かば◎の迂闊な日々

あるときー。

●11月15~17日、大阪出張。

通常、「仕事で大阪に行く」という場合、新大阪から御堂筋線で上下する範囲を外れることはあまりないのだが、今回はこんなあたり。

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一枚目は巨大ガントリークレーンが並ぶコンテナヤードと、その向こう側に見える港大橋。2枚目は泊まったホテル近くのNTTの巨大九輪塔……のような通信アンテナ。3枚目は大阪府咲洲庁舎。

港大橋は、ぜひ近くから見上げるような形で全貌を見たいと思ったのだが、そちらの海側はだいたいがヤードとか倉庫とかで近付けず。どうやら橋のたもとあたりまで行けばいいロケーションのポイントもあったようなのだが、歩くには遠くて諦めた。

咲洲庁舎に関しては、実は同行者に「あのデカいビル何?」と訊ねて「庁舎ですよ」と言われるまで知らず、帰宅後に調べて初めて大阪府庁舎の移転問題とか入居しているホテルの賃料未払い問題とかを知った。

ちなみに泊まったホテル(および仕事の対象である研修会場)は「フクラシア大阪ベイ」というところで、「何だ、その『膨らし粉』みたいな名前」と思ったのだが、運営会社のサイトを見たら、「私達のミッション」と題して、

「私達は空間の膨らし粉として、」

と書いてあった。マジで膨らし粉だったよ……。

●最終日、仕事が終わった後に、咲洲庁舎の近く、アジア太平洋トレードセンター(ATC)内にある「おおさかATCグリーンエコプラザ」でマンホールカードを貰う(しかも2種貰えた)。

前日に、「そういえば、この辺で貰えるマンホールカードってないんかな」とふと思い出して検索してみたら、まさにピンポイントですぐ近くだった。こういう機会でもなければ行かない場所なので、思い出してよかった。

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1枚目左はマンホールカード第1弾、大阪市下水道科学館近くのカラーマンホール。1枚目右は、マンホールカード第5弾、市内の下水道管理費業務の委託先として設立されたクリアウォーターOSAKA(株)近くに設置された特別色のカラーマンホール。2枚目写真はカラーマンホールの元になっている通常版の蓋。

ところで前回書き忘れたが、先々週、ベトナムで働いているMの年末帰郷飲み会の折に、田町で途中下車して港区のマンホールカードも一種、貰ってきた。……せーらーむーん!!(貰いに行く前にリストでパッと見た時には、絵柄がこちゃこちゃしていて判らなかった) ああ、麻布十番だもんね。

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これでマンガ・アニメ・特撮系マンホール蓋のカードは6種。集まったカードの総数は上の大阪市のものを含め36.5種(0.5種換算はつくば市の英語版)。

●泊まっていたホテルの近くにあった保存車輛。

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阪堺電気軌道(南海鉄道)の戦前型旧型車両。「鉄っちゃん」ではないものの、乗り物や機械の古物は好き。それにしても、赤茶と緑の配色がなんだかクリスマスっぽい。

昨年同じ用事で大阪に行った時同様、仕事帰りに京都ではるとまん氏と待ち合せて1杯。今回はハホ氏も一緒。ハホ氏と直接会うのは10年ぶり以上? ずいぶん昔に貸して、なかなか返してもらうタイミングが合わなかったハインケル自伝「嵐の生涯」を受け取る。ほどよく内容を忘れているので、近々楽しく読み直すつもり。

はるとまん氏から、司馬遼太郎「翔ぶが如く」の生原稿を見せてもらう。……原稿用紙のマス目、まったく無視なのな。他、あれこれ駄弁る。

用事のあるハホ氏に合わせて早めに切り上げ、ヨドバシで新発売のタミヤ「I号戦車B型」を買う。「わざわざ京都まで来て買うのかよー」など言われつつ。だって近所に模型屋が(もう)ないし。買おうと思ったら、改めて都会まで出ないといけないし。

●私の大阪(あるいはちょっと広げて関西)に対するスタンスというのは、基本、野次馬というか、お上りさんというか、まあ、そんな感じ。今回の大阪行きでの、その他「ご当地ネタ」。

ホテルの朝食バイキングにタコ焼きがあったのは「流石、大阪」と思いかけたのだが、別にアツアツでもトロトロでもなく、冷凍食品以下のもので、なんとなく、「ほら、大阪やからタコ焼き出しとったら文句ないやろ」的雰囲気も若干。

先日の広島行きの時と同じく、近くのコンビニでカールを買って食べる。が、今まで私の中のスタンダードだった「チーズ味」ではなく、先日M.Nさんに薦められて食べた「うす味」。帰りにも一袋買ってきた。

「今度大阪行ったら、買って試してみよう」と思っていたのが伊藤ハムの「ポールウインナー」なのだが、少なくともコンビニ(ファミマとセブン)では見かけなかった。……という話を、はるとまん氏とハホ氏にしたら、2人とも「何それ、そんなん知らん」という反応だった。え!? ポールウインナーって、関西人には深く深く馴染みがある(そして関東では全然知られていない)食べ物なんじゃないの?(その後ハホ氏からは、前記事へのコメントで「あれがポールウインナーだったのか」的な書き込みあり)

現地で、生で「かんさい、でんき、ほ~あんきょうかいっ」のCMを観られないかなあと、ちょっと期待していたのだが、夜寝る前に漫然とTVをつけていた時間内には一回も放映されなかった。ちなみに、「関西電気保安協会を、そのまま読むのではなくつい歌ってしまうのが関西人とそれ以外との大きな違い」というのは広く言われていることだが、先日の東京AFVの会の折、「そもそも本物と似ても似つかない勝手なメロディーで歌う非関西人」という第三の道の存在が、ケン太さんによって示された。これが文化の刺激的伝播(概念だけ伝わって内容は行った先で再発明される)ってヤツか?

もともとI号戦車は帰りに本町のホビーランドに寄って買おうと思っていたのだが(帰路の乗換駅でもあったので)、マンホールカードを貰うなどの寄り道のため時間がなくなった。

現地で会った関西在住の先生との雑談で、「チーズケーキと言えば■■が有名だが、いつも長蛇の列で買いづらい。それよりも、箕面に本店があるDELICIUSがマジお勧め。新大阪にも店舗があるからお土産にもいい」と薦められた。調べたら大阪駅にも店舗があることが判ったのだが、これまた立ち寄る時間がなかった。次回に期待。

昨年はるとまん氏と飲んだ時は、多少遅かったこともあって、蓬莱(551)の豚まんが、私が行列に並ぼうとした途端に売り切れてしまった。今回は若干早めだったこともあって、しっかり買えた。夜の新幹線・東京方面行の車内の赤い紙袋は定番の風景だ。

●タミヤI号戦車のちょっとしたチェック記事も書こうと思うが、それはまた改めて。

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シンャホルストル

Amazon24111101 ●amazonで見かけた素敵な商品。

この見かけで「金属飛行甲板」!「エッチングパーツ」!

シンャホルストル」が「シャルンホルスト」(ドイツ戦艦)の綴り間違いなのは容易に想像できるにしても、だ。

え? 「日本海軍」? 戦艦なのに「飛行甲板」?。っていうかこの形のどこから飛行機が飛び立つのか。そして「オールシーズン」対応なのも謎ながら素敵。……ほとんど何一つ合ってない。

これ、実際に注文したら何が届のかも気になる(ただそれを知りたいためだけに約8000円費やす気にはなれないが)。

そもそも、「シンャ」ってどう発音したらいいんだ。

ヘイ、りぴーと・あふたー・みー。……「シンャホルストル」。いや、そこの君。それは違うぞ。「シニャ」ではない、「シン」だ!

ほか、同じくFlyHawkモデル製のパーツで、1:700「英海軍巡洋戦艦インシブンルビ1942」用のエッチングとして、写真は1:35戦車用のエッチングになっているものも2種(ティーガーII用とパンター用)出品されている。こちらは(AFVモデラー相手には)すぐ正体が判ってしまうし、「エッチング」という部分では合っているので、インパクトとしては今一つ。

●10月1日付で郵便料金が値上げになっているのを失念し、N女史宛の請求書(定型の封書)をうっかり旧料金の切手で出してしまった。当然、料金不足で差し戻されて来るものと思って、不足分の切手も用意して待ち構えていたのだが、N女史から、

「料金不足のまま届いていました。いいのか…」

との連絡あり。いや、本当にいいのか日本郵便!

実は値上げ後2か月間は旧料金でも届く特例措置が!?(ない)

●前回の記事、「FCM 2Cのディテール・メモ(後編)」を改めて眺めていて、

「なんつー判りにくい記事だ!」

と、自分でほとほと呆れた。

もちろん、個々の説明に対応した写真を掲示できていないというもの一因なのだが、だらだらと文章で説明しているのが、とにかくくどい。考えてみれば、車輛別・時期別に表組にすればもっとスッキリしたはず。

……いやもう、何か息切れしているので、表組は気が向いたらにしますけれど(気が向くかどうかは不明)。

Img20241114184818 ●東京AFVの会の会場で、私が自分の作品(ロールスロイス装甲車)を入れて持って行った箱を見た人に、「『化石』って書いてあるけど、何?」と尋ねられた。

実際、その通り中に(昔採った)化石が入れてあったためで、今回、ロールスロイス装甲車を持っていくにあたって、たまたま、ちょうど作品が入る細長い箱だったので中身を出して輸送用に徴発したのだった。……この、毎度適当な箱に、乱暴に作品を突っ込んで持って来る件については、その度にケン太さんに「もうちょっと考えて梱包しろ」と叱られている。

まあ、それはそれ。せっかく箱から出して、久しぶりに昔の採集物を見たので、写真を撮って紹介してみる。

●箱に入っていた化石は、高校時代に北海道で採った白亜紀のアンモナイトが数点と、栃木の葛生で採ったペルム紀(二畳紀)の腕足類もしくは二枚貝が1点。

以前にも書いたことがある気がするが、私は中学・高校時代の部活で「地学部地質班」というのに属していた。地質班といっても、地質調査なんてものは基本したことがなく、あっちこっち化石を掘りにいくのがメインの活動だった。年に一度(だったかな?)、巡検と称して顧問の先生とともに泊りがけで遠出するだけでなく、生徒だけであれこれ計画して出掛けることも多く、北海道は確か高校2年の夏に、同級生1人と、あとは大学生のOB4人くらいと一緒にテントを持って出かけたもの。葛生はいつだったっけなあ。

▼というわけで化石の紹介。まずは北海道留萌郡、小平蘂(オビラシベ)川上流産の中生代白亜紀のアンモナイトあれこれ。

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中くらいの大きさのアンモナイト。。下敷きにしているカッティングマットの枠線は5cm刻み。巻きの出口側、生きていた時には軟体部が収まっていた部分(住房という)は殻の中に隔壁などなくて脆いため、押しつぶされて殻も割れて変形している。巻きの中心に近いほうは気室といって隔壁で仕切られており、丈夫なので形状が保たれている。

殻の表面には目立つ肋(筋)はない。クリーニング(余分な石の除去)し切れていないが、中央のへそ穴はとりあえずある。……と、そこから先の種類調べはさっぱり。

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上よりはだいぶ小さい標本。切断面(左)と、その裏側の外面(右)。形状自体は割とふっくらめ、殻の表面に肋が見えないなど特徴が共通しているので、もしかしたら同じ種類かも。

高校の地学室(準備室)にはある年から岩石切断・研磨機が導入されたので、それを使って輪切りにしてある。上の標本同様、住房部分は変形あり。住房の中は砂(泥?)が詰まっているが、気室部分は染み出した石灰質が結晶化している。

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比較的小型の標本。一般に「異常巻き」と呼ばれる、通常の平らかつ密な渦巻に巻いた形状から外れた巻きを示しているもの。別に奇形の個体とかいうわけではなく、そういう種類で、なかにはもっと珍妙な形状のものもある。

この数字の「6」のように、巻きの最後の部分だけほどけたようになっているのは、流石に形状が特徴的なので、属名までは行きつけた。スカフィテス(Scaphites sp.)。写真を見比べると、なかでもスカフィテス・スブデリカトゥルス(Scaphites subdelicatulus)というのが近そうな気がする。

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小さな標本3つ。左写真の2つは名前判らず。特に左写真の下のものは、「いかにもアンモナイト!」という形状なのだが、実際にはこういう形状のものはアンモナイトのなかのいくつもの科にまたがって存在していて、素人の私にはまったく絞り切れない。うーん。ゴードリセラスの仲間かなあ。それともデスモセラス? プゾシア?

