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2020年2月

イシハラi-box溝の口本店の閉店

●いきなり題名と関係ない話だが、新進メーカーであるRYEFIELD MODELS(RFM)から、T-34-85の174工場生産型(T-34/85 Model 1944 No.174 Factory)、およびKV-1の装甲強化溶接砲塔搭載の1942年型(KV-1 Model 1942 Simplified Turret)が発売になるそうだ。

同社ウェブサイトのNEWS欄にもまだ掲載されていないが、同社のfacebookページで発表されたもの。

同社はすでにT-34の中東版魔改造車輛をリリースしているので、元の戦車版のキットもいずれ出すんだろうなあと思っていたが、こちらも(miniart同様)174工場製というちょっと変化球で来た。174工場のT-34-85はすでにAFVクラブからも出ているが、あちらは砲塔の鋳造ラインが前方で斜めに上がっている、かつてザロガ先生が「angle-jointed」と名付けていたタイプ。RFMがアナウンスしているのは、それよりも初期のタイプで、一見、183工場製と紛らわしいもの(とはいえ、両サイドの「ぺったんこ」部分はないし、前部上面の傾き具合も違う)。

仕様の穴を埋めるという点では貴重だが、「形態の独特の魅力」みたいなものには乏しいので、商売的にどうなのかちょっと心配なところ。

KV-1については、掲示されたCG画像は斜め前からの1枚だけだが、かろうじて見えるエンジンデッキは後ろまで水平、砲塔バッスル下には組継ぎの凹みが見えるので、一般的な解釈での「1942年型」(つまり最も装甲が強化された車体に、これまた装甲がもう一段強化されたバッスル下が直線の溶接砲塔)でよいようだ。つまり、イースタン・エクスプレスやトランぺッターでもキット化された、標準型KV-1では最後の頃の仕様ということになる。「ベスポシャドヌイ」号のデカールは付くかな?

個人的には、とうとうインジェクションで後期標準のKV用2分割タイプの履帯が出ることになりそうだ、というのが嬉しい。手元にあるトランぺッターの1942年型用にはフリウルを買っちゃったけど。

●川崎市高津区、溝の口の中央の通り(通りの名前自体は知らない)にある大きい文具店、「イシハラi-box溝の口本店」が閉店になると、がらんどうさんのfacebookの書き込みで知ったのは確か先月末あたり。

同店2階は沿線では貴重な、それなりの規模の模型店だった(特にたまプラーザのB's HOBBYがなくなってからはますます)。閉店のための叩き売りセールが行われているというので、(もう結構前の話になってしまうが)今月初めの8日土曜日、実家に行ったついでに寄ってきた。

もうセールが始まって結構経っていたため、1階の文具売り場も2階の模型売り場も棚はスカスカ状態で、めぼしい商品もあまり残っていなかったが、「これが最後なら何か買っておきたい」と思って、下の2キットを買ってきた(フィギュアなんて作らないのに!)。

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もともとは、まだ再開発前の武蔵溝ノ口駅前に店があり(当時は「石原商店」という名前だった)、その頃も2階が模型店で(さらにその前は書店だったように思う)、私が高校の頃だったか、大学の頃だったかは第一の行きつけの模型屋だった。

当時の専務(本当に専務だったかは知らないけれど、とにかく皆からの呼び名が「センム」だった)が売り場の責任者で、入り浸ってはだべって、時々、箱も傷んで売れ残った(当然売れ残るには理由のあるドマイナーかつ出来も余りよろしくない)輸入プラモあたりを「お店の守り神を回収してあげよう!」などと言いつつ買い叩いたりしていた覚えがある。確か未だに完成していない、ZTSの1:144のPZL 37 ウォシュもそんなふうにして買った一つだった気が。初めて完成させたバキュームフォームキット、レアプレーンのリパブリックP-43ランサーも石原で買ったような、違ったような。うーん。バキューム扱ってたかなあ……。

ちなみにそれよりさらに昔、中学生頃は、東急の溝の口駅の裏手にあったドブ板商店街の中の栗原模型店という、客が2、3人入ったらもう身動きも取れないというくらいの猫の額の模型店が行きつけだった。

何と言うか、釣りの「合わせ」ではないけれども、その辺の店でワイワイとプラモというエサをつつきまわしているうち、いつしかマニアの釣り針がガッツリ食い込んで抜けなくなっていたという次第。

イシハラi-box本店は、同店のブログによれば2月20日に閉店になった由。長らくお世話になりました(結婚して実家を出てからはめっきり行かなくなってしまったので、正確にはi-boxになってからはあまり行っていないのだけれど)。なお、今までの「本店」は畳むけれども、駅前のショッピングモール「NOCTY」内の店は存続するそうだ(ただし、こちらには模型売り場はないと思う)。

●facebookで地元のマンホールの蓋がちょっと話題になったのをきっかけに、個人的に「第二次マンホール・ブーム」襲来中(ちなみに第一次は2年ほど前)。

そんなわけで、改めて地元逗子市内のマンホール蓋について調べたりしているうち、「マンホールカード」なるものの存在を知った。なかなかマニアックなコレクターズ・アイテムとして、時にはメディアにも登場していたらしいのだが、寡聞にして知らなかった。

