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2025年12月

ガリバタ

●12月17日水曜日。義兄弟分であるドイツ人Pの妹一家が来日し、鎌倉案内をして欲しいというので、朝、北鎌倉駅で待ち合せ。

P一族の鎌倉案内をするのは、1年前?くらいの姪っ子、先々月の兄夫婦に続いて3回目。そして来年か再来年には弟夫婦が来るはずで、その時にも鎌倉案内をするよう予約済み。

今回のメンバーは、PとPの妹夫婦、その子どもたち3人と、息子の彼女(アメリカ人?)。そして私の計8人。「迷子が出ないように旗でも持って行けば?」とかみさんに言われる。ドイツ国旗でも持って行けと……。

今回は円覚寺を振り出しに、建長寺門前でけんちん汁を食べ(これは姪っ子が来た時から定番)、円応寺で閻魔様と地獄の十王に謁見(鎌倉のお寺の中でも私のお気に入りなのでここも定番)。

巨福呂坂を越えて鶴岡八幡宮へ。参道で焼き銀杏を食べる(とても観光客っぽい)。

その後、鎌倉駅から江ノ電に乗って長谷の大仏へ。午後は早めに切り上げて「田谷の洞窟」を見に行こうという計画もあったのだが、どうも時間的に厳しそうだったので諦め、長谷大谷戸を歩いて佐助稲荷、銭洗弁財天とハシゴ。

兄夫婦を案内した際には浄智寺、英勝寺、寿福寺など、結構シブめのところを回った(そして大仏にも銭洗弁天にも行かなかった)のに比べると、今回は定番度高し。

最後は大船で「ちょっと高級な居酒屋」で夕食を食べた。

ちなみに、当然ながら私はドイツ語は話せず、英語もお粗末なもの。人数が多かったので、「通訳」のPには頑張ってもらった。あちら一家は、息子彼女が英語民なので、会話はドイツ語半分英語半分くらいの感じ。

●夕食の居酒屋のコース料理の一品で、「ガリバタポテト」というのが出てきた。

皆さん、「ガリバタ」味といったら、どんなものを想像しますかね? 私ゃ、「ガーリックバター」以外のものは思い付かなかったが、そこでは、

フライドポテト(間にたっぷりバター)に、刻んだガリ(甘酢しょうが)載せ

が出てきた。

ドイツ人一行に「日本では、ポテトをこんなふうにして食べるのか」と言われ、「ふむ。これでまた一つ日本に詳しくなった」みたいな顔をされたが、違うからね! オレも初めて遭遇したからね!

まあ、別に不味くはなかったけど。

●鎌倉を歩き回る過程で、P妹旦那が、マンホール蓋マニアであることが判明。これまで撮りためたというマンホール蓋写真をあれこれ見せてもらった。こちらからも、近隣のマンホール蓋写真や、「日本にはこんなものがあるんだヨ」と、マンホールカードの写真を見せたりしたが、彼の写真コレクションは、

「コレはミュンヘンの……こっちがバイエルン州の。これはリスボンで、こっちはフィレンツェ……」

という具合に、コレクションのスケールが違った。例えばミュンヘンの蓋のデザインは市章?で、バイエルン州のものは真ん中あたりが州旗の斜めチェッカーという感じ。あちらのマンホール蓋もそれぞれ「ご当地柄」になっていて格好良かった。なお、ミュンヘンはバイエルンの首都なので、そのあたり切り分けがどうなっているのかは不明。市内と周辺で違うのか、あるいは混在しているのか。

そんなこんなで、散策の途中で鎌倉市内のマンホール蓋の写真も撮っていたが、鎌倉市の場合は(せっかく観光地なのに)いわゆるJIS模様とかハチノス模様とか味気ないものがメインだったのは(紹介する側として)ちょっと残念。

ちなみに、つい先日、仕事先の忘年会で、某航測会社のお偉いさん(かつ、ポケモンgoフレンド)のSさんがマンホールカード・コレクターであることも判明。しばしその話で盛り上がった。意外に世の中にマンホール蓋マニアが潜伏していると知った。

