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2024年3月

戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(6)

●Mirage HOBBY 1:35のクブシュは、ほぼ発売直後(2014年8月)に喜び勇んで買って、その後しばらく放置。数年経って(2019年)ようやく作り始めたものの、装甲ボディをおおよそいじり終えたあたりで中断。長らく放置と相成った。

キットレビューやここまでの製作記に関しては、記事タグ:クブシュを参照のこと。

先日、facebookでコレを作っているという人の書き込みがあって、俄かに「またいじろうか」ゲージが上昇。がさごそと「お手付き山」から掘り出してみた。

現状はこんな感じ。

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装甲ボディに関しては、2019年8月15日の前回から僅かに変化があるが、これは前回書き込みの直後にいじった部分で、今回取り出して以降に新たにいじった箇所は無い。それどころか、それほど高さのないキットの箱に何の手当もせずに突っ込んであったので、戦闘室上面の防盾が折れてしまっていた。……退化してるのは情けないなあ。

前回書き込み時との違いは、車体前後のスカート部分。これは両方とも、0.3mmプラバンで作り直した。特に前部スカートに関しては、中央部の継ぎ目は、組立説明図のコメントに従い、三角のリブ材のない状態に。どうやら、実車は工作時に段が出来てしまったものを埋めている感じだったので、そのように工作した。溶接線が左端(向かって右)で幅広く汚いので、そのように再現。全く想像だが、第一回作戦での衝突等でスカート端の溶接にひびが入ってしまったのを補修したとかかもしれない。特に左側スカートが微妙に歪んでいるのは、実車もそんな感じなのを再現したのだが、箱に収めている間に歪みが大きくなってしまったかも。

後部スカートも、中央でピッタリ揃っていないのは、戦後に放置された状態での後方からの写真に倣ったもの。とはいえ、戦時中の稼働状態の時からそうだったかは確証が無い。

後部スカートは蝶番付きで可動のようだが、ヒンジは未工作。シャーシに繋がっているはずのフックが通る穴は、後部スカートには開けたが、前部スカートの分は未工作。

●今回掘り出して、とりあえずいじり始めたのは足回り。

キットレビューにも書いたように、このキットはシャーシの再限度がはなはだプア。シャーシフレームとか駆動系とかに関しては、そもそも「何のシャーシだったのか」時点で説が分かれているし(定説ではシボレー157だが)、そもそも装甲ボディをかぶせてしまうとほぼまったく見えないので、適当で構わないと思う。が、車輪のお粗末さは流石に何とかしたい。タイヤは同じくMirageで出ているwz.34装甲車のものの使いまわしで、径が不足しているうえにトレッドパターンもオモチャじみている。ホイールパーツも情けない出来で、タイヤに合わせて小径なのはもちろん、5つの軽め穴が貫通しておらず単に浅いくぼみになっている。

キットレビュー時点で「TOKO/RODENのGAZトラックのタイヤをホイールごと流用しようか検討中」と書いたが、実際に、シボレー157とGAZ(フォード)-AAのタイヤは同一サイズであるらしいことが判明したので、心おきなく流用を決意する。

なお、TOKO/RODENのGAZトラックは、その後イースタン・エクスプレスやズベズダでも販売され、バリエーションキットも出されている。今回も、パーツはイースタンのBAから持ってきた。

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左写真がTOKO/RODENのGAZトラックのタイヤ&ホイール。タイヤは軟質樹脂で、キットは、いくつかメーカーを渡り歩いているうちのどれか、もしくは生産ロットによっては、若干の収縮があり、うまくホイールにはまらないケースもあるようだ。今回流用分に関しては問題なく装着できた。

このTOKO/RODENのGAZの車輪、タイヤのモールドに関しては、トレッド部分については「それなり」程度ではあるが、側面ディテールなどは細かく美しく、そこそこよい感じ。ただし、一方でいくつかの問題もある。

(1).軟質樹脂部品には付き物の問題といえるが、パーティングラインを消す際、ヤスリ掛けをすると削りカスが粉ではなくケバになって表面に残る。

(2).元がソ連製トラックのキットなので、タイヤの片面にキリル文字でメーカーや型名などの文字が入っている。

(3).実車では、前輪・後輪とも同じホイールを使用、後輪ホイールは表裏向かい合わせでダブルになっている。したがって、後輪外側ホイール(左写真の左側)は、本来は前輪用ホイールの裏返し形状で、中心部分は内側にさらに一段窪んでいないといけないのだが、逆に出っ張ってしまっている。

