砲台に消えた子どもたち・2024
●10月20日日曜日。
本土決戦用に構築された西小坪海面砲台で戦後すぐに起きた爆発事故により亡くなった子どもたちの慰霊碑が、事故のあった南砲台跡の直下の道路脇に新たに建立されることになり、午後、その除幕式(慰霊祭)が行われた。
爆発事故が起きたのは、1945年の10月20日で、ちょうど79年前ということになる。慰霊祭には逗子市長や地元自治会関係者ほかも参列。ざっと見た感じ、50~100名くらいの方が参列していたと思う。
私自身がこの洞窟陣地(西小坪海面砲台)の存在を知ったのはかれこれ10年ちょっと前で、爆発事故について知ったのがそのしばらく後。さらに慰霊のために建てられた慰霊碑があったことを知って近辺を探してたどり着いたことについては、2015年の過去記事「砲台に消えた子どもたち」で書いた。ちなみに「砲台に消えた子どもたち」とは、この事故を題材に、地元の児童文学作家・野村昇司氏が書かれた作品の題名。
過去記事で書いたように、もともと事故のあった洞窟陣地前に置かれていた慰霊のお地蔵は、その後ちょっと判りにくく、またいつも立ち入れるわけではない場所に移設されている。そのまま忘れ去られてしまうのは残念で、どうにかならないものかとずっと思っていたのだが、今回、新たにきちんと人目に付く場所に慰霊碑が立つことになった。
当初は「お地蔵様を再び移設する」計画だったようだが、「いつだれが、どのような供養の仕方で移したかわからない以上、今回勝手に移設することはできない。という遺族会の結論」により、新たな慰霊碑を作ることになった由。現時点では慰霊碑だけだが、「逗子の歴史を学ぶ会」の山田淑江さんから以前頂いたコメントによれば、今後、犠牲になった子どもたちの名や、事故の経緯などを記した碑も隣接して建つことになるらしい。大変よいことだと思う。
もっとも、私自身は「なんとかならないものかね」と思いつつ、言わば“横目で見ていた”だけの野次馬なので、あまり偉そうなことは言えない。実際に慰霊碑建立に向けて活動をされていた遺族会や「逗子の歴史を学ぶ会」ほかの皆さんの努力には頭が下がる。本当にご苦労様です。
●慰霊祭の後は、近くの小坪コミュニティセンター(以前の小坪公民館)講堂で、「~学ぶ会」主催により、西小坪海面砲台および事故の経緯に関する講演会があり出席。事故現場で遊んでいて、事故発生の直前に帰宅して難を逃れた(しかし兄を事故で失った)草柳博氏の回顧、事故の経緯を研究されている中澤洋氏の報告等を聞く。また、慰霊祭では遺族会からの記念品、講演会では遺族の証言等もまとめられた小冊子「小坪洞窟砲台跡爆発事故記録集」等を頂いた。
今までは、「日常的に砲台に入り込んで遊んでいたんだろうな」くらいにしか思っていなかったが、実際には、事故当時、日本側から米軍への引き継ぎで管理の空隙が生じていたらしいこと。また、事故に先立ち小坪小の高学年生徒を教師が引率して披露山の小坪高角砲台の見学を行っており、戦時中は軍が厳しく警戒していて近寄れなかった軍事施設に対する行動障壁が低くなっていた可能性もあること。
などなど、事故の経緯について初めて知ったことも多かった。驚いたのだが、亡くなった子どもの数自体、14~16名で、今なお確定できていないのだそうだ。
後援会修了後、これまで何度か等「かばぶ」にコメントを頂いている「学ぶ会」の山田淑江さんに初めて直接お会いしてご挨拶。その後、小坪海岸トンネルシールド上の、もともとの慰霊のお地蔵さんを有志で見に行ったりする。山田さんほかの宣伝のおかげ?意外なほどに「『かばぶ』読みました/知っています」という方がいて驚くやら気恥ずかしいやら。いや、本当にどうもありがとうございます。
現場で「ブログを見に行きます」と言って下さった方もいて、いきなり見に来られて、(もともとは模型趣味のブログなので)「なんだこりゃ」と思う方もいらっしゃるかもしれないので、補足。
西小坪海面砲台や、披露山の小坪高角砲台の話をはじめ、主に逗子近辺の軍事遺構巡りについての話は、タグ「軍事遺構」。
西小坪海面砲台と私とのそもそもの関わりについては、上にもリンクを載せた過去記事「砲台に消えた子どもたち」。
基本は単なる「ミリオタ(軍事オタク)」ですが、戦争の回顧やら靖国神社やらに対する私自身のスタンスについては過去記事「インパール」。
――あたりを参照して頂ければと思います。
●講演会にも出席し、新たに知ったこともある一方、相変わらずよく判らないこともあり、改めて、西小坪海面砲台に関して整理し直してみようと思う。
▼砲台(洞窟)はどこにあったのか
