●11月29日、「砲台に消えた子どもたち」慰霊祭に出席する。「逗子の歴史を学ぶ会」の山田さんに、当かばぶのコメント欄でお知らせ頂いて開催を知ったもの(その後、近所の市の掲示板でもポスターを見た)。
場所は逗子マリーナ、「西小坪海面砲台」の南砲台跡地前。昨秋、新たに建立された慰霊碑前。昨年、碑が建った際の慰霊祭の様子はこちら。
爆発事故の命日は10月20日で(昨年の慰霊碑建立祭はその日に行われた)、今回の日付はちょっと半端だが、これは、慰霊碑建立の際にはまだ確定できていなかった犠牲者全員の氏名(および人数)がようやく確定され、それを慰霊碑背面に入れることができたから、というタイミングに合わせたものであるらしい。

写真はこの日の慰霊碑と、亡くなった子どもたち15名の名前が入った裏面。ただし、この名前に関しては、なお字の間違いなどが存在する可能性もあるとのことで、現在はシール状態で貼られているだけ。今回暫定的に公開し、訂正情報などあればそれを反映させた上で実際に碑面に刻む予定とのこと。
実際、昨年慰霊碑が建てられた段階での(講演会で聞いた)話では、亡くなった子どもらの名前は全員分判明しておらず、それ以前に人数も14~16名?と確定できていなかったことを考えると、それだけ調査が進んだことは素晴らしいと思う。関係者のご努力に頭が下がる。
●慰霊祭終了後は、すぐ近くの小坪小学校区コミュニティセンター(旧小坪公民館)で講演会を聴く(第14回歴史講演会「逗子に砲台があったころ」)。
主なプログラムは、紙芝居(プロジェクター芝居?)「カシャーばらの子」「海をにらむ大砲」の2本と、地域の歴史(西小坪砲台の歴史)を研究されている中澤洋氏の講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」。
「カシャーばらの子」は、最初にポスターで題名を見た時には、語感から「沖縄の話?」などとボンヤリ思っていたのだが、実際には、池子弾薬庫の一部として半ば強制的に土地を取り上げられた、旧久木村柏原地区の話。当時暮らしていた人たちは、柏原を「カシャーばら」と読んでいたそうだ。現在は「池子の森自然公園」のうちの緑地エリアとなっている。
柏原地区を含む旧池子弾薬庫跡地(米軍施設としての日本語での正式名称は「池子住宅地区及び海軍補助施設」)に関し、個人的に留意しておきたいと思っている点は、おおよそ以下。
- 長きにわたる返還運動などもあり、「米軍が勝手に“占拠”して“居座って”いる」というイメージを持っている人もいそうだが、直接の戦闘の結果、米軍が占領して施設建設を行った沖縄の大半の基地と違い、それ以前に日本の国(海軍)が半ば(というよりほとんど)強制的に土地収用を行ったもの――つまり住民から土地を取り上げたのは米軍ではなく日本国(海軍)であるということ。
- そのため、沖縄の米軍基地は民有地の割合も多いが、旧池子弾薬庫跡地の場合、「面積のうち約99.9%は国有地」(wikipediaより)である由。当然、国有地である理由は前述のように軍が二束三文で有無を言わせず買い上げたからだが、ほぼ全域が国有地であるからこそ、米軍による弾薬庫としての利用が終わってからも、そのままポンと住宅地として提供することができたのでは、という気がする。
- 逗子市域全体に占める米軍管理地の面積は約14.5%あり、市町村レベルの自治体のなかでは、広大な基地(特に飛行場)を抱える沖縄の伊江村や宜野湾市、嘉手納町などには及ばないものの、全国でもトップクラスの面積比。もっとも、現在はそのうち約40haは共同使用地として「池子の森自然公園」となっている。ちなみに米第七艦隊が基地を置く横須賀市は、単純な面積では逗子市以上だが、市域が広いので面積比ではぐっと下がる。
- 仮に戦後すぐに弾薬庫跡地が民間に払い下げられていたとしたら、おそらく、この一帯は高度成長期に(鎌倉逗子ハイランドのように)大々的に(かつかなり乱暴に)宅地開発されていたのではと思う。皮肉な話だが、米軍管理地だったからこそ大部分に開発の手が入らず、今のように自然公園だの緑地エリアだのといった利用が可能になったのかも。
紙芝居のもう一本、「海をにらむ大砲」は、題名からも想像できるように西小坪海面砲台とその爆発事故をモチーフにした物語。
講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」は、主に小坪國民學校(現在の小坪小学校)の学校日誌を元に、戦時下と終戦直後の学校・子供たちの日常がどんなものだったかを振り返る内容。