(4).キットの(GAZの)ホイールの軽め穴は比較的三角形に近いが、どうやらクブシュのベースとなっているシボレーのホイールは、穴にもっと丸みがあるようだ。

うち、(1)に関しては、ヤスった後に、布などでこすると、ある程度ケバを落とすことが出来るようだ。したがって(2)に関しても削り落としてもいいのだが、そもそもロゴのある面を内側にしてしまえば完成後は見えなくなる。

(3)(4)についても、クブシュでは外側にスカートが装着されていて車輪はかなり隠れてしまうので、苦労して手を入れてもあまり意味がない。というわけで、今回は以上の問題はほぼまるっと無視することにする。

なお、我が家にはTOKO/RODENのGAZ用の車輪の代替品として、ポーランド・ARMO-JADAR製のレジンパーツもあるのだが、これまた後輪ホイールの形状がキット準拠で間違えている。トレッドパターンはこちらのほうが細かく、上記(1)の毛羽立ち問題も回避できるので、もしかしたら今後そちらに乗り換える可能性もあり。いずれGAZ系を作る気になったら、今はもっと出来が良い、miniartのパーツもあるしね。

とりあえず、GAZの車輪の取り付けに備えて、キットの後輪軸は切り詰め、GAZ系キットのブレーキドラムのパーツを取り付けた。フロントアクスルは、ステアリング機構のスの一文字もない粗末な構成だが、どうせ見えないので追加工作などはしない。確かソ連のBA-6以降は前輪にもブレーキがあるが、原型のGAZ-AAにはなかったのではと思うし、同クラスのシボレーもそうだろうと判断。こちらにはブレーキドラムのパーツは付けなかった。

●若干の考証。

(1).後輪について

改めてネット上でクブシュについて検索していて、こんな記事を見つけた。

„Kubuś” w cywilu

ざっくり言うと、クブシュのベース車輛は結局何だったのかという検証。これまでも、「クブシュのベースはシボレー157だった」「実はシボレー155だったという説もある」などと書いてきたが、この記事によれば、「157とか155とかいうのは、単にホイールベースの寸法(インチ)を示しているだけで、正式なモデル名称ではない」とか。まあ、それは興味深くはあっても、直接模型製作には関わりなさそう。

しかしより大きな問題は、それらの記述に加えて、「(定説で言われている車種は)後輪がダブルタイヤだが、クブシュの実車写真では両軸ともシングルタイヤであることが明瞭にわかる」というような一文が書かれていること。

えーーーーーーーー!?

これが本当なら、ちょっとちゃぶ台ひっくり返し系の新知見なんだけれど。

もちろん、元の文章はポーランド語で、それをgoogle翻訳に掛けているので、実際には上のようなスマートな日本語にはなっていない。原文とgoogle翻訳による日本語訳は次の通り。

Tyle, że nie jest to pełna nazwa, a dodatkowo ta seria miała podwójne opony z tyłu, zaś zdjęcia „Kubusia” wyraźnie pokazują pojedyncze koła na obu osiach.

ただしこれは正式名称ではなく、さらにこのシリーズは後輪がダブルタイヤで、「ウィニー」の写真では両軸ともシングルホイールであることがはっきりとわかる。

一応、素直に考えれば、最初に私が書いたような意味になるであろうことは判っていただけると思う。ちなみに「クブシュ」という固有名が「ウィニー」になっているのはgoogle翻訳さんの勇み足で、クブシュを「クブシュ・プハテク=くまのプーさん=ウィニー・ザ・プー」と判断してしまっているため。

Rearwheel さて、「写真では」とは言うものの、戦時中の「生きている」クブシュの写真は極めて少ない。右は、そんなクブシュの写真の中ではおそらく最も有名な1枚(wikimedia commons, File:Warsaw Uprising - Kubuś.jpgと、そこから後輪部分を切り出してクローズアップしてみたもの。陰になっていて判りづらいが、後輪はダブルの幅になっているように見える。