マンホールの用途にはいろいろあるが、やはり第一は下水道。マンホールカードは下水道に関する広報啓蒙活動を行う組織「下水道広報プラットフォーム(GKP)」が、その活動の一環として、全国各地の下水道の主体となる自治体ほかと共同で発行しているもの。現時点で第11弾まで、計600種類以上が発行されている。GKPによる全種検索およびリストはこちら

それ以前から発行されている「ダムカード」に倣って始められたものらしく、トレーディングカードの体裁で、表面は各自治体等の作ったご当地図柄のマンホール蓋(多くはスペシャル版であるカラーマンホール蓋)の写真、裏にはデザインの由来の説明が書かれる共通フォーマット。写真に撮られたマンホール蓋の緯度経度情報や、デザインに使われているものの種別アイコンなどが添えられているのもマニア心をくすぐる趣向。さらにコレクターズ・アイテムとしてミソなのは、一種類のマンホールカードは、それを作った地域の基本1カ所でしか配布されておらず、しかも一人一枚現地での手渡しのみ(郵送等不可)。こりゃ集めるの大変だわ。

というわけで、本気で日本全国を旅して精力的に収集するというのは(私にとっては)無理な話なのだが、調べてみると、最新の第11弾でお隣・葉山町で発行されたというのが判明。先日、散歩ついでに足を延ばして(平日の)配布場所である葉山町役場まで行って1枚貰ってきた。写真1枚目は、その時記念に町役場の前で、役場をバックに撮ったもの。

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ちなみに葉山のマンホール蓋の通常版は右のようにカラーではなく、カードになっているカラーのスペシャル版は、御用邸向かいの歩道(カードに記された緯度経度)に1つだけ存在しているらしい。この時はさらにそこまで歩く余裕はなかったので、そのうち機会を改めて見に行くつもり。それはそれとして、「はやま・おすい」って、黒田如水のバリエーションみたいな感じだな……。

その後、先日の「衣笠砲台探訪」の後にhn-nhさん、みやまえさんに付き合ってもらって横須賀市役所で1枚貰ったり、なんだかんだで数枚集まった。あとは近場で貰いに行けそうなところというと、藤沢市くらいかなあ……。ちなみに枠部の色は地方ごとに統一されており、関東地方は水色。

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ごみ取り権助(T-34-85 m1943)(4.5)

●T-34-85 1943年型の今後の製作を進めていく上での若干の考証。

アカデミーのキットにおける、112工場製仕様として若干詰め切れていない部分、および、1943年型を作るうえで「バックデート」すべき点については、キットレビューおよび製作記の初回以降でも触れた(それらについては、これまでも書いたように、グムカのブログ記事「アカデミーの車体を、より1943年型らしくする」に負うところも大きい)。

ただ、よくよく当時の写真を見ると、それだけで済まなそうな部分もいくつか目についてくる。

車体工作上で面倒なのは(すでに作業を終えた)ラジエーター上カバーの形状改修だが、工作として厄介、あるいは考証上厄介なネタが主に2つ残っている。今回は作業の進捗報告は無しで、その辺について少々。

起動輪

厄介ネタのその1が起動輪。アカデミーのキットには駆動用ローラーピン頭部分が戦後型のフラットな、後期標準型起動輪が付いている。一方で、転輪を若干初期の仕様に変えようと思って仕入れたMiniartの転輪セットには、表側がキャッスルナットになった戦中標準の姿の後期型起動輪が付いていて、基本、普通の(つまりZIS-S-53装備の)T-34-85の戦中仕様を作ろうと思えば、そちらに交換するだけで済む。

しかし、112工場製車輛の場合、どうやら-85の1943年型は(あるいはZIS-S-53装備の1944年型の極初期も?)ハブの周りにボルト列があり、リム部が別体になったより初期の形質の起動輪を使っているようだ。

実際のところ、起動輪は履帯の陰になって仕様をちゃんと確認できないケースも多いのだが、少なくとも、確かに形状が確認できる写真では(私が見た限りでは)そうなっている。

キットでいえば、例えばドラゴンの1940年型~1941年型キットに入っている起動輪パーツのバリエーションになるが、同工場製車輛の場合は、リム部が2重のリングではなく、ムクの鋼製になっているものが使われているのが普通のようだ。

このタイプの起動輪は、私が知る限りではパーツ化されていない(レジンとか3Dプリントのアフターパーツでは出ているのかもしれない)。

F1015538 右は、以前に112工場製の1941年戦時簡易型(同工場製最初期の、ガソリンエンジン搭載型と言われている仕様)用に、ドラゴンのパーツから改造したもの。ただし、この写真ではローラーピン頭が円錐形だが、標準の後期型起動輪同様、途中から(-76の1943年型あたりから?)キャッスルナットが表になっているため、今回はさらに面倒な改修作業が必要になる。やれやれ……(実を言えば、写真の1941年戦時簡易型用も、まだ片側分しか作っていない)。