Img20251217211945 ●「1日、案内してくれたお礼に」と、いろいろとお土産を貰った。

上の2つの瓶は、マルメロのジャムとゼリー(P妹のお手製)。日本ではまず見かけない果物で、私も海外の小説とかで名前を見たことがあるなあ、程度。ゼリーのほうは「チーズと一緒に食べてね」と言われて、「え?そんなのアリ?」と思って通訳をしてくれたPに聞き返したくらいだが、後でwikibediaで調べたら、実際にそのような食べ方が出てきた。

とはいえ、「チーズに併せて食べる」というマルメロの加工品で、イギリスでクインス・チーズ、ポルトガルでマルメラーダ、スペインでメンブリージョと呼ばれているものは、もっと固くて羊羹のような感じ。貰ったものは柔らかくプルプルのゼリー状で、これが「ドイツ風」なのかP妹レシピ独特なのかは不明。なお、ブルーチーズとかチェダーとか、ちょっと塩気の強めなチーズと一緒の方がいいらしく、実際に、買い置きしてあったブルーチーズと一緒に食べたらなかなか美味。

ちなみにジャムのほうもゼリーのほうも、味としては「リンゴジャム/ゼリー?」みたいな感じ。ジャムも、チーズトーストに塗って食べたら美味かった(チーズ抜きでも美味しいけど)。

時計回りに、次の2つの袋は、これもP妹お手製のビスケットとジンジャーブレッド・マン。ビスケットは全粒粉らしく、プチプチした食感がよかった。隣の缶詰は、P自身から貰った「なんちゃらかんちゃらブルスト」。レバーブルストもそうだが、ドイツのこの手のパテ系の缶詰はとても美味しい。……が、そのため我が家でも娘ほかに非常に人気で、うかうかしているとほんの少ししか食べられない。

下右のアルミホイルに包まれた枕状のものは、P妹旦那製のシュトレン。ドイツの自家製シュトレンは久しぶり。そして下左は、Pが事前に私の好みを喧伝していたらしく、ドイツからわざわざ持ってきた「ザルツ・ブレーツェル」(250g入り)。

●その他、ここ数か月の身近な出来事やら雑感やら。

まずは「サヨナラ・ポスト」逗子市編。

昨夏、それまで市内に4カ所あった現役丸ポストのうち、2か所が撤去(新ポストに代替)されてしまったことを報じたが(→記事)、ここ数か月の間に、残り2か所も小さな角ポストに置き換わってしまった。

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写真1枚目は沼間3丁目2-1:東逗子駅先、沼間交番前。2枚目は桜山1丁目2-21:逗子~東逗子間、水道路沿い。寿し魚友横。これで逗子市内の現役丸ポストはすべて姿を消してしまったことになる。残念。両方とも、丸ポストの根石だけは新ポストの土台として再利用しているのが、ちょっとだけ嬉しいような気も。

なお、昨夏撤去された2基は今も引き続き逗子郵便局の裏手に置かれたままで、そこに新たに撤去された2基のうちの1基が加わっている。もう1基がどうなったのかは不明。(特に2基は)1年以上保管されていることを考えると、単純にスクラップにするのではなく、どこか引取り手が出るのを待っているのかも。捨てられずにどこかで余生を送って欲しい。

Img20251223182426 ●今月初め、藤沢市のマンホールカードがもう1種新たに追加されたので、湘南鎌倉総合病院に肩のリハビリに行ったついでに、遊行寺近くの「藤沢市ふじさわ宿交流館」まで足を伸ばして貰ってきた。さらに先週末にも葉山町のマンホールカードの2種目がリリースされたので、そちらも早速、配布場所である南郷のHAYAMA STATIONに行って入手。

この近隣のマンホールカードの発行状況(現状)は、逗子市1種、横須賀市4種、葉山町2種、藤沢市2種、横浜市(区単位のもの含め)いろいろ、という感じ。お隣・鎌倉市が空白地帯だが、そもそも鎌倉市は(上述のように)ご当地柄のデザインマンホール蓋がない。正確には、駅前に時計台とヤマザクラ/リンドウの図案のカラー蓋が一つあったのだが(今もあるかは不明)、これは下水道のものではない可能性がある。

●ビートルズを聞き始めてン十年。「One After 909」(9時9分発の次のヤツ)が9時21分だと初めて知った。

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ドイツ人Pの兄夫婦が来た先々月某日、北鎌倉駅で。いや、だからどうなんだって話ですが。

