かば◎の迂闊な日々

びわ

ちょっと前に書いた、我が家の前に生えているビワの木。

すっかり実が色づいて食べごろになった。

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上写真は先月末(5月30日)で、この頃はまだ「うーん、まだちょっと早い?」くらいの感じ。この頃から毎日1つ2つ食べて、だんだん甘くなっていくのを確かめ、ここ数日は毎日数個ずつ食べている。

ゾウムシに食われていたり、擦れて傷んだりしているものも多く、またそもそも(摘果もしなかったので)かなり小ぶりだが、十分に美味しい。

なお、二枚目写真に写っている数個の実は、傷も食い痕もなく綺麗でとても美味しそうだが、これは木の上の方にあって手が届かなかった。「くっ。きっと酸っぱいに違いない」と、お約束なセリフを吐きそうになったが、数日したら、どこの誰がどう工夫したのか、収穫されて無くなっていた(高枝切りばさみかな?)。

●ほか、ここ半月ほどの身の回りの季節の便り。

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1枚目:時季的には店仕舞い間近のコマルハナバチ。この写真自体5月19日の撮影で、もうここ最近は全然見ないかも。ただ、活動の最盛期であるはずの5月初めあたりでも、以前と比べて目撃頻度が下がっているようで心配。トラマルハナバチもめっきり見掛けなくなった気がする。

2枚目は名称不明の小さなハナバチ(コハナバチだかヒメハナバチだか)。3枚目はハキリバチ特有、腹の下に花粉を盛って運ぶムナカタハキリバチ。

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1枚目:名越切通で見かけたアオオサムシ。素早いので、なかなか綺麗に全身を写せない。2枚目は、割とそのへんによくいる……らしいのだが見かける機会は意外に少ないナナフシ(ナナフシモドキ)の幼虫。

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1枚目:先週の台風6号通過後に、我が家の玄関先でお亡くなりになっていたコクワガタ。死骸だが、とりあえず今年初のクワガタ。

2枚目:ハナカミキリ? カミキリモドキ? この体型のコウチュウは、素人ではなかなか正体にたどり着けなかったりする。(6/11追記。どうやら、割とよく見るアオカミキリモドキの、「たまたま体色が黒っぽいバージョン」らしい。そんなに色の変異幅が大きい虫だったのか?)

3枚目は浄明寺の谷戸で撮ったカワトンボ。カワトンボの普通種としては、ニホンカワトンボとアサヒナカワトンボというそっくりさん2種がいて、素人目にはほとんど区別がつかないのだが、神奈川県立「生命の星・地球博物館」サイトで閲覧できる神奈川県立博物館研究報告(自然科学)第39号掲載の神奈川県を中心としたカワトンボ属の分布」(苅部治紀・守屋博文・林文男)によれば、柏尾川からこちら、三浦半島に分布しているのはアサヒナカワトンボであるとのこと。

一応、わずかながら外形的差異もあるとのことで、そのへん、比較表がこのページにも載っていたりするが、少なくとも、生きてその辺を飛んでいるものを見て「あ、〇〇だ」と判別するのは無理そう。

それはそれとして、ピント合わせ等はスマホの自動にまるっきりお任せだが、たまたま具合よく行くと、カワトンボの翅脈や脚のトゲ(毛?)の一本一本まで綺麗に写る。今のスマホってスゲーな、と思う(格安なアンドロイド機なのに!)。

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花の類も少しだけ。1枚目、イワタバコ。今年はうかうかしている間に、盛りを見逃してしまった。写真は5月末(31日)、なんとか咲き残っていたものを撮った。

2枚目はハンゲショウ(半夏生)この辺りでは、なぜか浄明寺の報国寺~旧華頂宮邸の谷戸でだけ普通に生えているのを見る(探せば他でも生えているのだと思うが)。花は地味だが、花の近くの葉が白く変わって目立つ。上のカミキリモドキ?がいたのもハンゲショウの葉の上。

●5月末、この辺一帯の海に赤潮発生。5月29日時点の、小坪漁港の様子が以下。

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この赤潮の原因プランクトンが夜光虫だったらしく、夜になると波打ち際が光って綺麗だというので、江の島あたりの海岸は結構混雑したらしい。

というわけで、私もこの写真を撮った次の日の晩に小坪漁港まで散歩してみたのだが、これっぽっちも光っていなかった。あれ?1日違いで赤潮収まっちゃった?

●先日タマリンドジュースを飲んで以来、

「刈って束ねて穫り入れて 車に載せよ タマリンド」

という、なんだか頭の悪そうな文句が頭の中を時折ぐるぐるしている。

元ネタはシェイクスピアの「お気に召すまま」で、道化(タッチストーン)が言う、主人公(ヒロイン)を讃える詩をもじって茶化すセリフ……だったはず(当然、最後の一句はタマリンドではなく、ヒロインの名前であるロザリンド)。

「お気に召すまま」は、なんとかボンヤリと大筋は覚えているけれど、こんなふうに、「どうでもいい一句だけ覚えていて、肝心なところはもう、まるっと忘れちゃっている」ものも多い。ぢぢいだなー。

もっともこれについては、実は「本当にそんなセリフがあったっけ」と、結構自分ではあやふや。載っているとすれば、福田恒存訳(新潮文庫)だと思うのだが、何しろ読んだのはン十年も前の話だし(その後に出た白水社の小田島雄志訳の可能性も微レ存)。確かめたかったが、逗子市立図書館には新潮文庫版は置いていなかった。

ちなみに昔NHKでやった、BBCのテレビドラマ版シェイクスピア劇場の「お気に召すまま」(ヘレン・ミレン主演)もとてもよかったような記憶がある。

●模型が趣味、とはいっても、塗装に関してはおざなりな私だが、それでも、細部塗装やウェザリングで細筆はよく使う。

が、この細筆というのは、意外に高い。

フィギュアなどを塗ることはないので、それほど高品質な面相筆などは使わないにしても、細かい隙間に突っ込んでグチャグチャやったりしていると筆先を傷めることも多く、地味にコストパフォーマンスが悪い。

むしろ低品質でいいから、使い捨てにできるくらいの安い細筆はないのかね?

と思っていたら、こんなものを見つけた。

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ダイソーの「ミニネイルアートブラシ」。長さは穂先まで含めて8.5cmくらい。8本入りで100円だから、実際に使い捨て感覚で使っても惜しくない。

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食い物話

●唐突なヒマネタで食い物話。

●ハンバーガーチェーンのウェンディーズは、サイドメニューのチリ(チリコンカン)が好きという、ほぼその一点で個人的ファーストフード・ランキングの上位に来る。一時、ウェンディーズが日本から撤退して食べられなくなった時は寂しかった。

「むしろチリのほうをメインで食いたい」欲は前々から持っていたが、たまたまネット上でチリコンカンの作り方動画を見て、「欲ゲージ」がリミットを突破。今年に入ってすでに3回、自分で作ってみた。

実際にはネット上のレシピ等を遵守しているわけではなく、適当な我流で作っているのだが、結果「かなり適当に作っても美味しくできる」ことが判明。家族の評価も高い。

というわけで数日前(3回目)の調理時の写真。

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メインの材料は近所のスーパーで安かったカットトマトとミックスビーンズの紙パック(ともに390gとか、その程度)、1パックずつ。玉ねぎ1個。ニンニク大き目1片。まるでパウンドケーキを作るような(材料を1ポンドずつ使うことが名称の由来)大雑把さ。これに挽肉を、今回はたぶん250g程度使った。

ウェンディーズのチリは、もともとパテの余った牛挽肉の有効活用メニューと聞いたことがあるが、我が家では合挽肉を使用。合挽肉で充分美味い。

少量の油で挽肉にみじん切り玉ねぎを炒めたら、トマトと豆を投入。塩気は食塩とコンソメを味見しつつ適量。スパイスは炒める前の油にも輪切りの鷹の爪を少量入れているが、加えてチリパウダー、クミン、胡椒、ガラムマサラ。あとはなぜか我が家にあったケイジャンスパイス(ミックススパイス)を適当に。家族も食べるので辛さは控えめに、自分だけ食べるときにチリペッパーを追加した。あとはシュレッドチーズを載せて頂いた。ウェンディーズでチリを注文すると付いてくる、チリソースも欲しかったなー。

●この春の「季節の野山からの頂き物」は、例年通り、早春のフキノトウに始まって(フキ味噌で頂いた)、ノビル、アケビの芽、イタドリ(収穫して塩漬けだけして料理はまだ)、ツワブキと、おおよそ一通りは採った。

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写真は1枚目から、収穫したノビル(目当ての場所で、今年も結構よく育ったものが採れた)、ノビルの甘酢漬け、ノビルのチヂミ、アケビの芽のタマゴご飯。最後はツワブキ。まだ産毛の生えたままの若い葉を摘んで、茎を佃煮にした。

残念なのは、うかうかしている間にハリギリの芽の収穫時期を逃してしまったことで、今年はハリギリの芽の天ぷらを食べ損ねた。

このほか、早春にニリンソウも少量収穫して茹でて干してあるのだが、これはまだ使っていない。

●5月になると山菜的なものは種類がだいぶ少なくなってしまうが、そろそろキイチゴが実り始める。まだちょっと早いかな?と思っていたのだが、某所でクサイチゴが結構なっているのを見つけ、山歩き途中のおやつに持っていた「ホイップクリームあんぱん」にたっぷり挟んで食べた。

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フルーツ系で言うと、我が家の目の前の斜面に生えているビワの木が、今年は気が狂ったみたいにたくさんの実を付けていて、初夏に熟すのが今から楽しみ。とはいえ、「もうちょっと待ったほうが美味しいのに!」くらいで通りすがりの中学生がもいで行ったり、ゾウムシが齧って穴を開けたりするので、実際にどれだけ食べられるかは不明。