ちなみに、-85の1943年型でも使われていることからわかるように、それ以前の112工場生産型では基本すべてこのタイプのはずなのだが、1:35ではドラゴンの「112工場製」と銘打たれている複数のキット、1:48ではタミヤの-76、ホビーボスの「112工場製1942年生産型」のいずれも、この特徴は再現されていない。ドラゴンのキットのいくつかでは、リム部がムクでないごく普通の初期型起動輪パーツが入っているが、後期型起動輪しか入っていないものもある(AFVクラブの1:35の「T-34/76 1942 Factory 112」は3種の起動輪が入っているが、これも一般的な初期型と後期型、およびスターリングラード工場製に使われているタイプの3種のようだ)。

予備燃料タンク支持架

アカデミーのキットの燃料タンク支持架は、(成形上の都合で内側が埋まっているものの)帯金をM字に曲げ、ロッドを差し渡した、183工場仕様と同形状のものになっている。

Marcia_nel_fango しかし、一本の取付けベルトを支持架側で止める183工場タイプの支持架に対して、112工場製車輛の場合は燃料タンクの外側(車体後方から右側タンクを見た場合、おおよそ2時くらいの位置)で止める(つまりベルトは2分割されている)ようになっていて、当然、支持架も別の形状であろうことが推察される。右写真はwikimedia commonsより(パブリック・ドメイン)。

いくつかの写真から、112工場製車輛では、基本、台形の板状の支持架が使われていたらしいことが判る。ディテールが判る鮮明な写真がなかなかなくて苦労するのだが、比較的有名な写真で(しかも-85の1943年型で)しっかり写っている写真もある。

また、これも比較的有名な、ドイツ軍が鹵獲してマーキングを書き込んでいる鍛造砲塔型の-76 1943年型で、やはり台形の燃料タンク支持架のを付けている車輛もある(例えばこのページの写真3枚目)。しかしよく見ると、台形の支持架側面にベルトを止めるベロがあり、支持架側で一本ベルトを締め付ける仕様になっているらしいことが判る。どうやら一般的な112工場仕様の支持架とは違うようだ。これはキーロフスキー工場製だろうか?


●そんなこんなで、112工場製仕様の(特に予備燃料タンク支持架の)ディテールがよりよく判る鮮明な写真はないものだろうか

と思いつつネット上の写真を漁っていると、20年ほど前にエストニアの沼地からサルベージされ、T-34マニアの間でそこそこ話題になった(鹵獲ドイツ軍マーク入りの)-76 1943年型が、まさに112工場製車輛で、前述のタイプの燃料タンク支持架をしっかり付けているのに行き当たった。たとえば以下の2サイトあたりを参照のこと。

すごい! まさに知りたい部分が現存してるんじゃん!

とりあえずネットで漁った写真には沼地から引き揚げている時の写真しかなく、しかし、引き揚げられたのが20年前なら、綺麗にレストアされた(望ましいのはレストアよりも単純に“掃除”されている状態だが)walkaround写真もあるのではないだろうか?――というわけで、facebookで最近加入した「The T-34 Interest Group」で、「誰かそういう写真を知らない?」と質問を上げてみた。

いくつか「いいね!」を貰った後で(「いや、欲しいのは情報なんだ! 『いいね!』じゃないんだ!」と思い始めたところで)、思わずビンゴ!と叫びたくなる、この車輛のレストア中の写真が多数上がっている(エストニア語の)掲示板(スレタイトル:tanki T-34/76 restaureerimine」を紹介してもらえた。なお、ページを開くとべろんと広告が下りてきたりするが、下端の「▲」をクリックすると畳める)。

ありがたやありがたや……。

望んだ燃料タンク支持架部分のみのクローズアップ写真はなかったが、比較的単純な形状だけにここに出ている写真だけでもおおよそのことは判るし、レストア中でバラバラにした写真からは普段は見えない部分も判り、思いがけない収穫も多々あった。とりあえず、これらの写真の“見どころ”を列記してみる。

▼予備燃料タンク支持架は、基本形状は台形の板の台座に、タンクのホールド部分に帯材の付いた比較的単純な形状(ただし右側面最前部の支持架は、上辺にも帯材のようなものが追加されているようにも見える。

台形の左右(というか上下)辺は同じ傾きではなく、若干下側の傾斜の方がキツイような気がするが、よく見ると上辺が揃っていないような気も。単純に切り出しが適当なだけかもしれない。

台座の帯金側の両端に小さな穴が開いていて、ベルトの取付けに関係のある部分だと思われるが、ベルトそれ自体は失われているため詳細は判らない。ここをどうするかが課題だなあ……。戦時中の写真で、これが判るものってないかしらん。

ホールド部分の帯金は、台座がその中心ラインに来るように付けられているのか、どちらかにズレているのかは、クローズアップがないので今一つよく判らない。

また、車体に対しては、台座部分にベロなどはなく、単純に板材を立てた状態で溶接してあるようだ。この写真で、根元に光が差している部分が見えるので、台座は両側と真ん中の3カ所で破線状に溶接してあるようだ。

▼起動輪は、基本初期の形質でリム部がムクになっているタイプ(例えばこの写真)。上で考察したように、駆動用のローラー軸部は、起動輪の表側でキャッスルナットになっている。

