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2023年3月

つれづれSU-100(3)

●行き当たりばったりなドラゴンSU-100(初版)製作記、3回目。

今回はドライバーズハッチのディテール修正と、キューポラ改造の続き。

●まずはドライバイーズハッチから。

SUとT-34(戦車型)のドライバーズハッチの違い、さらにSUの中でのSU-85用とSU-100用の違いについては、(前回も書いたが)セータ☆さんの記事、gizmolog「SU-85&SU-100・操縦手ハッチの鋳造刻印文字」に詳しいので参照のこと。

修正工作としてはポイントは3つで、

  1. ドラゴンSU-100初版のドライバーズハッチのパーツは、最初のT-34-85キットと共通で、ペリスコープカバーの嵌る窪みがない、ロックハンドルの軸(がハッチ表面に貫通している部分)の位置が高く表現もイマイチ、などの問題があるので、これらを修正する。
  2. T-34系列のドライバーズハッチは仕様や生産時期によって(おそらく下請け工場の差で)仕上げに差が大きく、SU用やスターリングラード・トラクター工場製車輛のハッチは鋳造肌がかなり粗いイメージなので、その表現を付加する。
  3. 戦車型との違いを含め、SU-100用の特徴を盛り込む。

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1枚目はキットのパーツ。良くも悪くも「綺麗な」パーツ。

ロック機構の軸部分は、実物では貫通させた軸を溶接で固定しているので、もっと「ぐちゃぐちゃ」している。また、周囲が一段窪んでいるので、キットパーツの半球形のモールドを削り、やや下に大きめの穴を開け、ランナーを挿し込んで僅かな窪みを再現。中央に輪切り伸ばしランナーで軸部を付ける。

ペリスコープカバー部が当たる部分は、一段低く削り込む。

SU用ハッチは中央に巨大な湯口の削り跡があるので、プラペーパーを貼って再現。

SU-100用は中央下に「P.」の刻印があるので、これもプラペーパーで再現。

2枚目はおおよそ形状修正を済ませたものと、ズベズダのSU-85用のパーツとの比較。ズベズダのキットはSU-85用、SU-100用ともそれぞれきちんとディテールの特徴を盛り込んでいる、鋳造肌や切削跡などはまったく再現されていない。「C.」と「P.」の位置が違うのは実車同様。

ハッチ表面は接着剤を塗って荒らし、最後にサーフェサーをベタ塗りして様子を見たのが3枚目。ペリスコープ自体や、ペリスコープカバー操作ロッドの穴などは未工作。

●キューポラ工作。

基本形状の修正(ハッチの偏心)は前回までに済ませているので、視察スリットの工作と鋳造肌の再現を行う。

キットは、キューポラ本体のパーツ表面に、スリットの「リップ」のパーツを貼りつけるようになっているのだが、スリット自体開口していないし、形状もやや実感に欠ける。以前、SU-85Mを作った時にはキットパーツに直接ホットナイフを当ててスリットを開けたのだが、その場合、形状はキットパーツとどっこいどっこいだし、正確に望む位置にホットナイフを当てられる気もしなかったので(SU-85Mの時はどうやったんだろう?)、今回はもうちょっと面倒臭い方法を採ることにする。

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まずは、スリット位置にドリル、ペンナイフ、ヤスリをあーだこーだして大きめに穴を開ける(写真1枚目)。

次に、その開口部の上下に0.3mmプラバンを貼って、リップ部の“もと”を作るとともに均一な幅のスリットを作る(写真2枚目)。

スリットの両側にもプラバンを貼ってから、いい具合に突出するように削り、さらに溶接跡を追加。並行して、流し込み系の接着剤でキューポラ表面を荒らして鋳造肌を作る(写真3枚目、4枚目)。キューポラと車体との接続部も、キットのパーツはいかにも「別部品」感が高かったので、削ったり荒らしたりして溶接跡の感じを加えた。

ハッチは、実車では基部ごと回転するので、生きている状態の写真を見ると、割と方向はまちまち。ペリスコープの位置を考えると前後開き方向が基準のようだが、左右開きにしている例も結構ある。わざわざ回転可能に工作するのも面倒だが、方向固定で接着するのももったいない気がして、現時点ではただ載せているだけ。

●さあ、これで面倒臭い工事はほとんど終わったぞ~。

……と思ったら、結構大きな落とし穴を発見して茫然。

そちらの工作もすでにある程度進めたが、それに関しては次回。

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スベスベマンジュウガニ

●「スベスベマンジュウガニ」というカニは、そのファンキーな名前と、一方で名前のイメージに反して毒があるという意外性から、比較的知名度は高い。(おそらく)名前のせいでイジられて、NHKの「みんなのうた」でも取り上げられた歌になったことがあるので(私自身は今回初めて検索して聞いた)、さらに知っている人が増えたかも。

Img20230317154503 先日、材木座海岸を歩いていて、波打ち際に丸っこい、小さいカニの死骸があって、「ああ。たぶんスベスベマンジュウガニってこんな感じのカニなんだろうなあ」と思ったのだが、帰宅して写真をもとに検索してみたら、(むしろ意外なことに)本当にスベスベマンジュウガニだった。こんなご近所にいるカニだったのか……。

なお、写真はパッと見で「こっちが上かな」と撮ったのだが、帰ってよく見たら天地が逆だった。写真下が本来の頭側。

●その材木座近辺の軍事遺構について少々。

住吉城址~扇山の裾は、突端の西小坪海面砲台をはじめとして、洞窟陣地跡が点在している。

光明寺の裏山、鎌倉第一中学校北側脇の駐車場奥の崖面に、いかにも戦時中のものと思われる、コンクリート巻きの洞口があるのに(今更)気付いた。

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よく似た洞口は、光明寺の本堂(大殿)真裏の崖面にもある。現在光明寺の大殿は大規模な保存修理工事中で、それに合わせて本堂裏の道も足場で若干かさ上げされていて、洞口も半分隠れている。

