小坪高角砲台補遺(その4)
●数日前に「小坪高角砲台補遺(その3)」を書いたばかりで、当分は披露山の砲台に関して言うことはないな、と思っていたのだが、その途端にhn-nhさんが、「逗子フォト」に披露山公園建設中の写真が新たにアップされているという記事を上げてびっくり。
→ hn-nhさんのブログ記事、「小坪高角砲台 2019 - 1957 - 1946」
「逗子フォト」に関しては、猿舎になる前の砲台の写真を引っ張ってきた「小坪高角砲台補遺(その2)」の時にも触れたが、逗子市役所サイト内に開設された写真アーカイブで、今昔の逗子の写真をストック、公開している。今回話題の写真に関しては、久木在住の小泉さんという方が提供された一群の写真の中にあったもので、今年の4月半ばに公開されている(以下、モノクロ写真はすべて「逗子フォト」より借用)。
hn-nhさんの記事と重複してしまうが、砲台の原型が写っている写真は1枚。よく見ると、画面右上辺りに頂上広場に通じる道の出口が見え、現:花壇の砲台から、指揮所跡を利用して建設中の現:レストハウスを写したもののようだ。改めて、ほぼ同じアングルで現状の写真を撮ってみた(厳密に比較対照せずに「だいたいこんなもの」で撮ったので、視線の角度など微妙にずれていて残念感があるのはご勘弁を)。
現在、頂上広場の周囲は木立に囲まれているが、当時は広々と見渡せる。建設中のレストハウスの向こうに見えるのは、さらにこの何年後かに新興住宅地の「亀ヶ岡団地」として開発されることになる名越の山々。
この花壇に関しては、以前にhn-nhさんがわざわざ周囲の池に手を突っ込んで調査しており、大谷石の縁石の下にある池の外周壁は斜めになっていて、すり鉢状のコンクリートの砲座をそのまま利用して作られているらしいことが判っている。
左写真に写っている砲座は、現:猿舎と基本的に同一形状だったことがこの写真でも確認できるが、よく見るといくつか差異がある。下写真は「小坪高角砲台補遺(2)」で引用した、現:猿舎のものと思われる砲台の写真(確実にそうだと言える証拠は写真には写っていないが、とりあえず、壁龕や階段などの位置関係は現状の猿舎と同じ)。
目立つ差は、
▼現猿舎では、上部がアーチ型になった穴(現状はコンクリートで埋められている)の向かって右側に階段があるが、現花壇の砲台ではそのようになっていない(航空写真を見ると、上写真では画面の外になっている、アーチ型穴の左側にあったようにも見える)。
▼現猿舎では、砲弾仮置場の壁龕が45°間隔で並んでおり、上部がアーチ型の穴は、そのうち一つの壁龕と置き換わる形で配置されている。しかし、現花壇の砲台では隣の砲弾仮置場の壁龕と接近しており、明らかに配置の間隔が違う(むしろ猿舎における階段と壁龕の位置間隔に近い気がする。方位はどうあれ、階段とアーチ型穴の位置が入れ替わっている――つまり階段が壁龕と45°間隔だったりする可能性もありそうな。考えすぎ?)。
▼現猿舎と現花壇を比べると、アーチ型穴の上端と、砲座自体の上端との間隔が猿舎では狭く、花壇ではやや広い。
砲弾仮置き場の壁龕と明らかに形状が違うアーチ型の穴は、何か別の用途を持っていたと考えられるのだが、現状では謎。しかし、ほぼ同一形状である武山高角砲台(砲台山)の砲座にはこのような形状の穴はないから、両砲台に設置された四十口径八九式十二糎七高角砲にどうしても必要なものというわけではなく、披露山なりの事情(必要性)によるものと考えるべきか(もちろん、建設時期の違いで、改良によって加えられた、あるいは逆に省略された、という可能性もある)。
前記の猿舎・花壇の両砲台のレイアウトの差と関連するが、この上部がアーチ型の穴が、猿舎・花壇とも、おおよそ指揮所の方向にあるというのも気になる。以前に書いたように、地下通路入口という可能性もありそうだが……一方で、地下通路を作るなら退避所/詰所の奥に入口を作った方がいいんじゃね?という気もする。
また、この写真の時点で、猿舎・花壇とも、このアーチ型穴は中が埋まった状態になっているようなのも気になる。もしかしたら弾薬を砲座の上から滑り落とす搬入口? いや、それにしては、花壇のほうの写真で、外側地面に穴が開いているように(あるいは、開いていたように)見えないし……。