●以前にも書いたが、業務スーパーには他ではあまり見ない輸入物の食品が売られていて、時々衝動買いしてしまう。

ここ最近のネタは、「タマリンド・ジュース」と、ウクライナ産の「動物ビスケット」。

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タマリンドは、「アラビアンナイト」とか「シャーナーメ」とか、なんだかその辺で名前を目にしたことはある気がするが、長らく「謎の果物」だった。最近はジュースではないタマリンドそのものも駅前のスーパー(OKストア)で売られていたりするが、これはいったいどこをどうやって食べるんだ、みたいな怪しい見た目をしている。……と、そんな謎のタマリンドのジュース。ねっとりとしているが、味は見た目に反してあまり珍奇さはない。誰かがネット記事で「干し柿の味」と書いていたが、実際、そんなふうな「日本の田舎っぽい味」と言えるかも。

動物ビスケットは「ウクライナ版たべっ子どうぶつ」みたいな感じだが、たべっ子どうぶつよりも一つ一つがだいぶ大きく、またたべっ子どうぶつのような強いバター風味もなく、とても素朴な(しかし普通に美味しい)ビスケット。ただし中身は、絵柄のラインが薄くて、何の動物か(それ以前に上下も)判らないものが多い。

●しばらく前に、確か東逗子のヨークフーズ(スーパーマーケット)で見たパン売り場のPOP。

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ポーランドAFVマニアの心に刺さる!(ピンポイント過ぎ)

この「7TP」、どうも「ゼブンプレミアム」商品の中の「セブン・ザ・プライス」という一群を意味しているのでは、と推察されるが確証はなし。っていうか、何か説明が添えられていないと「なんじゃそりゃ?」だよね。

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横浜AFVの会2026(3)

●4月5日、横浜西口で開催された「横浜AFVの会2026」参加レポートの3本目。

今回は、自分でも意外なほど作品写真をたくさん撮ってきていたので、レポートが3分割になってしまった。とはいえ、「あれ? そういえば入賞作のはずのアレを撮ってないな」など、相変わらず網羅性はない。どうも済みません。

●というわけで残りの写真、ジオラマ作品その他。

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ジオラマ作品のなかでもひときわ目を惹いたもの。ジオラマ部門の入賞作でもあったはず。秋のたっぷり積もった落葉と、その色に溶け込んだ迷彩の車輛、および親衛隊の迷彩服の兵士たち。この写真には写っていないが、作品の隣には、ジオラマを制作するにあたっての着色構想スケッチも添えられていた。

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雪の中のクラッシュT-55~T-72のジオラマも、たしか部門受賞作だったと記憶。

次の2枚は72ながら大掛かりなジオラマで、エレファントを牽引する複数の18tハーフ(さすがにこのテーマを35で作るのは……同時に完成品を輸送したり保管したりするのは大変そう)。

続く2枚もミニスケールだからこその大物車輛と建物の組合せと、「戦術解説」ジオラマ。前者の機関車はホビーボス?

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以上、ざっと、ww2もの。シュビムワーゲンはタミヤ新作のワイドタイヤ?

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以上、戦後~現用もの。

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フィギュアはきっちり写真を撮っておらず、フォルダの中にはこのビネットと一緒の連作写真だけだった。

最後の1枚は大スケール、Faller社のランツ・ブルドッグ。1:22.5という、一般のプラモデルではなじみのないスケールは、鉄道模型の「2番ゲージ」というものらしい。

●そういえば、横浜AFVの会って、不良在庫キットの交換会があったなあ、と、当日朝にいきなり思い出し、とりあえず、すぐに発掘できたキット数点(タミヤ35のM8自走砲とか、mirage72のT-26ベースの自走砲とか)を袋に詰めて持って行く。

その後、交換でタミヤ35のSd.Kfz.7/1 20mm四連装自走砲、オメガKの「グラード」自走ロケット砲(懐かしい!)と、トランペッターのアエロサンNKL-6を頂いた。

前2者はどう考えても私は今後作りそうにないので、Sd.Kfz.7/1は「じゃんけん大会」に供出、「グラード」は、「(たぶん)ウクライナ軍も今でも使ってるから、ウクライナ軍仕様で作るのもいいんじゃない?」などと適当なことを言って、ケン太さんに押し付ける。その後ネットで検索してみたら、ウクライナ軍では独自の改良型とか後継車両とかも作っているらしいが、旧型のBM-21も使っている様子。嘘吐きにならずによかった。

そんなわけで、唯一手元に残って持って帰ってきたのが、トランペッターのNKL-6。

同社からはアエロサンが何種類か出ていて、大戦中に作られた装甲武装タイプのNKL-26のキットは、私も以前に自分で購入して持っている。

中国メーカーらしく、贅沢に各所にスライド型を使用。ボディも床面を除き一発抜き。

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資料としてはタンコグラードから「AEROSAN - Soviet Aero-Sleighs of World War Two」がある。ソ連製アエロサンの全体を概観したものなので、1車種ごとに関してはそう詳しくはないが、そこそこ助かる。

キットレビューに関しては、ミカンセーキさんが発売当時に書かれているので、そちらにお任せ(→「冬はアエロサン」)。ロシアソースのNKL-6解説ページへのリンクもあって重宝。

なお、私は会場でこのキットを手にして、「フィンランド軍鹵獲仕様とかないかなあ」というスケベ心交じりもあって貰ってきたのだが、NKL-26あたりと違って、(ボディの流麗な感じで新しいもののように思ってしまうが)戦前の民間型らしく、少なくともタンコグラード本やざっと見たネットソースの中では、フィンランド鹵獲仕様は見つからなかった。

また、NKL-6にはNKL-6Sという救急車仕様もあるが、これは窓の形状、ハッチパネル、内装などに差異あり。改良型にNKL-16-37、さらにはそれのフィンランド鹵獲コピー型のMR-42/MR-42Sというのもあるが、そこまで行くとさらにいろいろ差異がありそうで手は出しづらい。素直にNKL-6として作った方がよさそう。

……と思ったら、YouTubeに、こんな空恐ろしい製作記事動画が上がっていた。

 

エンジン丸ごと自作してるし! とんでもねえ!

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横浜AFVの会2026(2)

●4月5日日曜日に横浜西口で開催された「横浜AFVの会2026」レポートの続き。

主催者側の発表によれば、今回の参加者は70余名。複数の作品を出品されている方も多いので、作品数は100点を超えているのではないかと思う。

●前回掲載できなかった作品群をランダムで。まずは単品の作品、第二次大戦までのものから。

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1:72の80cm列車砲(80-cm-Kanone (E))。72でもとにかくデカい。作者ご自身のコメントでも「移動が大変」とあった。

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東京AFVの会でも拝見した12tハーフの88mm「バンカーバスター」自走砲。この方の作品は付属の小物も含めて全部「開く部分は開く」という、おいそれと真似できない工作。牽引型の88mmFLaK 2門も同じ方の作品?

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以上、とりあえずww2ドイツ物をずらりと。割と最近発売された50mmPaK38は、後出のジオラマ仕立ても含めて2、3作品出品されていた。

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ww2~朝鮮戦争くらいまでの米英物、他あれやこれや(現用物まで一緒に写ってしまったもの含め)。SU-122はなぜ天井が外れているのかは不明。八九式は、アバディーンで野ざらしになっていた時期の再現。単品部門で入賞していたはず。最後のT型フォードはRPMのキットである由。「SAS仕様」としているのはフィクション?

●戦後~現用物単品作品。

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メルカバのあとのデジタル迷彩の自走砲は中国軍の83式自走榴弾砲(トランペッター35)。普段ほとんど意識していないがトランペッターは時刻中国現用物を結構出していて、たまにこうして展示会などで見ると新鮮。お次の自走砲はもっとレアアイテムで、スウェーデンものだったっけなあ。お高いガレージキットらしい。

●あともう一回、ジオラマ作品写真等をまとめてUP予定。

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横浜AFVの会2026(1)

●4月5日日曜日、横浜西口のかながわ県民センターで開催された横浜AFVの会に行く。

昨年は6月末の開催だったが、今年は割と早め。

私自身は11時前くらいに着(開場は10時)。なんとか間に合った新作のビッカース6t、昨年の東京AFVの会にも出したLV-38(38(t))、土台だけ新作のソクウ(Sokół 1000/CWS M111)+サイドカーを展示。

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今回は珍しく自作品を並べた様子(だけ)を撮ってあった。

事前に「行くよ~」などの書き込みもなかったケン太さん、ミカンセーキさんとも無事邂逅し、なんだかんだ駄弁りながらヨドバシ地階で中華の昼食。参加表明のあっためがーぬさんの姿がなく「きっと直前に落として部品を折ったとかで遅れてるんだ」等々ケン太さんが推察していたが、まさにその通りの理由で、昼食中に到着していた。

●会場で撮った作品写真を。いつも通り適当に撮っているので、例によって網羅性は無し。まずは(これまたいつも通り)友人知人の作品から。

ミカンセーキさんは、昨年東京AFVの会に出展のIII突に添えて、「III号戦車系列後期型起動輪バリエーション」を展示。

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後期型起動輪のバリエーションなんて、「ハブカバー付き」「ハブカバー無し」の別くらいしか認識していなかったのだが、カバーの取付がボルトか、ネジかとか、メーカーの鋳造印とか、ボルト形状とか、なんだかんだで色々あるらしい。

III号戦車の足回りについては、ミカンセーキさんは須田林戦車工廠さんと組んであれこれ3Dパーツ展開しているので、その成果というところ。ちなみにこの「標本」は、わざわざ昆虫標本用の虫ピンを取り寄せて(ラベル部分に)使っている。そんな「見せ方の凝りよう」がいかにもミカンセーキさんらしい。単品部門で銀賞?を受賞していたが、そもそもこれは単品なのか(笑)。むしろ唯一無二の「標本部門」?

