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2021年12月

KV maniacsメモ ― KV-2のおさらい(2)

●タミヤのKV-2発売前の、KV-2の仕様とディテールのおさらい。

第2回目は具体的に場所(ポイント)ベースで、いわば「ゆびさしかくにん」的イメージで。

ココログの仕様上、写真をクリックするとページ自体が切り替わってしまうので、写真を見る際には右クリックで「(リンクを)新しいウィンドウで開く」にすると、写真を参照しつつ本文を読めると思います。

砲塔

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1.駐退機カバー側面に、ボルトアクセス用の溝がある(左2カ所、右1カ所)のが、MT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)の大きな特徴。ただし写真のコントラストによっては判別しづらいことがある。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)では溝がなく、おそらく駐退機カバーそのものがやや狭い。

2.砲口部分に「たが」状に段があるのはMT-2砲塔に搭載された主砲の特徴で、MT-1砲塔時代にはこの段差はない。リング部分には4方向にネジ穴(MT-1砲塔時代にも、リング状段差はないがネジ穴はある)。

3.砲身は全体にスリーブがかぶせられていて、途中2カ所に継ぎ目がある。細い継ぎ目なので、通常の写真では判別できないことが多い。写真の作例では(トラペのキットの砲身長を修正したので)元の筋彫りを埋めたあと、継ぎ目を彫り直していない。

4.砲耳カバー位置決め用に溶接されたリブは、MT-2試作砲塔(U-7に搭載)には見られない。

5.埋め込みボルトの溶接跡(前後面左右、前面は1列あたり8カ所、後面は7カ所)があるのはMT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)の特徴で、MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)にはない。

6.前面装甲はMT-2砲塔前期型、後期型ともに小口が側面に出る。後面装甲は、前期型では小口が側面に出ず、溶接線がエッジにある。

7.上面3方向の固定ペリスコープのカバーに取付用ベロがあるのはMT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)ではベロ無しらしい。

8.前回記事をUPした日の晩、nifty F模型時代の仲間たちとオンライン飲み会をしていたら、“ハラT”青木伸也氏に、「タミヤの新KVのツノ形ペリスコープは下の方にタガ状に段があるけど、段の有無と時期の関係はどうよ?」と聞かれた(共通枝の部分に入っているので、KV-2でも同一パーツを使うことになるはず)。いやオレ、タミヤのツノ形ペリスコープに段があること自体に気付いてなかったよ……。ヌルし。

改めて調べてみると――といっても、ここがはっきり写っていて仕様が判別できる当時の写真が少ないのだが、とりあえず、MT-2砲塔後期型(1941年5~6月生産車)でも、段付きツノ形ペリスコープの使用例は見つかった。KV-1でも、1941年春頃に生産されたと思しき車輛で、明らかに段付きを使っている例がある(「グランドパワー」97/10、p29下)。また、MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)でも、「これは段付きじゃないかなあ」という例もあり。

一方で、沼にスタックしている有名なMT-1砲塔搭載車のツノ形は段無し。MT-2砲塔後期型でも、「これは段無しっぽいな」という写真もあり。というわけで、現時点での私の見解は、「少なくともMT-2砲塔型では段付き・段無し混在じゃない?」という玉虫色のもの。なお、ツノ形ペリスコープカバーの頂部には小穴がある。

9.砲塔後面には、MT-1はアクセスパネルとピストルポートだけだったが、MT-2になってからは機銃マウントが付く。MT-2砲塔前期型(1940年11~12月生産車)の時期、KV-1のほうの砲塔後面の機銃マウントは外部防盾無しの半球形のものだったが、KV-2では最初から外部防盾付きのもの(ただしKV-1でも車体機銃は当初から外部防盾付き)。MT-2試作砲塔(U-7に搭載)は搭載位置が丸く窪んでいるだけで、機銃マウント自体は未装備。

車体前部

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10.車体前端の装甲板接合用のアングル材の埋め込みボルトは、MT-1砲塔搭載型(試作車および生産第1シリーズ)では17カ所。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では11カ所(上下列とも)。

11.戦闘室前面、シャーシ前面とも、KV-2は一貫して増加装甲無しのベア(裸)状態。KV-1でもここに増加装甲が付くのは1940年型エクラナミ以降。

12.MT-1砲塔搭載型(試作車および生産第1シリーズ)は車体機銃がなくピストルポートの装甲栓。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では機銃マウント付き。MT-1砲塔搭載型の装甲栓はその後の機銃マウントよりもやや内側。

13.前照灯、ホーンの配線引込部は、MT-1砲塔搭載型ではMT-2砲塔搭載型よりやや内側。ただし、その「内側」度合いにバリエーションがある感じ。なお、ホーンやアンテナベースの位置は、試作車では生産車と異なっているものがある。

14.操縦手用の固定ペリスコープカバーは、砲塔のものと違って後期まで一貫してベロ無しの直付け。

20211229_235546 15.作例の鋳造?の牽引ワイヤーのヘッド部はMT-2砲塔搭載後期型(第3シリーズ)より。MT-2砲塔搭載前期型(第2シリーズ)以前はワイヤー自体を丸めたヘッド部で、トラペのKVのキットにはそのパーツも入っている(右写真)。

16.後期の一部車輌には、車体ハッチ前方に跳弾リブが追加されている。

17.後期の一部車輌では、戦闘室側面に、砲塔リングガード保護を兼ねた増加装甲が溶接されている。KV-1の1940年型後期型にも見られるものだが(生産時期はKV-2より数カ月遅い)、KV-1の場合、増加装甲下部にはアーチ状の切れ込みがあるもの(軽量化のため?)、ないものの2種が確認できる。今回改めて写真をひっかき回したところ、KV-2ではアーチ形の切れ込みがあるものは確認できたが、切れ込みのないタイプは、はっきりと確認できる写真が見当たらなかった。また、そもそも下部を切り詰めて、上端部だけになったタイプもあるようだ。

18.後期の一部車輌では、砲塔リング前方に、楔形のリングガードのリブが増設されている。「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」の記述によれば、これら増加装甲類は、一度前線部隊に配属された車輛が、修理のためにレニングラードに戻された際に追加で装着されたものであるらしい。1940年末生産のMT-2砲塔搭載前期型(第2シリーズ)でも同様の改修を受けた車輌があったかどうかは未確認。

19.後期の一部車輌では、フェンダー上に角型増加燃料タンクが搭載される。これについても上記増加装甲、跳弾リブと同様。16以降の改修が必ず4点セットになっているかどうかは確認しきれていないが、その可能性は高そうな気がする。

車体後部

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20.エンジンデッキの取付ボルトは、少なくとも初期は尖頭ボルトが基本ではないかと思う。後には(っていつから?)平頭ボルトが使われ始めている可能性あり。ただし、KV-1でも1940年型の後期(装甲強化砲塔搭載の1941年後半生産型)で尖頭ボルトの例がある。同じくKV-1で、1941年6月生産とされる車輌のデッキで、尖頭ボルトと平頭ボルトが混用されている例もある。

21.ラジエーターグリルのメッシュカバーは、MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)では前端まで凸だが、MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では、KV-1同様に前端が平らにつぶれている。

22.エンジンデッキ前端両側のボルトは左右3つずつ。タミヤはOKだがトラペのキットは2つしかないので真ん中1つを追加する必要がある。

23.エンジン点検ハッチのふくらみ中央には、KV-1の場合は生産時期によって(?)通風孔のポッチが付いている場合があるが、KV-2は、全型を通じて、当時の写真でポッチが付いているものは確認できない。現存車輛であるモスクワ中央軍事博物館の展示車輛は通風孔のポッチがあるが、同車輛の細部部品はかなりの部分が寄せ集めなので、ハッチも他から持ってきたものである可能性が高いと思う。

24.車体上部後端の曲面装甲は、MT-1(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)ではエンジンデッキに合わせて上部が面取りされている。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では未処理のためエンジンデッキよりやや盛り上がっている。

20211229_235531 25.フェンダー上の工具箱は、MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)とMT-2砲塔搭載型の前期(第2シリーズ)では左右にベロがなく、蓋中央に取っ手がない初期タイプで、左フェンダーに2つ、右フェンダーに1つ。1941年に生産されたMT-2砲塔搭載型の後期(第3シリーズ)では、蓋の左右にベロがあり、蓋中央に取っ手がある後期タイプで、左フェンダーに1つ、右フェンダーに2つ搭載。トランぺッターのKV-2のキットには初期タイプのパーツ(右写真)も入っている。ただし、幅を広く間違えているフェンダーに合わせて作ってあるので、フェンダーを修正、あるいはタミヤに流用の場合にはそのままでは使えない。

