、写真キャプションは英語併記なのが有り難い。

他にも、この判型のシリーズのひとつとして、「WINGS IN DISTRESS ~ POLISH AIRCRAFT 1918-1939」――戦間期のポーランド機の、事故で壊れた状態のものばかりを集めているという、ちょっと変わった写真集などもある。

АРМАДА

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出版社はおそらくЭКСПРИНТ(エクスプリント)というところで、АРМАДА(アルマダ)はシリーズ名。ロシアの出版物で、後には縦長判型になるのだが、これも上記のWydawnictwo Militaria同様、初期にはイン・アクション・スタイルのものを出していた(たぶん1990年代後半から2000年代初頭)。ウェブ上の英語ソースだと「ARMADA horizontal(アルマダの横版)」などと呼ばれていたりする。

スコドロのイン・アクションのようなセンターカラーページはなく、基本、表2~表4がカラー側面図ページ(表4=裏表紙はシリーズ紹介の自社広告の場合あり)。個々の写真は割と小さ目な印象。解説はロシア語オンリーだが、写真キャプションは英語併記。

ネタ的にはさすがロシアという感じで、イリヤ・ムロメッツとか草創期のソ連戦車とか、他では到底望めないものを取り上げていたり、BTだけで3分冊だったり。T-26は、私は1巻目しか持っていなくて「ああ、続きは買いそびれていたか」と思ったのだが、改めて検索すると、2巻以降の情報が出てこない。そもそも2巻以降は出ていないまま?(ちなみにT-26の著者はスヴィリン、コロミェツの2人で、「フロントバヤ・イルストラツィヤ」のT-26と同一)

ФАРК ООД / FARK OOD

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ブルガリアのФАРК ООДというところから出た、「AIR POWER OF THE KINGDOM OF BULGARIA(ブルガリア王国の航空戦力)」と題する「うん、さすがにそれは他の国では出ようがないよね」という内容の4冊組。2001年刊。確かnifty模型フォーラム仲間のはほちん氏に頼んで、通販で一緒に入手して貰ったような覚えがある。

1巻目が同国の航空黎明期~バルカン戦争期、2巻目が第一次世界大戦、3巻目が戦間期で、4巻目が第二次世界大戦。ネタ的な珍しさもさることながら、ページを基本左右に区切って、本文もブルガリア語と英語の完全併記(表紙の題名も2言語併記)なのが有り難い。同国のミリタリー系の資料だと、アンジェラ出版というところから出た「Armored Vehicles 1935-1945」もブルガリア語と英語の完全言語併記だった。国際的にはマイナーな言語であることを自覚して、少しでも海外の読者にも読んでもらえるようにという配慮なのだろうと思う。当然、解説の分量は半分になってしまうわけだが、「全然読めない100」よりも「なんとか少しは読める50」のほうがはるかによい。

表紙以外のカラーページは無し。写真自体は比較的鮮明なものが多く収録されている。

▼その他(Hawk publicationMPM

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Hawk publicationはポーランドの出版社。模型資料的なものは、検索してもこのI.A.R. 80/81しか見当たらない。これ一冊しか出ていない可能性も……。1991年刊。

写真のレイアウト、センターのカラー側面図、イラストの配置など、内容的には、今回取り上げた中で、本家スコドロの「イン・アクション」に最も近い。ただしページ数は表紙含め18ページしかない。なぜか8つ折りの1:25巨大図面付き。今でこそI.A.R. 80/81の資料は他でもちらほら出ているが、なかなか要所を突いた内容で、生産ロット別の主翼パネルの変遷イラストなど、模型製作的にも有用度が高い。ただし記述は写真キャプション含めて全面ポーランド語のみ。惜しい。

もう一方の「Junkers Ju87A STUKA」は、言わずと知れたチェコの模型メーカー、MPM(現Special Hobby)が出したもの。これも同じく1991年刊。奥付(前付?)を見ると、どうも中身自体は、その後AVIA B-534や38(t)の優れたモノグラフを出しているMBIが請け負ったものらしい。まだチェコとスロバキアが分かれる前なので、「Printed in Czechoslovakia」とある。