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上の駐車場のものとよく似ているが、よく見るとコンクリート巻きの上部が上は緩いアーチ型、こちらは直線の屋根型。また、洞の入り口近く数メートル分は洞横も半露出になっていて、コンクリートが外側からも確認できる(2枚目写真)、洞窟自体は真っ直ぐでなく、ちょっと「くの字」型。内部は、現在もお寺が資材置き場的に使っているらしい。覗き込むように撮った写真からみて、奥はちょっと広がっているようで、その部分は素掘りかも。

4枚目は洞窟と無関係で、その洞窟の対面側、保存修理中の大殿を覆うパネル一部が透明で、中をちょっと覗き見できるようになっている。現在の大殿は、外壁も内壁も床面も全部取り払って、骨組みだけになっているようだ。

●光明寺からまた山側に戻って、第一中学前の道が材木座~姥子台間の道に当たるわずか手前の崖面にも、洞窟陣地跡がある。崩落防護網や藪のせいで、普段は存在自体がなかなか確認できないのだが、たまたま午後の陽が当たってわずかにコンクリートの構造物が見えた。ここは単純な洞口ではなくて、内側が一段窪んで銃眼がしつらえてあるらしい。

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しかし写真にすると、やっぱり判りづらいなあ……。

Img20230319173056 ●20日月曜日。仕事先の事務所で数年ぶりの花見。千鳥ヶ淵、英国大使館前にて。久しぶりに都心に出た。

とはいえ、まだこの時は三分咲き程度。

前日に今年初収穫したアケビの芽を茹でて持って行った。出がけに逗子駅前OKストアで買っていった使い切りの胡麻ドレッシングで食す。これはこれで好評だったものの、数人に「今年はノビルはないの?」と言われた。

花見の席の近くを通りかかった女性のひとりが、いわゆる“胸開きタートルネック”を着ていて驚く。え?あれってネタとか伝説上の存在とかじゃなかったの?

●ほか、春の収穫ネタ。

私自身はもともとツワブキは、独特の味のクセがあまり好きではなく、好んで収穫しようと思わないのだが、義妹は好きで、日常的にあれこれ採っている私に「ツワブキはまだ? あれって下処理はどうするんだっけ」などと聞いてくる。

たまたま散歩に出た際に、ちょうどよい具合に若い葉が出ているツワブキを見つけたので、「ついでだから採って行ってやろう」と一束摘んで義妹宅に持っていったら、「ちょうど今日採ってきて今煮たところだよ! 持って帰って自分で作ってよ」と言われてしまった。なんという間の悪さよ。

というわけで仕方がないので、久々に(以前作った時の手順はすっかり忘れてしまったので、改めてネットなど見つつ)佃煮(風?)を作る。

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下処理は一茹でして皮むき。……前に作った時って、皮剥いたかなあ。

適当に刻んで、まずは日本酒、顆粒だし、醤油と、みりん、砂糖を少々。刻んだ鷹の爪を心持多め。色が薄い気がしたので、もうちょっとちゃんと味が染み込むようにと、途中で一度、すこしだけ水を差している。水気が飛ぶまで炒め煮して終わり。

意外なくらい美味しく出来て、これだけで飯が食えてしまう感じ。ツワブキを見直す。この春のうちに、あと数度は作ってもいいかも。

某所に「ミズはもう生え始めたかな?」と見に行ったら、まだ本当に生え始めで、5~10cm程度だった。せめて40cmくらいまでは育たないと。

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花見のあと、アケビの芽は自分用に(今日までに)もう2度収穫。どちらも(私的)定番の「卵ご飯に大量投入」で食べる。美味し。

●DHCといえば、世間的には(ネトウヨ系の)薬屋さんかもしれないが、個人的には見かけるたびに「デ・ハビランド・カナダだ~」と思う。飛行機マニアあるある?

それはそれとして、薬屋さんのほうのDHCは、もともと「大学翻訳センター」の頭文字だそうだ。……は?

●YouTubeの有隣堂clip「神奈川あるあるの世界 clip」というのをたまたま見ていたら、通勤ラッシュの話題で、

「幸せな人生って、南武線に何回乗らずに済んだかっていう人生だと思うんですよね」

と言っていて、中学・高校の6年間、南武線に乗って通学していた私は、人生の幸せをものすごい勢いですり減らしたんだなあ、と思った。

ちなみに中学の時だったか、ドアにぎゅうぎゅうに押し付けられて、腕時計のガラスを割ったことがある(むしろよくそれで腕が折れなかったものだと思う)。もっとも、通勤ラッシュ時の混雑度のすごさは、南武線よりも、大学時代に使っていた(かつての)新玉川線のほうがひどかったように思う。

単純に乗車率の問題だけでなく、当時の車輛の吊革の配置などもあるのかもしれないが、新玉川線の場合は発着時の「潮汐作用」もひどくて、身体が半ば浮いたまま、発着のたびに自分の意志と関係なく態勢変えを強いられるのがツラかった。

ここ数十年で、列車運行の改善とか時差通勤とかでラッシュはだいぶ軽減されたと思うので、今はあれほどの殺人的ラッシュは稀なのかも。

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つれづれSU-100(2)