26.フェンダー内外のフチのL字材は、少なくともKV-1では小リベット止めの場合と溶接の場合とがあるようで、タミヤのキットは(少なくともKV-1では)リベット表現がないので溶接タイプということになる。KV-1では、1940年型エクラナミと、その後の1940年型の装甲強化砲塔搭載型で溶接タイプが見られる。KV-2の場合、小リベット止めであると確認できる写真はあるが、溶接止めであると確認できる写真は今のところ見付からない。このフェンダーの構造と仕様、戦車の生産時期との関係についてはセータ☆さんの記事に詳しい。

27.車体後部オーバーハング下には整流板と尾灯。作例では尾灯にカバーを付けているが、全車標準でこれが付いているかどうかはちょっとあやふや。整流板も尾灯も見当たらない車輛の写真もあるが、これは撃破時に脱落したものか(後端中央部に弾痕もあるようなので)。KV-1でも、開戦前に製造されたと思われる車輌で尾灯も整流板もない写真があったりするので(「グランドパワー」97/10、p29下)、ちょっと気になるが。

28.シャーシ後面装甲の下端は、タミヤの新KV-1では車体床面から一段出っ張っているが、これはおそらく、工場がチェリャビンスクに移転して以降の特徴で、KV-2では全車、床面に合わせて面取りしてある。ただし、タミヤの同パーツ(B16)は、フェンダーや誘導輪基部と一緒のB枝なので、もしかしたらKV-2発売にあたって初期仕様に丸々交換されているかも。されていたらいいなあ(希望)。

足回り

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29.転輪は緩衝ゴム内蔵型。試作車~MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)は、SMKでも用いられた、ゴム抑え板の穴が8穴のもの。MT-2砲塔搭載型(生産第2、第3シリーズ)では6穴のKV用標準型が使われている。リムに小リブ付きだったり、穴がなかったりするバリエーションは、おそらくKV-2生産終了後に登場したものなので、修理時に紛れ込んだとかのレアケースがあるかどうか、程度。

30.上部転輪は、写真ではなかなかタイプの判別がしづらいが、少なくとも、MT-2砲塔搭載型の前期(生産第2シリーズ)までは小リブ付きのものが、MT-2砲塔搭載型の後期(第3シリーズ)ではリブ無しのものが使われているようで、それぞれの組み合わせの例は写真で確認できる。

31.起動輪は一貫して、ハブ部の皿形カバーのボルト数が16個の初期型。

32.サスペンションアーム基部、トーションバーとの接続ボルトは6つの初期型。

33.履帯はKV初期標準、700mm幅の1ピースタイプ。試作車~MT-1砲塔(7角砲塔)搭載型(第1シリーズ)の一部では、SMK由来の650mm幅も用いられているようだ。

(文中でリンクを張っている当時の実車写真はサイト「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」のもの)

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KV maniacsメモ ― KV-2のおさらい(1)

640px2_1 ●11月30日付でも書いたが、タミヤから近々KV-2が発売される。

個人的には「砲塔に『安倍晋三』と書かれていなかったら買おうかな……どうしようかな……」くらいのスタンスだが(しつこい)、一応、KV-2についてのおさらいを少々。

基本、個人的な理解の虫干しのようなものなので、誤解とか、最新の考証に追い付いていない部分とかもあるかもしれない。その辺はご了承を(というか、指摘していただけると有り難い)。

ついでに、もう10年以上前にほぼ工作終了して、そのまま放り出してあるトランぺッターのKV-2の製作記はこちら。記事中でも仕様の考証にちょろっと言及しているが、古いので、今回書くものとは若干の齟齬が出ているはず。その辺も併せてご了承を。

(冒頭写真はwikimedia commons、“File:Кв-2 1.jpg”、Gandvik

実車のタイプと生産

フィンランドとの冬戦争(1939/40年冬)のさなか、フィンランド軍防衛線突破用として、制式採用されたばかりのKVに、152mm榴弾砲M-10を搭載したタイプが計画され、1、2カ月というごく短期間のうちに試作車が作られ、40年2月半ば、フィンランド戦線に実戦評価試験のために送られた。

当初「大砲塔KV」と呼ばれたこの車輛は、十分開発要求を満たすものとして採用と生産が決定。40年7月から量産が開始された。

生産初期のものは、全て平面の装甲板で構成された(平面形が)7角形の砲塔(MT-1砲塔)を搭載していたが、中途から装甲板構成が簡略化され、両側面が緩くカーブした1枚板になり、背もやや低められた新砲塔(MT-2砲塔)に変更された(砲塔名称はTankograd “KV-2”より)。

その昔、「グランドパワー」1997/10号の解説では旧型の砲塔を載せているのは試作型1輌、増加試作型(先行量産型)3輌、Tankograd「KV-2」(2004年)では4~6輌と書かれていたが、その後の研究では、旧型砲塔の初期型はもっと多いとされている。実際に、撃破されてドイツ軍側に撮影された初期型を見ても、壊れ具合/背景などはかなりのバリエーションがあり、それなりの数が生産されたらしいことがわかる(昔はそもそも初期型の写真があまり出回っていなかったので、4輌と言われればそうなのかなー、くらいの印象だった)。

サイト「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」によれば、KV-1の総生産数は204輌、その内訳は次のようであるという(数字のもともとの出所は、マキシム・コロミェツ氏の資料とのこと。“Тяжелый танк КВ-2 - ≪Неуязвимый≫ колосс Сталина”(2011)かな?)。

  • 1940年2月(3輌)~3月(1輌):計4輌。7角砲塔搭載の試作車輛(U-1~U-4)。
  • 1940年7月(10輌)~8月(10輌):計20輌。7角砲塔搭載の初期型(シリアル番号 A-3603~A-3622)。
  • 1940年11月(25輌)~12月(55輌):計80輌。新型砲塔搭載型(シリアル番号  A-3718、A-3720~A-3727、A-3731~A-3739、B-9601~B-9604、B-9607~9610、 B-9629~B-9631、B-9633~B-968)。
  • 1941年5月(60輌)~6月(40輌):計100輌。新型砲塔搭載型、追加生産分(シリアル番号 B-4662~B-4761)

この辺がまたちょっとよく判らないところで、Wydawnictwo Militariaによれば試作車輛は「U-0」から始まっている。Tankogradによると、40年春に作られた試作車輛は、U-0、U-1、U-3、U-4の4輌となっている(U-2はKV-1)。これらとは別に、新砲塔搭載のプロトタイプの「U-7」というのがあるが、これは、テストベッドとしてキーロフ工場に残されていたKV-1試作車の改装らしい。実際、写真を見ても車体はだいぶ古い特徴を残している。この際にU-7から降ろされた試作型KV-1の(後部が丸い)砲塔は、通常の1940年型車体に載せて使われたらしい(確か新しい車体に古い砲塔を載せた写真があったはず)。

まあ、模型を作るうえでは正確に何輌だったとかシリアルが何番だったかというのは、普通、それほど重要ではなく、生産の流れについては

  • KV-2は全部で200輌程度生産された。
  • 7角砲塔の初期型は、従来言われていたような数輌のみでなく、どうやら20輌くらい生産されたらしい。
  • 新砲塔搭載の主量産型は、40年末と41年晩春の2期に分けて生産されている。
  • 生産工場であるキーロフ工場(キーロフスキー工場)がチェリャビンスクに疎開する1941年秋以前に生産が終了しているので、KV-2は全車、レニングラード・キーロフ工場(LKZ)製。

くらいのことが判っていればよい(と思う)。

生産時期別の仕様の特徴

試作車~初期生産型(仮に第1シリーズと呼称)

7角形砲塔(MT-1砲塔)を搭載。試作車が作られた時期は、KV-1もまだ試作段階。初期生産型の40年7月~8月は、KV-1はL-11搭載のいわゆる「1939年型」の生産の前半くらいなので、車体の特徴もそれに準じている。

転輪は緩衝ゴム内蔵型の中でも初期のもので、内蔵ゴムが覗く小穴が8つのタイプ(標準型は6穴)。ゴム抑え板のリブがないものを使っている例が多い気がする。ゴムリムありの上部転輪は小リブ付きが標準? 履帯は、試作車では(あるいは生産車の一部も)SMK時代からの650mm幅のものが混じっているようだ。

車体前端の装甲板接合用のアングル材は、埋め込みボルト数が後のタイプよりもやけに数が多くて17本。

エンジンデッキの固定は尖頭ボルト。後端の丸めた装甲の頂部は、KV-1 1939年型同様に面取りされている。ラジエーターグリル前端は平たくつぶれておらず、前から後ろまでカマボコ型。KV-1の場合は1939年型でも先端がつぶれている(さらに初期は内側に開口部のあるダクトが付いている)ようなので、この形状のグリルはKV-2初期型のみの特徴か。

