かば◎の迂闊な日々

Old Gun Base

●毎年秋は、決まって請ける季節仕事でわたわたする。

実を言えば今年は奇跡的に早くスタートしたので、最初のうちは「いぇ~い。余裕♪」なんて思っていたのだが、結局、後半はいつも通りに怒涛の催促に見舞われた。いかんね。

その仕事も先週末ですっかり片付いたので、とりあえず今は嵐の後の薄らボンヤリ状態。

Screenshot_20191115144952 ●上記仕事の最後のジタバタで、先週は水~金と神保町に日参していたのだが、金曜日は午前中に発注元に資料を持って行った後は、「何か問題があったら呼んでください」と言って、事務所で待機状態。

特にすることもないので、午後、北の丸公園から千鳥ヶ淵方面に散歩に出た。竹橋から英国大使館方面に抜ける、いわゆる「代官町通り」沿いに、大戦中の対空機銃の台座が残されているというのを(割と最近)知ったので、それを見に行くというのが第一目的。神保町~一ツ橋近辺にはもう何十年も通っているにもかかわらず、そんな遺構があるのは知らなかった。

代官町通りの西半分は、通りの南側は皇居の塀、北側は千鳥ヶ淵との間の堤になって一段高くなっていて、堤の上は「千鳥ヶ淵さんぽみち」と言う名の遊歩道になっている。件の台座は、この「さんぽみち」上にある。行ってみてわかったが、「Old Gun Base, Chiyoda」の名称で、「Pokémon GO」のポケストップにも採用されていた。

上では「対空機銃」と書いたが、実際には20mmの対空機関砲の台座で、コンクリートでできた二重円筒状のもの。「千鳥ヶ淵さんぽみち」の、そのまた西側に、割と近接して7つ存在している。配置は一直線でも円弧状でもなく不揃いだが、それぞれの間隔は同じくらい(10m程度)。

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最初の1枚は、台座のある場所全体を東端から見たもの。2枚目以降は、東端から順番に4つ目まで。

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次は途中から、西側の3基を眺めたもの。続く写真は5基めと6基め。最西端の1基は、ちらりと写っているように、外国人のカップルが仲良くお弁当中(さらにその後はイチャイチャ中)だったために個別写真は撮れなかった。

1基の全体の直径は、測ってはいないが、目測で170cm程度だろうか。2mはなかったように思う。実際に使用されていた時にどういう状態だったのかは(きちんとした資料等が検索で見当たらなかったので)判らないが、内側の一段高くなった円筒上に、高射機関砲のターンテーブル状の砲架が載っていたのではないかなあ、と思う。現在は、ベンチとして使用することを考えてだと思うが、薄い自然石のプレートがモザイク状に張られている(一部剥がれたりしているけれど)。ちょうど腰掛けるのによい高さだけれど、内側の段自体が後から作られたもの……ではないような気がする。いや知らんけど。

ここに据え付けられていた高射機関砲に関してだが、環境省の「千鳥ヶ淵さんぽみち」紹介のページにも、「代官町通り沿い堤塘に残る「高射機関砲台跡」」とあるだけで、詳細は書かれていない。ほか、ネット上でヒットするのは、この台座の探訪記に類するものばかりだが、それらによると、

だそうだ(おおもとの出典は何なのだろう?)。

九八式二十粍高射機関砲は名称の通り1938年に正式化されたものだが、その後、これをベースにいろいろ改良型・発展型が作られたらしく、そのうちどんな仕様のものがこの台座に据え付けられたのかはよく判らない。

台座の格好を見る限りでは、中国で鹵獲した「ラ式二十粍高射機関砲(要するにFlak30)」を参考に砲架を新型にした改良型、二式二十粍高射機関砲あたりが怪しそうだ(Flak30のように、ターンテーブル式の架台付きだったようなので)。

wikipediaの記述に、さらにその発展形として出てくる二式多連二十粍高射機関砲というのも怪しい。専用の指揮装置をつないで、複数の砲が連動して目標を追尾する画期的なシステムだが、昭和19年に正式化されたものの16門が製造配備されただけ、とある。しかし、そんな虎の子の新兵器であればこそ、皇居防衛用に使われたとしても不思議ではない(陣地の構築時期とも合致する)。もっとも、このシステムは「6基が連動する」とあるので、台座が7基あるこの場所とはちょっと齟齬がある(いや、1基は照準装置用だったとか……)。

●なお、この対空機関砲陣地の有効性に関して、「高度10000mを飛来するB-29に対しては(まったく弾が届かずに)役に立たなかった」という記述が多いが、20mmクラスの対空機関砲は低空で飛来する小型機が主な目標で、大型爆撃機相手はそもそも想定されていないはず。おそらくこの高射機関砲陣地は、低空からピンポイントで皇居が銃爆撃される危険に対処すべく設置されたのだと思う。いやまあ、陸軍のことなので、本土空襲が始まって、とにかく「皇居をお守りする」格好だけでも付けなきゃイカンというので、届くとか届かないとか関係なしに「何か置いとけ~」と作った可能性も皆無ではなさそうだけれど。

ちなみにB-29が高高度から爆撃を行ったのは本土空襲の初期だけで、その後は低空爆撃に切り替えているため「高度10000mを飛来する」というのも誤りだが、その「低空」も高度2000m前後だったようなので、20mm機関砲クラスでは有効射程ギリギリというところだろう。

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最近の買い物

20191017_132803 ●恒例の季節労働で、最近はだいたい週一ペースで神保町へ行く。

せっかくの機会なので、最近できた、書泉グランデ並びの蘭州牛肉麵の店で食べたり、ティーヌンでトムヤムラーメンを食べたり、久しぶりに「スヰートボーヅ」で餃子を食べたり。久しぶりなので、ちょっと羽目を外して餃子増量の「中定食」を食べてしまったことであるよ。

●食べ物と言えば。

めがーぬさんに、「ファミマのプレミアム肉まんは蓬莱の豚まんによく似ている」と教えて貰って以来、密かにお気に入りにしていたのだが、商品ラインナップのリニューアルで、なくなってしまったらしい。「上位種」の肉まんが「黒豚まん」に変わっていた。蓬莱の豚まんに匹敵し得るかどうかは……最近蓬莱の豚まんを食っていないので、なお検証の要あり。

●最近の模型方面の買い物。

20191025_230412 (1).秋葉原のYSで、特価品のコーナーにズベズダのSU-85が税込み2400円で出ていて思わず購入。ズベズダの新しいT-34シリーズの購入は初(旧シリーズはいくつか持っていて、いまさらどうしよう状態)。

SUに関しては、その昔、タミヤのSU-122を(その当時としては結構気合を入れて)作り、さらに前世紀のぎりぎり末期にドラゴンのSU-85Mを作った(リンクはそれぞれ「T-34 maniacs」内の製作記事)。

後者もかなり頑張って考証・工作したつもりなのだが、今の目で見ると、だいぶ間違いも多い――のだが、その後かなり詳しく判ってきた細かい時期別の仕様の変遷等に関してはほとんどフォローしていないので、私が自信を持ってどうこう言えることはほとんどない。というわけで、詳しくはセータ☆さんのレビューを参照のこと(丸投げ)。

20191025_230639 (2).MENGのルノーFTの誘導輪・起動輪パーツ(1輌分)。

古いRPMのキットは捨てるには惜しいが、誘導輪が戦間期の仏製改修型しか入っていないのはちょっと困りもの(つまりそのままでは、第二次大戦のフランス軍か、ドイツ軍鹵獲仕様くらいしか作れない)。このパーツ枝には、新旧2種類の誘導輪が入っている(改修型を作る場合もこちらのパーツを使った方がシャープ)。

