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2019年11月

東京AFVの会2019

●11月22日は「いい夫婦」の日だとか。翌11月23日は「いい兄さん」の日で祝日。私には弟も妹もいないので特に兄さん的なことをすることもなく、例年よりも1カ月ほど早い東京AFVの会に出かける。

●今年のAFVの会のテーマは「ソ連(ロシア?)」で、ネタとして該当するストックは「一山」で形容してもさらに余るほどあるのだが、結局のところ、何の完成品もなし。

「とりあえず格好だけでも、何か1つでも作品を持って行こう」と思って、直前、IBG系の1:72キット(III号戦車A型、II号戦車a1~a3型、II号戦車b型、II号戦車D型)を塗り始めたのだが、基本のグレーを吹いた後、III号A型の尾灯パーツを折って修復したところまでで断念。

●というわけで、生憎の雨の中、下北沢へ。ケン太さん、hn-nhさん、1-colorさん、めがーぬさんらと久々に会う。遅れて“ハラT”青木氏もやってくる。話のタネに作りかけのクブシュの装甲車体(だけ)を持って行ったので、それも肴にあれこれ話をする。青木氏はますます膨らんだように思ったが、「一週間ぶりに会う人にさえそう言われるが体重は変わっていない」と言い張る。……去年も同じような会話をしたなあ。しかし膨らんだように見えること自体は確かなので、

  • 重さは変わらないが体積は増えている(比重が軽くなっている)。
  • 私を含め周囲の人間は「そろそろ心を入れ替えて多少は絞ってくれるだろう」と心で密かに期待しているため、見るたびに膨れていくよう感じる。

のどちらかではないかと思う。健康診断でバスタブに湯を張って体積を測る「アルキメデス法」を導入してくれれば前者はすぐ確認できるのに、などと話す。

なお、ケン太さんから昨年の参加記に関し、家族サービスを放り出して飲み会に参加したといったように書かれていたことを奥様に読まれて激しく責められた旨クレームを入れられる。済みません、ケン太さんの奥さん。今年もご主人をお借りしました(割と早めに解散しましたが)。

ほかにも、中尾さんとか野田君とか、一年でこの時にしかお会いしない方々と会って歓談。ものすごく久しぶりに金子なじりんにも会って、シャーマンの話を少ししたり。

20191124_145632 以前に約束していたので、エレールの1:72コードロン・シムーンを持って行き、hiranumaさんに進呈。反対に、昨年シムーンを進呈したhn-nhさんから、シムーンのサンテグジュペリ乗機用自作ドライデカールを頂く。立派な額縁入り(スチレンボード製)で、もうこのまま飾っておきたいような(hn-nhさん曰く、ドライデカールなので下手にこすれると剥離してしまうため、だそうな)。なんだか毎年、hn-nhさんに何か頂いている(昨年はマチルダの予備履帯と72のアエロサンを頂いた)。

hn-nhさんのシムーン用デカール自作の記事はこちら。サンテックスのシムーンには、この「F-ANRY」と「F-ANXK」の2機があり、たぶんこちらが一代目。このサイトによれば、「F-ANRY」の製造番号は7042、1935年7月に発注され、9月にサンテックスに納品。同年12月末、パリ-サイゴンの記録飛行に飛び立って、エジプトの砂漠に落っことした由。この不時着体験が「星の王子さま」の下敷きになったとされている。

●会場で写真を撮り始めてしばらくしたらバッテリーが切れかけて充電を始めてしまったので、集まった作品のごくごく一部、知り合いの作品と気になった作品のいくつかしか撮っていない。もちろん、数時間充電して閉会間際にまた頑張って撮ればよかったのだが、自分で作品を持って行っていないと、そのへんのモチベーションも少々低調。

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最初の2枚は1-color氏の八九式甲型、西住中尉車。防盾外側の薄い鉄板製らしいカバーを自作、リベットとネジが混同されている部分を直したりしている由。