主砲は後の新砲塔(MT-2)搭載型と違って、砲口部に一段盛り上がったリングがない。ただし、スリーブ固定用?の、前端部の4方向のネジ穴?は、この時期から存在しているようだ。MT-2砲塔型と同じ位置に砲身スリーブの分割線があるかどうかは、鮮明な写真が手元になくてよく判らない。

なお、最初の試作車(U-0)は、車体ハッチの形状が違う、車体後端ディテールが違う、車体前端アングル材の埋め込みボルトが出っ張っていて明瞭など、だいぶ細部に差がある。以降の試作車も、U-1は砲塔ビジョンスリットとピストルポートの位置が開け直されていたり、U-3は当初、工具箱がフェンダーと一体化した「飛行機の翼」フェンダーを付けていたり(後に通常仕様に改修されたらしい)、砲塔手すり位置が1輌ごとに微妙に違ったりと、それぞれ少しずつ異なっている。

主量産型(第2シリーズ)

形状が大きく手直しされ、面構成も簡略化、やや小型・軽量となった新型砲塔(MT-2)を搭載して生産されたシリーズ。生産時期は1940年末(11~12月)で、KV-1ではL-11搭載の1939年型の生産最終フェイズにあたり、すでに車体の仕様は1940年型とほぼ同様で、車体前面に機銃が装備されるようになっている。KV-2の車体もこれに準じる。

車体前端の装甲板接合用のアングル材の埋め込みボルトは11本に減少。エンジンデッキ上のラジエーターグリルは、この型より、KV-1同様に最前部が平らにつぶれた形状になる。後端の丸い装甲の頂部の面取りも、最初からなくなっているのではと思う。

転輪は標準型の緩衝ゴム内蔵転輪に変更。履帯も標準の700mmワンピースタイプのみが使われている。上部転輪ははっきりディテールが判る写真が少ないが、「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」のKV-1のディテール変遷の解説を見ると、この時期まではまだリブ付きだったような感じ。ただし、下記の初期仕様のMT-2砲塔を載せていても、「これ、リブ無し上部転輪じゃないかなあ……」みたいな写真もあって、ちょっとあやふや。

U-7に搭載されたMT-2の試作砲塔では、砲塔前面に、砲耳バルジの位置決め用の両側のリブがなかったが、量産型ではすべて付いている模様。また試作砲塔では砲塔後面の機銃マウントがなかったが(一応、当初から付けられる予定だったらしく、その位置に丸い窪みはある)、量産型砲塔では全車機銃マウントがある、と思う。

搭載された主砲には若干のディテール変化があり、砲口部に「たが」状に段が付く。また、砲身は実際には外側に保護スリーブ?がかぶせられていて、途中2カ所にその分割線がある。

一部不確かな点もあるが、翌年晩春の第3シリーズと比べると、以下のような違いがある。一部は不確かで、また、この第2シリーズの生産途中で変更されたものもあるかも。

MT-2砲塔の装甲板接合方法の違い。おそらく前後面とも、補強用の埋め込みボルトが使われていない(少なくとも表に見えていない)。また、前面装甲板は後期型同様、砲塔側部に小口が見えているが、砲塔後面はエッジに溶接ラインがあり、小口は見えていない。

主砲の駐退機カバーが、後のタイプと比べやや「痩せて」いるらしく、その外側にあるボルトのための逃げ溝がない。これに関しては、写真のコントラストによって、有無がよく判らない場合も多いが、向かって右側(車輌からすれば左側)の最上部のボルトが、駐退機カバーのラインより内側に食い込んでいるか、外側に出ているかも見分けの助けになる(実際にはこれも結構見え方が微妙だが)。

砲塔ペリスコープカバーの違い。カバー接合用のベロがなく、裾部分でダイレクトに砲塔上面に溶接されている。なお、車体前部、ドライバー用ペリスコープカバーは、後の型になっても一貫してベロがない。

エンジンデッキの固定ボルトは尖頭タイプ?

フェンダー上の工具箱は、MT-1砲塔搭載型同様、左に2つ、右に1つ。初期型の、両側にベロがかぶさらないタイプが標準。牽引用ワイヤーロープの両端も、MT-1搭載型と同じく編み込み型。

割と有名な、ドイツ軍作成の対戦車教材フィルムに登場するKV-2がこの主生産型初期ロットのもので、砲塔ディテールが確認できる。また、有名なIII/IV号戦車のキューポラを増設したKV-2も初期ロットのもので、後期ロットのキットをベースにしてしまったトラペの製品は、正確を期すなら若干の改造を要する。

主量産型(第3シリーズ)

新型砲塔(MT-2)を搭載し、前ロットから数カ月の間を開けて改めて生産されたもの。1941年5~6月は、KV-1で言うと、主砲がF-32に変わった、いわゆる「1940年型」の初期にあたり、増加装甲付きの「1940年型エクラナミ」がそろそろ生産されるかな?まだかな?くらいの時期。したがって、エクラナミの生産途中から導入された、緩衝ゴム内蔵転輪の中期以降のバリエーション、穴無しリムや小リブ付きリムはKV-2では確認できず、すべて標準タイプの転輪が使われている。上部転輪はおそらくリブ無しが標準。

エンジンデッキ上のボルトは、なにぶんにもエンジンデッキをクローズアップで鮮明に写した写真が少ないが、はっきり確認できる例では尖頭ボルト。ただし同時期のKV-1から類推するに、尖頭ボルトもあり、平頭ボルトもあり、という感じではないかと思う(エクラナミ以前と思われるKV-1で平頭ボルトの仕様が確認でき(例えば「グランドパワー」97/10のp29上)、一方でエクラナミでも尖頭ボルトを使っているように見える写真(同p35)、エクラナミ以後の生産車で尖頭ボルトを使っている例(同p42上)もある)。

フェンダー上の工具箱は、両サイドのベロ付き、左に1つ、右に2つが標準。牽引用ワイヤー両端は鋳造(?)のもの。ちなみに初期の編み込みタイプはフェンダーステイの三角穴を通し、鋳造タイプは穴を通らないのでステイの上を這わせて搭載する。

MT-2砲塔には若干の手直しが入り、砲塔前面、後面に接合補助用の埋め込みボルトが確認できるようになる。砲塔後面も、前面同様に装甲板の小口が側面に出る形に変更。またペリスコープカバーは(車体前方のものも含め)ベロ付きに変更。

主砲は駐退機カバーの両側に、ボルトアクセスのための逃げ溝(右1カ所、左2カ所)が設けられる。見た目ではわかりにくいが、おそらく駐退機カバーがやや膨らみが増したのだと思う。

さて、ここから先がちょっと謎含みな感じなのだが、おそらく最末期に生産された一部車輌のみの特徴として、砲塔リングガード、車体ハッチの跳弾リブ、戦闘室側面の増加装甲、フェンダー上の角型増加燃料タンクなどが追加された例が確認できる。たとえば角型燃料タンクと車体ハッチの跳弾リブはこの写真などが判りやすい。戦闘室側面増加装甲はこれ(角型燃料タンクと車体ハッチの跳弾リブもあり)やこれ。楔形のターレットリングガード(と側面の増加装甲のセット)は、ちょっと不鮮明だがこれ(すべて「Тяжелые танки КВ-1(重戦車KV-1)」より)。

これが不思議なのは、いずれも、KV-1ではエクラナミの後期やその後の1940年型後期型で導入された(つまりKV-2の生産終了後に導入された)と思われる特徴であること。「もしかしたらKV-1の40年型後期型の車体にKV-2の砲塔を載せたハイブリッド?」などと考えたこともあったのだが、その場合、戦闘室前面/シャーシ前面の増加装甲がないことが矛盾する(KV-1の1940年型の後期型ではそれが標準で装着されている)。あるいは、KV-2の残存車輛に、KV-1のちょっと新しいタイプに準じたアップデートを(デポあたりで)施した車輛なのかもしれない。

……と、つらつら書いてきたが、どうにも文章ばかりでは判りにくいので、改めて模型写真と対応させてディテール説明を書こうかと思う(最初からそうしろよ的な)。

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あんこベリー

●野山を歩くついでに食えるものを収穫するのは、私のちょっとした楽しみだが、当然ながら、冬はその手のネタに乏しい。

今年は「むかごが結構イケル」ことが判って、「オイルサーディンとむかごの簡単アヒージョ」を結局3回も作って食べたが、さすがにむかごの収穫ももう打ち止め。

そんな季節の数少ないネタのひとつが、以前にも取り上げたことがあるフユイチゴ。「そろそろいい時季、というより、今行っておかないと喰いそびれるかもしれん」と思い立ち、心当たりの山道に出掛ける。

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どうやらちょうどいいタイミングだったようで、フユイチゴの茂みには真っ赤な実がたくさん。

