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2020年3月

畠山高角砲台

●「こりゃもう、二度は採って食わないな」と思ったニリンソウだが、前回書いたように、改めて調べると、一度乾燥させてオハウ(アイヌ料理の汁物)に入れると美味いらしい。「肉の味が倍になる」というアシリパさんの言だけでなく、それを頼りに実際に料理したというネット上のいくつかの記事でも「ヒンナ、ヒンナ!(おいしい)」と絶賛されていて、「これはもう一度試してみねばなるまい」と思った次第。

そう思うと我慢できず、どうやら今度の週末以降しばらく天気も悪いらしいので、「じゃあ、休みを前倒しにしよう」と、仕事をサボる勝手な言い訳を(自分自身に)しつつ、25日水曜日、もう一度三浦アルプスに出向く。

特に迷うこともなく、目当ての場所に到達。とはいっても、たった数日前に行った場所にたどり着けないようなら、それはそれでヤバイ。

白い花が咲いていて形態にブレのない群生のなかから、葉柄を根元までたどって慎重に収穫。それはそれとして、前回……。

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上写真に写っているなかで左上に写っている、やや葉がとがり加減のものはトリカブト、と書いたのだが、今回改めて同じ場所を見たら、それらの株のいくつかからニリンソウのつぼみが出ていた。実際には、

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青丸でくくったあたりはニリンソウで、赤丸でくくったものがトリカブトであるようだ。いいんだよ!毒を安全と間違えなければ、安全を毒と間違うのはセーフなんだよ!

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そんなこんなで、収穫してきたのが上左。現在はタコ糸で茎を縛って、ドライフラワー風に吊るして乾燥中。右はついでに採ってきたアケビの芽。

なお、乾燥についてはネット上の“食レポ”でただ単に干すと書かれていたので上のようにしたのだが、その後さらに調べると、アイヌの古老の話として「一度茹でてから干す」のが正統な手順であるらしいことが判明。この次はそうしよう……(←すでに次がある前提)。

なお、この手の発見は続くもので、いちいち葉山の外れまで採りに行かなくても、もっと近場で群生している場所を見つけてしまった。うん。コロナに倒れるくらいなら、その前にニリンソウを食おう。

●せっかく山に登って、数日前とまったく同じ道を歩くのも面白みがないので、乳頭山下から東にそれて、畠山に向かう。

前回(初めて)登った時には、その畠山も海軍の高角砲台跡であると知らず、まったく遺構のチェックなどもしなかったので、改めて確かめてみたいと思っていた。

前回登ったのは一昨年の5月末。今回も尾根伝いに東京湾要塞地帯標を一四号、一三号、一二号とカウントダウンしながら歩く。

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1、2枚目はどちらも一四号。ちなみに、一四号、一三号は尾根道の鞍部(窪んだ部分)にあって分岐点にもなっているので道案内の標識と隣り合わせ。一二号は畠山の一つ手前のピークにある。なお、一昨年の記事で、参考として「東京湾要塞」の地帯標のページにリンクを張ったが、当時はYahoo!ジオシティーズにサイトが置かれていて、すでにリンク切れになっているので、改めて張っておく(とはいっても、軍事遺構の記事では何度となくリンクを張っていて、最近のものはすでに新しいものに変わっているはず)。

●一二号を過ぎてさらに歩くと、細い尾根道が、砲台道と思われるそれなりの道幅でとても人工臭がする道に突き当たる。最初に畠山に行ったときは、「え? なんでこんなにマトモな道が?」と思ったのだが、砲台道であると判ると納得がいく。

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1枚目は、要塞地帯標のある尾根道から見た砲台道への合流地点。道の向かい側に案内標識が立っている。標識は「← 塚山公園 1.5km」「畠山 0.1km →」。

2枚目は、合流地点から砲台道をやや下ったところから振り返って撮ったもの。標識には、先ほどはちょうど撮影方向で見えなかった尾根道方向を指しているものが見えている。内容は「乳頭山 1.2km →」。写真中央に細く続くのが山頂広場への道。砲台道の常として、ゆるい傾斜で山頂広場を巻くように進む(といってもこの辺りはまっすぐに近い)。

3、4枚目はその山頂広場への途中。現在は下草や灌木が茂って人が通る部分は踏み分け道程度になってしまっているが、本来の道幅は自動車が通れるくらい(機械化が遅れていた日本軍のことなので、実際に資材を自動車で運んでいたかどうかは判らないが)であることがなんとなく見て取れる。