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めがーぬさんの(東京AFVの会でも出展された)ダイヤモンドTと、本来それに載せるはずだった(新作の)チャーチル。1:72。ダイヤモンドT側のトレーラーの内側幅の寸法がおかしく、「作ってみたら載らなかった」という悲しいパターン。チャーチルはドラゴン。

3枚目はケン太さんが最近よく作る、ドイツ計画戦車シリーズのE-25。以前出品していたE-10の続き、的な。トラペのキットは構想段階の戦車ながらあれこれ妄想で「量産仕様」の感じにしているが、やはりハードなウェザリングをするよりも、こういう「工場から出てきたばっかり」に仕上げるのが似合っている気がする。

MGSの野田君のOT-810は東京AFVの会にも出品していたものだが、今回は「フタを開けた」状態も見せてもらった。

kakudouさんは、ドイツ初期(ポーランド戦時)4輪装甲車シリーズ。

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相変わらず緻密で丁寧な工作なのに多作。ホルヒ系では、他にSd.Kfz.260~261もあるが、「あれは中身が判らないよねえ」などと会場で話す。キットも72とか48はあっても(ICM?)、35キットは出ていないんだっけ。今調べてみたら、FC Model Trendから、35で上部のネットだけは出ているらしい。

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シェル竹内さんの自作48 3Dプリント出力キット群と、35のマガフ。3Dプリントのあれこれには相変わらず疎いが、露光時間?の長短で、欠けたり埋まったりの匙加減が面倒、とのこと。4枚目写真はI号B型の足回りだが、スケルトンの履帯も綺麗に抜けていて綺麗な出来。自分でも3Dプリントができれば、「アレも作りたい・コレも作りたい」パーツのネタは多数あるが、自分で3D-CADをいじれる自信がない。

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むーさんの自衛隊所属・ウォーカーブルドッグ。確か本体はタミヤ製で、防盾カバーだけ他(AFVクラブとか、そのへん?)から持ってきたと聞いたような。うろ覚えで済んません。

●友人知人の作品以外で、特に気に入った/気になったものなど。

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タミヤの38(t)系の車体をベースに、上半分は砲を含めてスクラッチした、戦後スウェーデンの自走砲Pvkv II。というか、スウェーデンのStrv m/41(ライセンス生産型のLt vz.38/Pz.Kpfw.38(t))ベースの自走砲なんて、密閉戦闘室の突撃砲タイプのSav m43の存在しか知らなかった(そちらについても、「そんなのがあったなあ」くらいの認識で、今改めて名前を調べた)。

まだ作者も若い方で、なぜこのような冥府魔道へ……(と、ケン太さんも言っていた。ケン太さんが言ってもねえ)。

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おそらく完成品は初めて見た、MB modelsののルノーD2。私自身このキットは持っていて、何度か「うん、今度こそ作ろう」と思いつつ、結局手を付けられずに今なお仕舞い込んだままのもの。フランス戦車に疎い人なら、「あ、タミヤのソミュアかな?」で素通りしてしまう可能性もありそうな気もする。

レジンのガレージキットとしても確か比較的初期の製品で、キット本体の出来も「うーん、まあ、ねえ?」くらい。それ以上にとにかくメタル製の履帯パーツが難物で、連結部の彫刻が甘くてきちんと繋がらない。この作例でも、「ああ、苦労してるな……」というのが見て取れる。なお、私の持っているキットは片側の誘導輪基部が湯流れ不良で欠けていて、それを再生するのもまた面倒。作る日は来るのかどうか……。

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空物と陸物の融合作品は、両方作るモデラーならいつかやってみたいテーマ。今回もいくつか出品されていたが、なかでも貨車と機体の馴染み具合が非常に素敵だったのが上作品。Bf109は35?32?(追記:はほ氏より指摘。ラベルでちらりと見えるように、メッサーはハセガワ製、つまり32であるらしい)

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空物と絡の絡みもう一点と、同じ作者の方の作品(連作?)をさらにひとつ。72だが細密度が高くて素敵。(追記。これもはほ氏より指摘。両作品でベースは共通感があるが、メッサーのほうは48。なお、ハセガワ72のカール臼砲は貨車吊下げ状態と自走状態(IV号弾薬補給車付き)の両方が出ているが、キットは後者。貨車は跨線橋ともども紙と木材で自作である由、ラベルに記載がある。スゴイ)

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48スケールのシャーマン・バリエーション3連作。近年は48作品の出品も増えてきたが、今回出品のなかでは、個人的に最も素敵だなあ、と思ったもの。ベースはタミヤ?

●長くなったので続きは次回。

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文覚

●12日木曜日、横浜市営地下鉄「センター北」駅近くの「横浜市立歴史博物館」に企画展「令和7年度 横浜市指定・登録文化財展」を見に行く。

目当ては、栄区・證菩提寺蔵の「木造 文覚上人座像」。

●文覚(もんがく)は平安時代末期~鎌倉時代初期に生きた真言宗の僧で、鎌倉幕府樹立前後、フィクサーとして暗躍したとか何とか(→wikipedia)。NHK「鎌倉殿の13人」でも、市川猿之助がその怪僧ぶりをたっぷり演じたというが、残念ながら私は見ていない。「鎌倉殿の13人」にはかなり興味はあったのだが、自室にテレビがなく視聴の習慣をすっかりなくしてしまったので、なにかの弾みで数回見ただけに終わった。

いろいろ伝説まみれの人物で、なかでも有名なのが出家の原因となった事件。もともとは遠藤盛遠(えんどうもりとお)という北面の武士だったが、同僚の妻である袈裟御前に恋慕、その夫を殺そうと忍び込むが、袈裟御前自らが夫の身代わりとして寝所にいたのに気付かず、これを殺してしまう。持ち去った首を月明かりの下で見て事実に気付き慟哭、煩悶の挙句に出家したという。

関係ないけれど、最近の中学生や高校生がよく身に付けているスポーツブランド、The North Faceを見掛けるようになった当初、「……北面の武士?」とか思っていた。よく考えたら「北壁」のことだよね。登山用品のブランドっぽいし。

●その文覚が最近プチ・マイブームなのは、長野・穂高の「碌山美術館」で、荻原碌山の彫刻作品「文覚」を見て、その制作のきっかけが、鎌倉・成就院蔵の木彫の文覚上人像にあると知って以来。

ちなみに荻原碌山の「文覚」は、一言で言ってしまうと、

腕組みマッチョのスキンヘッドが虚空を睨んでいる

というもの。作品写真は碌山美術館の作品紹介ページでも見ることができる(→「帰国後の作品」1枚目)。

元武士である荒々しさの内に、愛する人を自ら殺めてしまった苦悩を込めた姿は、碌山自身のパトロンである新宿中村屋の創業者・相馬夫妻の妻である相馬黒光への道ならぬ想いを重ねたもの、と一般には解釈されている。文覚の伝説、碌山の生涯をバックグラウンドとして知ると「なるほどなあ」と思うのだが、それを除けて見ると、チャンピオンの座を賭けた試合に臨む格闘技の選手と言われても納得しそう。芸術作品の評じゃないな……。

しかしいずれにしても迫力ある作品であることは間違いない。碌山美術館は安曇野在住の兄のイチオシ・スポットでもあり、昨年5月にドイツ人Pと訪ねた時も、今年2月頭にかみさんと行った時にも連れて行ってもらったのだが、そのたびにこれには見入ってしまった。

●前述のように、碌山の「文覚」は、鎌倉・成就院の文覚像がモチーフになっているという。

できればそちらも見てみたいと思い、先日、久々に(成就院のある)極楽寺坂まで出掛けてみた。残念ながら、木像そのものは見ることができなかったが、ブロンズの複製が境内に置いてあり、こちらは間近に好きなだけ見ることができる。

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表現はまるっきり違うものの、ポーズは碌山の「文覚」と一緒なのが興味深い。

●さらに調べてみると、文覚上人が滝打ちの荒行をしている姿を刻んだとされるこの木像は、成就院の他にも、まったく同じものが横浜市栄区の證菩提寺、材木座の補陀洛寺にもあるのだという。しかも、どうやら證菩提寺のものがオリジナルで、成就院と補陀洛寺のものは、その模刻であるらしい。そんな、オリジナルの證菩提寺の文覚像が、ちょうど博物館の企画展に出品されているそうな。

……というわけで、話は冒頭に戻る。

横浜市立歴史博物館は、基本的に展示物の撮影が可能という、なかなか有り難い場所。しかし残念なことに、肝心の文覚像は、展示スペース前面のガラスに反対側のあれこれが反射して、はなはだ撮影条件が悪く、ろくな写真が撮れなかった。

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「なるほど、これがオリジナルか」と思えばそれなりの有難味もあるが、やはり時代を経ているぶん傷みも摩耗もあり、ディテールは成就院の模刻(の複製)のほうが鮮明。像の当初の姿を窺うには成就院のほうがよいかもしれない。ただし、当然のことだが「模刻」はキャスティングしてコピーしているわけではないので、もともとディテールに若干の差異があることには注意が必要。ぱっと見でも、證菩提寺のもののほうがよりなだらか、成就院のものはより力強い印象を受ける。

なお、像とともに展示されていた證菩提寺に伝わる文書(の解説)によれば、1807年、(文覚を開山とする)補陀洛寺が江戸で開帳するために、證菩提寺のこの像を一時借り受けているそうだ。その時すでに補陀洛寺に模刻があれば、わざわざ借りなくともよいように思われるので、補陀洛寺蔵の模刻は江戸時代後期以降のものの可能性が高そう。成就院蔵のものも、その時に同時に作られたのかもしれない。

