小坪高角砲台補遺(その3)
砲台跡が藪に占領されているのと、猿に占領されているのと、どちらが観察しやすいかと言えば、当然ながら後者。ただし、これからの暑い季節、猿の檻は風向きによってはかなり臭い。
披露山公園の小坪高角砲台に関しては、これまでにもしつこく取り上げているので、いまさら付け加えることなどあまりないのだが、重箱の隅的事柄を少々。
なお、右は、いつもとちょっと趣向を変えて、展望台から見下ろした猿舎砲座。ここの展望台に上がる人は江の島や富士山を見るのが普通で、わざわざ猿舎を見下ろしたい人はあまりいなさそう。とはいっても桜の枝に遮られるので、大した景色ではない。
●待機所?退避壕?……だったと思しき小部屋上について。
現在は四角い檻を付けて、おそらく猿の一時隔離場所(普段は出入り自由)として使っている場所だが、ここは本来、砲台山(武山)などと同様、一段外側に窪んでいたことは、「逗子フォト」に掲載された猿舎への改修前の写真で判る。
これについて、改めてじっくりと写真を撮ってみた。1、2枚目は同じ写真で、2枚目は後付けと思われるコンクリートの外周をなぞってみたもの。
新たに設けられたコンクリートの天井は、よく見ると、内側は他と合わせた円弧ではなく、一直線になっている。また、3枚目、4枚目写真に見るように、この天井部分は本来のすり鉢状構造とコンクリートの質がちょっと違っていて、その継ぎ目が確認できる。
●改修前の写真で確認できる、一二糎七高角砲の台座を据えるための穴は、現在、檻の中心を支える柱の基礎兼水飲み場となっているが、改めて見てみると、もともとの穴より一回り小さい、円筒形の構造を中心に据え付けて、周りは単純に土か砂で埋めてあるようだ。
また、すり鉢状の内壁のうち、特に西側の一部は、この砲座のコンクリートを打設した際の型枠材の跡が確認できる(写真は金網のせいで不明瞭だが)。
●話は変わってここ最近見かけたいきものなど。
日曜日はものすごい風で波も荒く、そのため、何か珍しいものでも打ち上げられているかもしれないというスケベ心で、月曜日、材木座海岸を歩く。残念なことに特に拾い物などなかったが、下のような、半透明の房を見つけた。
えーっと。これは……タコのタマゴか何かかな? と思ったのだが、どうやらアオリイカのタマゴであるらしい。
上1枚目は火曜日に名越切通で見たクロアゲハ。逗子では黒いアゲハは数種類いて、意外にぱっと見で判別しづらい時があるのだが、これに関しては、
- 目立つ白い紋などがない(あればモンキアゲハやナガサキアゲハ)
- 胴体の横に赤い模様がない(あればジャコウアゲハ)
- 短めだが後翅にちゃんとシッポがある(なければナガサキアゲハ)
- 全体が構造色で光っていない(構造色できらめいていればカラスアゲハ)
などからクロアゲハと同定。これも温暖化の影響なのか、少なくとも最近近所で見かける「黒いアゲハ」は、モンキアゲハが多数派のような気がする。
2枚目は披露山の山道で咲いていた、これまで見たことがない花。特に頂部の葉の付き方がトウダイグサ科っぽいなあ、と思ったがハズレ。花の黒い模様が手掛かりになった。アストロメリア(ユリズイセン)の一種で、アストロメリア・プルセラという花であるらしい。オレンジ色のユリズイセンはたまにどこかの庭からこぼれ出て野生化したものを見掛けることがあるが、この赤くて細長いものは初めて見た。もちろんこれも(南米原産の)外来植物。
3枚目も意外に種名調べに手間取った。キリンソウ。浪子不動の近くで。4枚目は逗子の砂浜に漂着した浮き玉に付いていたエボシガイ。
●久木川に掛かる人道橋。
以前から、「実はこの橋は、逗子独立運動が激しかった頃に派遣されてきた国連PKO部隊の人道的支援によって架けられたものだ」というウソ話のネタを考えているのだが、そもそも逗子住民以外には(というか、ほとんどの逗子市民にとっても)「逗子独立運動って何なのヨ」と言われそうなので、誰にも語られることなく終わること必至。
ちなみに、逗子銀座商店街に近い亀井児童公園には、本当に「逗子独立運動発祥の地」という記念碑が立っている。
なお、知る人ぞ知る「逗子独立運動」は、ある種、小坪高角砲台同様の「軍事遺構」のドラマのようなもので、それはそれとして語り継ぐべきだろうと思う。7月1日は「逗子独立記念日」。同日、市役所の会議室で「令和元年度逗子独立記念講演会」がある。
●同様のヨタ話として、鳩サブレ―ほどではないものの鎌倉土産としてそれなりに有名かつ親しまれているお菓子「かまくらカスター」は、「第7騎兵隊を率いてインディアン諸部族連合を奇襲、返り討ちに遭って惨敗したカスター将軍が失意のうちに太平洋を渡り、明治期の日本で作ったお菓子が元」というのがある。しかし、その話をしたところ、息子の嫁に「へぇ~、そうだったんですかぁ~」と素で返されてしまった。不発。