●そして、歩くことわずかで山頂広場に着く。

まずは恒例、終戦直後の米軍による空撮(1946年2月15日、USA-M46-A-7-2-105からの切り出し)。国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。

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これを見ると、山頂に4基の砲座が円弧状に並んでいるが、実際には(いつもの国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」によれば)、終戦時に配備されていたのは一二糎高角砲(単装)3門のみであったようだ。

円弧状に砲座が並んでいるのは、管制上の理由でか、他の砲台でもよく見られる配置だが、特にこの畠山の場合は、実際の地形図と対照すると山の頂部そのものが円弧状になっているためというのが大きそう。

そして現況。

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1枚目は、山頂広場に到着したあたりから北(北東?)方向を撮ったもの。2枚目はそのまま端近くまで歩いて、振り返って撮ったもの。1枚目では中央やや右側(わかりづらい)、2枚目では中央左側に、この山頂広場のヌシ的な石仏(馬頭観音)が写っている。その正面からの写真がこちら(一昨年も同様の写真を上げたが)。

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てっぺんに誰かの忘れ物の手袋。

とりあえず、上写真でもわかるように、現状の山頂広場は周囲が木に囲まれて見通しが悪く、そもそも山頂の平らな部分がどこからどこまであるのか、というのもよく判らない。

配備されたのが一二糎単装高角砲だということもあり、砲座は武山(砲台山)や小坪(披露山)、衣笠のようなベトン製の堅固なものではなく、二子山同様の土盛り/直掘りであったようで、さらに当時の様子が伺いづらくなっている。

上の1枚目写真の左奥方向(2枚目写真の右さらに後ろ方向)の藪の奥を覗くと、緩やかに窪んだ場所があり、もしかしたらこれが砲座あとの一つなのではないか、と思われる。

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もっとも、実際に三次元で(自分の目で)見て、やっと「窪んでるなあ」と判る程度なので、写真で二次元にしてしまうと窪んでいるかどうかも、スケール感もよく判らない。ただの藪の写真で申し訳なし。

そしてもう一枚は、山頂への入り口付近に戻って、そのすぐ脇の藪のなか(上の全景写真1枚目でいうと、すぐ左手)。こちらにはもっと深い窪地があった。

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これは写真に撮っても窪地であるのが判る。とはいっても、上の米軍空撮を見ると、砲台道からの“とっつき”すぐ脇に砲座はなく、むしろ山頂広場の逆側の縁にある感じ。どうもよく判らない。

二子山の場合、探照灯の台座かとされるコンクリート製の構造物などあるが、こちらはそれらも確認できるものはなく、とにかく「言われてみなけりゃ何も判らん」状態と言える。

なお、いつもの通り参考資料は以下の2サイト。

前者の場合、私よりもだいぶマシな遺構確認ができているが、実際には「う~ん。そんなのどこに隠れてるのかなあ」状態。

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ニリンソウ

●前回記事からだいぶ間が開いてしまった。

その間、ちょっと滞ってしまった仕事を片付けたり、(こんなご時勢ながら)川崎の実家に顔を出してついでに墓掃除に行ったり、その帰りに横浜に寄って、遅ればせながらタミヤのルノーR35を購入したり。R35のキットレビュー的なものはまたいずれ。

そんなこんなで、T-34-85は足踏み状態。横浜VOLKSかヨドバシに、AFVクラブかminiartのT-34履帯があったら買ってこようかな、などとも思ったが、どちらも在庫なし。

●昨年秋の台風のせいで、鎌倉のハイキングコースはなお全滅状態(復旧は6月頃とか)。おかげで以前より山歩きの機会が減少中なのだが、たまにはしっかり歩こうと思い、21日土曜日、三浦アルプスの東側を歩く。

特に事前にルートなどは決めず、とりあえず昼食後、逗子駅前に出て、どこか山に入るのに適当な行先のバスが来たら、それに乗って行こうなどという行き当たりばったりなスタート。それでもスマホにYAMAPをインストールしてあるので、道に迷って遭難などといった心配をほとんどしなくて済むのは有り難い。

都合よく、逗子市のほぼ東端である沼間のグリーンヒルに行くバスが来たので、同住宅地の奥から尾根に上がり、桜山大山の馬頭観音、乳頭山を経由して、葉山町の最高峰である茅塚に登る。京急の「三浦アルプストレッキングMAP」によれば、茅塚の標高は212mで、逗子の最高峰である二子山上ノ山より4mほど高い(どんぐりの背比べ……)。