また、この写真を見ると、裏側は円錐形の軸頭になっており、要するに、-76の1941年戦時簡易型あたりとこの時期とでは、起動輪それ自体のパーツに変更があったわけではなく、何らかの理由で裏表が逆転しただけ、ということが判る。これはおそらく、183工場製等で先に使われた後期型起動輪においても同様だと思われる(ドラゴンの(戦中型仕様の)後期型起動輪だと、両側ともキャッスルナットになっていたりするが)。

▼履帯ピン打ち戻し板は、アカデミーのキットに入っているような起動輪前方のザブトン型ではなく、より初期の形質である、起動輪付け根部分上方の扇型(この写真ほか)。この車輛はキューポラ付きの43年型で、前面装甲板の組み継ぎもすでに廃止されており、-85の1943年型の直前に生産されていた仕様と考えられる。組立中の-85の1943年型も扇型打ち戻し板にしておいたほうが無難か。

なお。Wydawnictwo Militariaの#275「T-34/85」では、-85でも初期(1944年初頭)には前面装甲板が組み継ぎのものが生産されたとする図面を載せているが、これはちょっとアヤシイ気がする。

Tr50l12 ▼履帯は、引き上げ時の写真では泥のために詳細が判らないが、レストア時の写真で、後期500mmワッフルタイプのうち、センターガイドのついている履板のリブが両側目一杯まであるバリエーションであることが確認できる(レストア時に他から持ってきて交換されていなければ)。

右画像は、一番上がこのタイプ。中がより一般的な500mmワッフル。ガイドが付いていない方のリンク(下)は通常タイプで変わらず。矢印は正規の取付け方向における履帯の回転方向。

-85の1943年型でも、パターンがしっかり確認できる写真ではこのタイプを履いており、贅沢を言えばこのタイプを履かせて作りたい気がする。……が、このタイプの別売履帯なんて出てたかなあ。

▼サスアームはあらまあびっくり。183工場ではおそらく1942年型の中途くらいから使われ始めた角形断面ではなく、より初期の形質である丸形断面のサスアームだった(ただし、STZの1942年生産型同様、根元の外れ止めはすでに導入されている)。主にこの写真より。

また、第1転輪用アームは、ドラゴンがパーツ化している初期型アームとは違い、車体側軸部頭が第2転輪以降用と同形。つまり、ドラゴンがパーツ化している初期型の丸形アームと、後期型の角形アームの中間的な形質ということになる。私がSTZ 1942年生産仕様を作ったときには、第1転輪用アームはキットのまま使ってしまったが、STZでも1942年生産型あたりはこの形状になっている可能性がありそう。

なお、第2~第5転輪用サスアームは左右の互換性はないが、第1転輪用は上下にダンパー受けがあり、左右同形になっているらしいことがで確認できる。

ちなみにドラゴンの「OT-34/76 Mod.1943 (No.112 Factory)」では、丸形断面の初期型アームも入っているが不要部品扱いで(外れ止めのベロも無し)、角形断面のアームを使うよう指示されている。

しかしこの時期、まだ丸形断面のアームを使っているとなると、-85の1943年型も丸形サスアームの可能性があるかもしれない。

▼第一転輪サスアーム用のダンパーがダブルになっているが、2つのダンパーの間に隙間はなく、台座はピッタリくっついている(この写真)。アカデミーのキットをそのまま作ると、若干の隙間が開く。まあ、転輪を付けたら見えないからいいけれども。

▼転輪は、引き上げ時の写真ではよく判らないが、リム部のゴムは「穴・刻み目あり」多数に、「穴のみ」タイプが混じっているのがこの写真で判る。面白いことに、一つの転輪の内外で違うタイプのリムが使われているものも(この写真)。

誘導輪は小穴の縁に盛り上がりがあるタイプ(この写真)。というわけで、私の-85 1943年型は、Miniart製ではなく、やはりアカデミーのキットの誘導輪を(ハブキャップを加工して)使うように再び路線変更するとに。

▼現時点で私のT-34-85には付けていないが、どうやら-85の1943年型でも、この車輛同様、車体機銃防盾直下の跳弾リブは付いていそうな感じ……(鮮明な写真がなく、有無が判りづらいが)。

ちなみにこの写真では、その跳弾リブのほか、私が112工場製車輛の特徴の一つと考えている誘導輪位置調整装置のボルト頭の「でべそ」もしっかり確認できる。また、-76の43年型ですでに角形ノーズ(前端のコーナー材)が存在することも判る。

操縦手ハッチの写真で、ペリスコープカバーが付く部分の外側左右に、正体不明の円筒形の小突起が確認できる(しかも左側は1/3ほど削れている)。よくよく資料写真を見直すと、112工場製1941年戦時簡易型の現存車輛でも同様の突起が確認できるものがあった。謎。

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ごみ取り権助(T-34-85 m1943)(4)

●T-34-85 1943年型製作記。車体のベースはアカデミーのT-34-85(第112工場製)キット、砲塔はグムカのレジン製初期型、ほか、ミニアートの転輪などなど。

Miniartの1943年型発売の報に驚きつつも、向こうの第一弾はキューポラが移動した後期型だし、初期型が発売されるまでに完成させたいなあとか、いやいや、燃料タンク支持架の形状がよくわからないから、Miniartが発売されてからこっそり参考にしようかとか、なんだかグダグダな製作姿勢。