右写真は今回箱から取り出したものではなく、それ以前から隣の棚に裸で置いてあったもの。「化石」のタグで遡ってみたら、10年近く前の記事で一度紹介していた。一緒の産地のものだし、名前が判るものももう一つくらい上げておきたかったので再登場。へそ穴がきゅっと閉まっていて、全体的には平べったい形。表面に繊細な肋がびっしり入っている。これは判り易い特徴で、ネオフィロセラス(Neophylloceras sp.)と判る。ネオフィロセラス・スブラモスム(Neophylloceras subramosum)かな?

Img20241114184927 今回、写真を紹介するにあたって、「ちょっとでも名前とか調べて書きたい」と思ったので、虎の巻として逗子市立図書館から借りてきたのが右の書。

いや、確かに同定の仕方とか、そこそこしっかり書かれてるんだけど! しかも北海道産アンモナイトに軸足を置いて書かれていて、私が採集した小平蘂川含めた産地ごとの特徴なども書かれていて有り難いんだけど!

もとから知っていたネオフィロセラスと、以前にどこかで写真を見て「あ、これ、オレが持ってるヤツだ」と思ったことがあって、ある程度アタリが付いていたスカフィテス以外は、結局やはり属名までも突き止めることはできなかった。これはあれかなあ。III号戦車とIV号戦車の見分けとか、ルノーR35とオチキスH35の見分けとか、「素人目には『同じじゃないの?』でも、見慣れている人なら割と簡単に区別できる」系のものなのかなあ。

「年代も大いに手掛かりになる」と言われても、そもそも採集したのが河原の転石からなので、「地域的に、白亜紀後期」以上のことは判らないし、そもそも小平蘂川のどれくらい上流で採ったかも、今や曖昧だし。

しかし、この本自体は結構眺めていて楽しかった。あー。北海道に化石採りにとか行きたいなあ。でももう、岩石用ハンマーもどこにしまったかわからないや。

▼残るは、ひとつだけ味噌っかすで古生代ペルム紀の、栃木県佐野市葛生産の化石。

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葛生はセメントの原料としての石灰石鉱山がある。たぶん、今では「何か事故でも起きたら責任問題」ってことで、入れてくれないんじゃないかなあ。ン十年昔の私が高校生の頃は随分大らかで、入り口で「部活動で化石を採りに来ました~」というと、簡単な注意(危ないとこに近付くなよ~程度)で入れてくれたものだった。これは、そんな鉱山の中で採集した(というより拾った)もの。

何しろガンガン発破をかけて石灰岩を掘り進めている場所なので、周りじゅう、大小の石灰岩がごろごろしている。そんな場所を歩き回り、岩の断面を見て「お、これ、フズリナの密度が高いぞ」なんてのをハンマーで欠いて採集していくわけだが、そんななかで、ほぼこのままの状態で(ただし泥だらけで)転がっているコレを見つけた。

実のところ、最初は本当に化石であるなどとは思わず、単に「形状がそれっぽい」だけの石ころだと思ったのだが、拾い上げて、冗談で周囲の仲間に

「お~い、スゲーの見つけた! デカい腕足貝だぞ!」

と叫んで自慢したのだった。

当然、その後には「嘘だよ~ん」と続けるつもりでいたのだが、泥をぬぐってみると、かすかに表面の模様が確認できる。むしろ最初に「見つけた」と言った私が驚くはめになった、というオチ。

1枚目は全体形で、横幅が約8cm。2枚目は裾部のクローズアップで、かすかに放射肋(頂部からの縦方向の筋)が確認できる。3枚目は側方から。頂部下にも、見える範囲には穴などないの。最初は「腕足類の化石」と思っていたのだが、腕足類(正確には腕足動物門)であれば殻の頂部から肉茎が出る穴があるはずなので、実は二枚貝の化石なのかも。

いずれにしても、こういう石灰層ではフズリナなどの微小な化石がメインで、大きな化石が採れることは少なく、なかなかレアな標本だと思う(なので、きちんと同定などして貰えるなら、どこぞの博物館とかに寄贈してもいいのだが、なかなかそういうきっかけもない)。

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観音崎再訪

●東京AFVの会の帰り、京急線の駅ホームで、横須賀美術館「運慶展 運慶と三浦一族の信仰」ポスターを見掛けた。

「ああ、今、こんなんやってるんだあ」と見ていて、「※11月3日無料観覧日」の文字に気付く。にゃんと! さすが文化の日!

●というわけで、翌日いそいそと出掛ける。そもそも「横須賀美術館」ってどこにあるんだっけ、と調べてみたら、観音崎のすぐ手前だった。以前観音崎を(初めて)訪ねた記事を読み返してみたら、そもそもその時も最初は横須賀美術館を目指して行った(けれど、結局入らなかった)のだった。

今回はJR横須賀駅からバスで。横須賀美術館は、海に面した緩い斜面上、観音崎の森を背景にしたガラス張りの建物。おされ。

「運慶展」は本館地下の展示。横須賀市芦名の浄楽寺蔵で、和田義盛夫妻の発願による運慶作阿弥陀三尊(阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩)、不動明王、毘沙門天の5体。それから運慶作ではないが、関連作品として、三浦市初声町・天養院蔵の薬師三尊像(運慶よりやや早い平安中期以降の作品)、横須賀市大矢部の清雲寺蔵の観音菩薩像(おそらく南宋より渡来のもの)。

「運慶展」と銘打っていながら、運慶仏は5体、周辺作品4体の計9体だけ!? と思ってしまいそう。実際に、運慶展の展示はそこそこ広い1フロアのうちの広めの展示室1つ(運慶仏5体)と、通路の窪みのような小展示スペース2つだけ。しかし、現時点でおおよそ運慶作と認められている作品は約30、うち真作と確定しているものは19体しかなく(貰ってきたパンフレットで知った)、5/19があると思えばなかなか贅沢。

ちなみに運慶は東国武士、それも鎌倉幕府要人との関係が深かったと言われるが、古都鎌倉の域内には、伝承等で運慶作とされるものは複数あるものの、真作やその可能性が高いものはなかったはず。私の好きな北鎌倉の円応寺の閻魔様も運慶作の伝承があるが、運慶没後の製作だそうな(加えて円応寺の仏像は、閻魔様よりも十王のほうが魅力がある)。

Img20240503180858 今回展示の運慶仏5体がある浄楽寺は、今年春に大楠山に登った帰りに寄って、寺の外観だけは見たことがある(5月3日撮影)。この5体は今回の展示会でなければお目に掛かれないわけではなく、浄楽寺でも年に2日(春・秋)の御開帳があり、またそれ以外でも予約制で拝観できる由。ぜひ拝みたい!という方はどうぞ(→浄楽寺HP)。

関連作品のうちの薬師三尊像を収めた天養院は、浄楽寺同様に和田義盛ゆかりの寺院で、薬師三尊像には和田合戦の折に義盛に代わって受けたとする刀傷だとして、縦に割れ目がある(結局、和田合戦において、義盛は鎌倉市内の和田塚あたりで討ち死にするわけだが)。

もう一体の南宋由来とされる清雲寺蔵の観音菩薩像は、立膝の珍しいポーズ。「遊戯坐(ゆげざ)」というらしい。リンクは、ホノルル美術館所蔵の同様のポーズのもの。北宋時代のものとか。

なお、この企画展は横須賀美術館のほか、県立金沢文庫、鎌倉国宝館の3館連携企画となっており、開催時期がおおよそ重なる形で、金沢文庫では「特別展 運慶 女人の作善と鎌倉幕府」、鎌倉国宝館では「特別展示 鎌倉の伝運慶仏」が開かれている。

●せっかく来たので、観音崎を散歩する。

前回訪問時は小雨模様で見晴らしも良くなかったが、今回はすっきり晴天。前回はすでに時間外で入れなかった灯台にもぜひ登ろうと行ってみたら、こちらも無料だった。

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下1枚目は灯台上から北側の眺め。中央やや左に、小さくランドマークタワーも写っている。左端の山上に建っているのは海上保安庁の(旧)東京湾海上交通センター。2018年にセンター機能は横浜に移転、現在は無人の観音崎レーダー施設となっているらしい。2枚目は、その施設を足元から見上げて撮ったもの。3枚目は南側。小さな入り江向こう側の突端に、前回も写真を載せた、戦間期に作られた聴測所(対潜水艦の固定式ソナー施設)跡がある。

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下写真は富津岬と横須賀の間に、東京湾要塞の一部として明治期に作られた第一海堡と第二海堡(現実の配置に合わせて、右写真が第一、左写真が第二)。第二海堡は、上に掲示した「灯台上から北側写真」の右端近くにも写っている。富津側の第一海堡は現在立入禁止、第二海堡は整備されツアーも組まれていて、その違いを示すように、写真で見ても第二海堡のほうがシルエットが整っている。

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灯台で無料のペーパークラフトを貰った。初代と当代(三代目)の2種。ともにスケールは1:100。どうやら「あなたが選ぶ『日本の灯台50選』」というシリーズらしく、公益社団法人「燈光会」というところのサイトで、全種ダウンロードできるようだ。

「50選」と銘打っていつつも、サイトをよく見ると、キット番号は250番まである。この観音崎の灯台も、キット番号は「No.22」と「No.22-2」と枝番になっているし、リストには「番外」(海上交通センターの建物とか灯台見回船とか)もあるから、キット種類の総数はもっと多いかも。観音崎のキットは両方とも白一色だが、中には着色のもの(赤白の縞模様とか)もある。

燈光会サイトにある「作り方」によれば、OA用紙などに印刷して厚紙に張り付けて……といった工程が指示されているが、当然、最初から厚手の紙に印刷したほうが話が早い。観音崎灯台で貰ってきたものも、最初から厚手の紙に印刷されていて有り難い。

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前回見そびれた場所含め、砲台を三カ所見学。

▼まずは前回見なかった北門第二砲台。上に写真を上げた(旧)東京湾海上交通センターから、階段状に3つの砲座が並んでいる。本来は6つあったらしいが、第4~6砲座の上に東京湾海上交通センターが建っているらしい(ただし、現地の説明板には、『現在は4砲座と弾薬庫が残っています」とある)。北門第一砲台等に比べると、草むしていかにも廃墟感がある。