●つまみ食い的なドラゴンSU-100(初版)製作記の続き。

ちまちま手を加えるところはあちこちあるにしても、今回の製作における改修のなかでも特に重視しているところといえば3点で、

  1. 戦闘室後面装甲の継ぎ方を初期型標準の組み継ぎにする。
  2. キューポラを戦中型標準の偏心タイプにする。
  3. 砲基部カバー右側面のボルト溝を再現する。

このうち1の装甲板の継ぎ方の改修については、前回書いた通り(溶接跡の再現はこれからだが)。

その後キューポラの偏心の工作をして、さらに(一番面倒臭そうだったので後回しにしていた)砲基部カバーの改造もなんとか済ましたので、今回はその報告。

●戦中型のSU-85M/100のキューポラは、おそらく前方からの攻撃に重点的に対抗するために前方が厚く、後方が薄くなっているようで、キューポラ本体に対してハッチが後方にズレている。

ドラゴン初版ではこれが再現されていないので(プレミアム版やズベズダでは偏心キューポラが付属している)、キットのパーツを改造する。

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具体的には、キットのキューポラ本体パーツの開口部の前方内側半分にプラ材を貼り増し、後方は逆に削り込んで、開口部自体が後ろにズレるように調整する。ただし、キューポラ本体パーツの上端には若干内向きにrが付いていて、そのまま削ると後部が低くなってしまうため、上端も若干ヤスった後に0.3mm板を貼り増した。前側の厚くなった“縁側”部分はナナメに削ぎ落ちた形状に。

ハッチおよびハッチ枠部は、ほぼ発売当初(20年以上前)に製作したSU-85Mの際には、キットよりわずかに小径に作り直したが(T-34maniacs内の製作記事参照)、今回はキットのパーツをそのまま使うことにした。それにしても、今読み返すと「結構頑張ってるなあ、当時のオレ」と思うと同時に、考証的に迷走している部分もあってちょっと恥ずかしい。

キューポラ表面のテクスチャーやビジョンスリットに関してはこれから。

●砲基部カバーの改修。

プロトタイプを除いて?SU-100の砲基部カバーは右側面に深いボルト逃げの縦溝がある。ドラゴン初版キットではこのパーツはSU-85M、SU-100の両キット共用で、基本はSU-85M用に近い形状をしており、縦溝が再現されていない(正確にはSU-85M用でも本来は薄く溝があるのだが)。

脱線話だが、この縦溝は、大昔のゴムキャタピラ時代のタミヤ「SU-100ジューコフ」の箱絵にも描かれていて、当時それを見て、「何かコレ格好いいなー」と思ったものだった。もちろんキットのパーツでは無視されているが、当時の私は自分で何とか改造してそれを再現する、などとは1ミリも思わなかった(将来そんなことに精魂込める大人になるとも思わなかった)。

閑話休題。

実車は、SU-85用に比べてカバー部本体が右側に増幅されていて、その分、ボルト位置が内側に“食い込んで”しまったものと思われる。どんなふうにこの溝を作るか、あれこれ方策を考えたのだが、結局は愚直に、プラバンで「溝付き板」を作ってキットのパーツ側面に貼り増すことにした。

実際の作業は、おおよそ以下の左写真のような流れ。

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0.5mmプラバンの2枚重ねで溝板を作る。2枚重ねにしたのは、表側のプラバンは最初からボルト位置にわずかに隙間を作っておいて、丸ヤスリで溝を作る際のガイドにしたため。キットパーツに張り付け、段差部分はプラバンの小片をレンガ積みするように張り付けて行って埋めた(さらに多少の段差や隙間は瞬着で埋めた)。

「モデラーとしてそれはどうなの?」という感じだが、我が家にはパテの備蓄がない。普段、ちょっとした隙間や窪みはプラ片や瞬着で埋めてしまうことが多く、一方で「パテ使い」のスキルもまったく進歩しないため、パテを買ってもだいたい、ほんのちょっぴり使っただけで残りを引き出しの奥でダメにしてしまう。というわけで、こんなふうにかなり大胆に「盛り・埋め」をする際にも「あ、そういえばパテねーや」という事態になる。まあ、プラ片を使うメリットとして、ベース部分と切削感に大きな差が生じない、というのはあるけれど。

ちなみにme20さんは、キットの平滑部に多少の歪みがある場合も積極的にパテで直していて(ポリパテ?)、何度見ても「スゲー!」と思う。

何はともあれ、そんな埋め/削り作業の後、表面をミカンセーキさんに倣った「瞬着なすりつけ」で鋳造肌表現とし、さらに(プラ色がまだらで判りにくかったので)修正箇所のみビン入りサーフェサーをベタ塗りして表面状態の確認を行った。その状態で、キットの元パーツと比較したのが右写真。溝のある側面と、丸みを帯びた面との境界は、実車では、作例のように割合はっきりエッジが出ているもののほか、かなりなだらかに変化しているものもある。生産時期の差などが関係しているのかどうかは未確認。

ついでに、上面にはキットでは省略されている砲架のカルダン枠の軸受も追加した。

なお、ドラゴンのSU-100プレミアム版のパーツでは、先述のようにこの溝が再現され、カルダン枠の軸パッチも追加されているのだが、少なくとも溝部はちょっと表現がおとなし過ぎる感じがする。

先のキューポラと合わせて戦闘室周りの現状はこんな感じ(もちろん両方とも仮組み)。

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●このところドラゴンのT-34系を作る際に、個人的に「お約束工作」にしている、ラジエーターグリルのスライス→透かし工作もついでに済ませた。