●グムカの組立説明書では、各部の手すりには0.6~0.8mm径の真鍮線、逆U字の砲塔の吊り下げ金具は0.5~0.6mm径の真鍮線が指定されている。

手元に0.8mm径はあったが、これだと手すり用にやや太い感じ。エンジンルーム上カバーのキットの手すりパーツ用のダボ穴にもキツかったので、改めて0.7mm径を買ってきて工作した。

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車体側面の手すりは、グムカのブログ記事を参考に、やや位置を低めて取付け。グムカの記事同様、左右とも前方に2つ、左面は後端にも1つ取り付けたが、前方は3連(砲塔裾部ガードの後ろにもう一つ)になっているものもあるようだ。

車体前面左右の小さな手すりは、第38独立(火炎放射)戦車連隊“ドミトリー・ドンスコイ”の集合写真を見ても、付いている車体と付いていない車体がある。個人的に、ここに予備履帯を挿しているのがちょっと小粋な感じがして(?)再現したかったので取り付けることにした。エンジンデッキ後部のメッシュをまたぐカーブした手すりも、付いている車体と付いていない車体があるようだが、まあ、もののついでで。

いずれにせよ、これらの手すりは112工場製車輛の特徴でもあり、ということは工場で取り付けられているのではないかと思われるのだが(少なくとも同工場製のピロシキ砲塔の1941年簡易型の後期型ではこのへんの手すりはビッシリ付いている)、それにしてはこの個体差の大きさは何なのだろう? 工員が勝手に自己裁量で付けたり付けなかったりしている? そんなことあるかなあ。

とにかく付け終わってから眺めると、0.7mm径でもちょっと太かったかも、と思わなくもない。砲塔の吊り下げ金具は手元にあった0.5mm径の燐青銅線。この部分は、レジンパーツ側にもともと溶接痕がモールドされているので、金属線の金具との間に不自然な隙間ができていないか、サーフェサー後にきちんと確認する必要がある(備忘メモ)。

手すりも取り付けたので、車体上下を接着。車体前端のコーナー材や前後のフェンダーも取り付けた。

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そもそも溶接痕というのは、国により/時期により/メーカーにより/車輛により/部材の厚みや形状により、その見た目は結構違いがあるのだが、私が模型製作する上では、毎度伸ばしランナーの溶かし潰しの一つ覚えということもあって、なかなか表情の差が付けられないのが現在の課題。

今回、車体前端のコーナー材の溶接痕は細い伸ばしランナー2本で、ソ連戦車によくある「うね」表現を付けてみたが、「いまいち」レベルの仕上がり。

前部フェンダーは削ったり曲げたりして若干のダメージ表現を付加。とはいえ、側部フェンダーにヨレ表現を入れづらいので、あまり派手なダメージは入れていない。また、前部フェンダーの車体への取付けベロ部分は、キットのパーツのままでは厚みがありすぎ、段差が大きく実感に欠けるので、削り取ってプラバンで作り直した。車体への取付けリベットも、キットのパーツでは4つだったが、少なくとも1943年型の場合は3つが通常のようだったので、そのように修正。

右前部フェンダー後端近くには、ワイヤーロープ固定用のコの字金具を追加。グローサー取付部同様、Miniartの足回り枝に入っているパーツを使用。同社転輪セットを買うと10個付いてくるので、(グローサーとワイヤー取付用だけなら)1輌分賄える。ここに金具があるからには、車体後部にもこれに対応する金具があるはずだが、燃料タンクステイとの位置調整も関わってくるので、現時点では付けていない。

こういう小金具は金属線で作るのが常道で、確かにMiniartのパーツはど真ん中にゲートがあったり折れ易かったり面倒ではあるのだが、脚が寝ていて(模型工作上)貫通状態で取り付けられないものに関しては、位置決めと接着がしやすいプラパーツのメリットは捨てがたい。

なお実車の場合、この金具があってもワイヤーロープは前面フックに繋いでしまっているほうが一般的のようだ。

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車体機銃の防盾はキットのパーツを使用したが、ドラゴンほどではないものの照準穴が大きい感じだったので、一度埋めて、戦中型仕様の小さな穴に開け直した。銃身は真鍮パイプに交換。


●朗報!

ひとつ前の記事にご本人からコメントを頂いているけれども、「ACHTUNG PANZER」著者でもある尾藤満氏のサイト、「Panzer memorandum(パンツァー・メモ)」が再開された。

旧サイトが閉鎖された際には、「なんで記事を丸ごと保存しておかなかったんだぁあああ!」と「足摺りをして泣けども甲斐無し」(伊勢物語)状態だったので、これは嬉しい。現在未掲載のIII号戦車初期型も記事にならないかな……。

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衣笠高角砲台再訪

●我が街・逗子と、その周辺の軍事遺構、特に高角砲台に関しては割と積極的に訪ね歩いているのだが、衣笠高角砲台は基本、何の手入れもされていない状態で、昨夏チャレンジしたときには笹薮に阻まれて結局山頂の砲台までたどり着けなかったのだった。その時の探訪記はこちら

そもそも草深い夏に行くのがいけないのであって、冬になったら再挑戦しようと思っていたところ、hn-nhさんが計画に乗ってくれ、さらに比較的ご近所のみやまえさんも加わってくれたので、勇気百倍で出掛けることにしたのだった。