もちろんディテールは潰れているし、何か別のものが重なって幅広に見えているだけという可能性は皆無ではない。上の記事の根拠はどこにあるのか、いや、そもそも本当に「後輪もシングル」と言いたいのか――など、なお気になってモヤモヤする。が、とりあえずこれをひとまずの安心材料として、「後輪はダブル」のままで作ることにする。

(2).塗装について

ポーランド軍事博物館に所蔵のクブシュの現存実車は、これまで幾度か塗り直されているが、とりあえず現時点では濃淡のグレー2色の迷彩、ワルシャワ蜂起博物館のレプリカはグレーとブラウンの迷彩が施されている。いくつかの資料に掲載された塗装図も、おおよそ「グレー2色」派と「グレーとブラウン」派とに分かれている。

ちなみにMirage HOBBYのキット指定はグレー濃淡2色。キットの大らかさはどうあれ、説明書などからはかなりの入れ込み具合がわかるので、そんなMirageが言うのなら何かそれなりの根拠もあるのだろうとボンヤリ思っていて、近年はグレー2色派が有力なのかなと考えていた。私の模型も、最終的にはグレー2色迷彩で行こうと決めかけていたのだが……。

しかし、ポーランド語版wikipediaの文章を試しにgoogle翻訳に掛けてみると、興味深い記述が。

„Kubuś” został pomalowany przez Stanisława Kopfa ps. Malarz w brązowo-szare łaty.

「クブシュ」はスタニスワフ・コップフの別名によって描かれました。茶色と灰色の斑点を持つ画家。

ピリオド付きの省略単語などが入ると、とたんにgoogle翻訳さんは怪しくなるので、人名等は除いて文章を簡略化して訳させてみる。

„Kubuś” został pomalowany w brązowo-szare łaty.

「Winnie」は茶色と灰色の斑点で塗装されました。

文章を短くしたら「クブシュ」がまたしても「Winnie」(しかも英綴り)になってしまったのが謎だが、文章の意味はスッキリした。

ちなみに省略した人名前後の部分は、おそらく「コードネーム『画家』のスタニスワフ・コップフによって」なのだと思う。googleさんを混乱させた「ps.」は「pseudonim(偽名・仮名)」の略かと思う。文の切り分けはおかしくなっているが、一応「別名」という訳語が出ているのは流石?

なお、スタニスワフ・コップフは当時、クブシュを製作した国内軍「クリバル」部隊の第1中隊第105小隊所属の士官候補伍長で、第1回攻撃の際には実際にクブシュに乗り組んでいるらしい。戦後はワルシャワ蜂起博物館の開設にも関わっているので、レプリカの製作・塗装にもアドバイスを与えている可能性がある(ただし、2004年の博物館の開館直前に逝去している)。(→ワルシャワ蜂起博物館の人物紹介ページ

さらに、後のほうの段落では現存実車について、

W latach 90. został − niezgodnie z oryginałem − pomalowany w ciemnoszare łaty na jaśniejszym tle.

1990年代には、オリジナルとは反対に、明るい背景に濃いグレーのパッチで塗装されました。

とも書かれていた。灰色・茶色の組合せが灰色2色になっても「反対に」にはならないが、戦中の実車写真では「濃色に淡色の斑点」に見えるので、濃淡の組合せが逆になったという意味か。

いずれにせよ、これらの記述を読む限り、どうやら実車はもともと「ブラウン地に明るいグレーの迷彩」という組み合わせであった可能性が高そう。なんとなく一歩進んだ気分(製作それ自体はほとんど進んでいないが)。

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横浜AFVの会2024

●3月24日日曜日、横浜AFVの会に行く。

実は地域の自治会の会合が入っていて、今年は行くことが出来ないと諦めていたのだが、朝、自治会長にラインしたら、次の日曜に延期になったとの返事。なお、今改めて去年の横浜AFVの会の記事を読んでみたら、去年も自治会の役員会と重なっていて、役員会が終わってから終わりの数時間だけ出席したのだった(自治会役員は1年度だけの仕事だが、昨年の横浜AFVの会は4月開催)。

このところ模型製作は低調だったので、当然持っていける完成作品は無し。話のタネに作りかけのクブシュの装甲ボディでも持っていこうと思ったが、ちょうど具合よく入る持ち運び用の箱がなかった。

●出す作品がないこともあって、昼食をとってからゆるゆる出かける。

現地会場で、まずはKakudouさんにお会いする。そうこうするうち、昼食に出ていたらしいケン太さん、ミカンセーキさんも戻ってきて、あれやこれやと模型話をはさみながら作品鑑賞。会えると思っていたハラT青木氏は、聞くところによると体調不良だとかで欠席(去年も欠席だった)。大丈夫かアオキ!