実車は枠板はもっと薄いし、仕切りのロッドはもっと細く、むしろあちこち変形しているのが普通というくらいにヤワ感あふれるパーツなのだが、少なくとも、一部のエッチングパーツセットに含まれる平板なグリルよりはマシかな、と個人的には思っている。お金掛からないし。

もちろん、最近では実車通りの見た目に枠を組んで金属線を通すパーツとか、3Dプリント製の繊細なパーツもあるのだが、その辺は懐と工作力に余裕のある方はどうぞ、ということで。

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側面グリルは、上辺のヒンジに関して最近の資料では工場別/年代別の位置の変遷などに触れているものもあるのだが、少なくとも私が現存車輛で確認した限りでは(戦時中の写真ではそもそも燃料タンクに隠れてきちんと確認できる例が少ない)個体差が大きく、「これがSU-100の標準」という位置は判断できなかった。

ただし、固定ボルト?とその座金に関しては、どうもSUの場合は真ん中辺にあるのが普通のようだったので、キットのモールドは削り取って、新たに真ん中あたりに付け足した。右写真でデッキの上に乗っているのが元パーツ。

●前回、SU-100用操縦手ハッチの「P.」マークについてちょっと触れたが、これに関してセータ☆さんが、新たに記事をUPしている。最近の資料での記述なども交えて、SU系のハッチについて解説したもの。これについては私が安直につまむより、とにかくSU者(なんだそりゃ)は同記事を直に読むことをお勧めする。

gizmolog「SU-85&SU-100・操縦手ハッチの鋳造刻印文字

●ドラゴンSU-100の謎。

ドラゴンの1:35のSU-100には、ここで取り上げている初版(通常版、#6075)と、改修パーツが入った「プレミアム版」(#6359)のほかに、さらにその後になって発売された(六日戦争シリーズ)「エジプト陸軍SU-100」(#3572)というのがある。

「エジプト陸軍版」は「プレミアム版」のそのまた若干のパーツ追加版という感じのキットで、エッチングパーツやアルミ挽き物砲身、改修された砲基部カバーなどはプレミアム版のまま、戦後仕様特有の大型工具箱や履帯交換具なども入っているらしい。

superhobbyでパーツや説明書を確認してみると、この「エジプト陸軍版」、両開きハッチの戦中型キューポラも不要パーツで入っているだけでなく、なんと、プレミアム版にはなかった、戦中型の組み継ぎ仕様の戦闘室後面板と側面板も不要部品扱いで入っているらしい。そもそもそんなパーツを使うバリエーションキットは、現時点でドラゴンからは発売されていないはずで、そのパーツの存在自体が謎。

というわけで、ドラゴンのキットで戦中型SU-100を作るなら、「エジプト軍仕様」が実は最適! ――と言いたいところではあるが、ドラゴンの場合、割とこっそりパーツの入れ替えがあったりするし、不要パーツ扱いなので(プレミアム版と同様に)そのパーツ枝の該当部分が除かれてしまう可能性もあるかも。そもそも、superhobbyの当該ページに上がっている説明書のパーツ展開図と実際のパーツ写真との間にも、わずかに齟齬がある感じなので、実際に購入して箱を開けたら、目当てのパーツが「えー!入ってないじゃーん!」となる可能性も無きにしも非ず。どなたか買って確かめてみません?

(3月24日追記)

kunihitoさんが実際に上記「エジプト陸軍版」を購入してみたところ、組み継ぎ式の戦闘室装甲板、初期型キューポラ、溝付き砲基部カバーは全部入っていたそうだ。

なお、上で「そもそもそんなパーツを使うバリエーションキットは、現時点でドラゴンからは発売されていないはずで、そのパーツの存在自体が謎」と書いたのだが、その後さらに調べてみると、「SU-85M」のプレミアム版というのがSU-100プレミアム版とは別に出ていて、そちらは実際には初期型SU-100とのコンパチキットになっており、組み継ぎ式の戦闘室装甲板パーツを使う指定になっていることが判明。

というわけで、今後ドラゴンのキットを(新たに購入して)使って戦時中タイプのSU-100を作るのであれば、「SU-85Mプレミアム版」か「エジプト陸軍SU-100」のいずれかが適、ということになる(もちろんエジプト陸軍版のほうは「パーツが入っている」というだけで、説明書は戦時中仕様で組むようには書かれていないので、自分でパーツ構成を判断できる人に限る)。

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路上のバルケンクロイツ

●先日も紹介した「横須賀トンネルマップ」の中に、田浦港町-長浦間の「比与宇(ひよう)隧道」というのが出ていた。もともと軍事用の引込線のトンネルで、内部で荷物の積み下ろしができるよう、線路と車道が並ぶ珍しい形式であった由。

何か格好いい!見に行きたい!という気持ちが俄かに盛り上がったので、田浦まで出かける。JR田浦駅では、跨線橋を渡りちょっと「裏口感」がある北側(海側)へ。

Img20230311144515 跨線橋の上から、田浦駅を両側から挟むトンネルのうち、横須賀側の七釜(しっかま)トンネル群を撮る。

以前にも書いたことがあるし、横須賀市の観光情報のページでも紹介されているが、中央の現・下り線トンネルが開業当初の明治のもの。右の上り線が大正の開削。一番左の大きいものが昭和になって作られた、軍事輸送の引込線用で、こちらはまったく廃線になっている。このトンネルを見るたび、雨に濡れるのがイヤで引きこもったヘンリー(「きかんしゃトーマス」より)のトンネルっぽいなあ、と思う。

