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2025年9月

野島掩体壕

●ここ数日、手術した左肩が慢性的に「痛怠い(痛い+怠い)」、というか筋肉が突っ張って鈍痛がして、むしろ退院直後よりもツライ。特に直近、割と仕事が立て込んでいるのに、夜まともに寝られないのが困る。

●12日金曜日。

かみさんが検査手術入院中の横浜市大病院に、手術経過の説明のために呼ばれ、久しぶりにシーサイドラインに乗る。シーサイドラインの金沢八景駅が京急の駅と直結して以来初めてかな?(ちなみに直結したのは2019年3月らしい)

せっかくなので、帰りに野島公園駅で途中下車し、金沢八景前面の平潟湾湾口の野島に渡る。

野島に行くのは(比較的近所に住んでいるにもかかわらず)これまたものすごく久しぶりで、たぶん50年ぶりくらい。

野島西部は平坦で主に住宅地。東部にはこんもりとした小山(野島山)があり、一体が「野島公園」となっていて、野島山頂上には展望台、山の下南側にはバーベキュー場やキャンプ場、北側には旧・伊藤博文金沢別邸がある。

今回久しぶりに訪れた主目的は、野島山を東西に貫く形で作られた大きなトンネル、「野島掩体壕」を改めて見たいと思ったため。

これは大戦末期、現在は細い水路で隔てられている東側の夏島地区にあった横須賀海軍航空隊・追浜飛行場の航空機の空襲時の避難用に作られたもので、現存する戦時中の掩体壕としては日本最大級のものであるらしい(最大級、というからには、同じような大きさのものがどこか他にもあるのかもしれない)。

ただし、結局は大戦中に使われることはなく終わった由。

まずは、東西に貫通している野島掩体壕の西側入り口。

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内部は崩落の危険性があるとのことで、入り口は柵で塞がれ、さらにはパネル板で目隠しされている。

そのため、洞口全体像はぱっと見で判りづらいが、おおよそ中央3分の程度が高く、両側が低い、凸字を平たく伸ばして側部に傾斜を付けたような形状となっている。

よく見ると、トンネル内部の断面形状は単純な曲線(皿型)で、この「平たい凸」形状は、トンネル前面のファサードというか、ポータル部分に貼り付けられた相対的に薄い鉄筋コンクリートの板状パーツであることが判る(4枚目写真、輪郭が折れ曲がった角の部分のコンクリートが僅かに欠けていて、この写真では判りにくいが、鉄筋が一部見えていた)。

下2枚写真は、西側入り口柵前に立てられていた解説板。この2種の解説板は、まったく同じものが東側入り口前にも立てられている。

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掩体壕の概略の文章による説明と、寸法入りの断面図。なかなかわかりやすく親切。

次に、野島山の反対側、東側(海側)入り口。

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こちらは、西側入り口と異なり、トンネル断面がそのまま入口形状となっている。なぜ東西で入口形状が異なっているのかははっきりしない(解説板にも書かれていない)。洞口前には、西側入り口と同様の解説板がある。

●野島掩体壕に関する若干の考察。

下は、国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より、米軍撮影による、終戦から間もない1947年11月5日撮影の野島(写真整理番号:USA-R498-71より切り出し加工)。

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ややいびつな四角形をした、野島の全体形状は現在とあまり大きくは違っていない。が、東側の夏島地区の埋め立て地上はまだ飛行場(横須賀海軍航空隊・追浜飛行場)の体裁を保っているのがわかる。この場所は現在、近々閉鎖するとかで騒ぎになっている日産追浜工場。

掩体壕は、画面中央の野島山を、ほぼ横一直線に貫く形で作られている。

▼普通に野島を訪れる場合、現在は住宅地になっている西側入り口のほうが「正面」で、海(野島・夏島町間の野島水路)に面した東側入り口は「裏口」というイメージを持ちそうだが、実際には、追浜飛行場に向かって開いている東側入り口の方が正面で、西側が裏口ということになる。

かつてはほぼこのトンネル入り口正面の海(野島水路)を横切る形で堤が設けられて地続きになっているらしいことが、この写真からもわかる。飛行場から掩体壕東側入り口までは、飛行機をタキシングして持って来ることもできたはず。ただし写真では、きちんとした誘導路などが設けられているようには見えない。

▼上に貼った現地の案内解説板の図に見るように、野島掩体壕の現況は、東西の両側がコンクリート張りで幅広く、中央部は素掘りで狭い。

解説板によると、中央素掘り部の横幅は約10m。これは戦闘機の全幅よりも狭く(零戦五二型で11m)、これでは、東側から搬入した機体を西側に移動させることができない。野島山の山すそをぐるりと迂回して機体を西側入り口まで運ぶとも考えづらい(山裾と海が近いので運びづらそう)。