モノグラフ資料として、ある程度サブタイプを区切って出すことは(特に生産時期が長く生産数も多かった機種・車種の場合は)ままあるが、Ju87Aのようにドマイナーな初期型の1タイプだけで出すというのはちょっと奇異に感じるかも。もっともこれは、もともとバキュームフォームキット・メーカーだったMPMが、簡易インジェクションのフルキットに乗り出した最初期にJu87Aを出したことによるもので(実は我が家にストックあり)、写真にもあるように、表紙の隅には「for MPM model of Ju87A」と、自社キット用に出した資料であると明記されている。

ページ数は表紙含め26ページ。冒頭解説文は3ページずつ、チェコ語と英語。あとのページに文章はなく、写真とイラストのみ。コクピット内部や機構などは、かなり資料性の高いイラストが入っている。

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KV maniacsメモ ― KV-2のおさらい(2)

●タミヤのKV-2発売前の、KV-2の仕様とディテールのおさらい。

第2回目は具体的に場所(ポイント)ベースで、いわば「ゆびさしかくにん」的イメージで。

ココログの仕様上、写真をクリックするとページ自体が切り替わってしまうので、写真を見る際には右クリックで「(リンクを)新しいウィンドウで開く」にすると、写真を参照しつつ本文を読めると思います。

砲塔

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1.駐退機カバー側面に、ボルトアクセス用の溝がある(左2カ所、右1カ所)のが、MT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)の大きな特徴。ただし写真のコントラストによっては判別しづらいことがある。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)では溝がなく、おそらく駐退機カバーそのものがやや狭い。

2.砲口部分に「たが」状に段があるのはMT-2砲塔に搭載された主砲の特徴で、MT-1砲塔時代にはこの段差はない。リング部分には4方向にネジ穴(MT-1砲塔時代にも、リング状段差はないがネジ穴はある)。

3.砲身は全体にスリーブがかぶせられていて、途中2カ所に継ぎ目がある。細い継ぎ目なので、通常の写真では判別できないことが多い。写真の作例では(トラペのキットの砲身長を修正したので)元の筋彫りを埋めたあと、継ぎ目を彫り直していない。

4.砲耳カバー位置決め用に溶接されたリブは、MT-2試作砲塔(U-7に搭載)には見られない。

5.埋め込みボルトの溶接跡(前後面左右、前面は1列あたり8カ所、後面は7カ所)があるのはMT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)の特徴で、MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)にはない。

6.前面装甲はMT-2砲塔前期型、後期型ともに小口が側面に出る。後面装甲は、前期型では小口が側面に出ず、溶接線がエッジにある。

7.上面3方向の固定ペリスコープのカバーに取付用ベロがあるのはMT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)ではベロ無しらしい。

8.前回記事をUPした日の晩、nifty F模型時代の仲間たちとオンライン飲み会をしていたら、“ハラT”青木伸也氏に、「タミヤの新KVのツノ形ペリスコープは下の方にタガ状に段があるけど、段の有無と時期の関係はどうよ?」と聞かれた(共通枝の部分に入っているので、KV-2でも同一パーツを使うことになるはず)。いやオレ、タミヤのツノ形ペリスコープに段があること自体に気付いてなかったよ……。ヌルし。

改めて調べてみると――といっても、ここがはっきり写っていて仕様が判別できる当時の写真が少ないのだが、とりあえず、MT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)でも、段付きツノ形ペリスコープの使用例は見つかった。KV-1でも、1941年春頃に生産されたと思しき車輛で、明らかに段付きを使っている例がある(「グランドパワー」97/10、p29下)。また、MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)でも、「これは段付きじゃないかなあ」という例もあり。

一方で、沼にスタックしている有名なMT-1砲塔搭載車のツノ形は段無し。MT-2砲塔後期型でも、「これは段無しっぽいな」という写真もあり。というわけで、現時点での私の見解は、「少なくともMT-2砲塔型では段付き・段無し混在じゃない?」という玉虫色のもの。なお、ツノ形ペリスコープカバーの頂部には小穴がある。