●はるか県北部や県中央部から、横須賀に向けて引かれている旧軍港水道(半原系統・有馬系統)は、「名越送水管路ずい道」で鎌倉・逗子市境を越え、おおよそJR横須賀線と並行して逗子市を横断、沼間のどん詰まりで「盛福寺管路ずい道」を越えて田浦(横須賀市)に抜ける(片方が「送水管路」でもう片方が「管路」なのは「?」だが、実際の隧道に掲げられてあるまま)。

さて、この道筋を人間が辿ろうとすると、名越側(鎌倉・逗子間)は、すぐ隣を県道311号線のトンネルが通っているのでいいとして、盛福寺側(逗子・横須賀間)は尾根の手前で行き止まりになってしまう。

……と、これまでは思っていたのだが、ジオテクの地図を見ると、どうも抜け道があるような。そんなわけで、改めて様子見に行ってみることにした(11月初旬)。

沼間の突き当りで、県道24号線から、脇道になっている水道路の逗子市側端に入る。緩やかな坂をちょっと上った辺りで住民の方に会ったので、この先で田浦側に抜けられるかどうか尋ねる。

その昔、送水管路隧道を歩行者が通れた時代はあったものの、現在ではまともな道はないとの返事。ただし、送水管路隧道のすぐ手前右手に沢があって、その沢床の踏み分け道のようなところを辿っていくと、尾根上のハイキングコースに出られる、という。

それならちょっと試してみようと探してみると、確かに隧道手前に踏み分け道っぽいものがある。なるほどここか、と歩き始めたはいいものの、数日前の雨のせいで沢床が泥沼のようになっていて、にっちもさっちも行かなくなってしまった。引き返すのもままならず、仕方なく沢筋を離れて、道もない急斜面をよじ登り、さらには笹薮に突入。危うく遭難しかけた。とにかく尾根に上がりさえすれば道があるのは判っていたので、それを信じて前進、なんとか抜け出すことができた。

Img20251102152629 Img20251102152640 Img20251102160647 Img20251102160658 Img20251102165343

写真は1,2枚目が「盛福寺管路ずい道」の逗子側、3,4枚目が同・田浦側。隙間から中を覗くと、そう遠くない先に反対側出口の光が見える。それなのに、越えるためにあんなに苦労するとは。最後の写真が、下山後に撮った靴の惨状。

なお、そのしばらく後に「本当に登る道はないのか」を確かめるために再訪したのだが、逗子側隧道入り口の右側ではなく左側に、だいぶ頼りないものの道を発見。途中、何かにつかまらないと登れない急斜面などあるものの、一応、泥沼にも藪にも突っ込むことなく尾根上のハイキングコースにたどり着くことができた。

●11月下旬。横須賀に行ったら、海上自衛隊の埠頭に、見慣れない(そして明らかに海自のものとは思えない)船が停泊しているのが見えた。

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帰宅後調べてみたら、カナダ海軍の新鋭砕氷哨戒艦「マックス・バーネイズ」と判明。

船体横頂部に、インド女性のビンディみたいな赤い印があるのは、カナダのメイプルリーフだったのね……(小さくてよく判らなかった)。

●前回記事「ワルシャワの石畳」で、百均由来のケースについて、「その後同様のものを見掛けない」と書いたのだが、大船-北鎌倉間の大規模なダイソー(鎌倉大船店)で、同じケース(およびそのバリエーション)に再遭遇した。

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逗子や鎌倉の小さな店舗のダイソーには売ってないんだよね。この機会を逃しちゃイカン、ということで、ソクウに使用したのと同形のものと横長のものの2種を購入した。

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ワルシャワの石畳

●基本、私は模型に関して、車両や機体を単体で作るだけで、ベースだの何だのを作ることは滅多にない。

本体を作ったらそこでもう息切れしてしまって、「その周辺」まで作る余裕を持てないためだ(というか、そもそも完成前に息切れしてしまうことのほうが多いかも)。

ただ、約10年前に完成させたARMO JADAR製のレジンキット、1:35の「ソクウ 1000(Sokół 1000/CWS M111)」+サイドカーについては、なにしろ繊細な模型なので破損は怖いし、細いレジンのフレームの変形も怖いしで、製作時から「いつかベースを作って固定してやらにゃいかん」とずっと思っていた(それで10年以上も放置していたのだから、我ながら呆れたもの)。