衣笠高角砲台についての基本的な事項は、毎度お世話になっている以下の2サイトを参照のこと(おんぶにだっこ)。

また、現地を訪れるにあたっては、以下の探訪記あたりを参考にした。

●そんなわけで6日木曜日、平日昼前にJR衣笠駅で集合する。hn-nhさんとはここ数回の年末の東京AFVの会で顔を合わせていて、みやまえさんとはネット上でそれなりに長くお付き合いがあるが、直接お会いするのはたぶん初めて。駅前のモスバーガーで軽く昼食をとって出発(というと、さっさと出掛けたように聞こえるが、実はここですでに模型談議その他でそこそこ時間を費やした)。

前回一人で行ったときには「しょうぶ園」までバスに乗ったのだが、今回は、先人の探訪記で「ふもとの兵舎跡」と紹介されていた遺構も見たかったので、最初から歩きで目的地に向かう。

こちらのサイトでは衣笠中学校の南西と書いてあったので、学校にほぼ隣接しているのかと思ったが、実際にはもっと(直線距離で300m程度?)西。畑の中にコンクリートの、何かの基礎のようなものが露出している。

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かなり細長い、中央横一直線の入った長方形(仮にA枠とする)。その向こう、写真向かって右には、深めのバスタブ状のものが複数(B枠)。逆に最初の長方形の左の向こう側には背の低い長方形(C枠)。

それぞれが個別で何かの建物の基礎だったと考えるには小さいので、これ全体を覆うような建物の、水回り(例えば炊事場とか風呂とかトイレとか)だろうか。バスタブ状のB枠は、一部が地面から浮き上がったり、またその結果としてやや傾いだりしているが、下辺の処理を見るに、移動可能のものを単にそこに置いたというのではなく、もともとその場所にあったものが、下の土が流れて下辺が露出してしまったふうに感じられる。最後の写真はA枠の一部を接写したもの。綺麗に丸くなった川砂利が使われていて、それなりに古いものであろうことは推察できる。

●ここで(いまさらの)ロケーションのおさらい。

まずは現状。オープンストリートマップ(OSM)より切り出し加工。

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①:衣笠駅 ②:上述のふもとの遺構(と思しきもの) ③:現在ある道から、半ば藪に埋もれた旧砲台道への分岐 ④:砲台推定位置

地図内のオレンジの枠線は、下の米軍撮影空中写真(国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。写真整理番号USA-M46-A-7-2-129、1946年2月15日撮影)で切り出した部分(おおよそ)を示す。

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●ここで改めて、上のふもとの「兵舎らしき遺構」を確認してみる。米軍の空撮の当該部分を拡大してみる(上写真の上側の黄枠)。

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これを見ると、1946年2月時点で、すでに目立つ建物等は残っていなかったように見える。写真写りの問題なのかもしれないが、上で、元からそこにあったように見えると書いたB枠相当のものも確認できない。こうなると、兵舎だったのかどうか(そもそも砲台に付随した施設だったのかどうか)も若干怪しくなってくる。とりあえず「古そうなもの」なのは確かだが、実際は何だったのか。地元で話が伝わっていたりしないだろうか(畑に人がいれば聞けたのだが)。

●「兵舎らしき遺構」の先辺りから、足元は砂利道になる。OSMでは破線の細い山道が2本描かれているが、外側(西側)のほうを歩く(東側への分岐は気が付かなかった)。道幅からも、上の空撮からも、こちらがもともとの砲台道だったように思える。

夏には藪に埋もれてすぐには判らなかった山頂への分岐(上の地図の③、下の空撮写真切り出しのAポイント)だが、藪が薄くなり、踏み分け道も判りやすくなっていた。「これは山頂の砲台まで、割とすんなり行けるのでは」と期待も高まる(というのが大きな間違いだったのが後に判明する)。

夏に登った時からあった気がする古い倒木や、昨秋の台風で新たに倒れたと思しき倒木なども時に乗り越えたりくぐったりしつつ、中腹をぐるりと時計回りに巻いて進む。そういえば今回は、途中の山道の写真は全然撮らなかったな……。

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改めて、砲台周辺のみの切り出し拡大(最初に掲示した空撮写真のおおよそ下黄枠部)。砲台の北東側(おおよそBポイント)には、前回も入り口写真をUPした洞窟がある。その近くには外方向への分岐があり、何らかの付随施設があったらしい(Cポイント)。夏に行ったときには気付けなかったが、今回はその分岐が(誰かが草を刈って踏み分けたような跡があり)判り、その先の藪の中には、コンクリートの基礎が確認できた。

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いや、まあ、この写真だとただの藪にしか見えないけれど……。

「本道」に引き返し、そのまま割とまともに踏み分け道っぽいルートを道なりに進むと、前回も確認できた足元のコンクリートの基礎群、およびその先には高さ約2mの直方体の建物に行き当たる(Dポイント)。空撮写真を見ると、小さな建物群が固まっていたようにも見える。聴音所、もしくは計算所等の施設だったのではと考えられる。

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「このへんは前回結構写真を撮ったから」みたいな意識でいて、あまり真面目に撮影していない。いかんね。