あとはむーさんとか野田君とか。

●相変わらず一貫性も網羅性もない、知り合いの作品+たまたまその場で気になった作品の写真集。

まずはKakudouさんのOT-34。青木氏の厳しいチェックにさらす覚悟で持ってきたらしいが、前記のように氏は病欠のために肩透かし。「3つ(?)大きなウソがあります」とか言われたのだけれど、私はよく判らなかった。一つ種明かししてもらったところでは、112工場製車輛として製作したものの、実際のこのマーキングの車輛はよく見たら112工場製ではなかったらしい。

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同じくKakudouさんの英装甲車3題。Miniartのダイムラー・ディンゴ、ブロンコのハンバー・スカウトカー、ゲッコーのダイムラー装甲車。

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昨年末の東京AFVの会の折(会終了後の飲み会)でも見せてもらった、ケン太さん製作中のフジミのミニスケールJS-2。リアパネル周りとか、細かくヒンジなどディテールアップされていて、未塗装のこの状態が美しい。が、年末からどこが進んでるの、これ(フェンダーとかいじってるよ!と言われた)。

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ミカンセーキさんは、参加に向けて急遽完成させたという、ドイツ軍のモバイルトーチカ(輸送状態)。その筋(?)では有名なRPM製のインジェクションキット。M.Nさんからのもらい物? バーリンデン製のレジンキットも持っているとかで、そちらはいずれひまわり畑の中に設置された状態で作る由。

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むーさんの日本陸軍の牽引車。ピットロードのメタルキット。今は同一アイテムがインジェクションで出ているとかで、「作るならそっちを」と言われる。いや、作らないけど。

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野田君に、「何か作ってきたのー?」と尋ねたら、「コレですよコレ」と言われたイタレリのセモベンテ。車内はほぼスクラッチだとか。砲弾ラックの形状とか、飼料不足でとにかく苦労したらしい。ちなみに今回の横浜AFVの会、人気投票の際の予断を防ぐためか、作品カードにはエントリーナンバーは書かれているものの、作者名の欄がない。

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●ほか、知り合いでない方々(たぶん)の作品。

ルノーFTはタコムの1:16。仕上げも綺麗で丁寧で、何か賞も貰っていた。作者はだいぶ若い方。しばしFT話を楽しんだ。

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こちらは圧倒的迫力の1:35ドーラ。これも賞を貰っていた。キットはABS樹脂製だとか(その後、現行キットではスチロール樹脂に代わっているらしい)。いや、何樹脂だろうと普通の人には(製作スペース的にも保管スペース的にも値段的にも労力的にも)手に負えないよね?

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ランチア1ZM装甲車。当然、カッパーステイトのキットなのだろうと思ったら、久しぶりに名前を聞くKMR製レジンキットだった。KMRはレジンキット草創期のメーカーで、とにかく「出来の悪いレジンの塊」キット揃いだった記憶がある。よく、今になって作り上げたなあと感心。

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クロアチア軍のT-55? たしかMiniartのチェコ製車体のキット? もう一つはタミヤのAMX-13。特に何がどうということもなく、実車写真では(角度的に)あまり見ない、上面の丸型ファンが可愛かったので。戦後物の作品は当然、それなりに多数あったのだが、写真はこれしか撮っていなかった。

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ベルリン戦の雰囲気のソ連203mm榴弾砲ジオラマと、中国戦線のジオラマ。ジオラマ作品もそれなりにあったが、やはりあまり撮っていなかった(ミカンセーキさんのトーチカ、列車砲ドーラも一応ジオラマだけれど)。

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イースタンのSU-152。一応、組作品の体のランカスターとタミヤ48の救急車。私のアルビオン装甲車も、48のハリケーン(の一部)あたりと組み合わせたい気はしているのだが、実際にそこまでやり遂げる気力が出せるかどうか。

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と、あれこれ見ていて、当然、人の作品の鑑賞も楽しいには楽しいんだけれど、やはり自分でも何か作品を持っていかないとイカンなあ、と思う。……いや、毎回そう思うんだけれど。