ちなみに補陀洛寺の文覚像は本堂左陣に置かれているそうだが、入り口から覗き見る程度では確認できない。ただし、ここはお願いすると(予約制で)本堂内の拝観もできるようだ。補陀洛寺蔵の文覚の写真は、たとえばここなどで見ることができる。

●それはそれとして、(ちゃぶ台ひっくり返し系の話だが)この像は本当に文覚を表現したものなのだろうか。

成就院の複製で明瞭だが、口の両側に覗く牙など、どうにも人間離れしている。伝えられているように荒行の像であるなら、歯を食いしばって行に耐える/挑む姿の記号的表現として、というのも確かにあり得なくはなさそうだが、それよりも、地獄の獄卒とか邪鬼の類と言われたほうがストレートに納得しやすい気もする。写実性の有無という点で隔たりはあるものの、天燈鬼・龍燈鬼に通じるユーモラスさがあるのも、その印象に一役買っているかも。

どんぐり眼を超えて真ん丸な眼も人間離れしている。頭に被っているものも謎で、これは頭巾なのか、滝に打たれて張り付いている蓬髪なのか。背中側は肩の下ですっぱり切れているので、流れ落ちる水の表現ではなさそうだ。

●鎌倉で文覚と言えば、鶴岡八幡宮の東、大御堂橋のたもとに、「文覚上人屋敷迹(あと)」の石碑がある。市内各所にある、大正年間に青年団によって建てられた名所旧跡案内の一つで、前述の袈裟御前殺し~出家の話やら、頼朝に請われて江の島に弁財天を勧進した話などが書かれている。

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もっともこの石碑シリーズ、建てられた時代のせいもあるかもしれないが、書かれた内容も建てられている場所も、だいぶ怪しいものが多い。今となってはこの石碑シリーズ自体に若干の歴史的価値も出てきてしまったので軽々に撤去も建替えもできないが、鎌倉観光に訪れる人々があちこちで目にして、「なるほど、ココが**かあ」と鵜呑みにしていそうなのも、ちょっとモヤっとする。この文覚旧居跡というのも、どれだけ確度のある話なのだか判らない。

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小坪一丁目の越境蓋

●逗子の小坪一丁目(亀が岡団地)を歩いていて、見慣れないマンホール蓋に遭遇した。

注意して周辺を探すと、他にも珍しい蓋がちらほら。というわけで撮り集めてみた。

●以前にも書いたことがあるが、基本、マンホール蓋はその地域(下水道を管轄する、主に市町村)の特定のものが使われる。しかし、例えば工事などの際に、一時的に他地域の蓋を間に合わせで使用することがあり、これを「越境蓋」と呼ぶ(マンホール趣味の人たちによる呼称)。

あくまで間に合わせに使われるものなので、しばらくすると地域の正規の蓋に交換されて姿を消してしまうことが多いが、とりあえず、使われている間は遠い日本各地の蓋を居ながらにして見ることができ、しかも場合によっては「これはどこの?」という謎解きを楽しむことができて、ちょっとお得感がある。……と思うのはある程度のマンホールマニアだけかもしれないが。

数年前、逗子銀座商店街でも越境蓋が使われていたことがあり、当時も当「かばぶ」で記事にしたが(→「逗子銀座商店街の越境蓋」)、今回はそれよりさらに数も多く、だいぶワクワクさせてもらった。……と思うのはある程度のマンホールマニアだけかもしれないが(再)。

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どうやら、この越境蓋は上掲の写真にある道路工事に伴うもののようで、地図上で示された区間内でのみ見ることができた。

●工事区間のアルファベット順とは逆になるが、北側から順番に見てみる。なお、置かれているマンホール蓋は絵柄の凹部にアスファルト滓などが詰まって汚れ気味で、バケツとブラシでも持って来てゴシゴシ洗って綺麗にしたい衝動にも駆られたが、さすがにそこまで行くとかなり怪しい人なので思いとどまった。

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1枚目は秋田県、旧・西仙北町(現・大仙市)の「集落排水」蓋。市町村合併により無くなってしまった自治体の蓋を見られるのも楽しい(長野の安曇野市では合併前の町村の蓋も多く現役だったから、現地ではまだまだ使われているのかもしれないが)。綺麗なご当地柄の蓋で、モチーフは「サギソウ」と「ハッチョウトンボ」である由。

2枚目は、いきなり地域名(市町村名)無しで戸惑ったが、中央のマークをペイントソフトで描き起こして画像検索したら、比較的簡単に正体が判明。千葉県習志野市の市章だった。ちなみに「習」の字をデザイン化したものだそうだ。地の模様は、時折見かけないわけではない感じの毘沙門亀甲柄だが、習志野市のマンホール蓋には、これ以外に干潟(谷津干潟)と現代的な街並みを一緒に描いたご当地柄のものもあり、そちらはマンホールカードにもなっている。

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3枚目、再び毘沙門亀甲柄。これも何だか正体不明の蓋で面食らったが、あれこれネットを彷徨って、どうやら宮城県の工業用水用蓋であるらしいことが判った。

4枚目、千葉県松戸市。「矢切の渡し」と書き込まれているので、何の絵かも間違いようがない。この蓋のカラー版はマンホールカードにもなっている。またこれとは別に、オーストラリア・ホワイトホース市と松戸市の姉妹都市50周年を記念し、コアラとふくろう(松戸の市の鳥)が寄り添っている「コアラとユーカリ」デザインマンホール蓋も数年前に登場しているとのこと。これもそのうちマンホールカードになるかも。

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5枚目。高知県安芸市。図柄の「野良時計」は安芸市のシンボルで国の有形文化財。その昔、農作業に出ている人々に時を知らせた、この地の地主が作った時計台とのこと。でも「野良時計」と言われると、なんだか野生の時計がそのへんをうろついていそう。ちなみに最近安芸市に設置された「ポケふた(ポケモンマンホール蓋)」にも、ホーホー、ヌオーとともに野良時計が描き込まれている。

6枚目。地名入りですぐ判ると思ったら、ちょっとした「引っ掛け問題」だった。「みかつき マンホール」で調べると、まずは兵庫県の旧・三日月町(現・佐用町)のものがヒットするのだが、よく見ると図柄が違う。改めて調べ直して、なんとか佐賀県の旧・三日月町(現・小城市)のものであることが判った。ちなみに兵庫県のほうは「みかきちょう」。佐賀県は「みかきちょう」で濁らない。

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7枚目はなんとご近所、横須賀市のもの。ペリーと黒船の図柄で、これは私自身、現地で見慣れているし、マンホールカードも持っている。

8枚目は宮城県角田市のご当地柄マンホールで、同市の公園(台山公園)にあるH-IIロケットの実物大模型とスペースタワー。これは同市にJAXAの「角田宇宙センター」があり、「宇宙開発のまち」を標榜していることにちなむもの。

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9枚目。地名入りではないが、「鈴 マンホール」の検索ですぐにヒットした。松阪牛で有名な三重県松阪市のもの。四角い鈴はただの鈴ではなく、律令時代に地方出張する官吏が持った「駅鈴」である由。松阪出身の本居宣長が鈴マニアだったことにちなむのだそうで、松阪駅前にもデカい駅鈴のモニュメントが置かれている。なお、同市にはちゃんと(?)松阪牛図柄のマンホール蓋もある。

10枚目は千葉県船橋市。図柄は、これもカラー版がマンホールカードになっている「五大力船」。江戸時代に海運に使われた船だそうな。

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11枚目。でかでかと地名が書かれていて判りやすいが、「むげがわ」ってどこじゃ……。調べてみて、岐阜県の旧・武芸川町(現・関市)と判った。図案の周囲は下が町の木のサクラ、上が町の花の菊。中は町の鳥のツバメ。魚は付近の釣の代表的獲物のアマゴかアユか。

12枚目。そして最後。比較的最近よく見かけるようになったノンスリップ模様の蓋で、中央に「茨」の文字。となれば、茨城県か、それとも大阪の茨木市か。他に茨の付く自治体ってあったかな……。下辺に「上水」「制水弁」とあるので、本来は下水道のマンホール蓋ではなく、上水道の蓋。しかし「茨城 上水道蓋」でも「茨木 上水道蓋」でも、この図柄の蓋には行き着けなかった。最後の最後で消化不良。

●それにしても、越境蓋は「工事の業者が手持ちの蓋を適当に、間に合わせに置くもの」なのだそうだが、ひとつの業者が、こんなに日本各地・遠距離のさまざまな蓋を保有しているものなのか。そのあたりもどうにも気になる。

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大町釈迦堂口遺跡

●長らく更新をさぼってしまったが、生きてます。

模型製作も低調。とはいえ、以前書いたエッシー72改造のマチルダII mk.Iも若干は進んでいるし、買ったきり横目で眺めているだけだったタミヤのオチキスも少しはいじっていたりする。その辺の話はまたいずれ。

とりあえず、ボチボチでも「書いてUPする」勘所みたいなものを取り戻そう、というところで、日常話。

●2月27日木曜日。さらには週が明けて3月2日にも再び。

お隣・鎌倉市の「大町釈迦堂口遺跡」を見に行く。

場所としては、「数ある鎌倉の切通の中でも一番カッコイイ(とはいっても、実際は切通ではなくトンネル)」釈迦堂切通の上一帯。なお、釈迦堂切通は一昔前の鎌倉観光案内などの本では必ず取り上げられる(場合によっては表紙に使われる)くらいの有名な場所だったが、崩落の危険ありということで、東日本大震災の少し前から、柵が据えられて完全に通行止めになっている。(→2011年3月の記事

