かば◎の迂闊な日々

台風一過のあれやこれや

●季節労働の地図本の制作にいっぱいいっぱいになってしまい(と言うほどには真面目に仕事していないが)、当「かばぶ」の更新もだいぶご無沙汰に。そんな折にやたら強力な台風がやってきたりもして、hn-nhさんから「そっちは大丈夫だったの?(大意)」というお言葉も頂いたりしたので、近況報告やらなにやら。

とりあえず最初に書いておくと、我が家自体は木の葉が吹き溜まったくらいで、特に大きな被害はなかった。私自身は(兄が職場の研修で不在になるというので)川崎の実家の母のところに泊りがけで出かけていたので、家がどれくらい揺さぶられたかもよく判っていない。

なお、実家は東急・田園都市線沿線にあるが、割と午前中早めにもう動き出していた。昼に横浜経由で帰ってきたが、JR横須賀線は「いつ動くかもわからん」状態な一方で、京浜急行はその数日前(木曜日)に神奈川新町の踏切で大事故があったにもかかわらず、土曜日には復旧しており、台風後の月曜午後も(逗子線への直通こそなかったものの)割と普通に走っていて、そちらを使って問題なく帰宅できた。京急偉大なり。

●我が家の近所の山の下を通る神奈川県道311号(すいどうみち)には、逗子市と鎌倉市の境界となる3連×上下線の6本のトンネル群がある。ひっくるめて「小坪トンネル」と呼ばれたりする、全国的にはお化けトンネルとして有名な場所だが、うち、下り線(鎌倉→逗子方向)の2本(名越隧道、小坪隧道)は明治時代に地元有志が出資して浦賀道に初めて開削したトンネルとして土木遺産にも指定されていたりする。詳しくはこちら

が、その小坪隧道(6つのトンネルのうち、下り線の最も逗子側)の逗子側ポータルの上方の崖が台風で崩れ、現在(9月14日)もなお不通で、解除の見通しも立っていない。

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2枚目は小坪隧道の鎌倉側から覗きこんで撮ったもの。倒木が道路を塞いでいる。4枚目は山の上の住宅地からトンネル上の斜面を見下ろして撮ったもの。かなりざっくり崩れている。単に道路を塞いだ倒木を除けばいいというものではなく、3枚目の写真にも少し写っているように、トンネル上方にも倒木がまだ重なって引っかかっていたりして、下手をすると再び崩落しかねない状況であるらしい。

逗子から鎌倉へは普通に通れるが(1枚目の写真の左側・新小坪隧道が上り線)、鎌倉から逗子へは、大きく迂回していく必要がある。

●ほかにも近所で「あ、あそこの崖も崩れてる!」なんてところがちらほら。

もともと逗子・鎌倉はちょっとした平地を取り巻いて細かい谷戸が多数あり、しかも山すそは切り立っていて、地層は柔らかく、もういかにも崩れて下さいと言わんばかりの地形(そしてその通りよく崩れる)。特に鎌倉では、谷戸の奥が倒木で小範囲に停電したり通行不能になったりという箇所がかなり多数あるようだ。

だからこそ、(前回書いたように)「どんどん崖はコンクリで固めてしまえ」的方向になってしまうのも当然なのだが、それはそれでまた、遮られることなく周囲に風雨が当たるようになる、ということでもある。

●崖崩れまで行かなくても、平地でも山でも、あちこちで木がへし折られていて、今回の台風がどれだけ凶悪だったかがわかる。

10日火曜日、名越切通を少し歩いてみたが、山道に折れた枝が敷き詰められたような状態。

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さらに鎌倉側に降りる手前の西平場には、立派なヤマザクラ(オオシマザクラかな?)があって、毎春見事な花を楽しませてくれていたのだが、平場に面して風がダイレクトに当たったのか、根元近くからぼっきり折られてしまっていた。

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2枚目、折れた幹を見ると、縦に割けたようになっていて、単純に折れるというより、ねじ切られるように折られたらしい。ついでに、在りし日の姿を一枚。惜しいなあ。

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●hn-nhさんから、「台風の風雨に紛れてミツバチの巣を採ろうとしなかったか」(大意)と聞かれたのだが……惜しい!

実は台風が来る前に、下から物干し竿でつついて半分ほど回収してました(笑)。というわけで、スズメバチの上前をはねたニホンミツバチの巣がこちら。

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採ったこの巣自体にハチミツは残っていなかったものの、木にくっついた根元部分にわずかに残っていた分があったようで、物干し竿でつついた時にぼたぼたと少し垂れて来た。もったいない~。

「蜜蠟でできた巣」というと、なんとなくずっしりとしているのではという先入観があったのだが、実際にはハニカム部分は極薄で、おそらく、大きさあたりの重さは紙でできたアシナガバチの巣とそれほど変わりはないのではと思う。

これだけ採ったら、耐熱ガラスのカップ一杯分くらいの蜜蠟が作れるんじゃないか……などと皮算用していたのだが、実際には、熱湯で融かしてペーパータオルで濾して冷まして固めたら、大さじ2杯分くらいにしかならなかった(ペーパータオルのなかでゴミと一緒に固まった分も多かったかも)。

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濾す際に失敗したので、まだ若干ゴミ混じり。ろうそくでも作ろうと思っていたのだが、これじゃカップ入りろうそくは無理だなあ。

●先月収穫したヒメクルミは、バケツの中で果肉を腐らせたり、じゃぶじゃぶ洗ったりを繰り返して、おおよそ核果だけの状態に。いくつか試しで割ってみたが、なかなかよろしい感じ。

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さらに、昨年初めて食って美味かったカヤの実も多少収穫して来た。現在重曹の溶液に漬けてアク抜き中。

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●遡って、更新をサボっていた間の行動記録を少々。

8月26日。逗子市民プラザの映画上映会で「ボヘミアン・ラプソディ」をやるというので(しかも900円で観られるというので)、今更ながらいそいそと観に行く。

私自身は、もともとクイーンはあまり“ピンと来ない”感じで、現役バリバリで活躍していた時代にはまともに聞いたことがなく、誰もが知っているヒット曲に関して「ああ、これってクイーンだな」と判る程度。むしろ、昨年映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしたことで、なんとなく知っている曲が増えた(というよりも、「あ、この曲ってクイーンだったんだ」というのが若干わかるようになった)。しかし、この映画を楽しむには、むしろそれくらいの距離感がちょうどよかったかな、というのが見終わっての感想。

ただ、映画として大傑作かどうかというとちょっと首を傾げる感じ。なんというか、バラエティ番組でよくやる、著名人とか過去の偉人の振り返り再現ドラマの「良く出来た版」という感じで、したがって、物語も登場人物の人間性も単純化され、程よく美化されて、逆に、「これって、ものすごくコアなクイーンのファンが見たら、むしろかなり物足りないんじゃ……」と思った。

映画であってそっくりショーではないので、あまり「そっくり度」を云々しても仕方ないのかもしれないが、登場するクイーンの4人のメンバーのうち、主人公であるフレディ・マーキュリーが一番似ていない気がした。本物よりかなり線が細い感じがしたのだが、後から写真を見比べると体のマッチョぶりはあまり差がなく、どうも顔の下半分のボリュームの違いから来ているのではないかと思う。ロジャー・テイラーが一番似ている気がしたかなあ。ジョン・ディーコンは髪の長い時代はそうでもなく、髪を短くしてからがすごく似ている気がした。もちろん、熱烈なクイーンのファンとは言い難い私の勝手な印象。主人公かそうでないかで、登場する時間も映り方も違うし、というのもあるかもしれない。なお、以上はあくまで顔かたちの問題で、特にステージ上のしぐさやディテール(例えばシーンごとの使用楽器、小物の配置など)はものすごくこだわって再現されているように感じた。

