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2019年8月

ニホンミツバチ

●11日、鎌倉浪花家で今年初めての氷宇治金時。ひと夏に一度は食べたい品。

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器が平たい上に山盛りになっているので、こぼさずに食べるのはなかなか難しいのだが、今回はなんとかひとかけもこぼさず食べ切ることができた。ややこしい手順など考えず、素直に上から食べていくのが良策。なお。小豆餡は上、中、下の三カ所に入っている。

●近所の、山の上の住宅地から谷戸に降りる階段道の改修工事が始まり、道幅の半分を潰して保護壁が張られていた。

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ここは、数年前に道の下手の曲がり角の上で斜面が崩れ、その後応急処置のみで放置されていたのだが、どうやら(この際、ということで)階段道に沿った斜面全体をコンクリートの擁壁に変えることになったのではないかと思われる(斜面の藪が刈り込まれ、保護壁が作られている様子から見て)。

確かに防災上はそれが手っ取り早いのかもしれないが、実は階段道の上の方の斜面は、初夏にはヤマユリが咲いてキイチゴ(モミジイチゴ)が実り、初冬にはトリカブトが可憐な花を咲かせる、ちょっとした楽しみがある場所でもあった。もちろん、場合によっては人命にも関わる防災措置と、自然保護というにもおこがましい道端の植生の保全と、どちらが大事なんだと言われれば前者であるのは間違いないが、一方で、「崖面は何でもかんでもコンクリートで固めればOK」的な手法以外に、何か手はないものなのかと、こういう工事を見るたびにモヤモヤする。

●17日。市内某所にクルミ(ヒメクルミ)の実を拾いに行く。

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昨年、FBの逗子市内の知人Tさんに場所を教えて貰ったもの。ただ、昨年は木の下が草刈りされていて拾い放題だったが、今年は草ぼうぼうでガサガサかき分けながら拾うことになった。とりあえずある程度の数は拾えたので、現在周りの果肉を腐らせ中。

●近所のMさんの奥さんが干してある傘を飛ばされ、急斜面の途中に引っかかっていたのを回収。そのついでに、道からは見えづらい、木の幹の陰に大きなニホンミツバチの巣があるのを発見した。縦の長さは少なく見積もっても30cmはありそう。

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クリーム色の長い円盤が縦に連なっている様子に、最初は「縦向きに生えたサルノコシカケ?(そんなんあるのか?)」と思ったのだが、よくよく見直してミツバチの巣であることに気付いた。

もちろん、本来なら働きバチにびっしり覆われているはずなのだが、この巣はスズメバチ(オオスズメバチ?)に襲われて壊滅し丸裸。襲われてまだ間もないらしく、スズメバチが10匹程度、頻繁に出入りしていた。上右の写真にもスズメバチが写っている。

何年か前にも、大切岸上の峠道沿いの木のうろにニホンミツバチが営巣しているのに気付いたことがあるのだが、その巣もしばらくしてキイロスズメバチに襲われていた。ニホンミツバチは蜂球でスズメバチを蒸し殺すという対抗手段を持っているのだが、この様子を見ると、防衛成功率は決して高くはないようだ。ミツバチ頑張れ!(泣)。なお、特にこの巣に関しては隙間でも何でもなく、完全に露出した開放巣だったので、さらに防衛は困難だったはず。

襲われて間もないとすると、今回収すれはハチミツを採れるかもしれない(しかもニホンミツバチの百花蜜!)などとも思ったのだが、急斜面であるためハシゴなどはかけづらく、しかもまだ頻繁にスズメバチが来ていることを考えると、余計な手出しはしないほうがよさそう。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(5)

●Mirage HOBBY 1:35、ポーランド国内軍の簡易装甲車「クブシュ」(”KUBUŚ” - Improwizowany Samochód Pancerny, Powstanie Warszawskie, Siespień 1944)の製作記。相変わらず、じわじわとしか進んでいない。

