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2021年4月

サヨナラ、ポスト(2)

Kazahaya20192021 ●葉山にご実家があるというブリキヲさんから、同町、風早橋バス停近くの丸ポスト(堀内671、ポスト番号109)が撤去されてしまった、といういささかショックなお知らせを頂いた。

葉山町内の丸ポストは数年前まで9基あったのだが、1年ほど前に、森戸神社バス停そばの1基(堀内1047、ポスト番号121)が撤去されたばかり。これで7基になってしまった。

森戸神社バス停そばの1基が撤去された直後の記事、およびそれ以前の、9基あった数年前にまとめて訪問した際の記事は以下に。

今回撤去された風早橋のポストは、もともと「たねや」というお店の脇(角)に設置されていたものなのだが、私が数年前に見に行った時には、もうお店は閉まっていた。そのお店(兼住居)もついに取り壊され、それと併せてポストも撤去ということになってしまったらしい。冒頭写真は、在りし日(2019年5月撮影)のポストと、ほぼ同じ角度から撮った現状(2021年4月8日)。建物も無くなり、なぜかポストの根石だけがポツンと残っているのが寂しい。

●というわけで4月8日、現状確認に行って撮った現状写真をさらに何枚か。それから、写真フォルダをひっくくり返して出てきた、最も最近の写真(昨年6月)のものを2枚ほど。

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根石の、これまでは建物があって見えなかった側の根石に製造年月が刻んであった。製造年月入りの根石は初めて見た気がする。ちなみに丸ポストそれ自体は、通常、裏側の根元に製造年とメーカーが鋳込んであるが、製造月までは書かれていない。

●一度訪れて各方向から写真を撮ったポストについては、その後に前を通りかかっても写真は撮ったり撮らなかったりだが、こんなふうに姿を消すと、ああ、もっとマメに写真を撮っておくべきだったなあ、などと思う。

思ったついでに、ちょっと足を延ばして、近くの丸ポストの「近影」をいくつか撮った(向原、一色岡、セブンイレブン葉山一色店前の3カ所)。

途中の葉山町役場前、「葉山花の木公園」のツツジは花盛り。もっとも、ハナバチたちにとってはまだちょっと早めのようで、ミツバチがちらほら、あとは(写真には撮れなかったが)ヒゲナガハナバチを1,2匹見た程度。春のハナバチの主役級、コマルハナバチに関しては、すでに山道では巣作りを始めているらしい女王バチを数度見掛けているが、花を訪れる働きバチは、上の風早橋のポスト跡のさらに手前、長柄の歩道脇のツツジで1匹見ただけ。

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(もともとはポスト巡りが主目的ではなく「しっかり歩く」ことを目的に出てきたので)セブンイレブン葉山一色店の向かいあたりから大峰山(三ヶ岡山)に登り、東西に長い山を東から西へ横断。真名瀬方面に降りる。

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1枚目は大峰山上から見た逗子・鎌倉方面。2枚目は真名瀬の夕景。残念ながら富士山は雲に隠れて見えなかった。ところで漁港もある葉山の真名瀬だが、20年以上も隣町に住んでいながら、読みが「しんなせ」だというのを今頃になって知った(大峰山上の案内板にふりがなが振ってあった)。ずっと「まなせ」だと思っていた。

●ここのところ、「仕事で人に会う用事」はリモートばかりだったのだが、久しぶりに、6日は小金井、7日は浜松町で対面の仕事。

小金井からの帰りに通った渋谷のハチ公前交差点は(毎日のニュースでも頻繁に映っているが)、6時前のちょうど仕事終わりの人が増える時間帯だったということもあり、かなりの人出で、「こりゃ、このあと感染者数はまたどっと増えるな」という感じ。その中の一人として混じっていて偉そうに言うことじゃないが。

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少なくとも、「え?なんでそれで聖火リレーとかしてるの?」という感じ。どうしてもオリンピックするならリモートでやれよ……(記録の操作が続出しそうな気もする)。