●8月28日。都内で仕事。霞が関の某官庁で資料閲覧・コピーさせてもらい、その後、夕方に神保町で会議だったので、桜田門から皇居前広場を抜けて神保町方面へ歩く。

途中、大手門前まで来た時に、案内板を見ていたら、入り口のおじさんに「どうですか」だったか「まだ入れますよ」だったか、とにかく声を掛けられた。

「竹橋方面に抜けられます?」「(その手前の)平川門から出られますよ」

そういえば、皇居のこちら側も普段から入れる場所なのに一度も入ったことがなかった、これもいい機会かもしれない――と思って、いそいそと入る。この時、午後5時半ちょっと前。閉門時間は6時で、どんなにゆっくり歩いても時間は十分。同心番所とか、百人番所とか、まだこんな建物が残ってたんだなあ、などと物珍しく眺めながら歩き、平川門に向かう長い直線道路に差し掛かったところで、横道から若い警官が出て来て、「もうこの先の平川門は閉めますから、大手門に戻って下さい」と追い返された。

「いや、通り抜けられるって聞いたから来たんですよ」と言っても聞く耳持たず。「そもそもここは、大手門と平川門、どっちが近いんです?」と訊ねると、「平川門のほうが近いですね」と言う。じゃあ平川門に行かせてくれよ、と思うのだが「ほら、もう皆さん引き返してきていますから」と言う。

しぶしぶ大手門まで戻り、受付で顛末を話すとむしろ驚かれて、「すみません」と謝られ、しかも「これからでも、平川門に向かわれますか?」とまで言われたのだが(それはそれでびっくりだ)、「いや、もういいです」とぶっきらぼうに答えて大手門を出た(むしろ大手門受付の対応は親切だったので、八つ当たり的返答をしてしまったのは申し訳ない)。

なお、大手門まで引き返し、お堀の外側を回って平川門外に到着した時には、まだ本来の閉門時間である6時になっていなかった。……皇宮警察許すまじ。

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ニホンミツバチ

●11日、鎌倉浪花家で今年初めての氷宇治金時。ひと夏に一度は食べたい品。

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器が平たい上に山盛りになっているので、こぼさずに食べるのはなかなか難しいのだが、今回はなんとかひとかけもこぼさず食べ切ることができた。ややこしい手順など考えず、素直に上から食べていくのが良策。なお。小豆餡は上、中、下の三カ所に入っている。

●近所の、山の上の住宅地から谷戸に降りる階段道の改修工事が始まり、道幅の半分を潰して保護壁が張られていた。

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ここは、数年前に道の下手の曲がり角の上で斜面が崩れ、その後応急処置のみで放置されていたのだが、どうやら(この際、ということで)階段道に沿った斜面全体をコンクリートの擁壁に変えることになったのではないかと思われる(斜面の藪が刈り込まれ、保護壁が作られている様子から見て)。

確かに防災上はそれが手っ取り早いのかもしれないが、実は階段道の上の方の斜面は、初夏にはヤマユリが咲いてキイチゴ(モミジイチゴ)が実り、初冬にはトリカブトが可憐な花を咲かせる、ちょっとした楽しみがある場所でもあった。もちろん、場合によっては人命にも関わる防災措置と、自然保護というにもおこがましい道端の植生の保全と、どちらが大事なんだと言われれば前者であるのは間違いないが、一方で、「崖面は何でもかんでもコンクリートで固めればOK」的な手法以外に、何か手はないものなのかと、こういう工事を見るたびにモヤモヤする。

●17日。市内某所にクルミ(ヒメクルミ)の実を拾いに行く。

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昨年、FBの逗子市内の知人Tさんに場所を教えて貰ったもの。ただ、昨年は木の下が草刈りされていて拾い放題だったが、今年は草ぼうぼうでガサガサかき分けながら拾うことになった。とりあえずある程度の数は拾えたので、現在周りの果肉を腐らせ中。

●近所のMさんの奥さんが干してある傘を飛ばされ、急斜面の途中に引っかかっていたのを回収。そのついでに、道からは見えづらい、木の幹の陰に大きなニホンミツバチの巣があるのを発見した。縦の長さは少なく見積もっても30cmはありそう。

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クリーム色の長い円盤が縦に連なっている様子に、最初は「縦向きに生えたサルノコシカケ?(そんなんあるのか?)」と思ったのだが、よくよく見直してミツバチの巣であることに気付いた。

もちろん、本来なら働きバチにびっしり覆われているはずなのだが、この巣はスズメバチ(オオスズメバチ?)に襲われて壊滅し丸裸。襲われてまだ間もないらしく、スズメバチが10匹程度、頻繁に出入りしていた。上右の写真にもスズメバチが写っている。

何年か前にも、大切岸上の峠道沿いの木のうろにニホンミツバチが営巣しているのに気付いたことがあるのだが、その巣もしばらくしてキイロスズメバチに襲われていた。ニホンミツバチは蜂球でスズメバチを蒸し殺すという対抗手段を持っているのだが、この様子を見ると、防衛成功率は決して高くはないようだ。ミツバチ頑張れ!(泣)。なお、特にこの巣に関しては隙間でも何でもなく、完全に露出した開放巣だったので、さらに防衛は困難だったはず。

襲われて間もないとすると、今回収すれはハチミツを採れるかもしれない(しかもニホンミツバチの百花蜜!)などとも思ったのだが、急斜面であるためハシゴなどはかけづらく、しかもまだ頻繁にスズメバチが来ていることを考えると、余計な手出しはしないほうがよさそう。

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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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ゴー!

●仕事が滞ったり、かみさんが入院したり(現在はすでに退院)で、半月ほど、主に精神的にわたわた。肉体的には暑さにめげて活動レベル低下中。クブシュもじわじわとしか進まず。

●7月末、ちょっと変わった仕事の用事があり、平和島から釣り船に乗り、豊洲の辺りまでハゼ釣りに行く。もっとも私自身はほぼ、他人がハゼを釣るのを傍らで見ていたのみ。ただ、最後に竿を貸して貰って1匹だけ釣った。魚釣りなんて久しぶり。

(私にとっては)見慣れない、海面から見上げるモノレールやレインボーブリッジがちょっと新鮮。

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豊洲の新市場も初めて見た。オリンピック関連であるらしい施設建設もちらほら。

●6日、横浜・山下公園にポケモンを捕まえに行く。抽選制のイベントで、私は見事落選したが、当選者は2名(だったかな?)の(ゲーム登録上の)「フレンド」を招待することができ、当選した近所のお嬢からチケットが回ってきた。

最寄駅は「みなとみらい線」の元町・中華街駅。時折しか利用しないが、降りるたび、駅の感じに「あー、御堂筋線やー」と思う(えせ関西弁)。

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この「Pokémon GO」のイベントに関しては、テレビのニュースなどでも、おおよそ「このクソ暑い中、カンカン照りの公園に大挙して押し寄せるなんてアホかこいつら」という反応を前提とした取り上げられ方をしていたが、自分自身でも「このクソ暑い中、カンカン照りの公園を歩き回ってアホかオレは」と思ったので、まったく反論はできない。

実際、スマホのポケモンのアプリが頻繁に熱落ちした(安い韓国製端末でハード的にもちょっと頼りないこと、GPSの常時使用が割と熱をもちやすいようであること、イベント後半はポータブル充電器を接続しながらの使用だったことなどにもよる)。

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ペットボトルのお茶2本、セブンイレブンのアイスコーヒー2杯を消費。自分で好んでこんなイベントに行っておきながら何だが、絶対にこんな季節にオリンピックなんかやるべきじゃないと思う。

ちなみに、東京オリンピック招致のPRの文章には、「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と書かれていたそうだ。

……そのアスリートは、たぶん、普通の地球人類ではない。

●突発的に茶葉蛋(チャーイェダン)が食べたくなり、上記イベントのついでに中華街で安物の烏龍茶のティーバッグを買い、逗子駅前のスーパーで特売卵を1パック買ってきて、久々に作成。

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最初に普通に茹で卵を作ってから、スプーンの背などで殻にまんべんなくヒビを入れ、その後、濃く煮出した烏龍茶に五香紛、料理酒、醤油、塩、砂糖などを入れた煮汁に入れてことこと煮たり冷ましたりを繰り返す。ヒビ割れからお茶の色と風味がしみ込んで、殻を剥くと写真のようなマーブル模様になる。