三浦アルプスの南尾根は昨年も歩いているが、尾根道の本道(?)は茅塚のピークは通らず、脇をかすめて通り過ぎてしまうので、登頂は今回が初。とはいえ、逗子の最高峰の二子山上ノ山は簡素なものとはいえ展望台があり、反対側の三浦半島最高峰の大楠山はもっと立派な展望塔に売店(休日限定?)まであるのに比べ、茅塚は頂上に高圧電線の鉄塔が立っているだけで、いささか侘しい。

そのまま茅塚を南側に下り、葉山町の上山口方面に下山。

●上記山歩き途中のあれやこれや。

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1、2枚目:沼間からの登り口途中で道端に咲いていたクサイチゴと、それに来ていたヒゲナガハナバチ。名前にもなっている「ヒゲナガ」はオスのみの特徴。身近なヒゲナガハナバチは主にニッポンヒゲナガハナバチとシロスジヒゲナガハナバチの2種らしいのだが、私には判別の仕方が判らない。

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3枚目:同じく沼間からの登り口途中のヤマザクラ(オオシマザクラ?)。

4枚目:五つ葉の(無印の)アケビ。名越近辺だとミツバアケビのほうが主流で、そちらは濃い海老茶の花だが、こちらは白と藤色のツートーン。花自体はこちらの方が綺麗。ただし、アケビの芽はミツバアケビのほうが太いものが多くて食べでがある感じがする。

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5枚目:山道のあちこちでスミレ(タチツボスミレ)が花盛り。ここでは道端の斜面一面がスミレだった。

6枚目:春山であちこちで咲いているキブシ。この花、おひたしとか天ぷらで食べられるそうだが食べたことはない。

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7枚目:某所でクサイチゴが一面に咲いていた。あと2か月ほどもしたら、クサイチゴ食べ放題? ぜひまた来よう。

8枚目:小さくて目立たないが、濃い紫が綺麗で好き。キランソウ。

●上述のように鎌倉のハイキングコースはなお復旧しておらず、しばらく前に行ってみた朝夷奈切通も惨憺たる有様だったが、とりあえず、三浦アルプスの今回歩いたコースについては、倒木なども道に掛かっている場所は大方処理されていて、通行にはほとんど問題ない感じ。とはいえ、傷跡そのものはまだ各所に残っている。

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2枚目など、倒木がすっかり道をふさいでいるかのように見えるが、一応、人が通る分だけはちゃんと切り開いてある。

なお、朝夷奈切通や衣張山などでもそうだったが、雑木林の二次林では倒木は単発的だが、植林された(そしておそらく放置されている)杉林での被害が目立つ。

●そして茅塚頂上から、逗子の最高峰・二子山を見る。前回記事に載せた写真とは、ほぼ真逆の方向から見ていることになる。下ノ山(左側)の左、遠くにかすんでいるのは江の島。

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●とにかく「危ない山菜」として有名なものとして、ニリンソウというのがある。

何が危ないといって、とにかく、葉の形が猛毒のトリカブトに酷似しているうえに、生える場所までが共通していて、場合によっては混生しているのだ。そのため、誤食事故もしばしばあるらしい。

もっともこれまでは、近辺では(基本、植物の採集が禁止されている)池子の森自然公園内以外では目撃したことがなく、そもそも逗子周辺ではトリカブトのほうがありふれて生えているということもあって、流石に採って食べる機会はないだろう、と思っていたのだが……。

上記山歩きの途中、なんとそのニリンソウの群生を見つけてしまった。

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晩秋・初冬に特徴的な形(烏帽子形)の紫の花を咲かせるトリカブトに対し、ニリンソウはこの季節に白い小さな花を咲かせる(名前の通り、二輪ずつ咲かせることが多いが、一輪や三輪のことも。今はまだ季節が早めなのか、ぽつぽつと一輪ずつ咲いているだけだった)。その点では見分けは容易なのだが、当然ながら、花の付いている株以外は、その他の特徴で見分けないといけない。例えば見分け方の一例はこちら

ちなみに、今回の山歩きでも、トリカブトはごく普通にあちこちに生えていて、このニリンソウの群生のすぐ近くにも、さらに場所によっては隣り合って生えていた。

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上写真の左はトリカブト。右はまさに混生している例で、大部分はニリンソウだが、左上のやや葉が尖って、切れ込みが深く広い感じなのはトリカブト。「なんだ、葉の形が違うじゃないか、これならよく見ればわかるだろう」と思う人もいるかもしれないが、実際には切れ込み具合などは株による個体差も大きいので、まったくあてにならない。切れ込みの根元部分がポチッと白くなるのも両者共通。