製作時の完成報告の記事はこちら。なお、この「ソクウ 1000」は、その年の東京AFVの会で、「ガレージキット部門」第三位を頂いた。ベースも付いていない、小さな1:35のオートバイ+サイドカーには過分な評価で、大いに感謝。その年のガレージキット部門が、片手の指程度の出品しかなかったような気がする、としても。

まあ、そんなこんなでずっと「いつかやろう、いつかやろう」で先送りしてきたのだが、先日百均で裏がシールになったスチレンボードを見つけたので、ようやく着手することにした。

Stone ●イメージしたのは「ワルシャワの石畳」で、とりあえず、ネット上でワルシャワ市内の石畳の写真を適当に拾ってきて、ディスプレイ上に並べてイメトレ。

もちろん、そのうちのどれかを正確に再現しようとまでは考えていない。

  • ワルシャワの旧市街の石畳は、ワルシャワ蜂起の際にバリケード作りなどのために大々的に掘り返されたりして、戦前そのままのところは少ないはず。
  • だいいち、完成させた「ソクウ 1000」の、デカールで用意された登録番号の個体が、ポーランド国内のどこの部隊に配属された車輛なのかも判らない。

というわけで、結局のところは「まあ、なんとなくそれらしく石畳っぽければいいや」くらいのヌルいスタンスで製作に入る。記事のタイトル、詐欺だな……。

●もともと、少なくともホコリまみれにはならないように小さなディスプレイケースには入れてあったので、そのディスプレイケースをそのまま活用する前提で、底部に収まるようにスチレンボードを7×7cmに切り出し、石畳模様をケガキ。

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のっぺりした土台だけだと寂しい感じなので、「歩道」側にチェーンを垂らした柵の一部を追加。下塗りとしてVallejoの「304 Track Primer」を塗り、その後、グレーだのオーカーだのブラウンだのを混ぜて適当に斑模様に。

なお、この「石畳」をケースの底部に(裏面のシールを使って)貼り付けたら、塗装のせいで(?)若干反っていて、端部が剥がれて浮き上がってきたので、結局瞬着で貼り直した。シールの糊部もそのままで瞬着を重ねただけなので、また何かの弾みで剥がれて来ないかちょっと不安。

●上述のように、ベースを作ろうと思った理由は「固定して、破損と変形を防ぐため」でもあったのだが、10年間放置していた間に、案の定、細いフレームは(思ったほどではなかったものの)変形。オートバイ本体とサイドカーの車輪が、前から見ると僅かに「ハの字」になっていた。

無理矢理固定して折損するのも怖いので、ドライヤーで温めながら車輪の(縦の)方向を直し、さらにベースに固定するためにオートバイの後輪とサイドカーの車輪にドリルで穴を開けて真鍮線を固定した。が、その過程で数カ所でフレームの接続部が取れて補修する羽目になった。

そんなすったもんだの末に、なんとかベースに固定。

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普段の保管時や輸送時は、最後の写真のようにケースの透明フードを被せることになる。このままで棚に置いて鑑賞も出来るので便利。

ミニスケールAFVの展示・保管用にも、このケースをもっと仕入れておけばよかったなあ(ちなみに百均由来)。……とは思うのだが、最近は類似のものを見掛けない。

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砲台に消えた子どもたち・2025

●11月29日、「砲台に消えた子どもたち」慰霊祭に出席する。「逗子の歴史を学ぶ会」の山田さんに、当かばぶのコメント欄でお知らせ頂いて開催を知ったもの(その後、近所の市の掲示板でもポスターを見た)。

場所は逗子マリーナ、「西小坪海面砲台」の南砲台跡地前。昨秋、新たに建立された慰霊碑前。昨年、碑が建った際の慰霊祭の様子はこちら

爆発事故の命日は10月20日で(昨年の慰霊碑建立祭はその日に行われた)、今回の日付はちょっと半端だが、これは、慰霊碑建立の際にはまだ確定できていなかった犠牲者全員の氏名(および人数)がようやく確定され、それを慰霊碑背面に入れることができたから、というタイミングに合わせたものであるらしい。

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写真はこの日の慰霊碑と、亡くなった子どもたち15名の名前が入った裏面。ただし、この名前に関しては、なお字の間違いなどが存在する可能性もあるとのことで、現在はシール状態で貼られているだけ。今回暫定的に公開し、訂正情報などあればそれを反映させた上で実際に碑面に刻む予定とのこと。