●会終了後、ミカンセーキさん、ケン太さんと飲みに行く。ケン太さんの奥さんが気に入っているとかいう店で、日本酒を飲んで焼き鳥・焼き豚ほかを食べたり。さらに喫茶店でコーヒーを飲みつつあれこれ駄弁って解散。

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覚えているコト、忘れるコト

●昨秋以来、ずっと楽しみに観ていたアニメ、「葬送のフリーレン」がついに最終回。

原作マンガは出版社サイトの「試し読み」くらいしか読んだことがないが、アニメは実に緻密に作り込んであって、細かい部分でアニメオリジナルも多いらしいが、それが自然に、話に深みを持たせている感じ。絵も美しい。

以前、「SPY & FAMILY」が好きで観ていると兄が言っていて(その時に、えっ、兄はアニメ観るのかー、と、今更ながらちょっと驚いたくらいだが)、それならばと、先日会ったときにぜひフリーレンをと薦めてみたのだが、「観てる! あれと『薬屋のひとりごと』だけで、amazon primeにカネを払ってる価値がある!」と、食い気味に返答された。……うわ。観てるラインナップが一緒だよ。

勇者一行が人類の宿敵たる魔王を撃ち滅ぼし、その勇者もまた年老いて死んだ後に、勇者一行の魔法使いで果てしなく長命のエルフであるフリーレンが、かつての魔王討伐の跡を辿るように旅をする――というのが「葬送のフリーレン」の物語の大筋。魔王軍の残党と戦ったり、魔法使いの昇格試験を受けたりといった折々のエピソードはあるが、全体として「記憶」というのが重要なテーマになっていて、それがなんとも切ない。

あー。早く二期制作決まらないかな。

●母の納骨も10日に終わり、銀行口座の整理等々は兄任せなので、とりあえずは一段落。少し、母のことを思い返してみる。

父が亡くなって、母は長く実家に一人暮らしだったので(最後の何年かは兄が同居してくれたが)、おおよそ月一回頻度くらいで泊りがけで顔見世というか、ご機嫌伺というか、母に会いに行くのがルーティンだった。

特に何をするというわけでもなく、一緒に夕飯を食べ、とりとめなく話をしたり、見るともなくテレビを観たりして、一泊して帰るだけのことだったが、そんな徒然に、母の若い頃の話を聞くことが増えた。父も母も、あまり昔語りをする人ではなかったので、晩年になって初めて聞く話も多かった。

・これは近年になって母から聞くようになる以前の話だが、何かの折に、母の小学校時代の集合写真が出てきたことがあって、全校生徒?が20人程度だったろうか、その中で靴を履いているのが母を含め数人だけだった(あとは裸足)。「うわあ、『ド田舎のお嬢』だったんだなあ」と思った。

・子供のころから体が弱く、「二十歳まで生きられない」とまで言われていたのだそうだ。少しでも精を付けようと、祖父がウナギをよく食べさせていたとかで、無理に食べさせられたので「ウナギは嫌い。もう食べたくない」と言っていた。「夕飯、何か買っていくよ、何がいい? ウナギとか食べる?」と尋ねた時に、そう教わった覚えがある。

・田舎の旦那というのはそういうものなのかもしれないが、祖父は、祖母の生前に、すでにお妾さん?がいて、戦時中、すでに腹違いの妹が二人いた。母はそれが癪でたまらず、機織りをしているお妾さんのところに、大きな石を抱えていって、織っている最中の反物に投げつけて台無しにしたことがあったそうだ(←体の弱い娘がすることか?)。祖父はかわいがっている長女のしたことだからか、引け目もあってか、「そんなことはするものじゃない」と弱弱しく言うばかりだったとか。私の覚えている祖父は頑固で我儘な爺さんだったが。

・祖父は「島一番のウタシャ(唄者)」と言われるくらいの島唄の名人で(と言っているのはおおよそ親戚限定だが)、若いお妾さんも島唄上手、しかし祖母は島唄が出来なかったらしい。それもあってか、母は島唄が「ずっと嫌いだった」と言っていたが、晩年になって、「……と思ってたのに、この歳になるとやっぱり懐かしい」と言って、いくつか、私がCDで聞き覚えた島唄を逆に私から習って口ずさんでいた。特に「行ききゅんにゃ加那」節が好きで、葬儀の時もCDで流した。