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1枚目:センターから緩い坂を上って最初の第三砲座。

2枚目:第三砲座と第二砲座間の横墻にある弾薬庫。ガイドを頼むとこの中にも入れるようだ(この写真を撮るちょっと前に、団体さんが出てきた)。

3枚目:第二砲座。

4枚目:第二砲座・第一砲座間の横墻にある弾薬庫。こちらはコンクリートで入口が塞がれている。

5枚目:最も高いところにある第一砲座。

6枚目:第一砲座手前に置かれた説明板。

7枚目:各砲座背後を登ってきた坂道の突き当りにある隧道。こちら側の入り口が坂の頂点で、隧道内は(こちらから見て)下り坂。私は観音崎園地から、つづら折りの坂を上って、言わば裏側から来たが、本来はこちらが砲台入口らしい。現在は柵が作られて立入禁止だが、サイト「東京湾要塞」によれば、内部にも弾薬庫等あるようだ。

前回も見た、灯台間近の北門第一砲台。

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前回も書いたように、半円形の砲座が2連になっていて、間にレンガ積みの小隧道。地下に弾薬庫があって、そこからこの小隧道内に揚弾されてくる仕組みらしい。本来は、このレンガ積みの道路に面した側に下り階段があって弾薬庫にアクセスできる構造だったらしく、3枚目の拡大写真にあるように、正面下に入り口跡の一部らしい塗り込めたアーチ頂部が確認できる。

1枚目の写真の左端に写っているが、左側砲座から灯台側(写真手前側)にも弾薬庫または兵員待機所のような入り口を塞いだ跡がある。

▼前回行かなかった北門第三砲台。

砲台アクセス用に作られたらしいレンガ積みのトンネルを抜けると、すぐ左手に弾薬庫または待機所跡らしい塗り込めた二連の洞口。突き当りに納座がある。

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砲座は第一、第二とはずいぶん異なる形状で、半円形ではなく前方左右角の丸い長方形? ここに、砲(二十八珊榴弾砲)が2門ずつ置かれていたらしい。最後の写真は、砲座の左側にあるレンガ積みの揚弾井。第一砲台のようにトンネル状ではなく、横墻正面に口を開いている。

本来はこの横墻を隔ててさらに左に2連の砲座がもう一つあったらしいのだが、現在は見晴らし台(への通路?)の整備で消失している。

▼岬を越えて、自然博物館のちょっと先、たたら浜に降りる。

美術館で貰った「美術館から出発!! 観音崎公園お楽しみマップ」には「第2次世界大戦時のトーチカ」なるものが、たたら浜駐車場の脇にあると図示されている。

パッと見渡しても判らず、駐車場のおじさんに聞いてみると、「たぶんそのへんにあったんだけれど、もう撤去されてしまったのではないか」という、なんとも頼りない返事。「なくなっちゃったのか……」と少々落胆しつつ、浦賀方面に歩きだしたら、駐車場の端の端に現存していた。

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1枚目は海方向に向けた正面(道路/海岸線に向けてはやや斜め)。正面中央に開口部。2枚目は正面角の、表面がはがれた部分。3,4枚目は側方・後方に回っての写真。

さて、このコンクリートの構造物。GoogleMapsにも、「機関銃陣地跡」としてタグ付けされているのだが、サイト「東京湾要塞」では、「実験のための観測・監的所」ではないかと推測している。根拠は前後に鉄格子がはまっていること、正面開口部が単純に外側に向けて斜めに広がっていて(これでは跳弾が中央に集まってしまう)階段状になっていないこと、など。

言われてみれば、鉄格子はずいぶんがっちりはまっていて、後付けでないようにも見えた。また、写真では草藪に隠れてしまってよく見えないが、GoogleMapsには藪に覆われていない状態の正面写真も1枚載っていて、それを見ると、正面開口部が銃眼というには広すぎる。鉄格子が無ければ、大人がそのまま潜り込めそうなくらい広い。

なお、頂部に突き出た部分は通風孔のようにも見えるが、どうもどの面にも開口部がないようで、機能は謎。

▼その後、浦賀駅まで歩いて帰宅。

●週が明けて5日火曜日にも、法務局に用事があって横須賀へ(逗子市、葉山町は管轄が横浜地方法務局横須賀支局)。どうも最近横須賀づいている。

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写真1枚目は観音崎に行った土曜日に撮った「もがみ」型。先月に撮った時は桟橋の向こう側だったが、より姿がはっきりわかる。晴天下だと、なぜか船腹ではっきりと色が2トーンに分かれている。2枚目も同じ「もがみ」型で、火曜日に撮ったもの。船腹中央の大型ハッチを開いている。

3枚目は潜水艦桟橋で、今回は、前回よりも新型のシッポがX字のタイプ。「そうりゅう」型なのか、さらに新しい「たいげい」型なのかは、素人の私には判別不能。

Img20241026193726 ●まるで別話題。

鎌倉の小町小路(元の名前は小町大路、鎌倉の中心を南北に通る若宮大路の東側に並行する通りで、土産物屋通りで有名な新しい「小町通り」とは若宮大路を挟んで反対側にある)、蛭子神社の斜め向かいにあるセブンイレブンは、独自仕入れで、なぜか「インド菓子」を売っている。物珍しくてついつい買ってしまう。たまに「うわ。これハズレだ」と思うものもあるが、結構イケルものもある。

ビスケット/クッキー類はごく普通に美味い(たまにちょっと甘過ぎるのがある)。左下の空袋の「ムルック(Murukku)」は個人的にはハズレ。スパイシーなだけで味が何か足りない感じ。

右下の「ナブラタン・ミックス(Navratan Mix)」と左上の「オール・イン・ワン(All In One)」はそこそこ当たりな感じ。シリアル+ナッツ等々、細かいアレコレをスパイスで味着けたもの。オール・イン・ワンのほうが甘みと辛さが強かったように記憶。

上中央は食べかけで止めてあるので見づらいが、「ゴル・カチャウリ(Gol Kachauri)」。4センチほどの一口で食べるにはちょっと大きめの揚げボールの中に、甘辛い具がぎっしり詰まっている。これは味はかなり美味しいと感じたのだが、同じ会社(ハルディラム/Haldiram's)のミニサモサとか、上のムルック同様、ちょっと「揚げた油が回っちゃってる」感がマイナス点。

●さらに別話題。

ここ数か月のうち、道端でオレンジ色のハムシを見掛け、「ああ。ありきたりなウリハムシか」と思ったのだが、それにしては、クズの葉にいる(しかもクズの葉を食べているっぽい)のがおかしい。

ちょっと気になって調べてみたら、本当にごく最近、2016年に東京都目黒区で初確認されたらしい外来昆虫(中国原産)、クズクビボソハムシと判明。判って気にして見てみると、結構あっちにもこっちにも、大繁殖してクズの葉を食い荒らしている(写真は先月撮ったもので、さすがにここ最近、肌寒くなってからは見なくなった気がする)。

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クズはそのへんにいくらでも生えているので、適当に食えばよさそうなものだが、どうもこの虫、集団でまとまって食害する習性があるらしく、ほぼ無傷な葉がある隣で、ほとんど葉脈だけになった葉の上に何十匹も固まっている。……なので、「虫がたくさん」が苦手な人は卒倒しそう。

そもそも食草が、繁茂力が強く増え過ぎてしまって問題視されているクズなので、いくらでも食ってくれてOKな気もするが、とはいえ、「それはそれで問題が」となる可能性も結構ありそうな気がする。

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東京AFVの会2024

●11月2日土曜日、東京AFVの会に参加。土曜日に開催するのはちょっと変則的? 場所はいつもの下北沢、北沢タウンホール。

昨年は自分の作品無しでいささか肩身が狭かったが、今回は、RODENのロールス・ロイス装甲車をある程度のところまで何とか仕上げて持っていくことができた。ちなみにこのRODENのロールスは、2015年の東京AFVの会で、その年の課題「第一次大戦」に出そうとして塗装途中まで進めて止まっていたもの。遅刻にも程がある!

10時の開場とともにフルで参加しようと思っていたのだが、ボケてスマホの目覚ましを1時間遅く設定してしまい、11時頃に現地着。生憎の荒れた天気で、11月というのに会場内はかなり蒸し暑かった。

ケン太さん、めがーぬさん、M.Nさんらと久々の挨拶。このところブログ更新もなくちょっと気になっていたミカンセーキさん、相変わらず膨らんでいる青木センセとも無事会う。nifty時代からの付き合いのシェルさん、むーさんとも。

●というわけで、会場で見た作品あれこれ。

相変わらず、知り合いの作品+会場でなんとなく目を引かれた作品を適当に撮っているだけで、網羅性はまったくなく、また、受賞作なども撮りこぼしている。作者名等も基本、控えておらず、使用キットなどの情報も適当。「いや、この作品はここが推しなんだよ!」というところなども判っていない場合が多々あると思う。失礼な奴っちゃ。

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ケン太さんのE-10(トランペッター、1:35)とBMD-2(ズベズダ、1:35)。ズベズダのBMD-2は足回りの構造が(キットとして)ヤワで大変だったとか。

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めがーぬさんのT83(M40の試作車)と、M.NさんのIV号戦車改良案。

M40は基本、“戦後の車輛”というイメージだが、試作車1輌が45年に北ヨーロッパ戦線に投入されているとかで、めがーぬさんの作品はその車輛を作ったもの。とはいえ、後端の側面装甲板の張り出し部分に穴があるかどうかくらいの違いだそうな。M40のキットはタミヤもあるが、大戦参加車輛のデカールがあるAFVクラブを選択した由。

M.NさんのIV号改は、砲を含めて砲塔は丸ごと交換、車体は傾斜装甲、駆動系は流体変速機付きとしたもので、「お尻」はアバディーン(今でもあるのかな?)の流体変速機付き試験車輛の形状を模している。これはそもそもこういうキットがあるのか? どこかの改造パーツ組み込み? M.Nさん独自の魔改造? そのへん、まるっと聞き忘れた(あるいは聞いたけど忘れた)。

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シェルさんのクロムウェルと、M8自走砲に75mm砲を乗せた駆逐戦車型の試作車輛。

クロムウェルはタミヤベースで、砲塔は偽装ネットがそのままモールドされた改造パーツ。砲身は金属挽き物に、砲塔に合わせて偽装ネットを追加工作したものとか。M8駆逐戦車版は、タミヤニュースの「これだけは作ろう」に載った記事をなぞったもので、「なつかし」部門に出品。「これだけは~」記事は掲載時期が古く、「砲身は筆の軸を寸法に合わせて切って、削ってテーパーを付けよう」みたいな、今読むと「うわあ……」な工作が指示されている。なお、シェルさんはそんな工作をしたわけではなく、おとなしくシャーマンのキット(だったかな)から75mm砲を持ってきたそうだ。

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青木氏のT-34。右写真の「解説文」で判るように、1970年代発売のキットを、当時の工具や材料のみを使い、キットの指示を逸脱しないシバリの下に製作したものである由。であるからには、名前も「T-34/76 1942年型」と呼ばねばなるまい。説明書には「キロブ工場」って書いてあったのか……気付かなかった。

今の目で見るといろいろなタイプの特徴が入り交じっておかしなことになっているのだが、発売当時は、きちんと裏もモールドされた履帯、鋳造肌の表現、豊富なアクセサリーなど、ゾクゾクするくらい素敵なキットだった。今見ても、この角度からのスタイルが無暗に格好いい。