●9.11テロ直前のワールド・トレード・センター・ビルの姿。

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というのは質の悪い冗談で、こちらは(英名では)同名ながら、浜松町駅前の世界貿易センタービル。ちょうど昼時だったので、地下で何か食べようかなと降りてみたら……。なんと、ファミマとパン屋が残っているだけで、あとはすべて空き店舗。廃墟感がハンパない。ちなみにビル最上の展望台もしばらく前に閉まった模様(展望台があるということ自体知らなかったが)。

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ちなみに、隣接する東京モノレールの駅ビル「モノレ浜松町」も先月末付で館内全店が閉店で、「57年間ありがとうございました」のポスターが貼られていた。

帰って調べてみると、世界貿易センタービル、モノレ浜松町を含む地区一帯が(ビルの老朽化もあり)再開発されるそうで、今年度には解体が始まる由。ちなみに世界貿易センタービルは日本の「超高層ビル」としては霞が関ビル、神戸商工貿易センタービルに次ぐ最初期のもので、「国内における過去、最も高いビルの解体工事」になるのだそうだ。

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鷹取山高角砲台

●我が家のお嬢は(以前は「ちび」と書いていたが、さすがにお年頃になってきたので改称)、まるっきりのインドア派だが、「春休み中に一度は山歩きに行くか?」と誘ったら、意外にも「行きたい」というので、人が少なそうな平日(2日金曜日)、昼食後に出掛ける。

山歩きに慣れないのを連れて行くので、いちばん楽な二子山上ノ山に行こうと思っていたが、事前に家で検索したバスの時刻表を間違えていて、南郷方面へのバスが当分ないことが(逗子駅前でしばらくバスを待ったあとで)判明。

仕方がないので急遽行先変更。電車で一駅、東逗子まで行って、神武寺経由で(久しぶりに)鷹取山に登ることにする。

東逗子から神武寺までは、一応参道なのでそれほど険しい道はなく、神武寺から鷹取山までも(途中、鎖を張った急斜面を横断するところもあるが)尾根伝いなので極端な起伏もなかったはず――と思ったからだが、それにしても行き当たりばったりなのは言い訳出来ない。ちなみに以前に鷹取山に登ったのは、(今改めて調べてみたら)もう8年も前のようだ。

結果から言うと、お嬢は別に疲れた様子もなく文句も言わず、鷹取山山頂まで景色を楽しんだり写真を撮ったりしながら普通に歩き通した。傾斜のきついところを降りる際にはちょっとビビっていたが、20年以上前?に同じコースを歩いていた時に、当時小学校に上がるかどうかだった息子(お嬢にとっての叔父)が調子に乗ってホイホイ進んで急斜面を滑落した轍を踏むよりはずっとよい。

●行程で見かけた虫。

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1枚目:逗子駅前で来ないバスを待っているあいだ、いつのまにかポーチに止まっていたもの。セスジジョウカイの仲間?

2枚目:神武寺への参道にいたアオオサムシ。もう少し、木漏れ日の強いところにいれば光り方も違ったのにちょっと残念。

3枚目:「よくいるトラカミキリだよね」と思っていたら、意外に同定に苦労。カミキリムシ屋さんではないので自信はないが、トガリバアカネトラカミキリ? 鷹取山の展望台で。

●風はちょっと強めだったが天気も良く、山歩きには格好の日。

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1枚目は頂上展望台から見下ろした山頂広場。2枚目は展望台から見た(本来登るつもりだった)二子山。普段西側から見る時と違って、もうちょっと上ノ山、下ノ山が離れて間の谷がゆるやかに見える。

鷹取山はかつての石切り場跡なので石を切り出した後の垂直の崖面だらけだが、ところどころ、秘密基地めいた行き止まりの場所もあってなかなか楽しい。

山頂広場下の湘南鷹取の住宅地から追浜駅前までバスに乗る。それにしても、三浦半島の山を越えて東京湾側であるにも関わらず、新興住宅地に「湘南」と付けるのはいくらなんでもな気がする。以前、みやまえさんに教えていただいた「横須賀市グリーンハイツ」(マンション名ではなく町名!)はさらに強烈。横須賀市は地名に関してフリーダム過ぎる。