実際、昨年慰霊碑が建てられた段階での(講演会で聞いた)話では、亡くなった子どもらの名前は全員分判明しておらず、それ以前に人数も14~16名?と確定できていなかったことを考えると、それだけ調査が進んだことは素晴らしいと思う。関係者のご努力に頭が下がる。

●慰霊祭終了後は、すぐ近くの小坪小学校区コミュニティセンター(旧小坪公民館)で講演会を聴く(第14回歴史講演会「逗子に砲台があったころ」)。

主なプログラムは、紙芝居(プロジェクター芝居?)「カシャーばらの子」「海をにらむ大砲」の2本と、地域の歴史(西小坪砲台の歴史)を研究されている中澤洋氏の講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」。

「カシャーばらの子」は、最初にポスターで題名を見た時には、語感から「沖縄の話?」などとボンヤリ思っていたのだが、実際には、池子弾薬庫の一部として半ば強制的に土地を取り上げられた、旧久木村柏原地区の話。当時暮らしていた人たちは、柏原を「カシャーばら」と読んでいたそうだ。現在は「池子の森自然公園」のうちの緑地エリアとなっている。

柏原地区を含む旧池子弾薬庫跡地(米軍施設としての日本語での正式名称は「池子住宅地区及び海軍補助施設」)に関し、個人的に留意しておきたいと思っている点は、おおよそ以下。

  • 長きにわたる返還運動などもあり、「米軍が勝手に“占拠”して“居座って”いる」というイメージを持っている人もいそうだが、直接の戦闘の結果、米軍が占領して施設建設を行った沖縄の大半の基地と違い、それ以前に日本の国(海軍)が半ば(というよりほとんど)強制的に土地収用を行ったもの――つまり住民から土地を取り上げたのは米軍ではなく日本国(海軍)であるということ。
  • そのため、沖縄の米軍基地は民有地の割合も多いが、旧池子弾薬庫跡地の場合、「面積のうち約99.9%は国有地」(wikipediaより)である由。当然、国有地である理由は前述のように軍が二束三文で有無を言わせず買い上げたからだが、ほぼ全域が国有地であるからこそ、米軍による弾薬庫としての利用が終わってからも、そのままポンと住宅地として提供することができたのでは、という気がする。
  • 逗子市域全体に占める米軍管理地の面積は約14.5%あり、市町村レベルの自治体のなかでは、広大な基地(特に飛行場)を抱える沖縄の伊江村や宜野湾市、嘉手納町などには及ばないものの、全国でもトップクラスの面積比。もっとも、現在はそのうち約40haは共同使用地として「池子の森自然公園」となっている。ちなみに米第七艦隊が基地を置く横須賀市は、単純な面積では逗子市以上だが、市域が広いので面積比ではぐっと下がる。
  • 仮に戦後すぐに弾薬庫跡地が民間に払い下げられていたとしたら、おそらく、この一帯は高度成長期に(鎌倉逗子ハイランドのように)大々的に(かつかなり乱暴に)宅地開発されていたのではと思う。皮肉な話だが、米軍管理地だったからこそ大部分に開発の手が入らず、今のように自然公園だの緑地エリアだのといった利用が可能になったのかも。

紙芝居のもう一本、「海をにらむ大砲」は、題名からも想像できるように西小坪海面砲台とその爆発事故をモチーフにした物語。

講演「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」は、主に小坪國民學校(現在の小坪小学校)の学校日誌を元に、戦時下と終戦直後の学校・子供たちの日常がどんなものだったかを振り返る内容。

当日貰った資料やら記念品やらが以下。1枚目写真右下の(講演題名と同じ)「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」小冊子は、講演で触れた内容も含めて、演者・中澤洋氏がこつこつと調べ上げてきた爆発事故周辺の情報をまとめたもので、2枚目写真はその内容の1見開き。これは会場受付で500円で購入。

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●以前から話題にしている、「結局、この西小坪海面砲台に配備された砲は何だったのか」という話の続き。

爆発事故の起きた西小坪海面砲台に配備された砲に関しては、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)では「十五糎砲」であったことしか判らず、その他資料でも、おおよそ「15センチカノン砲」とあるのみで、年式等は記されていない。