調味料の分量などは毎度作るたびにかなり適当だが、割と美味しく出来た(と思う)。色の染み具合も良し。

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「クルップ」の特に求められていない付け足し

●先日、hn-nhさんがupされたブログ記事で、JR総武線・浅草橋駅に、ホーム屋根を支える古レールのかなり素敵な列柱があること、また、その中に私自身は未見だった独クルップ社製のものが確認できること、などを知った。

→ hn-nhさんのブログ記事、「クルップ

普段横須賀線で都心に出る私は、都心東端や千葉方面に用事がある場合、(横須賀線から直通の)総武線快速を使うので、秋葉原~錦糸町間の総武線各駅停車は少し縁が薄い(それでも全然通ったことがない、というわけでもないのだが)。

22日土曜日にたまたま錦糸町で用事があったついで、また、28日金曜日に市ヶ谷で仕事の打合せがあった帰りの寄り道で、改めて浅草橋駅の古レール柱をチェックしてみた。

(そんなわけで、タイトルに「付け足し」とあるのはhn-nhさんのブログ記事に対してであって、当「かばぶ」に、クルップに関する先立つコンテンツがあるわけではない。前回に続いて、他人のふんどしで相撲を取りまくり。)

●浅草橋駅は高架の対面式・片面ホームだが、上下線の線路の間に柱を立てて支えることで、両面のホーム屋根を一体化し、ホーム前面に柱を立てることを避けている。また、これらの柱はホーム区間の架線柱も兼ねている。ほぼ全景の写真を以下に。

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ともに、下り線ホームの秋葉原寄りの端から写したもの。秋葉原駅から隅田川の架橋手前までの区間、線路はとことんまっすぐ。そのため、比較的短い間隔で立てられた古レール柱が、ビシッと一直線に並んでいて美しい。

縦長写真の手前側で中央の梁がH型鋼に代わっているが、これはおそらく、電車の編成が長くなったことに伴い、秋葉原側に少しホームが延長されたためではないかと思う。

屋根を支えるアーチは基本、ホーム/線路に対して直角方向だが、最も両国駅(千葉方面)側だけ斜めになっている(ちょっと下写真では判りづらいが)。

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これは、駅のこちら側に接する道路(柳橋桜北通り)が線路と斜めに交わっているためで、上下線のホームもやや位置がずれている。

●このように、対面式ホームで中央に柱を立てて両側の屋根を支える形式としては、同じく中央・総武各駅停車の水道橋駅も挙げられる。浅草橋駅が曲線を多用したデザインなのに対して、水道橋駅のレール柱は直線的。

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これはこれで魅力的だが、水道橋駅の場合、ホーム背面の柱に全てカバーが掛けられてしまっているのが、古レール柱ファンとしてはいささか残念なところ。そのため、刻印による古レールの出自もほとんど確認できないのだが、28日、たまたま停車した車内から見えた中央の列柱の一本に、不鮮明ながら刻印が確認できた。状態はよくなく、しかも車内からの撮影なのでドアガラスの反射などもあってますます見づらいが、どうも独ウニオン(UNION)社製らしい。

●一方、屋根の掛け方は全く違って島式ホームの中央に柱が立っている形式ではあるが、JR山手線・鶯谷駅の古レール柱は、曲線的なデザインに浅草橋駅と似通ったものを感じる。

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ちなみに鶯谷駅は、ホーム屋根を支える横方向のレールが、そのまま線路をまたいで架線を支える形式。補強を兼ねているのか、2本のレールの間の三連の輪に、ちょっとでもオシャレを盛り込みたかった気持ちが見える。

なお、田端駅は鶯谷駅とほぼ同じデザインの古レール柱だそうだ。

●話は戻って浅草橋駅。

屋根を支えるアーチ状の垂木(?)部分のレールは、柱部分だけでなく、その中間にもある(つまり、柱の本数のおよそ倍ある)。

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屋根を支えるアーチは、柱部分では両側が一体で、縦方向の棟木にあたるレールは柱部分で途切れている。一方、柱と柱の間では逆に棟木がそのまま通っていて、アーチが両側で別パーツになっている。

一方ホーム背面は、壁の上部がトラスになっている。中央の支柱に接続している“メインのアーチ”は、こちら側でもそのまま下まで接続する柱となり、支柱と支柱の中間にある“サブのアーチ”は、同様にカーブを描きつつもトラスの下部に接続して途切れる。

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なお、支柱は必ずしも等間隔ではなく、支柱間に筋交いの補強が入っている箇所もある。また、支柱間が特に広い箇所では、棟木に沿ってトラスの補強が入っている。ここは下を道路が通っているガーダー橋上の区間で、支柱が立てられないためであるようだ。

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さらについで。この区間の高架は昭和初期のものだが、高架はそれなりに高さがあり、鉄筋コンクリート製のアーチが連続している。上記のようにこの区間は線路がとことんまっすぐなこともあって、改めて眺めると、これまたローマ水道的な美しさがある。下写真は浅草橋駅~秋葉原駅間で撮影。

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2枚目は高架下の建物の建て替えか何かで、珍しく空間がぽっかり空いていた箇所。アーチの支柱上側面には、長円形の窪みが装飾的に並べられているが、長年の補修により、ほとんどの場所で窪みのエッジがとろけたようになっている。左写真では、珍しく上側の一部だけ、エッジのシャープさが保たれている。

●浅草橋駅古レール柱の製造者銘刻印について。

KRUPP:独クルップ社

hn-nhさんの報告にある(そして今回私にとって初見の)独クルップ社の刻印は、ざっと見て回ったところ、上り線ホームで3か所確認できた。

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左端の写真が、hn-nhさんが紹介していたものと同じ柱。ちょうど汚れが文字を浮き彫りにするように入っていて(まるで模型でディテールを浮き立たせる塗装を施したような……)、クルップ(KRUPP)の文字が明瞭にわかる。

一方、2枚目の写真はそれよりもやや不明瞭だが、一応、メーカー名以降の文字も確認できる。「KRUPP 1885(あるいは1883?)N.T.K」と書かれているようだ。

1885年は明治18年。日本で新橋-横浜間に初めて鉄道が開業(1872年)してから10数年しか経っておらず、東海道線全通(1889年)は、さらにその数年後になる。最後のN.T.K.は発注者名で、「日本鉄道」の略号であるらしい。日本鉄道は、日本における鉄道黎明期、初めての私鉄として発足(1881年)した会社で、東北本線ほか、現在のJR東日本管内の多数の路線を敷設。後、1909年(明治42年)に国営化された。

なお、刻印の読み解きに関しては、以前の古レールコンテンツでも触れたが、ほぼ全面的に先達のサイト「古レールのページ」を参考にさせて頂いている。以下のメーカーについても同様。

UNION:独ウニオン社

ウニオン社(またはドルトムンター・ウニオン、Union, AG für Bergbau, Eisen- und Stahl-Industrie、→ドイツ語版wikipedia)は、浅草橋駅で、おそらく最も多数、刻印が確認できるメーカー。

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1枚目、2枚目は同じで「UNION D 1886 N.T.K.」。3枚目は製造年が1年早くて1885年。4枚目は頭の「UNION」ははっきり判るが、それ以下はよく読み取れない。Dは会社所在地のドルトムントを表すらしい。

今でこそ聞かない企業だが、鉄道黎明期の日本は結構お得意さんだったらしく、同社のレールは割合あちこちの駅で確認できる。私の身近なところでもJR横須賀線の横須賀駅や鎌倉駅にあり、特に横須賀駅のUNION社製レールでは、浅草橋駅と同じ発注者N.T.K.(日本鉄道)と、官営のI.R.J.(Imperial Railway of Japan=日本帝国鉄道とでも訳せばよいか?)のものとが混在している。

CAMMEL:英キャンメル社

キャンメル社レールは、私が(鎌倉駅で)古レールの刻印を初めてきちんと確認し、この方面への興味を深めるきっかけになったもの。鎌倉駅の同社製レールとの出会いについてはこちら

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上の写真2枚とも、文字はほとんど潰れかけていて見えないのだが、キャンメル社製の刻印の特徴である、「SHEFFIELD(シェフィールド、会社所在地)」「TOUGHENED STEEL(強化鋼)」の文字列の一部が確認できるので、同社製とみてまず間違いないと思う。