逗子近辺でよく見るキイチゴ類には、他に晩春のモミジイチゴ、カジイチゴ、クサイチゴがあり、それに比べるとフユイチゴはだいぶ酸味が強い。せっかくなので一ひねりして、「あんことベリー/チョコレートとベリーは鉄板の組み合わせ」という持論に従い、山歩きの「おやつ」に持って行ったつぶあん&マーガリンのコッペパンにたっぷりトッピングして食べた(なお、写真の量で半分食べて、「こりゃもうちょっと行けるな」と思って、残りにはさらにフユイチゴを足した)。美味。酸味が勝ちすぎているフユイチゴが、餡+マーガリンのあまじょっぱさとうまく融合し、さらに食感のプチプチも加わって大正解。

ヤマザキや第一パンの「コッペパン」シリーズ(上写真はヤマザキ)は出来合いの菓子パン類の中でもとりわけコスパに優れ、いかにも「小腹が空いたときの友」的食べ物だが、それが一気に高級に!(言い過ぎ)。

●「ベリー」つながり。

田園都市線の「南町田」駅が「南町田グランベリーパーク」というトンデモ名前に変わってしまったのに気付いたのはしばらく前だが(変更自体はもう一昨年のことになるらしいが、あざみ野以遠にはまず乗らないのでしばらく気付かなかった)、以後、田園都市線に乗るたびにどうにも気になって仕方がない。

「高輪ゲートウェイ」といい、なんでこう、余計なシッポを付けるかね。「南町田」で、「高輪」でいいぢゃん!

それに、「グランベリー」って一体……。「クランベリー」ならまだわかるけど。前半フランス語で後半英語、「南町田」も合わせれば3か国語混合って、なんなのよもう、って感じ。なんだかんだで「たまプラーザ」はもう馴染んじゃったけど。まあ、それを言うなら、そもそも田園都市線沿線は、「あざみ野」とか「つくし野」とか「すずかけ台」とか、ロウで作った食品サンプルみたいな名前ばっかりだけど。

●ズベズダの新製品予告がなかなかアツイ。

COEタイプ(キャブオーバー)のトラクター、STZ-5については、セータ☆さんがいろいろ書いていて、ほとんど私が書き足すようなこともないのだが、10年くらい前のValcanの同アイテムのキットはちょっとイマイチだったし、これはちょっと欲しいかも。あー。でもサンダーのスターリネッツも買ってないんだよなー。

同じく来年発売のラインナップの中には、76mm砲型のM4A2や、T-70Bなどもあり。

え……T-70B

と、ちょっと首をかしげてしまったのだが、どうも最近では、従来言われていたようなT-70Mというタイプは(少なくとも生産型としては)存在せず――従来言われているような、GAZ-202エンジンからGAZ-203エンジンへの換装はテストはされたものの生産されず、シャーシ強化などの小改修が行われたタイプがT-70Bという名称で生産された、ということになっているらしい。ロシア語版のwikipediaにも書いてあった(もちろんGoogle翻訳さん頼み)。ふーん。

T-70に関しては、20年以上前のTechmod/TOGAのキットはさすがにキツイとしても、その後発売されたMiniartのキットも、同社最初期のキットということもあって、確か砲塔の非対称表現も不十分だったはず。

●つい先週のことなのだが、ビートルズ解散後のジョージ・ハリスンの最初のヒット曲「マイ・スウィート・ロード」の“初公式MV”が発表された。リリースから50周年を記念して、ということらしい。

 

内容的には、何だかよく判らないエージェントが何だかよく判らないものを探すという、曲との関連性がさっぱり判らないものだが、出演陣が豪華。

冒頭にマーク・ハミル、劇場のシーンでは観客としてリンゴ・スターやジョー・ウォルシュが出ている。劇場の売店のおっさんが、よく見るとアル・ヤンコビックだった(笑)。劇場シーン、スクリーンの横で一人掛けソファーでバタバタ踊っているのは、ジョージの「セット・オン・ユー」のMV(第2バージョン)の再現。

マーク・ハミルは(特に最近の「スター・ウォーズ」シリーズをあまり観ていないので)じいさん過ぎて、出演シーンは結構長いのに、最初気付かなかった。“ウィアード・アル”ヤンコビックについては、以前に当かばぶでもちょっと紹介した。

リンゴ・スターとジョー・ウォルシュは義兄弟なので(奥さん同士が姉妹)最近よくつるんでいるらしく、最近でたリンゴ・スターの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」のMVでもジョー・ウォルシュがギターを弾いていた。ボーカリストしてのリンゴ・スターは上手い下手と関係なく、とにかく「歌っていて楽しそう」というのが良さだと思うが、この「ロック・アラウンド・ザ・クロック」もとても良い。

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溝ノ口高射砲陣地(2)

●承前。

週末、川崎の実家に行ったついでに、12日日曜日午前中、「溝ノ口高射砲陣地」跡地を訪ねてみた。

おおよそ現在(2019年)の航空写真は以下。

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国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより引用。国土地理院撮影(2019年11月1日)、CKT20191-C57-60より切り出し加工した。

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上左:南側からの津田山の遠望。国道246号に掛かる歩道橋上から撮影。国道246号は、梶ヶ谷方面の丘陵地から、JR南武線や南武沿線道路が通る谷を長い陸橋で越え、さらに津田山を大きな切通で通過する。車線こそ2車線→4車線に拡幅されているが、この陸橋と切通自体は、昭和30年代初頭、旧大山街道が国道246号に格上げされた時にバイパスとして作られた古いもの。高射砲陣地は、左側に連なる山の上にあったはず。

上右:梶ヶ谷側から陸橋を渡り終え、南側から切通を見る(上掲航空写真の①地点)。見えているのは切通だが、信号(交差点)名は撮影方向の真後ろにある「津田山陸橋」。先に見える歩道橋のたもとあたりから、山に上がっていく坂道がある。

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上左:246から津田山に上がっていく緩やかな坂道途中にある小さな祠(上掲航空写真②)。「津田山辯財天」とある。この写真では見えにくいが、奥の赤屋根の小祠の後ろには、山の斜面にぽっかりと横穴が開いている。どうも横穴式古墳の跡であるらしい。こういった小さな祠があるということは、この道自体が古いものである証ではとも思ったのだが、実際は違ったようだ。これについては後述。

上右:津田山弁財天をちょっと過ぎたあたりで、坂道を振り返る(上掲航空写真③)。(この写真では判りづらいが)先の方で完全に国道246号に断ち切られているものの、道それ自体は246号の向こう側に続いており、少なくともこの坂道が246号以前からのものであったことがわかる。

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上左:坂を完全に登り切り、平坦になった尾根道を見通す(上掲航空写真④)。住居表示のプレートに見るように、道の左側(南西側)は、高津区下作延7丁目。右側(北東側)は高津区久地1丁目で、ちょうどこの尾根道が境界となっている。高射砲陣地は下作延側にあったことになる。

上右:住宅がちょっと途切れたところから、山の北側の眺望。多摩川の流れる低地を隔てて、向こう側には世田谷の台地。住宅に遮られなければ非常に見晴らしがよい場所であることがわかる。案の定、眼下にあるはずの久地円筒分水は、家々に遮られて発見できなかった。

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上左:道端に立てられた案内板(上掲航空写真⑤)。個人情報保護に厳しい今時では珍しく、個人宅の名前入り(大丈夫だよね?この写真だと読めないよね?)。「津田山尾根道」という墨書調タイトルが由緒というか風情があるが、今年4月のストリートビューでは単純に「津田山町内案内図」とあるので、ごく最近架け替えられたもののようだ。

上右:その案内板のすぐ先から、やはり山の北斜面を見下ろす。大きな屋根は久地不動尊、その先にちろっとだけ、津田山を潜って出てきた平瀬川が見えるので、高射砲陣地があった場所は通り過ぎてしまっていることがわかる。

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いずれにしても、もう今は住宅地に飲み込まれてしまって、高射砲陣地の痕跡なんて何も残っていないよな……と半ば決め付けていたのだが、上の場所から少し戻って、「尾根道」南側の駐車場と民家の境に、こんなコンクリートの構造物を発見した(上掲航空写真⑥)。場所的には、おおよそ、一番北側にあった砲座の近くということになりそう。

武山の砲台山にある天水桶状の構造物とも何となく似ている(武山のものよりも薄く、また上辺が平行でないという違いもあるが)。もちろん、高射砲陣地と全く無関係かもしれないが、コンクリートの質感といい、「意味がないんだけれど撤去するのも面倒なので」花壇的に再利用されている雰囲気といい、当時の陣地の付属物である可能性は十分ありそうな気がする。

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上左:今度は尾根道から南側を見下ろす。中央には、ぐっとこちら側に向きを変えて流れてくる平瀬川が見える。

上右:津田山から降りて、平瀬川が津田山を貫く水路の入り口を見る。ここから見ると、津田山は裾野から上まですっかり住宅に覆われている。この尾根上の中央やや右側に高射砲陣地があったことになる。