・そんな具合でも、二号さんの生んだ妹たちは母に構ってほしくて、いつも寄ってきたそうだ。母はそのたび、邪険にしていたのだが、祖母(母の実母)は、「そんなに意地悪をするものじゃない、あんたが歳を取ってから、あの子たちのお世話になることもあるかもしれないんだよ?」とたしなめていたとか。母曰く、「そんな目にあっても怒らない、仏様のような人だった」。戦後になって、さらにその下に二人、腹違いの妹が出来たのだが、一番下のH叔母は実家のすぐ近所に住んでいて、いつも様子を見てくれて、食事を作って持って来てくれたり、とんでもなくお世話になった。母は「お母さんの言ったとおりだったよ」と言っていた。

・その腹違いの妹の一番上の名前は「かすみ」で、かくれんぼをするたび、予科練の唄の替え歌で「かすみはう~らんど~(かすみはいないよ)」と歌っていたそうだ。

・祖母は、現在奄美空港のある和野という集落の出身だった(家系としては、さらにその南隣の節田の出だったらしい、というのは前々回に書いた)。太平洋側でちょっと開けた和野よりも、父母の郷里で東シナ海側、島の北端にある集落の佐仁は波も住んでいる人の気性も、言葉も荒く、母はよく、祖母から言葉遣いをたしなめられたという。「佐仁では『はさみ』のことを『パサン』って言うんだけれど、そのたびに、そんな荒い言葉じゃなくて『はさみ』って言いなさい、と言われたよ」とか。まあ、「はさみ>パサン」になる理屈はよくわからんけれども。

・戦前、同郷の父は育ての親に連れられて満州に渡り、奉天(瀋陽 )で奉天商業学校という学校に進んだという。その頃一度里帰りをしているのだが、母曰く、「制服が格好良かった」そうだ。その後父は大学(旧制高校?)受験に失敗して(一度しか受験させてもらえなかった)軍隊に行くのだが、母は父から、文房具とか、本とか(「レ・ミゼラブル」とか、ずいぶんハイカラな本だったらしい)を貰ったそうだ。

・ところが、そういう付き合いを聞きつけた父方の親族の小母さんが、「あんたみたいな身体の弱い娘は、うち(の一族)の嫁にはふさわしくない」とわざわざ文句を付けにきて、母はそれがあまりに悔しく、父から貰ったもの一式を海に(名瀬の港に?)投げ捨てに行ったという(癇癪持ち……)。

・戦時中、母はすでに農協に(事務として)勤めていたそうな。しかし戦況いよいよ思わしくなく、奄美大島にも米軍が上陸してきそうだというので、祖父は、一家で満州に疎開を決意したそうな。母は(二号さんと一緒に?)行くのが嫌で抵抗。「年頃の娘を残していけない」という祖父に対し、「では嫁に行っていればいいのか」と、勤め先の上司の紹介で、その弟?と電撃婚して残留することになったのだという。ちなみにお相手は、すでに出征していて、しかも帰ってこなかったので、母は「会ったことも話をしたこともない」そうだ。

・戦時中、母は田んぼ?畑?の畔で、「グラマンに追いかけられた」ことがあったそうだ。もちろん、母にグラマンだのノースアメリカンだのの見分けがつくはずもなく、おそらく、当時の一般の日本人として「敵機=グラマン(あるいは、せいぜい単発機ならグラマン)」くらいの認識だと思う。

・ちなみに母の(同腹の)弟妹は、長男(母のすぐ下の弟)が(現在の)北朝鮮で学校→そのまま徴兵→ソ連軍の収容所、次女は鹿児島で女学校、三女は祖父と一緒に満州に。小学生の次男と祖母が、母と一緒に島に残ることになった。しかし、(これまた体が弱かった?)祖母は終戦前に若くして死去。小学生の弟は、終戦直後に小学校で起きた(子どもが拾ってきた)不発弾の事故で生死の境をさまようことになる(運よく生き延びた)。

・一方、満州に逃げた祖父らは、逆にソ連侵攻に伴う大混乱に巻き込まれることになる。腹違いの妹二人は、逃避行の最中に熱を出し、病院に連れて行って一晩泊めてもらったところ、翌日には「もう死んで埋めた」と言われ、追及するすべもなく泣く泣く諦めたとか。残留孤児として、どこかに貰われていった/買われていった可能性が高そう。