本題の遺跡は、長らく北条時政の名越邸(名越亭)跡と言われていたところだが、今世紀に入ってからの発掘調査の結果、遺構などは鎌倉時代中期~後期以降までしか遡れず、初代執権の北条の“親父殿”の屋敷ではありえず、おそらく未知の大寺であろうというあたりまで判明。公式な名称も「大町釈迦堂口遺跡」に変更になっている。

もともと戦後しばらくまでは個人所有の私有地、その後企業の所有となり、さらには開発デベロッパーの手に渡って開発の手が入りそうになったところで地元の反対などもあり--なんだかんだ調査も行われた末に国の史跡指定(2010年)もあって、今は市の所有になっているらしい。

昔、企業の所有だったころは、一般の人も時々は入る機会があったようなのだが、少なくとも私が存在を知って以降はずっと立入禁止になっていて、私も今回初めて入った。

●大町の谷戸を奥へ奥へと歩き、釈迦堂切通に向かう少し手前で右に逸れ、切通行きよりちょっとだけきつめの坂を上っていくと遺跡入り口にたどり着く。

遺跡入り口は、上下二段になった平場の間あたりにあり、そこからまた少し上ると上段の広い平場に着く。遺跡全体は、建物があったと考えられるこの平場と、周辺の、いくつかの名付きのやぐらを含むやぐら群が散在する尾根の一帯から成る。

なお「やぐら」とは、夏祭りで真ん中に立っているヤツとは同名の別物で、中世(鎌倉時代後半~室町時代前半)の鎌倉周辺特有の横穴型の葬送施設。wikipediaには下手な書籍よりももっと詳細・長大な解説記事が載っているので、興味のある方はそちらを。

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最初の2枚は遺跡入り口ゲートあたりに新設されたらしい案内解説板。が、いきなり解説内容に誤りがある。「唐糸やぐら」の由来に関して「木曽義仲の娘、唐糸にまつわる」と書かれているが、正しくは「木曽義仲の家臣、手塚太郎光盛の娘」。もっとも、室町時代の「御伽草子」のひとつ、「唐糸草子」に登場する伝説上の人物なので、誰の娘と書いても大きな違いはないかも。

うしろ3枚は平場を囲む崖面のやぐら。名越切通途中の「まんだら堂やぐら群」のやぐらが中小規模のやぐらの集積であるのに比べると、ひとつひとつのやぐらが比較的大きめ。

平場では、発掘調査の結果建物の柱穴跡や常滑焼の壺、火葬跡(平場隅)なども見つかっており、寺院等があったことが伺えるという。ただし、文献等からは、この地にそれなりの大きい寺があったという記録は見つかっていないらしい。

平場奥の、(企業所有時代に散策路整備のために作られたらしい)コンクリート階段を経由して斜面を登ってくと、登り切った辺りに、名付きのやぐらである「地蔵やぐら」と(前述の)「唐糸やぐら」が2つ並んでいる。

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1枚目写真、手前が地蔵やぐら、奥が唐糸やぐら。

地蔵やぐらは変則的な凸字形で、奥に地山からそのまま彫り出した地蔵が鎮座。ただし胸から上は質感が違うので、おそらく、脆い鎌倉石製の元の上半身は崩れてしまい、後から作り直したのではないかと思われる。手前左右の石塔(五輪塔)も一部崩れかけだが、表面に刻まれた梵字も何とか確認できる。

奥の唐糸やぐらは、主家のために頼朝暗殺を企てた、木曽義仲の家臣・手塚太郎光盛の娘「唐糸」が、企みが発覚し閉じ込められた場所という伝承があり名付けられたもの。入り口の狭まった部分(羨道・『せんどう』もしくは『えんどう』)左右には、扉がはめ込まれていたと思われるほぞ穴も確認でき、内部の崩落等も少なく、綺麗な状態を保っている。他のやぐらのように石塔の類などは(痕跡はあるが)現在は置かれていない。

ちなみに、前述のように「やぐら」が作られたのは主に鎌倉時代後半からで、この遺跡自体も(発掘調査の結果)鎌倉時代後期以降であるという調査結果が出ているため、鎌倉時代最初期の設定の人物・唐糸が閉じ込められた可能性はない。

Img20260227131603 地蔵やぐら・唐糸やぐらの少し先がほぼこの辺りの尾根のピークで、そこには狭く深い切通があり、上には現在では底が抜けてしまった太鼓橋が掛かっている。

この橋は、なんとなく山水画めいたこの景色にはなかなか似合っていて、過去、この遺跡一帯を紹介しているネット上の記事などでも必ず紹介されているが、企業所有地時代の散策路の一部で、昭和50年代?くらいに作られたもの。ただし、よく見るとこの太鼓橋たもと直下の壁面には、別のほぞ穴も確認できるので、さらに昔は別の橋が掛けられていた可能性がありそう。

現在は上部は立入禁止となっているが、写真で見て橋を渡って左側にはあずまやが作られている。なお、切通も現在は手前にロープが張られ通れないが、そもそも切通の向こう側は深い谷で、現在は道としては機能していない。

上の切通を迂回して進むと、釈迦堂切通の上部に着く。

釈迦堂切通は(先述のように)崩落の危険ありとのことで現在は通行禁止だが、その洞門上は通れる、というのがちょっと不思議な感じ。

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写真1枚目が洞門上の通路。新たに転落防止柵が設けられている。2枚目は遺跡範囲外を回って大町側から見た釈迦堂切通の現状。洞門上の転落防止柵が、下からも少し見えている。

3枚目、4枚目は洞門上から見下ろした切通路で、3枚目が大町側(南側)、4枚目が浄明寺側(北側)。浄明寺側は藪に遮られて道がよく見えない。

なお、この釈迦堂切通の崩落対策としては、切通上の片側に深い縦穴を掘り、そこから横方向に、洞門上部分に複数の鉄芯を植え込んでいるのだそうだ。その縦穴跡も通ったのだが写真は撮り忘れた。切通路自体も、今年度内には通行再開になるのでは、とのこと。

なお、釈迦堂切通は明治初期に作成された地図には出ておらず、遺跡入口の案内板にも書かれているように、どうやら明治期に新たに開削されたもの、ということに落ち着きつつあるようだ。「いかにも古都鎌倉の風情!」と、鎌倉七口の切通よりも有名かも、みたいな存在だったので、ちょっとがっかりだ。

釈迦堂切通洞門上を過ぎると、中小のやぐらが7基並んだやぐら群がある。

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手前から3つ目のやぐらがこの中で最も大きく、奥の壁右側と左側面の壁の丸い壁龕がそれぞれ日月に見えるというので「日月(じつげつ)やぐら」と呼ばれている。その間にある二つの四角い壁龕の立場は……。

日月やぐらの壁龕の上下には瓔珞(ようらく=下げ飾り)や蓮華座などが彫刻されているというのだが、壁面も荒れているので遠目ではなかなか確認できない。ただ、入り口近くの向かって右壁面に刻まれた梵字キリーク(阿弥陀如来や千手観音を示す種字)はよく判った。

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同じやぐら群の小やぐら2つ。まんだら堂やぐら群のものもそうだが、置かれている石塔は、崩れて周辺に転がっていたものを適当に重ねて置いただけで、オリジナルの状態とは考えづらい。

●2回行って、2回とも現地でボランティアのガイドによるガイドツアーに参加したが、それぞれ案内の内容に濃い薄いがあって面白かった。

ちなみに、2度目のガイドさんの話によると、この遺跡が「北条時政邸跡地だった」という従来の定説は、明治期に、この辺りの調査をした郷土史家が発端であるとのこと。

直近の調査で否定されたこの説だが、「では、北条時政の名越邸ってどこにあったのよ?」というのがちょっと気になる。

北条時政の孫である北条朝時は、時政の名越邸を受け継ぎ、以降、名越流北条氏として続くので、少なくとも「名越」と呼ばれる一帯のどこかしらに屋敷があったのは確かのようだ。で、これもまた2度目のガイドさんの話だが、現在では材木座の光明寺の北側にある弁が谷(べんがやつ)にあったのではないか説が有力視されているとか。

中世の「名越」の範囲が広すぎるだろ!という気がしないでもないが、その「広すぎる」名越の北端から南端へと有力推定地がジャンプすることになる。

●ちょっと脱線話。

2度目に訪ねた際には、久しぶりに大切岸の鎌倉側の端から大町の外れの小谷戸の奥に繋がる荒れた山道を降りた。

大切岸の尾根と、鎌倉市子ども自然ふれあいの森のパノラマ台がある山に挟まれた谷を降りていくのだが、南面したパノラマ山側の斜面は、杉林や下草などに覆われて見づらいものの、かなりの集積度のやぐら群が隠れているようだ。

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どのみち、このあたりの杉林など無駄に花粉を吐き出しているだけなので、こちら側の斜面だけでも伐採してやぐら群の全貌を見られるようにできないものか。……いやまあ、だいぶ無理っぽいけれど。

ちなみにこの斜面は、名越切通本道から大切岸まで含めて指定されている国史跡・名越切通の範囲には含まれていない様子。

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ガリバタ

●12月17日水曜日。義兄弟分であるドイツ人Pの妹一家が来日し、鎌倉案内をして欲しいというので、朝、北鎌倉駅で待ち合せ。

P一族の鎌倉案内をするのは、1年前?くらいの姪っ子、先々月の兄夫婦に続いて3回目。そして来年か再来年には弟夫婦が来るはずで、その時にも鎌倉案内をするよう予約済み。

今回のメンバーは、PとPの妹夫婦、その子どもたち3人と、息子の彼女(アメリカ人?)。そして私の計8人。「迷子が出ないように旗でも持って行けば?」とかみさんに言われる。ドイツ国旗でも持って行けと……。