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今年も「なつかし」部門で1位を獲った中尾さんのバンダイ1:15ティーガー。

昨年のIV号戦車もそうだったが、大昔に作ったキットを丹念にレストアしたもの。facebookでも経過を少し見ていたが、元キットの素性を潰し過ぎない範囲で、砲塔の高さを変えたり、かなり「切った貼った」してスタイルを修正。フィギュアはタミヤの1:16だそうな。3枚目写真はリモコンでのデモ走行。4枚目は本命の1:15をいじるにあたって「習作」にしたらしい1:35のティーガー2輌。

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当日の受付もやっていた、MGS時代の後輩の野田君のセモベンテ。えーっと。後端のグリルが横方向なのはM40、M41、どっちだっけ。イタレリの履帯は固いし、ピッチも微妙にズレていたような気もするけれど(←これはうろ覚え)と言ったら、「ズベズダ版だったので、履帯が柔らかめでOKだった」とのこと。内部はほぼ丸ごと自作。素敵。

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ミカンセーキさんの「石焼きイモ屋台」みたいな可搬トーチカは、今年春の横浜AFVの会でも見て、その時の参加記にも数方向からの写真を載せているが、今回の東京AFVの会の、もう撤収という時になって、初めて中身を見せてもらった。ストーブとかダクト類とか細かく作り込んであるのは流石。

こんな小さなトーチカに、暖房やら換気機構やらしっかり組み込んであるのが流石「おドイツ」っぽいというか。これが日本軍ならストーブどころか、寒気も「銃眼があるからいいだろう」と無視されそう、などと話す。それはそれとして、中身も組み込んだ状態を見ると、いかにも狭い。これって入れるのは一人だけ、給弾とかも銃手自身がやるんですかね。何もなければ引きニート系の人は居心地いいかもしれないが、いざ戦闘になって周りからどっかどっかん音がし始めたら、たちまち閉所恐怖症になりそうだ。

▼ほか、適当に会場でポチポチ撮ってきた写真など。

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先2枚はダス・ヴェルクの1:35、VOMAG車体の8.8cm搭載重対空自走砲。比較的最近のキットでもあるし、完成品は初めて見た。でかい。

何しろ迫力があるし格好いいし、かなり惹かれるのだけれど、お高いし、たぶん買ったらそれで満足してしまいそうなので、RODENの72で我慢。っていうか、アレも作りかけで10年放置しているし、なんとかせないかん。M.Nさんはダス・ヴェルクの1:35も買ったのだそうで、キット付属の資料冊子を見せてもらった。

同じくM.Nさんとの会話のネタになったのが3枚目、大スケール、1:16のトゥラーンII。ドニェプル・モデル製のレジンキットだそうで、IIだけでなく、IやIIIも出ているそうな。M.Nさんはホビーランドに注文したものの入手できなかったとか何とか。こっちも私は値段的にも大きさ的にも手が出ない。

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37mm搭載ハーフトラックと、3枚目のストライカーは、確か同じ方の作品。みやまえさんが大喜びしそうだが、全可動にこだわりのある方で、対空ハーフトラックのほうをあちこちいじっているのを見せて頂いた。車輛そのもののハッチだのパネルだのはもちろんのこと、添えてある工具箱なども開閉できる。3Dプリントで出来のいいヒンジ・パーツが出るようになってだいぶ助かる、とのこと。塗装は基本組んでからだが、塗料が回り込んで固まっていないよう、ヒンジにはグリースを指して組むそうな。

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模型誌でお馴染み、柴田和久氏によるいにしえのモノグラム、エアフィックスの32AFV作品。AFVのスケールとしては廃れてしまった32だが、(柴田さんが作っているから、というのもあるかもしれないが)キットそのものの素性の良さは今でも光る感じ。

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ドイツ軽戦車とその派生車輛。先の3枚は大戦初期のヨーロッパ戦線車輛の連作で、II号a型はIBGではなく、それ以前に出ていたレジンキットとのこと。I号/sIG33自走砲は、これまたドラゴンではなく、アランの砲と、車体はイタレリ?

4枚目写真はアフリカ戦線車輛の連作で、II号C型改、I号A型、マーダーIII。この方は入賞していたような。

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大戦中のソ連車輛の出品は、比較的少なかったような。先2つは確か同じ方の作品で、SU-122とT-34-85(183工場)。3枚目は光を描き込んだ独特な塗装のSU-122。あとは、写真を撮りそびれたけれど、48のT-34があったtけ。

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先2枚はスクラッチに近い改造の105mm自走砲連作。どれがどんな車輛なのかは、私の趣味範囲から外れるのでちんぷんかんぷん。でも工作は丁寧で仕上がりも美しい。一見、そういうキットがあるように思ってしまうが、作品の前に掲示した写真で自作範囲が判る。

後の2枚は九五軽戦車改造のブルドーザー。インテリアは自作。

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先2枚は試作に終わったロシアの主力戦車、チョールヌイ・オリョール。アミュージングホビーの1:35。T-72系とかT-80系より車体が延長されているから? 反応装甲の形状のせい? 余計平べったく見える。

3枚目は弾道ミサイル迎撃用なんだっけな? SA-12a対空ミサイルシステム。トランペッターのキット?

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M10パンターはドラゴンのキットではなく、タミヤからの改造である由。貨車に載せられているのはMk.IV?のメス型。

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丸ごと3Dプリントによるスクラッチ作品が複数出ていて、ますますの3Dプリントが勢力拡大を感じる。先2枚は自衛隊の73式装甲車。2枚目写真は出力された状態の排気管カバー。他に、一体成型された転輪+履帯、重機関銃も並べて展示されていた。

3枚目はフォードの豆戦車。4枚目はかなりの大物で、スウェーデン製のFH77BW L52(アーチャー)自走砲、ウクライナ軍所属車輛。

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ジオラマ作品あれこれ。先2枚は雨の表現にこだわったベトナムもの。1枚目写真、向こう側にあるM5軽戦車がまるで関係者のように映り込んでしまった。3,4枚目はこれまた3Dプリントのひまわり(ミカンセーキさんのブログ記事でも取り上げられたヤツ)を使ったクラッシュIII突。

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先2枚は、昭和30年くらい?の陸自の行進と街角の情景。2枚目は、正面の模型屋の店内を覗き込んでクローズアップしてみたもの。商品やら完成品展示やらが細かく作り込んである。この作品は、facebookにも作者の方の投稿があったはず。

3枚目はアフリカ戦線の新旧車輛対比。III突はアフリカ戦の中盤以前に数輌のみ使われたもの。ティーガーはもちろん、アフリカ戦の最終幕であるチュニジアに登場。

4枚目はやはりアフリカだが、イギリス側のLRDG車輛3連作を1つのベース上にまとめたもの。

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雪のブルムベアは、汚れた雪と綺麗な雪の対比とか、建物とか、細部まで丁寧に作り込まれた感じ。カモネット付きのマーダーは、「偽装している」一方で、なんだか生け花風味。

3,4枚目はともに朽ちていく車輛の情景で、中東のT-55?と、占守島のチハ車。チハ車のほうは、昔、フジミの72で私もよく似た小品を作った(雪は降らせなかったが)。

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フィギュアも数点だけ写真を撮った。先2枚はベルリン戦のビネット。3枚目はICMのウクライナ女性兵士セットをそのまま使ったビネット。偵察用の小型マルチコプター機、スマホでの自撮りなど「いかにも、今」な内容。

4枚目は、これも3Dプリントによるスクラッチ。鳥山明デザイン/無限軌道の会制作のフィギュア、「リーザ」の説明書にある座り姿のイラストの立体化。

……自分の作品、ロールス・ロイス装甲車は、会場では写真は撮り忘れた。

●午後の講演、今年は「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」の高橋さん。昼食から帰るのが遅れて、ちょっと遅刻(失礼しました)。その後の各賞の発表、じゃんけん大会の間、高橋さんとあれこれ駄弁る。

なんだかんだと濃い会合も、16時で終了。終了間際に発表された来年の課題は、「オートバイ(二輪車)」だそう。なんともニッチなテーマだなあ……。10年前の東京AFVの会に出品したポーランドのサイドカー付きオートバイ Sokół 1000/CWS M111を超えるネタのキットは、今のところストックしていない(同じ年に大賞を獲ったケン太さんの1:9のツュンダップくらいの大ネタじゃないと……)。

●何かと毎回「話のネタ」を持って来るM.Nさんからは、先述のVOMAGの資料冊子や、最近出たI号戦車の写真集に加えて、IBGの1:72・トゥラーンIIIの製作中のものも見せてもらった。

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IBGのWAWや、同社生産のOEM品?FTFのキットはロコ形式のお手軽構成だが、IBG本体のシリーズで出しているものはディテール重視で、このトゥラーンも履帯の細かさなど素晴らしい。……とはいっても、エッチングのシュルツェンなどは「どうやって付けたらいい?」状態らしい。

さらに追加で、カール「チーズ味」「うすあじ」を頂いた。先日広島でチーズ味を買って食べた話を書いたが、関西人としては「カールと言えば『うすあじ』でしょ」という主張もあってのことらしい。実際、私もこれに関しては“関東人の典型”で、「カールと言えばチーズ味、次点でカレー味」。そもそも、関東では「うすあじ」ってほとんど見かけなかった気がするし、「うすあじ」自体、今まで食べたことがない。

というわけで、帰宅後に初実食。「うすあじ」と言いつつ、実際には結構、だしの味が濃厚。「チーズ味」よりも圧倒的にこっちが!とまでは言わないが、個人的にはかなり美味しいと思った。今月、大阪に行くので向こうでまた買って食べよ。M.Nさん、どうもありがとうございます。

●会終了後、皆で連れ立っていつも通りサニーへ。

ICMのFCM36にふらふらと転びかけたのだが、なんとか思い直し、代わりに?ハセガワのエッチングメッシュ(菱形)を購入。アカデミーのI号戦車のグリル用。

その後は、ケン太さん、ミカンセーキさん、めがーぬさん、青木氏に私の5人で飲んで大いに馬鹿話をする。酒の肴に、ミカンセーキさんの作りかけラム・カンガルー(ゲッコー製)も見せてもらった。ゲッコーのキットは今のところ何も持っていないが、キットのテイストとしてはブロンコ風で、ブロンコと袂を分かった人たちが作った会社なのでは、などとも。

1軒目のお店は客の入りに店側が追い付いておらず、わたわたしていたので、適当なところで2軒目にハシゴ。ケン太さんが知り合いに紹介されたという焼き鳥屋で、全てのメニューに戦国武将(および関係者)の名前が付いているというファンキーな店。

〆で喫茶店でコーヒーを飲んで、居眠りを始めたケン太さんを起こして解散。毎度、こういう展示会の終了時には「よし、次回には2つでも3つでも完成させて持っていこう!」と思うのだが、実現したためしがない。……頑張ろう。

というわけで、次は春の横浜AFVの会かな。同会世話人?のブリキヲさんに会場で話を聞いたが、開催時期は「静岡AFVの会(?)と合同展の間くらいで、あまり無理のない日程で……」くらいの感じらしい。

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砲台に消えた子どもたち・2024

●10月20日日曜日。

本土決戦用に構築された西小坪海面砲台で戦後すぐに起きた爆発事故により亡くなった子どもたちの慰霊碑が、事故のあった南砲台跡の直下の道路脇に新たに建立されることになり、午後、その除幕式(慰霊祭)が行われた。