いずれにしてもこの辺は、そのものズバリの砲台資料でも出てこない限り判りようがなく、ああだこうだ言っても仕方ないかもしれないのだが、まあ、妄想の楽しみということで。
●冒頭載せた写真は、「建設中の披露山公園(昭和32年)」と題された組写真4枚のうちの1枚で、残り3枚は次のような感じ。
1枚目は、最初の写真よりもさらに(建設中の)レストハウスに寄って撮ったもの。次の写真は、最初は、現展望台下のテラス部分かと思ったが、四角いコンクリート製の台座のようなものが見えるので、やはり建築中のレストハウスの写真のようだ。遠景に江の島が見える。4枚目の写真は現状、レストハウスの脇から、おおよそ江の島方向を向いて撮ったもの。360°周囲が見渡せたであろう高角砲台当時~公園建設時と違い、特にレストハウス側は木が茂ってまったく見通しは利かない。
●前回「小坪高角砲台補遺(その3)」のそのまた補遺のような写真をいくつか。
猿舎を囲む(丸太を模した)コンクリート柵の土台は、基本、柱一本ずつ独立しているのだが(左写真)、なぜか退避所/詰所上の(猿舎中心に向かって)左側だけは土台が連続している(右写真)。柱の下の地下室の存在と関係しているかも。
退避所/詰所上に追加されたコンクリート製天井の外側に、丸く二カ所出っ張ったコンクリート再掲。これに関して、hn-nhさんから「猿舎のためにかつて立っていた立て札か何かの跡では?」のコメントを頂いた。言われてみればそんな感じがする!
以前貼った写真にもぼんやり写っていたのだが、光線の都合で、退避所/詰所入り口が、(砲台時代のままに)大きく窪んだ中の右側に(だけ)開いているという状態がよく判る写真が撮れたので2枚ほど。四角い檻に囲われた窪みの入り口部分は、現在は手前側が土間、後半はコンクリートで覆われているようで、砲台時代には一段窪んでいたのが、砲台床の他の部分と同一レベルになっているようだ。四角い檻の向かって右には、埋められた「上部がアーチ型の穴」があるが、この写真では輪郭はボンヤリしている。
●「逗子フォト」に追加された写真には、上の「建設中の披露山公園(昭和32年)」のほかにも、1955~1957年頃の披露山を写したものが何枚かある。それらについても、現状比較写真を撮ってみた。
▼「披露山坂道(昭和31年頃)」とされる写真。キャプションに「坂の突当りは現在の駐車場です。」とある。最初は「この写真の手前側、坂を上ったところが駐車場?」と思ったのだが、道の曲がり具合から見てそうではなく、道の向こうが駐車場(兵舎跡)、手前が山頂広場のようだ。よく見ると、少女たち(今は70代?)のわずかに後ろの崖面に、指揮所(現レストハウス)地下への入口である、崖が途切れた部分らしい箇所が確認できる。
撮影は上の公園建築中よりちょっと古いので、この時は頂上広場にはまだ手付かずの砲台跡があったはずだ。この女の子たちが砲台の縁に並んで腰かけた写真とかを撮っておいて欲しかったなあ。
▼「披露山山頂付近(昭和30年前半)」。上写真と同じ山頂への最終アプローチの坂を逆方向から撮ったもの。舗装はされていないが、勾配は緩やかで道幅もしっかりある。近隣の他の砲台の“砲台道”も、元は同じような状態だったのではと思われる。
もっとも、この写真が撮られたのは戦争が終わって約10年。もしも公園が整備されるまでただ放置されていたなら、“砲台道”ももっと荒れ果てていたはず。しかし、道はきちんと維持され、この先は頂上広場しかなく行き止まりであるにかかわらず(上写真でもはっきりわかるが)車の轍も見える。戦後の復興期、資材置き場か何かとして利用されていた可能性もありそう。
▼「新緑の披露山ハイキングコース(昭和32年)」と題さ
一組目のカーブに関しては、他に、見下ろすようなアングルで撮れるところがないようなのでほぼ確定? 2組目、若干ポイント的に自信はないが、現状写真は披露山入口バス停からちょっと上った「けやきの広場」横あたりから撮ったもの。ちょっと電信柱と植え込みが邪魔(6/25、写真差し替え)。
▼現在の県道311号線(すいどうみち)を「小坪入口」信号で折れ、昭和初期に開削された切通を抜け、小坪の大谷戸を通って漁港方面に行く道を「小坪街道」と呼ぶのだということを、「逗子フォト」で初めて知った。地の人は今でもそう呼ぶのだろうか?