この写真だと、廃線トンネルには向かって左側に一線だけ入っているように見えるが、実際には(藪に埋もれたか撤去されたかで)右にももう一線入っている。

●JR田浦駅を降りて目的地の比与宇隧道に向かう途中、海側に並ぶ大型倉庫群は、見るからに年代物が多い。

改めて調べてみて意外だったのだが、軍港・横須賀は、大戦中、ドーリットルの日本本土初空襲の際の1機や、主には艦載機による散発的な銃爆撃があった(あるいは東京空襲の行き帰りの際の置き土産)程度で、本格的な空襲は受けておらず、田浦の倉庫群も多くが大戦前・大戦中からの生き残りなのだという。

横須賀が本格的な空襲から逃れたのは、アメリカが戦後利用することを見越してのことだったなどと言われることもあるらしいが、実際にはこれは俗説で、どうも「たまたま」だったらしい。このあたりは、wikipediaの「横須賀空襲」の記事で概略が掴める。

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1枚目の写真は(割と駅を降りてすぐのところにある)相模運輸倉庫F号倉庫。近辺の倉庫の中でも一番の古株らしく、1917年(大正6年)建造。横須賀市のサイトでも、これ一棟が特別に紹介されている。近辺の軍事遺構のガイドとして常々活用させてもらっている「東京湾要塞」の記事「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」によれば、元々は「第三水雷庫」であった由。普通にコンクリート建のように見えるが、レンガ造りの上からモルタルを被せているらしい。

2枚目の写真は、F号からひとつ置いて隣、相模運輸倉庫K号倉庫。1928年(昭和3年)。旧・光学兵器倉庫だそうだ(「東京湾要塞」による)。

3枚目はだいぶ比与宇隧道に近付いて、相模運輸倉庫の本社事務所の隣にある、巨大なトタン葺き倉庫。同社の5号倉庫。大きさとサビっぷりに感心して撮ってきたのだが、これは1940年(昭和15年)建造。このあたりは第二海軍航空廠横須賀補給工場の倉庫群で、この現・5号倉庫も、発動機倉庫であったらしい。

Img20230311145510 ●上の5号倉庫脇を過ぎてすぐ、道路脇に珍しい線路の平面交差が2つ隣り合っている。このあたりの海軍の倉庫群を細かく連絡していた引込線のもの。その昔、タモリ倶楽部でも比与宇隧道とセットで紹介されたとか。

写真は駅方面から歩いてきて、比与宇隧道方向を向いて撮ったもの。写真にも遠くにちらりと、比与宇隧道の入り口が写っている。

線路それ自体はまったくの廃線で、道路方向にはまだ多少前後が続いているものの、道路を横切るほうは交差のすぐ脇でぶっつり途切れている。

2連の平面交差をもっと寄って撮ったのが下写真。1、2枚目が上写真の手前の交差、3、4枚目が奥の交差。レールの継ぎ方がなぜかそれぞれで異なっている。

Img20230311145520 Img20230311145626 Img20230311145536 Img20230311145657

レールはほとんど直角に交わっていて、ギャップはそれなりに広いから、通過の際にはかなりガタゴトいっただろうなあ……。

●そして今回の訪問のメインの目的地である比与宇隧道。

手元にある「横須賀トンネルマップ」の掲載写真がいささか古く、いかにもトンネル直前まで引込線が残っているように撮られているのだが、現状ではかなり手前で線路は消失していて、すでに「普通の(ちょっと狭めの)二車線道路トンネル」にしか見えず、いささか拍子抜け。

トンネルは田浦港町(田浦駅側)と長浦(横須賀側)を結んでいて、冒頭書いたように、かつては線路と車道が並行し、トンネル内部で荷物の積み下ろしをするようになっていたらしい。というだけでなく、トンネルの南面(田浦側から入って右側)にはそのまま大規模な地下倉庫(地下陣地)が広がっていて、現在でも塞がれた洞口が4つ確認できる。この地下壕に関しても、「東京湾要塞」に見取り図付きの記事がある。

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●今回紹介の一帯の、終戦直後の米軍による空撮写真が以下。国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」、「USA-M46-A-7-2-77(1946年2月15日撮影)」から切り出し加工。

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丸数字を振ったのが最初に紹介した倉庫で、①がF号、②がK号、③が5号。今回はこの3つの倉庫の写真しか撮っていないが、周囲の倉庫群も、この頃から今までそれほど大きくは変化していない。

アルファベットは、Aが田浦駅。Bが引込線の平面交差地点。Cが比与宇隧道の田浦側入り口。この写真でも判るように、田浦駅から七釜トンネルを抜けて分岐した引込線は、平面交差(上の現状写真では横方向の線路)を通って第二海軍航空廠倉庫群の区画に入る。

平面交差のやや手前から右への分岐があったようで、これは比与宇隧道に向かう。その引込線は、比与宇隧道隧道内でスイッチバックする形で、今度は平面交差を東西方向(上の現状写真では道路沿いの縦方向の線路)で横切り、横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫群に連絡していたらしい。

なお、Dで示したのは、おいそれと入れる場所ではないが、田浦駅のすぐ横にある小高い丘に現在でも残っている巨大な丸い窪地。ネット上では高角砲陣地の砲座跡ではないか等と紹介されていることもあるが、中心に謎のコンクリート柱があり、普通に対空砲が据え付けられる状態ではない。「東京湾要塞」の「横須賀海軍軍需部本部地区長浦倉庫」ページでは、地下貯油タンクではないかと書かれている。

この付近に「城の台(しろんだ)砲台」と呼ばれる対空陣地があったとの話もあるが、これはこの「謎窪地」よりももうちょっと南にあったようだ。そこに向けての旧・砲台道と思われる道が、勾配を緩くするためにループさせた「のの字坂/のの字橋」と呼ばれる場所も附近にあり、今回は見られなかったが、そのうち訪問してみたい。F号倉庫同様、市のサイトに紹介ページ有り。