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爆発事故が起きたのは、1945年の10月20日で、ちょうど79年前ということになる。慰霊祭には逗子市長や地元自治会関係者ほかも参列。ざっと見た感じ、50~100名くらいの方が参列していたと思う。

私自身がこの洞窟陣地(西小坪海面砲台)の存在を知ったのはかれこれ10年ちょっと前で、爆発事故について知ったのがそのしばらく後。さらに慰霊のために建てられた慰霊碑があったことを知って近辺を探してたどり着いたことについては、2015年の過去記事「砲台に消えた子どもたち」で書いた。ちなみに「砲台に消えた子どもたち」とは、この事故を題材に、地元の児童文学作家・野村昇司氏が書かれた作品の題名。

過去記事で書いたように、もともと事故のあった洞窟陣地前に置かれていた慰霊のお地蔵は、その後ちょっと判りにくく、またいつも立ち入れるわけではない場所に移設されている。そのまま忘れ去られてしまうのは残念で、どうにかならないものかとずっと思っていたのだが、今回、新たにきちんと人目に付く場所に慰霊碑が立つことになった。

当初は「お地蔵様を再び移設する」計画だったようだが、「いつだれが、どのような供養の仕方で移したかわからない以上、今回勝手に移設することはできない。という遺族会の結論」により、新たな慰霊碑を作ることになった由。現時点では慰霊碑だけだが、「逗子の歴史を学ぶ会」の山田淑江さんから以前頂いたコメントによれば、今後、犠牲になった子どもたちの名や、事故の経緯などを記した碑も隣接して建つことになるらしい。大変よいことだと思う。

もっとも、私自身は「なんとかならないものかね」と思いつつ、言わば“横目で見ていた”だけの野次馬なので、あまり偉そうなことは言えない。実際に慰霊碑建立に向けて活動をされていた遺族会や「逗子の歴史を学ぶ会」ほかの皆さんの努力には頭が下がる。本当にご苦労様です。

●慰霊祭の後は、近くの小坪コミュニティセンター(以前の小坪公民館)講堂で、「~学ぶ会」主催により、西小坪海面砲台および事故の経緯に関する講演会があり出席。事故現場で遊んでいて、事故発生の直前に帰宅して難を逃れた(しかし兄を事故で失った)草柳博氏の回顧、事故の経緯を研究されている中澤洋氏の報告等を聞く。また、慰霊祭では遺族会からの記念品、講演会では遺族の証言等もまとめられた小冊子「小坪洞窟砲台跡爆発事故記録集」等を頂いた。

今までは、「日常的に砲台に入り込んで遊んでいたんだろうな」くらいにしか思っていなかったが、実際には、事故当時、日本側から米軍への引き継ぎで管理の空隙が生じていたらしいこと。また、事故に先立ち小坪小の高学年生徒を教師が引率して披露山の小坪高角砲台の見学を行っており、戦時中は軍が厳しく警戒していて近寄れなかった軍事施設に対する行動障壁が低くなっていた可能性もあること。

などなど、事故の経緯について初めて知ったことも多かった。驚いたのだが、亡くなった子どもの数自体、14~16名で、今なお確定できていないのだそうだ。

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後援会修了後、これまで何度か等「かばぶ」にコメントを頂いている「学ぶ会」の山田淑江さんに初めて直接お会いしてご挨拶。その後、小坪海岸トンネルシールド上の、もともとの慰霊のお地蔵さんを有志で見に行ったりする。山田さんほかの宣伝のおかげ?意外なほどに「『かばぶ』読みました/知っています」という方がいて驚くやら気恥ずかしいやら。いや、本当にどうもありがとうございます。

現場で「ブログを見に行きます」と言って下さった方もいて、いきなり見に来られて、(もともとは模型趣味のブログなので)「なんだこりゃ」と思う方もいらっしゃるかもしれないので、補足。

西小坪海面砲台や、披露山の小坪高角砲台の話をはじめ、主に逗子近辺の軍事遺構巡りについての話は、タグ「軍事遺構」。

西小坪海面砲台と私とのそもそもの関わりについては、上にもリンクを載せた過去記事「砲台に消えた子どもたち」。

基本は単なる「ミリオタ(軍事オタク)」ですが、戦争の回顧やら靖国神社やらに対する私自身のスタンスについては過去記事「インパール」。

――あたりを参照して頂ければと思います。

●講演会にも出席し、新たに知ったこともある一方、相変わらずよく判らないこともあり、改めて、西小坪海面砲台に関して整理し直してみようと思う。

▼砲台(洞窟)はどこにあったのか

西小坪海面砲台は、現在は逗子マリーナの「背景」になっている崖面、マリーナの造成前は小坪の集落と飯島/材木座を結ぶ崖面の切り道(親不知)に作られた。逗子マリーナの造成に伴って崖面の道は使われなくなり、洞窟砲台も埋められてしまった。崖面の道の跡は基本立入禁止となっているので(つい最近まで深い藪に覆われていたためもあるが)、現在では、もともと洞窟がどこにあったのかも、当時を知る人以外にはよくわからない状態になっている。

一応、当時の構成としては、崖面の向かって左側(鎌倉側)に北砲台、右側(逗子側)に爆発事故を起こした南砲台の2つの洞口があり、その中間に観測所の小洞口があったという。各洞窟は内部で連絡しており、今日お会いした方から少し聞いた話によれば、山の上の旧幣原邸敷地内にも抜ける坑道があったという。

Google Mapsには、「小坪海面砲台北側跡」「小坪海面砲台南側跡」というタグが表示されているが、現時点では、そのどちらの表示も本来の砲台跡とは大きくズレている。ちなみに「北側跡」タグには鎌倉市立第一中学校への坂途中の崖面に開いた洞窟の写真が添えられているが、これは西小坪海面砲台とは別の防空壕もしくは機銃陣地の洞口跡。

さて、本来の西小坪砲台の砲台位置の検証。

逗子市による写真アーカイブ「逗子フォト」には、おそらく戦後すぐに撮影されたと思われる、砲台のあった崖面の海上からの写真が掲載されている。矢印は私が加工・追加したもので、黄色矢印が「北砲台」洞口、赤色矢印が「南砲台」洞口を示している。

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これ自体は洞窟陣地の位置が判る良い写真だが、現在は前面に逗子マリーナの建物群があるために、現状との比較が難しい。そこで別角度の写真を探してみる。

下写真は、逗子市が公開している「逗子市文化財調査報告書(PDF)」のうち、「特別編 住吉城址 後編_図版1」から引用してきたもの。

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2枚組のうち上段写真は、上掲「逗子フォト」の写真よりもさらに鎌倉寄りの海上から撮ったもので、右側の三角の崖面が、「逗子フォト」の写真中央に写っている、底辺両側に洞窟砲台の洞口がある崖で、実際、上段写真でも三角の崖の向かって左下に北砲台の洞口が判る(画面右端にあるはずの南砲台は確認できない)。なお、海面に接するところに大きな穴が3つ開いているが、これは砲台とは無関係の海蝕洞(波で削られた穴)。

下段写真は、さらに鎌倉寄り/陸地寄りで撮ったもので、この角度では先述の三角の崖面は見えず、上段写真では左側に写っていた崖面だけが見える。

この2枚組写真を手掛かりに現状との比較を行ってみる。

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現状とどう重なるのかがなかなか判りにくいのだが、なんとか合わせてみた。まずは上段写真。現状写真の撮影は小坪飯島公園のグラウンドから。本当はもうちょっと右から撮ったほうが角度的には近そうだが、そうすると建物の被りが大きくなってしまうので、このくらいで妥協した。

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下段写真の比較。こちらも現況写真はもっとプール際に寄るくらいから撮ったほうが正解だったかも。

そしてもうひとつ、検証用の資料として、埋立前の海岸線、親不知の崖道、砲台の位置が書き込まれた手書き地図を挙げてみる。こちらは、「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」(鎌倉市中央図書館発行、鎌倉市中央図書館近代史資料収集室/CPCの会編集)に収められている、高橋二郎氏による手記「小坪の二門の砲台と戦後の小坪について」に添えられた図版を引用した。

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地図の右側には、海前寺下から崖下の道に入るあたりに現在も並んでいる庚申塚もしっかり記入されている。これと上の写真とを突き合わせて考えると、北砲台は現在喫茶店「コピ・ルワク」がある上あたり。南砲台は、冒頭書いたように、今回建てられた慰霊碑の上。そもそも現在法面に作られている階段は、南砲台前に建てられた慰霊のお地蔵への参拝用に設けられたものらしい旨の記述が、同資料本文中にもある。

手書き地図には、鎌倉側から「馬捨て場」「でんやく島」「かめのこ島」という崖下の3つの突出が描かれているが、これらはマリーナ造成に伴って消失。この場所は現在バスも通る道路が真っ直ぐ通っている。

なお、上手書き地図の左端の、海岸線が大きく窪み「大正時代にはこの位置につり橋があった」と書かれているのが、現在小坪海岸トンネルのマリーナ側出口があるところ。そのトンネル口上のシールド上に、もともとの慰霊碑である地蔵がある。

これも現状との対照のため、Google Mapsの鳥瞰をスクリーン・ショットしたものを挙げておく。

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画面中央右に、今回慰霊碑が建てられた階段、中央左に北砲台があると思われる場所の下に建つ喫茶店「コピ・ルワク」がある。小坪海岸トンネルのシールド上には、慰霊のお地蔵脇だけ草が無くコンクリートの地面?が見えている。左端駐車場に「小坪海面砲台南側跡」のタグが立っているが、これは前述のように間違い。この駐車場上の崖面には、確かに壕をコンクリートで塞いだような跡があるのだが、上掲の昔の写真と見比べて本来の砲台位置よりも横位置でズレているのはもちろん、上下位置で考えても低い。西小坪砲台との関連性は不明。

▼配備された砲は何だったのか

砲台の存在を知った当初は判らなかった「どこにあったのか」は、上述のようにほぼ特定できたが、未だによくわからないのが、「砲台に据えられた砲は何だったのか」という点。

以前から何度も紹介している、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)は、戦後すぐにまとめられた、米軍への引き渡し用のリストで、周辺の各種砲台に配備された砲の種類、数、弾薬数、状態(尾栓の有無など)、関連する装置(測距儀や探照灯などの)の数などがリストアップされている。だが「十五糎砲台之部」のリストの中に、「西小坪 (門数)二 (弾薬数)二〇〇」とあるのみで、砲の形式名は書かれていない(ただし、測距儀に関しては九七式二米高角測距儀が1基配備と、形式名も明記されている。……なぜだ?)。他資料を見ても、砲種は15cmカノン砲(加農砲)としか出ておらず、やはり形式名は判らない。同資料に載っている近隣の「十五糎砲台」は、佐島(3門)、長者ケ崎(2門)、黒崎鼻(3門)がある。

この「主武装」である15cmm砲2門の他に、おそらくこの洞窟陣地そのものの防衛用に、「短十二糎砲」1門および「二十五粍単装」2門が配備されたことになっている。これについては、「短十二糎砲」は海軍の装備中に1種しかなく、25mm機銃についてはリストに単装・連装・三連装とあることから、日本海軍の代表的対空機銃で、その三種が揃っている九六式二十五粍機銃のことであろうと推察できる。