9.砲塔後面には、MT-1はアクセスパネルとピストルポートだけだったが、MT-2になってからは機銃マウントが付く。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)の時期、KV-1のほうの砲塔後面の機銃マウントは外部防盾無しの半球形のものだったが、KV-2では最初から外部防盾付きのもの(ただしKV-1でも車体機銃は当初から外部防盾付き)。MT-2試作砲塔(U-7に搭載)は搭載位置が丸く窪んでいるだけで、機銃マウント自体は未装備。

車体前部

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10.車体前端の装甲板接合用のアングル材の埋め込みボルトは、MT-1砲塔搭載型(試作車および生産第1シリーズ)では17カ所。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では11カ所(上下列とも)。

11.戦闘室前面、シャーシ前面とも、KV-2は一貫して増加装甲無しのベア(裸)状態。KV-1でもここに増加装甲が付くのは1940年型エクラナミ以降。

12.MT-1砲塔搭載型(試作車および生産第1シリーズ)は車体機銃がなくピストルポートの装甲栓。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では機銃マウント付き。MT-1砲塔搭載型の装甲栓はその後の機銃マウントよりもやや内側。

13.前照灯、ホーンの配線引込部は、MT-1砲塔搭載型ではMT-2砲塔搭載型よりやや内側。ただし、その「内側」度合いにバリエーションがある感じ。なお、ホーンやアンテナベースの位置は、試作車では生産車と異なっているものがある。

14.操縦手用の固定ペリスコープカバーは、砲塔のものと違って後期まで一貫してベロ無しの直付け。

20211229_235546 15.作例の鋳造?の牽引ワイヤーのヘッド部はMT-2砲塔搭載後期型(第3シリーズ)より。MT-2砲塔搭載前期型(第2シリーズ)以前はワイヤー自体を丸めたヘッド部で、トラペのKVのキットにはそのパーツも入っている(右写真)。

16.後期の一部車輌には、車体ハッチ前方に跳弾リブが追加されている。

17.後期の一部車輌では、戦闘室側面に、砲塔リングガード保護を兼ねた増加装甲が溶接されている。KV-1の1940年型後期型にも見られるものだが(生産時期はKV-2より数カ月遅い)、KV-1の場合、増加装甲下部にはアーチ状の切れ込みがあるもの(軽量化のため?)、ないものの2種が確認できる。今回改めて写真をひっかき回したところ、KV-2ではアーチ形の切れ込みがあるものは確認できたが、切れ込みのないタイプは、はっきりと確認できる写真が見当たらなかった。また、そもそも下部を切り詰めて、上端部だけになったタイプもあるようだ。

18.後期の一部車輌では、砲塔リング前方に、楔形のリングガードのリブが増設されている。「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」の記述によれば、これら増加装甲類は、一度前線部隊に配属された車輛が、修理のためにレニングラードに戻された際に追加で装着されたものであるらしい。1940年末生産のMT-2砲塔搭載前期型(第2シリーズ)でも同様の改修を受けた車輌があったかどうかは未確認。

19.後期の一部車輌では、フェンダー上に角型増加燃料タンクが搭載される。これについても上記増加装甲、跳弾リブと同様。16以降の改修が必ず4点セットになっているかどうかは確認しきれていないが、その可能性は高そうな気がする。

車体後部

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20.エンジンデッキの取付ボルトは、少なくとも初期は尖頭ボルトが基本ではないかと思う。後には(っていつから?)平頭ボルトが使われ始めている可能性あり。ただし、KV-1でも1940年型の後期(装甲強化砲塔搭載の1941年後半生産型)で尖頭ボルトの例がある。同じくKV-1で、1941年6月生産とされる車輌のデッキで、尖頭ボルトと平頭ボルトが混用されている例もある。

21.ラジエーターグリルのメッシュカバーは、MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)では前端まで凸だが、MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では、KV-1同様に前端が平らにつぶれている。