改めてチェックしてみたら、8月10日は「本物のクブシュの製作がスタートした記念日」だった。いや、だからどうしたって……。

●若干の考証。

そもそも当初は、「なにしろ博物館に実車があるんだから、どれだけネット上で写真が集められるかという問題はあるにしろ、粛々とそのディテールを反映させていけばいい……」などと思っていたのだが、いざ本腰を入れてチェックしていくと、どうもそれでは済まないということがはっきりしてきた。

最初に「えっ?」と思ったきっかけは、キットの説明書の片隅に書かれた一文。

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車体前面スカート・パーツに対する但し書きで、「戦時中の仕様にするなら、先端のトンガリは削り取ってね」くらいの意味だと思う。右写真がキットパーツと、問題の「トンガリ(bevel)」(矢印)。ここは戦時中の写真では不鮮明で、はっきりと確認しづらく、この但し書きがなかったら、そのまま現状を再現していたかも。

これまでにも数度振れているように、他にも、現存実車ではその後のレストアの結果、戦時中の仕様と異なってしまっている箇所があるようだ。ややこしいのは、その「戦時中」にも変化があることで、実車に何がしかの「いじったあと」があったとして、それが、戦後のレストアによるものなのか、それとも初回作戦と第二回作戦の間に施された改修なのか判別しづらい場合もある。やれやれ。

●以上は前振りとして、今回の進捗その1。エンジンボンネット部分のハッチを付けた。

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どういう理由があるのか、ボンネットハッチは左右非対称で、右側ハッチは前方に長方形の継ぎ足しがあって長い(左側は、この継ぎ足しに相当する部分は車体側固定部となっている。

左右ハッチの継ぎ目には、右側ハッチに固定された、合わせ目にかぶせる縁材がある(専門用語で「定規縁(じょうぎぶち)」と言うらしい)。これは、現存実車では確かに付いているのだが、戦時中の実車に付いていたかどうかは、手元に集めた写真からは判断できなかった。ただし、戦後に講演で放置されてサビサビになっている時期の写真では確認できるので、戦時中にもあったと判断して追加した。なお、現存実車の真っ直ぐ前からの写真で見ると、取付具合はもっとヨレヨレのようで、その辺はきちんと再現し尽くせていない。

工作前段階でちょっと悩んだのがヒンジの処理。この部分は、現存実車でよく見ると、現時点でのヒンジの内側に溶接痕が確認でき、要するに、一度付けたヒンジを外側に移動させているらしい。

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上は比較検証用に、ともにwikimedia commonsの写真から切り出したもの。左がMWPの現存実車で、現在のヒンジ内側に、旧ヒンジ跡であろう溶接痕が確認できる。一方、右は戦時中、クリバル部隊の拠点の公園で整備中のクブシュ(改修後)。これを見ると、左写真よりもヒンジが内側にあることがわかる。なお、wikimedia commonsに上がっている写真の都合上、左右違う側の比較になってしまったが、他で上がっている写真から、現存実車の左側も上右写真より外側にヒンジがあること、その内側に溶接痕が残っていることが確認できる。

キットのヒンジモールドは現存実車に準拠しており、(もともとは溶接線再現の際に邪魔だったので一旦削り落としたのだが)より内側に作り直した。4か所とも、キットのモールドから一つ分内側に寄せる感じにしたのだが、今見直すと、前側のヒンジはさらにもう少し後ろに下げても良かったように見える。

●今回の進捗その2。天井ハッチと防盾を取り付けた。

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天井ハッチの「定規縁」に関しては、キットのパーツにもモールドがあったが、かなり細く、しかも「お行儀が良すぎる」感じだったので、削って作り直した。ただし、後からわずかに写っている実車写真を見ると、前側の天井のリブよりも高く盛り上がっているようで、もう少しメリハリをつけるべきだったかも。