これについて、講演後の質疑応答で中澤洋氏に質問してみた。氏によれば、「はっきりしたことは判らないが陸軍のカノン砲を使っていたのでは」とのこと。

昨年の講演会ではご存命だった遺族会の草柳博氏が「ボタンを押すと砲が動いた(ので子供たちは面白がって遊んだ)」といった証言をされていて、これに関して、動力操作が可能なら、陸軍の砲ではなく海軍の(艦船搭載用の)砲なのでは、という推論を昨年の記事には書いたのだが、これは私の先入観によるもので、中澤氏によれば、「陸軍のカノン砲も後期には電動のものがあったらしい」とのこと。

改めてwikipediaで調べてみる。

そもそも「カノン砲(加農砲)」という分類自体がいささか曖昧なもので、ざっくり言えば、「そこそこ以上の口径(100mm以上くらい?)で、そこそこ以上に長砲身のもの」くらいの意味しかない。特に第二次大戦後期頃からは、榴弾砲(これは主たる使用弾種に応じた呼称で、砲弾自体に炸薬が詰められた「榴弾」を、多くの場合高仰角で撃つ砲を指す)との区別がどんどん曖昧になっていく。

というわけで、単純に「カノン砲が配備された」と書かれている場合、文字通り「××式加農」が正式名称の砲なのか、あるいは「××式榴弾砲」のなかで比較的長砲身のものを指すのか、即座に判断はしかねる(あるいは加農砲、榴弾砲以外の種別名称のこともあり得る)。さらに言えば、(この陣地を築いた)海軍の火砲の場合、砲身長自体は「カノン砲/加農砲」に該当していても、それを正式名称としたものはない。

結局、「口径15cmの長砲身砲」というだけの括りで陸海軍の砲をリストアップしていくと、結構なバリエーションになってしまう。

Type_96_15cmcannon_1 ……のだが。先述の、中澤氏の「陸軍の後期のカノン砲では電動のものがあった」を頼りに、単純に正式名称「××式加農」で新しめのものを漁ってみると、「九六式十五糎加農」に行き当たった(写真はwikimedia commonsより、パブリック・ドメイン。File:Type 96 15-cm-Cannon 1.jpg)。野戦榴弾砲である「九六式十五糎榴弾砲」とは制式年が一緒なのでややこしいが、別物なので注意。

写真で見ても判るように、前線で機敏に移動させて砲列を敷くような用途の砲ではなく、それなりの砲陣地を構築するとか、要塞に据え付けるとかといった使い方を主とする砲。そして、制式化からほどなく、砲の俯仰を電動化する改修が行われ、「この電動化改修を受けた砲は試製九六式十五糎加農(電動機付)と呼ばれ、高い発射速度が必要な海岸要塞などで運用するものとされた」(wikipedia、「九六式十五糎加農」)とある。

実際には昨年の記事にもこの砲の名前は一度出しているのだが、「陸軍だったら手動でしょ」という先入観で弾いていた。先入観抜きで、しかも解説文をよく読んでいたら、この有力候補に比較的簡単にたどり着けたはず。

なお「九六式」とは皇紀2596年、つまり1936年制式化を意味し、それを考えれば「そんなに新型とも言えないよね?」と言いたくなるが、実際には、制式化はされたものの生産はあまり進まず、wikipediaの記述によれば1942年までに31門が作られたのみだという。その後新式の加農砲は開発されていないようなので、一応、日本陸軍としては「最新鋭」の加農砲だったということになる。

●ちょっと脱線話。口径15cmのカノン砲、もしくは長砲身の榴弾砲というと、ミリオタ的には、フンメル自走砲の搭載砲としても有名なドイツの15cm sFH18が思い浮かぶところだが、これは野戦榴弾砲なので、日本陸軍で言えば九六式十五糎榴弾砲に相当。ドイツにももっと長砲身のカノン砲/要塞砲の類として15cm K18とか、15cm K39といった、sFH18に比べるとややマイナーな砲があり、こちらのほうが上述の九六式十五糎加農と性格もスペックも近い。