西小坪海面砲台は、現在は逗子マリーナの「背景」になっている崖面、マリーナの造成前は小坪の集落と飯島/材木座を結ぶ崖面の切り道(親不知)に作られた。逗子マリーナの造成に伴って崖面の道は使われなくなり、洞窟砲台も埋められてしまった。崖面の道の跡は基本立入禁止となっているので(つい最近まで深い藪に覆われていたためもあるが)、現在では、もともと洞窟がどこにあったのかも、当時を知る人以外にはよくわからない状態になっている。
一応、当時の構成としては、崖面の向かって左側(鎌倉側)に北砲台、右側(逗子側)に爆発事故を起こした南砲台の2つの洞口があり、その中間に観測所の小洞口があったという。各洞窟は内部で連絡しており、今日お会いした方から少し聞いた話によれば、山の上の旧幣原邸敷地内にも抜ける坑道があったという。
Google Mapsには、「小坪海面砲台北側跡」「小坪海面砲台南側跡」というタグが表示されているが、現時点では、そのどちらの表示も本来の砲台跡とは大きくズレている。ちなみに「北側跡」タグには鎌倉市立第一中学校への坂途中の崖面に開いた洞窟の写真が添えられているが、これは西小坪海面砲台とは別の防空壕もしくは機銃陣地の洞口跡。
さて、本来の西小坪砲台の砲台位置の検証。
逗子市による写真アーカイブ「逗子フォト」には、おそらく戦後すぐに撮影されたと思われる、砲台のあった崖面の海上からの写真が掲載されている。矢印は私が加工・追加したもので、黄色矢印が「北砲台」洞口、赤色矢印が「南砲台」洞口を示している。
これ自体は洞窟陣地の位置が判る良い写真だが、現在は前面に逗子マリーナの建物群があるために、現状との比較が難しい。そこで別角度の写真を探してみる。
下写真は、逗子市が公開している「逗子市文化財調査報告書(PDF)」のうち、「特別編 住吉城址 後編_図版1」から引用してきたもの。
2枚組のうち上段写真は、上掲「逗子フォト」の写真よりもさらに鎌倉寄りの海上から撮ったもので、右側の三角の崖面が、「逗子フォト」の写真中央に写っている、底辺両側に洞窟砲台の洞口がある崖で、実際、上段写真でも三角の崖の向かって左下に北砲台の洞口が判る(画面右端にあるはずの南砲台は確認できない)。なお、海面に接するところに大きな穴が3つ開いているが、これは砲台とは無関係の海蝕洞(波で削られた穴)。
下段写真は、さらに鎌倉寄り/陸地寄りで撮ったもので、この角度では先述の三角の崖面は見えず、上段写真では左側に写っていた崖面だけが見える。
この2枚組写真を手掛かりに現状との比較を行ってみる。
現状とどう重なるのかがなかなか判りにくいのだが、なんとか合わせてみた。まずは上段写真。現状写真の撮影は小坪飯島公園のグラウンドから。本当はもうちょっと右から撮ったほうが角度的には近そうだが、そうすると建物の被りが大きくなってしまうので、このくらいで妥協した。
下段写真の比較。こちらも現況写真はもっとプール際に寄るくらいから撮ったほうが正解だったかも。
そしてもうひとつ、検証用の資料として、埋立前の海岸線、親不知の崖道、砲台の位置が書き込まれた手書き地図を挙げてみる。こちらは、「鎌倉・太平洋戦争の痕跡」(鎌倉市中央図書館発行、鎌倉市中央図書館近代史資料収集室/CPCの会編集)に収められている、高橋二郎氏による手記「小坪の二門の砲台と戦後の小坪について」に添えられた図版を引用した。
地図の右側には、海前寺下から崖下の道に入るあたりに現在も並んでいる庚申塚もしっかり記入されている。これと上の写真とを突き合わせて考えると、北砲台は現在喫茶店「コピ・ルワク」がある上あたり。南砲台は、冒頭書いたように、今回建てられた慰霊碑の上。そもそも現在法面に作られている階段は、南砲台前に建てられた慰霊のお地蔵への参拝用に設けられたものらしい旨の記述が、同資料本文中にもある。
手書き地図には、鎌倉側から「馬捨て場」「でんやく島」「かめのこ島」という崖下の3つの突出が描かれているが、これらはマリーナ造成に伴って消失。この場所は現在バスも通る道路が真っ直ぐ通っている。
なお、上手書き地図の左端の、海岸線が大きく窪み「大正時代にはこの位置につり橋があった」と書かれているのが、現在小坪海岸トンネルのマリーナ側出口があるところ。そのトンネル口上のシールド上に、もともとの慰霊碑である地蔵がある。
これも現状との対照のため、Google Mapsの鳥瞰をスクリーン・ショットしたものを挙げておく。
画面中央右に、今回慰霊碑が建てられた階段、中央左に北砲台があると思われる場所の下に建つ喫茶店「コピ・ルワク」がある。小坪海岸トンネルのシールド上には、慰霊のお地蔵脇だけ草が無くコンクリートの地面?が見えている。左端駐車場に「小坪海面砲台南側跡」のタグが立っているが、これは前述のように間違い。この駐車場上の崖面には、確かに壕をコンクリートで塞いだような跡があるのだが、上掲の昔の写真と見比べて本来の砲台位置よりも横位置でズレているのはもちろん、上下位置で考えても低い。西小坪砲台との関連性は不明。