当日貰った資料やら記念品やらが以下。1枚目写真右下の(講演題名と同じ)「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」小冊子は、講演で触れた内容も含めて、演者・中澤洋氏がこつこつと調べ上げてきた爆発事故周辺の情報をまとめたもので、2枚目写真はその内容の1見開き。これは会場受付で500円で購入。

●以前から話題にしている、「結局、この西小坪海面砲台に配備された砲は何だったのか」という話の続き。
爆発事故の起きた西小坪海面砲台に配備された砲に関しては、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)では「十五糎砲」であったことしか判らず、その他資料でも、おおよそ「15センチカノン砲」とあるのみで、年式等は記されていない。
これについて、講演後の質疑応答で中澤洋氏に質問してみた。氏によれば、「はっきりしたことは判らないが陸軍のカノン砲を使っていたのでは」とのこと。
昨年の講演会ではご存命だった遺族会の草柳博氏が「ボタンを押すと砲が動いた(ので子供たちは面白がって遊んだ)」といった証言をされていて、これに関して、動力操作が可能なら、陸軍の砲ではなく海軍の(艦船搭載用の)砲なのでは、という推論を昨年の記事には書いたのだが、これは私の先入観によるもので、中澤氏によれば、「陸軍のカノン砲も後期には電動のものがあったらしい」とのこと。
改めてwikipediaで調べてみる。
そもそも「カノン砲(加農砲)」という分類自体がいささか曖昧なもので、ざっくり言えば、「そこそこ以上の口径(100mm以上くらい?)で、そこそこ以上に長砲身のもの」くらいの意味しかない。特に第二次大戦後期頃からは、榴弾砲(これは主たる使用弾種に応じた呼称で、砲弾自体に炸薬が詰められた「榴弾」を、多くの場合高仰角で撃つ砲を指す)との区別がどんどん曖昧になっていく。
というわけで、単純に「カノン砲が配備された」と書かれている場合、文字通り「××式加農」が正式名称の砲なのか、あるいは「××式榴弾砲」のなかで比較的長砲身のものを指すのか、即座に判断はしかねる(あるいは加農砲、榴弾砲以外の種別名称のこともあり得る)。さらに言えば、(この陣地を築いた)海軍の火砲の場合、砲身長自体は「カノン砲/加農砲」に該当していても、それを正式名称としたものはない。
結局、「口径15cmの長砲身砲」というだけの括りで陸海軍の砲をリストアップしていくと、結構なバリエーションになってしまう。
……のだが。先述の、中澤氏の「陸軍の後期のカノン砲では電動のものがあった」を頼りに、単純に正式名称「××式加農」で新しめのものを漁ってみると、「九六式十五糎加農」に行き当たった(写真はwikimedia commonsより、パブリック・ドメイン。File:Type 96 15-cm-Cannon 1.jpg)。野戦榴弾砲である「九六式十五糎榴弾砲」とは制式年が一緒なのでややこしいが、別物なので注意。
写真で見ても判るように、前線で機敏に移動させて砲列を敷くような用途の砲ではなく、それなりの砲陣地を構築するとか、要塞に据え付けるとかといった使い方を主とする砲。そして、制式化からほどなく、砲の俯仰を電動化する改修が行われ、「この電動化改修を受けた砲は試製九六式十五糎加農(電動機付)と呼ばれ、高い発射速度が必要な海岸要塞などで運用するものとされた」(wikipedia、「九六式十五糎加農」)とある。
実際には昨年の記事にもこの砲の名前は一度出しているのだが、「陸軍だったら手動でしょ」という先入観で弾いていた。先入観抜きで、しかも解説文をよく読んでいたら、この有力候補に比較的簡単にたどり着けたはず。
なお「九六式」とは皇紀2596年、つまり1936年制式化を意味し、それを考えれば「そんなに新型とも言えないよね?」と言いたくなるが、実際には、制式化はされたものの生産はあまり進まず、wikipediaの記述によれば1942年までに31門が作られたのみだという。その後新式の加農砲は開発されていないようなので、一応、日本陸軍としては「最新鋭」の加農砲だったということになる。
●ちょっと脱線話。口径15cmのカノン砲、もしくは長砲身の榴弾砲というと、ミリオタ的には、フンメル自走砲の搭載砲としても有名なドイツの15cm sFH18が思い浮かぶところだが、これは野戦榴弾砲なので、日本陸軍で言えば九六式十五糎榴弾砲に相当。ドイツにももっと長砲身のカノン砲/要塞砲の類として15cm K18とか、15cm K39といった、sFH18に比べるとややマイナーな砲があり、こちらのほうが上述の九六式十五糎加農と性格もスペックも近い。