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つれづれSU-100

●つれづれなるままに、さもほどなや。

「がっつり模型を作りたい」というよりは、「漫然と模型をいじりたい」という気分で、何ということなしに、ドラゴンのSU-100の“下ごしらえ”工作をする。

きっかけは単純で、昨年末の東京AFVの会で頂いた、MINIARMのT-34用転輪(#35178、SU-100,SU-85,T-34 Pressed roadwheels set (Sormovo Factry)と、ABERのSU-100用砲身(#35L-39、Russian 100mm D-10S tank Barrel for SU-100 (for Dragon model))が机の上でそのままになっていたのを眺めでいるうち、これらを、半ば戸棚の肥やしになりかけていたドラゴンのSU-100とともに、まとめて成仏させてやろうと思ったため。

ちなみに上のアフターパーツ2品はkakudouさんに頂いたもの(……ですよね? M.Nさんからのものも混じってます?)。どうもありがとうございます。

そのkakudouさんもT-34シリーズを積極的に次々と完成させていて、SU-100も比較的最近、ズベズダのものを完成披露している。さすがにあの作品レベルまで迫れる気はしないので、こちらはヌルめに製作予定。

ちなみに冒頭に(そして以前にも)「さもほどなや」と書いたが、SU=СУ、Самоходная Установкаをカナ表記すると、「サマホードナヤ・ウスタノーフカ」がより近いらしい。直訳すれば自走式装置、とか何とか。ざっくり意訳して自走砲。

●素材の説明。

ドラゴンのSU-100は、初版が1995年発売。(今となってはあれこれ古さも目立つが)スケールモデルとしてそれまでと一線を画した新世代のT-34キットとして発売された同社T-34-85のバリエーションとして、ほぼ共通の車体のSU-85Mと共に出されたものなのだが、

Img20230310133314 (1).発売当初、セットするパーツの選択を間違えてSU-100のキットにSU-85M用の防盾しか入っておらず(うろ覚え)、後から模型店経由でSU-100用防盾パーツを大量に配布した(私も初版を買って、後から防盾を手に入れた。右写真)。

(2).その後、2000年代になってプレミアム版を発売。履帯をマジックトラックにし、エッチングをセットしただけでなく、キューポラもきちんとSU用形状に、砲基部カバーもSU-100用に改修した新規パーツをセット。戦闘室側面を別パーツ化し、戦闘室後面との接合状態を、後期型(というか標準型?)としてより正確なものに。戦後型標準の戦闘室後面もセット。車体底面を、それなりにSU専用車体に見せる改修パーツなども有り。

(3).そこまではよかったが、その後発売されたSU-85Mのオレンジ箱(廉価版)では、上記プレミアム版で戦闘室側面を別パーツ化したにも関わらず、その側面板の新規パーツが入っていない。車体上部自体は、側面パーツを貼り増すのが前提の改修パーツが入っているので、そのまま作ると、戦闘室側面が一段窪んだ情けない姿に。

――という、なかなかに「お騒がせ歴史」付きキットとなっている。

発売当初は、(雰囲気はどうあれ、寸法バランス的にもディテール的にもあっちこっち問題があるタミヤを除いて)初のかっちりした35スケールのSUキットとして大いに価値があったこのキットだが、さすがに発売から30年近く経つともなると、そこそこ気になる点も多い。

(1).左後ろのハッチが戦闘室後面まで回り込んだ、とりあえずは戦中型と言える仕様を再現しているが、起動輪は(先に発売されたT-34-85同様に)戦後型だったり、「戦中型に成り切れていない」点がちらほらある。ほか、先に発売された戦車型に引きずられたディテールも若干あり。

(2).砲基部カバーは本来、SU-85MとSU-100ではやや大きさが違い、大きめのSU-100では右側面にボルトアクセスの逃げのために明瞭な縦溝がある(極初期車輛か試作型には溝無しもあるようだ)。キットはSU-85M用の形状のものしか入っていない。上述のように、プレミアム版ではSU-100用に改修された新規パーツが入っている。

(3).SU-122/85/100はT-34のバリエーションだとはいえ、車台は戦車用とSU用では別物。キットは、下部前面装甲板はSU用に新たに起こしているものの、車体下部自体は戦車型をそのまま流用している。ただし、上述のように後に発売されたプレミアム版では、エッチングパーツ等を用いてSU車体に近付ける工夫をしている。

などなど。

これらは(繰り返し言うが)プレミアム版では若干改善されているし、もっと言えば、ズベズダの新キット(確か新旧2種あるが、その新しい方)ではほとんど解消されているので、そもそも、これからカッチリした戦中型SU-100を作るなら(ウクライナ侵攻が続いている今、そもそもズベズダのキットは手に入りづらいとか、姿勢としてロシア製キットは避けたいとかいった理由は抜きにすれば)素直にズベズダ製を作るべき。いやもう、本当に早く侵攻は諦めてくれませんかね。

もっとも今回の主眼は「カリッカリに戦中型SU-100を突き詰めて作る」のではなく「せっかく頂いたパーツの活用を兼ねて、在庫のドラゴンSU-100をやっつける」方にあるので、とりあえず、適当に「やる気になった部分だけ手を入れる」を基本方針に工作していくことにする。