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ケン太さんのIS-2(タミヤ1:35)とめがーぬさんのT-35(S-model 1:72)。ケン太さんは「青木さんが来たら直立不動で厳しい指摘を聞かなくてはならない」と言っていたが(1,2割は本気だった気がする)、ケン太さんが泣くほどの指摘はなかった様子。くしゃっと潰れた右前部フェンダーは、ステイ途中の接合部が外れている状態がなかなか“芸コマ”な感じがしたのだが、クローズアップを撮り忘れた。めがーぬさんはいつもながらミニスケールも仕上げが丁寧で素敵。

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hn-nhさんのT-60。特別賞(hn-nhさんのブログ記事によれば「熱田賞」)を受賞。この写真では判りづらいが、アクシデントで砲塔ハッチが取れかけ。いずれにしてもこの作品に関しては、私の下手な写真よりも、hn-nhさんご自身による記事で各方向からのいい写真を見た方が話が早い。

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hiranumaさんの、タミヤ製をバリバリにチューンナップしたケッテンクラート。自作サボテンも、これはこれで一つの作品な気がするので、こちらにピンが当たっている写真も。

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中尾さんのバンダイ1:30フンメルと、モノグラム1:32のラング。フンメルはモーターライズが活かしてあって走る。元キットはモーターライズの影響で床板が高く、さらにそこから砲の俯仰を利かせようとしたためか戦闘室装甲が無暗に背高になっている(説明書の見本写真を見せてもらったが、確かに「なんだこりゃ」なスタイルになっている)。作品は装甲板を上部で大胆に切り詰め、砲も背を低めてスタイルを改善させている労作。ちなみに中尾さんは昔にもこのキットを手掛けたことがあり、その時にはスタイルが気に入らなかったのでフンメルとして作るのを諦め、砲だけ使ってsFH18を作ったとかで、写真も見せてもらった。

以下は会場で見て気になった作品の写真をランダムで。

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1枚目。ソミュアS-35の揃踏み。エレール製とタミヤ製の作り比べ。タミヤに比べるとエレールのキットはかなり古いキットなのだが、実際には、砲塔の形がだいぶ変であることを除けばそれほど悪い出来ではない(この作品では砲塔形状をいじり、履帯をタミヤのものに交換してあるそうな)。とはいっても、実際に2社のソミュアを作って並べるのはすごい。

2枚目。レンドリースのM4A2。タスカ製? レンドリースのM4A2は私も作りたいアイテムで、他人の作品を見てもいつも気になる。とはいっても、私自身はシャーマンのリサーチ自体も甘いし、持っているキットもドラゴンの旧版だし。

3~5枚目。スクラッチのルノーNC。砲塔はMENGのものだそうだ。

6枚目。タウロのフィアット3000。履帯はme20さんも使っていたブラチのものだろうか?

●何はともあれ、やっぱり自分の作品を持って行かなきゃいかんなあ、と反省しきり。写真をあまり撮っていないのも、自分の作品がないゆえに、「み、みんなの作品が眩しくて見られないよ!」的引け目もあったため(という訳の判らない理由を言い出してみる)。

とにかく来年は何かしら持って行こう……作りかけのアレとかアレをちゃんと何とかしよう。と、心に誓う(いつまでその気持ちを維持できるかが問題)。

なお、来年の課題はすでに発表されていて、「1919年から現代までのドイツ車両」だそうだ。ごく普通にドイツ戦車を作っても注目を集めるのは無理そうだし、なかなか難儀なテーマ。

●会終了後、例によってぞろぞろとサニーに行く。今年は何も買わず。毎度、サニーに行くたびに「今度サニーに行ったら**を買おう」と思っていた何かがあった気がするのだが、本当にあって思い出せないのか、単にそんな気がしているだけなのか判らず。

