●長らく更新をさぼってしまったが、生きてます。
模型製作も低調。とはいえ、以前書いたエッシー72改造のマチルダII mk.Iも若干は進んでいるし、買ったきり横目で眺めているだけだったタミヤのオチキスも少しはいじっていたりする。その辺の話はまたいずれ。
とりあえず、ボチボチでも「書いてUPする」勘所みたいなものを取り戻そう、というところで、日常話。
●2月27日木曜日。さらには週が明けて3月2日にも再び。
お隣・鎌倉市の「大町釈迦堂口遺跡」を見に行く。
場所としては、「数ある鎌倉の切通の中でも一番カッコイイ(とはいっても、実際は切通ではなくトンネル)」釈迦堂切通の上一帯。なお、釈迦堂切通は一昔前の鎌倉観光案内などの本では必ず取り上げられる(場合によっては表紙に使われる)くらいの有名な場所だったが、崩落の危険ありということで、東日本大震災の少し前から、柵が据えられて完全に通行止めになっている。(→2011年3月の記事)
本題の遺跡は、長らく北条時政の名越邸(名越亭)跡と言われていたところだが、今世紀に入ってからの発掘調査の結果、遺構などは鎌倉時代中期~後期以降までしか遡れず、初代執権の北条の“親父殿”の屋敷ではありえず、おそらく未知の大寺であろうというあたりまで判明。公式な名称も「大町釈迦堂口遺跡」に変更になっている。
もともと戦後しばらくまでは個人所有の私有地、その後企業の所有となり、さらには開発デベロッパーの手に渡って開発の手が入りそうになったところで地元の反対などもあり--なんだかんだ調査も行われた末に国の史跡指定(2010年)もあって、今は市の所有になっているらしい。
昔、企業の所有だったころは、一般の人も時々は入る機会があったようなのだが、少なくとも私が存在を知って以降はずっと立入禁止になっていて、私も今回初めて入った。
●大町の谷戸を奥へ奥へと歩き、釈迦堂切通に向かう少し手前で右に逸れ、切通行きよりちょっとだけきつめの坂を上っていくと遺跡入り口にたどり着く。
遺跡入り口は、上下二段になった平場の間あたりにあり、そこからまた少し上ると上段の広い平場に着く。遺跡全体は、建物があったと考えられるこの平場と、周辺の、いくつかの名付きのやぐらを含むやぐら群が散在する尾根の一帯から成る。
なお「やぐら」とは、夏祭りで真ん中に立っているヤツとは同名の別物で、中世(鎌倉時代後半~室町時代前半)の鎌倉周辺特有の横穴型の葬送施設。wikipediaには下手な書籍よりももっと詳細・長大な解説記事が載っているので、興味のある方はそちらを。

最初の2枚は遺跡入り口ゲートあたりに新設されたらしい案内解説板。が、いきなり解説内容に誤りがある。「唐糸やぐら」の由来に関して「木曽義仲の娘、唐糸にまつわる」と書かれているが、正しくは「木曽義仲の家臣、手塚太郎光盛の娘」。もっとも、室町時代の「御伽草子」のひとつ、「唐糸草子」に登場する伝説上の人物なので、誰の娘と書いても大きな違いはないかも。
うしろ3枚は平場を囲む崖面のやぐら。名越切通途中の「まんだら堂やぐら群」のやぐらが中小規模のやぐらの集積であるのに比べると、ひとつひとつのやぐらが比較的大きめ。
平場では、発掘調査の結果建物の柱穴跡や常滑焼の壺、火葬跡(平場隅)なども見つかっており、寺院等があったことが伺えるという。ただし、文献等からは、この地にそれなりの大きい寺があったという記録は見つかっていないらしい。
平場奥の、(企業所有時代に散策路整備のために作られたらしい)コンクリート階段を経由して斜面を登ってくと、登り切った辺りに、名付きのやぐらである「地蔵やぐら」と(前述の)「唐糸やぐら」が2つ並んでいる。