なお、MENGのキット自体も、初版に入っていた起動輪は木組みの三角部分が窪んだ変な表現になっていたので、それを修正する際にもこのパーツは有用(私が買ったキットはすでに修正されていた)。

細いリーフスプリングのパーツも入っていて、wz.34装甲車に流用できないかな……などと、ちょっとスケベ心もあったのだが、こちらはサイズにだいぶ差があって無理だった。

20191025_230536 (3).ドラゴンのII号戦車A型のパーツ小枝詰め合わせ。

いちばん上の一番小さい枝に入っている対空機銃架に惹かれて買ったもの。この車体側面に付く対空機銃架は、初期のII号戦車に時々見られるものなのだが(全車に装備ではないらしい)、タミヤのII号戦車(A~C型)には入っていない。

デフケースはボルト取り用かなー。

20191025_230555 (4).ドラゴンのT-34初期型用サスアーム。

サイバーの(悪名高い)STZ仕様発売の際に新規にパーツ化されたもの。一緒に入っているSTZ仕様の起動輪・誘導輪はさすがにもう用事がない(はずだ)が、丸断面の初期型サスアームは1940年型、1941年型を作る際に必要で、確か手持ちのキットで融通しあっても足りなかったはず。

バラ売りで手に入ったのはちょっと嬉しい。

●数回前の記事への、めがーぬさんからのコメントで初めて知ったこと。タミヤからなんと! ルノーR35が発売になるらしい。ホビーボスのキットを(だいぶ我慢した挙句に)ちょっと前に買ってしまったところなのだが、それでもやっぱり嬉しい。

いら、でもその前にエレール・ベースのVanatorul de care R-35を成仏させてやらねばいかんのでは……。

20191020_212518 ●ついに!

小野不由美「十二国記」の新作が刊行された。題名は「白銀の墟 玄の月」(……このシリーズは「**の* **の*」という題名がやけに多くて非常に紛らわしく、今回のこの題名も覚えられそうにない)。全4巻で、前半2巻が今月発売、後半2巻が来月発売。

それはそれとして、腰巻の文句によれば、「18年ぶりの書下ろし」だそうだ。え……。「華胥の幽夢」から、もうそんなに経ってたの?

尻切れトンボのまま終わっていた泰国の話の続き、ということだけは知っているが、買っただけでまだ読み始めていない。仕事が紛糾状態のところでこれを読み始めてしまったらとんでもないことになりそうなので、とりあえず今の山場を抜けてから読み始めようと思う。うずうず。

●近所を走っている京急バスの車内で、「些細なことで救急車呼ぶなよ!(大意)」キャンペーンの公共広告の車内放送が流れるのだが、その中の一文、

「救急車は限りある資源です」

――というのが、聞くたびにちょっと引っかかる。いや、広義には資源なのかもしれないけれど。

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コメント投稿についてのお知らせ

●当ブログの置かれているココログが謎のメンテでしっちゃかめっちゃか状態になって半年以上経つが、どうやらまだ幾分怪しいところがある様子。

これは個人の環境によっても差があるのかもしれないが、最近は、「新規に投稿されたコメントがきちんと表示に反映されない」という問題が発生している。

一応、ブログの管理者である私には、どなたかがコメントを投稿すると「コメントが来たよー」というお知らせメールが届く。……のだが、実際に「かばぶ」を開いてみると、コメント自体は表示されず、左の新規コメント欄にも出ていない状態。ページをリロードしてみても出てこない。

そのまま放っておけばいつのまにか表示されるようになるのかもしれないが、管理画面から「最新の情報に更新」をクリックするときちんと反映された状態になるようだ。要するに、私自身がそう望んだわけではないが、強制的に「コメントは管理者の承認を待って表示」モードのようになってしまっている感じ。

というわけで、特にここ最近、当「かばぶ」にコメントを投稿し、「あれ? コメント反映されないや……」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、私自身、なるべくマメにチェックして「最新の情報に更新」するように心掛けますので、投稿ボタンを乱打などせず(そんな人は今までいませんが)気長にお待ちください。

しょうがねーなーココログ(タダで使っているのであまり強硬に文句も言えないけれど)。

●前回、MiniartのTACAM T-60(鋼製リム転輪)をイエローサブマリンに予約、「まあ、消費税増税までには間に合わないだろうなあ」と書いたのだが、なんとギリギリ、9月30日、仕事で新宿をほっつき歩いている際に入荷の電話が来て、早速引き取りに行った。

その際、IBGの75mm野砲mle.1897も入荷しているのも発見。予約の取り置き棚にはフランス軍型のゴムタイヤ仕様、ポーランド軍型のゴムタイヤ仕様の2種が置いてあったのだが、表の商品棚にはポーランド軍用しかなく、そちらを購入。

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現在、ちょっと仕事が紛糾状態なので、キットレビュー等はまたいずれ。

ただし、75mm野砲のポーランド型の方は、キット名称の「in the West」という部分を軽く読み飛ばしていたのだが、要するにこれは「イギリスにおける(亡命)ポーランド軍の装備」であるらしい。そういえば、1939年戦役時のポーランド軍装備のこの野砲のゴムタイヤはもっと大径だ……。私自身はその辺に気付かず、1939年戦役時の仕様だと思い込んで買ってしまったので、帰宅して気付いてがっかり。

実際にノルマンディー上陸以降、北西ヨーロッパで戦ったポーランド第一軍はこんな旧式砲ではなく25ポンド砲あたりを使っていそうな気が。もしかしたら、イギリス国内での訓練用にしか使われていなかった可能性もあるのではと思う(キット付属のデカールも、1942年の英本土のみ)。

もちろん、IBGはこの後、オリジナルの木製スポーク仕様も、1939年戦役で使われた大径ゴムタイヤの改修型も発売するだろうと思う。しおしお~。

●今年に入ってから、ほぼ週に1,2度ペースで義弟(といっても向こうのほうが年上なので、感覚としては義兄)の革鞄工房で徒弟をしている。趣味の模型のほうは塗装はさっぱりだが、そちらではなぜか切断面の塗り工程をすることが多く、また、時々は古くてハゲチョロケになったカバンの補修塗装を任されることがある。もちろん、ビンテージジーンズ同様、ナチュラルな仕上げの皮革で使い込んでいく過程を愛でる場合もあるが、派手目の着色革の鞄の場合はみすぼらしくなるだけなので、時折、販売店経由でそういう依頼が来る。

今日もそんな補修を任されたのだが、相手は中型のトートバッグで、ハゲの程度は比較的軽傷ながら、革がベージュと茶色のツートーン、かつ持ち手と継ぎ目のテープが焦げ茶と言う三色構成の難敵。補修作業は、極力地色に合わせて絵の具を調色し、なるべくムラが出ないように傷を塗り込めていくというものだが、大雑把に言えば、三色だと手間も三倍になる。結局、終了までに2時間以上掛かったが、「よし、これなら文句は言わせん!」レベルまで仕上げたので満足。模型の塗装もこれくらい行けばなあ……。

なお、鞄の補修で「一仕事終えたぜ!」気分になったものの、本業の方はさらに遅れが深刻化してしまった。やばし。

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鎌倉の狸

●23日月曜日、夜に散歩に出たら、鎌倉の鶴岡八幡宮の横手で、タヌキに遭遇した。以前に近所でタヌキかアライグマか(とっさのことで判断できなかった)に遭った時には慌ててしまって写真も撮れなかったが、今回は(ボケボケではあるものの)2枚撮影できた。前足の肩の部分が黒いこと、しっぽがシマシマでないことなどから、アライグマではなくてタヌキであろうことがわかる。