今回は円覚寺を振り出しに、建長寺門前でけんちん汁を食べ(これは姪っ子が来た時から定番)、円応寺で閻魔様と地獄の十王に謁見(鎌倉のお寺の中でも私のお気に入りなのでここも定番)。

巨福呂坂を越えて鶴岡八幡宮へ。参道で焼き銀杏を食べる(とても観光客っぽい)。

その後、鎌倉駅から江ノ電に乗って長谷の大仏へ。午後は早めに切り上げて「田谷の洞窟」を見に行こうという計画もあったのだが、どうも時間的に厳しそうだったので諦め、長谷大谷戸を歩いて佐助稲荷、銭洗弁財天とハシゴ。

兄夫婦を案内した際には浄智寺、英勝寺、寿福寺など、結構シブめのところを回った(そして大仏にも銭洗弁天にも行かなかった)のに比べると、今回は定番度高し。

最後は大船で「ちょっと高級な居酒屋」で夕食を食べた。

ちなみに、当然ながら私はドイツ語は話せず、英語もお粗末なもの。人数が多かったので、「通訳」のPには頑張ってもらった。あちら一家は、息子彼女が英語民なので、会話はドイツ語半分英語半分くらいの感じ。

●夕食の居酒屋のコース料理の一品で、「ガリバタポテト」というのが出てきた。

皆さん、「ガリバタ」味といったら、どんなものを想像しますかね? 私ゃ、「ガーリックバター」以外のものは思い付かなかったが、そこでは、

フライドポテト(間にたっぷりバター)に、刻んだガリ(甘酢しょうが)載せ

が出てきた。

ドイツ人一行に「日本では、ポテトをこんなふうにして食べるのか」と言われ、「ふむ。これでまた一つ日本に詳しくなった」みたいな顔をされたが、違うからね! オレも初めて遭遇したからね!

まあ、別に不味くはなかったけど。

●鎌倉を歩き回る過程で、P妹旦那が、マンホール蓋マニアであることが判明。これまで撮りためたというマンホール蓋写真をあれこれ見せてもらった。こちらからも、近隣のマンホール蓋写真や、「日本にはこんなものがあるんだヨ」と、マンホールカードの写真を見せたりしたが、彼の写真コレクションは、

「コレはミュンヘンの……こっちがバイエルン州の。これはリスボンで、こっちはフィレンツェ……」

という具合に、コレクションのスケールが違った。例えばミュンヘンの蓋のデザインは市章?で、バイエルン州のものは真ん中あたりが州旗の斜めチェッカーという感じ。あちらのマンホール蓋もそれぞれ「ご当地柄」になっていて格好良かった。なお、ミュンヘンはバイエルンの首都なので、そのあたり切り分けがどうなっているのかは不明。市内と周辺で違うのか、あるいは混在しているのか。

そんなこんなで、散策の途中で鎌倉市内のマンホール蓋の写真も撮っていたが、鎌倉市の場合は(せっかく観光地なのに)いわゆるJIS模様とかハチノス模様とか味気ないものがメインだったのは(紹介する側として)ちょっと残念。

ちなみに、つい先日、仕事先の忘年会で、某航測会社のお偉いさん(かつ、ポケモンgoフレンド)のSさんがマンホールカード・コレクターであることも判明。しばしその話で盛り上がった。意外に世の中にマンホール蓋マニアが潜伏していると知った。

Img20251217211945 ●「1日、案内してくれたお礼に」と、いろいろとお土産を貰った。

上の2つの瓶は、マルメロのジャムとゼリー(P妹のお手製)。日本ではまず見かけない果物で、私も海外の小説とかで名前を見たことがあるなあ、程度。ゼリーのほうは「チーズと一緒に食べてね」と言われて、「え?そんなのアリ?」と思って通訳をしてくれたPに聞き返したくらいだが、後でwikibediaで調べたら、実際にそのような食べ方が出てきた。

とはいえ、「チーズに併せて食べる」というマルメロの加工品で、イギリスでクインス・チーズ、ポルトガルでマルメラーダ、スペインでメンブリージョと呼ばれているものは、もっと固くて羊羹のような感じ。貰ったものは柔らかくプルプルのゼリー状で、これが「ドイツ風」なのかP妹レシピ独特なのかは不明。なお、ブルーチーズとかチェダーとか、ちょっと塩気の強めなチーズと一緒の方がいいらしく、実際に、買い置きしてあったブルーチーズと一緒に食べたらなかなか美味。

ちなみにジャムのほうもゼリーのほうも、味としては「リンゴジャム/ゼリー?」みたいな感じ。ジャムも、チーズトーストに塗って食べたら美味かった(チーズ抜きでも美味しいけど)。

時計回りに、次の2つの袋は、これもP妹お手製のビスケットとジンジャーブレッド・マン。ビスケットは全粒粉らしく、プチプチした食感がよかった。隣の缶詰は、P自身から貰った「なんちゃらかんちゃらブルスト」。レバーブルストもそうだが、ドイツのこの手のパテ系の缶詰はとても美味しい。……が、そのため我が家でも娘ほかに非常に人気で、うかうかしているとほんの少ししか食べられない。

下右のアルミホイルに包まれた枕状のものは、P妹旦那製のシュトレン。ドイツの自家製シュトレンは久しぶり。そして下左は、Pが事前に私の好みを喧伝していたらしく、ドイツからわざわざ持ってきた「ザルツ・ブレーツェル」(250g入り)。

●その他、ここ数か月の身近な出来事やら雑感やら。

まずは「サヨナラ・ポスト」逗子市編。

昨夏、それまで市内に4カ所あった現役丸ポストのうち、2か所が撤去(新ポストに代替)されてしまったことを報じたが(→記事)、ここ数か月の間に、残り2か所も小さな角ポストに置き換わってしまった。

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写真1枚目は沼間3丁目2-1:東逗子駅先、沼間交番前。2枚目は桜山1丁目2-21:逗子~東逗子間、水道路沿い。寿し魚友横。これで逗子市内の現役丸ポストはすべて姿を消してしまったことになる。残念。両方とも、丸ポストの根石だけは新ポストの土台として再利用しているのが、ちょっとだけ嬉しいような気も。

なお、昨夏撤去された2基は今も引き続き逗子郵便局の裏手に置かれたままで、そこに新たに撤去された2基のうちの1基が加わっている。もう1基がどうなったのかは不明。(特に2基は)1年以上保管されていることを考えると、単純にスクラップにするのではなく、どこか引取り手が出るのを待っているのかも。捨てられずにどこかで余生を送って欲しい。

Img20251223182426 ●今月初め、藤沢市のマンホールカードがもう1種新たに追加されたので、湘南鎌倉総合病院に肩のリハビリに行ったついでに、遊行寺近くの「藤沢市ふじさわ宿交流館」まで足を伸ばして貰ってきた。さらに先週末にも葉山町のマンホールカードの2種目がリリースされたので、そちらも早速、配布場所である南郷のHAYAMA STATIONに行って入手。

この近隣のマンホールカードの発行状況(現状)は、逗子市1種、横須賀市4種、葉山町2種、藤沢市2種、横浜市(区単位のもの含め)いろいろ、という感じ。お隣・鎌倉市が空白地帯だが、そもそも鎌倉市は(上述のように)ご当地柄のデザインマンホール蓋がない。正確には、駅前に時計台とヤマザクラ/リンドウの図案のカラー蓋が一つあったのだが(今もあるかは不明)、これは下水道のものではない可能性がある。

●ビートルズを聞き始めてン十年。「One After 909」(9時9分発の次のヤツ)が9時21分だと初めて知った。

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ドイツ人Pの兄夫婦が来た先々月某日、北鎌倉駅で。いや、だからどうなんだって話ですが。

●はるか県北部や県中央部から、横須賀に向けて引かれている旧軍港水道(半原系統・有馬系統)は、「名越送水管路ずい道」で鎌倉・逗子市境を越え、おおよそJR横須賀線と並行して逗子市を横断、沼間のどん詰まりで「盛福寺管路ずい道」を越えて田浦(横須賀市)に抜ける(片方が「送水管路」でもう片方が「管路」なのは「?」だが、実際の隧道に掲げられてあるまま)。

さて、この道筋を人間が辿ろうとすると、名越側(鎌倉・逗子間)は、すぐ隣を県道311号線のトンネルが通っているのでいいとして、盛福寺側(逗子・横須賀間)は尾根の手前で行き止まりになってしまう。

……と、これまでは思っていたのだが、ジオテクの地図を見ると、どうも抜け道があるような。そんなわけで、改めて様子見に行ってみることにした(11月初旬)。

沼間の突き当りで、県道24号線から、脇道になっている水道路の逗子市側端に入る。緩やかな坂をちょっと上った辺りで住民の方に会ったので、この先で田浦側に抜けられるかどうか尋ねる。

その昔、送水管路隧道を歩行者が通れた時代はあったものの、現在ではまともな道はないとの返事。ただし、送水管路隧道のすぐ手前右手に沢があって、その沢床の踏み分け道のようなところを辿っていくと、尾根上のハイキングコースに出られる、という。

それならちょっと試してみようと探してみると、確かに隧道手前に踏み分け道っぽいものがある。なるほどここか、と歩き始めたはいいものの、数日前の雨のせいで沢床が泥沼のようになっていて、にっちもさっちも行かなくなってしまった。引き返すのもままならず、仕方なく沢筋を離れて、道もない急斜面をよじ登り、さらには笹薮に突入。危うく遭難しかけた。とにかく尾根に上がりさえすれば道があるのは判っていたので、それを信じて前進、なんとか抜け出すことができた。