なお、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」は1945年(昭和20年)11月18日付で作成されている資料で、西小坪砲台の爆発事故の直後にまとめられた資料ということになるが、爆発事故に関連する注釈等はつけられていない。

これとは別に、今回の講演会で紹介されていて知ったが、爆発事故に関する公文書のひとつ、昭和20年11月23日付の終戦連絡横須賀事務局から中央への業務報告(10月分)には、「二十日、逗子小坪ニ於テ三三糎砲墟内爆発事件アリ」と記されているらしい。これに関しては、口径33cmの大口径砲など戦艦の主砲クラスに近く、またそもそも日本陸海軍の装備には33cm口径の砲はないので、誤記であろうと思われる。

というわけで、「十五糎砲」の正体探しの続き。

講演会では、私がこれまで見たことがない昔の写真(調査に訪れた米兵が洞窟砲台前に立っている写真や、マリーナ造成中の写真など)もスライドに登場して興味深かった。特に調査に訪れた米兵が立っている写真は、洞口から突き出した砲身も一緒に写った貴重なもので、これによって15cmクラスの中口径砲、しかも長砲身(つまりカノン砲)らしきことは確認できる。

一方、同じく資料スライドでは配備されたとされる15cm砲の例として、靖国神社の遊就館に収められている八九式十五糎加農砲の写真が写されていたが、これは陸軍の砲であり、一方で西小坪砲台は海軍の砲台なので装備体系が違う。もちろん、陸上で運用する兵器ということで、海軍が陸軍から融通してもらったという可能性も考えられなくはない(例えば、海軍陸戦隊が陸軍から戦車を供与してもらっているというような例もある)。

しかし、今回頂いた「記録集」に掲載された草柳博氏の証言によれば、配備された砲は「ボタン一つで前後に動き、また砲門が上下に動く」とある(それもまた子どもたちの興味を惹いたようだ)。陸軍の十五糎砲で可能性として考えられる対象は前述の八九式十五糎加農砲、九六式十五糎加農砲などがあるが、いずれにせよ陸軍の砲なら俯仰はハンドル/ギアの人力のはず。

となると、電動油圧の動力機構が組み込まれていた海軍の艦船搭載用火砲である可能性が高くなってくる。その場合に候補として上がるのは、50口径四十一式15cm砲か。それよりちょっと旧式の40口径安式15cm砲というのもあるが、明治時代の砲なので動力装置は付かないかも。戦艦「三笠」の船腹に並んでいる副砲がこの安式(英アームストロング社製を示す)15cm砲らしい。現在の記念館三笠に付いている副砲はレプリカだと思うが、砲の左右動は砲尾についたΩ形の輪っかに人間が入って、力業で動かすスタイルだったような。

いずれにせよ、この2種の艦載砲のどちらもwikipediaの解説を読む限りでは陣地砲への転用などには触れられていないのだが、逗子近辺の戦跡巡りと調査で大いに助けてもらっているサイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の中の解説によれば、例えば佐島砲台の3門の砲は「40口径安式十五糎砲2門、40口径41式15糎砲1門」だったとある(後者は50口径の誤りか)。横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」で同一砲種の砲台として扱われている近隣の砲台で、海軍の艦船搭載用のこの種の砲が据えられていたらしいことがわかる。

ただ、西小坪砲台の装備砲については「東京湾要塞」にも記述がない。また、ネット上で検索する限り、この二種の艦載砲を地上の砲台に配備する場合に、どのように据え付けているかの写真や解説なども見当たらない。今後、何らかの新資料が出てくることを望みたい。

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ドブ板

●10月5日土曜日。

雨天だが、ポケモンgoのコミュニティデーだったのもあって散歩の足を伸ばすことにして横須賀へ。

行ったことがある方ならよくご存じだと思うが、JR横須賀線の「横須賀」駅は、もともと軍港のアクセスのために開設されたもので、ほとんど周りに何もない街外れにある。一方、街の真ん中にあるのが京急の「横須賀中央」駅で、利用客数も桁違いにそちらのほうが多い。ついでに言えば、米海軍のヨコスカベースのゲートも、横須賀中央の方が近い。

もっともJR横須賀駅は改札の真横が海沿いのヴェルニー公園の西端なので、散策のスタート地点としてはなかなかよい。

●ヴェルニー公園に出ると、左手には海上自衛隊の水上艦艇あれこれ、対岸には米軍基地に間借り状態の海自の潜水艦などが「常設展示」状態で見られる。

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1枚目は、現在「軽空母」に向けての第二次改修待ち?の護衛艦「いずも」。ミッドウェーで沈んだ旧海軍の正規空母のうち、「赤城」と「蒼龍」が同じく横須賀が母港だったそう。「いずも」の全長は「赤城」よりやや小さく、「蒼龍」よりは大きい。大戦中、空母が横須賀に入港・停泊していた時は、こんな感じに見えていたのだろうかと思う。

それにしても、「日本が空母を持つ」なんて、一昔前ならそれだけで政権がひっくり返るくらいのネタだと思うのだが、なんとなくなし崩しでそこまで来れてしまったというのも、またそれがほとんど世間的に何も注目されていないというのもスゴイ。

その「いずも」の向こう側に、最新鋭の「もがみ」型護衛艦がいるのに気付いた。スマホのソフト的望遠でだいぶ拡大したので、ちょっとピンボケ。ステルス性を強く意識した、旧来の艦艇とは違うのっぺりした傾斜面構成、ロケットのように直立しているアンテナなどが、いかにも「新世代」な感じ。しかしその一方で、昔々の装甲艦のようでもある。

横須賀には同級は「もがみ」「くまの」がいるとのことだが、艦首にうっすら「1」が見えている感じなので1番艦の「もがみ」かな。

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ヴェルニー公園のちょうど真向かいにある潜水艦基地に停泊する2隻の海自の“黒なめくじ”さん。尾部がX舵ではないので、新鋭の「たいげい」型や「そうりゅう」型ではなく、古参の「おやしお」型らしい。

最後の写真は、艦橋からマストから、大々的に足場に包み込まれた面妖な姿になっている艦。写真を拡大して、艦尾にある文字で、米海軍のミサイル巡洋艦(イージス艦)、アーレイ・バーク級の「ラファエル・ペラルタ(Rafael Peralta)と判明。それにしても、何の作業をしてるんですかね? 塗り直し?

Img20241005184705 ●突発的に横須賀を行き先にしたのは、先日は配布施設が定休日(水曜日)だったために貰えなかった、「横須賀のもう一枚のマンホールカード」を貰おうと思い立ったため。

配布場所はドブ板通りの観光案内所?の「ドブ板ステーション」で、マンホールカードになっているマンホール蓋のデザインも、ドブ板通り発祥の「スカジャン」。

ちなみにこの商店街は、wikipediaによれば「ドブ板通り商店街」は俗称で、正式には「本町商店会」であるらしい。とはいっても、商店会のHPもタイトルは「ドブ板通り」になっているし、もう「ドブ板通り商店街」でいいんじゃないかな……。

なお、ドブ板通りというからには、もともとドブがあって、今は暗渠になってるんだろうなと思っていたのだが、実際には戦前にはドブ(とそれを覆う鉄板)があったのは確かなものの、その後ドブ自体なくなっているらしい。

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Hiroshima, mon amour

●表題はマルグリット・デュラス脚本による映画の題名。邦題は「ヒロシマわが愛」だったり「二十四時間の情事」だったり。

原爆で家族を失った日本人男性と、反戦映画のロケで広島を訪れた、元コラボ(対独協力者)のフランス人女性という、それぞれ戦争で心に傷を負った2人の出会いを描いた映画。……というようなことがwikipediaに書いてある。

Img20241003202703 実はデュラス(の「破壊しに、と彼女は言う(Détruire, dit-elle)」という小説)は私の大学時代の卒論ネタだったこともあり、デュラスの代表作はだいたい読んでいて(もちろんほとんど邦訳)、当然、「イロシマ・モナムール」の脚本も読んだはずなのだが、さっぱり覚えていない。だめぢゃん。

調べてみたら逗子市立図書館に在庫があったので、早速借りてきた。パラパラとめくって、ほんの文章の断片を目にしただけで、「頭が凝る」ような、いかにもデュラスな面倒臭さが久々に蘇ってきた。わざわざそんな人の作品を卒論テーマに選ぶあたりが、長引いた厨二病の残滓というか何というか。

●そんな「ヒロシマ本」を改めて読もうと思ったきっかけは、9月末の週末3日間、仕事で広島に行ってきたため(単に地名で思い出しただけで特に脈絡はない)。

広島県内に足を踏み入れるのは2009年以来? その時も福山~尾道までで、広島市内は今回が初めてかも。高校の時の修学旅行が「山陰山陽」だったのだが、その時に広島に寄った記憶がない(秋吉台と萩・津和野に行ったこと、松江で一泊したことは覚えている)。

そんな(たぶん)初めての広島市は、とにかく市街地が広くて、一応私も“首都圏住まい”ではあるのだが、その都会ぶりに「お上りさん気分」になってしまった。縦横に路面電車が走っていて、それがすっかり住民の足として溶け込んでいるようなのもポイントが高い。

●その路面電車(広電=広島電鉄)は、いかにも新世代の低床式車輛と、昔懐かしい「チンチン電車」感たっぷりの旧式車輛が入り交じって走っているのがなかなか楽しい。

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写真1枚目、2枚目は広電最新(たぶん)の国産超低床車輛5200形。前形である5100形の小改良型? 5車体連接車で台車は両端と中央の3つ。つまり2・4番目の車体は両側から吊り下げている感じ。1枚目はアウディ・ラッピングの5203(原爆ドーム近くの相生橋で)、2枚目は広島駅前高級マンション「ザ・広島フロント」ラッピングの5208(宇品線終点の広島港駅)。私は特に鉄な人ではないので、広電のサイトとかwikiとか見ながら書いてます。

写真3枚目はカエルっぽいダブルの前照灯がお茶目な1900形(原爆ドーム前駅)。元京都市電の車輛を譲り受けたもので、全車に京都にちなんだ固有名が付けられており(FCM 2Cみたい!)、写真の1915は「鞍馬」。広電デビューは1970年代末だが、元をたどると1950年代製らしい。

写真4枚目はさらにベテランの570形。現存は写真の582号車のみ(十日市町駅)。広電デビューは1971年だが、神戸市電の車輛を譲り受けたもので、戦後、外装含めてかなりの改装を経ているものの遡ると大元の車輛完成は1924年だそうな。100年選手!