BARROW:英バロウ社

下り線ホームで確認できたもの。同社製のレールは鎌倉駅でも確認できる。

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文字ははっきり読み取れないが、「BARROW STEEL Sec166 1893 I.R.J.」だろうか。実のところ、はっきりと読めるのは頭の「BA」と、途中の「166 1893」くらいだが、Sec166は同社独自のレール規格番号らしく、これでバロウ社とほぼ確定できる。

もしかしたら上記以外の会社製と思われるものもあったが、文字が不明瞭で確定はできなかった。

●日本で国産のレールが生産され始めるのは20世紀に入ってからだそうで(1901年末、官営八幡製鉄所による)、明治の前半、レールは輸入頼りだった。

浅草橋駅は昭和初期、1932年の開業。それに近い時期、1939年の日暮里駅の写真(wikimedia commonsより)に、よく似た古レール柱が写っているから、浅草橋駅の古レール柱も、開業当時からの物だろうと思う。ちなみに日暮里駅の古レール柱も、一部は撤去されてしまったもののまだそれなりに残っている。同駅の古レール柱探訪はこちら

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おそらくこの時期、各路線でレールの更新が進み、日本の鉄道の“初代”のレールが廃材として大量にストックされていて、それが駅の屋根や跨線橋の柱として再利用されたのだろう。特に通勤に使われるようになった都心の各駅は、田舎の駅と違って利用者も多く、そのために当時からホームの大部分に屋根が架けられたのではないかと思う(田舎の駅の場合は屋根そのものがなかったり、改札付近に申し訳程度にしかない状態から段階的に屋根を増やしていく例が多く、意外に都心よりも屋根が新しいものが多い気がする)。

(6/30追記)

公益社団法人 土木学会のデジタルアーカイブ、「戦前土木名著100書」に「高等土木工学 第十巻 鐵道工学」という本が収められている(平井喜久松・岡田信次著、常盤書房、昭和6年発行)。同書中、「第七編 停車場」に「6.乗降場(Platform)」の一節があり、ここに、都心の駅における上家(上屋)例の図版が添えられている(以下、同アーカイブより引用)。

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残念ながら浅草橋駅については載っていないが(そもそも駅の開業がこの本よりも後なので当たり前だが)、デザイン的に似たところがある鶯谷駅と日暮里駅(下から2段目)と、屋根の掛け方の形式が似ている水道橋駅(下段左端)は掲載されている。

鶯谷駅の架線架部分の「おしゃれリング」が当時からのものであること、(上の写真でもよく見れば確認できるのだが)水道橋駅は細かくトラスを組んで、妙に頑丈に作られていることなどもわかる。出版時期から、水道橋駅の古レール柱は浅草橋駅よりも早く作られていることが判るが、もしかしたら、水道橋駅の経験から「ここまで丈夫にしなくてもいいんじゃね?」と、構造が簡素化された可能性もあるのかもしれない。

なお、ここに載っている上屋に関しては、個々の駅の架構の材種(鉄骨なのか木材なのか、あるいは鉄骨だとしてそれが古レールなのか否か)は付記されていないが、本文中に、「材料は木材、鐵材が多く近時古軌條を利用せるもの多し。」と書かれている。どうやら、都心各駅の(ちょっと優美な)古レール柱建築は、大正末期~昭和初期くらいに作られたものが多いようだ。

なお、このような資料があってオンラインで閲覧できることについては、サイト「Golgodenka Nanchatte Research」の「古レール調査報告書」、「古レール JR 東日本中央本線【水道橋駅】」で知った。私なんざぁまだまだヌルイのである。

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小坪高角砲台補遺(その4)

●数日前に「小坪高角砲台補遺(その3)」を書いたばかりで、当分は披露山の砲台に関して言うことはないな、と思っていたのだが、その途端にhn-nhさんが、「逗子フォト」に披露山公園建設中の写真が新たにアップされているという記事を上げてびっくり。

→ hn-nhさんのブログ記事、「小坪高角砲台 2019 - 1957 - 1946

逗子フォト」に関しては、猿舎になる前の砲台の写真を引っ張ってきた「小坪高角砲台補遺(その2)」の時にも触れたが、逗子市役所サイト内に開設された写真アーカイブで、今昔の逗子の写真をストック、公開している。今回話題の写真に関しては、久木在住の小泉さんという方が提供された一群の写真の中にあったもので、今年の4月半ばに公開されている(以下、モノクロ写真はすべて「逗子フォト」より借用)。

hn-nhさんの記事と重複してしまうが、砲台の原型が写っている写真は1枚。よく見ると、画面右上辺りに頂上広場に通じる道の出口が見え、現:花壇の砲台から、指揮所跡を利用して建設中の現:レストハウスを写したもののようだ。改めて、ほぼ同じアングルで現状の写真を撮ってみた(厳密に比較対照せずに「だいたいこんなもの」で撮ったので、視線の角度など微妙にずれていて残念感があるのはご勘弁を)。

現在、頂上広場の周囲は木立に囲まれているが、当時は広々と見渡せる。建設中のレストハウスの向こうに見えるのは、さらにこの何年後かに新興住宅地の「亀ヶ岡団地」として開発されることになる名越の山々。

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この花壇に関しては、以前にhn-nhさんがわざわざ周囲の池に手を突っ込んで調査しており、大谷石の縁石の下にある池の外周壁は斜めになっていて、すり鉢状のコンクリートの砲座をそのまま利用して作られているらしいことが判っている。

左写真に写っている砲座は、現:猿舎と基本的に同一形状だったことがこの写真でも確認できるが、よく見るといくつか差異がある。下写真は「小坪高角砲台補遺(2)」で引用した、現:猿舎のものと思われる砲台の写真(確実にそうだと言える証拠は写真には写っていないが、とりあえず、壁龕や階段などの位置関係は現状の猿舎と同じ)。

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目立つ差は、

▼現猿舎では、上部がアーチ型になった穴(現状はコンクリートで埋められている)の向かって右側に階段があるが、現花壇の砲台ではそのようになっていない(航空写真を見ると、上写真では画面の外になっている、アーチ型穴の左側にあったようにも見える)。

▼現猿舎では、砲弾仮置場の壁龕が45°間隔で並んでおり、上部がアーチ型の穴は、そのうち一つの壁龕と置き換わる形で配置されている。しかし、現花壇の砲台では隣の砲弾仮置場の壁龕と接近しており、明らかに配置の間隔が違う(むしろ猿舎における階段と壁龕の位置間隔に近い気がする。方位はどうあれ、階段とアーチ型穴の位置が入れ替わっている――つまり階段が壁龕と45°間隔だったりする可能性もありそうな。考えすぎ?)。

▼現猿舎と現花壇を比べると、アーチ型穴の上端と、砲座自体の上端との間隔が猿舎では狭く、花壇ではやや広い。

砲弾仮置き場の壁龕と明らかに形状が違うアーチ型の穴は、何か別の用途を持っていたと考えられるのだが、現状では謎。しかし、ほぼ同一形状である武山高角砲台(砲台山)の砲座にはこのような形状の穴はないから、両砲台に設置された四十口径八九式十二糎七高角砲にどうしても必要なものというわけではなく、披露山なりの事情(必要性)によるものと考えるべきか(もちろん、建設時期の違いで、改良によって加えられた、あるいは逆に省略された、という可能性もある)。

前記の猿舎・花壇の両砲台のレイアウトの差と関連するが、この上部がアーチ型の穴が、猿舎・花壇とも、おおよそ指揮所の方向にあるというのも気になる。以前に書いたように、地下通路入口という可能性もありそうだが……一方で、地下通路を作るなら退避所/詰所の奥に入口を作った方がいいんじゃね?という気もする。

また、この写真の時点で、猿舎・花壇とも、このアーチ型穴は中が埋まった状態になっているようなのも気になる。もしかしたら弾薬を砲座の上から滑り落とす搬入口? いや、それにしては、花壇のほうの写真で、外側地面に穴が開いているように(あるいは、開いていたように)見えないし……。

いずれにしてもこの辺は、そのものズバリの砲台資料でも出てこない限り判りようがなく、ああだこうだ言っても仕方ないかもしれないのだが、まあ、妄想の楽しみということで。