というわけで、「小坪街道(昭和32年)」と題された写真。上の2枚の写真よりも、やや上った辺りから大谷戸を見下ろして撮ったもの。現状写真では家に遮られて見づらいが、道の曲がり具合から見て、地点的にそう大きくは外れていないと思う。
写真の上方向、道なりに右に行くと切通を抜けて久木~逗子中心部へ。左に折れる道は一の沢。現在は山の上に拓かれた「亀ヶ岡団地」に通じる。
▼「披露山登り口(昭和30年)」。上写真で左に折れる道の出口あたりから、その反対側を撮ったもの。左右に伸びるのが「小坪街道」。この写真では左手の先にある切通は1928年(昭和3年)に開削されたそうなので高角砲台の設置前に「街道」はあり、正面の坂が“砲台道”のスタート地点ということになる。もっとも、披露山中腹にはもともと人家や耕作地、神社などもあり、同じ道筋で細い道はあったかもしれない(6/25、現状写真差し替え) 。
現在でもこの道は、披露山上の披露山庭園住宅や披露山公園への「表玄関」となっている。なお、現在はこの写真地点の左右に京浜急行バスの「披露山入口」バス停がある。
| 固定リンク
「かば◎の迂闊な日々」カテゴリの記事
- あるときー。(2024.11.19)
- 観音崎再訪(2024.11.08)
- 東京AFVの会2024(2024.11.04)
- シンャホルストル(2024.11.15)
「軍事遺構」カテゴリの記事
- 観音崎再訪(2024.11.08)
- シンャホルストル(2024.11.15)
- 砲台に消えた子どもたち・2024(2024.10.21)
- ミニスケール2題(2024.07.04)
コメント
逗子フォトNow & Then いいですね!
これはぜひ逗子フォトに寄稿してください 。
頂上広場に登ってくる少女たちを探し出して、同じ構図で写真撮ってみたいですね(^^)
比較して驚くのは戦後の山の木の少なさ、でしょうか。砲台周囲は射撃の障害にならないように森を伐採したのでしょうね。松から油をとったり木炭をつくるために各地の里山は切り開かれたという話も聞きますし。
アーチ型の壁龕の猿舎と花壇の砲座でアーチ形状が微妙に異なってるのは面白いですよね。弾薬置き場は厳密な寸法で作ってるんでしょうけど、アーチは人間の気分というか。
待避所の穴の奥は地下壕になってたのでしょうね。衣笠山の遺構の記事にそんな図がありました。http://tokyowanyosai.com/yousai/newdata/kinu.html
模式図と違って、入口がシンメトリーになってないのは、壁で守られた場所は指揮官のスペースなのかな..とか。そんな忖度があったのかと想像したり。
アーチ型の壁龕の土砂の埋まり具合とか、砲台山の待避所の崩落をみると、壕の屋根は丸太を渡して土を被せた程度の野戦指揮所程度のものか、コンクリートで作ってあっても鉄筋が不足してたために程なく崩落したと想像してます。
投稿: hn-nh | 2019年6月25日 (火) 00時19分
本気で比較画像を撮るなら、実際にプリントアウトを持って行って、スマホの画面と比較しながら撮らなきゃダメでしたね(笑)。
公園整備の際に、各施設の土台となる砲台の構造、寸法などについてきちんと測って作図した、そのものズバリの資料とか出てこないですかねー。
逗子市立図書館でちょっと検索してみたのですが、地域の防空砲台全般についてさらっと触れている、「新横須賀市史--別編軍事」というのがヒットしただけでした(あとは正真正銘の公園案内)。
投稿: かば◎ | 2019年6月25日 (火) 09時31分
現地の目視観察とネットでの情報収集ではそろそろ限界になってきましたね(笑)
公園の設計図か事前調査資料など一次資料が発掘できればいいのですが。
前に訪れた時、レストハウスが公園事務所を兼ねてて何かの資料があったりはしないのかと思ったのですが、中には誰もいないし資料保管庫がありそうな気配もなく。。
逗子市役所の公園を管理してるところ(緑政課?)か衣笠にある横須賀土木事務所に記録が保存されてたりしないか? いずれにしても何か手がかりが欲しいですね。
突破口がありそうでしたらお付き合いしますよ(^^)
投稿: hn-nh | 2019年6月25日 (火) 12時11分