●先月末、逗子海岸に面する披露山下の崖が崩落。先述の砲台訪問から浪子不動方面に降りたので、その崖崩れ現場を(今頃になって)見た。
すでに1か月近く経っているのだが、崩れた土砂(岩)は片付けられておらず、破壊されたネットやフェンスもそのまま。大々的に崩れるとこんなにひどい有り様になるのだなあ、という状態が維持されている。
逗子鎌倉の山の地質は柔らかく、一方で山すそは急斜面や削られた崖面が多いので、頻繁に崖崩れが発生する。そのため、コンクリートで覆う防災工事も多いのだが、これはこれで見た目が無粋なだけでなく、表面の植生が失われることによるデメリットも大きい。もうちょっと何とかならんのか……。
●ついにコレが届いた。先週、横浜VOLKSに引き取りに行った。一度箱を開いて、中をチラ見して、「うあー、うわー」と言ってそのまま箱を閉じただけ。いや、うん、なかなか素敵なキットという気はします。
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コメント
猿ともすっかり顔なじみですね。(笑)
網の向こうの住民は、いつものおじさんがまた来た、とか思ってるのかも。
待避所と思しき窪み部分は逗子フォト掲載の当時の写真で見るとスクエアな形状にも思えますが、扇型の平面形でくぼんでいたんですね。
前に起こした砲台の図面もそのあたりの新情報を加えてアップデートしないと。。と思ってたので、週末にでもちょっと直してみますね(^^)
投稿: hn-nh | 2019年6月20日 (木) 21時31分
>hn-nhさん
>>待避所と思しき窪み部分は逗子フォト掲載の当時の写真で見るとスクエアな形状にも思えますが、扇型の平面形でくぼんでいたんですね。
そう言われてみればそうですね。しかし、そもそも待避所部分も、入り口直上部はコンクリートの露出があったはずで、その上に新しいコンクリートがかぶってしまっている可能性もあります。
その場合、元の形状とは違っている可能性もありそう。
また、本文では触れませんでしたが、ミッキーの耳状に2つ、コンクリ被覆の“でっぱり”があるのも気になります。片方は何やら鉄材が露出してるし。
>>前に起こした砲台の図面もそのあたりの新情報を加えてアップデートしないと
退避所と階段の間の、埋められてしまった特徴的なアーチ型開口部の追加もお願いします。
投稿: かば◎ | 2019年6月20日 (木) 22時33分
浪子とたけおってお不動様に出世していたのですね! ちょっとびっくりしました。
三浦半島の山って、砂岩だか泥岩質のものが多いのでしょうね。
私の小学生時代、横須賀は久比里の陸上自衛隊官舎に住んでいた頃(40年くらい前)、
夜中に官舎裏の崖がドバっと崩れていたことがあります。
崩れたのは建物にじゃなく、道路にだったのですが、
公園のそばだったので。昼間だったら子供の死人が出たでしょう。
崩れる前は子どもたちが防空壕と読んでいた洞穴があったのですが、埋まってしまいました。
そこで四角い穴開きの江戸時代のものと思われる腐食した古銭を拾いました。(もうもってないす)
投稿: みやまえ | 2019年6月21日 (金) 22時06分
>みやまえさん
>>浪子とたけおってお不動様に出世していたのですね
そうなんです。本来は高養寺というらしいですが、通称「浪子不動」で通っていて、GoogleMapsにも浪子不動の名前で出ています。
正面の磯に、でっかい「不如帰」の石碑が立っています。
投稿: かば◎ | 2019年6月23日 (日) 10時38分
>>ミッキーの耳状に2つ、コンクリ被覆の“でっぱり”があるのも気になります。片方は何やら鉄材が露出してるし。
これは砲台用部材というより、猿の説明などの立て看板の類があった痕跡のような気がします。逗子フォトの公園カテゴリーを見ると、開園当初の公園施設の写真がいくつもアップされてました。猿舎の写真もありました。https://www.city.zushi.kanagawa.jp/zushiphoto/list/item.html?code=152
その写真では立て看板の類は見当たらないので、もう少し時代を降った時につくられたものではないかと。(開園以前からのものだとすると、整備時にもっときれいに撤去したはず)
開園当初の猿舎の屋根部材は現在のものより少ないですね。いつの時代か部材を足して補強したのでしょう。
崩れた崖は浪子不動の手前の駐車場のところかしら。そこ歩いたことあるな。。。
投稿: hn-nh | 2019年6月24日 (月) 05時31分