なお、同種のカノン砲として非常に有名な砲にアメリカの「ロング・トム」があるが、こちらは口径がやや大きく155mm。
●閑話休題。というわけで、かなりの有力候補が出てきたわけだが、まだ「これですっきり解決」というわけではない。いくつかの疑問点は残る。
▼口径15cmのカノン砲で、俯仰電動機構付きという条件には合致しているものの、わずか31門しか作られなかった新鋭砲(というには年式は古めだが)を、小坪の洞窟陣地のような急造陣地に配備するものだろうか。戦争末期(西小坪海面砲台は逗子市史によれば1944年築造だという)に作られた本土決戦用陣地に配備される砲といえば、倉庫に余っていたような旧式兵器が回されて来るのでは、というイメージがある。もっともそれも半ばは私の先入観で、海軍の本拠地である横須賀鎮守府や「帝都」の防衛に直結するポイントとして、虎の子の砲を持ってきた可能性もあるのかもしれない。
▼上掲の、中澤洋氏著の小冊子「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」の見開き写真に写っているのが、昨年の記事でも触れた、私がこれまで見たなかでは唯一、一部ではあれ砲が写っている貴重な記録写真。なにしろ砲身だけ、しかも前半しか写っていないので手掛かりとしては心許ないが、それでも、砲身の根元側に段差があるらしいことが判る。上述の九六式十五糎加農にも段差があり、一方で、その一つ前の形式である八九式十五糎加農の場合は、やはり段差はあるものの駐退復座レールを兼ねて下部が拡がっているのだが、写真ではそのようには見えない。その点で言えば、配備された砲は九六式十五糎加農だった可能性に1ポイント加算、という感じではある。八九式十五糎加農は約150門と(九六式に比べれば)生産数も多く、沖縄戦などでも洞窟陣地に配備されたりしているので、そうした要素からすると八九式の砲が“近い”気もするが。
▼九六式十五糎加農、その一つ前の形式である八九式十五糎加農、と書いたが、九六式十五糎加農の直接の前身となった砲として四五式十五糎加農(四五式は明治45年制式化を示す)という砲もある。wikipediaには、これの「改造固定式」が「東京湾要塞、下関大島砲台、対馬郷岬砲台、津軽白神岬砲台ほかに配備された」とある。電動化されたという記述は(少なくともwikipediaには)ないが、もしも九六式と合わせて、そのような近代化改修が行われているものがあったとしたら、それが使われた可能性もありそうな気がする(中古兵器の活用という点でも)。
▼もちろん、「やっぱり海軍の砲が配備されていた」という可能性もまだ消えたわけではない、と思う。前出の横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」中では、同じ「十五糎砲台之部」として、「佐島 三 三〇〇」「長者ヶ崎 二 三〇〇」「西小坪 二 二〇〇」「黒崎鼻 三 三〇〇」と、4カ所がまとめられている(数字は最初が砲の門数、次が弾薬数。サイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の項では、これら砲台のうち、佐島および長者ヶ崎の配備砲は、もともと海軍の艦載砲である「五〇口径四一式十五糎砲」およびそれより旧式の「四〇口径安式十五糎砲」であったと解説している(ただし、その出典は明記していない)。一方で西小坪および黒崎鼻の配備砲は「15センチ加農砲」としているが、こちらは形式名までは記していない。装備体系としてまったく別種の砲を、軍作成の目録で一まとめにするというのも不自然で、もしも佐島・長者ヶ崎の砲が海軍のものであるなら、西小坪・黒崎鼻もそうだったと考えるのが自然、という気もする。
▼上掲の写真にある砲は、砲身前端が黒く焼け焦げている上に表面がボロボロになっているように見える。もしかしたら終戦時に、砲が二度と使い物にならないように何らかの処置をした結果なのかもしれないが、通常はこういう場合は尾栓を取り除いて別途保管、とかが多い気がする。また実際に横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」には、「十五糎砲」の尾栓が取り外されて別途保管されていたことが記されている(保管されている尾栓数は10で、上記4砲台に配備された十五糎砲の合計数と一致する)。何をどうしたら砲身外側がボロボロになるのか、私にはちょっとよく判らない(故意に筒内爆発を起こさせて砲身を破壊するとか、あるいは砲弾を砲身途中に詰め込むとかといったケースもあるようだが)。そもそも後日爆発事故を起こすほど、洞内に弾薬が無造作に置かれている状態で、洞口のすぐ表で爆破処理などするとは思えないし。