ヒンジは、車体側は溶接痕の作業の邪魔だったので削り落としてあり、0.3mmプラバンで再生。(エンジン部ハッチ同様)ヒンジ周囲には溶接痕を追加した。ヒンジの筒部はエンジン部ハッチで作ったものよりおとなしすぎるので、後々ここも作り替えるかもしれない。

防盾は(キットのパーツは厚過ぎるので)0.3mm板で新造し、天井にイモ付け。取付位置は左右で完全に対象ではなく、後端位置で見ると、左側のほうがやや前に出ているようだったので、そのように工作。防盾の後ろに銃架のようなものがあってもよさそうな感じだが、とりあえず、現存実車ではそのようなものは見当たらず、かつてあったことを示すような溶接痕なども確認できなかったのでクリーンなまま。もちろん、単純に中央の隙間から小火器を突き出して撃つためだけのもので、銃架など最初からなかった可能性も高そう。

●今回の進捗その3。サイドスカートの工作。

前後輪横のサイドスカート部分は実車では別体で、おそらく車輪交換の便のためにボルト止めになっているのだが、キットは装甲車体と一体モールドになっており、段差もボルトも表現されていない。

というわけで、0.3mmプラバンより薄く弾性も高い、タミヤの0.2mm透明プラバンで工作した。

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後々の工作過程での破損を防ぐため、キットのサイドスカート部分は切り落とさず、周囲を薄削りし、わずかに大きさも削り込んで、裏打ちに活用した(どうせひっくり返して見せるつもりもないので)。透明プラバンの表面は目の細かいペーパーを掛けて「すりガラス」状態にしているが、裏打ちとの間に広がった接着剤が透けて雲形迷彩のように見えている。

ボルトは、マスタークラブのレジン製の0.7mmサイズ(低頭)のもの。

サイドスカート上の溶接ラインは装甲車体の裾部を溶接しているものなので、当然、スカート部には掛かっていない。

なお、工作途中に気付いたのだが、左前部スカート上の真ん中のボルトは、実際には、その上の斜めの溶接線が下辺に接する直下にある。これは私がボルトの位置を間違えたわけではなく、本来、斜めの溶接線の角度がもう少し立っていて、下辺との接点が後ろにあるため。右前部は同接点よりボルトが後ろで正しいので、要するに、この部分の溶接線位置自体に左右でズレがあるらしい。今更気付いても遅いのでそのまま(面構成をやり直すなんてまっぴら)。

また、現存実車を見ると、サイドスカートのうち右前部を除く3枚には、継ぎ足しの溶接線がある(右前部は後ろ1/8くらい? 左右後部は下2/3くらいを継いでいる)。しかし、戦後の放置時期の写真を見ると、少なくとも右側前後のスカートは失われている。車体後部の可動式スカートも新造品に交換されていることから見ても、これらはレストア時に新たに作られた可能性が高いと判断し、溶接線は入れなかった。

●今回の進捗その4。車体前面上部の弾痕の追加。

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実車のクブシュには、各部に2度の戦闘で付いた弾痕が残されている。当初は「さすがにそこまでは……」と思っていたのだが、これらの弾痕が一度目と二度目、どちらの戦闘で付いたものか確認できない以上、「二度目の作戦時の仕様なのに、それ以前に付いた弾痕がないのはおかしい」という事態になることも考えられる。とりあえず入れておけば、「二度目の作戦終了時の状態」は再現できていることになる。

なお、上右写真のように、実車の弾痕位置に関してはキットの説明書でも図示されているのだが、下の金尺からもわかるように、図が小さすぎてかなり判読が難しい。そんなわけで、実車写真を参考にちまちまと入れた。もっともキットの図も(一応赤色で図示されているので)、離れた場所にある“はぐれ弾痕”の確認には役立つ。

弾痕には大小があるが、これは当たった角度や、そもそもの口径(拳銃/短機関銃弾と小銃/機関銃弾)の差によるものかと思われる。なお、ほとんどの弾痕は外側装甲を貫通しているが、車内写真を見ると、内側装甲には窪みを作っているだけで食い止められているものが多いようだ。