……と、まさに「そんな危ないものは食べちゃいけません」的前振りをしていて何だが、せっかく見つけてしまったものに対する興味は拭い難く、根元までよく形状を確認しつつ、味見程度に少しだけ収穫してきた。

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トリカブトは口にすると舌に刺激があるそうなので、いざとなったら吐き出そうと覚悟しつつ、さっと茹でて、胡麻ドレッシングで食した。う~ん。悪くはないけれど、命賭けてまで食べるものじゃないかな、というのが正直な感想。

●と、そこまでなら「まあ、いい経験だったかな」で終わりなのだが、そういえばニリンソウって、「ゴールデンカムイ」のアシリパさんがすごく推してなかったっけ、と不意に思い出した。

改めて調べてみると、アシリパさん曰く、ニリンソウがあると肉の味が倍になる!とまで激推し。えー、あれがー?……と思ったのだが、実はそもそも使い方が違う。アシリパさん風だと、一度ニリンソウを乾燥させて、ハーブ的に煮物(スープ)にどっさり入れるようだ。くっ。しまった。これはもう一度試さないといけないではないか(←懲りてない)。

●食べ物関連でもう一つ。糖尿病が発覚して以来、朝食はケロッグの「オールブラン オリジナル」で通していたのだが(初めて食べた時には「人間の食うものじゃねえ!」と思ったがそのうち慣れた)、なんと生産終了になってしまったらしい。

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ががーん。

なお、不思議なことにメーカーであるケロッグのサイトでは、今なお生産終了のお知らせ等は出ていない。

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最高峰

●東日本大震災から9年。……え、もう9年?

そして日本の(そして世界の)社会はある意味では似たような、ある意味では全然違う「災厄」に見舞われ中。

考えてみれば東日本大震災は「その瞬間」の被害の大きさは途轍もなかったが、その後は(起きてしまった災害によって逼迫してくる状況も処々にあったとしても)基本は「どう復旧・復興していくか」であったのに対して、現在進行中の新型コロナの場合は、普通の生活の中にじわじわと染み込むように広がってきて、しかも「どこまでいくのか」「いつ収まるのか」が全然見えてこないのが違う。いずれ緩やかに収まってくれるのかもしれず、しかしもしかしたら、トータルの被害はとんでもないことになる可能性もあるかもしれない。

東日本大震災の時にも「ワカメ(あるいはノリ)を食べよう」とか「化学工場の爆発で毒の雨が降る」とかいったバカなチェーンメールは来たけれども、今回も「コロナによく効く花崗岩」とか同アオサとか、ウイルスは温度何度/湿度何度で死滅するとか、買い占めとか転売とか――まあ、人間、そうそう学びはしませんわな。

そういえば今回はコンビニの窓に「本日!うろばんが」とか張り出されないですね(今回の場合は日本じゃなくて世界?)。

●二子山の高角砲台跡については、これまでに2度ほどレポートしている。

二子山は、「魚が跳ねた格好」に例えられる逗子市のシッポの部分、「桜山大山」地区の北西側、葉山町長柄との境にあって、標高は東側の上ノ山が208m(山頂の一等三角点のデータでは207.81m)、西側の下ノ山が206m。上ノ山は逗子市の最高峰となっている。

たかが208mとはいっても流石は最高峰。逗子市域の中ではほぼ反対側の小坪近辺からでも、ちょっと高いところに行くと、その寄り添うような、「なるほど、双子なんだな」と思う姿を見ることができる。もちろんしばらく前までは、東南側に山々が連なっていても「うん、山だ」くらいにしか認識していなかったのだが、一度二子山の姿を見覚えると、「あ、ここからも見えるのか」等々気になるようになった。

というわけで、小坪近辺のあちこちから見た二子山。

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最初は名越の大切岸から。向かって左が上ノ山、右が下ノ山。この角度からだと、二つの山の間のV字の谷がくっきりと綺麗。

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次の3枚は久木、法性寺奥の院から。横須賀線と「すいどうみち」の通る名越(久木)の谷戸と、逗子中心市街地越しに見る逗子南方の山々。1、2枚目は数日前に撮った西日を浴びる風景。3枚目は昨年末、お昼前に撮ったもの。