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なお、1,2カ月前だったか、逗子海岸沿いのファミレスの入り口で、弱ったタヌキが行き倒れていて保護されたことがある(という写真と話が、facebookの逗子のニュースグループに上がっていた)。

●9月最後の週末。28日土曜日、久々にお誘いがあり、nifty模型フォーラム以来の友人である赤板、でんでん両氏と川崎で大いに飲む。といっても、5時半から飲み始めて、9時前には解散。なんと優等生的な。

赤板氏は相変わらず、縦横の寸法が近付くほどに膨れていて、(人のことは言えないが)食生活につき厳しく指導。

「でんの野郎にもいつも言われてて、いったいあいつはオレのおふくろなのかと」

とブツブツ言っていたが、そこまでいつも言われているならなんとかせれ。いきなり倒れられたりするとこっちも精神的にきついんだよ。

脂っこいものばかり食っていそうな“腹丁”青木先生も少々心配だ。つい先日、関西AFVの会は無事に開催されていたようなので、元気でいるのだとは思うが。

なお、一時模型から遠ざかっていたでんでん氏は、最近また少々飛行機を作っているそうだ。

20190921_101024 ●グムカの高田さんがズリーニィの資料本を出すという話は昨年の東京AFVの会の時にだったか、聞いていて、「これは出たら当然買わねば」と思っていたのだが、うかうかしているうちに、夏の初めにはとっくに出ていたらしい。秋葉原でなら売っているかな?などとも思ったが、買い逃すと残念なので、グムカに直接通販を申し込んだ。

頼んでから数日のうちに届いた(先週末)。買い逃さずに済んでよかった……。

タイトルは「ハンガリー陸軍40/43M 10.5cm突撃榴弾砲ズリーニィ」。ソフトカバー、B5版で、表紙を除き全74ページの薄手の本だが、小国の国産車輛のモノグラフとしては充分だろうと思う。そもそも、ズリーニィに関する日本語で読めるまとまった資料と言えば、これまでは、「アーマーモデリング」発刊間もない頃の東欧小国特集(Vol.5 枢軸国の機甲部隊)くらいしかなく(当然、現在では入手難)、それを大きく上回る内容の本書の発売は非常に有り難いところ。

中身に関しては、おおよそ下写真の目次にある通り。若干のカラー塗装図に続いて、現存実車(クビンカ)のカラー内部写真、実車の開発史と戦史、ディテール解説。これら記事は現地の研究者によるものの翻訳。続いては、クビンカの実車の外回りのwalkaround写真。以前、やはり高田さんが出版された「クビンカ フォトアルバム Vol.1」に掲載された写真と同じ時に撮影されたものか。掲載写真に重なりがあるかどうかは、「クビンカ フォトアルバム」がパッと出てこなかったので未確認。続いては、実車の大戦時の記録写真(生産ロット別)。試作のみの対戦車型「ズリーニィI」についても巻末で軽く触れられている。

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なお、同書の現存実車のディテール写真と、そのキャプションに出ているのだが、ズリーニィの戦闘室上面とハッチには、数カ所、謎の小穴があるそうだ。現状、何の用途なのかは謎で、現地研究者の推測は「製造時に必要な何かの仮設用の穴では」というもの。高田さんの推測は「車内の明り取りの穴ではないか」。

もちろん用途に関して野次馬的興味は大いにあるものの、模型的に大事なのは「実車がどういう形状をしていて、それを模型にどう反映するか」ということになる。しかしそこで問題なのは、「ではこの穴は本当に、戦時中の実車にもあったのか」ということ。戦時中の実車写真では、当該箇所に本当に穴があるかどうか確かめられるような、鮮明なクローズアップが見当たらない。

もしかしたら、(先の「製造時に必要な何かの仮設用の穴では」説に通じるものもあるが)鹵獲後にソ連側で何かを取り付けるために開けた穴である可能性もあるかもしれない。……と思うと、模型に反映するかどうか、ちょっとためらってしまう。

いや、戦時中実車でも確認できるよ、コレに写ってるよ、というようなアテがおありの方は、ぜひご教示いただきたい。

●タミヤから38(t)が35で発売されるそうだ。38(t)ベースのマーダーが発売された時から、いずれは出すだろうと思っていたが、ついに。

タミヤなら当然そうだろうなあ、という選択のE/F型。個人的にはフランス戦で使えるB/C型がよかったなあ、という気もするが、フランス戦時の38(t)はリブの多い初期型履帯を履いているのが普通のようだし、タミヤはそこまでしそうにはない。

他に楽しみにしている新製品としては、IBGの75mm mle.1897野砲。web上には中身の写真なども上がっているので、実際にはもう発売されているのかもしれないが、今のところ私は店頭では見たことがない。

たぶん買わないとは思うけれど、「おおおおお」とびっくりしたのはAMMO/migの1:16、ブレダ20mm搭載I号戦車A型。TAKOMから1:16の(通常タイプの)I号戦車A型が出るそうなので、もしかしたら基本パーツは共通なのかもしれないが、そのへんの関係はよく判らない。

ブロンコのアンシャルドCV35(ハンガリー軍仕様)は、非常に惹かれはするけれども、すでにレジンの改造パーツを持っているのでたぶん買わない。

●MiniartのTACAM T-60は、知らない間にディスク転輪型は発売になっていたらしい。これも買い逃してしまうと嫌だなあ……と思いつつも、同社の場合、最初の製品にはポカがあって、後の製品ではそれが直されているということもあるので、発売時期が遅いもののほうがちょっと安心かもと思い直し、未発売の鋼製リム転輪型をYSで予約して来た。入荷は、消費税増税前には間に合いそうにない。

●先日の台風第15号で崖面が崩落し、通行止めになっていた小坪隧道だが、24日火曜日夕方、ようやく復旧したそうで、バスも通常運行を再開した。ずいぶん長かったが、それでも対策工事が完全に終わったわけではなく、交通は復旧しながらも、工事はまだ断続的に続くようだ。

●前々回に紹介したカヤの実。一週間ほどアク抜きし、その後しばらく乾燥して、炒って食べた。アク抜き直後に炒ったものはまだ針葉樹のヤニ臭い感じがしたが、その後数日しっかり乾燥させたものは香ばしさが増していた。

カヤの実についてweb上で検索すると、「美味い」という意見と「美味しくない」という意見が入り混じって上がっている。昨年、初めて食べた時には香ばしく、これは頑張って採ってきて食べる価値がある!と思ったのだが、今回、最初に食べた時にははっきり言ってちょっとがっかりな味だった。どうも、処理の具合によって味がかなり左右されるのでは、というのが現状における私の想像。

その後、鎌倉の某神社の境内に大量に落ちていたので拾ってきて、現在、第二陣のアク抜き中。そろそろアク抜きを開始して1週間経過。

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●市内某所でクリも拾ってきた。もっとも、台風の影響でしっかり熟さないうちに叩き落されたイガが多かったようで、落ちているのは口の開いていないものばかり。

足で踏んで割ってそれなりに集めてきたが、中身がスカスカな感じのものも多いようで、鍋に水を張って入れてみたら、3分の1程度が浮かんで来た。浮かんだものを中心に茹でた後に焼いて割ってみたが、中身が傷んでいて食べられそうになかった。沈んだほうの中身に期待。

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ほか、近くの寺/神社でぎんなんも拾ってきた。ここ2、3年、いつも目当てにしてい某寺山門脇のイチョウの木は、どういうわけか今年はほとんど実を付けていない。それでも周辺でそれなりに拾うことができた。