追浜駅前では、国道沿いの「シャッター商店街」をしばらく散策(「寂れたお店には何かお宝が眠っているかもしれない」というお嬢の要望による)。産業らしい産業もない逗子よりも、沿岸部に大工場が並び山側には大規模な新興住宅地が広がる追浜の方が、駅前のゴーストタウン化が著しいように見えるのはやや不思議。

駅前にある下写真の病院(鳥海病院)は、門柱にある「田浦三〇三三番」の電話番号といい、いかにも戦前から風の佇まいが目を引く。横須賀市役所のサイトで閲覧できる「新・追浜歴史年表」という資料によれば、昭和8年(1933年)、もっと海寄りの場所にあった同病院が、この場所に移転してきたとある。おそらく、その当時の建物なのではないかと思う。

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●表題の高角砲台について。

これまで紹介してきた小坪や二子山、武山(砲台山)、衣笠などと同様、鷹取山にも高角砲台があった。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」によれば、終戦時に配備されていたのは、

  • 十二糎高角砲:4門(弾薬数:275発)
  • 二式陸用高射器:1基
  • 九八式高角四米半測距儀:1基
  • 九七式高角二米測距儀:1基
  • 九六式一五〇糎探照灯:1基
  • 二十五粍三連装機銃:1基
  • 十三粍単装機銃:2基

であるらしい。

これまで紹介してきた近所の砲台跡は、程度の差はあれ、何らかの遺構は確認できたのだが(最も痕跡が薄かった畠山でも、砲台道と窪地は確認できた)、鷹取山の場合は、山頂の展望台から見まわしてみても、それらしい痕跡は何も見当たらない。

毎回、周辺の軍事遺構を訪ねる際にお世話になっているサイト「東京湾要塞」の「鷹取山高角砲台」のページを見ても、現在は住宅地となって何も残っていないと書かれている。

●とはいえ、「実際にどこにあったか」程度は知りたいと思ったので、例によって、国土地理院の国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」から、新旧の航空写真を引いてきて対照してみた。

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左は終戦から間もない、1946年3月5日に米軍によって撮影されたもの(写真コード「USA-M64-A-6-69」から切り出し加工)。右はごく最近、2019年8月7日撮影のもの(写真コード「CKT20194-C13-58」から切り出し加工)。縮尺、方向など完全に正確ではないが、おおよそ重なる形に切り出してみた。

画面の右を上下に走る街道は現在の国道16号で、京浜急行の線路が並行している。右上の弓状になったまん中(①)が京急追浜駅で、ちょうど弓につがえた矢のように直角に横に伸びるのが夏島貝塚通り。当時から変わらない特徴的な敷地の②は追浜小学校。この目立つ2つのポイントが、位置特定に大いに役立った。

ちなみに現在の鷹取山山頂広場が③。当時は公園もなく石切り場だったままなので、どこが山頂なのかもよくわからない状態。現在はその直下にある鷹取小学校も、当時は影も形もない。

写真中央の黄色楕円枠内が「鷹取山高角砲台」で、鷹取山山頂と追浜駅の中間くらいにある。周辺の他の高角砲台は、皆大なり小なり「山のてっぺん」に作られていたが、鷹取山の砲台はちょっと中腹に下った辺りに作られていたことがわかる。もっとも、湘南鷹取の住宅地造成の際に削られただけで、この地点に小ピークがあったのかもしれない。またよく見ると、街区(道路)の形が、ちょっとだけ、当時の陣地の外形をなぞっているような感じもある。

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高角砲台部分の拡大が上写真。おおよそ海側(東側)に向け、扇形に砲座が4つ並んでいる。円形が破線上になっているのは、おそらく、同じ12cm単装砲が配備されていた二子山高角砲台同様に、弾薬仮置き場の「箱」を埋め込んだ土塁の砲座だったためではないかと思う。砲台から南への道をたどった先には、関連施設らしきものも見える。