▼配備された砲は何だったのか
砲台の存在を知った当初は判らなかった「どこにあったのか」は、上述のようにほぼ特定できたが、未だによくわからないのが、「砲台に据えられた砲は何だったのか」という点。
以前から何度も紹介している、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵、レファレンスコードC08011401200)は、戦後すぐにまとめられた、米軍への引き渡し用のリストで、周辺の各種砲台に配備された砲の種類、数、弾薬数、状態(尾栓の有無など)、関連する装置(測距儀や探照灯などの)の数などがリストアップされている。だが「十五糎砲台之部」のリストの中に、「西小坪 (門数)二 (弾薬数)二〇〇」とあるのみで、砲の形式名は書かれていない(ただし、測距儀に関しては九七式二米高角測距儀が1基配備と、形式名も明記されている。……なぜだ?)。他資料を見ても、砲種は15cmカノン砲(加農砲)としか出ておらず、やはり形式名は判らない。同資料に載っている近隣の「十五糎砲台」は、佐島(3門)、長者ケ崎(2門)、黒崎鼻(3門)がある。
この「主武装」である15cmm砲2門の他に、おそらくこの洞窟陣地そのものの防衛用に、「短十二糎砲」1門および「二十五粍単装」2門が配備されたことになっている。これについては、「短十二糎砲」は海軍の装備中に1種しかなく、25mm機銃についてはリストに単装・連装・三連装とあることから、日本海軍の代表的対空機銃で、その三種が揃っている九六式二十五粍機銃のことであろうと推察できる。
なお、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」は1945年(昭和20年)11月18日付で作成されている資料で、西小坪砲台の爆発事故の直後にまとめられた資料ということになるが、爆発事故に関連する注釈等はつけられていない。
これとは別に、今回の講演会で紹介されていて知ったが、爆発事故に関する公文書のひとつ、昭和20年11月23日付の終戦連絡横須賀事務局から中央への業務報告(10月分)には、「二十日、逗子小坪ニ於テ三三糎砲墟内爆発事件アリ」と記されているらしい。これに関しては、口径33cmの大口径砲など戦艦の主砲クラスに近く、またそもそも日本陸海軍の装備には33cm口径の砲はないので、誤記であろうと思われる。
というわけで、「十五糎砲」の正体探しの続き。
講演会では、私がこれまで見たことがない昔の写真(調査に訪れた米兵が洞窟砲台前に立っている写真や、マリーナ造成中の写真など)もスライドに登場して興味深かった。特に調査に訪れた米兵が立っている写真は、洞口から突き出した砲身も一緒に写った貴重なもので、これによって15cmクラスの中口径砲、しかも長砲身(つまりカノン砲)らしきことは確認できる。
一方、同じく資料スライドでは配備されたとされる15cm砲の例として、靖国神社の遊就館に収められている八九式十五糎加農砲の写真が写されていたが、これは陸軍の砲であり、一方で西小坪砲台は海軍の砲台なので装備体系が違う。もちろん、陸上で運用する兵器ということで、海軍が陸軍から融通してもらったという可能性も考えられなくはない(例えば、海軍陸戦隊が陸軍から戦車を供与してもらっているというような例もある)。
しかし、今回頂いた「記録集」に掲載された草柳博氏の証言によれば、配備された砲は「ボタン一つで前後に動き、また砲門が上下に動く」とある(それもまた子どもたちの興味を惹いたようだ)。陸軍の十五糎砲で可能性として考えられる対象は前述の八九式十五糎加農砲、九六式十五糎加農砲などがあるが、いずれにせよ陸軍の砲なら俯仰はハンドル/ギアの人力のはず。
となると、電動油圧の動力機構が組み込まれていた海軍の艦船搭載用火砲である可能性が高くなってくる。その場合に候補として上がるのは、50口径四十一式15cm砲か。それよりちょっと旧式の40口径安式15cm砲というのもあるが、明治時代の砲なので動力装置は付かないかも。戦艦「三笠」の船腹に並んでいる副砲がこの安式(英アームストロング社製を示す)15cm砲らしい。現在の記念館三笠に付いている副砲はレプリカだと思うが、砲の左右動は砲尾についたΩ形の輪っかに人間が入って、力業で動かすスタイルだったような。