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台風一過のあれやこれや

●季節労働の地図本の制作にいっぱいいっぱいになってしまい(と言うほどには真面目に仕事していないが)、当「かばぶ」の更新もだいぶご無沙汰に。そんな折にやたら強力な台風がやってきたりもして、hn-nhさんから「そっちは大丈夫だったの?(大意)」というお言葉も頂いたりしたので、近況報告やらなにやら。

とりあえず最初に書いておくと、我が家自体は木の葉が吹き溜まったくらいで、特に大きな被害はなかった。私自身は(兄が職場の研修で不在になるというので)川崎の実家の母のところに泊りがけで出かけていたので、家がどれくらい揺さぶられたかもよく判っていない。

なお、実家は東急・田園都市線沿線にあるが、割と午前中早めにもう動き出していた。昼に横浜経由で帰ってきたが、JR横須賀線は「いつ動くかもわからん」状態な一方で、京浜急行はその数日前(木曜日)に神奈川新町の踏切で大事故があったにもかかわらず、土曜日には復旧しており、台風後の月曜午後も(逗子線への直通こそなかったものの)割と普通に走っていて、そちらを使って問題なく帰宅できた。京急偉大なり。

●我が家の近所の山の下を通る神奈川県道311号(すいどうみち)には、逗子市と鎌倉市の境界となる3連×上下線の6本のトンネル群がある。ひっくるめて「小坪トンネル」と呼ばれたりする、全国的にはお化けトンネルとして有名な場所だが、うち、下り線(鎌倉→逗子方向)の2本(名越隧道、小坪隧道)は明治時代に地元有志が出資して浦賀道に初めて開削したトンネルとして土木遺産にも指定されていたりする。詳しくはこちら

が、その小坪隧道(6つのトンネルのうち、下り線の最も逗子側)の逗子側ポータルの上方の崖が台風で崩れ、現在(9月14日)もなお不通で、解除の見通しも立っていない。

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2枚目は小坪隧道の鎌倉側から覗きこんで撮ったもの。倒木が道路を塞いでいる。4枚目は山の上の住宅地からトンネル上の斜面を見下ろして撮ったもの。かなりざっくり崩れている。単に道路を塞いだ倒木を除けばいいというものではなく、3枚目の写真にも少し写っているように、トンネル上方にも倒木がまだ重なって引っかかっていたりして、下手をすると再び崩落しかねない状況であるらしい。

逗子から鎌倉へは普通に通れるが(1枚目の写真の左側・新小坪隧道が上り線)、鎌倉から逗子へは、大きく迂回していく必要がある。

●ほかにも近所で「あ、あそこの崖も崩れてる!」なんてところがちらほら。

もともと逗子・鎌倉はちょっとした平地を取り巻いて細かい谷戸が多数あり、しかも山すそは切り立っていて、地層は柔らかく、もういかにも崩れて下さいと言わんばかりの地形(そしてその通りよく崩れる)。特に鎌倉では、谷戸の奥が倒木で小範囲に停電したり通行不能になったりという箇所がかなり多数あるようだ。

だからこそ、(前回書いたように)「どんどん崖はコンクリで固めてしまえ」的方向になってしまうのも当然なのだが、それはそれでまた、遮られることなく周囲に風雨が当たるようになる、ということでもある。

●崖崩れまで行かなくても、平地でも山でも、あちこちで木がへし折られていて、今回の台風がどれだけ凶悪だったかがわかる。

10日火曜日、名越切通を少し歩いてみたが、山道に折れた枝が敷き詰められたような状態。

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さらに鎌倉側に降りる手前の西平場には、立派なヤマザクラ(オオシマザクラかな?)があって、毎春見事な花を楽しませてくれていたのだが、平場に面して風がダイレクトに当たったのか、根元近くからぼっきり折られてしまっていた。

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2枚目、折れた幹を見ると、縦に割けたようになっていて、単純に折れるというより、ねじ切られるように折られたらしい。ついでに、在りし日の姿を一枚。惜しいなあ。

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●hn-nhさんから、「台風の風雨に紛れてミツバチの巣を採ろうとしなかったか」(大意)と聞かれたのだが……惜しい!

実は台風が来る前に、下から物干し竿でつついて半分ほど回収してました(笑)。というわけで、スズメバチの上前をはねたニホンミツバチの巣がこちら。

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採ったこの巣自体にハチミツは残っていなかったものの、木にくっついた根元部分にわずかに残っていた分があったようで、物干し竿でつついた時にぼたぼたと少し垂れて来た。もったいない~。

「蜜蠟でできた巣」というと、なんとなくずっしりとしているのではという先入観があったのだが、実際にはハニカム部分は極薄で、おそらく、大きさあたりの重さは紙でできたアシナガバチの巣とそれほど変わりはないのではと思う。

これだけ採ったら、耐熱ガラスのカップ一杯分くらいの蜜蠟が作れるんじゃないか……などと皮算用していたのだが、実際には、熱湯で融かしてペーパータオルで濾して冷まして固めたら、大さじ2杯分くらいにしかならなかった(ペーパータオルのなかでゴミと一緒に固まった分も多かったかも)。

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濾す際に失敗したので、まだ若干ゴミ混じり。ろうそくでも作ろうと思っていたのだが、これじゃカップ入りろうそくは無理だなあ。

●先月収穫したヒメクルミは、バケツの中で果肉を腐らせたり、じゃぶじゃぶ洗ったりを繰り返して、おおよそ核果だけの状態に。いくつか試しで割ってみたが、なかなかよろしい感じ。

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さらに、昨年初めて食って美味かったカヤの実も多少収穫して来た。現在重曹の溶液に漬けてアク抜き中。

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●遡って、更新をサボっていた間の行動記録を少々。

8月26日。逗子市民プラザの映画上映会で「ボヘミアン・ラプソディ」をやるというので(しかも900円で観られるというので)、今更ながらいそいそと観に行く。

私自身は、もともとクイーンはあまり“ピンと来ない”感じで、現役バリバリで活躍していた時代にはまともに聞いたことがなく、誰もが知っているヒット曲に関して「ああ、これってクイーンだな」と判る程度。むしろ、昨年映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしたことで、なんとなく知っている曲が増えた(というよりも、「あ、この曲ってクイーンだったんだ」というのが若干わかるようになった)。しかし、この映画を楽しむには、むしろそれくらいの距離感がちょうどよかったかな、というのが見終わっての感想。

ただ、映画として大傑作かどうかというとちょっと首を傾げる感じ。なんというか、バラエティ番組でよくやる、著名人とか過去の偉人の振り返り再現ドラマの「良く出来た版」という感じで、したがって、物語も登場人物の人間性も単純化され、程よく美化されて、逆に、「これって、ものすごくコアなクイーンのファンが見たら、むしろかなり物足りないんじゃ……」と思った。

映画であってそっくりショーではないので、あまり「そっくり度」を云々しても仕方ないのかもしれないが、登場するクイーンの4人のメンバーのうち、主人公であるフレディ・マーキュリーが一番似ていない気がした。本物よりかなり線が細い感じがしたのだが、後から写真を見比べると体のマッチョぶりはあまり差がなく、どうも顔の下半分のボリュームの違いから来ているのではないかと思う。ロジャー・テイラーが一番似ている気がしたかなあ。ジョン・ディーコンは髪の長い時代はそうでもなく、髪を短くしてからがすごく似ている気がした。もちろん、熱烈なクイーンのファンとは言い難い私の勝手な印象。主人公かそうでないかで、登場する時間も映り方も違うし、というのもあるかもしれない。なお、以上はあくまで顔かたちの問題で、特にステージ上のしぐさやディテール(例えばシーンごとの使用楽器、小物の配置など)はものすごくこだわって再現されているように感じた。