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写真は1,2枚目が「盛福寺管路ずい道」の逗子側、3,4枚目が同・田浦側。隙間から中を覗くと、そう遠くない先に反対側出口の光が見える。それなのに、越えるためにあんなに苦労するとは。最後の写真が、下山後に撮った靴の惨状。

なお、そのしばらく後に「本当に登る道はないのか」を確かめるために再訪したのだが、逗子側隧道入り口の右側ではなく左側に、だいぶ頼りないものの道を発見。途中、何かにつかまらないと登れない急斜面などあるものの、一応、泥沼にも藪にも突っ込むことなく尾根上のハイキングコースにたどり着くことができた。

●11月下旬。横須賀に行ったら、海上自衛隊の埠頭に、見慣れない(そして明らかに海自のものとは思えない)船が停泊しているのが見えた。

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帰宅後調べてみたら、カナダ海軍の新鋭砕氷哨戒艦「マックス・バーネイズ」と判明。

船体横頂部に、インド女性のビンディみたいな赤い印があるのは、カナダのメイプルリーフだったのね……(小さくてよく判らなかった)。

●前回記事「ワルシャワの石畳」で、百均由来のケースについて、「その後同様のものを見掛けない」と書いたのだが、大船-北鎌倉間の大規模なダイソー(鎌倉大船店)で、同じケース(およびそのバリエーション)に再遭遇した。

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逗子や鎌倉の小さな店舗のダイソーには売ってないんだよね。この機会を逃しちゃイカン、ということで、ソクウに使用したのと同形のものと横長のものの2種を購入した。

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砲台に消えた子どもたち・2025

●11月29日、「砲台に消えた子どもたち」慰霊祭に出席する。「逗子の歴史を学ぶ会」の山田さんに、当かばぶのコメント欄でお知らせ頂いて開催を知ったもの(その後、近所の市の掲示板でもポスターを見た)。

場所は逗子マリーナ、「西小坪海面砲台」の南砲台跡地前。昨秋、新たに建立された慰霊碑前。昨年、碑が建った際の慰霊祭の様子はこちら

爆発事故の命日は10月20日で(昨年の慰霊碑建立祭はその日に行われた)、今回の日付はちょっと半端だが、これは、慰霊碑建立の際にはまだ確定できていなかった犠牲者全員の氏名(および人数)がようやく確定され、それを慰霊碑背面に入れることができたから、というタイミングに合わせたものであるらしい。

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写真はこの日の慰霊碑と、亡くなった子どもたち15名の名前が入った裏面。ただし、この名前に関しては、なお字の間違いなどが存在する可能性もあるとのことで、現在はシール状態で貼られているだけ。今回暫定的に公開し、訂正情報などあればそれを反映させた上で実際に碑面に刻む予定とのこと。

実際、昨年慰霊碑が建てられた段階での(講演会で聞いた)話では、亡くなった子どもらの名前は全員分判明しておらず、それ以前に人数も14~16名?と確定できていなかったことを考えると、それだけ調査が進んだことは素晴らしいと思う。関係者のご努力に頭が下がる。

●慰霊祭終了後は、すぐ近くの小坪小学校区コミュニティセンター(旧小坪公民館)で講演会を聴く(第14回歴史講演会「逗子に砲台があったころ」)。

主なプログラムは、紙芝居(プロジェクター芝居?)「カシャーばらの子」「海をにらむ大砲」の2本と、地域の歴史(西小坪砲台の歴史)を研究されている中澤洋氏の講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」。

「カシャーばらの子」は、最初にポスターで題名を見た時には、語感から「沖縄の話?」などとボンヤリ思っていたのだが、実際には、池子弾薬庫の一部として半ば強制的に土地を取り上げられた、旧久木村柏原地区の話。当時暮らしていた人たちは、柏原を「カシャーばら」と読んでいたそうだ。現在は「池子の森自然公園」のうちの緑地エリアとなっている。

柏原地区を含む旧池子弾薬庫跡地(米軍施設としての日本語での正式名称は「池子住宅地区及び海軍補助施設」)に関し、個人的に留意しておきたいと思っている点は、おおよそ以下。

  • 長きにわたる返還運動などもあり、「米軍が勝手に“占拠”して“居座って”いる」というイメージを持っている人もいそうだが、直接の戦闘の結果、米軍が占領して施設建設を行った沖縄の大半の基地と違い、それ以前に日本の国(海軍)が半ば(というよりほとんど)強制的に土地収用を行ったもの――つまり住民から土地を取り上げたのは米軍ではなく日本国(海軍)であるということ。
  • そのため、沖縄の米軍基地は民有地の割合も多いが、旧池子弾薬庫跡地の場合、「面積のうち約99.9%は国有地」(wikipediaより)である由。当然、国有地である理由は前述のように軍が二束三文で有無を言わせず買い上げたからだが、ほぼ全域が国有地であるからこそ、米軍による弾薬庫としての利用が終わってからも、そのままポンと住宅地として提供することができたのでは、という気がする。
  • 逗子市域全体に占める米軍管理地の面積は約14.5%あり、市町村レベルの自治体のなかでは、広大な基地(特に飛行場)を抱える沖縄の伊江村や宜野湾市、嘉手納町などには及ばないものの、全国でもトップクラスの面積比。もっとも、現在はそのうち約40haは共同使用地として「池子の森自然公園」となっている。ちなみに米第七艦隊が基地を置く横須賀市は、単純な面積では逗子市以上だが、市域が広いので面積比ではぐっと下がる。
  • 仮に戦後すぐに弾薬庫跡地が民間に払い下げられていたとしたら、おそらく、この一帯は高度成長期に(鎌倉逗子ハイランドのように)大々的に(かつかなり乱暴に)宅地開発されていたのではと思う。皮肉な話だが、米軍管理地だったからこそ大部分に開発の手が入らず、今のように自然公園だの緑地エリアだのといった利用が可能になったのかも。

紙芝居のもう一本、「海をにらむ大砲」は、題名からも想像できるように西小坪海面砲台とその爆発事故をモチーフにした物語。

講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」は、主に小坪國民學校(現在の小坪小学校)の学校日誌を元に、戦時下と終戦直後の学校・子供たちの日常がどんなものだったかを振り返る内容。

当日貰った資料やら記念品やらが以下。1枚目写真右下の(講演題名と同じ)「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」小冊子は、講演で触れた内容も含めて、演者・中澤洋氏がこつこつと調べ上げてきた爆発事故周辺の情報をまとめたもので、2枚目写真はその内容の1見開き。これは会場受付で500円で購入。

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●以前から話題にしている、「結局、この西小坪海面砲台に配備された砲は何だったのか」という話の続き。

爆発事故の起きた西小坪海面砲台に配備された砲に関しては、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)では「十五糎砲」であったことしか判らず、その他資料でも、おおよそ「15センチカノン砲」とあるのみで、年式等は記されていない。

これについて、講演後の質疑応答で中澤洋氏に質問してみた。氏によれば、「はっきりしたことは判らないが陸軍のカノン砲を使っていたのでは」とのこと。

昨年の講演会ではご存命だった遺族会の草柳博氏が「ボタンを押すと砲が動いた(ので子供たちは面白がって遊んだ)」といった証言をされていて、これに関して、動力操作が可能なら、陸軍の砲ではなく海軍の(艦船搭載用の)砲なのでは、という推論を昨年の記事には書いたのだが、これは私の先入観によるもので、中澤氏によれば、「陸軍のカノン砲も後期には電動のものがあったらしい」とのこと。

改めてwikipediaで調べてみる。

そもそも「カノン砲(加農砲)」という分類自体がいささか曖昧なもので、ざっくり言えば、「そこそこ以上の口径(100mm以上くらい?)で、そこそこ以上に長砲身のもの」くらいの意味しかない。特に第二次大戦後期頃からは、榴弾砲(これは主たる使用弾種に応じた呼称で、砲弾自体に炸薬が詰められた「榴弾」を、多くの場合高仰角で撃つ砲を指す)との区別がどんどん曖昧になっていく。

というわけで、単純に「カノン砲が配備された」と書かれている場合、文字通り「××式加農」が正式名称の砲なのか、あるいは「××式榴弾砲」のなかで比較的長砲身のものを指すのか、即座に判断はしかねる(あるいは加農砲、榴弾砲以外の種別名称のこともあり得る)。さらに言えば、(この陣地を築いた)海軍の火砲の場合、砲身長自体は「カノン砲/加農砲」に該当していても、それを正式名称としたものはない。

結局、「口径15cmの長砲身砲」というだけの括りで陸海軍の砲をリストアップしていくと、結構なバリエーションになってしまう。

Type_96_15cmcannon_1 ……のだが。先述の、中澤氏の「陸軍の後期のカノン砲では電動のものがあった」を頼りに、単純に正式名称「××式加農」で新しめのものを漁ってみると、「九六式十五糎加農」に行き当たった(写真はwikimedia commonsより、パブリック・ドメイン。File:Type 96 15-cm-Cannon 1.jpg)。野戦榴弾砲である「九六式十五糎榴弾砲」とは制式年が一緒なのでややこしいが、別物なので注意。

写真で見ても判るように、前線で機敏に移動させて砲列を敷くような用途の砲ではなく、それなりの砲陣地を構築するとか、要塞に据え付けるとかといった使い方を主とする砲。そして、制式化からほどなく、砲の俯仰を電動化する改修が行われ、「この電動化改修を受けた砲は試製九六式十五糎加農(電動機付)と呼ばれ、高い発射速度が必要な海岸要塞などで運用するものとされた」(wikipedia、「九六式十五糎加農」)とある。