●冒頭載せた写真は、「建設中の披露山公園(昭和32年)」と題された組写真4枚のうちの1枚で、残り3枚は次のような感じ。

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1枚目は、最初の写真よりもさらに(建設中の)レストハウスに寄って撮ったもの。次の写真は、最初は、現展望台下のテラス部分かと思ったが、四角いコンクリート製の台座のようなものが見えるので、やはり建築中のレストハウスの写真のようだ。遠景に江の島が見える。4枚目の写真は現状、レストハウスの脇から、おおよそ江の島方向を向いて撮ったもの。360°周囲が見渡せたであろう高角砲台当時~公園建設時と違い、特にレストハウス側は木が茂ってまったく見通しは利かない。

●前回「小坪高角砲台補遺(その3)」のそのまた補遺のような写真をいくつか。

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猿舎を囲む(丸太を模した)コンクリート柵の土台は、基本、柱一本ずつ独立しているのだが(左写真)、なぜか退避所/詰所上の(猿舎中心に向かって)左側だけは土台が連続している(右写真)。柱の下の地下室の存在と関係しているかも。

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退避所/詰所上に追加されたコンクリート製天井の外側に、丸く二カ所出っ張ったコンクリート再掲。これに関して、hn-nhさんから「猿舎のためにかつて立っていた立て札か何かの跡では?」のコメントを頂いた。言われてみればそんな感じがする!

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以前貼った写真にもぼんやり写っていたのだが、光線の都合で、退避所/詰所入り口が、(砲台時代のままに)大きく窪んだ中の右側に(だけ)開いているという状態がよく判る写真が撮れたので2枚ほど。四角い檻に囲われた窪みの入り口部分は、現在は手前側が土間、後半はコンクリートで覆われているようで、砲台時代には一段窪んでいたのが、砲台床の他の部分と同一レベルになっているようだ。四角い檻の向かって右には、埋められた「上部がアーチ型の穴」があるが、この写真では輪郭はボンヤリしている。

●「逗子フォト」に追加された写真には、上の「建設中の披露山公園(昭和32年)」のほかにも、1955~1957年頃の披露山を写したものが何枚かある。それらについても、現状比較写真を撮ってみた。

▼「披露山坂道(昭和31年頃)」とされる写真。キャプションに「坂の突当りは現在の駐車場です。」とある。最初は「この写真の手前側、坂を上ったところが駐車場?」と思ったのだが、道の曲がり具合から見てそうではなく、道の向こうが駐車場(兵舎跡)、手前が山頂広場のようだ。よく見ると、少女たち(今は70代?)のわずかに後ろの崖面に、指揮所(現レストハウス)地下への入口である、崖が途切れた部分らしい箇所が確認できる。

撮影は上の公園建築中よりちょっと古いので、この時は頂上広場にはまだ手付かずの砲台跡があったはずだ。この女の子たちが砲台の縁に並んで腰かけた写真とかを撮っておいて欲しかったなあ。

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▼「披露山山頂付近(昭和30年前半)」。上写真と同じ山頂への最終アプローチの坂を逆方向から撮ったもの。舗装はされていないが、勾配は緩やかで道幅もしっかりある。近隣の他の砲台の“砲台道”も、元は同じような状態だったのではと思われる。

もっとも、この写真が撮られたのは戦争が終わって約10年。もしも公園が整備されるまでただ放置されていたなら、“砲台道”ももっと荒れ果てていたはず。しかし、道はきちんと維持され、この先は頂上広場しかなく行き止まりであるにかかわらず(上写真でもはっきりわかるが)車の轍も見える。戦後の復興期、資材置き場か何かとして利用されていた可能性もありそう。

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「新緑の披露山ハイキングコース(昭和32年)」と題された写真2枚と、その現状と思われる地点の写真。

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一組目のカーブに関しては、他に、見下ろすようなアングルで撮れるところがないようなのでほぼ確定? 2組目、若干ポイント的に自信はないが、現状写真は披露山入口バス停からちょっと上った「けやきの広場」横あたりから撮ったもの。ちょっと電信柱と植え込みが邪魔(6/25、写真差し替え)

▼現在の県道311号線(すいどうみち)を「小坪入口」信号で折れ、昭和初期に開削された切通を抜け、小坪の大谷戸を通って漁港方面に行く道を「小坪街道」と呼ぶのだということを、「逗子フォト」で初めて知った。地の人は今でもそう呼ぶのだろうか?

というわけで、「小坪街道(昭和32年)」と題された写真。上の2枚の写真よりも、やや上った辺りから大谷戸を見下ろして撮ったもの。現状写真では家に遮られて見づらいが、道の曲がり具合から見て、地点的にそう大きくは外れていないと思う。

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写真の上方向、道なりに右に行くと切通を抜けて久木~逗子中心部へ。左に折れる道は一の沢。現在は山の上に拓かれた「亀ヶ岡団地」に通じる。

▼「披露山登り口(昭和30年)」。上写真で左に折れる道の出口あたりから、その反対側を撮ったもの。左右に伸びるのが「小坪街道」。この写真では左手の先にある切通は1928年(昭和3年)に開削されたそうなので高角砲台の設置前に「街道」はあり、正面の坂が“砲台道”のスタート地点ということになる。もっとも、披露山中腹にはもともと人家や耕作地、神社などもあり、同じ道筋で細い道はあったかもしれない(6/25、現状写真差し替え)

現在でもこの道は、披露山上の披露山庭園住宅や披露山公園への「表玄関」となっている。なお、現在はこの写真地点の左右に京浜急行バスの「披露山入口」バス停がある。

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どん詰まり公園

●鎌倉市大町の隅、滑川に突き当たる路地のどん詰まりに、「こめ町児童公園」という猫の額ほどの小公園がある。

これがまた、「そもそも公園としての機能を果たす機会があるのか?」と思うような寂れた公園で、路地の突き当りの急な数段の階段を降りた河岸にある。入り口横に掛かった札を見ると日中しか開放されていないようなのだが、実際には、それ以外の時間でも金網フェンスのドアは閉まったままのようだ(少なくとも日中は施錠されてはいないので、扉のロックを外して自由に入ることはできる)。

先日の「現代アートじみた遊具の木馬」の話題で、hn-nhさんから「公園の動物遊具を密かに追跡している」という話を聞き、以来、何とはなしにその手の物に注意しているのだが、このこめまち公園にある動物遊具は、(公園の立地とも相まって)、何となく恨みを含んでいるかのような“うらぶれっぷり”がなかなかよい。

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なお、hn-nhさんも私もとりあえず「動物遊具」と呼んでいるが、この手の物は実際には動物以外の形状のものもあり、写真のような「動かないもの」はひっくるめて「象形遊具」というのが正確な一般名称であるようだ。実際にこれを使って何かの遊びをするよりも、何かの遊びをする際の障害物になる場合の方が多いのではないだろうか、というのは別として。ところで、このキリンのほうは、もしもまたがったまま首を滑り降りたりすると股間を強打しそうでちょっとコワイ。

一方、同じように動物(あるいはそれ以外)の形をしていても、脚部分がスプリングで前後左右・上下に揺らして遊べるものは「スプリング遊具」、またそれとよく似ているが、スプリングもしくは重力利用で前後にのみ揺らせる形状のものは「ロッキング遊具」というらしい(したがって、以前に紹介した「現代アートじみた木馬」は、「スプリング遊具」ということになる)。

細かく名称が区別されているのは、基本、公園がお役所管轄で設置物にも細かく決まりがあるためではと思う。

●たぶん、この程度の小公園は、設置基準的には「街区公園」というものに該当するのだと思う。その要件は、

もっぱら街区に居住する者の利用に供することを目的とする公園で誘致距離250mの範囲内で1箇所当たり面積0.25haを標準として配置する。(国土交通省サイトより)

というものだそうな。しかし、そうした基準に合わせてなんとか(そしてお役所仕事的に)スペースを確保しようとした結果、こういう、「その路地に住んでいる人しか存在に気付けないようなどん詰まり公園」が誕生することになる……のだと思う。