●と、ここまで書いて、改めて過去の写真をあれこれ見比べていて気付いたこと。

「高射砲陣地」というものに対する先入観から、円弧状に配置されているのが陣地の本体と考えてそればかり気にしていたのだが、円弧状の陣地の右下(南東側)にごちゃっとあるものも、対空陣地跡なのではないだろうか。当初は「宋隆寺の裏山のてっぺんにあるんだから、墓地か何かかな?」などとボンヤリ思っていたのだが、よく見ると1941年時点の写真にはなく、円弧状の陣地と同時期に作られた軍事施設である可能性が高そう。改めて範囲を少し変えて、1947年8月1日・米軍撮影、USA-M388-64から切り出したものが以下。

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むしろ南東側の「陣地B」のほうが造りが凝っている感じ。砲が6門、円弧状の掩体も6基ということで、「陣地A」が高射砲陣地の本体と思っていたが、実は砲は陣地Bに配置されていて、陣地Aは対空機銃座、なんて可能性もあるのではないだろうか?(前回触れた資料の付表では、対空機銃の配備等には触れられていないが)。

いずれにしても、この「陣地B」跡は、国道246号の切通建設で、まるっきりこの部分の山自体が無くなっており、現地調査などしようがない。

●位置を推定するために時代を分けて検索した航空写真を、せっかくなので、おおよそ同じ区域でトリミングして比較してみることにする。全て国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスより引用。トリミング範囲は、おおよそ津田山(七面山)の南東側半分。

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1枚目:1941年8月6日、陸軍(63-C6-102)
2枚目:1947年8月1日、米軍(USA-M388-64)
3枚目:1955年1月21日、米軍(USA-M68-51)
4枚目:2019年11月1日、国土地理院(CKT20191-C57-6)

2枚目、4枚目はそれぞれ既出の写真のトリミング違いのもの。各写真は北を上にしているものの、微妙な角度のズレもあり、縮尺も正確には合っていないが、おおよその変遷は判ると思う。

1枚目は高射砲陣地が構築される前の津田山で、山の南側に斜めにまっすぐ引かれた線は南武線(当時は南武鉄道)。左端には現:津田山駅(当時の駅名は「日本ヒューム管前停留場 」) と、その駅前にあったヒューム管工場(前年に鶴見より移転)が見える。津田山を縦貫する新平瀬川の水路は未成のようだ。上辺中央やや右の久地円筒分水は、まさにこの年に完成。この写真ではすでに完成しているのか、半完成状態なのかはよくわからないが、円筒分水からまっすぐ右下に向けて引かれた二ケ領用水本流(川崎堀)は目立つ。

山の南側から尾根に向けて上がる細い道はあるが、今回私が上がった砲台道と思われる坂道はまだなく、上で「陣地B」として言及したごちゃっとした何かも、この段階では存在しない。

2枚目はたびたび掲示した終戦直後(2年後)の写真で、すでに新平瀬川のトンネルは完成。高射砲陣地の掩体もはっきりわかる。この段階で、1941年の写真でもあった尾根に上がる道の右側(東側)に、新たに(写真で見てもより道幅が広い)坂道が新設されている。西側の旧道は谷筋を通っているので、おそらく尾根の直前で傾斜がきつくなる。そこで砲台への資材や弾薬の搬入のため、新たに砲台道として山の中腹を緩やかな傾斜で上がる新道を作ったのではないかと思う。この道が、今回私が歩いた道になる。

そんな新しい道の途中に「津田山弁財天」の祠があるのは少し不思議だが、そもそもこの弁財天は、大正初期、日照りが続いた折に某行者(?)が横穴に籠って祈願したところ雨が降ったことに由来するとか。先述のようにその穴自体は山の中腹に掘られた横穴式古墳の跡と考えられるので、たまたま新しい砲台道を通した際に、中腹の横穴の脇を通ることになったのかも。

3枚目は1955年の撮影で、まさに246号の切通を作っている最中の写真。この段階(終戦から10年後)でも、円弧状の陣地跡は畑(?)の中にまだ残っている。しかし、上で「陣地B」とした構造群は、切通と全く重なっていて、完全に消失している。また、246号によって、砲台道が途中で分断されてしまったことがわかる。

4枚目は現状(2019年)。1955年と比べると、246号が大きく拡幅されている。津田山もびっしりと住宅が覆っているため、緑は一部の斜面にしかなく、山の形(高低差)が判りにくい。

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溝ノ口高射砲陣地(1)

●hn-nhさんがブログ「ミカンセーキ」を更新されていて、日米開戦の日(12月8日)の更新というのも意図したのかどうか、久々の高射砲陣地ネタ。

今回は「3月8日の月島」と題して、1945年の東京大空襲直前の隅田川河口の埋め立て地一帯の様子(米軍による空撮写真)と、そこにあった対空陣地についてレポートしている。

Kawasaki もちろんこの記事自体興味深いのでぜひ各々読んで頂きたいのだが、それと併せて、「おおお?」と思ったのが、都心一帯の対空陣地配置図。多摩川を越えて、川崎・横浜あたりまで含まれていて、その中に「溝口」の文字が。

もともと私は物心付くか付かないかの頃に現・高津区の下作延に引っ越して、今でも実家はそこにある。が、今までそのあたりにも砲台跡があるとは知らなかった(もちろん、“帝都”防衛のため、その周縁部に対空陣地があるのは全然不思議ではないのだが)。

問題の画像(本土地上防空作戦記録:関東地区_S26.7 復員局作成)を頂いたので、川崎を中心に切り抜いて掲示しておく。左上から右下にうねうねと引かれている線が東京と神奈川の境である多摩川。中央あたり、多摩川の南岸に「溝口(溝ノ口)」の文字があり、その南側・西側に「馬絹」「土橋」の文字もある。馬絹は、現在の地区名で言うと田園都市線の宮崎台駅の南方(昔はもっと広範囲を指していた可能性がある)。土橋は宮前平駅から鷺沼駅にかけての線路北側。ちなみに私の実家は、「溝口」と「馬絹」の中間あたりにある。

いくつかの地名ごとに周りが囲われているのは等高線などではなく、管轄の部隊を示しているらしく、「溝口/馬絹/土橋」のカコミには15(あるいは18?)/112AAと書かれているようだ。配置図の付表によれば、管轄の部隊は陸軍高射第一師団の高射砲第112連隊。3陣地の管轄と配備は、

馬絹:第二大隊本部、同第10中隊 -- (三式)十二糎高射砲×6門
溝ノ口:(第二大隊)第9中隊 -- (九九式)八糎高射砲×6門
土橋:(第三大隊)第15中隊 -- 一式照空灯×1基、九三式照空灯×5基

先の配置図内の112AAは「112th Anti-Airclaft (Regiment)」を示すのはいいとして、その前の15(または18)が謎だが、単純に「全部で15(または18)中隊あるでー」という意味かもしれない。

●手始めに溝ノ口陣地を探してみる。

「溝ノ口」とはいっても、現在の溝の口(東急)/武蔵溝ノ口(JR)駅前の低地ではなく、それを見下ろす高台にあったであろうことなんとなく想像できる。そこから先は、終戦直後の米軍の航空写真をローラー作戦で眺めて探してもいいのだが、ちょっと効率が悪い。

安直ではあるが、まずは「溝ノ口 高射砲」で検索してヒントが見つからないか試してみたところ、運よく「神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙 タウンニュース高津区版」、「高津物語 連載第八二六回」に、ちょろっと触れられていた。

 その昔、旧亀屋十字路角から溝口神社脇を通り、神社の後田から宗隆寺へ通じる道は、車も通れない狭い田圃の畦道だった。

 「昭和十六年(一九四一)神社後田一帯の耕地整理によって、現在の様な道路幅に拡張された」と『思い出のまちかど』(上田恒三著)に書かれている。溝口交差点(旧亀屋交差点)を曲って、二四六方面に進む道路のことを言っているのだが、指摘のように狭く細い道であるが、昭和十六年になぜ拡張されのか?拡張されなければならならなかった理由は何だったのか?全ては七面山高射砲陣地化の故だ。

「七面山」とは、調べてみると津田山の旧称(というか本名?)であることが分かった。引用文中にある「旧亀屋十字路」は溝の口駅北側、「溝口駅入口」交差点のことで、宗隆寺には私が通った幼稚園がある。そこがいわゆる「砲台道」だったとすると、そこから山に上った辺りに陣地があるはずで、それを手掛かりに写真をチェックすると、比較的容易に見つけることができた。