●頂き物の2パーツについても若干。

MINIARM製の転輪は、さすがにT-34やKVの各種パーツを積極的に出しているメーカーだけにかっちりした出来。裏になるパーツのほうはボルト頭が気泡で潰れている部分が少しだけあったが、表は基準を厳しくしているらしく問題なく美しい。もっとも、このタイプ(ディスク型でゴムリムに穴・刻み目無し)はキットの転輪も基本同一タイプで、キットのパーツも決して悪い出来ではないので、取り換える必然性はそれほどは高くない。今回は「せっかく頂いたものだし、他に使うあてもなさそうだし」ということで、贅沢な気もするが使ってしまう。

MINIARM製パーツの最大のアドバンテージは、リム部に溶接跡が再現されていること。キットの転輪とは、ゴムリム部の筋のパターンにわずかに違いがあるが、これはどちらが正しいとかがあるのか、あるいは工場や時期の差なのかは、私にはよく判らない。またMINIARM製は内外の転輪の接合部分がより正確で、若干の隙間と、その間のボルトのロッドも再現されているが、これはどのみち組んでしまうと見えない。製品名に「ソルモヴォ工場」とあるけれど、ゴムリムの模様が、基本112工場への納入のみの仕様とかだったら怖いなー。

ABER製の100mm砲身は、外形はキットのパーツとそう大きな差はないが、張り合わせ式のキットパーツに比べれば、歪みの心配も継ぎ目消しの苦労もないのはメリット。しかし、砲口は100mmにしては明らかに狭すぎ、口径80mm程度しかないため、そのままではちょっと使いづらい。幸い?内側にはライフリングの再現もないので、ゴリゴリ内側から削って、100mmに近付け中。

●というわけで、下ごしらえ工作の現状。

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キットの戦闘室後部の装甲板の組み方は、後面装甲板左右をを側面装甲板が挟む、(おそらく)大戦末期から導入された仕様になっているが(ただしその場合、側面装甲が若干後方に張り出す。ドラゴンプレミアム版ではこれを再現)、これを生産当初の組み継ぎ形状に修正、ドイツ戦車のようなかっちりした組み継ぎではなく、かなりいい加減な組み方で、逆にうまく再現するのに苦労する。とりあえず装甲板の組み上げだけ行って、このあと溶接跡をちまちま入れていく予定。

ちなみに、戦闘室後面に後部ハッチが回り込んでいる初期型形質であっても、組み継ぎになっておらず側面装甲に挟まれた形状に改まったものも確かにある。私が極初期型?と誤解して、後面装甲を傾けて作ってしまったポーランド軍所属のSU-85Mも、実際にはこの過渡期の仕様だったようだ。整理すると、

  • 後面装甲/側面装甲の継ぎ方が変更されてからも、しばらくは後部ハッチの後面への回り込みがあって、期間を置いて(戦後になって?)廃止される。
  • 後面装甲/側面装甲の継ぎ方の変更は、SU-85Mの生産終了以前(戦時中?)に導入されている。……たぶん。

閑話休題。

キューポラ下の張り出しや、戦闘室後ろの三角コーナーの装甲は、キットパーツは綺麗に土台の装甲に繋がる形状となっているが、実車の場合は明瞭に段があって溶接跡も大胆なので、それがある程度再現できるよう、エッジ部分を若干削ってある。

ドラゴンのT-34系定番工作の、グローサー取付用のU字金具のモールドの削り取りは、戦闘室裾部分は場所的にナイフの刃を装甲板に沿って当てられず、ちょっと往生した。

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前面装甲下部左右、そして右上にもうひとつある調整ボルト?は、キットのモールドはやや窪んだ形状、かつ周りのスジ彫が広かったので、一旦削り落として穴開けし、2016年(!)に、これまた東京AFVの会で1-colour君に頂いたTMD製のレジンパーツを、若干装甲板表面から出る形で取り付けた。174工場製用リアパネルヒンジは使うあてが今のところまったくないが、同梱ののこ調整ボルトは、T-34-85/D-5T型に続いて活用2例目。ありがとうございます。

キューポラと前方ハッチの間にあるバルジ表面には、後方に横並びにミステリーサークル?が2つある。これは初期の車体だと前方中央に1つ、後方中央に1つの縦並びだったりする(ズベズダのキットではそうなっている)。おそらく、内部装備の配置の変化に関係しているものなのだと思う。しかし、現存車輛を見ると、戦闘室後面が組み継ぎの初期型でも、キットのように「後端に横並び」の例も確認できるため、とりあえずそのままとしている。

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エンジンルーム後端カバーは、後々、メッシュ部分にどこかのエッチングパーツを使うことを想定してくり抜き工作をした(プレミアム版ではエッチングパーツと、元から開口しているカバーパーツが入っているはず)。

ついでに、カバー後端/リアパネル間の蝶番に似た見た目の固定具のモールドを一旦削り落とした。これはキットの固定具の位置が183工場製戦車車体に準拠していて、SU(というかUZRM製車体?)ではもっと内側にあるのが普通であるようなので。

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もともと車体裏側はまともに塗装もしなかったりするので、きちんと再現するつもりはないのだが、一応(おざなりに)SU車体への改修を実施。戦車型(というか183工場製車体?)では底面は前後2分割だが、SUでは4分割なのでスジ彫りを追加。UZTM(ウラル重機械製作工場)ではSU生産に専念するまでは戦車も一部生産していたので、同工場製戦車は同様の装甲板構成になっているかも。

戦車型では右舷前端に小判型の脱出用ハッチ?があるが、SUでは第二パネルに移動、90度回転して縦長形状になっている。新たに彫り直したりしていないが、とりあえず前方の脱出ハッチのモールドは消した。