●という具合に、本来はなかなか存在に気付きづらい「どん詰まり公園」なのだが、「ポケモンgo」をやっていると、この手の小公園が(アイテム補充などを行える)「ポケストップ」に設定されていることが多いために、妙に訪れる機会が増えた。

そんなわけで、近所にある似たようなどん詰まり公園その1、「久木風早公園」。横須賀線の線路脇にあり、ご覧のような路地をくねくね辿って行った先にある。ただし上の「こめ町児童公園」よりは若干広く、線路際にあるためにやや開放感もあり、細い路地の先にあるにしては、実際に子供らが遊んでいるところに行き合わせたこともある。

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「こめまち公園」のような、うらぶれた動物遊具はなく、その点ではハズレなのだが、設置物が微妙に変。

「風になびく鉄棒」や、分類上「シーソー」になるのか「スプリング遊具」になるのかよく判らないものとかはいいとして……。

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下1枚目のベンチ……なのは確かだと思うが、右側の(明らかに座るのに邪魔な)枠は何のためにあるのだろう? こちら側は荷物置き専用? 2枚目は……これもベンチなのだろうか? 3枚目となると、いったい遊具なのか、それとも自転車スタンドか何かなのか。あるいは、「自由にこれを使った遊びを考えてみよう」という深謀に則って設置された謎オブジェなのか。

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●近所のどん詰まり公園その2。披露山の山すそにある「かけ山公園」。マンションと山際の崖の間を入った先にあり、そもそも立ち入るだけで不審者扱いされそうな立地。

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そして猫の額ほどの空間に、量産品の動物遊具(スプリング遊具)が2つ。……青はカバのようだが、こちらはライオン? ちょっと髪形を変えてみたスノーク?(もちろん、スターウォーズではなくムーミンのほう)

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遊具を配置することによって、逆に寂寥感が増すという絶妙の空間デザイン。

●どん詰まり公園その3。池子の山の上の住宅地の隅にある「アザリエ第二小公園」。いや、うん、確かに「小公園」だね、としか言いようがないような……。

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小坪高角砲台補遺(その3)

20190619_165040 ●歯医者のあと、散歩がてら披露山公園へ。

砲台跡が藪に占領されているのと、猿に占領されているのと、どちらが観察しやすいかと言えば、当然ながら後者。ただし、これからの暑い季節、猿の檻は風向きによってはかなり臭い。

披露山公園の小坪高角砲台に関しては、これまでにもしつこく取り上げているので、いまさら付け加えることなどあまりないのだが、重箱の隅的事柄を少々。

なお、右は、いつもとちょっと趣向を変えて、展望台から見下ろした猿舎砲座。ここの展望台に上がる人は江の島や富士山を見るのが普通で、わざわざ猿舎を見下ろしたい人はあまりいなさそう。とはいっても桜の枝に遮られるので、大した景色ではない。

●待機所?退避壕?……だったと思しき小部屋上について。

現在は四角い檻を付けて、おそらく猿の一時隔離場所(普段は出入り自由)として使っている場所だが、ここは本来、砲台山(武山)などと同様、一段外側に窪んでいたことは、「逗子フォト」に掲載された猿舎への改修前の写真で判る。

これについて、改めてじっくりと写真を撮ってみた。1、2枚目は同じ写真で、2枚目は後付けと思われるコンクリートの外周をなぞってみたもの。

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新たに設けられたコンクリートの天井は、よく見ると、内側は他と合わせた円弧ではなく、一直線になっている。また、3枚目、4枚目写真に見るように、この天井部分は本来のすり鉢状構造とコンクリートの質がちょっと違っていて、その継ぎ目が確認できる。

●改修前の写真で確認できる、一二糎七高角砲の台座を据えるための穴は、現在、檻の中心を支える柱の基礎兼水飲み場となっているが、改めて見てみると、もともとの穴より一回り小さい、円筒形の構造を中心に据え付けて、周りは単純に土か砂で埋めてあるようだ。

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また、すり鉢状の内壁のうち、特に西側の一部は、この砲座のコンクリートを打設した際の型枠材の跡が確認できる(写真は金網のせいで不明瞭だが)。

●話は変わってここ最近見かけたいきものなど。

日曜日はものすごい風で波も荒く、そのため、何か珍しいものでも打ち上げられているかもしれないというスケベ心で、月曜日、材木座海岸を歩く。残念なことに特に拾い物などなかったが、下のような、半透明の房を見つけた。

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えーっと。これは……タコのタマゴか何かかな? と思ったのだが、どうやらアオリイカのタマゴであるらしい。

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上1枚目は火曜日に名越切通で見たクロアゲハ。逗子では黒いアゲハは数種類いて、意外にぱっと見で判別しづらい時があるのだが、これに関しては、

  • 目立つ白い紋などがない(あればモンキアゲハやナガサキアゲハ)
  • 胴体の横に赤い模様がない(あればジャコウアゲハ)
  • 短めだが後翅にちゃんとシッポがある(なければナガサキアゲハ)
  • 全体が構造色で光っていない(構造色できらめいていればカラスアゲハ)

などからクロアゲハと同定。これも温暖化の影響なのか、少なくとも最近近所で見かける「黒いアゲハ」は、モンキアゲハが多数派のような気がする。

2枚目は披露山の山道で咲いていた、これまで見たことがない花。特に頂部の葉の付き方がトウダイグサ科っぽいなあ、と思ったがハズレ。花の黒い模様が手掛かりになった。アストロメリア(ユリズイセン)の一種で、アストロメリア・プルセラという花であるらしい。オレンジ色のユリズイセンはたまにどこかの庭からこぼれ出て野生化したものを見掛けることがあるが、この赤くて細長いものは初めて見た。もちろんこれも(南米原産の)外来植物。

3枚目も意外に種名調べに手間取った。キリンソウ。浪子不動の近くで。4枚目は逗子の砂浜に漂着した浮き玉に付いていたエボシガイ。

●久木川に掛かる人道橋。

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以前から、「実はこの橋は、逗子独立運動が激しかった頃に派遣されてきた国連PKO部隊の人道的支援によって架けられたものだ」というウソ話のネタを考えているのだが、そもそも逗子住民以外には(というか、ほとんどの逗子市民にとっても)「逗子独立運動って何なのヨ」と言われそうなので、誰にも語られることなく終わること必至。

ちなみに、逗子銀座商店街に近い亀井児童公園には、本当に「逗子独立運動発祥の地」という記念碑が立っている。

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なお、知る人ぞ知る「逗子独立運動」は、ある種、小坪高角砲台同様の「軍事遺構」のドラマのようなもので、それはそれとして語り継ぐべきだろうと思う。7月1日は「逗子独立記念日」。同日、市役所の会議室で「令和元年度逗子独立記念講演会」がある。

●同様のヨタ話として、鳩サブレ―ほどではないものの鎌倉土産としてそれなりに有名かつ親しまれているお菓子「かまくらカスター」は、「第7騎兵隊を率いてインディアン諸部族連合を奇襲、返り討ちに遭って惨敗したカスター将軍が失意のうちに太平洋を渡り、明治期の日本で作ったお菓子が元」というのがある。しかし、その話をしたところ、息子の嫁に「へぇ~、そうだったんですかぁ~」と素で返されてしまった。不発。

●先月末、逗子海岸に面する披露山下の崖が崩落。先述の砲台訪問から浪子不動方面に降りたので、その崖崩れ現場を(今頃になって)見た。

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すでに1か月近く経っているのだが、崩れた土砂(岩)は片付けられておらず、破壊されたネットやフェンスもそのまま。大々的に崩れるとこんなにひどい有り様になるのだなあ、という状態が維持されている。

逗子鎌倉の山の地質は柔らかく、一方で山すそは急斜面や削られた崖面が多いので、頻繁に崖崩れが発生する。そのため、コンクリートで覆う防災工事も多いのだが、これはこれで見た目が無粋なだけでなく、表面の植生が失われることによるデメリットも大きい。もうちょっと何とかならんのか……。

●ついにコレが届いた。先週、横浜VOLKSに引き取りに行った。一度箱を開いて、中をチラ見して、「うあー、うわー」と言ってそのまま箱を閉じただけ。いや、うん、なかなか素敵なキットという気はします。

