覚えているコト、忘れるコト
●昨秋以来、ずっと楽しみに観ていたアニメ、「葬送のフリーレン」がついに最終回。
原作マンガは出版社サイトの「試し読み」くらいしか読んだことがないが、アニメは実に緻密に作り込んであって、細かい部分でアニメオリジナルも多いらしいが、それが自然に、話に深みを持たせている感じ。絵も美しい。
以前、「SPY & FAMILY」が好きで観ていると兄が言っていて(その時に、えっ、兄はアニメ観るのかー、と、今更ながらちょっと驚いたくらいだが)、それならばと、先日会ったときにぜひフリーレンをと薦めてみたのだが、「観てる! あれと『薬屋のひとりごと』だけで、amazon primeにカネを払ってる価値がある!」と、食い気味に返答された。……うわ。観てるラインナップが一緒だよ。
勇者一行が人類の宿敵たる魔王を撃ち滅ぼし、その勇者もまた年老いて死んだ後に、勇者一行の魔法使いで果てしなく長命のエルフであるフリーレンが、かつての魔王討伐の跡を辿るように旅をする――というのが「葬送のフリーレン」の物語の大筋。魔王軍の残党と戦ったり、魔法使いの昇格試験を受けたりといった折々のエピソードはあるが、全体として「記憶」というのが重要なテーマになっていて、それがなんとも切ない。
あー。早く二期制作決まらないかな。
●母の納骨も10日に終わり、銀行口座の整理等々は兄任せなので、とりあえずは一段落。少し、母のことを思い返してみる。
父が亡くなって、母は長く実家に一人暮らしだったので(最後の何年かは兄が同居してくれたが)、おおよそ月一回頻度くらいで泊りがけで顔見世というか、ご機嫌伺というか、母に会いに行くのがルーティンだった。
特に何をするというわけでもなく、一緒に夕飯を食べ、とりとめなく話をしたり、見るともなくテレビを観たりして、一泊して帰るだけのことだったが、そんな徒然に、母の若い頃の話を聞くことが増えた。父も母も、あまり昔語りをする人ではなかったので、晩年になって初めて聞く話も多かった。
・これは近年になって母から聞くようになる以前の話だが、何かの折に、母の小学校時代の集合写真が出てきたことがあって、全校生徒?が20人程度だったろうか、その中で靴を履いているのが母を含め数人だけだった(あとは裸足)。「うわあ、『ド田舎のお嬢』だったんだなあ」と思った。
・子供のころから体が弱く、「二十歳まで生きられない」とまで言われていたのだそうだ。少しでも精を付けようと、祖父がウナギをよく食べさせていたとかで、無理に食べさせられたので「ウナギは嫌い。もう食べたくない」と言っていた。「夕飯、何か買っていくよ、何がいい? ウナギとか食べる?」と尋ねた時に、そう教わった覚えがある。
・田舎の旦那というのはそういうものなのかもしれないが、祖父は、祖母の生前に、すでにお妾さん?がいて、戦時中、すでに腹違いの妹が二人いた。母はそれが癪でたまらず、機織りをしているお妾さんのところに、大きな石を抱えていって、織っている最中の反物に投げつけて台無しにしたことがあったそうだ(←体の弱い娘がすることか?)。祖父はかわいがっている長女のしたことだからか、引け目もあってか、「そんなことはするものじゃない」と弱弱しく言うばかりだったとか。私の覚えている祖父は頑固で我儘な爺さんだったが。
・祖父は「島一番のウタシャ(唄者)」と言われるくらいの島唄の名人で(と言っているのはおおよそ親戚限定だが)、若いお妾さんも島唄上手、しかし祖母は島唄が出来なかったらしい。それもあってか、母は島唄が「ずっと嫌いだった」と言っていたが、晩年になって、「……と思ってたのに、この歳になるとやっぱり懐かしい」と言って、いくつか、私がCDで聞き覚えた島唄を逆に私から習って口ずさんでいた。特に「行ききゅんにゃ加那」節が好きで、葬儀の時もCDで流した。