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小坪1丁目の通称「はげ山」から、山の上の住宅地である亀ヶ岡団地越しに見る二子山。

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次の二枚は大崎公園の突端から、逗子海岸越しに見る二子山。名越あたりからするとだいぶ南に移動しているので、二子山も、下ノ山が上ノ山の手前にかぶさるような形になり、間の谷もだいぶ隠れているうえ、手前にある下ノ山の方が高く見える。

逗子の砂浜の右端に見える渚橋の真上には、割と特徴的に三角に尖った山が見える。三浦アルプスの山々のピークのひとつだと思うが、どうも特によく知られた名前がある山ではないらしい。一方、左写真で逗子湾の左下海上に見えるのは浪子不動前の不如帰碑。

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披露山公園から。左は公園の突端から。右は展望台からだが、この季節なので枝の間からなんとか「二子山だな」と確認できる程度。もっとも大戦中は山頂付近に木はなかったので、二子山高角砲台と披露山の小坪高角砲台は、戦闘中は互いの発砲炎などはよく見えただろう。

二子山高角砲台からは、その向こうにある畠山や(先日訪れた)衣笠の砲台の活動も見えたろうと思う。

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披露山の東側斜面、尾崎行雄の「風雲閣」跡近辺から、逗子中心市街地越しに見る。ちょうど二子山の手前に見える大きな白い建物は逗子開成。

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すいどうみち(県道311号)から小坪漁港方面に折れる「小坪街道」上から。1枚目は切通入口近辺から。2枚目はもっと「すいどうみち」側に降りて、第二逗子幼稚園横あたりから。

●我が家のちび(といってももうすぐ小学校高学年なので、だいぶお年頃になってきた)の最近の作品。

「メイドインアビス」のミーティ。

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作品を知らない人からすると、「下手で形が崩れている」と思うかもしれないが、実際にはこのキャラクターはとある経緯から非対称にぐずぐずに崩れた体を持っていて、この(設計も自分でやったらしい)ミニぬいぐるみはかなり的確に特徴を捉えている。猛獣のようなツメは竹串の先を黒く塗って付けたとのことで妙に凝っている。

……そのうち、何か模型製作の下請けを頼みたくなってきた。

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ごみ取り権助(T-34-85 m1943)(5)

●T-34-85 1943年型(アカデミー+グムカ、1:35)製作記。

脱線して、廃品利用で使うあてのない砲塔改造など始めてしまったが、ここで本筋のT-34-85 1943年型の製作が止まってしまってはしょうがないので、前回少し触れた起動輪に関して。

●通常、T-34-85の場合は後期型標準の起動輪が使われているのだが、第112工場製車輛の場合は、T-34-85の1943年型に至るまで、より初期の形質の起動輪が使われていたらしい……というのは、以前に書いた通り。

ただし第112工場製車輛で通常使われているタイプは、少なくともインジェクションでは出ていないようなので、ドラゴンのキットに入っている、より一般的な形質の初期型起動輪から改造することになる。ドラゴンの初期型起動輪は複数のキットに不要部品として含まれているため、改造のベースとしては気軽に流用できる。

なお、先に書いたように、このタイプの起動輪は、第27工場で増加装甲が施された、ピロシキ砲塔搭載型用にも片側分だけ作ったことがある。今回は、そちら用の残りもついでに片付けることにする。ちなみに我が家にはドラゴンのOT-34(112工場製)のキット(#6614)もあって、そちらもキットの指定通りの仕様で作るなら、この起動輪が必要になる。

この際まとめてそちら用も作るか!――などとも思ったのだが、それなりに手間でもあるし、ズベズダから112工場製のピロシキ砲塔搭載型の後期型がアナウンスされており、この形式のまともな起動輪パーツが出てくる可能性が高いことも考えてやめにした(面倒くさかった、というのが第一理由だが)。

●改造作業の第一歩としては、キットの起動輪パーツから外周部分を削り落とすところから始める。

下写真は、左側がドラゴンの初期型起動輪パーツ。右写真は、そのパーツをそのまま組んだものと、下拵えとして外周を削り落したもの。

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今回必要とするタイプへの改修としては、削り落とした後に改めてプラバンからドーナツ状に切り出したリム部をはめ込んで整形するのだが、T-34-85に使用する方は、先述のように、さらにローラー軸部の改造も必要になる。

上左写真で確認できるように、キットの起動輪のローラー軸部は、表側が円錐形のピンエンド、表側がナットの表現になっているが、おそらくナット砲塔搭載型の生産途中から、何らかの理由でこの表裏が逆転している。