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衣笠高角砲台

●14日金曜日。午後だと勘違いしていた医者の予約時間が実は午前中だったことに当日になって気付く(マヌケ)。

おかげで午後が空いたため(貴重な梅雨の中休みでもあり)、衝動的に衣笠まで出掛けることにする。

●三浦半島は軍港・横須賀を擁し、かつ東京に近いこともあって多数の対空砲陣地があった。そのうちの多くは戦後の開発で消失しているため、逗子の披露山や武山の砲台山、あるいは先日行った二子山など、しっかり遺構が確認できるところはそれなりに貴重な存在と言える。

ちなみに、hn-nhさんがレポートされている都内の「青戸高射砲陣地」等は陸軍のもの。三浦半島の防空は基本、海軍の管轄であったようで、したがって名称も「高角砲台」となる(対空砲については、陸軍は高射砲、海軍は高角砲と称した。東大が惑星、京大が遊星と呼んで張り合ったのと似たような話)。

さて、上記の披露山や砲台山以外にも、衣笠の近くの山の上に同型のコンクリート製砲台が残っていることを最近知った(このへんの情報の虎の巻として利用させてもらっているサイト「東京湾要塞」でもしっかり紹介されているのに、なぜか今まで気に留めていなかった)。

場所は、横須賀市平作と横須賀市衣笠町のほぼ境界にある山中で、現在はその南側を横浜横須賀道路(いわゆるヨコヨコ)が通っている。

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地図はOpenStreetMapから(クリックで別タブで拡大)。地図中に示したポイントは、

  1. 衣笠高角砲台のおおよその地点。
  2. 現在は藪に埋もれている砲台道最終アプローチの入り口。
  3. JR横須賀線「衣笠」駅。
  4. 最寄りバス停その1。衣25系統「しょうぶ園」バス停。
  5. 最寄りバス停その2。「衣笠城址」バス停(須/衣2・3・4・5系統など多数)。ここまで歩くなら、衣笠駅まで歩いてもあまり変わらない気も……。
  6. 衣笠城址。

●恒例の、終戦直後の米軍撮影の空中写真(国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。写真整理番号USA-M46-A-7-2-129、1946年2月15日撮影)。

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右は、同じ空中写真をOSMの現況地図の中にはめ込んでみたもの。左上の特徴的な道の分岐を目印にしてはめ込んでみたもので、縮尺、角度には若干のズレがあるはず。あくまで「おおよそこんな感じ」ということで見て欲しい。

毎度の横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(終戦時に装備整理のために作成されたもの)によれば、配備されていた高角砲は「一二糎七」2基4門(披露山や武山砲台山と同じ、連装の四十口径八九式十二糎七高角砲)。上の写真では、「E.T.」顔をしている山頂広場の左右の目の部分がコンクリート製の砲台で、ここに据えられていたものと思われる。ほか、リストには

  • ステレオ式測距儀 1基
  • 弾薬 540発
  • 九六式一五〇糎探照灯 2基
  • 二十五粍二連装機銃 2基

などが記載されている。また、やはりよく参考にさせて頂ている「横須賀周辺の防空砲台と特設見張所」の「衣笠防空高角砲台」のページによれば、ヨコヨコの南側の2カ所のピークにも、聴測所らしき施設があった可能性がある、という。

●現在は公園として整備されている披露山(小坪高角砲台)、海上保安庁の施設があるのでそれなりに常に人の手が入っている砲台山(武山高角砲台)、KDDIの施設へのアクセスおよびハイキングコースとしてこれまた手が入っている二子山上ノ山(二子山高角砲台)と違って、この衣笠高角砲台は、現在、特別何もない。

それだけに関連施設の遺構などもかなり残っている――ようなのだが、反面、ほとんど藪の中に沈んでいる。

以前、初めて砲台山に行った際に、hn-nhさんに「夏に調査に行くなよ……」と呆れられたのだが、まさにその通りで、実際、今回は深い藪に遮られて目当ての山頂までは行きつけず、一部の施設跡しか確認できなかった。いや、うん、今回は「とりあえず場所だけでも確認出来たら」と思っただけだから(←言い訳がましい)。

●とりあえず、JR衣笠駅から「しょうぶ園循環」バスに乗って「しょうぶ園」バス停まで。ヨコヨコ下り線の横須賀PA真裏を通り、砲台へのアプローチを目指す。

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そしてこれが砲台への入り口地点(上の地図②)。きちんと道に見えているのはヨコヨコに突き当たる現在のハイキングコースで、左手の藪がちょっと窪んで見えるところが元の砲台道。ぱっと見には普通の藪でしかなく、最初は気付かずに通り過ぎてヨコヨコ脇まで行ってしまってから、行き過ぎたのではと気付いて引き返し、なんとか発見。「え? もしかしてこれが入り口?」と、この時点ではっきりと及び腰。

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入り口はほとんど藪と見分けがつかなかったが、意を決して分け入ってみると、それなりに踏み分け道らしいものが続いている。

現状はそんな感じだが、よく見るとある程度平坦な部分に幅があり、もともとはそれなりの道幅であったらしいことは判る。もちろん、当時の資材/弾薬運搬が完全に自動車化されていたかどうかは判らず、もしかしたら大八車だったかもしれないが。現在は半ば藪に埋もれているだけでなく、道を塞ぐ倒木も数カ所にあって、乗り越えたりくぐり抜けたりする必要があった。

歩いていると、頻繁にクモの巣に顔を突っ込む。このへんの山道でのハイキングではしばしばあることで、そのため、歩く方向に棒を振りながら進むのが良いのだが、特に今回は藪に分け入ってしばらくは、適当な棒が拾えなかった。また、棒を振っていても、よほど注意していないと完全にはカバーしきれない。

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途中、山側に大きな壕が口を開けている。実は行きには見落として、帰りに気付いて撮った。大人が十分立って入れるほどの高さで、入り口は素掘りの感じだが、この地を調査した先人のレポートを見ると、中は綺麗にコンクリートで巻かれているらしい。弾薬庫跡か。サイト「東京湾要塞」では「防空壕」とし、また、発電機が置かれていたのではと推察している。さすがに夕方、明かりもないじめじめした洞窟に一人で入る度胸はないので、入り口を写真に収めたのみ。

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木立の切れ間から横浜方面が見えた。角度的には、先に二子山高角砲台の記事で、山頂からの眺望として貼った写真と似たような感じ。位置的にはこちらのほうが約5km南東になる。

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山腹を逆のの字に巻いて進む「元砲台道」を進むと、何か施設の基礎らしいコンクリートの構築物に遭遇。小さな建物だったのか、それとも大きな建物の土台の一部なのか、とにかく見えるのはテトリスの駒っぽい段々形状のもの。左写真は手前から、右写真は通り過ぎて振り返って逆方向から撮ったもの。

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その他にも、施設の基礎の一部らしいものや、コンクリート製の溝などが見え隠れしている。危ないのは溝で、一度気付かずに足を突っ込んで転びそうになった。こんなところで脚でも折ったら、人は来ないし遭難必至。

そしてさらに踏み分け道を進むと……。

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聴音所なのか、指揮所なのか、とにかく方形の建物跡。大きさは4メートル四方くらい? 道を辿って正面に入り口がある。ぱっと見はコンクリート製だが、近付いてよく見ると、破損した部分から、内部はレンガ積みであることが判る。側面下部には2カ所の小窓(通風孔?)があった。

この施設は山頂広場への道をやや外側に外れたところにある(と、先人の調査記録にある)ため、少し引き返して、内側に進む分岐を探す。半ば藪に埋もれた本道(らしきもの)をなんとか発見。そちらを改めて進んだのだが、落ち葉の重みで道筋に笹薮がかぶさってしまったりして思うように進めず、とりあえず今回はその先に進むのを断念して引き返した。この間、「夏に行くなよ……夏に行くなよ……」というhn-nhさんのツッコミがエンドレスで頭の中を流れっぱなし。