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1947年8月1日・米軍撮影、USA-M388-64から切り出した(国土地理院、地図・空中写真閲覧サービスによる)。もっとも、「津田山(七面山)の上にある」こと自体は合っているが、上の引用にある旧亀屋十字路から溝口神社/宗隆寺方向への道は、山の北麓を通る。実際には陣地へは南麓から上がるようになっているようだ(北麓からは、付近に上がる道自体がない気がする)。上の記述は陣地を見つけるヒントにはなったが、「旧亀屋十字路から溝口神社/宗隆寺方向への道」が拡幅されたのは、高射砲陣地とは無関係のように思える。

とりあえず、上の写真で陣地の立地・位置や形状について考察してみる。

七面山(津田山)自体は、溝ノ口市街地からは北西に位置する、北西-南東に伸びる舟型の山で、山の北側は府中街道(神奈川県道9号川崎府中線)、南側はJR南武線と南武沿線道路が通る。川崎市を縦に貫く幹線道路2本に挟まれた形、ということになる。もともとの名前は七面山だが、玉川電気鉄道(玉電、現在の田園都市線の渋谷・溝の口間の前身)の社長を1928年まで務めた津田興二が開発を手掛け、「津田山」と呼ばれるようになった由。「津田山」はJR南武線の駅名にもなっているので、私も子供の時から「津田山」とだけ認識していて、七面山の名前は今回調べる過程で知った。

高射砲陣地はその南東側1/3くらいの尾根上にある。砲座は6つで、現在もほぼ同じ位置にある「尾根道」の南側に、ほぼ真西を向いた円弧状に配置されている。前記資料によれば配備されていたのは八糎高射砲6門。九九式八糎高射砲は中国戦線で鹵獲したクルップ製88mm砲(有名な「アハト・アハト」のFlaK18系列ではなく、海軍用のSK C/30)をコピーしたもの。

砲座の掩体は、円弧の中心方向に出入り口が設けられているらしい。また、2基ずつ組になって、掩体間の連絡路も設けられているように見える(特に中央の2基で顕著)。披露山の「小坪高角砲台」のコンクリート製砲座は1基の直径が12mだが、こちらはそれより小さいようだ。もっとも小坪高角砲台は12.7cm連装、こちらは8.8cm単装なので、据えられた砲のボリューム自体がだいぶ違う。

山の上下に串を刺したように(上中央から左下へ)溝が見えるが、これは、多摩川の支流である平瀬川(流下方向は左下から上)。もともとは山の南側を流れ、現在の溝の口駅付近を通って多摩川に流れ込んでいたが、付近でしばしば氾濫したとかで、第二次大戦中に大工事をして、津田山の下を潜ってもっと上流側で多摩川に合流するようにしたもの。山の北側、その平瀬川のすぐ脇にある「◎」印は、以前に当「かばぶ」でも取り上げたことがある、1941年に竣工した久地円筒分水。ちなみに久地円筒分水の直径は16mなので、砲陣地や砲座の大きさを想像する目安にもなる。

●現在は、この高射砲陣地があった場所よりもやや東側で、津田山は国道246号の大規模な切通でバッサリと刻まれている。また、山の上もすっかり宅地化されてしまい、高射砲陣地の痕跡はおそらく何も残っていない。とはいえ、この写真に写っている南麓からの道と尾根道はあまり変わっておらず、「円筒分水を見下ろす場所で、平瀬川のトンネル手前あたり」(住宅に遮られてうまく視認できない可能性はあるものの)という手掛かりで、おおよその場所くらいは特定できそう。

というわけで、川崎の実家に行くついでに、ちょっと探索に出掛けてみることにする。

(続く)

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素晴らしきヒコーキ野郎(6)

20211206_214855 ●2021年末、軸足の定まらないつまみ食いモデリング、その2。

今回は、いったい何年「ちょっと触っては箱に戻し」を繰り返してるんだ、という、旧インパクト~パイロの「マーチン・ハンダサイドNo.3」。

前回記事、「素晴らしきヒコーキ野郎(5)」は2018年12月15日。第一回記事、「素晴らしきヒコーキ野郎」はなんと2009年11月22日。しょーがねーなーもう。

●以前にも書いたように、この一連のキット(全6機種)は、1965年公開の映画「素晴らしきヒコーキ野郎」とのタイアップ商品として、最初「INPACT KITS」という会社から発売されたもの(綴りがIMPACT、ではないことに注意)。Scalematesによれば初版発売は1966年だそうなので、発売以来55年という超ベテランキット。

右写真の後ろ側に写っているのが、その最初のINPACT版のアブロ複葉機(AVRO BIPLANE)で、先日鎌倉でhn-nhさんとお茶を飲んだ時の話のタネに持って行ったもの。映画ポスターのロゴと同じ字体で、キットのシリーズ名が書かれている。ちなみに映画の原題名は「Those Magnificent Men in Their Flying Machines」、キットのアオリは「Those Magnificent Flying Machines」。

再販版のパイロの箱絵は、その後の再々販版のライフライク、再々々販版のリンドバーグでも一貫して使われているもので(箱の縦横比やロゴは変わっているものの)、それはそれで味があるが、初版のオシャレさは一段上な気がする。たぶん映画との絡みがあって、そのままでは使えないのかも。

●さて、このマーチン・ハンダサイド、数年前に舟型の木製胴体をニス塗り仕上げ風に塗装してあった。木製であることを強調しようと、何種類かの茶色をまだらに塗って(一種類を塗ってはヤスって、またその上に別の茶色を塗ってヤスって、というような感じ)上からクリアオレンジを塗って仕上げていたのだが、ちょっと、古びた家具ならいいけれども、本来は新品であるはずの胴体にあまりに色むらが出来過ぎている感じが気になっていた。

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そんなわけで一歩後退覚悟で、今までの塗装をヤスって削り落とした。

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●そこから胴体を再度塗装。もともと塗装のテクニックが低いのは自覚しているので、今回は変な欲は出さないことにして、ベージュのプラ地(若干、以前の塗装の残りムラあり)に薄くタミヤエナメルのレッドブラウンを塗り、さらにクリアオレンジを重ねた。というわけで現状こんな感じ。

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以前よりはちょっとサッパリした感じに。何だかバイオリンっぽい!

胴体上面は結構ムラが残っている感じだが、ここは主翼のケタが付いたり、燃料タンクが載ったりするので、若干のムラがあって構わないかな……。

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シュヴァルツローゼ

20211207_143718 ●7日、仕事で久々に都心に出る。

新橋で一仕事して、神保町にハシゴ。最近インド風のカレー食べてないなあと思っていたところだったので、神保町のシディークでマトンカレー。

靖国通りの裏手のさくら通りにあった、元・日本タイ協会が入っていた古い風情のあるビルは、すっかり取り壊されていた。10年近く前に解体された、俎橋たもとの九段下ビル同様、関東大震災後の復興建築の一つだったという。ちょっと惜しい。

在りし日の姿をストリートビューで見てみたのが下。スクショではなくてストリートビューからの埋め込みなので、カーソルで掴んでグリグリすると動きます。しかし初めてストリートビューの埋め込みを試してみたけれど、画像が更新されたら、埋め込んだコレも更新されちゃったりはしないよね……?(ストリートビュー自体は、過去画像も遡って閲覧できる仕組みになっている)

 

なお、小川町の交差点の「顔のシャツ」向かいのビル(1階にエクセルシオールが入っていたビル)も解体されていた。

一方、閉店してからしばらく経つ、すずらん通りの「スヰートポーヅ」は今のところまだそのまま。はす向かいの元・南海キッチンの場所は更地になっていた。街の景色ってどんどん変わるなあ。

20211207_144712 ●すずらん通り、三省堂の向かいにある画材屋、文房堂の入り口に、こんな一文が。

「どなたもどうかお入りください。
決してご遠慮はありません」

何なの、このアヤシイ日本語……。

「遠慮はしないで」というならわかるが、「遠慮がない」とはどういうことだろう。入った途端に、鈴々舎馬風みたいなのが出て来て、「よっ、こりゃまたよく来やがったナァおい」とか馴れ馴れしく言われちゃうんだろうか。外国人が出している飲食店の拙い日本語案内というならわかるが、明治創業の老舗でコレはいったい……。

と思ってしまったのは私の日本文学の素養が足りていなかったからで、これは宮沢賢治の「注文の多い料理店」に出てくる、山猫のレストラン(山猫軒)の店先に書かれた誘い文句だった(というのに、検索して行き当たった)。なるほど、だから文句の下に、山猫の顔があるのか。

調べてみると、どうもこの秋にやった何やらのフェアに絡めてのディスプレイらしい。

●久しぶりに秋葉原の模型屋(複数)に行く。

YSのパーツバラ売りコーナーで、miniartのオースチン装甲車の機銃を見つける。

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おっと! オースチンの機銃ってことは、ヴィッカース機銃? あれ?こっちにちょっと形の違うやつがあるけど……これって、もしかしてシュヴァルツローゼ機銃? そういえば、miniartのオースチン装甲車って、枢軸側の鹵獲仕様も出てたっけ……。