・そんな具合でも、二号さんの生んだ妹たちは母に構ってほしくて、いつも寄ってきたそうだ。母はそのたび、邪険にしていたのだが、祖母(母の実母)は、「そんなに意地悪をするものじゃない、あんたが歳を取ってから、あの子たちのお世話になることもあるかもしれないんだよ?」とたしなめていたとか。母曰く、「そんな目にあっても怒らない、仏様のような人だった」。戦後になって、さらにその下に二人、腹違いの妹が出来たのだが、一番下のH叔母は実家のすぐ近所に住んでいて、いつも様子を見てくれて、食事を作って持って来てくれたり、とんでもなくお世話になった。母は「お母さんの言ったとおりだったよ」と言っていた。
・その腹違いの妹の一番上の名前は「かすみ」で、かくれんぼをするたび、予科練の唄の替え歌で「かすみはう~らんど~(かすみはいないよ)」と歌っていたそうだ。
・祖母は、現在奄美空港のある和野という集落の出身だった(家系としては、さらにその南隣の節田の出だったらしい、というのは前々回に書いた)。太平洋側でちょっと開けた和野よりも、父母の郷里で東シナ海側、島の北端にある集落の佐仁は波も住んでいる人の気性も、言葉も荒く、母はよく、祖母から言葉遣いをたしなめられたという。「佐仁では『はさみ』のことを『パサン』って言うんだけれど、そのたびに、そんな荒い言葉じゃなくて『はさみ』って言いなさい、と言われたよ」とか。まあ、「はさみ>パサン」になる理屈はよくわからんけれども。
・戦前、同郷の父は育ての親に連れられて満州に渡り、奉天(瀋陽 )で奉天商業学校という学校に進んだという。その頃一度里帰りをしているのだが、母曰く、「制服が格好良かった」そうだ。その後父は大学(旧制高校?)受験に失敗して(一度しか受験させてもらえなかった)軍隊に行くのだが、母は父から、文房具とか、本とか(「レ・ミゼラブル」とか、ずいぶんハイカラな本だったらしい)を貰ったそうだ。
・ところが、そういう付き合いを聞きつけた父方の親族の小母さんが、「あんたみたいな身体の弱い娘は、うち(の一族)の嫁にはふさわしくない」とわざわざ文句を付けにきて、母はそれがあまりに悔しく、父から貰ったもの一式を海に(名瀬の港に?)投げ捨てに行ったという(癇癪持ち……)。
・戦時中、母はすでに農協に(事務として)勤めていたそうな。しかし戦況いよいよ思わしくなく、奄美大島にも米軍が上陸してきそうだというので、祖父は、一家で満州に疎開を決意したそうな。母は(二号さんと一緒に?)行くのが嫌で抵抗。「年頃の娘を残していけない」という祖父に対し、「では嫁に行っていればいいのか」と、勤め先の上司の紹介で、その弟?と電撃婚して残留することになったのだという。ちなみにお相手は、すでに出征していて、しかも帰ってこなかったので、母は「会ったことも話をしたこともない」そうだ。
・戦時中、母は田んぼ?畑?の畔で、「グラマンに追いかけられた」ことがあったそうだ。もちろん、母にグラマンだのノースアメリカンだのの見分けがつくはずもなく、おそらく、当時の一般の日本人として「敵機=グラマン(あるいは、せいぜい単発機ならグラマン)」くらいの認識だと思う。
・ちなみに母の(同腹の)弟妹は、長男(母のすぐ下の弟)が(現在の)北朝鮮で学校→そのまま徴兵→ソ連軍の収容所、次女は鹿児島で女学校、三女は祖父と一緒に満州に。小学生の次男と祖母が、母と一緒に島に残ることになった。しかし、(これまた体が弱かった?)祖母は終戦前に若くして死去。小学生の弟は、終戦直後に小学校で起きた(子どもが拾ってきた)不発弾の事故で生死の境をさまようことになる(運よく生き延びた)。
・一方、満州に逃げた祖父らは、逆にソ連侵攻に伴う大混乱に巻き込まれることになる。腹違いの妹二人は、逃避行の最中に熱を出し、病院に連れて行って一晩泊めてもらったところ、翌日には「もう死んで埋めた」と言われ、追及するすべもなく泣く泣く諦めたとか。残留孤児として、どこかに貰われていった/買われていった可能性が高そう。