単にキットのパーツも表裏を入れ替えて済むなら楽なのだが、実際には、

  • ハブ周りのボルトに関しては、初期も後期も一貫して表がナット、裏がボルト。キットもそのようになっている。
  • ナットに関しては、キットはすべて通常形状になっているが、実際にはキャッスルナットが使われている。

という二つの理由から、地道に軸部のディテールを作り替えることにした。というわけで、下写真は1枚目が外周を削り取った状態、2枚目が新たなリムを取り付けた状態(切り出したプラバンをはめただけで外周は未加工)だが、それぞれ、左側がピロシキ砲塔搭載型用、右側が-85の1943年型用に円錐形のピンエンド部分を削り落としたもの。外周との関係からペンナイフでスッパリ削るというわけにはいかないので、まずは外周と同じ高さまでナイフで削ったのち、自作の小さなノミでちくちくと削り込んだ。これが結構面倒。

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リム部は、1.2mmプラバンに0.3mmを重ねたもの。なお、キットの起動輪は裏側パーツにローラー本体がベタ付けでモールドされているが、これはリムを作り替える際に邪魔になるため、一度すべて削り落とし、リムを取り付けた後で、適度な太さのランナーの輪切りで再生した。

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また、前回書いたように、このドラゴンの初期型起動輪は内外の間隔が割と狭めで、AFVクラブのセンターガイドがやや厚い履帯がうまくはまらない。T-34-85に関しては、今後、どこの履帯を使うか未定だが、念のために中央に0.3mm板でスペーサーを入れた(そもそもドラゴンの他のタイプの起動輪と比べても、初期型起動輪は間隔が狭い)。

●外周をヤスって整形したのち、ホイール部との溶接表現を入れる。T-34-85用のものには、ドラゴンのOT-34に入っていた後期型(戦中仕様)の起動輪からキャッスルナットを移植した。ちなみにこの後期型(戦中仕様)起動輪パーツは、なぜかローラー軸部の表側も裏側もキャッスルナット表現になっている。どういうこっちゃ、ドラゴン……。

実際には、このキャッスルナットはやや大きすぎで、正確を期すのであればMasterclubあたりを張り込みたかったところ。

なお、先述のように、表がキャッスルナットの場合は裏は円錐形でなければおかしい。やはりドラゴンのキットの不要部品で余っているSTZ用起動輪から移植することも考えたが、どのみち履帯と車体に隠れてほとんど見えなくなるので手を抜いた。モールドを削り取るのが面倒なんですよ……。あるいは、結構余っている初期型起動輪パーツの表側を流用する手もあったかも(と、今更思った)。

ちなみにドラゴンのSTZ用起動輪は、これまたなぜかローラー軸部の表側も裏側も円錐形のピンエンド表現になっている。いやホントどういうこっちゃ、ドラゴン……。

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というわけで、一応完成した2輌分の起動輪。ピロシキ砲塔用(左写真)でリム部の幅がわずかに違い、溶接痕もかなり強弱の差があるのは試行錯誤の跡と思っていただければ。どのみち車体に取り付けたら両方同時に見えることはないので、(面倒なので)そのままとする。

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ごみ取り権助(T-34-85 m1943)(脱線編の続き)

●本家「ごみ取り権助(T-34-85 m1943)」は、起動輪の工作で足踏み中。

もしもこの先、AFVクラブの履帯を買ってきた場合でも対応できるように、予め起動輪の真ん中にスペーサーを噛ませておこうか、などと考えていたりするため(AFVクラブの履帯はセンターガイドがちょっと厚い)。

それにしても新型コロナ蔓延が収まるまでは、おちおち買い物にも行けませんな。

20200305_222007 ●その一方で、ひとつ前の記事で触れた、廃品利用のT-34-85 1944年型砲塔の改造作業は(車体製作のあてもないのに)進行中。

基本、アカデミーのキットのエッジを削るだけで、112工場製車体に使われた、比較的一般的な1944年型砲塔の初期型になるのだが、どうせ余り物の砲塔ならダメ元でどんどん削ってもOK、ということで、鋳型の分割ラインが縦横に入った、いわゆる「Cross-Jointed」砲塔を目指してみる。

セータ☆さんのT-34無線指揮車仕様の記事中の説明によれば、この「Cross-Jointed」砲塔は、解放後に復興されたハリコフの第75工場で生産され、ゴーリキー(現ニジニ・ノブゴロド)の第112工場に送られて使われたのだとか。