なお、雨が降っているにも関わらず、会場を出ようとして傘立てを見たら、来るときに差していたビニール傘が(誰かが間違えて持って行ってしまったらしく)なくなっていた。会場から人がいなくなるまでぼーっと待っているわけにも行かないので、鞄に入れておいた折り畳み傘を差して帰ることにする。ちなみに、間違われた傘と同一の傘をサニーの入り口で見かけたのだが、そこで「この傘はオレのかもしれない!」と騒いでも何なので、そのまま諦めた。傘よ、末永く道具生を全うしてくれたまえ。

その後、青木氏が新宿へ「穴と雪の女王T-34」(正しくは「T-34 レジェンド・オブ・ウォー」)のレイトショーを見に行くというので比較的早めに切り上げることとし、下北沢で青木氏、ケン太さん、hn-nhさん、めがーぬさんと軽く飲み、お茶をして解散。青木氏が映画のプレミアムグッズ「洗浄(せんじょう)で使えるレジェンド手ぬぐい」(実在)を手に入れたかどうかがちょっと知りたい。

考えてみれば、今年はあまり考証方面の話はしなかったなあ……。

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二子山再々訪

●季節労働が終わって平日でも余裕があるので、21日木曜日、午後になってふらふらと二子山(二子山高角砲台跡)まで歩きに行く。

以前の探訪記事はこちら

実を言うと最近、一度登ろうとしたのだが、やはり午後に出発して、家から直接歩いて行ったら、ふもとの南郷トンネル入り口あたりで夕方近くなってしまって断念。今回は素直に、逗子駅から南郷中学校行のバスに乗る。

以前の記事で書いたように、二子山上ノ山までは元砲台道が通っているのでほぼ散歩感覚で登れる。先の2つの台風(特に第15号)のせいで、このあたりの山は倒木だらけのため、ちょっと山奥まで歩きに行くのは不安があるが、広い道が通っている二子山上ノ山はその点問題がない。

●山頂に現在1基だけ確認できる砲台(の土塁跡)については、前回も写真を載せたので今更だが、せっかく撮ったのでもう一度。

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1枚目は下ノ山方向(西南方向)から。街角でもよく見かける、新興宗教関連団体による世界平和祈念の白柱がまさに砲台跡に立っているのは、判ってやっているのかどうかは不明。2枚目は北側から。最も土塁が低くなった部分越しに展望台を仰ぐ。この写真では視野から外れているが、向かって右側の「こぶ」に先述の白柱が立っている。

●今回、二子山砲台跡に上った第一目的は、前回、初夏に上った時には藪が深くて確認できなかった、探照灯の台座とされるコンクリートの構造物を視認したいと思ったこと。

この辺の山では冬になったといっても劇的に見晴らしがよくなるわけでもなく、しばらくうろうろと藪を覗いて探す羽目になったが、なんとか見つけることができた。藪越しに撮ったので「なんだそりゃ」というお粗末な写真だが、とりあえず以下に2枚。どちらも対象は同じ柱で、覗く位置がちょっとずれているだけ。

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……いやまあ、勝手に草刈りするわけにもいかないし(そもそも道具も持っていないし)。

武山砲台(砲台山)の山頂手前の道端にあるコンクリート柱とほぼ同形状で、四角いコンクリートの柱の上に丸い台座が載っている。藪が深いために今回は1本しか確認できなかったが、実際には、5mほど隣にもう一本同形状の柱があるのだそうで、要するに、配置も砲台山の写真の物とほぼ一緒ということになる。

柱の所在等々に関してのソースは、いつもながらサイト「東京湾要塞」(同サイト内、二子山のページ、および砲台山のページ)。

ほぼ同じ形状・大きさ・配置で、砲台山のほうは計算所(の計算装置用)の基礎、二子山は探照灯の台座とされている根拠はよくわからない。ただし、砲台山には道端のコンクリート柱のほかにもう一本(?)、ほぼ同形状の探照灯用とされる台座が残っているようだ。