●8月28日。都内で仕事。霞が関の某官庁で資料閲覧・コピーさせてもらい、その後、夕方に神保町で会議だったので、桜田門から皇居前広場を抜けて神保町方面へ歩く。

途中、大手門前まで来た時に、案内板を見ていたら、入り口のおじさんに「どうですか」だったか「まだ入れますよ」だったか、とにかく声を掛けられた。

「竹橋方面に抜けられます?」「(その手前の)平川門から出られますよ」

そういえば、皇居のこちら側も普段から入れる場所なのに一度も入ったことがなかった、これもいい機会かもしれない――と思って、いそいそと入る。この時、午後5時半ちょっと前。閉門時間は6時で、どんなにゆっくり歩いても時間は十分。同心番所とか、百人番所とか、まだこんな建物が残ってたんだなあ、などと物珍しく眺めながら歩き、平川門に向かう長い直線道路に差し掛かったところで、横道から若い警官が出て来て、「もうこの先の平川門は閉めますから、大手門に戻って下さい」と追い返された。

「いや、通り抜けられるって聞いたから来たんですよ」と言っても聞く耳持たず。「そもそもここは、大手門と平川門、どっちが近いんです?」と訊ねると、「平川門のほうが近いですね」と言う。じゃあ平川門に行かせてくれよ、と思うのだが「ほら、もう皆さん引き返してきていますから」と言う。

しぶしぶ大手門まで戻り、受付で顛末を話すとむしろ驚かれて、「すみません」と謝られ、しかも「これからでも、平川門に向かわれますか?」とまで言われたのだが(それはそれでびっくりだ)、「いや、もういいです」とぶっきらぼうに答えて大手門を出た(むしろ大手門受付の対応は親切だったので、八つ当たり的返答をしてしまったのは申し訳ない)。

なお、大手門まで引き返し、お堀の外側を回って平川門外に到着した時には、まだ本来の閉門時間である6時になっていなかった。……皇宮警察許すまじ。

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ニホンミツバチ

●11日、鎌倉浪花家で今年初めての氷宇治金時。ひと夏に一度は食べたい品。

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器が平たい上に山盛りになっているので、こぼさずに食べるのはなかなか難しいのだが、今回はなんとかひとかけもこぼさず食べ切ることができた。ややこしい手順など考えず、素直に上から食べていくのが良策。なお。小豆餡は上、中、下の三カ所に入っている。

●近所の、山の上の住宅地から谷戸に降りる階段道の改修工事が始まり、道幅の半分を潰して保護壁が張られていた。

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ここは、数年前に道の下手の曲がり角の上で斜面が崩れ、その後応急処置のみで放置されていたのだが、どうやら(この際、ということで)階段道に沿った斜面全体をコンクリートの擁壁に変えることになったのではないかと思われる(斜面の藪が刈り込まれ、保護壁が作られている様子から見て)。

確かに防災上はそれが手っ取り早いのかもしれないが、実は階段道の上の方の斜面は、初夏にはヤマユリが咲いてキイチゴ(モミジイチゴ)が実り、初冬にはトリカブトが可憐な花を咲かせる、ちょっとした楽しみがある場所でもあった。もちろん、場合によっては人命にも関わる防災措置と、自然保護というにもおこがましい道端の植生の保全と、どちらが大事なんだと言われれば前者であるのは間違いないが、一方で、「崖面は何でもかんでもコンクリートで固めればOK」的な手法以外に、何か手はないものなのかと、こういう工事を見るたびにモヤモヤする。

●17日。市内某所にクルミ(ヒメクルミ)の実を拾いに行く。

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昨年、FBの逗子市内の知人Tさんに場所を教えて貰ったもの。ただ、昨年は木の下が草刈りされていて拾い放題だったが、今年は草ぼうぼうでガサガサかき分けながら拾うことになった。とりあえずある程度の数は拾えたので、現在周りの果肉を腐らせ中。

●近所のMさんの奥さんが干してある傘を飛ばされ、急斜面の途中に引っかかっていたのを回収。そのついでに、道からは見えづらい、木の幹の陰に大きなニホンミツバチの巣があるのを発見した。縦の長さは少なく見積もっても30cmはありそう。

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クリーム色の長い円盤が縦に連なっている様子に、最初は「縦向きに生えたサルノコシカケ?(そんなんあるのか?)」と思ったのだが、よくよく見直してミツバチの巣であることに気付いた。

もちろん、本来なら働きバチにびっしり覆われているはずなのだが、この巣はスズメバチ(オオスズメバチ?)に襲われて壊滅し丸裸。襲われてまだ間もないらしく、スズメバチが10匹程度、頻繁に出入りしていた。上右の写真にもスズメバチが写っている。

何年か前にも、大切岸上の峠道沿いの木のうろにニホンミツバチが営巣しているのに気付いたことがあるのだが、その巣もしばらくしてキイロスズメバチに襲われていた。ニホンミツバチは蜂球でスズメバチを蒸し殺すという対抗手段を持っているのだが、この様子を見ると、防衛成功率は決して高くはないようだ。ミツバチ頑張れ!(泣)。なお、特にこの巣に関しては隙間でも何でもなく、完全に露出した開放巣だったので、さらに防衛は困難だったはず。

襲われて間もないとすると、今回収すれはハチミツを採れるかもしれない(しかもニホンミツバチの百花蜜!)などとも思ったのだが、急斜面であるためハシゴなどはかけづらく、しかもまだ頻繁にスズメバチが来ていることを考えると、余計な手出しはしないほうがよさそう。

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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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ゴー!

●仕事が滞ったり、かみさんが入院したり(現在はすでに退院)で、半月ほど、主に精神的にわたわた。肉体的には暑さにめげて活動レベル低下中。クブシュもじわじわとしか進まず。

●7月末、ちょっと変わった仕事の用事があり、平和島から釣り船に乗り、豊洲の辺りまでハゼ釣りに行く。もっとも私自身はほぼ、他人がハゼを釣るのを傍らで見ていたのみ。ただ、最後に竿を貸して貰って1匹だけ釣った。魚釣りなんて久しぶり。

(私にとっては)見慣れない、海面から見上げるモノレールやレインボーブリッジがちょっと新鮮。

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豊洲の新市場も初めて見た。オリンピック関連であるらしい施設建設もちらほら。

●6日、横浜・山下公園にポケモンを捕まえに行く。抽選制のイベントで、私は見事落選したが、当選者は2名(だったかな?)の(ゲーム登録上の)「フレンド」を招待することができ、当選した近所のお嬢からチケットが回ってきた。

最寄駅は「みなとみらい線」の元町・中華街駅。時折しか利用しないが、降りるたび、駅の感じに「あー、御堂筋線やー」と思う(えせ関西弁)。

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この「Pokémon GO」のイベントに関しては、テレビのニュースなどでも、おおよそ「このクソ暑い中、カンカン照りの公園に大挙して押し寄せるなんてアホかこいつら」という反応を前提とした取り上げられ方をしていたが、自分自身でも「このクソ暑い中、カンカン照りの公園を歩き回ってアホかオレは」と思ったので、まったく反論はできない。

実際、スマホのポケモンのアプリが頻繁に熱落ちした(安い韓国製端末でハード的にもちょっと頼りないこと、GPSの常時使用が割と熱をもちやすいようであること、イベント後半はポータブル充電器を接続しながらの使用だったことなどにもよる)。

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ペットボトルのお茶2本、セブンイレブンのアイスコーヒー2杯を消費。自分で好んでこんなイベントに行っておきながら何だが、絶対にこんな季節にオリンピックなんかやるべきじゃないと思う。