・終戦後、奄美大島には米軍が進駐してきて、沖縄同様に占領統治下に置かれる(1953年、沖縄より約20年早く復帰)。母は洋裁ができたので、駐留米将兵と付き合った女性たちの服を仕立てて大儲け。それで資金を貯め、密航で日本本土に渡ったのだという(おそらく、祖父たちはまだ帰国していない)。漁船の底に身を潜め、昼間は途中の島の入り江に姿を隠し、夜の間だけ航行という感じだったらしい。本土に渡ってしばらくは、終戦前から東京にいた親族の家にしばらく身を隠し、その間につてをたどって住民票を改竄?したらしい(もう時効だよね?)。なお、生死の境から生還したばかりの年少のK叔父はどうしたのか尋ねたが、「どうしたっけね?」と、ずいぶんいい加減な答だった。まあ、島に残った親族を頼ったとかなのだろうけれど。
・戦後も東京で洋裁で食べていたが、ある時、偶然に父の実母と再会。インパール戦を生き残った父は、復員してその頃はたぶん横浜に住んでいたはず。「**ちゃん(母)が東京に出て来てるよ」と教えられた父と再会し、その後なんだかんだの末に結婚。
なんつーか、波乱万丈の戦中戦後史だなあ。
こんなところに母の個人史を書いても誰の何の役に立つというわけでもなかろうが、私自身、たぶんこれからどんどん忘れていくと思うので、とりあえず備忘録的に。
それに、改めて思うが、以上のあれこれは「母がそう覚えていたこと」を、それまた私が伝聞で(おそらく記憶違いも含めて)文章に直しているので、どれだけ正確かは怪しい。誰の物語であってもそうだが、人から人に伝わっていくだけ、たぶんどんどんと「聞き手の解釈」が加わって、中身は変質していく。もちろん、私の母は偉人でもなんでもないので、その個人史が変容を気にするほどこの先伝わっていくこともないだろうが、記憶している私の中でさえ、その時々の解釈で変化していくかもしれない。いずれにしても、「まあ、記憶って、そういうもんだよね」以上の何物でもないのだけれど。
●相変わらずのプレッツェル(ブレーツェル)行脚。
前回「今までで一番イメージに近い」と書いた新橋「le petit IMBISS(ル・プティ・インビス)」のプレッツェルだが、その後、もう一度買ったら、最初から防湿の紙袋に入れられていて、そのせいで湿気がこもって外皮がペタペタしていた。どうも「ラウゲ液処理」の関係で、「湿気るとベタベタになる」のは宿命であるらしいが、「買い食い」用途で考えると、ちょっとこれはがっかり。売り方にもう少し注意を払ってほしい。
(1).成城石井で、ドイツから輸入されたパンタイプのプレッツェルが2個入り・380円(だったかな?)で売られていた。ビニール袋入りなので、そのままではやはりベタベタしているのだが、こちらは持ち帰り前提で、食べる前にオーブントースターで軽く焼くとよい感じになる(「le petit IMBISS」のものもちょっと焼き直せばいいのだろうが)。
おそらく保存の関係上、塩粒を表面にまぶすと溶けてしまうためか、「全体に軽く塩味を付けている」感じ。中のみっしり/もっちり感もよく、値段を考える(他の「パン屋のプレッツェル」と比べると1つあたりでは最安値)とかなりオススメ。
(2).上記「le petit IMBISS」に、ややミソがついた一方で浮上したのが、新横浜の「Champs de Blé(シャンドブレ)」のプレッツェル。1つ200円で、「パン屋のプレッツェル」のなかでは最安値(去年秋までは、鎌倉Bergfeldのプレッツェルが190円だったが)。ただし、大きさは「le petit IMBISS」や成城石井のものに比べて一回り・二回り小さい。
他の店では、生地のもっとも太い部分(開口部があるところ)に重点的に塩粒をまぶしてある場合が多いが、ここのプレッツェルはまんべんなく散らしている。皮のしっかり感、中身のみっしり感ともに良し。ただちょっと納得が行かないのは、「なんでフランス語の店名のお店のプレッツェルが暫定一位?」(「le petit IMBISS」 も半分フランス語だ)。
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