・終戦後、奄美大島には米軍が進駐してきて、沖縄同様に占領統治下に置かれる(1953年、沖縄より約20年早く復帰)。母は洋裁ができたので、駐留米将兵と付き合った女性たちの服を仕立てて大儲け。それで資金を貯め、密航で日本本土に渡ったのだという(おそらく、祖父たちはまだ帰国していない)。漁船の底に身を潜め、昼間は途中の島の入り江に姿を隠し、夜の間だけ航行という感じだったらしい。本土に渡ってしばらくは、終戦前から東京にいた親族の家にしばらく身を隠し、その間につてをたどって住民票を改竄?したらしい(もう時効だよね?)。なお、生死の境から生還したばかりの年少のK叔父はどうしたのか尋ねたが、「どうしたっけね?」と、ずいぶんいい加減な答だった。まあ、島に残った親族を頼ったとかなのだろうけれど。

・戦後も東京で洋裁で食べていたが、ある時、偶然に父の実母と再会。インパール戦を生き残った父は、復員してその頃はたぶん横浜に住んでいたはず。「**ちゃん(母)が東京に出て来てるよ」と教えられた父と再会し、その後なんだかんだの末に結婚。

なんつーか、波乱万丈の戦中戦後史だなあ。

こんなところに母の個人史を書いても誰の何の役に立つというわけでもなかろうが、私自身、たぶんこれからどんどん忘れていくと思うので、とりあえず備忘録的に。

それに、改めて思うが、以上のあれこれは「母がそう覚えていたこと」を、それまた私が伝聞で(おそらく記憶違いも含めて)文章に直しているので、どれだけ正確かは怪しい。誰の物語であってもそうだが、人から人に伝わっていくだけ、たぶんどんどんと「聞き手の解釈」が加わって、中身は変質していく。もちろん、私の母は偉人でもなんでもないので、その個人史が変容を気にするほどこの先伝わっていくこともないだろうが、記憶している私の中でさえ、その時々の解釈で変化していくかもしれない。いずれにしても、「まあ、記憶って、そういうもんだよね」以上の何物でもないのだけれど。

●相変わらずのプレッツェル(ブレーツェル)行脚。

前回「今までで一番イメージに近い」と書いた新橋「le petit IMBISS(ル・プティ・インビス)」のプレッツェルだが、その後、もう一度買ったら、最初から防湿の紙袋に入れられていて、そのせいで湿気がこもって外皮がペタペタしていた。どうも「ラウゲ液処理」の関係で、「湿気るとベタベタになる」のは宿命であるらしいが、「買い食い」用途で考えると、ちょっとこれはがっかり。売り方にもう少し注意を払ってほしい。

(1).成城石井で、ドイツから輸入されたパンタイプのプレッツェルが2個入り・380円(だったかな?)で売られていた。ビニール袋入りなので、そのままではやはりベタベタしているのだが、こちらは持ち帰り前提で、食べる前にオーブントースターで軽く焼くとよい感じになる(「le petit IMBISS」のものもちょっと焼き直せばいいのだろうが)。

Img20240226192338

おそらく保存の関係上、塩粒を表面にまぶすと溶けてしまうためか、「全体に軽く塩味を付けている」感じ。中のみっしり/もっちり感もよく、値段を考える(他の「パン屋のプレッツェル」と比べると1つあたりでは最安値)とかなりオススメ。

(2).上記「le petit IMBISS」に、ややミソがついた一方で浮上したのが、新横浜の「Champs de Blé(シャンドブレ)」のプレッツェル。1つ200円で、「パン屋のプレッツェル」のなかでは最安値(去年秋までは、鎌倉Bergfeldのプレッツェルが190円だったが)。ただし、大きさは「le petit IMBISS」や成城石井のものに比べて一回り・二回り小さい。

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他の店では、生地のもっとも太い部分(開口部があるところ)に重点的に塩粒をまぶしてある場合が多いが、ここのプレッツェルはまんべんなく散らしている。皮のしっかり感、中身のみっしり感ともに良し。ただちょっと納得が行かないのは、「なんでフランス語の店名のお店のプレッツェルが暫定一位?」(「le petit IMBISS」 も半分フランス語だ)。

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