1枚目は、一群の「主役」的な直方体の建物を計測するh隊員とm隊員。この建物はレンガ積みの上からコンクリートをかぶせた構造で、2枚目は建物の入り口内側のコンクリートが剥がれてレンガが見えている箇所。3枚目はやはり入り口脇の外側頂部付近で、レンガが段ごとに長手と小口が見えているイギリス積みであることが判る。この建物は頂部も一部は崩れているものの、この部分を見るとレンガ+コンクリートの本来の高さもここまでで、この上はもっと簡素な造りの屋根が乗せられていたのではと思われる。

●少し引き返し、改めて山頂広場方面への道の痕跡をたどる。前回はほんの少々進んだところで笹薮に阻まれ、それ以上進むのは断念した。それに比べると、今回は季節柄、まだ進みやすい……と思ったのも束の間。

おそらく、上空撮写真のEポイント近くまで進んだあたりで、濃い笹薮に突っ込んでにっちもさっちも行かなくなってしまった。なお、空撮ではEポイントに何らかの小施設が確認できるが、今回は(とにかく藪を漕ぐのに必死で)その基礎等痕跡は発見できなかった。

せっかくのリベンジなのに、前回からさほど進歩もなく諦めるのは悔しい……というのに加えて、今回は、酷い目に遭うにしても2人も道連れがいることもあって(失礼)、なんとか強行突破できないか、やや戻ったポイントから山頂に向けての斜面を突っ切ってみることにする。

冬だから藪が薄くなっている、と言っても、笹薮の笹はそのまま濃密に茂っていて、それをかき分けて進む。笹の細かい枯れ葉のかけらとか、枯れ枝のかけらとかが頭上からパラパラ降ってきて、襟から背中に潜り込んだりして散々な思いをする。後からみやまえさんに「あの段階から進もうとするとは思わなかった」と言われたが、いや、絶対に一人なら進んでません。なお、この時の様子は(藪漕ぎが大変すぎて)まったく写真に残していない。

「とにかくこの先にあることだけは確かなんだから」という思いだけで進んで、登り切ったあたりで砲座の遺構にたどり着いた。

●すり鉢型の砲座は、基本、小坪高角砲台(披露山)や武山高角砲台(砲台山)と同形で、配備された砲も同じ四十口径八九式十二糎七高角砲 。国立公文書館アジア歴史資料センター所蔵の「砲術科兵器目録 横須賀海軍警備隊」(終戦直後にまとめられた各陣地の配備品ほかのリスト)によれば、終戦時には同砲2基4門。上空撮写真でいえば、ET顔の陣地の左右両目の部分が砲座で、下側の2連の◎はやや小さいので、測距儀とか聴音器、探照灯とかだろうか。

たどり着いた砲座自体、ほぼ藪の中に埋もれていて見通しも悪く、基本、部分写真しか撮れなかった。

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上の3枚はすり鉢状の砲座の内壁。1枚目、弾薬仮置場とされる壁龕の向こうには小さな通路が見える。最初はこれが砲座への入り口階段かと思ったのだが、披露山や砲台山の入り口階段より明らかに狭く、階段それ自体もない。後から、入り口階段はさらに向こうに別に存在していたことが判明したので、これは、披露山や砲台山の砲座にはなかった(塹壕状の)小通路の口らしい。披露山と砲台山にも違いがあるので、同じように見えてどこも何かしら独特の部分があるようだ。

2枚目写真はその小通路口からさらに向こう側を撮ったもの。3枚目写真はさらに進んで、待避所(?)入口から振り返って小通路口、壁龕を撮ったもの。

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壁龕2か所。内部のコンクリート肌は風雨にさらされることもなく、非常にきれいなままに残されている(ただし1枚目の壁龕は入口近辺が若干崩れている)。

待避所は、すり鉢状の円周から一段窪んで入り口の壁面があり、その奥に部屋があるという二段構えだったようだ。円周から一段窪んだ両側は径方向に壁面を切っているので、入り口との壁面は鋭角で接している(判りにくい説明)。以下、待避所のディテール。

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上部はコンクリートが崩れた跡があり、もとはコンクリートの天井があったものが崩落したらしい。高さから考えると、現在は落ち葉等々で埋まっているが、砲座よりも一段低く作られている可能性もありそう。現在は露天になってしまっているが、壁面は壁龕同様に滑らかな状態が保たれている。

待避所のさらに向こうに、本来の砲座への入り口だった階段跡が発見できた。現在は両側の壁が残っているだけで、階段自体は崩れてなくなってしまっているが、側壁に階段の跡が認められた。

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ちなみに、この入り口階段はほぼ北を向いていて、その向こうは、少し先から北東方向に急斜面になっていた。したがって(藪の中でだいぶ方向が怪しくなっていたが)、我々がたどり着いたこの砲座は山頂陣地の東側のもの(上空撮のFポイント)だったと思われる。

砲座の中央には、もともと四十口径八九式十二糎七高角砲が据え付けられていた穴が残っている。これは披露山や砲台山ではすでに埋められてしまっている部分。

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コンクリートが2段(?)の円筒状に窪んでいて、これは、公園に改装される前の披露山の砲座でも同様だったことが判っている。