●「出張先」のイベント会場兼1晩目の宿泊は、平和記念公園のすぐ南側だった。

平和記念公園は「旧太田川」と「本安川」に挟まれた三角州の上流側突端にあり、原爆ドームは本安川の対岸に建っているのだが、(よくテレビなどに映るのでお馴染みの光景ではあるものの)平和記念公園のメインエントランスである南側から慰霊碑等を経て、真っ直ぐ正面に原爆ドームが見える配置になっている。

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狭義の「ドーム」部分は、単に外装が失われて骨組みだけになっているとだけ思っていたのだが、近くからよく見ると、爆圧を受け、爆心地から反対方向に(2枚目の写真で見ると左方向に)ややひしゃげているというのに初めて気付いた。

建物それ自体はほとんど外壁のみで、内側に鉄骨を組んで支えている。内部の瓦礫はあえて残してあるが、流石に約80年が過ぎると「焼け落ちた/崩れ落ちた」感は薄れ、むしろ「展示品」感が濃い。

●せっかく遠出をしたので、市内で貰えるマンホールカードを5枚集めた。初めての西日本のカード。

実際には、広島市のマンホールカードは6種類(も!)あるのだが、残りの1種は曜日限定かつ要予約で施設見学をしないと貰えないので断念。

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色味的には地味だが、「もみじに鯉」の図柄のものが、なかなかシックで素敵、と思った。

●最終日は午後早めに終了。同行者に「宮島とか行ったらどうですか?」と薦められたが、時間的にも半端だし、「またそのうち……」ということに。もうこの歳になると、「またそのうち」もなさそうな気もするけれど。

広島城は最終日に堀の外側から天守を見た。帰ってから調べてみると、天守は戦後再建の鉄筋コンクリート造であるものの、老朽化のために建て替えの計画があり、来年末には閉館・立ち入りできなくなるとのこと。そう聞くと、入れるうちに入っておけばよかったなあ、と思ったり。

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すでに東日本では姿を消してしまった“おやつはカール”が、そのへんのコンビニでも普通に売られていて、嬉しくなって2度も買ってしまった(類似品がないわけでもないので、箱買いするほどではない)。江ノ電の「カールラッピング」も今となっては懐かしい。


●オマケ。

30日、用事があって自由が丘に行ったついでに、大岡山駅前のパン屋「ヒンメル」でプレッツェルを買い食い。「僕ってなんてイケメンなんだろう!」とか言い出しそうな店名。

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小ぶりだが1つ300円なので、ややお高め感あり。写真でもわかるように塩の粒は控えめで、しかしその分、細いところも太いところも、おおよそ同じくらいの塩気。中のもっちり感もなかなか良くて美味しかった。さすが勇者の店は違うぜ!

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8月のヨモヤマ

●FCM 2Cのディテール・チェックで、それほど多くもない写真を繰り返し見ていて眼が疲れたので、一回休みでヒマ話を。

なお、「眼が疲れた」は最近本当の悩みで、モニタの文字が紗が掛かったように読みづらい時がある。糖尿病が目に来るという話もあるので、久しぶりに眼底検査を受けてみたが、結果は「異状なしです」。それはそれでほっとしたものの、要するに「老眼が進んだのでは」とのことで、中距離用にメガネをもう一つ用意したほうがいいのでは、と言われた。ああ、ぢぢぃってのは面倒だね。

Img20240601180339 ●市内を流れる田越川の護岸工事だか浚渫だかで、夏前から時々クレーン船が来ているのだが、なぜか日本陸軍機塗装。なんぞこれ……。

数か月に一回開催している「オンラインたまんちん飲み会」で皆に見せたら、(日の丸のバック以外の灰色部分も考えると)「陸軍機塗装というより空自塗装では」とのこと。いや、まあ、どっちでもいいんだけど。

先月の記事で、これまで逗子市内に4基残っていた丸ポストが、残念なことに2基撤去されてしまった話は書いたが、その記事でみやまえさんからコメントを頂いた通り、撤去されたポスト2基が、現在、逗子郵便局(本局)の横に置いてあるとのことで、別れを惜しんで写真を撮ってきた。

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奥のポストが、入口や隙間がテープで塞がれているので、たぶん「アリがわいた」との理由でしばらく利用停止になっていた池子2丁目のポストなのだと思う。根石が1つしかないが、どちらかのポストは、根石がしっかり固定されていて取れなかったかな?

この先、この2基のポストは鋳潰されてしまうのかもしれないが、そうではなくて、どこかにモニュメントとか展示物とかとして引き取られる可能性があればいいなあ。

ちなみに、この2基のポストは、8月24日現在、まだ郵便局横に保管されていた。

追記。25日夕にもまだあった

Img20240730190149 ●大船や横浜に行く機会があると、成城石井でプレッツェル(ソフトタイプ、2個入り)を買うのが定例化しつつある。それとは別に、何か見慣れない食べ物とか飲み物とかにはついついふらふらと手が出そうになるのだが、最近、実際に手を出してしまったのがコレ(といってもすでに先月末だが)。

しばらく前に流行った、いわゆるクラフトコーラの一つで、「いよしコーラ」と読むらしい。どこか田舎の町興しも兼ねたような商品なのかと思ったが、帰宅後調べてみたら新宿の下落合産だった。

で、味はというと、コーラ風のなかに高麗人参シロップの「甘い泥」風味がある。缶の横を見ると、実際に原材料のなかに高麗人参が入っているようだ。かなり好みが別れそうな味だが、私自身は、ロッテやヘテの「高麗人参ガム」が好きだったくらいなので、そこそこ気に入った。でも高いんだよな……(250ml缶入り1本約300円)。

ちなみに「高麗人参ガム」は、現地で一緒に仕事した韓国人カメラマンに「あんなマズイもんよく食うなあ……」と(韓国語で)呆れられた。そして現在はロッテもヘテも生産していないらしい。残念。

●あまりに暑いこともあって、時々マックシェイクを飲む(マックのハンバーガーは滅多に食べないが)。

さて、マックシェイクはどの味も同じ機械で出すので、いろいろ味が混じる傾向がある、というのはネットで見て知ったのだが、それにしても、「マックシェイクのチョコレート味」を頼んでも、毎度チョコレート風味がほとんど感じられないのはどうしたもんだか。

もしかして、かき氷のシロップ同様、「**味の別で色は違っても味は同じ」ということになったのか?

●名越切通を歩いていて、目の前に不時着してきたミンミンゼミ。

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腹の両側に大荷物を抱えている。セミヤドリガの、たぶん終齢に近い幼虫2匹。そもそもセミヤドリガはヒグラシに寄生することが多いとのことだが、別に他のセミがダメということではないらしい。

地面に落ちてきたところを見ると、セミヤドリガに生命力を吸い取られて力尽きたのかとも思ったが、wikipediaを見ると、セミヤドリガが直接セミの生命を脅かすことはあまりなく、セミが生きて活動しているうちに離れて繭を作るらしい。というわけで、離れる前に宿主が行き倒れそうになっているこの状態は、セミヤドリガにとっても若干ピンチなのかも。

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ミニスケール2題

●暑くてダレているせいもあって模型作りも低調。ただ、手すさび的に漫然といじっているものはあって、そんな2つを軽く紹介。どちらもミニスケール(1:72)、かつ組立途中。

Img20240702214831 ▼一つ目は、THE WORLD AT WAR 1:72の「巡航戦車Mk.I(A9)CS」。

購入時に書いたレビュー記事はこちら(2020年12月6日

防盾の部分だけ色が違うのは、ディテールアップをしようとかではなくて、いじっているうちにぽとっと落として、そのまま行方不明になってしまったための作り直し。

なお、私は(そこそこ熟練のモデラーではあると思っているが)結構、部品破損や紛失のアクシデントが多いボンコツなので、そのたびに泣く泣く部品を新造する羽目になる。一応、自分自身への戒めもあって、「代わりに自作するパーツは、少なくとも無くした/ダメにした部品とおおよそ同等か、それ以上のものにすること」というハードルを課している(本当にそれを完遂できるかどうかは微妙だが)。

なお、この防盾はまだ工作途中で、これからディテール工作予定。

レビューにも書いたが、このキットの最大の問題点は、指定塗装/デカールが(箱絵も)1940年フランス戦時の大陸派遣軍のものなのに、パーツは、アフリカ戦の大型サンドシールドが入っていること。レビュー記事からの再掲だが、パーツはこんな感じ(左右で形状が違う)。

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さすがにこのためだけに2ポンド砲型を買ってキットを一つ潰すのは嫌だし、キットのパーツを削り込んで、なんとか通常型フェンダーらしく見えるようにした。

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履帯は、エッシーのバレンタインを探し出して換装するなどという贅沢はせず、キットのまま。もっとも、側面から見た時の雰囲気はエッシーの履帯よりキットの方がよいので、換装する効果はちょっと微妙な気もする(ガイドホーンがカマボコなのは、やはりちょっと気になるが)。

Img20240702215005 ▼2つ目は、First to Fight 1:72の「PRAGA RV 6輪トラック」。

購入時のレビュー記事はこちら(2016年12月27日)

もともとチェコスロバキア軍用に作られた軍用トラックで、大戦中はスロバキア、ポーランド、ルーマニア、ドイツでも使われ、小国者的にはちょっと美味しいはずのアイテムなのだが、残念なことに資料写真に乏しい。しかも何しろ元がただのトラックだから、何軍に使われていても塗装やマーキング等で変わり映えがしない。

というわけで、いじり始めてはみたものの、完成に向けての意欲はいまひとつ。

ちなみに、後輪が2軸かつダブルタイヤなので、かなりの重車輛に感じるが、積載量は2tだそうだ。

一応、ちょっとだけ手を加えたのは、幌を張った仕様のキットと共用パーツのため、幌骨の下半分がモールドされていた荷台側板から、その幌骨を削り取ったこと。元パーツは下のような感じ(レビュー記事からの再掲)。

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削り取った跡を、もうちょっと綺麗にする必要はあるかも。

また、この車輛は前後輪ともにポジティブキャンバーが付いている(前後方向から見て、車輪が逆ハの字になっている)。後輪まで、しかもダブルタイヤなのにキャンバー角が付いているのはちょっと珍しいかも。キットはそのままだと前後とも垂直になってしまうので、角度を付けて接着した。当然、角度を付けても後輪内側が接地するよう、接地面は多少ヤスって平らにした。

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ただ、こうして写真で見ると、ちょっと後輪の角度が足りなかったかな?

あとは、キャビン横ドアの後縁にケガキ線を入れた(キャビンとドアが一体化していたので)。

●先週水曜日(26日)、仕事で横須賀へ。ついでに、先日「のの字坂」記事へのコメントでみやまえさんに紹介してもらった、旧東京湾要塞砲台(米ヶ浜砲台)跡地の「平和中央公園」に行ってみる。横須賀中央駅からはすぐ近く……なのだが、結構な高台にあって、いきなり長い階段を上る羽目になってへろへろ(なので、話の発端の電柱の銘板までは見に行かなかった)。

砲台跡地と言っても、元が明治時代の、港湾防御用のものなので、大戦中の高射砲陣地のような円形のベトン(コンクリート)製砲座などは残っていない。弾薬庫?の壕は残っているが、砲そのものがどのように配置されていたかなどは、現状の風景からは想像しづらい。

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ちなみに、この砲台には、日露戦争の際に旅順攻略に持って行った二十八糎榴弾砲(wikipedia記事)と、それより小径・長砲身の二十四糎加農砲(wikipediaに記事無し)が配備されていたらしい。

高台の公園なので見晴らしは良い。東京湾要塞の遺構としては、より大規模かつ濃密に残っている猿島が、ちょっと見下ろす感じに見える。

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みやまえさんお勧めの「横須賀市自然・人文博物館」は臨時休館で入れなかった。残念。

●昨年末に横須賀市のマンホールカードが増えて、新しいカードはドブ板通りの「ドブ板ステーション」で配布されているとのことだったので、行ってみたら水曜定休だった。がっくし。

貰えないとなると悔しくなったので、仕事帰りに足を伸ばして、三浦市のマンホールカードと、横須賀市の3種目のカードを貰いに行く。

三浦市のカードは、三浦市役所(三崎口駅からバス)または三浦市観光インフォメーションセンター(三浦海岸)で同じものが配布されているようで、行きやすい後者のほうへ。

三浦海岸へは(少なくとも覚えている限りでは)初めて行ったが、砂浜がものすごく広いうえにベージュで美しい(写真1枚目)。これに比べると、逗子の砂浜なんて猫の額だし、砂の色は灰色であまり綺麗ではないし、ゴミも多い。すごく負けた気分。東京湾のくせに!東京湾のくせに!