いずれにせよ、この2種の艦載砲のどちらもwikipediaの解説を読む限りでは陣地砲への転用などには触れられていないのだが、逗子近辺の戦跡巡りと調査で大いに助けてもらっているサイト「東京湾要塞」の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」の中の解説によれば、例えば佐島砲台の3門の砲は「40口径安式十五糎砲2門、40口径41式15糎砲1門」だったとある(後者は50口径の誤りか)。横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」で同一砲種の砲台として扱われている近隣の砲台で、海軍の艦船搭載用のこの種の砲が据えられていたらしいことがわかる。
ただ、西小坪砲台の装備砲については「東京湾要塞」にも記述がない。また、ネット上で検索する限り、この二種の艦載砲を地上の砲台に配備する場合に、どのように据え付けているかの写真や解説なども見当たらない。今後、何らかの新資料が出てくることを望みたい。
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コメント
50口径四一式15センチ砲は金剛型、扶桑型の副砲としては手動で俯仰旋回操作だったようです。(ずっと後の阿賀野型は連装砲塔だしさすがに機力だと思う・・・。)
どっちにしろこのクラスの砲としてはすぐに14cm砲に切り替えたので、余剰になったのは戦艦6隻から改装時に降ろした12門ぐらいだったのでは?
安式は金剛より前の艦で結構な数が搭載されてたから、それらが廃艦になったあと陸揚げして保管してたのも四一式よりは沢山あったのではないかなー。こっちもダバオあたりに設置したのは手動で旋回俯仰してたようなので、電動(油圧ポンプ?)で動かしたってのはなんか改造してたんでしょうかね。
投稿: はほ/~ | 2024年11月13日 (水) 16時28分
>はほちん
なるほど、上で候補に挙げた海軍の火砲は、どちらにしても、そもそも「ボタン一つで」な感じではなさそうですか……。謎が深まってしまいました。
どうも海軍の火砲は、火砲として単体で扱われることが少ないからか、ネット上に資料も乏しく、もともとこの方面の知識に疎い私にはなかなか正体にたどり着けません。
上では、「東京湾要塞」に出ていた「40口径41式15糎砲」について「50口径の誤り?」と書きましたが、ほかのサイト等を見ても名前が出ているところもあって、「そういう砲もありそう?」だったり。
そもとも「四十一式」という名称も、陸軍兵器のように砲そのものの年式ではなく、尾栓形式のことだと解説しているサイトもあって、なかなか難しいです。
投稿: かば◎ | 2024年11月13日 (水) 16時55分
https://navgunschl.sakura.ne.jp/koudou/ijn/buki/gun/gun_data/6in_40cal.html
ここに水圧電動装置ってあるけどなんだろ?
駐退復座機?
https://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-99.pdf
膨大で中身の理解が追いつかん。
投稿: はほ/ | 2024年11月13日 (水) 19時09分
>はほちん
「水圧電動装置:水圧及び電動」って……(笑)。
これじゃ何にもワカラン。
しかし、次のPDF資料をざっと見る限りでも、水圧/油圧の装置というのは、砲塔回転とか、大口径砲の俯仰とかで、中口径砲に使うものじゃない感じもしますね。
上ではなんとなく思い込みで「ボタンで動くなら海軍の砲なんだろう」なんて書きましたが(まあ、たぶん海軍の砲であることは間違いないんだと思いますが)、ボタンで動くということについては、もしかしたら記憶違いだった可能性もあるのでは、と思い始めました。
完全な記憶違いということではなくて、例えば伝達用のランプか何かのボタンがあって、それを砲の操作用と間違えたとか(ちょうどその時、別の誰かが砲のハンドルを回していたとか)もあり得るかもしれません。
そもそも砲が写っている写真があればかなりの手掛かりになると思うんですが、今のところ、洞窟陣地の外から写した、半ばから突き出た砲身(しかも一部損傷)のみの写真しか見たことがありません。
サイト「桜と錨の海軍砲術学校」は、いろいろと勉強になりますね。
しかし一方で、大正以前のリストにも以降のリストにも、「50口径四十一式15cm」にあたる砲も「40口径四十一式15cm」にあたる砲も出ていなくて、やはり海軍の砲は謎が多いです。
投稿: かば◎ | 2024年11月13日 (水) 23時18分