本来はこの周辺に指揮所と思しき建物跡やもう一つの砲座もあるはずなのだが、とにかく藪が深く、「もうここに着いただけで十分」という気分になっていたため、この砲座の探索だけで引き返すことにした。なお、帰途の藪漕ぎでも途中で方向がよくわからなくなり、道を外れて登り始めた場所ではなく、最初に「ここは藪が深くてこれ以上進めないよ」と言っていた場所に到着した。いい加減だなあ。

なお、山頂広場をかすめてそのまま西に行った場所には、兵舎らしき大きな建物があったらしいことが空撮でわかる(Gポイント)。

●帰途、行きにはスルーした壕(Bポイント)を覗く。

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入口近辺は素掘りの荒々しい岩肌だが、数m先からはコンクリートが巻かれた壁面に変わる。1枚目が入り口近くから奥を覗いたもの。2枚目はやや進んだ位置から。突き当りから通路は左右に分かれ、壕全体はT字型をしている。古い自動車シートやカブの残骸などが落ちていて、かつてはゴミ捨て場か物置かになっていたようだ。3枚目はT字に分かれた左側で、右側も似たような構造。両側に小部屋のような壁龕が並んでいる。本来の用途は弾薬庫だろうか。「東京湾要塞」では「発電機が置かれていたのではないか」と推察している。

コンクリートのアーチ状の壁面には、型枠跡もはっきり残っている。……そしてこの季節にもしぶとく活動しているオオゲジがいた。

●倒木だらけの踏み分け道程度で、「人間の通る道に戻ってきた」としみじみと語るみやまえさん。「人間の通る道」のハードルがものすごく低くなってる……。

その後、「もっとちゃんとした人間の通る道」まで戻り、前回同様、衣笠城址を経由して、バスに乗って横須賀中央まで。

いつも一人で山歩きする時には昼食をとってからのんびり出掛けることが多いので、山から下りてきたころには夕方になってしまうのだが、この日はまだ時間がたっぷり。三笠公園でコンビニコーヒーを飲んだり、(このところ個人的に第二次マンホールブームなので)ふと思い出して横須賀市役所に行ってマンホールカードを貰ったり。

夕方までぶらぶらし、その後、3人で軽くビールで乾杯し解散。実り多かった……。hn-nhさん、みやまえさん、どうもありがとうございます。

なお、今回の探索行ではhn-nhさんがレーザーポインターで遺構の大きさ等をいくつか計測していたので、もうちょっと中身のあるレポートが、いずれhn-nhさんの「ミカンセーキ」に載るかもしれない。


●娘に、「私がお金を出すから、代わりに『メイドインアビス』の映画を観に行ってほしい」と言われ、私自身、「メイドインアビス」というマンガ/アニメは好きなので断る理由もなく、金曜日、川崎の実家に行くついでにいそいそと観に行く。

そもそもなぜ「娘の代わりに」なのかというと、上映週ごとに変わる入場特典のプレゼントがあり(しかもその中にも種類があって何が当たるかはランダム)、娘はすでに2回もこの映画を観に行ったのだという。さらに、本編上映前に映されるオマケ短編も週替わりなのだそうだ。何そのAKB商法。最近の映画、あざと過ぎる……。

とはいえ映画そのものは面白く(というか切なく悲しく)、しかももう4週目の平日ということもあってガラガラで、ゆっくりと楽しむことができた。内容自体は「to be continued」(そもそも原作もまだ終わっていない)、放映時期は決まっていないものの、テレビ第二シリーズに続くのだそうな。

ちなみに貰ってきた入場特典は5種類?の絵柄の付箋紙なのだが、まさに娘が欲しいと思っていたものがピンポイントで入っていたとかで狂喜していた。その絵柄というのが、ボンドルド(いわば敵役)の手下。欲しがるものがマニアックすぎる。

●ひとつ前の投稿への青木伸也氏のコメントで「タミヤの新KVについてmissing-lynxでは『砲塔がちゃんと左右非対称になっとるんかいね』という話題が出てる」という話を聞いて仰天。知らなかったよ……。

というわけで、青木氏同様、慌てて手元の資料をひっくり返して見たのだが、

  • フロントバヤの「イストリヤ・タンカ・KB」上下(2002年?)
  • Wydawnictwo Militariaの「KW vol.1」no.163(2002年)
  • タンコグラードの「KV-1」上下(2005年)

と、すべて溶接砲塔は非対称に描かれていた。下の写真は、フロントバヤとタンコグラードの、それぞれ1940年型エクラナミの平面図ページ。

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エクラナミを選んだのは、増加装甲で左右に広がっているために、車体側面との距離がぱっと見で分かりやすかったため。

いずれにしても、少なくとも20年近く前から、「知っている人は知っていること」だったわけで、乗り遅れ感が甚だしい。KVマニアを堂々と名乗る資格なし!

さて、これに関してはhn-nhさんが新橋のタミヤ・プラモデル・ファクトリーで見本を確認してきたというのを(上の衣笠砲台探索行の際に)聞き、写真も見せてもらったが、しっかり非対称に、左が右より前方に絞った形状になっているようだ。この詳細に関してはhn-nhさんの「ミカンセーキ」の記事を参照のこと。

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