« つれづれSU-100 | トップページ | つれづれSU-100(2) »

路上のバルケンクロイツ

●先日も紹介した「横須賀トンネルマップ」の中に、田浦港町-長浦間の「比与宇(ひよう)隧道」というのが出ていた。もともと軍事用の引込線のトンネルで、内部で荷物の積み下ろしができるよう、線路と車道が並ぶ珍しい形式であった由。

何か格好いい!見に行きたい!という気持ちが俄かに盛り上がったので、田浦まで出かける。JR田浦駅では、跨線橋を渡りちょっと「裏口感」がある北側(海側)へ。

Img20230311144515 跨線橋の上から、田浦駅を両側から挟むトンネルのうち、横須賀側の七釜(しっかま)トンネル群を撮る。

以前にも書いたことがあるし、横須賀市の観光情報のページでも紹介されているが、中央の現・下り線トンネルが開業当初の明治のもの。右の上り線が大正の開削。一番左の大きいものが昭和になって作られた、軍事輸送の引込線用で、こちらはまったく廃線になっている。このトンネルを見るたび、雨に濡れるのがイヤで引きこもったヘンリー(「きかんしゃトーマス」より)のトンネルっぽいなあ、と思う。

この写真だと、廃線トンネルには向かって左側に一線だけ入っているように見えるが、実際には(藪に埋もれたか撤去されたかで)右にももう一線入っている。

●JR田浦駅を降りて目的地の比与宇隧道に向かう途中、海側に並ぶ大型倉庫群は、見るからに年代物が多い。

改めて調べてみて意外だったのだが、軍港・横須賀は、大戦中、ドーリットルの日本本土初空襲の際の1機や、主には艦載機による散発的な銃爆撃があった(あるいは東京空襲の行き帰りの際の置き土産)程度で、本格的な空襲は受けておらず、田浦の倉庫群も多くが大戦前・大戦中からの生き残りなのだという。

横須賀が本格的な空襲から逃れたのは、アメリカが戦後利用することを見越してのことだったなどと言われることもあるらしいが、実際にはこれは俗説で、どうも「たまたま」だったらしい。このあたりは、wikipediaの「横須賀空襲」の記事で概略が掴める。

Img20230311144832 Img20230311144929 Img20230311145424

1枚目の写真は(割と駅を降りてすぐのところにある)相模運輸倉庫F号倉庫。近辺の倉庫の中でも一番の古株らしく、1917年(大正6年)建造。横須賀市のサイトでも、これ一棟が特別に紹介されている。近辺の軍事遺構のガイドとして常々活用させてもらっている「東京湾要塞」の記事「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」によれば、元々は「第三水雷庫」であった由。普通にコンクリート建のように見えるが、レンガ造りの上からモルタルを被せているらしい。

2枚目の写真は、F号からひとつ置いて隣、相模運輸倉庫K号倉庫。1928年(昭和3年)。旧・光学兵器倉庫だそうだ(「東京湾要塞」による)。

3枚目はだいぶ比与宇隧道に近付いて、相模運輸倉庫の本社事務所の隣にある、巨大なトタン葺き倉庫。同社の5号倉庫。大きさとサビっぷりに感心して撮ってきたのだが、これは1940年(昭和15年)建造。このあたりは第二海軍航空廠横須賀補給工場の倉庫群で、この現・5号倉庫も、発動機倉庫であったらしい。

Img20230311145510 ●上の5号倉庫脇を過ぎてすぐ、道路脇に珍しい線路の平面交差が2つ隣り合っている。このあたりの海軍の倉庫群を細かく連絡していた引込線のもの。その昔、タモリ倶楽部でも比与宇隧道とセットで紹介されたとか。

写真は駅方面から歩いてきて、比与宇隧道方向を向いて撮ったもの。写真にも遠くにちらりと、比与宇隧道の入り口が写っている。

線路それ自体はまったくの廃線で、道路方向にはまだ多少前後が続いているものの、道路を横切るほうは交差のすぐ脇でぶっつり途切れている。

2連の平面交差をもっと寄って撮ったのが下写真。1、2枚目が上写真の手前の交差、3、4枚目が奥の交差。レールの継ぎ方がなぜかそれぞれで異なっている。

Img20230311145520 Img20230311145626 Img20230311145536 Img20230311145657

レールはほとんど直角に交わっていて、ギャップはそれなりに広いから、通過の際にはかなりガタゴトいっただろうなあ……。

●そして今回の訪問のメインの目的地である比与宇隧道。

手元にある「横須賀トンネルマップ」の掲載写真がいささか古く、いかにもトンネル直前まで引込線が残っているように撮られているのだが、現状ではかなり手前で線路は消失していて、すでに「普通の(ちょっと狭めの)二車線道路トンネル」にしか見えず、いささか拍子抜け。

トンネルは田浦港町(田浦駅側)と長浦(横須賀側)を結んでいて、冒頭書いたように、かつては線路と車道が並行し、トンネル内部で荷物の積み下ろしをするようになっていたらしい。というだけでなく、トンネルの南面(田浦側から入って右側)にはそのまま大規模な地下倉庫(地下陣地)が広がっていて、現在でも塞がれた洞口が4つ確認できる。この地下壕に関しても、「東京湾要塞」に見取り図付きの記事がある。

Img20230311145930 Img20230311150127 Img20230311150201 Img20230311150243

●今回紹介の一帯の、終戦直後の米軍による空撮写真が以下。国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」、「USA-M46-A-7-2-77(1946年2月15日撮影)」から切り出し加工。

Usam46a7277b

丸数字を振ったのが最初に紹介した倉庫で、①がF号、②がK号、③が5号。今回はこの3つの倉庫の写真しか撮っていないが、周囲の倉庫群も、この頃から今までそれほど大きくは変化していない。

アルファベットは、Aが田浦駅。Bが引込線の平面交差地点。Cが比与宇隧道の田浦側入り口。この写真でも判るように、田浦駅から七釜トンネルを抜けて分岐した引込線は、平面交差(上の現状写真では横方向の線路)を通って第二海軍航空廠倉庫群の区画に入る。

平面交差のやや手前から右への分岐があったようで、これは比与宇隧道に向かう。その引込線は、比与宇隧道隧道内でスイッチバックする形で、今度は平面交差を東西方向(上の現状写真では道路沿いの縦方向の線路)で横切り、横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群に連絡していたらしい。

なお、Dで示したのは、おいそれと入れる場所ではないが、田浦駅のすぐ横にある小高い丘に現在でも残っている巨大な丸い窪地。ネット上では高角砲陣地の砲座跡ではないか等と紹介されていることもあるが、中心に謎のコンクリート柱があり、普通に対空砲が据え付けられる状態ではない。「東京湾要塞」の「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」ページでは、地下貯油タンクではないかと書かれている。

この付近に「城の台(しろんだ)砲台」と呼ばれる対空陣地があったとの話もあるが、これはこの「謎窪地」よりももうちょっと南にあったようだ。そこに向けての旧・砲台道と思われる道が、勾配を緩くするためにループさせた「のの字坂/のの字橋」と呼ばれる場所も附近にあり、今回は見られなかったが、そのうち訪問してみたい。F号倉庫同様、市のサイトに紹介ページ有り。

|

« つれづれSU-100 | トップページ | つれづれSU-100(2) »

かば◎の迂闊な日々」カテゴリの記事

トンネル」カテゴリの記事

軍事遺構」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« つれづれSU-100 | トップページ | つれづれSU-100(2) »