「この陣地に配備された砲が何だったのか」は、単純にミリオタ的興味から、ということもあるが、そうした細かいディテールが判れば、「どんな意味を持つ砲台だったのか」とか、「どんな弾薬が残っていて、それがなぜ爆発したのか」の究明にも、僅かながらでも近づくことに繋がる。
そんなことも踏まえつつ、若干の考察を。
▼配備されていた砲が九六式十五糎加農だった場合、最大射程は26,200mに達する。しかし、上掲の写真で洞口と砲身の位置関係から見る限り、九六式十五糎加農の最大仰角である45度の姿勢はまず無理で、取れて20~30°程度ではないだろうか。その分、射程は短くなっているはず。甘く見積もって射程距離が18,000m程度あったとして、海岸線でアタリを付けると、相模川河口を少し超えるくらいとなる。
仮に連合軍が首都東京の制圧を目指した上陸作戦を敢行するとしたら、まず考えられる地点は砂浜でそれに続く陸地も平坦な、湘南海岸(茅ヶ崎~平塚あたり)か千葉の九十九里で、実際にアメリカ軍が立案した上陸作戦(コロネット作戦)でもこの2カ所を上陸地点と設定していた。
相模湾中央に連合軍が上陸してくると想定した場合、西小坪海面砲台はやや能力不足だったのではという疑いも出てくる。なお、江の島にも西岸・東岸に海面砲台が設けられていたそうで、江の島の東岸の砲台と三浦半島側の砲台とで、相模湾東半分に敵が襲来した場合に十字砲火を浴びせるつもりだったのかもしれないが、そもそも鎌倉や逗子は、海にいきなり台地とか山とかが迫っていて、上陸地点としては相応しくない(それを考えると、長距離の移動ができない「伏龍」出撃基地とされる洞窟陣地が稲村ケ崎にあるのも摩訶不思議だ)。
もちろん、「だからと言って何にも備えんわけにはいかんやろ」という理由も充分に考えられるが、それが重大な爆発事故に繋がったとすれば、哀れとしか言いようがない。
▼終戦直後に武器の引き渡し等の便のためにまとめられた横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)によれば、「西小坪砲台」には砲2門と弾薬200発が残されていたことになっている。
特に長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節して適切な飛距離を得ることが多く、その場合には装薬は「**発」では数えづらいので、おそらく、ここで言う「弾薬200発」は弾頭(打ち出される弾丸そのもの)の数だと思われる。また、昨年・今年の講演で聞いた証言でも、「棒状(または細長い板状)の火薬が散乱していた」とのことで、これも弾頭と装薬がそれぞれ別に置かれていたことを示す。
飛んで行った先で爆発する砲弾(榴弾)は、弾丸(弾頭)の内部にも火薬(炸薬)が詰まっているが、これは固い外殻に包まれていて、基本は信管(着発信管とか時限信管とか)があって初めて爆発するものなので、爆発事故そのものは、散乱していたという装薬のせい、ということになる(もちろん、装薬が爆発した結果、弾丸のほうも誘爆することも考えられるが、その場合はおそらく砲台のあった崖自体が崩れかねない規模の爆発になったかもしれない)。
▼しかしここで謎なのは、なぜ装薬が中身の状態で散乱していたのか、ということ。
前述のように、長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、望む飛距離に合わせて装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節できるようになっていることも多い。しかしそれは決して目分量とかではなく、装薬はきっちり規定量が袋(とかそれなりの容器)に小分けにされ、「それを何個薬室に入れるか」で調節を行うのが普通。装薬がむき出しのバラバラが常態であったとは考えづらい。この辺、日本陸軍の場合、正確にはどう取り扱っていたのか。私の亡父は陸軍将校で、横須賀の陸軍重砲兵学校を出たはずなので、生前にもっと詳しく話を聞いておけばよかった。
ただ、当時の小坪では、この(棒状、あるいは板状の)火薬を拾ってきて焚き付け(着火剤)として使ったりしていたらしい。事故以前に、小坪の大人が装薬の袋を切り裂いて中身を取り出して放置していた可能性もあるかもしれない。
この機会にと、その後、付近の戦争遺構の現状を(散歩がてらに)改めて少し確認してみたり、ということもしているのだが、長くなったので、それに関してはまた改めて。
最近のコメント