横須賀市の3種目のカード(発行順から言えば2種目?)は、「浦賀奉行所開設300周年記念」の絵柄で、浦賀駅からちょっと歩いた先の「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館)」が配布場所。写真2枚目はその途中で見た歯医者さんの看板。いや、いくら浦賀でも、この名前はちょっとどうなんだろう……。

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仕事の時間はわずかで、外出時間の大半を「三浦半島をうろうろ」で過ごした感じ。ともあれ、カードは2種増えた。今度改めて、ドブ板通りのものも貰いに行こう……。

●今度の週末は東京都知事選挙投票日。

今回の都知事選、私の知り合いも出馬しているのだが、知り合いといっても、もうかれこれ30年くらい会っていないし、向こうもたぶん覚えていないと思う。そもそも私は東京都民ではないので(都民だった時期はある)、応援も支持もへったくれもないが、とりあえずは「まあ、頑張ってね」くらいは思う。

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シロマダラ

Img20240620211503 ●ちょっと珍しいイキモノ話題。

数日前の晩、近所のコンビニ裏の路地を通りかかったら、道の真ん中に小型のヘビがでろ~んと伸びていた。ああ、自転車かバイクにでも轢かれたのかな、かわいそうに……と思いつつも、スマホを近づけて写真を撮っていたら、突然にょろにょろ動き出して驚いた。なんだこのとろいヘビ……。

さて、この手の模様のあるヘビの場合、ずんぐりしてスタイルの悪いヤツはマムシ、シュッとスマートならアオダイショウの幼蛇、と判断するのが定石なのだが、そもそもそのいずれにしても、この写真のヘビのように模様の濃淡差は大きくない。

改めて調べてみると、どうやら、「まぼろしのヘビ」として、発見が時折ニュースネタに取り上げられることもある「シロマダラ」というヘビらしい。

なんだか、シロマダラを見たくて数年間探し求めた人の話まで出てきた。もっともその一方で、「実は小型で夜行性なので人目に付かないだけで、実は割と普通にそのへんにいる」という話もあったりして、「まぼろし」度には若干の疑問符も付く。

まあ、個人的には「滅多に見ないものを見て、ちょっと得したかな」くらいに思っておこう。

●他にも、あまり見ないようなヤツ、久しぶりに見たヤツなどとの邂逅がいくつか。

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1.アカスジカメムシ。数年ぶりに見た美麗系のカメムシ。カメムシ界のダース・モールみたいなくっきりした赤黒の配色。もっとも、これに限らず、昆虫というのは特定の環境に居ついていることが多く、このアカスジカメムシも「セリ科の植物に集まる」のだそうで、この時も、セリ科のヤブジラミで発見。探してみると、同じヤブジラミの藪に3匹、4匹と見つかった。毎年、この時季にヤブジラミを見れば、当たり前に見つかるものなのかも。

2.披露山の肩のところで遭遇。肩のところだけ赤い模様がある、やや大きめのハムシ……? それなりに特徴があるので、割とすぐに同定できるだろうと思ったのに、ウェブ上でハムシで当たっても行きつかず。しばらくして、(前胸部の形状から)「ホタルの仲間かも?」と思い直して調べたら、すぐに判明。カタモンミナミボタル、という種類だそうだ。幼虫のエサは陸棲貝類だそうな。幼虫は光る、だけでなく、最近になって、成虫もごくかすかに光ることが判ったらしい。まあ、パッと見ても判らんけどね。

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3.このへんの野山でよく見る小型のゴキブリはモリチャバネゴキブリなのだが、これは一回り大きく(といっても、家の中で見る「大きいゴキブリ」、クロゴキブリよりはだいぶ小ぶり)、しかも前胸部の色模様が全然違う。どうやら、キョウトゴキブリという、ややマイナーなゴキブリらしい。ゴキブリなんてそのへんに(大いに嫌われつつ)はびこっていて、害虫として逆に研究も進んでいるのではというイメージだが、キョウトゴキブリは、1970年になってようやく新種記載されたというマイナーぶり。しかも発見された京都では、「要注目種(絶滅危惧とまではいかないが、まあ、もしかしたら危ないかもしれないので見守ってみましょう、くらいの感じ)」として京都府レッドデータブックに載っている。それでいいのか、ゴキブリとして。

もっとも、ウェブ上にあるキョウトゴキブリの写真は、いまひとつ特徴をしっかり捉えられるものがなく、この写真が本当にキョウトゴキブリなのかどうかは、ちょっと自信がない(普通のチャバネでも、モリチャバネでもないし……という消去法の結果)。現在、環境省「いきものログ」の種名調べ支援で依頼中。

(7/4追記。環境省「いきものログ」の種名調べ支援で回答コメントを頂いた。どうやら、キョウトゴキブリではなく、同じくチャバネゴキブリ科のキスジゴキブリ、という種類らしい。キョウトゴキブリよりはもうちょっと一般的な種らしいのだが、それでも、もともとは南方系(西日本以南)のゴキブリで、関東では新参者のようだ。いずれにしても、家の中でゴソゴソしないでいてくれれば、あまりイヤではない)

4.ノコギリクワガタ♂の頭部(……だよね? 頭の後縁部がよく判らないけれど、ミヤマの赤褐色型じゃないよね?)。近年、身近にクワガタムシを見る機会はだんだん減っている感じで、せいぜい、ひと夏に一度か二度、それもコクワガタを見る程度?という感じなのだが久しぶりに(死骸とはいえ)大型の種のオスを見た。まだちゃんと、この手のものも生息しているんだなあ、と確認できた(もちろん、この個体は「ちゃんと」していないけれど)。

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5.我が町逗子で、山の際に住んでいるとしばしば屋内に侵入されての遭遇が避けられないムカデ(トビズムカデ)。これはその中でも、過去最大級で、触角から曳航肢まで含めると12cm超。かみさんの絶叫に呼ばれて、捕獲・退治した。かみさんはこれまでに数度、ムカデに噛まれて半ばトラウマと化している。

この直後、かみさんの強硬な主張により、ムカデ除けトラップ(毒エサ?)を購入して窓辺や玄関に設置。その効あってか、数日後、玄関脇でこれに近い大きさのものが1匹死んでいた(しかし、その前にもう一匹、屋内に侵入してかみさんが大騒ぎした)。

●ネットをうろうろしていて見つけたもの。

自由落下式の緊急脱出用救命艇。か……かっこコワイ!(カッコイイ+怖い)

海上の石油/ガス・プラントなどで使われるほか、損傷を受けた際に沈没までの時間が短いばら積み貨物船(バルクキャリア)の大型のものでは搭載が義務付けられているとのこと。型式によっては60m以上の高さからの落下試験などを行っている動画もあった。

●輸入食品屋などで、何やら怪しい(そしてお手頃なお値段の)食べ物を見つけると、とりあえず試してみたくなる。

というわけで、業務スーパーで見かけて、ついふらふらと買ってしまったお菓子2種。いずれもインド産(ロゴマークを見て判るように同一メーカー産)。

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まず一つ目、左は「ギー・デーツ・ハルヴァ」。

「ハルヴァ」と名の付くお菓子は南アジアから東ヨーロッパ、さらには北西アフリカ(モロッコ)まで幅広く分布していて、以前、同じく業務スーパーで、トルコ産のハルヴァは買って食べたことがある。

トルコ産のほうは、何というか、サクっと柔らかく軽めの落雁という感じで、「まあ、うん、美味しいか、不味いかといえば、美味しいかな?」くらいの感じだったが、何しろ量がタッパー一杯くらいあったので、消費し切るにはちょっと時間がかかった。(その時に当「かばぶ」に感想を書いたような気もするのだが、いつだったか忘れた)

さて、今度のインド産のハルヴァだが、こちらは一口羊羹サイズの個包装で5つ入り。名前の通り、どうやらベースはデーツ(ナツメヤシ)をギー(バターオイル)で練ったもので、中にナッツが入っている。淡いクリーム色だったトルコのハルヴァとは、とにかく見た目からしてだいぶ違う。

……で、食べてみたのだが。個人的には、「うぎゃー。ナンダコリャ」レベルで美味しくない。先にトルコのハルヴァは「柔らかく軽めの落雁」と形容したが、こちらはゆべし?羊羹? ねっちょりもっちょり、しかもいかにも「動物性のオイル」感があるうえに、ベタ甘。せっかくのナッツの食感とか香ばしさとかも台無し。消費し切れるかな、コレ(泣)。

とにかく、「ハルヴァ」と名乗っていても、その中身は産地ほかでまるっきり千差万別らしいことが、これで分かった。米原万里がどこかで「美味しいなんてもんじゃない。こんなうまいお菓子生まれて初めて」と評していた極上ハルヴァに出会う道のりは遠そうだ。ちなみに米原さんが少女時代にチェコで食べたハルヴァは、どうやらギリシャ産らしい(ネットでこのエピソードに触れている記事によれば)。

二つ目。右写真、「ソアン・パプディ」。

「ギー・デーツ・ハルヴァ」で痛い目に遭ったのに、なんで同じメーカーの菓子に手を出すかね……と、自分でもちょっと思ったのだが、「この際とことん……」的な変なやる気が出てきたので。しかし、これが実は思ったよりも美味かった。

パッケージ写真は綺麗に四角く切り分けられて、中身も一応切れ目は入っているのだが、実際には非常に脆いので、無理に綺麗に取り出そうとするより、スプーンですくって食べる方が無難。

いやいや、それよりも……これはなんて形容したらいいんだろう。

上の「ギー・デーツ・ハルヴァ」よりも、むしろこちらのほうが、トルコ産の「ハルヴァ」に近い見た目と食感なのだが、トルコ・ハルヴァよりもはるかに軽い、ちょっと未体験の食感。デニッシュとか折り込みパイ生地のように(あるいはそれ以上に)薄い薄い層が重なり、フワサクっとしていて、それが、口の中でほろっとほどけて溶ける。wikipediaに記事があるのだが、見た目は全然違うものの、これは綿あめの親戚にあたるような菓子らしい。主成分は砂糖で、飴状態にした材料をパイ皮のように伸ばして重ね伸ばして重ねを繰り返して「サクフワ」状態に仕上げるのだそうだ。

砂糖がメインのお菓子なので結構甘いのだが、カルダモンが入って、さらにトッピングにピスタチオが載っていて、若干の清涼感もある。頻繁にリピートしたくなるかといえば微妙だが、これなら、知り合いに「うん、一度食べてみるといいよ」と薦めてみてもいいと思えるレベル。

●川崎の実家を処分することになり、荷物の整理とか、仲介の不動産業者との会合とかで、久々に(数回)実家に行く。うーん、ちょっと間があったら行こうかなあ、と思っていた、「砲台に消えた子供たち」講演会の当日も、結局実家行き。

●あー。今回も模型話まで進まなかった。

ところで、前回書き忘れたが、先月下旬のホビーショーで、(かねてから噂になっていた)「タミヤからI号戦車」の会場発表はなかったそうだ。

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