なお、同種のカノン砲として非常に有名な砲にアメリカの「ロング・トム」があるが、こちらは口径がやや大きく155mm。

●閑話休題。というわけで、かなりの有力候補が出てきたわけだが、まだ「これですっきり解決」というわけではない。いくつかの疑問点は残る。

▼口径15cmのカノン砲で、俯仰電動機構付きという条件には合致しているものの、わずか31門しか作られなかった新鋭砲(というには年式は古めだが)を、小坪の洞窟陣地のような急造陣地に配備するものだろうか。戦争末期(西小坪海面砲台は逗子市史によれば1944年築造だという)に作られた本土決戦用陣地に配備される砲といえば、倉庫に余っていたような旧式兵器が回されて来るのでは、というイメージがある。もっともそれも半ばは私の先入観で、海軍の本拠地である横須賀鎮守府や「帝都」の防衛に直結するポイントとして、虎の子の砲を持ってきた可能性もあるのかもしれない。

▼上掲の、中澤洋氏著の小冊子「小坪砲台爆発事故の謎にせまる」の見開き写真に写っているのが、昨年の記事でも触れた、私がこれまで見たなかでは唯一、一部ではあれ砲が写っている貴重な記録写真。なにしろ砲身だけ、しかも前半しか写っていないので手掛かりとしては心許ないが、それでも、砲身の根元側に段差があるらしいことが判る。上述の九六式十五糎加農にも段差があり、一方で、その一つ前の形式である八九式十五糎加農の場合は、やはり段差はあるものの駐退復座レールを兼ねて下部が拡がっているのだが、写真ではそのようには見えない。その点で言えば、配備された砲は九六式十五糎加農だった可能性に1ポイント加算、という感じではある。八九式十五糎加農は約150門と(九六式に比べれば)生産数も多く、沖縄戦などでも洞窟陣地に配備されたりしているので、そうした要素からすると八九式の砲が“近い”気もするが。

▼九六式十五糎加農、その一つ前の形式である八九式十五糎加農、と書いたが、九六式十五糎加農の直接の前身となった砲として四五式十五糎加農(四五式は明治45年制式化を示す)という砲もある。wikipediaには、これの「改造固定式」が「東京湾要塞、下関大島砲台、対馬郷岬砲台、津軽白神岬砲台ほかに配備された」とある。電動化されたという記述は(少なくともwikipediaには)ないが、もしも九六式と合わせて、そのような近代化改修が行われているものがあったとしたら、それが使われた可能性もありそうな気がする(中古兵器の活用という点でも)。

▼もちろん、「やっぱり海軍の砲が配備されていた」という可能性もまだ消えたわけではない、と思う。前出の横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」中では、同じ「十五糎砲台之部」として、「佐島 三 三〇〇」「長者ヶ崎 二 三〇〇」「西小坪 二 二〇〇」「黒崎鼻 三 三〇〇」と、4カ所がまとめられている(数字は最初が砲の門数、次が弾薬数。サイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の項では、これら砲台のうち、佐島および長者ヶ崎の配備砲は、もともと海軍の艦載砲である「五〇口径四一式十五糎砲」およびそれより旧式の「四〇口径安式十五糎砲」であったと解説している(ただし、その出典は明記していない)。一方で西小坪および黒崎鼻の配備砲は「15センチ加農砲」としているが、こちらは形式名までは記していない。装備体系としてまったく別種の砲を、軍作成の目録で一まとめにするというのも不自然で、もしも佐島・長者ヶ崎の砲が海軍のものであるなら、西小坪・黒崎鼻もそうだったと考えるのが自然、という気もする。

▼上掲の写真にある砲は、砲身前端が黒く焼け焦げている上に表面がボロボロになっているように見える。もしかしたら終戦時に、砲が二度と使い物にならないように何らかの処置をした結果なのかもしれないが、通常はこういう場合は尾栓を取り除いて別途保管、とかが多い気がする。また実際に横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」には、「十五糎砲」の尾栓が取り外されて別途保管されていたことが記されている(保管されている尾栓数は10で、上記4砲台に配備された十五糎砲の合計数と一致する)。何をどうしたら砲身外側がボロボロになるのか、私にはちょっとよく判らない(故意に筒内爆発を起こさせて砲身を破壊するとか、あるいは砲弾を砲身途中に詰め込むとかといったケースもあるようだが)。そもそも後日爆発事故を起こすほど、洞内に弾薬が無造作に置かれている状態で、洞口のすぐ表で爆破処理などするとは思えないし。