そう言われてみれば、単に鋳造ラインの違いだけでなく、砲塔の基本形自体も112工場製-85のその他の砲塔(同工場のメインの砲塔供給工場製と思われるもの)とは少々違っている。その辺は後述。

というわけで、砲塔の現状はこんな感じ。

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▼112工場製-85のより一般的なタイプでは(後期のComposite砲塔も含め)砲塔前部がかなり「下ぶくれ」になっている。これは単純にエラが張っているということではなく、実際に砲耳部左右の下面が膨らんでいる。キットもそうなっているので、ここはかなり大胆に削り込んだ。削りすぎて穴が開きそうになったので、慌てて裏打ちしたり。

▼砲塔裾部も全周にわたって丸みを増すように削り直した(そもそもキットは前半部分もかなり「ハードエッジ」だが)。だが、実際こうして写真に撮って見てみると、もっと丸みがあってもよかったような。

▼砲塔の頸部は、実車ではやや裾広がりになっているようだが、キットは抜きの関係か、やや下すぼまりな感じ。若干上の方を削ったが、根本的な修正は行っていない。

▼縦横に走る鋳型の分割ラインは伸ばしランナーでの工作。どうしても溶接ラインとあまり変わらなくなってしまう。単にラインを張り付けるだけでなく、部分的には溝を彫ったりもしているのだが、あまりパッとせず。実際のこのタイプの砲塔の場合、かなり大胆に型ズレが起きたりしているので、いっそ、レザーソーで上下に切り離してしまって、わずかにずらして接着するといった荒業を試してもよかったかも。と、上の段階まで工作してから思った。もう今更やらないよー。

なお、この鋳造ライン(特に横一文字のライン)は、最初に入れたものがどうも位置的に高すぎたようで、結局、一度全部削り落として改めて入れ直した(部分的に二重にラインが入っているように見えるのは、最初に付けた伸ばしランナーのプラ色が残っているため)。

▼ピストルポート部分が角型に盛り上がっているのは、このタイプの砲塔のみの特徴。キットのランナーのタグ部分を貼り付けて整形。前記の鋳造ラインの変更に伴って、この突起も作り直している。最初にキットのピストルポート位置をガイドに突起を付け、それを手掛かりに鋳造ラインも入れたのだが、キットのピストルポート位置が(少なくともこのタイプの砲塔用としては)やや高かった模様。

▼右側面にだけ視察スリットがある。T-34-85の場合、1943年型では両側にあるが、1944年型以降は片側だけ。112工場製(の一般的な砲塔)では最終的に両方ともなくなってしまったらしい。あんまり注意して見てなかった……。

▼後ろ側の写真でバッスル下に見える部分は鋳造の湯口跡(工作途中)。

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▼キットの防盾は、そのまま付けると砲塔前面のカーブとほぼぴったり沿う形になるのだが、実際には、中心部分はやや増厚されていて盛り上がる形になるようだ。取り付け部分に0.5mmプラバンを貼って防盾位置をやや前進させ、そのぶん、防盾左右を円弧上に面取りした。

▼防盾左右の照準口と同軸機銃口は、キットのパーツは単純に穴が開いているだけだったので、一度大きく穴を開け、適当な太さのランナーを差し込んで接着したのち、改めて開口し段付きを再現。スリーブ部分のネジ/ボルト類は未工作。これも砲塔のタイプにより位置や数にバリエーションがあるらしい。

▼キットの主砲パーツは、口径が2mmしかなく(口径70mm!)、いくらソ連の戦車砲が肉薄だといっても明らかに細すぎる。かといって、使うあてのない砲塔に金属砲身を張りこむ気にもならず、そのまま使うかなと思っていたところ、ドラゴンの43年型キットに85砲身が不要パーツで入っているのを発見した。根元で長さを調節して流用。

……それにしてもこの砲塔、どうするかな。

ちなみに、MiniartからはT-34-85の1943年型後期型が発売目前で、同社の「一つ発売したら骨までしゃぶりつくす勢いでバリエーション展開する」という姿勢から考えると、この砲塔搭載型のキット発売もそこそこ可能性がありそう。すでに112工場製車体はあるわけだし。

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おかわり自由

●もしかしたら、以前にも一度書いたことがあるかもしれないが、昔、地下鉄の新宿三丁目駅前にイエローサブマリンのスケールモデルの店があった頃、そのすぐ近所に、えらく人懐こいインド人のお兄ちゃんが、小さなスナックを昼の数時間だけ借りて開いているカレーショップがあった。