22.エンジンデッキ前端両側のボルトは左右3つずつ。タミヤはOKだがトラペのキットは2つしかないので真ん中1つを追加する必要がある。

23.エンジン点検ハッチのふくらみ中央には、KV-1の場合は生産時期によって(?)通風孔のポッチが付いている場合があるが、KV-2は、全型を通じて、当時の写真でポッチが付いているものは確認できない。現存車輛であるモスクワ中央軍事博物館の展示車輛は通風孔のポッチがあるが、同車輛の細部部品はかなりの部分が寄せ集めなので、ハッチも他から持ってきたものである可能性が高いと思う。

24.車体上部後端の曲面装甲は、MT-1(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)ではエンジンデッキに合わせて上部が面取りされている。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では未処理のためエンジンデッキよりやや盛り上がっている。

20211229_235531 25.フェンダー上の工具箱は、MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)とMT-2砲塔搭載型の前期(第2シリーズ)では左右にベロがなく、蓋中央に取っ手がない初期タイプで、左フェンダーに2つ、右フェンダーに1つ。1941年に生産されたMT-2砲塔搭載型の後期(第3シリーズ)では、蓋の左右にベロがあり、蓋中央に取っ手がある後期タイプで、左フェンダーに1つ、右フェンダーに2つ搭載。トランぺッターのKV-2のキットには初期タイプのパーツ(右写真)も入っている。ただし、幅を広く間違えているフェンダーに合わせて作ってあるので、フェンダーを修正、あるいはタミヤに流用の場合にはそのままでは使えない。

26.フェンダー内外のフチのL字材は、少なくともKV-1では小リベット止めの場合と溶接の場合とがあるようで、タミヤのキットは(少なくともKV-1では)リベット表現がないので溶接タイプということになる。KV-1では、1940年型エクラナミと、その後の1940年型の装甲強化砲塔搭載型で溶接タイプが見られる。KV-2の場合、小リベット止めであると確認できる写真はあるが、溶接止めであると確認できる写真は今のところ見付からない。このフェンダーの構造と仕様、戦車の生産時期との関係についてはセータ☆さんの記事に詳しい。

27.車体後部オーバーハング下には整流板と尾灯。作例では尾灯にカバーを付けているが、全車標準でこれが付いているかどうかはちょっとあやふや。整流板も尾灯も見当たらない車輛の写真もあるが、これは撃破時に脱落したものか(後端中央部に弾痕もあるようなので)。KV-1でも、開戦前に製造されたと思われる車輌で尾灯も整流板もない写真があったりするので(「グランドパワー」97/10、p29下)、ちょっと気になるが。

28.シャーシ後面装甲の下端は、タミヤの新KV-1では車体床面から一段出っ張っているが、これはおそらく、工場がチェリャビンスクに移転して以降の特徴で、KV-2では全車、床面に合わせて面取りしてある。ただし、タミヤの同パーツ(B16)は、フェンダーや誘導輪基部と一緒のB枝なので、もしかしたらKV-2発売にあたって初期仕様に丸々交換されているかも。されていたらいいなあ(希望)。

足回り

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29.転輪は緩衝ゴム内蔵型。試作車~MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)は、SMKでも用いられた、ゴム抑え板の穴が8穴のもの。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では6穴のKV用標準型が使われている。リムに小リブ付きだったり、穴がなかったりするバリエーションは、おそらくKV-2生産終了後に登場したものなので、修理時に紛れ込んだとかのレアケースがあるかどうか、程度。

30.上部転輪は、写真ではなかなかタイプの判別がしづらいが、少なくとも、MT-2砲塔搭載型の前期(生産第2シリーズ)までは小リブ付きのものが、MT-2砲塔搭載型の後期(第3シリーズ)ではリブ無しのものが使われているようで、それぞれの組み合わせの例は写真で確認できる。

31.起動輪は一貫して、ハブ部の皿形カバーのボルト数が16個の初期型。

32.サスペンションアーム基部、トーションバーとの接続ボルトは6つの初期型。

33.履帯はKV初期標準、700mm幅の1ピースタイプ。試作車~MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)の一部では、SMK由来の650mm幅も用いられているようだ。

(文中でリンクを張っている当時の実車写真はサイト「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」のもの)

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