と思ってとりあえず購入。帰宅してから枝番を元に調べてみると、ヴィッカース機銃だと思っていた左の「Ff」枝は、その原型であるマキシム機銃。右の「Fa」枝は思った通り、オーストリア=ハンガリー軍のシュヴァルツローゼ機銃だった。シュヴァルツローゼ機銃は、第二次大戦時にもハンガリー軍で、より新しいゾロトゥルンの31Mなどと併せて使われている。車載機銃としても使われていて、ハンガリー軍のクルップ・プロッツェの荷台に据えられている写真も残っている。

というわけで、ハンガリアン・プロッツェ製作のための重要な1ピースが手に入ったので、「くくく……これで勝つる」などとしばし舞い上がってしまったのだが、考えてみるとハンガリアン・プロッツェはその他に荷台もキャビンもタイヤのトレッドパターンも違うので、実際には全く勝つ算段など付いていないのだった。

ちなみにヴィッカースだと思って買ったほうのマキシム機銃は、今のところ何の用途のあても無い(ヴィッカースだったらRPMのT型フォード機銃車に使おうと思っていた)。

●先日来のつまみ食いモデリングの続き。

「あ」モデル(Amodel)のIAR-80Aは、とりあえず「士の字」くらいにはしておくかぁ……くらいのつもりで作業を進めてみたのだが、案の定、主要パーツのそれぞれがどうにもうまく合わない。

まずは主翼の上下面が、上面と一体のフラップ/エルロンと、下面との間でかなり段差になってしまうので、下面パーツの内側をゴリゴリ削り込む。そうすると、今度は胴体前半部のフィレットと翼上面のカーブが全然合わず、ここにも隙間と段ができる。

この胴体前半部、普通に貼り合せたら胴体後半部よりやや横幅が狭かったので、内側につっかい棒を入れて広げた……ら、今度はまた主翼側と幅が合わなくなってしまったので、フィレット部を広げた分だけ削り落とす。

なお、主脚のタイヤハウジングの内壁には大胆なヒケがあったので、一度大きく穴を開け、プラ材を差し込んで瞬着固めの刑にしてから削り込んだ。なんだか、「プラモデルを組み立てている」というよりも、「彫刻をしている」みたいな気分になってきた。

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テレメンテイコ

Img_20211205_0001 ●唐突に、「テイコや、テレメンテイコ」というセリフが頭に浮かんできて、「いったいなんだったっけな……あ、高野文子のマンガの一節だ」と思い出した途端に読み返したくなり、書棚の奥から引っ張り出してきた(思い出したときに運よく手の届く場所に見つかるのは、私にしては珍しい)。

高野文子の最初の単行本(短編集)、「絶対安全剃刀」。奥付を見たら「昭和57年1月19日 初版発行」とあった。古いなあ……。

後には割とほんわかした感じのマンガを描いていたように思う高野文子だが、この最初の単行本(短編集)のマンガはどれも尖っていて、しかもとてもよい。

ページをめくって最初がカラーの小品、「たあたあたあと遠くで銃の鳴く声がする」。

何と言うか、ビートルズのアルバム「Let It Be」の最初の「I dig a pigmy!」という叫び声とか、ピンク・フロイドの「Dark Side of The Moon」冒頭の徐々に高鳴る心臓の鼓動とか、もうそこで一気に引き込まれてしまうような「口開け」感が、この小品にもある。題名も素敵。たあたあたあ。

●最初に書いた「テイコや、テレメンテイコや」(正しくは最後にも「や」が付いていた)は、「早道節用守(はやみちせつようのまもり)」に出てくる。(wikipediaによると)どうやら杉浦日向子に触発されて描いたものであるらしい、

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江戸に天竺、中国(秦)と、空間も時間も飛び越えて話が展開する摩訶不思議感は澁澤龍彦の「高丘親王航海記」にも通じるものがあるが、物語そのものはこっちのほうがずっと古く、江戸時代の山東京伝の原作のマンガ化。

「テレメンテイコ」は秦の始皇帝に呼びつけられる廷臣(小坊主)の名前。私はずっと「高野文子のマンガに出てくる名前」という認識でいたのだが、実際には、この珍妙な名前は山東京伝の原作にすでにあるそうだ。

最後に出てくる「三囲りの鳥居と幽霊は腰から下が見えねえはずだ」の三囲の鳥居は、現・墨田区向島の三囲神社の鳥居のことで、隅田川の対岸から見ると、堤越しに鳥居の頭だけ見えたことが下敷きになっている。同神社には三本足の鳥居があることで有名だが(一度見に行きたい)、この三本足の鳥居はちょっと奥まったところにあり、「腰から下が見えない」のは別の(普通の)鳥居らしい。

●軽妙な「早道節用守」もいいが、個人的に(初めてこの本を読んだ時から)好きなのは「ふとん」。基本、無神論者の私だが(論者というほど強固ではないが)、もしも「衆生を救う神仏」というものが在るとしたら、厳かな仏像のようではなく、この作品に出てくるかんのんのようではないだろうか、と思ったりする。

痴呆症の老婆を精神年齢ベースで絵本風の幼女の姿で描いた「田辺のつる」も、最初読んだ時は衝撃だった。

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(ここまでの画像は全て、高野文子「絶対安全剃刀」白泉社(1982年)より引用)

●4日土曜日。ふと思い立って三浦富士~砲台山~武山不動の三浦半島横断ハイキングをする。初めて砲台山に行った時と同じく、最初に電車で(東京湾側の)京急長沢まで行って、相模湾側の武山まで。

京急長沢で降りて、あっ、そういえばここはモデラー仲間のMさんのいるところでは!と思ったのだが、考えてみれば電話番号を知らないし、知っていても「もしもし? 今近くに来てるんだけど、一緒に山登りません?」というのも唐突過ぎる。というわけで、おとなしく1人で歩く。

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上写真は左が三浦富士から見下ろした東京湾。右が砲台山山頂下の展望台から見た三浦半島南部と、その向こうの伊豆大島。ここから見る三浦半島南部はほぼまっ平らで、要するに、三浦富士~砲台山~武山不動と連なる尾根が三浦半島の山の南端であることが判る。

砲台山探訪は、2017年8月の第1回目、2018年11月の第2回目に続いて今回が3回目。

わざわざ砲台山まで行かなくても、我が家の近所にほぼ同型の砲台が(披露山公園に)あるにはあるのだが、何も手を加えられていない砲台が藪にも覆われず、実際にすり鉢の中に入ってあれこれ見ることができるのはやはり貴重だと思う。贅沢を言えば、山頂広場の樹と藪はすっかり丸裸にして、もう一基、藪に埋もれている方の砲座や機銃座も併せて見てみたい。

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1枚目・2枚目:三浦富士からの尾根道が、砲台山の砲台道に突き当たった地点で、砲台道の下手・上手を撮ったもの。海上保安庁の通信施設が建っているため、砲台道は藪に狭められることもなく、車が通れる道幅をキープしている。

3~5枚目:砲座全景と、砲が据えられていた中心の穴。今回新たに得た知見だが、中心の穴の周囲には、ほぼ等間隔?にくさび型の刻み目のようなものがある。一部エッジが削れて不明瞭になった部分もあるが、たぶん全周で18カ所。

6枚目:砲台道から、武山不動方面に向かう枝道に入ってすぐの場所にある、衛兵所(と、サイト「東京湾要塞」では説明されている)とされる建造物のコンクリートの基礎。さらにこの先に、第1回目の記事にも載せた、コンクリート製の天水桶状の構築物(7枚目)がある。

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「あ」モデル

●年間の仕事上の最大の山場を越えた虚脱状態からいまだ脱出できておらず、模型製作も低調。

一つのキットに集中するモチベーションが沸いてこないので、あれこれキットをとっかえひっかえ取り出しては、ちょっと眺めたりいじったりしてまた箱に戻す、などということを繰り返している。

20211202_232053 ●そんななかで、最近いじったのが、A modelの1:72、IAR-80A。

A modelについては、以前に一度、ニューポールIVのキット評をUPしたことがあるが、もう一度、ざっとこのメーカーの説明を。

A modelはたぶんウクライナの会社で――と、最初から「たぶん」が付くところがなんとも情けないが、これは、キットの箱にも説明書にも、どこにも会社の所在地とか、「made in どこそこ」とか書かれていないため。箱横のロゴ下には、「ワールド・ワイド・ディストリビューター」として、ポーランドのIBG(International Bussiness Group)の名前とワルシャワの住所/連絡先が書かれている。IBGが独自キットを出すより、A modelが出回り始めた方が早かったと思うから、IBGって商社活動の方が先だったんだなあ……と今さらながら思ったりする。