「この陣地に配備された砲が何だったのか」は、単純にミリオタ的興味から、ということもあるが、そうした細かいディテールが判れば、「どんな意味を持つ砲台だったのか」とか、「どんな弾薬が残っていて、それがなぜ爆発したのか」の究明にも、僅かながらでも近づくことに繋がる。

そんなことも踏まえつつ、若干の考察を。

▼配備されていた砲が九六式十五糎加農だった場合、最大射程は26,200mに達する。しかし、上掲の写真で洞口と砲身の位置関係から見る限り、九六式十五糎加農の最大仰角である45度の姿勢はまず無理で、取れて20~30°程度ではないだろうか。その分、射程は短くなっているはず。甘く見積もって射程距離が18,000m程度あったとして、海岸線でアタリを付けると、相模川河口を少し超えるくらいとなる。

仮に連合軍が首都東京の制圧を目指した上陸作戦を敢行するとしたら、まず考えられる地点は砂浜でそれに続く陸地も平坦な、湘南海岸(茅ヶ崎~平塚あたり)か千葉の九十九里で、実際にアメリカ軍が立案した上陸作戦(コロネット作戦)でもこの2カ所を上陸地点と設定していた。

相模湾中央に連合軍が上陸してくると想定した場合、西小坪海面砲台はやや能力不足だったのではという疑いも出てくる。なお、江の島にも西岸・東岸に海面砲台が設けられていたそうで、江の島の東岸の砲台と三浦半島側の砲台とで、相模湾東半分に敵が襲来した場合に十字砲火を浴びせるつもりだったのかもしれないが、そもそも鎌倉や逗子は、海にいきなり台地とか山とかが迫っていて、上陸地点としては相応しくない(それを考えると、長距離の移動ができない「伏龍」出撃基地とされる洞窟陣地が稲村ケ崎にあるのも摩訶不思議だ)。

もちろん、「だからと言って何にも備えんわけにはいかんやろ」という理由も充分に考えられるが、それが重大な爆発事故に繋がったとすれば、哀れとしか言いようがない。

▼終戦直後に武器の引き渡し等の便のためにまとめられた横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)によれば、「西小坪砲台」には砲2門と弾薬200発が残されていたことになっている。

特に長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節して適切な飛距離を得ることが多く、その場合には装薬は「**発」では数えづらいので、おそらく、ここで言う「弾薬200発」は弾頭(打ち出される弾丸そのもの)の数だと思われる。また、昨年・今年の講演で聞いた証言でも、「棒状(または細長い板状)の火薬が散乱していた」とのことで、これも弾頭と装薬がそれぞれ別に置かれていたことを示す。

飛んで行った先で爆発する砲弾(榴弾)は、弾丸(弾頭)の内部にも火薬(炸薬)が詰まっているが、これは固い外殻に包まれていて、基本は信管(着発信管とか時限信管とか)があって初めて爆発するものなので、爆発事故そのものは、散乱していたという装薬のせい、ということになる(もちろん、装薬が爆発した結果、弾丸のほうも誘爆することも考えられるが、その場合はおそらく砲台のあった崖自体が崩れかねない規模の爆発になったかもしれない)。

▼しかしここで謎なのは、なぜ装薬が中身の状態で散乱していたのか、ということ。

前述のように、長射程の榴弾砲/カノン砲の場合は、望む飛距離に合わせて装薬(弾丸を発射するための火薬)量を調節できるようになっていることも多い。しかしそれは決して目分量とかではなく、装薬はきっちり規定量が袋(とかそれなりの容器)に小分けにされ、「それを何個薬室に入れるか」で調節を行うのが普通。装薬がむき出しのバラバラが常態であったとは考えづらい。この辺、日本陸軍の場合、正確にはどう取り扱っていたのか。私の亡父は陸軍将校で、横須賀の陸軍重砲兵学校を出たはずなので、生前にもっと詳しく話を聞いておけばよかった。

ただ、当時の小坪では、この(棒状、あるいは板状の)火薬を拾ってきて焚き付け(着火剤)として使ったりしていたらしい。事故以前に、小坪の大人が装薬の袋を切り裂いて中身を取り出して放置していた可能性もあるかもしれない。

この機会にと、その後、付近の戦争遺構の現状を(散歩がてらに)改めて少し確認してみたり、ということもしているのだが、長くなったので、それに関してはまた改めて。

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