1枚目写真、手前が地蔵やぐら、奥が唐糸やぐら。
地蔵やぐらは変則的な凸字形で、奥に地山からそのまま彫り出した地蔵が鎮座。ただし胸から上は質感が違うので、おそらく、脆い鎌倉石製の元の上半身は崩れてしまい、後から作り直したのではないかと思われる。手前左右の石塔(五輪塔)も一部崩れかけだが、表面に刻まれた梵字も何とか確認できる。
奥の唐糸やぐらは、主家のために頼朝暗殺を企てた、木曽義仲の家臣・手塚太郎光盛の娘「唐糸」が、企みが発覚し閉じ込められた場所という伝承があり名付けられたもの。入り口の狭まった部分(羨道・『せんどう』もしくは『えんどう』)左右には、扉がはめ込まれていたと思われるほぞ穴も確認でき、内部の崩落等も少なく、綺麗な状態を保っている。他のやぐらのように石塔の類などは(痕跡はあるが)現在は置かれていない。
ちなみに、前述のように「やぐら」が作られたのは主に鎌倉時代後半からで、この遺跡自体も(発掘調査の結果)鎌倉時代後期以降であるという調査結果が出ているため、鎌倉時代最初期の設定の人物・唐糸が閉じ込められた可能性はない。
地蔵やぐら・唐糸やぐらの少し先がほぼこの辺りの尾根のピークで、そこには狭く深い切通があり、上には現在では底が抜けてしまった太鼓橋が掛かっている。
この橋は、なんとなく山水画めいたこの景色にはなかなか似合っていて、過去、この遺跡一帯を紹介しているネット上の記事などでも必ず紹介されているが、企業所有地時代の散策路の一部で、昭和50年代?くらいに作られたもの。ただし、よく見るとこの太鼓橋たもと直下の壁面には、別のほぞ穴も確認できるので、さらに昔は別の橋が掛けられていた可能性がありそう。
現在は上部は立入禁止となっているが、写真で見て橋を渡って左側にはあずまやが作られている。なお、切通も現在は手前にロープが張られ通れないが、そもそも切通の向こう側は深い谷で、現在は道としては機能していない。
上の切通を迂回して進むと、釈迦堂切通の上部に着く。
釈迦堂切通は(先述のように)崩落の危険ありとのことで現在は通行禁止だが、その洞門上は通れる、というのがちょっと不思議な感じ。

写真1枚目が洞門上の通路。新たに転落防止柵が設けられている。2枚目は遺跡範囲外を回って大町側から見た釈迦堂切通の現状。洞門上の転落防止柵が、下からも少し見えている。
3枚目、4枚目は洞門上から見下ろした切通路で、3枚目が大町側(南側)、4枚目が浄明寺側(北側)。浄明寺側は藪に遮られて道がよく見えない。
なお、この釈迦堂切通の崩落対策としては、切通上の片側に深い縦穴を掘り、そこから横方向に、洞門上部分に複数の鉄芯を植え込んでいるのだそうだ。その縦穴跡も通ったのだが写真は撮り忘れた。切通路自体も、今年度内には通行再開になるのでは、とのこと。
なお、釈迦堂切通は明治初期に作成された地図には出ておらず、遺跡入口の案内板にも書かれているように、どうやら明治期に新たに開削されたもの、ということに落ち着きつつあるようだ。「いかにも古都鎌倉の風情!」と、鎌倉七口の切通よりも有名かも、みたいな存在だったので、ちょっとがっかりだ。
釈迦堂切通洞門上を過ぎると、中小のやぐらが7基並んだやぐら群がある。

手前から3つ目のやぐらがこの中で最も大きく、奥の壁右側と左側面の壁の丸い壁龕がそれぞれ日月に見えるというので「日月(じつげつ)やぐら」と呼ばれている。その間にある二つの四角い壁龕の立場は……。
日月やぐらの壁龕の上下には瓔珞(ようらく=下げ飾り)や蓮華座などが彫刻されているというのだが、壁面も荒れているので遠目ではなかなか確認できない。ただ、入り口近くの向かって右壁面に刻まれた梵字キリーク(阿弥陀如来や千手観音を示す種字)はよく判った。

同じやぐら群の小やぐら2つ。まんだら堂やぐら群のものもそうだが、置かれている石塔は、崩れて周辺に転がっていたものを適当に重ねて置いただけで、オリジナルの状態とは考えづらい。
●2回行って、2回とも現地でボランティアのガイドによるガイドツアーに参加したが、それぞれ案内の内容に濃い薄いがあって面白かった。
ちなみに、2度目のガイドさんの話によると、この遺跡が「北条時政邸跡地だった」という従来の定説は、明治期に、この辺りの調査をした郷土史家が発端であるとのこと。
直近の調査で否定されたこの説だが、「では、北条時政の名越邸ってどこにあったのよ?」というのがちょっと気になる。
北条時政の孫である北条朝時は、時政の名越邸を受け継ぎ、以降、名越流北条氏として続くので、少なくとも「名越」と呼ばれる一帯のどこかしらに屋敷があったのは確かのようだ。で、これもまた2度目のガイドさんの話だが、現在では材木座の光明寺の北側にある弁が谷(べんがやつ)にあったのではないか説が有力視されているとか。
中世の「名越」の範囲が広すぎるだろ!という気がしないでもないが、その「広すぎる」名越の北端から南端へと有力推定地がジャンプすることになる。
●ちょっと脱線話。
2度目に訪ねた際には、久しぶりに大切岸の鎌倉側の端から大町の外れの小谷戸の奥に繋がる荒れた山道を降りた。
大切岸の尾根と、鎌倉市子ども自然ふれあいの森のパノラマ台がある山に挟まれた谷を降りていくのだが、南面したパノラマ山側の斜面は、杉林や下草などに覆われて見づらいものの、かなりの集積度のやぐら群が隠れているようだ。

どのみち、このあたりの杉林など無駄に花粉を吐き出しているだけなので、こちら側の斜面だけでも伐採してやぐら群の全貌を見られるようにできないものか。……いやまあ、だいぶ無理っぽいけれど。
ちなみにこの斜面は、名越切通本道から大切岸まで含めて指定されている国史跡・名越切通の範囲には含まれていない様子。
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