箱の横には実機説明・キット内容説明が複数言語で書かれているが、それも英語とロシア語、もしくは英語とドイツ語とロシア語で、ローデンのようにウクライナ語は書かれていない。

「ウクライナ産」の証拠がどこにもないじゃないか、と突っ込みたくなる感じだが、日本でこれらのキットを扱っているバウマンのサイトには「Amodel from UKRAINA」と書かれている。キット名称や説明に多々怪しいところがあるバウマンが言っているだけだとやや根拠に乏しいが、ポーランドの通販サイトのJadarHobbyでも「Amodel (Ukraine)」と書かれているので、まず間違いないと思う。

我が家には右に上げた3キットのほか、以前にキット評を書いたニューポールIVと、あとは確かUTI-4(ポリカルポフI-16の複座練習機型)があったはず。とにかく初期のキットは簡易インジェクションとしても出来は悪い方で、(悪名高いマーリンやヴィーディーとまではいかないものの)モールドはでろでろ、ぱっと見でも、かなり削り合せないとそのまま接着もできない風のものが多かった気がする。

――箱を開けて見たとたん、「あ……」と言って二の句が継げずに箱を閉めちゃうから「あ・モデル」なんだよ。

と、誰かが言っていたような気が。

比較的初期の製品であるUTI-4も、翼弦長などは修正してあったものの、一部パーツは古いレベル72のU-16のデッドコピーだったような記憶がある(うろ覚え)。それでも、他ではまず出さないような珍機・迷機・マイナー機を次々に出すので、(私のような)アホなマニアがついつい手を出してしまう、いわば「マニアホイホイ」なメーカーでもある。

ただ、一時期以降は結構質も向上してきて(とはいっても、まともなインジェクションメーカーに太刀打ちできるレベルではない)、写真に上げた3キットやニューポールIVあたりは「好きなら手に取っていいかも」くらいには仕上がっている。とはいえ、これまたニューポールIVの時に書いたように、昔のひどいキットが箱替え・デカール替え/一部パーツ替えで番号が新しくなって出ている例もあるようなので、かなりの地雷含みではある。

▼せっかくなので上に上げた3キットの中身紹介を少々。

最初はIAR-80A。

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前述のように、ちょっとだけお手付きなので、箱の中には切り離した胴体や主翼ほか一部パーツがバラバラと入っている(カウリング胴部や胴体前半部は左右を接着済み)。

このキット、どうも純正A model製ではない気配もあって、パーツ枝には「Master 44」という謎のタグが。以前は、実機の生産国であるルーマニア製のキットをリボックスして売っているものかと思っていたのだが、Scalematesを見ると、ルーマニアのレーベルである「Parc」からはA modelと同時期に1種のキットしか出ていないのに対して、A modelからは細かくバリエーションで5,6種出ている。しかも前述のようにキットの枝のタグは「Parc」ではない。

角の丸いパーツ枝形状、枝の交点にいちいち出ている樹脂のヒケの穴などは他のA modelキットと似通っているので、「Master 44」とは単純に下請けの金型メーカーである可能性もある。いやまあ、それが判ったとしても何がどうということはないけれども。

A modelからは、私が持っているIAR-80Aのほかにも、-80、-80C、-81など何種もバリエーションが出ていて、それへの対応のためか胴体は前半と後半で別パーツ(そしてその擦り合わせは結構苦労しそう)。

ちなみに実機は、ルーマニアがライセンス生産していたポーランドのPZL P.24の胴体後半の設計をそのまま丸パクリして低翼単葉引込脚機をでっち上げたというもの。いかにも旧式なPZLの固定脚ガル翼機が、いきなりスポーツ機じみた外見に生まれ変わっているのはビックリだが、垂直尾翼の形状はP.11cともそっくり。

ちなみに箱の右上にあるポートレートは「Constantin Pomut(コンスタンチン・ポムート、と読めばいいのか?)」で、キットの塗装例の機体に乗っていたエース・パイロット。ただし以前にはハリケーンに乗っていて、何機をIARで落としたのか(あるいは落としていないのか)はよく判らない。

▼2番目はユーゴスラビア仕様のホーカー・フューリー。フューリーの72のインジェクションキットは、古くはマッチボックスからも出ていて、「マイナー機ほど出来がいい」と言われるマッチボックスらしくそれなりにいいキットだったのだが、形式はMk.IIだったので輸出型には対応していなかった。

A modelのこのキットはユーゴスラビアに輸出、また一部ライセンス生産されたMk.Iで、脚柱がV字でなくI字の一本脚であるなどの外形上の差がある。A modelからは、この他、イスパノスイザのエンジンを搭載したイスパノ・フューリーも発売されている。

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御覧のようにパーツは72小型機としては標準的な構成。IAR同様、パーツ一つ一つのキレはお世辞にもいいとは言えないが、コクピット内壁のモールドもあるし、「それなり」には仕上がっていると思う。ただ、型からの取り外し時に無理な力を掛けたのか、私の入手したキットでは、胴体右側の排気管のモールドが部分的に(ちぎれたような感じに)潰れていた。これはどうにかして(ついでに左右揃えて)作り直さないといけない。うわ。面倒。

▼最後のキットはスパッドS.A.4。

箱絵は後ろ姿なのでちょっと判りづらいが、これはとにかくスタイルが珍妙なので実機解説から。

第一次大戦前半、同調装置が一般化するまでは、とにかく「まっすぐ前に機銃を撃つ」ということが難しくかつ大きな課題で、イギリスでは空力性能を犠牲にして各種プッシャー式戦闘機が実用化され、フランスのニューポールあたりは上翼の上にさらに架台を組んでプロペラ圏外から撃ったりしていたわけだが、そこでもっと斬新な(悪夢のような)解決法を導入したのが、スパッドS.A.2と、その小改良型であるS.A.4(どこがどう違うのかよく判らないが、とにかくA modelからは両方発売されている)。

基本、ごく普通の牽引式の飛行機に、プロペラを迂回する形で支柱を付けて、プロペラの真ん前に銃座を取り付けてある。だいたいこの頃の飛行機というのはほぼ野原のままの飛行場から運用されていて、そこで尾輪式の機体は、ちょっと“つまづく”とつんのめって逆立ちをしてしまう。実際にそんな状態の写真はよく見るが、この機でそんな事態になると、機銃手は真後ろから高速回転するプロペラとエンジンがかぶさってくることになる。……ブラック職場過ぎる。

そんなわけで、本国フランスでは嫌われて、生産機の多数がロシアに里子に出されている。このS.A.4のキットの指定塗装もロシア空軍。

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小パーツ枝と一緒に写した10円玉との比較で判ると思うが、成型状態はお世辞にもいいとは言えないものの、細かいパーツはとことん細かい。ル・ローン・エンジンも吸気管が別パーツとなかなか凝っているが、果たしてこの極細パーツ群、破損させずに切り離すことは可能なんだろうか……。

前部機銃手ナセルの両側面には、直後の空冷星型エンジンの冷却を助けるためにダクトがあって入り口にメッシュが張られているのだが、キットでは頼りなさげなモールド表現のみ。もっとも、エッチングに張り替えるなどと余計なことを考えたりせず、塗装表現で済ます方が平和だろうなあ。

とりあえず模型として形態だけを見ると、奇抜な前部機銃手席の機構に加えて、デュペルデュサン以来の、ルイ・ベシュロー設計機の特徴である矢羽根状のシュッとした垂直尾翼とか、後のスパッドVIIやスパッドXIII同様の、張り線保持用の補助支柱とか、いろいろ見どころがあって、いつかものにしてみたいキットではある。……いつか、いつかね。

●新型コロナに関しては、新たな変異株であるオミクロン株の話題で持ち切り。

前回「来年は東京AFVの会は開催されるだろうか。またまた変異株も出て来て、でかい第6波とか第7波とか来そうな気もする」と書いたが、悪い方に予測が当たりそう。こうなると、今年、感染の波のちょうど合間にささっと開催できた関西AFVの会は大したものだと思う。

オミクロン株について。うちのかみさんは「鬼クローン株」だと思っていたらしいことが判明。強そう! そして質悪そう!

もっとも私自身、オミクロンというのがギリシャ・アルファベットだというのは判るが、何番目なのか等はよく知らない。最後の文字の「Ω(オメガ)」株とか出てくるとなんだか終末感が漂っていて怖いが、すでにオミクロンで文字数の半分は超えているようなので、来年にはオメガに到達しそう。

なお、慶応の湘南藤沢キャンパスに通っている知人によると、同キャンパスの校舎はギリシャ・アルファベットが割り振られていて、「オミクロン棟」もあるそうだ。

●昨晩(12月2日)から、あっちこっちで地震が起きて、震度5クラスの地震も2度。今朝の山梨の地震ではここ(神奈川東部)でも結構揺れた。コロナだけでも面倒なのに、大きい地震とか被せて来ないでほしいなあ。

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