実際には昨年の記事にもこの砲の名前は一度出しているのだが、「陸軍だったら手動でしょ」という先入観で弾いていた。先入観抜きで、しかも解説文をよく読んでいたら、この有力候補に比較的簡単にたどり着けたはず。

なお「九六式」とは皇紀2596年、つまり1936年制式化を意味し、それを考えれば「そんなに新型とも言えないよね?」と言いたくなるが、実際には、制式化はされたものの生産はあまり進まず、wikipediaの記述によれば1942年までに31門が作られたのみだという。その後新式の加農砲は開発されていないようなので、一応、日本陸軍としては「最新鋭」の加農砲だったということになる。

●ちょっと脱線話。口径15cmのカノン砲、もしくは長砲身の榴弾砲というと、ミリオタ的には、フンメル自走砲の搭載砲としても有名なドイツの15cm sFH18が思い浮かぶところだが、これは野戦榴弾砲なので、日本陸軍で言えば九六式十五糎榴弾砲に相当。ドイツにももっと長砲身のカノン砲/要塞砲の類として15cm K18とか、15cm K39といった、sFH18に比べるとややマイナーな砲があり、こちらのほうが上述の九六式十五糎加農と性格もスペックも近い。

なお、同種のカノン砲として非常に有名な砲にアメリカの「ロング・トム」があるが、こちらは口径がやや大きく155mm。

●閑話休題。というわけで、かなりの有力候補が出てきたわけだが、まだ「これですっきり解決」というわけではない。いくつかの疑問点は残る。

▼口径15cmのカノン砲で、俯仰電動機構付きという条件には合致しているものの、わずか31門しか作られなかった新鋭砲(というには年式は古めだが)を、小坪の洞窟陣地のような急造陣地に配備するものだろうか。戦争末期(西小坪海面砲台は逗子市史によれば1944年築造だという)に作られた本土決戦用陣地に配備される砲といえば、倉庫に余っていたような旧式兵器が回されて来るのでは、というイメージがある。もっともそれも半ばは私の先入観で、海軍の本拠地である横須賀鎮守府や「帝都」の防衛に直結するポイントとして、虎の子の砲を持ってきた可能性もあるのかもしれない。

▼上掲の、中澤洋氏著の小冊子「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」の見開き写真に写っているのが、昨年の記事でも触れた、私がこれまで見たなかでは唯一、一部ではあれ砲が写っている貴重な記録写真。なにしろ砲身だけ、しかも前半しか写っていないので手掛かりとしては心許ないが、それでも、砲身の根元側に段差があるらしいことが判る。上述の九六式十五糎加農にも段差があり、一方で、その一つ前の形式である八九式十五糎加農の場合は、やはり段差はあるものの駐退復座レールを兼ねて下部が拡がっているのだが、写真ではそのようには見えない。その点で言えば、配備された砲は九六式十五糎加農だった可能性に1ポイント加算、という感じではある。八九式十五糎加農は約150門と(九六式に比べれば)生産数も多く、沖縄戦などでも洞窟陣地に配備されたりしているので、そうした要素からすると八九式の砲が“近い”気もするが。

▼九六式十五糎加農、その一つ前の形式である八九式十五糎加農、と書いたが、九六式十五糎加農の直接の前身となった砲として四五式十五糎加農(四五式は明治45年制式化を示す)という砲もある。wikipediaには、これの「改造固定式」が「東京湾要塞、下関大島砲台、対馬郷岬砲台、津軽白神岬砲台ほかに配備された」とある。電動化されたという記述は(少なくともwikipediaには)ないが、もしも九六式と合わせて、そのような近代化改修が行われているものがあったとしたら、それが使われた可能性もありそうな気がする(中古兵器の活用という点でも)。

▼もちろん、「やっぱり海軍の砲が配備されていた」という可能性もまだ消えたわけではない、と思う。前出の横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」中では、同じ「十五糎砲台之部」として、「佐島 三 三〇〇」「長者ヶ崎 二 三〇〇」「西小坪 二 二〇〇」「黒崎鼻 三 三〇〇」と、4カ所がまとめられている(数字は最初が砲の門数、次が弾薬数。サイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の項では、これら砲台のうち、佐島および長者ヶ崎の配備砲は、もともと海軍の艦載砲である「五〇口径四一式十五糎砲」およびそれより旧式の「四〇口径安式十五糎砲」であったと解説している(ただし、その出典は明記していない)。一方で西小坪および黒崎鼻の配備砲は「15センチ加農砲」としているが、こちらは形式名までは記していない。装備体系としてまったく別種の砲を、軍作成の目録で一まとめにするというのも不自然で、もしも佐島・長者ヶ崎の砲が海軍のものであるなら、西小坪・黒崎鼻もそうだったと考えるのが自然、という気もする。

▼上掲の写真にある砲は、砲身前端が黒く焼け焦げている上に表面がボロボロになっているように見える。もしかしたら終戦時に、砲が二度と使い物にならないように何らかの処置をした結果なのかもしれないが、通常はこういう場合は尾栓を取り除いて別途保管、とかが多い気がする。また実際に横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」には、「十五糎砲」の尾栓が取り外されて別途保管されていたことが記されている(保管されている尾栓数は10で、上記4砲台に配備された十五糎砲の合計数と一致する)。何をどうしたら砲身外側がボロボロになるのか、私にはちょっとよく判らない(故意に筒内爆発を起こさせて砲身を破壊するとか、あるいは砲弾を砲身途中に詰め込むとかといったケースもあるようだが)。そもそも後日爆発事故を起こすほど、洞内に弾薬が無造作に置かれている状態で、洞口のすぐ表で爆破処理などするとは思えないし。

「この陣地に配備された砲が何だったのか」は、単純にミリオタ的興味から、ということもあるが、そうした細かいディテールが判れば、「どんな意味を持つ砲台だったのか」とか、「どんな弾薬が残っていて、それがなぜ爆発したのか」の究明にも、僅かながらでも近づくことに繋がる。

そんなことも踏まえつつ、若干の考察を。

▼配備されていた砲が九六式十五糎加農だった場合、最大射程は26,200mに達する。しかし、上掲の写真で洞口と砲身の位置関係から見る限り、九六式十五糎加農の最大仰角である45度の姿勢はまず無理で、取れて20~30°程度ではないだろうか。その分、射程は短くなっているはず。甘く見積もって射程距離が18,000m程度あったとして、海岸線でアタリを付けると、相模川河口を少し超えるくらいとなる。

仮に連合軍が首都東京の制圧を目指した上陸作戦を敢行するとしたら、まず考えられる地点は砂浜でそれに続く陸地も平坦な、湘南海岸(茅ヶ崎~平塚あたり)か千葉の九十九里で、実際にアメリカ軍が立案した上陸作戦(コロネット作戦)でもこの2カ所を上陸地点と設定していた。

相模湾中央に連合軍が上陸してくると想定した場合、西小坪海面砲台はやや能力不足だったのではという疑いも出てくる。なお、江の島にも西岸・東岸に海面砲台が設けられていたそうで、江の島の東岸の砲台と三浦半島側の砲台とで、相模湾東半分に敵が襲来した場合に十字砲火を浴びせるつもりだったのかもしれないが、そもそも鎌倉や逗子は、海にいきなり台地とか山とかが迫っていて、上陸地点としては相応しくない(それを考えると、長距離の移動ができない「伏龍」出撃基地とされる洞窟陣地が稲村ケ崎にあるのも摩訶不思議だ)。

もちろん、「だからと言って何にも備えんわけにはいかんやろ」という理由も充分に考えられるが、それが重大な爆発事故に繋がったとすれば、哀れとしか言いようがない。

▼終戦直後に武器の引き渡し等の便のためにまとめられた横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)によれば、「西小坪砲台」には砲2門と弾薬200発が残されていたことになっている。

特に長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節して適切な飛距離を得ることが多く、その場合には装薬は「**発」では数えづらいので、おそらく、ここで言う「弾薬200発」は弾頭(打ち出される弾丸そのもの)の数だと思われる。また、昨年・今年の講演で聞いた証言でも、「棒状(または細長い板状)の火薬が散乱していた」とのことで、これも弾頭と装薬がそれぞれ別に置かれていたことを示す。

飛んで行った先で爆発する砲弾(榴弾)は、弾丸(弾頭)の内部にも火薬(炸薬)が詰まっているが、これは固い外殻に包まれていて、基本は信管(着発信管とか時限信管とか)があって初めて爆発するものなので、爆発事故そのものは、散乱していたという装薬のせい、ということになる(もちろん、装薬が爆発した結果、弾丸のほうも誘爆することも考えられるが、その場合はおそらく砲台のあった崖自体が崩れかねない規模の爆発になったかもしれない)。

▼しかしここで謎なのは、なぜ装薬が中身の状態で散乱していたのか、ということ。

前述のように、長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、望む飛距離に合わせて装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節できるようになっていることも多い。しかしそれは決して目分量とかではなく、装薬はきっちり規定量が袋(とかそれなりの容器)に小分けにされ、「それを何個薬室に入れるか」で調節を行うのが普通。装薬がむき出しのバラバラが常態であったとは考えづらい。この辺、日本陸軍の場合、正確にはどう取り扱っていたのか。私の亡父は陸軍将校で、横須賀の陸軍重砲兵学校を出たはずなので、生前にもっと詳しく話を聞いておけばよかった。

ただ、当時の小坪では、この(棒状、あるいは板状の)火薬を拾ってきて焚き付け(着火剤)として使ったりしていたらしい。事故以前に、小坪の大人が装薬の袋を切り裂いて中身を取り出して放置していた可能性もあるかもしれない。

この機会にと、その後、付近の戦争遺構の現状を(散歩がてらに)改めて少し確認してみたり、ということもしているのだが、長くなったので、それに関してはまた改めて。

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