ちなみに、東京オリンピック招致のPRの文章には、「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と書かれていたそうだ。

……そのアスリートは、たぶん、普通の地球人類ではない。

●突発的に茶葉蛋(チャーイェダン)が食べたくなり、上記イベントのついでに中華街で安物の烏龍茶のティーバッグを買い、逗子駅前のスーパーで特売卵を1パック買ってきて、久々に作成。

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最初に普通に茹で卵を作ってから、スプーンの背などで殻にまんべんなくヒビを入れ、その後、濃く煮出した烏龍茶に五香紛、料理酒、醤油、塩、砂糖などを入れた煮汁に入れてことこと煮たり冷ましたりを繰り返す。ヒビ割れからお茶の色と風味がしみ込んで、殻を剥くと写真のようなマーブル模様になる。

調味料の分量などは毎度作るたびにかなり適当だが、割と美味しく出来た(と思う)。色の染み具合も良し。

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「クルップ」の特に求められていない付け足し

●先日、hn-nhさんがupされたブログ記事で、JR総武線・浅草橋駅に、ホーム屋根を支える古レールのかなり素敵な列柱があること、また、その中に私自身は未見だった独クルップ社製のものが確認できること、などを知った。

→ hn-nhさんのブログ記事、「クルップ

普段横須賀線で都心に出る私は、都心東端や千葉方面に用事がある場合、(横須賀線から直通の)総武線快速を使うので、秋葉原~錦糸町間の総武線各駅停車は少し縁が薄い(それでも全然通ったことがない、というわけでもないのだが)。

22日土曜日にたまたま錦糸町で用事があったついで、また、28日金曜日に市ヶ谷で仕事の打合せがあった帰りの寄り道で、改めて浅草橋駅の古レール柱をチェックしてみた。

(そんなわけで、タイトルに「付け足し」とあるのはhn-nhさんのブログ記事に対してであって、当「かばぶ」に、クルップに関する先立つコンテンツがあるわけではない。前回に続いて、他人のふんどしで相撲を取りまくり。)

●浅草橋駅は高架の対面式・片面ホームだが、上下線の線路の間に柱を立てて支えることで、両面のホーム屋根を一体化し、ホーム前面に柱を立てることを避けている。また、これらの柱はホーム区間の架線柱も兼ねている。ほぼ全景の写真を以下に。

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ともに、下り線ホームの秋葉原寄りの端から写したもの。秋葉原駅から隅田川の架橋手前までの区間、線路はとことんまっすぐ。そのため、比較的短い間隔で立てられた古レール柱が、ビシッと一直線に並んでいて美しい。

縦長写真の手前側で中央の梁がH型鋼に代わっているが、これはおそらく、電車の編成が長くなったことに伴い、秋葉原側に少しホームが延長されたためではないかと思う。

屋根を支えるアーチは基本、ホーム/線路に対して直角方向だが、最も両国駅(千葉方面)側だけ斜めになっている(ちょっと下写真では判りづらいが)。

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これは、駅のこちら側に接する道路(柳橋桜北通り)が線路と斜めに交わっているためで、上下線のホームもやや位置がずれている。

●このように、対面式ホームで中央に柱を立てて両側の屋根を支える形式としては、同じく中央・総武各駅停車の水道橋駅も挙げられる。浅草橋駅が曲線を多用したデザインなのに対して、水道橋駅のレール柱は直線的。

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これはこれで魅力的だが、水道橋駅の場合、ホーム背面の柱に全てカバーが掛けられてしまっているのが、古レール柱ファンとしてはいささか残念なところ。そのため、刻印による古レールの出自もほとんど確認できないのだが、28日、たまたま停車した車内から見えた中央の列柱の一本に、不鮮明ながら刻印が確認できた。状態はよくなく、しかも車内からの撮影なのでドアガラスの反射などもあってますます見づらいが、どうも独ウニオン(UNION)社製らしい。

●一方、屋根の掛け方は全く違って島式ホームの中央に柱が立っている形式ではあるが、JR山手線・鶯谷駅の古レール柱は、曲線的なデザインに浅草橋駅と似通ったものを感じる。

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ちなみに鶯谷駅は、ホーム屋根を支える横方向のレールが、そのまま線路をまたいで架線を支える形式。補強を兼ねているのか、2本のレールの間の三連の輪に、ちょっとでもオシャレを盛り込みたかった気持ちが見える。

なお、田端駅は鶯谷駅とほぼ同じデザインの古レール柱だそうだ。

●話は戻って浅草橋駅。

屋根を支えるアーチ状の垂木(?)部分のレールは、柱部分だけでなく、その中間にもある(つまり、柱の本数のおよそ倍ある)。

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屋根を支えるアーチは、柱部分では両側が一体で、縦方向の棟木にあたるレールは柱部分で途切れている。一方、柱と柱の間では逆に棟木がそのまま通っていて、アーチが両側で別パーツになっている。

一方ホーム背面は、壁の上部がトラスになっている。中央の支柱に接続している“メインのアーチ”は、こちら側でもそのまま下まで接続する柱となり、支柱と支柱の中間にある“サブのアーチ”は、同様にカーブを描きつつもトラスの下部に接続して途切れる。

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なお、支柱は必ずしも等間隔ではなく、支柱間に筋交いの補強が入っている箇所もある。また、支柱間が特に広い箇所では、棟木に沿ってトラスの補強が入っている。ここは下を道路が通っているガーダー橋上の区間で、支柱が立てられないためであるようだ。

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さらについで。この区間の高架は昭和初期のものだが、高架はそれなりに高さがあり、鉄筋コンクリート製のアーチが連続している。上記のようにこの区間は線路がとことんまっすぐなこともあって、改めて眺めると、これまたローマ水道的な美しさがある。下写真は浅草橋駅~秋葉原駅間で撮影。

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2枚目は高架下の建物の建て替えか何かで、珍しく空間がぽっかり空いていた箇所。アーチの支柱上側面には、長円形の窪みが装飾的に並べられているが、長年の補修により、ほとんどの場所で窪みのエッジがとろけたようになっている。左写真では、珍しく上側の一部だけ、エッジのシャープさが保たれている。

●浅草橋駅古レール柱の製造者銘刻印について。

KRUPP:独クルップ社

hn-nhさんの報告にある(そして今回私にとって初見の)独クルップ社の刻印は、ざっと見て回ったところ、上り線ホームで3か所確認できた。

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左端の写真が、hn-nhさんが紹介していたものと同じ柱。ちょうど汚れが文字を浮き彫りにするように入っていて(まるで模型でディテールを浮き立たせる塗装を施したような……)、クルップ(KRUPP)の文字が明瞭にわかる。

一方、2枚目の写真はそれよりもやや不明瞭だが、一応、メーカー名以降の文字も確認できる。「KRUPP 1885(あるいは1883?)N.T.K」と書かれているようだ。

1885年は明治18年。日本で新橋-横浜間に初めて鉄道が開業(1872年)してから10数年しか経っておらず、東海道線全通(1889年)は、さらにその数年後になる。最後のN.T.K.は発注者名で、「日本鉄道」の略号であるらしい。日本鉄道は、日本における鉄道黎明期、初めての私鉄として発足(1881年)した会社で、東北本線ほか、現在のJR東日本管内の多数の路線を敷設。後、1909年(明治42年)に国営化された。

なお、刻印の読み解きに関しては、以前の古レールコンテンツでも触れたが、ほぼ全面的に先達のサイト「古レールのページ」を参考にさせて頂いている。以下のメーカーについても同様。