なお、この記事を見て「よし、オレも見に行こう」と思う酔狂な人はあまりいないと思うが、一応、柱の位置を解説しておくと、山頂広場から二子山下ノ山方面への道に入り、5~10mほど進んだあたりで右に折れて藪に踏み込む道があるので、それを辿り、KDDIの中継所施設のちょうど裏手、進行方向左手の藪の中に立っている。おおよその位置でいうと、下写真(展望台上から西を向いて撮ったもの。手前の地面にあるのが一等三角点)の矢印あたり。

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Old Gun Base

●毎年秋は、決まって請ける季節仕事でわたわたする。

実を言えば今年は奇跡的に早くスタートしたので、最初のうちは「いぇ~い。余裕♪」なんて思っていたのだが、結局、後半はいつも通りに怒涛の催促に見舞われた。いかんね。

その仕事も先週末ですっかり片付いたので、とりあえず今は嵐の後の薄らボンヤリ状態。

Screenshot_20191115144952 ●上記仕事の最後のジタバタで、先週は水~金と神保町に日参していたのだが、金曜日は午前中に発注元に資料を持って行った後は、「何か問題があったら呼んでください」と言って、事務所で待機状態。

特にすることもないので、午後、北の丸公園から千鳥ヶ淵方面に散歩に出た。竹橋から英国大使館方面に抜ける、いわゆる「代官町通り」沿いに、大戦中の対空機銃の台座が残されているというのを(割と最近)知ったので、それを見に行くというのが第一目的。神保町~一ツ橋近辺にはもう何十年も通っているにもかかわらず、そんな遺構があるのは知らなかった。

代官町通りの西半分は、通りの南側は皇居の塀、北側は千鳥ヶ淵との間の堤になって一段高くなっていて、堤の上は「千鳥ヶ淵さんぽみち」と言う名の遊歩道になっている。件の台座は、この「さんぽみち」上にある。行ってみてわかったが、「Old Gun Base, Chiyoda」の名称で、「Pokémon GO」のポケストップにも採用されていた。

上では「対空機銃」と書いたが、実際には20mmの対空機関砲の台座で、コンクリートでできた二重円筒状のもの。「千鳥ヶ淵さんぽみち」の、そのまた西側に、割と近接して7つ存在している。配置は一直線でも円弧状でもなく不揃いだが、それぞれの間隔は同じくらい(10m程度)。(11/21追記。これに関して、hn-nhさんから「かつての配置と違う」という情報を頂いた。後述。)

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最初の1枚は、台座のある場所全体を東端から見たもの。2枚目以降は、東端から順番に4つ目まで。

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次は途中から、西側の3基を眺めたもの。続く写真は5基めと6基め。最西端の1基は、ちらりと写っているように、外国人のカップルが仲良くお弁当中(さらにその後はイチャイチャ中)だったために個別写真は撮れなかった。

1基の全体の直径は、測ってはいないが、目測で170cm程度だろうか。2mはなかったように思う。実際に使用されていた時にどういう状態だったのかは(きちんとした資料等が検索で見当たらなかったので)判らないが、内側の一段高くなった円筒上に、高射機関砲のターンテーブル状の砲架が載っていたのではないかなあ、と思う。現在は、ベンチとして使用することを考えてだと思うが、薄い自然石のプレートがモザイク状に張られている(一部剥がれたりしているけれど)。ちょうど腰掛けるのによい高さだけれど、内側の段自体が後から作られたもの……ではないような気がする。いや知らんけど。

ここに据え付けられていた高射機関砲に関してだが、環境省の「千鳥ヶ淵さんぽみち」紹介のページにも、「代官町通り沿い堤塘に残る「高射機関砲台跡」」とあるだけで、詳細は書かれていない。ほか、ネット上でヒットするのは、この台座の探訪記に類するものばかりだが、それらによると、

だそうだ(おおもとの出典は何なのだろう?)。

九八式二十粍高射機関砲は名称の通り1938年に正式化されたものだが、その後、これをベースにいろいろ改良型・発展型が作られたらしく、そのうちどんな仕様のものがこの台座に据え付けられたのかはよく判らない。