以上は帰宅してから調べたもので、今回は近くを素通りしてしまったが、そのうちまた行く機会があったら、この場所自体をちょっと見て回って、本当に何の名残りもないのかを確認してみたい。

●オマケの追記。

上とは別の、1946年2月15日の米軍撮影の空撮で、同地域のもう少し東側を見てみる(写真コード「USA-M46-A-7-2-51」から切り出し加工)。

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この写真では、鷹取山高角砲台は画面の左下。中央左側に、追浜駅前の国道の「弓形」と、それにつがえられた矢の現「夏島貝塚通り」がある。通りの先、画面右半分には海軍航空部隊の“総本山”と言っても良い、横須賀海軍航空隊の追浜飛行場が広がる。こうしてみると、追浜駅は、まさに追浜飛行場の玄関口にあたる駅であったことがわかる。

追浜飛行場の北側には海が切れ込んでいて、細い水道を隔てて一部見えているのが野島。島の山には、航空機を避難させるための巨大掩体壕のトンネルが掘られているのだが、そういえば、中学校の頃に一度見たきりだなあ。当時はトンネルの中には入れたような記憶があるのだが、思い違いかも。とにかく今は両側とも入口は封鎖されていて、簡単な案内(解説)板が立っているそうだ。今度行ってみよう。野島の西側(左側)の平潟湾は現在よりもだいぶ広い。

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観音崎

●仕事が途切れて暇なので(経済的には結構ヤバイ)、25日木曜日、ふらふらと観音崎まで出掛ける。

実を言うと、20年以上も付け根とはいえ三浦半島の住民として暮らしていながら、いわば「地元の名所」である観音崎には行ったことがなかった。もっとも今回も、「よし、今日こそ観音崎へ行こう」などと気合を入れて出掛けたわけではなく、実際には岬のすぐ近くにある横須賀美術館に「飛行機と美術」展(2月6日~4月11日)を観るつもりで行ったのだが、直前まで行って美術館はヤメにして、岬だけ散歩してきたもの。

おかげで、しとしと雨が降って見晴らしも悪いし歩き回るにも面倒なコンディションの下、何が見られるかの下調べも不十分なままでの観音崎初訪問になってしまった。そのうち、天気の良いときにまた行きたい……。

観音崎は、東京湾の入り口近く、富津の砂州との間で東京湾が最も狭まった、いわば「門」にあたる。

日本初の西洋式灯台である観音崎灯台が1869年(明治2年)に建てられただけでなく、東京湾防衛のため、明治10年代以降、陸軍によって要塞化され、いくつもの砲台が設置されている。いわば門柱に組み込まれた守衛所ですな。

●観音崎バス停から海沿いの遊歩道を歩く。

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左はバス停のある広場からすぐの入り江(観音崎海水浴場)に突き出た、何やら古い構造物。さらにその先の海上にテーブル状の構造物。例によって国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で戦後すぐの米軍の空撮写真を見ると、手前の円形部分から、海上のテーブルまで橋が架かったようになっている。小型船用の小さな桟橋だったらしい。

右は海食崖に開いた岩窟で、手前の小さな祠には観音様が祀ってある。この岩窟に、天平の昔(8世紀)、行基が十一面観音菩薩を祀ったのが「観音崎」の名の由来だという(もちろん、今ある観音様は行基の祀ったものではない)。

遊歩道の途中から、灯台へのジグザグの上り道がある。その最初の曲がり角に、陸軍石標と、「観音崎燈臺所轄地」と書かれた横倒しの石標。

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再び遊歩道に降りて海沿いを進む。磯に、何やら不思議な形をしたコンクリートの構造物が転がっている。帰宅後調べてみたら、関東大震災で倒壊した2代目の観音崎灯台の残骸だそうだ(現在の灯台は三代目)。