UNION:独ウニオン社

ウニオン社(またはドルトムンター・ウニオン、Union, AG für Bergbau, Eisen- und Stahl-Industrie、→ドイツ語版wikipedia)は、浅草橋駅で、おそらく最も多数、刻印が確認できるメーカー。

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1枚目、2枚目は同じで「UNION D 1886 N.T.K.」。3枚目は製造年が1年早くて1885年。4枚目は頭の「UNION」ははっきり判るが、それ以下はよく読み取れない。Dは会社所在地のドルトムントを表すらしい。

今でこそ聞かない企業だが、鉄道黎明期の日本は結構お得意さんだったらしく、同社のレールは割合あちこちの駅で確認できる。私の身近なところでもJR横須賀線の横須賀駅や鎌倉駅にあり、特に横須賀駅のUNION社製レールでは、浅草橋駅と同じ発注者N.T.K.(日本鉄道)と、官営のI.R.J.(Imperial Railway of Japan=日本帝国鉄道とでも訳せばよいか?)のものとが混在している。

CAMMEL:英キャンメル社

キャンメル社レールは、私が(鎌倉駅で)古レールの刻印を初めてきちんと確認し、この方面への興味を深めるきっかけになったもの。鎌倉駅の同社製レールとの出会いについてはこちら

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上の写真2枚とも、文字はほとんど潰れかけていて見えないのだが、キャンメル社製の刻印の特徴である、「SHEFFIELD(シェフィールド、会社所在地)」「TOUGHENED STEEL(強化鋼)」の文字列の一部が確認できるので、同社製とみてまず間違いないと思う。

BARROW:英バロウ社

下り線ホームで確認できたもの。同社製のレールは鎌倉駅でも確認できる。

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文字ははっきり読み取れないが、「BARROW STEEL Sec166 1893 I.R.J.」だろうか。実のところ、はっきりと読めるのは頭の「BA」と、途中の「166 1893」くらいだが、Sec166は同社独自のレール規格番号らしく、これでバロウ社とほぼ確定できる。

もしかしたら上記以外の会社製と思われるものもあったが、文字が不明瞭で確定はできなかった。

●日本で国産のレールが生産され始めるのは20世紀に入ってからだそうで(1901年末、官営八幡製鉄所による)、明治の前半、レールは輸入頼りだった。

浅草橋駅は昭和初期、1932年の開業。それに近い時期、1939年の日暮里駅の写真(wikimedia commonsより)に、よく似た古レール柱が写っているから、浅草橋駅の古レール柱も、開業当時からの物だろうと思う。ちなみに日暮里駅の古レール柱も、一部は撤去されてしまったもののまだそれなりに残っている。同駅の古レール柱探訪はこちら

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おそらくこの時期、各路線でレールの更新が進み、日本の鉄道の“初代”のレールが廃材として大量にストックされていて、それが駅の屋根や跨線橋の柱として再利用されたのだろう。特に通勤に使われるようになった都心の各駅は、田舎の駅と違って利用者も多く、そのために当時からホームの大部分に屋根が架けられたのではないかと思う(田舎の駅の場合は屋根そのものがなかったり、改札付近に申し訳程度にしかない状態から段階的に屋根を増やしていく例が多く、意外に都心よりも屋根が新しいものが多い気がする)。

(6/30追記)

公益社団法人 土木学会のデジタルアーカイブ、「戦前土木名著100書」に「高等土木工学 第十巻 鐵道工学」という本が収められている(平井喜久松・岡田信次著、常盤書房、昭和6年発行)。同書中、「第七編 停車場」に「6.乗降場(Platform)」の一節があり、ここに、都心の駅における上家(上屋)例の図版が添えられている(以下、同アーカイブより引用)。

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残念ながら浅草橋駅については載っていないが(そもそも駅の開業がこの本よりも後なので当たり前だが)、デザイン的に似たところがある鶯谷駅と日暮里駅(下から2段目)と、屋根の掛け方の形式が似ている水道橋駅(下段左端)は掲載されている。

鶯谷駅の架線架部分の「おしゃれリング」が当時からのものであること、(上の写真でもよく見れば確認できるのだが)水道橋駅は細かくトラスを組んで、妙に頑丈に作られていることなどもわかる。出版時期から、水道橋駅の古レール柱は浅草橋駅よりも早く作られていることが判るが、もしかしたら、水道橋駅の経験から「ここまで丈夫にしなくてもいいんじゃね?」と、構造が簡素化された可能性もあるのかもしれない。

なお、ここに載っている上屋に関しては、個々の駅の架構の材種(鉄骨なのか木材なのか、あるいは鉄骨だとしてそれが古レールなのか否か)は付記されていないが、本文中に、「材料は木材、鐵材が多く近時古軌條を利用せるもの多し。」と書かれている。どうやら、都心各駅の(ちょっと優美な)古レール柱建築は、大正末期~昭和初期くらいに作られたものが多いようだ。

なお、このような資料があってオンラインで閲覧できることについては、サイト「Golgodenka Nanchatte Research」の「古レール調査報告書」、「古レール JR 東日本中央本線【水道橋駅】」で知った。私なんざぁまだまだヌルイのである。

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小坪高角砲台補遺(その4)

●数日前に「小坪高角砲台補遺(その3)」を書いたばかりで、当分は披露山の砲台に関して言うことはないな、と思っていたのだが、その途端にhn-nhさんが、「逗子フォト」に披露山公園建設中の写真が新たにアップされているという記事を上げてびっくり。

→ hn-nhさんのブログ記事、「小坪高角砲台 2019 - 1957 - 1946

逗子フォト」に関しては、猿舎になる前の砲台の写真を引っ張ってきた「小坪高角砲台補遺(その2)」の時にも触れたが、逗子市役所サイト内に開設された写真アーカイブで、今昔の逗子の写真をストック、公開している。今回話題の写真に関しては、久木在住の小泉さんという方が提供された一群の写真の中にあったもので、今年の4月半ばに公開されている(以下、モノクロ写真はすべて「逗子フォト」より借用)。

hn-nhさんの記事と重複してしまうが、砲台の原型が写っている写真は1枚。よく見ると、画面右上辺りに頂上広場に通じる道の出口が見え、現:花壇の砲台から、指揮所跡を利用して建設中の現:レストハウスを写したもののようだ。改めて、ほぼ同じアングルで現状の写真を撮ってみた(厳密に比較対照せずに「だいたいこんなもの」で撮ったので、視線の角度など微妙にずれていて残念感があるのはご勘弁を)。

現在、頂上広場の周囲は木立に囲まれているが、当時は広々と見渡せる。建設中のレストハウスの向こうに見えるのは、さらにこの何年後かに新興住宅地の「亀ヶ岡団地」として開発されることになる名越の山々。

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この花壇に関しては、以前にhn-nhさんがわざわざ周囲の池に手を突っ込んで調査しており、大谷石の縁石の下にある池の外周壁は斜めになっていて、すり鉢状のコンクリートの砲座をそのまま利用して作られているらしいことが判っている。

左写真に写っている砲座は、現:猿舎と基本的に同一形状だったことがこの写真でも確認できるが、よく見るといくつか差異がある。下写真は「小坪高角砲台補遺(2)」で引用した、現:猿舎のものと思われる砲台の写真(確実にそうだと言える証拠は写真には写っていないが、とりあえず、壁龕や階段などの位置関係は現状の猿舎と同じ)。

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目立つ差は、

▼現猿舎では、上部がアーチ型になった穴(現状はコンクリートで埋められている)の向かって右側に階段があるが、現花壇の砲台ではそのようになっていない(航空写真を見ると、上写真では画面の外になっている、アーチ型穴の左側にあったようにも見える)。