上の写真を改めて見ると、野島-夏島間の水路の南側にも、細い連絡橋、もしくは堤防のようなものが見えるので、別途、西側へも直接飛行機を運搬するように考えていたのかもしれないが、どうなんだろう。

もしかしたら中央に狭隘部を設けることで、片側で爆発が起きてももう片側への影響を少なくすることを考えた、などということもあるのかもと妄想。もっとも、単純に「西側から東側まで、同幅でコンクリート張りの掩体壕を作ろうとしたが、中央部が未完成のまま終戦を迎えた」と考えるのが妥当のような気もする。

▼野島掩体壕の目的に関して、wikipedia「野島(神奈川県)」の過去の版では「海軍の飛行艇格納庫として作られた」と書かれていたこともあるが(修正済み)、そもそもこの掩体壕は横幅が20mしかない。海軍の飛行艇と言えば二式大艇か、その前の九七大艇が考えられるが、これらは4発の大型機で全幅は40mほどもあり、とても入らない(横向きにしても30m近い)。

また、東京湾岸で飛行艇部隊の基地があったのはもっと北の根岸のようで、追浜ではない。

海軍機の中で、もっと小型の偵察機で飛行艇形式のものもあった気がするが、それは少数の旧式機だったはずで、そのためにこんな掩体壕を作るとは思えない(ほかに新しい小型の飛行艇とか、なかったよね?)。

▼やはり案内解説板にある通り、小型機(戦闘機)の収容のために作られたと考えるのが妥当だろう。

案内解説板には「同時に掘削されていた夏島掩体壕とあわせて、海軍の小型機約100機を格納する計画」だったとある。野島掩体壕の全長は258.5m。前述のように、中央の狭隘部も最終的には同幅になる計画だったとして、それを目いっぱい活用するなら、零戦五二型の全長9.121m、余裕を持って10mと考えて一列で25機。壕の幅からすると、列を前後にずらして主翼片側を重ねるようにすれば2列は入りそうなので、概算で計50機。

夏島にも作られていたという掩体壕と、半々という感じか。

(その後、一度ペイント上で壕の中に零戦の平面図を並べてみたが、2列は結構無理矢理な感じだった。……50機は無理かなー)

なお、中央の狭隘部はそのまま残されるのが前提だったと考えると、トンネル長100m分がまるまる使えなくなるので、収容機数は半分近くまで減る。

●野島山頂上には、パラボラアンテナのようなデザインの展望台がある。

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2枚目写真は、その展望台上から見た逗子・葉山の二子山。普段とは違う角度から見ていて稜線の感じが違うので、今一つ自信がないが、拡大してみると左の山の頂上付近にKDDIのアンテナがあるようなので、たぶん間違いない。

この展望台のある野島山山頂付近は、現在は遺構の類は何も見て取れないが、小坪(披露山)や上掲の二子山同様、海軍の高角砲台があったそうだ。毎度頼りにしている、終戦直後の横須賀海軍警備隊「砲術化兵器目録」によれば、「野島浦」砲台として、

  • 十糎高角砲(連装) 2基4門
  • 三式陸用高射器 1基
  • 九四式高角 四米半測距儀 1基
  • 九六式一五〇糎探照灯 1基
  • 二十五粍二連装機銃 1基
  • 十三粍二連装機銃 1基

があったらしい。

小坪砲台(十二糎七高角砲・連装)、二子山砲台(十二糎七高角砲・単装)に比べて配備された砲が小径なのは、基地に至近の高角砲台として、より低空の敵機に備えたためだろうか

【9月19日追記】

はほ/~氏より「砲台の十糎高角砲は、横須賀航空隊の防空用に最新の機材を配置したのでは。」とのコメントあり。改めて調べてみると、戦時中の海軍の「十糎(連装)高角砲 」で該当するものは九八式十糎高角砲で、やや小径ながら、十二糎七高角砲(四十口径八九式十二糎七高角砲)のまさに後継高射砲として開発されたものだった。

65口径と非常に長砲身で、十二糎七高角砲よりも、最大射程・最大射高ともおよそ1.4倍と大きく性能向上が図られているらしい。wikipediaには「本砲の性能を最大限発揮できるように制式化された射撃指揮装置の中では最新の九四式高射装置と組み合わせて使用された」とあり、上掲の「砲術化兵器目録」の配備リスト中にある「四米半測距儀 九四式高角」がそれではないかと思われる。

調べないで適当に書いたらいかんね……。多謝>はほちん

山の北側、旧・伊藤博文金沢別邸付近から、つづら折りに山頂に続く道は上掲の終戦直後の米軍空撮写真にも写っており、これが当時の砲台道であったらしい(今回は行きも帰りも南側の野島神社側からの階段道を使ったので、こちらは通らなかった)。

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