「このカレーはネー、ボクがインドで食べていたのと一緒。でもゴハンは日本のお米のほうが美味しいネ」

というそのカレーは素朴ながら美味く(そして安く)、メニューは確か固定3種類と日替わり1種類の4種類だけ。

何と言っても際立っていたのは、普通盛も大盛も同じ値段、しかもご飯が先になくなればご飯、カレーがなくなればカレーと、無限お代わりができたことだった。「それで100円とか高く取っても100万円儲かるわけじゃないし、それよりお腹いっぱい食べてほしいカラ」だそうな。しばらくしてそのお店はなくなってしまったが、あの大盤振る舞いで赤字になって畳んじゃったんじゃなければいいなあ……。

そういえば、これまたずいぶん昔の話だが、ソウル駅近くで韓国人の若いカメラマン氏に連れて行ってもらった、おばちゃんが一人でやっているらしかったソルロンタン(真っ白い牛スープ)屋も、「無限お代わり制」だった。あのソルロンタンも美味かった……。

●なんてことをいきなり思い出した理由。

「ごみ取り権助(T-34-85 m1943)」製作記番外編。

現在制作中のT-34-85 m1943はアカデミーの車体にグムカの砲塔の組み合わせで、当然ながら、アカデミーのキットの砲塔はまるまる余っている。そんな砲塔を手に取って眺めているうち、ついその気になって削り始めてしまった。

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ベースは、キットに2つ付いているうちの初期タイプのほう。大げさかつ不自然な「恐竜肌」だけでなく、バッスル部の「ハードエッジ」も削り落とし、頸部や前半部も削って形状修正するなどして、とりあえず1944年型の初期型が目標。実物写真と見比べると、若干、頸が短いような気もするんだよなー。どうするかなあ。などと思いながらゴリゴリゴリ。

ちなみにこのタイプの砲塔は、現時点ではインジェクションキットではどこからも出ていない(はず)。レジンキットではどこからか出ていたかも。もっとも、そのうちMiniartからは出そうな気もする。

いずれにしても「廃品利用」といえば聞こえはいいが、当然ながらすでに車体は1943年型に使ってしまっているわけで、この砲塔を載せるべき車体がない。もう一個、アカデミーのキットを買うのか?

いかん! これではT-34の無限お代わりに突入してしまう!

ちなみに1943年型の方はちょっとした山場、起動輪を工作中。それについてはまたいずれ。

●直近の模型の買い物。先週の初め、BOOKOFFでMiniartのT-70用履帯が税込950円で売られていたので購入。

タミヤのSU-76Mは、ちょっとだけ手を入れて放置してある。バレンタイン同様、金型代の節約のためか穴のない履帯は不満ながら、それほどガッツリとディテールアップする気にもなれず、「そのままでいいか」とも思っていたのだが、思ったより安く履帯が手に入るとなると、ついつい転んでしまった。

さて、この履帯……。帰宅して開封してみたら、なんと、元の持ち主が入れっぱなしにして忘れていたらしい、パッションのSU-76M用のエッチングセット(タグは外れていたがパーツ自体は手付かず)が出てきた。なんとお得!

……と思ったが、私はすでにパッションのエッチングは買って、一部はキットに組み込み始めているし、この先、タミヤのSU-76Mをもう一輌作る日が来るとも思えないので、別にそれほどお得でもないのだった。中古屋にでも売るか……。

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●兄の発案で、母を箱根湯本の温泉に連れて行くご相伴に与る。計画したのは新型コロナウイルス騒動が深刻化する以前のことで、この期に及んで出掛けるのは如何なものかとも思わなくもないが、母は家から兄・甥と車で往復するのみ、どこに何を観に行くでもなく、宿から一歩も出ない態勢だし、むしろ街にいるよりも、人が減った観光地のほうが逆にマシかもしれないというわけで、そのまま決行。往復、電車で行った私のほうが危なかったかも(平日昼間なので電車も空いていたけれど)。

行き帰り、小田原(小田原市)と辻堂(藤沢市)でマンホールカードを貰った。写真は小田原のもの。配布場所の「小田原宿なりわい交流館」の隣には丸ポストが立っている。

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なお、このあと数日して、マンホールカードがお手本としているダムカードは配布中止になったそうだ(ダム勤務者が新型コロナウイルスに罹患してダム機能に支障が出るのを防ぐためか)。

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