距離的にはもうほとんど山頂広場(の砲台跡)に近いところまで行っていたはずで惜しいとは思ったが、山頂に着いてもそちらも藪の中であろう(←すっぱいブドウ)ことを考えると、もう少し見通しがよくなりそうな冬季に再訪するネタとして残しておいた方がいいか、とも思う。というわけで、二子山山頂の先日発見できなかった遺構とともに、今度の冬に向けての課題とする。

●踏み分け道の入り口地点まで戻り、来たのとは逆方向、衣笠城址方面に向かう。逗子の小坪住民としては、源平合戦序盤、三浦(源氏方)と畠山(平氏方)による小坪坂の合戦に続いての衣笠城合戦の舞台となったところで、一度見たいと思っていた(とはいっても、近くに行って案内板を見て思い出した程度)。

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1枚目は、砲台跡方面から辿ってきた道筋が人里に出たあと、衣笠城本丸跡へ上がる入り口にあった石碑(ケムシ付き)。2枚目は本丸があったと思しき平場。3枚目は本丸跡下にある大善寺門前の庚申塚。

そのあとさらに坂を下ってしばらく歩き、「衣笠城址」バス停(衣笠城址からだいぶある!)からJR横須賀駅行きバスに乗って帰る。途中、不入斗(いりやまず)のターチー模型が営業中なのを見掛けた。いつか一度行ってみたい気がする。

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三浦アルプス

●ここ最近の三浦アルプス(集中)山歩きに関しては、前回の記事でひとまとめで書いてしまうつもりだったのだが、だらだら長くなって砲台話だけで終わってしまったので、残りのあれやこれや。

先月からの三浦アルプス行は以下の5回。梅雨が来てしまうと足元がグズグズになるし、藪も深くなるのでこのルートはまたしばらくおあずけかな……。

●1回目:三浦アルプス南尾根ルート初挑戦。葉山・風早橋からスタート。葉山教会の横から山道に入り、仙元山を皮切りに東京湾側まで歩く……つもりが、2、3ピークを過ぎたあたりで転機が急変、雷雨に見舞われる(この日、5月4日は天気が変わりやすく雷雨の怖れありの予報が出ていたのに甘く見ていた)早々に断念して実教寺-葉山消防署方面に下山。

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上左は仙元山山頂近く。他の多くのアザミが秋に咲くのに対して、初夏に咲くノアザミとコアオハナムグリ。上右は仙元山山頂からの眺望で正面がたぶん森戸海岸。遠景に江の島。

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「葉12」標識ピーク手前のキツイ階段。京浜急行の「三浦アルプストレッキングガイド」によれば約250段で、この頃にはざっと一雨来た後で足元がすでに濡れている。写真は途中で一息ついて「来し方行く末」を撮ったもの。もちろん、階段があるだけまだマシ。三浦アルプスの山道は、ロープ頼りの急斜面もかなり多い。

●2回目:逗子、沼間の山の上の住宅地「グリーンヒル」までバスに乗り、その奥から山に登って北尾根へ。馬頭観音、「二子山山系自然保護協議会/二子山山系主要分岐図」の標識FK3を経由して、乳頭山手前から田浦梅林に降りる。

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このルートを歩いたのは、昨年、クサイチゴをつまみ食いして味を占めていたため。今年は家まで持ち帰った(上左写真)。上右写真は田浦梅林から降りたあと、京浜急行をくぐる小ガード。スケルトンでなんとなくスリリング。

●3回目:三浦アルプス南尾根ルートにリベンジ。初回同様、葉山・風早橋からスタート。仙元山、観音塚、大桜、茅塚下を経由して乳頭山へ。その少し先から田浦小学校裏手方面に降りる。1時過ぎスタートで、人里に降りたのが6時半くらいだったので時間的にはだいぶキツキツ。本来なら昼食を山の上で食べるスケジュールで行くべきルートかも。

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上写真左は「観音塚」の名の元である石仏。向かって右・三面八臂の馬頭観音像の横には寛政年間の建立年が彫られている。右は観音塚と乳頭山のちょうど中間にあるD14ポイント「大桜」。

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途中で見かけた植物あれこれ。1枚目はナルコユリ。鎌倉周辺の山だと、生え方も花の形も似たホウチャクソウはたくさん見るが、ナルコユリはめったに見かけない。大きめの緑色がかった花を2つ(時に1つ、3つのことも)付けるホウチャクソウと違って、小さめの白い花を列状に咲かせる。これまでてっきり近縁の植物なのかと思っていたのだが、改めて調べたら科からして違っていた。

2枚目は以前にも書いたことがある、万葉集にも登場するキモンヒヨドリバナ。3枚目はサイハイラン。4枚目は山菜のミズ。いつも採っている場所のほかに生えているのを初めて見た。

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上写真左はキアシドクガ。ドクガ科ではあっても幼虫~成虫一貫して無毒だとか。半透明に近い白い翅が美しく、ついじっくり撮影。この数回の山歩きで、木の梢に白い蝶/蛾が群れているのを何度か見たが、正体はこれだと思う。右は渡りをするチョウ、アサギマダラ。急斜面の梢にいて、これ以上近寄って撮れなかった。美しい後翅のえんじ色もこの写真ではほとんどわからず残念。なお、このあとしばらく歩いた先の山道で、肉食昆虫にやられたか、アサギマダラの前翅・後翅1枚ずつが落ちているのを見つけた。

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山道で立ち止まってポケモンgo仲間とLINEしていて、そのまま流れでARスナップを撮っていたら、山道の脇でガサゴソ音がして、いきなり目の前にハクビシン(たぶん)が現れた。こちらもしばらく立ち止まっていてほとんど物音を立てずにいたから、相手もかなり油断していたものとみえて、距離はおそらく2メートルほど。お互い驚いて数秒見合ってしまった。上写真はその時のポケモンgoのARスナップ。とっさに普通のカメラに切り替える頭が働かなかったのが大いにマヌケ。「ゴローニャ」の向こう側にハクビシン(?)がちょっとだけ見える。

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そして2回目の山歩きでも通ったクサイチゴ収穫ポイントでまたいくつか。ほんのちょっと工夫でビターチョコ味の「クリーム玄米ブラン」に載せて食べてみた。「チョコレート+ベリー」「あんこ+ベリー」の組み合わせは鉄板。ちなみに先月半ば、近所のM家でBBQをやった折、近くで採ったカジイチゴを持って行って、つぶあんの最中に挟んで食べた。これも美味かった。

●4回目:1回目で下山した葉山消防署から逆にスタート。南尾根に上り、観音塚経由でしばらく歩いた後に北側に下山。森戸川林道終点に出て、林道を歩いて葉山町長柄・川久保に出る。森戸川源流あたりは、20年くらい前以来。その頃は網で小さな川エビを採って、素揚げにして食べたことがあった。今でも小エビが生息しているかどうかは未確認。

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上左写真が森戸林道終点。右は、長柄・川久保からそのまま歩いて越えた葉桜団地入口の坂に生えていた野生のビワ。ちょうどいい感じのものがやっと一つ、手の届くところにあったので採ってその場で食べた。割と甘くてアタリ。

●5回目:二子山1回目。南郷中学校バス停から、南郷上ノ山公園野球場奥の山道を登って砲台道の途中に出て、二子山上ノ山山頂へ。そのまま二子山下ノ山、阿部倉山と縦走し葉山町長柄・川久保に降りる。上ノ山までは楽だが、その後は結構起伏がある。

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砲台道でハンミョウに出会えた。出会えると嬉しく、しかしなかなか接近しては写させてもらえない昆虫。左はそろーりそろりと近付き、逃げられてはまた近付きを繰り返して、ようやく撮った接写。右はアサヒナカワトンボ。これは鎌倉浄明寺の華頂宮邸の谷戸でも頻繁に見かけるもの。

●6回目:二子山2回目。南郷中学校バス停から、今回は南郷上ノ山公園トイレ横から素直に広い砲台道を歩いて二子山上ノ山山頂へ。砲台道を少し戻り、葉山-逗子境の尾根道を通って北尾根ルートへ。沼間の山の上の住宅地「アーデンヒル」へ降りる。

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この写真も砲台道にて。足元に飛んできて、また飛び立とうとしているセンチコガネ。

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