▼現猿舎では、砲弾仮置場の壁龕が45°間隔で並んでおり、上部がアーチ型の穴は、そのうち一つの壁龕と置き換わる形で配置されている。しかし、現花壇の砲台では隣の砲弾仮置場の壁龕と接近しており、明らかに配置の間隔が違う(むしろ猿舎における階段と壁龕の位置間隔に近い気がする。方位はどうあれ、階段とアーチ型穴の位置が入れ替わっている――つまり階段が壁龕と45°間隔だったりする可能性もありそうな。考えすぎ?)。

▼現猿舎と現花壇を比べると、アーチ型穴の上端と、砲座自体の上端との間隔が猿舎では狭く、花壇ではやや広い。

砲弾仮置き場の壁龕と明らかに形状が違うアーチ型の穴は、何か別の用途を持っていたと考えられるのだが、現状では謎。しかし、ほぼ同一形状である武山高角砲台(砲台山)の砲座にはこのような形状の穴はないから、両砲台に設置された四十口径八九式十二糎七高角砲にどうしても必要なものというわけではなく、披露山なりの事情(必要性)によるものと考えるべきか(もちろん、建設時期の違いで、改良によって加えられた、あるいは逆に省略された、という可能性もある)。

前記の猿舎・花壇の両砲台のレイアウトの差と関連するが、この上部がアーチ型の穴が、猿舎・花壇とも、おおよそ指揮所の方向にあるというのも気になる。以前に書いたように、地下通路入口という可能性もありそうだが……一方で、地下通路を作るなら退避所/詰所の奥に入口を作った方がいいんじゃね?という気もする。

また、この写真の時点で、猿舎・花壇とも、このアーチ型穴は中が埋まった状態になっているようなのも気になる。もしかしたら弾薬を砲座の上から滑り落とす搬入口? いや、それにしては、花壇のほうの写真で、外側地面に穴が開いているように(あるいは、開いていたように)見えないし……。

いずれにしてもこの辺は、そのものズバリの砲台資料でも出てこない限り判りようがなく、ああだこうだ言っても仕方ないかもしれないのだが、まあ、妄想の楽しみということで。

●冒頭載せた写真は、「建設中の披露山公園(昭和32年)」と題された組写真4枚のうちの1枚で、残り3枚は次のような感じ。

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1枚目は、最初の写真よりもさらに(建設中の)レストハウスに寄って撮ったもの。次の写真は、最初は、現展望台下のテラス部分かと思ったが、四角いコンクリート製の台座のようなものが見えるので、やはり建築中のレストハウスの写真のようだ。遠景に江の島が見える。4枚目の写真は現状、レストハウスの脇から、おおよそ江の島方向を向いて撮ったもの。360°周囲が見渡せたであろう高角砲台当時~公園建設時と違い、特にレストハウス側は木が茂ってまったく見通しは利かない。

●前回「小坪高角砲台補遺(その3)」のそのまた補遺のような写真をいくつか。

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猿舎を囲む(丸太を模した)コンクリート柵の土台は、基本、柱一本ずつ独立しているのだが(左写真)、なぜか退避所/詰所上の(猿舎中心に向かって)左側だけは土台が連続している(右写真)。柱の下の地下室の存在と関係しているかも。

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退避所/詰所上に追加されたコンクリート製天井の外側に、丸く二カ所出っ張ったコンクリート再掲。これに関して、hn-nhさんから「猿舎のためにかつて立っていた立て札か何かの跡では?」のコメントを頂いた。言われてみればそんな感じがする!

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以前貼った写真にもぼんやり写っていたのだが、光線の都合で、退避所/詰所入り口が、(砲台時代のままに)大きく窪んだ中の右側に(だけ)開いているという状態がよく判る写真が撮れたので2枚ほど。四角い檻に囲われた窪みの入り口部分は、現在は手前側が土間、後半はコンクリートで覆われているようで、砲台時代には一段窪んでいたのが、砲台床の他の部分と同一レベルになっているようだ。四角い檻の向かって右には、埋められた「上部がアーチ型の穴」があるが、この写真では輪郭はボンヤリしている。

●「逗子フォト」に追加された写真には、上の「建設中の披露山公園(昭和32年)」のほかにも、1955~1957年頃の披露山を写したものが何枚かある。それらについても、現状比較写真を撮ってみた。

▼「披露山坂道(昭和31年頃)」とされる写真。キャプションに「坂の突当りは現在の駐車場です。」とある。最初は「この写真の手前側、坂を上ったところが駐車場?」と思ったのだが、道の曲がり具合から見てそうではなく、道の向こうが駐車場(兵舎跡)、手前が山頂広場のようだ。よく見ると、少女たち(今は70代?)のわずかに後ろの崖面に、指揮所(現レストハウス)地下への入口である、崖が途切れた部分らしい箇所が確認できる。

撮影は上の公園建築中よりちょっと古いので、この時は頂上広場にはまだ手付かずの砲台跡があったはずだ。この女の子たちが砲台の縁に並んで腰かけた写真とかを撮っておいて欲しかったなあ。

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▼「披露山山頂付近(昭和30年前半)」。上写真と同じ山頂への最終アプローチの坂を逆方向から撮ったもの。舗装はされていないが、勾配は緩やかで道幅もしっかりある。近隣の他の砲台の“砲台道”も、元は同じような状態だったのではと思われる。

もっとも、この写真が撮られたのは戦争が終わって約10年。もしも公園が整備されるまでただ放置されていたなら、“砲台道”ももっと荒れ果てていたはず。しかし、道はきちんと維持され、この先は頂上広場しかなく行き止まりであるにかかわらず(上写真でもはっきりわかるが)車の轍も見える。戦後の復興期、資材置き場か何かとして利用されていた可能性もありそう。

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「新緑の披露山ハイキングコース(昭和32年)」と題された写真2枚と、その現状と思われる地点の写真。

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一組目のカーブに関しては、他に、見下ろすようなアングルで撮れるところがないようなのでほぼ確定? 2組目、若干ポイント的に自信はないが、現状写真は披露山入口バス停からちょっと上った「けやきの広場」横あたりから撮ったもの。ちょっと電信柱と植え込みが邪魔(6/25、写真差し替え)

▼現在の県道311号線(すいどうみち)を「小坪入口」信号で折れ、昭和初期に開削された切通を抜け、小坪の大谷戸を通って漁港方面に行く道を「小坪街道」と呼ぶのだということを、「逗子フォト」で初めて知った。地の人は今でもそう呼ぶのだろうか?

というわけで、「小坪街道(昭和32年)」と題された写真。上の2枚の写真よりも、やや上った辺りから大谷戸を見下ろして撮ったもの。現状写真では家に遮られて見づらいが、道の曲がり具合から見て、地点的にそう大きくは外れていないと思う。

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写真の上方向、道なりに右に行くと切通を抜けて久木~逗子中心部へ。左に折れる道は一の沢。現在は山の上に拓かれた「亀ヶ岡団地」に通じる。

▼「披露山登り口(昭和30年)」。上写真で左に折れる道の出口あたりから、その反対側を撮ったもの。左右に伸びるのが「小坪街道」。この写真では左手の先にある切通は1928年(昭和3年)に開削されたそうなので高角砲台の設置前に「街道」はあり、正面の坂が“砲台道”のスタート地点ということになる。もっとも、披露山中腹にはもともと人家や耕作地、神社などもあり、同じ道筋で細い道はあったかもしれない(6/25、現状写真差し替え)

現在でもこの道は、披露山上の披露山庭園住宅や披露山公園への「表玄関」となっている。なお、現在はこの写真地点の左右に京浜急行バスの「披露山入口」バス停がある。

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