台座の格好を見る限りでは、中国で鹵獲した「ラ式二十粍高射機関砲(要するにFlak30)」を参考に砲架を新型にした改良型、二式二十粍高射機関砲あたりが怪しそうだ(Flak30のように、ターンテーブル式の架台付きだったようなので)。

wikipediaの記述に、さらにその発展形として出てくる二式多連二十粍高射機関砲というのも怪しい。専用の指揮装置をつないで、複数の砲が連動して目標を追尾する画期的なシステムだが、昭和19年に正式化されたものの16門が製造配備されただけ、とある。しかし、そんな虎の子の新兵器であればこそ、皇居防衛用に使われたとしても不思議ではない(陣地の構築時期とも合致する)。もっとも、このシステムは「6基が連動する」とあるので、台座が7基あるこの場所とはちょっと齟齬がある(いや、1基は照準装置用だったとか……)。

●なお、この対空機関砲陣地の有効性に関して、「高度10000mを飛来するB-29に対しては(まったく弾が届かずに)役に立たなかった」という記述が多いが、20mmクラスの対空機関砲は低空で飛来する小型機が主な目標で、大型爆撃機相手はそもそも想定されていないはず。おそらくこの高射機関砲陣地は、低空からピンポイントで皇居が銃爆撃される危険に対処すべく設置されたのだと思う。いやまあ、陸軍のことなので、本土空襲が始まって、とにかく「皇居をお守りする」格好だけでも付けなきゃイカンというので、届くとか届かないとか関係なしに「何か置いとけ~」と作った可能性も皆無ではなさそうだけれど。

ちなみにB-29が高高度から爆撃を行ったのは本土空襲の初期だけで、その後は低空爆撃に切り替えているため「高度10000mを飛来する」というのも誤りだが、その「低空」も高度2000m前後だったようなので、20mm機関砲クラスでは有効射程ギリギリというところだろう。

●11月21日追記。

機関砲台座の配置に関し、上で「配置は一直線でも円弧状でもなく不揃い」と書いたが、hn-nhさんからのコメントで、かつてと現在とでは台座の位置が異なっている旨、ご指摘を頂いた。

根拠は、終戦後間もない時期の米軍による空撮写真。以前にも逗子~横須賀あたりの高角砲台をレポートする際、過去の様子を探るのによく利用している国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」に出ているものだが、今回は(台座それ自体が大きなものではないこともあって)参照するのをころっと失念していた。というわけでで、下は米軍による1947年9月8日撮影、写真整理コード「M451-33」から切り出したもの(hn-nhさんがコメントで引用したものとは同日・同コースの一連の写真の1枚違いだが、基本、写り具合は同じ)。

Chidori

ほぼ同じ範囲をGoogleMapsで表示させてみたのがこちら。一部樹木に隠れていて7つ全部は確認できないが、とにかく、上写真とは全く配置が異なっている。

戦後すぐの状態を見ると、hn-nhさんのコメントの通り、北側に向けて扇形に6基、さらに扇の要部分に1基が配置されている。また、現状のようにただコンクリート製の台座があるだけでなく、周囲をドーナツ状に土塁で囲っているらしいことも判る。ちなみに国土地理院の上記ライブラリには戦時中(1944年)撮影のものもある。解像度があまり高くないので引用は上の写真としたが、戦時中のものをみても、配置は扇型であったことは確認できる。

そもそもこうしたものが現存しているのは、コンクリートでがっちり構築してしまっておいそれと撤去・移動できないからなのだと思っていたのだが、この機関砲座に関しては、少なくとも「処分するには金がかかるから」程度の理由はあったかもしれないが、「簡単に動かせない」というものでもなかったようだ。

それにしても、こんなふうに「扇形に6基、要に1基」という配置だと、6基が実際の機関砲で、1基は管制装置だったかもしれず、となると、装備された砲が、上でちょっとだけ触れた(6基+管制装置で一組だったという)「二式多連二十粍高射機関砲(ケキ砲II型)」なるものであった可能性がちょっと上がってきた気もする。

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