後方、ギアハウジング直下のドレン穴の開口はドラゴンのT-34系キットの定番工作(と言うほどでは……)。

なお、シャーシ後面装甲が若干底面に回り込んでいるのは初期型T-34でエッジが丸く底面に回り込んでいた名残なのだと思う。丸み付きの初期型後面装甲を持つタイプを生産していない112工場では、底面がギリギリ後端エッジまである形態をしている、らしい。

SUを含め、多くの仕様では下面後端がキットのように後面装甲と一体化しているが、この場合、後面装甲に続く部分は底面より一段窪んでいるのが普通。ただし、ここでドラゴンは設計をちょっと間違えてしまったらしく、ここが底面とツライチになってしまう。「間違えてしまったらしく」というのは、真ん中につく小さい丸パッチの、後面パーツ側の土台部分は底面とツライチになるよう出っ張っていて、これはドラゴンも再現しているため。しかし前述のようにベース部分が底面装甲とツライチなので、半月状の出っ張りは、逆に底面と不連続になってしまっている(戦車型キットを含めての問題)。

もちろん、普通にしていれば見えない部分なので、私は半月状の出っ張りを安直に削り落とすだけの対処をした。なお、ドラゴンのキットではこの半月状の出っ張り(=円形パッチの取付位置)はちょうど中央にあるが、実際には多くの仕様ではやや右舷寄りになっている。また、この円形パッチ自体、多くの仕様では受け部分が一段窪んでいて、パッチは底面に対し出っ張らないことが多いようだ。

●(一応、SU-100として)今後手を入れたい点。

・砲基部カバー形状は、ボルト逃げ溝付きに替えたいところ。これがないと、やはりSU-100らしくないので。

・戦闘室前面装甲は、SU-100ではSU-85の45mmから75mmへと大幅に増厚されていて(85Mも同様)、そのため車体前端の三角材と戦闘室前面装甲との間に明瞭な段差が生じている。ズベズダでは表現されているが(少なくとも新キットの方では)、ドラゴンでは表現されていないので何とかしたい。

・キューポラは(以前にSU-85Mを作った時にもそれなりに頑張ったが)、偏心した戦中型に改修予定。SU-85Mの時はハッチ部も新造したが、キットのパーツをそのまま使えないか検討中。

・操縦手ハッチは戦車型もSU-85もSU-100もそっくり同じような見た目をしているが、細部に差があり、例えばSU-85用は表側中央に「C.」と刻印されている。おそらくこれは「СУ(エス・ウー、SU)」用であることを示しているというのは、確かセータ☆さんから聞いた話。実際、戦車型とSUとでは前面装甲板の角度が違うから、ハッチへのペリスコープ取付穴の角度も異なっているはずで、パーツに識別記号を入れておくのは理にかなっている。そして今回のお題のSU-100の場合は、SU-85ともまた違って、たいていの場合は中央に「P.」と刻印されている。SU-85よりも装甲自体が厚くなっているので、ハッチも別物になっていて当然だが、「P(エル、ローマ字のRに相当)」が何の略なのかは不明。重箱の隅の話に前置きが長くなったが、これは再現しておきたい(ズベズダのキットでは最初からモールド有り)。

・起動輪はMiniartの大戦型パーツに素直に交換。履帯もMiniartにしようか考え中。

・予備燃料タンクのステイはMiniartの初期型パーツに交換するか、それともキットの後期型(標準型)にするか迷い中。IS用のステイに似た後期型(標準型)は、大戦末期にはすでに登場していたはず。ただしドラゴンのパーツはちょっと厚みが気になる。Miniartのパーツは、ズベズダのSU-85に使いたい気もする(ズベズダのステイはタンクと一体で表現も今ひとつなので)。

●今回の製作にあたっての参考資料等。

主にネット上の現存車輛walkaround写真。特に「LEGION-AFV」「Dishmodels」などから、戦闘室後面装甲が組み継ぎになっている仕様のものを中心に。

Wydawnictwo MilitariaのSUの号も見たりしているが、本文は読めないし写真もあまり多くはないので情報量はそれほどでもない。

ドラゴンのSU-100を作るのであれば、そのものずばり、青木伸也氏の「ハラショーT-34」で、2000年代中盤に(2000年代というのは2000~2009年の意味で使っているが、どうも21世紀中ごろの意味にもなってしまいそうで、いつもちょっと躊躇う。いや、そう取る人はいないだろうけどさ)ドラゴンのSU-100の製作記を数回に渡って掲載している。

これを読めば、(たとえその後分かったこととかがいくつかあるとしても)製作上の注意点のベース部分は、あれこれ考えるまでもなく「おまかせ」にできそうだが、模型雑誌類の保管が悪く模型の山の向こうに埋もれてしまっているうえ、SU-100掲載号のうちどれだけ手元にあるかも不明。何かのたびに「T-34の(あるいはKVの)ここって、どう思う?」とか青木氏に聞いているくせに、いざという時に氏の労作を見ないとか、失礼この上ない気がする。青木センセ、まったくもって済まん。

それはそれとして、大日本絵画は、「ハラショーT-34」の単行本化とかしてくれないものですかね。いや、同社が許可してくれれば同人誌化でも。

●ちなみに前回記事以降、2月末の土曜日には予定通り、兄と兄の友人と一緒に、追浜から鷹取山、二子山とハシゴ・ハイキング。この週は1週間合計で100km以上歩いた。流石に歩きすぎてその後数日は足がガクガクした。

その後、老健に入所していた母がまた倒れて緊急入院になったり、仕事が進まなかったりであれこれ心配事多し。あ。申告も終わらせないと。

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