現時点では上部前面の弾痕しか工作していないが、その他の場所にも若干ある。

●以上の工作を終えた全体写真。

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ハッチ部の大きな穴がふさがったので、だいぶ最終形に近付いてきた。

●脱線話。クブシュの工作をしていると、どうも溶接線が気になって、散歩の途中で思わず撮ってしまったもの。

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よく見ると滑り止めのパターンは溶接線をまたいで連続しているので、まさに、以前hn-nhさんが言った方法、「破線状に溶断して折り曲げて、然る後に溶接して折り曲げ部を補強」の工作をしているらしい。帯材の溶接も、ベタ付けでなく破線状に工作されている。

散歩の途中に、「なるほど~」などと思いつつ、足元の鉄板を眺めているおっさん。怪しすぎる。

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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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ゴー!

●仕事が滞ったり、かみさんが入院したり(現在はすでに退院)で、半月ほど、主に精神的にわたわた。肉体的には暑さにめげて活動レベル低下中。クブシュもじわじわとしか進まず。

●7月末、ちょっと変わった仕事の用事があり、平和島から釣り船に乗り、豊洲の辺りまでハゼ釣りに行く。もっとも私自身はほぼ、他人がハゼを釣るのを傍らで見ていたのみ。ただ、最後に竿を貸して貰って1匹だけ釣った。魚釣りなんて久しぶり。

(私にとっては)見慣れない、海面から見上げるモノレールやレインボーブリッジがちょっと新鮮。

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豊洲の新市場も初めて見た。オリンピック関連であるらしい施設建設もちらほら。

●6日、横浜・山下公園にポケモンを捕まえに行く。抽選制のイベントで、私は見事落選したが、当選者は2名(だったかな?)の(ゲーム登録上の)「フレンド」を招待することができ、当選した近所のお嬢からチケットが回ってきた。

最寄駅は「みなとみらい線」の元町・中華街駅。時折しか利用しないが、降りるたび、駅の感じに「あー、御堂筋線やー」と思う(えせ関西弁)。

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この「Pokémon GO」のイベントに関しては、テレビのニュースなどでも、おおよそ「このクソ暑い中、カンカン照りの公園に大挙して押し寄せるなんてアホかこいつら」という反応を前提とした取り上げられ方をしていたが、自分自身でも「このクソ暑い中、カンカン照りの公園を歩き回ってアホかオレは」と思ったので、まったく反論はできない。

実際、スマホのポケモンのアプリが頻繁に熱落ちした(安い韓国製端末でハード的にもちょっと頼りないこと、GPSの常時使用が割と熱をもちやすいようであること、イベント後半はポータブル充電器を接続しながらの使用だったことなどにもよる)。

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ペットボトルのお茶2本、セブンイレブンのアイスコーヒー2杯を消費。自分で好んでこんなイベントに行っておきながら何だが、絶対にこんな季節にオリンピックなんかやるべきじゃないと思う。

ちなみに、東京オリンピック招致のPRの文章には、「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と書かれていたそうだ。

……そのアスリートは、たぶん、普通の地球人類ではない。

●突発的に茶葉蛋(チャーイェダン)が食べたくなり、上記イベントのついでに中華街で安物の烏龍茶のティーバッグを買い、逗子駅前のスーパーで特売卵を1パック買ってきて、久々に作成。

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最初に普通に茹で卵を作ってから、スプーンの背などで殻にまんべんなくヒビを入れ、その後、濃く煮出した烏龍茶に五香紛、料理酒、醤油、塩、砂糖などを入れた煮汁に入れてことこと煮たり冷ましたりを繰り返す。ヒビ割れからお茶の色と風味がしみ込んで、殻を剥くと写真のようなマーブル模様になる。

調味料の分量などは毎度作るたびにかなり適当だが、割と美味しく出来た(と思う)。色の染み具合も良し。

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