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さらに岬の突端に、これまた謎のコンクリートの小屋のようなもの。これは、1930年代になってから作られた、東京湾に侵入する潜水艦に備えた固定式ソナー施設の聴測所である由。右写真は、後述のトンネルを抜けた先、観音崎自然博物館手前の展望園地から振り返る形で撮ったもの。

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岬の先端部は海上自衛隊の施設敷地だとかで立ち入りできず、したがって、上記の聴測所も近付いて撮影することはできない。そんな立ち入り禁止の敷地内の向こうに、何やら石碑が立っている。

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これまた後から調べてみると、この目の前の浦賀水道で、1988年に発生した海自の潜水艦「なだしお」と、釣魚船「第一富士丸」の衝突事故の慰霊碑であるらしい。そんな慰霊碑を、一般に立ち入りできないような場所に建てて、近くに何の案内も説明もないというのは(特別の作為はないとしても)ちょっと如何なものかと思う。

上の柵を過ぎたところで遊歩道はちょっと陸側に折れ、岬の最も出っ張った部分は隧道で通り抜ける形になる。隧道の手前には何やらコンクリートの構造物(弾薬置き場?)があり、この遊歩道と隧道も、もともと要塞(砲台)関連のものであったらいいことを感じさせる(隧道内にも横穴をふさいだ跡がある。

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隧道自体は素掘りで、内面は傾斜した地層の縞模様が顕著。ご近所の鎌倉近辺にもこの手の素掘りの小トンネルは多いが、それらと比べても素敵度が高い。

上の隧道を抜けた先にある展望園地/観音崎自然博物館まで行って折り返し、今度は岬の上に上って灯台を目指す。後で調べたところによると、展望園地も旧砲台跡(南門砲台)とのことだが、現在は「地形的にそれっぽい」というだけで、遺構の類は何も残っていないようだ。ただし、(隧道側から見て)展望園地手前にある道路横の石積みは古いもののようだ。

灯台を目指して坂道を登っていくと、突然目の前に、いかにもな遺構が現れる。観音崎砲台のうち、最初に作られた2つの砲台の1つである第一砲台で、1880年(明治13年)起工、1884年(明治17年)竣工(ただし、起工・竣工年は一緒ながら、起工日は第二砲台の方が若干早かったらしい)。

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すり鉢状の披露山の対空砲座などと違い(そもそも建造年代もまったく違うが)、こちらは海に向かって半円形の砲座が左右に並び、その間をレンガの小トンネルが結んでいる。煉瓦は表面が各段とも長短交互になったフランドル積み。現在は塞がれているが、このレンガのトンネルの下に弾薬庫があるらしい。

海に向かって左側の砲座のさらに左、灯台側に進む途中の石壁にも、現在は塞がれた小アーチの入り口がある(最後の写真)。

第一砲台を過ぎてさらに歩くと、これまた縞模様が素敵な小切通抜けたところに、観音崎灯台がある。

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灯台に着いたのはちょうど17時頃。もう少し早ければ、灯台に上ることもできたのだが、それを知らずにぐずぐず遠回りをしてしまって間に合わなかった。惜しいことをした。

●本来は、第一砲台と灯台の間に、さらに山側に上る道があり、そちらに行くと第一砲台よりさらに規模が大きい第二砲台があるのだが、おそらく一昨年の台風のせいで道が不通になっていて行けなかった(海岸遊歩道入口あたりから登る道も不通だった)。裏側から回り込むように行くことはできるかもしれない。

また、バス停よりも走水側にある「三軒家砲台」跡も多くの遺構が残っており見応えがあるらしい。

今回は「予習」ということで、近々また出掛けてみたい。

●ちなみに、公園の案内図はこちら(神奈川県立観音崎公園「みどころMAP」)。

砲台等に関する情報は、いつもの通りサイト「東京湾要塞」さん(特に同サイトの「観音崎砲台マップ」、「観音崎砲台ガイド」)に大いにお世話になった。

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