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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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コメント

おしゃること、まさにその通りで反論の余地はありません。
インドやその他アジアの人びとは、日本のおかげじゃなく、日本が起こした動乱をきっかけに、自分で考えて、自力で独立したのだとおもいます。インパール作戦の途中で自由インド軍はみんな逃げちゃったわけで、それは、補給もくれないで怒鳴り散らすだけのパトロンはもはやパトロンじゃないわけで、日本軍はアジア解放のパトロンたる実力を失ってるわけで。
>(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。
英軍はアキャブとかで空挺堡という概念をこの戦線でパーフェクトに実現して日本軍を追い返したんで、間違いではないかと。日本にウインゲートのような型破りの指揮官が生まれなかったのも悲しいところです。
インパールだけじゃなく、桂林作戦とかガダルカナルとかアイタペ会戦とかスリガオ海峡とか特攻作戦とか、南陽植民地や沖縄の住民を守れなかったことなど、ひどい作戦を立案した日本軍幹部を我が国民自らが戦犯裁判を起こしてさばけなかったことは、日本文化の恥だと思ってます。
>「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。
まさにそのとおりだと思います。
無駄死だった、その無駄死にを招来した責任者は誰なのか!と断罪すべきなのです。
めんどくさいけれど、「過ちを繰り返しません」とか美辞麗句で綺麗に締めて臭い物に蓋をしたのでは、過ちは繰り返されると思います。戦争という形以外にも、国家の出血を伴う破産というかたちで。

投稿: みやまえ | 2019年8月14日 (水) 20時47分

かば◎さんのご指摘が鋭く、思わず頷きながら読ませていただきました。

リンク先の記事ですが、著者の名前だけでもう容易に内容が推測できました。笑

投稿: vol de nuit | 2019年8月14日 (水) 21時14分

お父様にはよくぞご無事でと言うしかありませんが、見てきた人にしか見えない話を書き残しておくのは大事な事だと思います。

実際に見た事がないものを語る資格はないと言うつもりはないですが、リンク先の記事のあまりにご都合主義的な論調には呆れます。しかしこれに限らず、日本軍のアジア侵攻は民族自立を促す面があったというような論調は繰り返されてます。

日本軍が決して義勇軍などではなかったのは、占領地域で行われた施政を見れば明らかですが、植民地からの解放などと耳障りの良い言葉を並べ立てる論調をいとも簡単に受け入れてしまうのは、国益の名のもとに琉球などの併合地域で住民の主体性を現在も認めず自治権を封じている私たちなのです。

投稿: hn-nh | 2019年8月15日 (木) 07時33分

>みやまえさん

ありがとうございます。
「ガンガン空輸して」というのは、あながち親父の認識違い、というわけではないのですね。いやまあ、親父はホントにその辺判ってたのか、というのは依然ありますが。

責任の所在に関するみやまえさんのご指摘もその通りだと思います。

投稿: かば◎ | 2019年8月15日 (木) 20時40分

>vol de nuitさん

ありがとうございます。

ああ、その方面でお馴染みの著者、なんですね。
普段、その手の論には(馬鹿らしいので)いちいち反論を書いたりしないのですが、今回は。親父の話も何かの機会に書きとめておかないと消え去るだけだなあ、という思いもあって、つらつらと書いてみました。

父の戦争のその他のこぼれ話とか、母が日本に密入国して来た話とか(日本人ですが)、叔父がソ連軍の捕虜になって収容所送りになった話とか、機会があったらまた書くかもしれません。

投稿: かば◎ | 2019年8月15日 (木) 20時47分

>hn-nhさん

ありがとうございます。

hn-nhさんのところの、東京都心にベルリン攻防戦のマップを重ねる試みと、それに関する「本土で地上戦がなかったことへの考察」にはいろいろと考えさせられました。

時折取り上げる「戦争遺構の話」ではなく、身近な、もっと生身の戦争の話をここで(時には)書いてみようと思ったのは、hn-nhさんの記事も、ちょっときっかけになっているかも。

「大東亜戦争は民族解放の戦いだった」という論は実際よく見ますが……いやいや。それならなんで朝鮮を植民地にして、中国にわざわざ出張って戦争しとんねん。

もちろん「大東亜共栄圏」の理想を信じて、あるいは現地でのしがらみを捨てる気に慣れず、戦後の独立闘争に身を投じた旧日本軍将兵が多くいたことも事実でしょうが、それは「その人たち、スゲーなあ」以上の話ではないでしょう。

投稿: かば◎ | 2019年8月15日 (木) 21時01分

>>母が日本に密入国して来た話

むむ? なんだか気になりますねー。楽しみにしてます(^^)

私の父は学童疎開の先で骨折して家に帰ってきてしまったようです。母方の祖父は中国戦線に赴くも、熱を出して後方で寝ている間に所属部隊が嫌な上官ともども全滅して命拾いしたりと、およそ武勇弾から程遠いヘタレの家系ですねー。

投稿: hn-nh | 2019年8月16日 (金) 15時06分

>hn-nhさん

>>母が日本に密入国して来た話

ミソの部分だけとりあえず書いておくと、要するに(父母の郷里の)奄美大島は、沖縄より早く返還されたものの、戦後しばらくはアメリカ統治領だったから……という話です。

>>およそ武勇弾から程遠い

それは「よかった」と喜ぶべきことだと思います。
今から30年ほどまえ、ちょっと機会があって、沖縄戦の経験者の方々5人にじっくりとお話を伺ったことがありますが、「ああ、本当に、こんな経験はしなくて済めばそれに越したことはない」とつくづく思いました。

投稿: かば◎ | 2019年8月17日 (土) 22時24分

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