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2018年5月

あんパンまん

20180530_105422 ●鎌倉、大町の和菓子屋前に立っていた幟。

「あんパンのようなおまんじゅう」……。

略称は「あんパンまん」ってことでおk?

●以前、ここで「ハクメイとミコチ」を読んでいて、無性にカヌレが食べたくなった話を書いたような気がする(今検索しても出てこないが)。

鎌倉近辺でカヌレが美味しい店はないか検索して、大町の某店が良さそうだとアタリをつけて行ってみたところ、(行ったのは午後だったが)「いつも午前中で売り切れちゃうんですよ」と言われて買えず。

その時は御成通で、やはりカヌレを売っているお店を見つけて、とりあえず「カヌレ欲」を一時的に静めることができたのだが、最初にアタリをつけたお店のものもやはり食べたくて、昨日(30日)午前中に再訪してみたところ、「夏の間は作っていないんです」と言われてまたしても空振り。ぬぬぬぬ。無いと言われるとますます食いたい!

そんなことを言っていて、秋までにころっと忘れそうな気もするので、一応書いておく(書いたこと自体も忘れそうだが)。

●何年か前に訪ねて、ここで紹介したこともある、鎌倉市大船-岩瀬間のトンネル(岩瀬隧道)で、内部で一部が崩落し通行止めになったそうだ(鎌倉市のリリース)。

このトンネル、以前に書いたことだが、もう一度特徴を列記すると、

  • 狭い一車線のトンネルで、両出口に信号がある交互通行。
  • もともと狭いのに無理矢理片側に歩道を設けてあり(おそらく中学校の通学路であるため)、
  • しかも歩道と車道の間に柱形式の街灯付き。
  • 岩瀬側は、もともとの入り口の外側に延長部が設けてあるが、そこだけトンネル幅が広くなっていてちぐはぐ。
  • 両入り口近くは内張りがあるものの、中央部分は素掘りのまま。
  • 前述のようにちょっと無理のある歩道(と街灯)の作り方をしているために、車輛は歩道と反対側にかなり寄って走る必要があり、そちら側のトンネル壁面上部には、有蓋トラックによるものと思われる擦り傷が派手に付いている。

――という具合に、「変なトンネル愛好者」の心をくすぐるポイントが多数ある(以下写真は、2011年10月撮影のもの)。

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そのうちまた見に行こう、などと思っていたのだが、崩落をきっかけに全面内張り付きに改装されてしまうかな?

●逗子銀座商店街内のファミマが昨日(30日)で閉店。それはちょっと前から張り紙があって知っていたのだが、駅前なぎさ通り商店街のセブンイレブンも、これまた30日で閉店。いきなり駅近くのコンビニが2店舗も減ってしまった。

ちなみにファミマのほうは比較的最近、古い酒屋を潰したあとのマンション(?)1階にあったもので、開店してから1年くらいしか経っていないかも。こちらは逗子銀座商店街入り口のセブンイレブンとの競争に敗れたか?

一方のなぎさ通りのセブンは逗子駅近くのコンビニとしてはかなりの「老舗」だが、今年春、店長が市議会議員選挙に当選したので、経営に手が回らなくなったのかも。

●東北大、山形大の研究者が中心になってやっている「マルハナバチ国勢調査」。

この調査に使われていた、富士通の携帯フォト投稿のクラウドシステムが今年度末で終了予定だとか。もっともそれで「マルハナバチ国勢調査」自体が終わってしまうわけではなく、来年度からは別システムを利用して継続する計画らしい。

実は私自身は、携帯端末が変わって写真の設定やら整理法やらも変わった影響もあって、実は1年以上投稿をサボっていたのだが、そのお知らせ&アンケートのお願いが来たのをきっかけに、たまっていた写真と、新たに撮った写真を投稿した。以下はこの4、5月に撮ったマルハナバチおよびその他のハナバチ写真からいくつか。

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改めて積極的にハナバチの写真を撮るようになって思うのだが……ハナバチって、こんなに少なかっただろうか?

花が一斉に咲いているときは、もっとわんわんと耳鳴りがするくらいにハチが寄ってくるものだったような気もする。もっとも、花が咲いていても、咲き初めはあまり蜜が出ていないらしくて寄ってこないし、花の終わり頃も同様。たまたま見た時季が悪かったのかもしれないし、そもそも「もっとハナバチが寄ってきていて然るべき」という私の思い込みでしかないかもしれない。

とはいっても、植え込みに真っ赤にツツジが咲いていたり、空き地にシロツメクサがいっぱい咲いていたりするのに、ハナバチを全然見かけないと、なんだか寒々しい、怖い光景を見ているんじゃないか、という気がしてくる。

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東京湾要塞第一区地帯標(2)

●26日土曜日昼過ぎ。いきなりその気になり、2週続けて「桜山大山」へ。

目標は、前回行きそびれた東京湾要塞第一区地帯標の残り2本。いやまあ、そんな山奥の石柱をわざわざ見に行ってどうするんだ、って話なんですけどもね……。

前回とまったく同じ道を2度歩くのも何だし、今回は沼間の奥の住宅地までバスに乗って、そこからショートカットで峠道に上がろう……と思ったのだが、逗子駅前まで出てみたら、バスが来るまでに15分。一方でたまたま横須賀線の久里浜行きが停車していたので、東逗子まで電車に乗ってしまい、結局、前回同様に沼間小学校裏からハイキングコースに上がる(前回はそこまでも自宅から歩いて行ったのだが)。

つい1週間前に歩いたばかりの道なので、さくさく歩いて馬頭観音-乳頭山まで。もっとも空はどんよりとしていて、下手すると降り出しそうな不安な天気。

前回の「東京湾要塞第一区地帯標 第一四号」から田浦梅林方面に下りず、「畠山」方面にさらに尾根道を辿る。

●そこからは基本一本道で、特に迷うこともなく「第一三号」を発見。

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山道側に面した「東京湾要塞第一区地帯標」と「第一三号」の間の角だけ、若干ギザギザに削れている。やはり人が通行する側は何かぶつかる(というより、ぶつけられる)ためと思われる。

一四号同様に、標石のすぐ横に行先案内表示。「D*」の続き番号の案内板は、二子山山系自然保護協議会作成のマップによれば、大和ハウス工業が設置したものである由。もともとこの一帯は大和ハウスの所有地らしい。

ちなみにこの案内板、元は「D* 大和ハウス工業」と設置者名入りで建てられていたのが、軒並みプレートが剥がされる被害が出て、社名無しに変更されたらしい。宣伝臭さを嫌った人の犯行と思われるが、整理番号付きのプレートを剥がすと、位置確認の機能が大きく損なわれる――ということに思い至らない時点で、はっきり言ってバカの所業であることが判る。

ちなみに、第一四号脇の標識では「畠山 1.2km」だったのが、この第一三号脇では「畠山 0.9km」になっている。300mほど畠山寄りということになる。

●そして畠山方面にさらに進んで「第一二号」。こちらは山道からちょっと引っ込んで、ヤマザクラ(?)の脇にひっそりと建っている。うっかりしていると見落としそうだ。

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こちらは「第一二号」と「海軍省」の角の頂部がわずかに欠けている。

毎度参考にさせて頂いているサイト「東京湾要塞」のこのページを見ると、各所にある地帯標の設置年月日や字体にはだいぶバリエーションがあるが(そもそも東京湾要塞という時点で全部海軍かと思えば陸軍省設置のものもあったりして)、この第一二号~第一四号の3基は設置日も同じ「昭和十六年七月三十日」であり、ワンセットで建てられたものであるらしいのが判る。

20180526_170047 ●前回、田浦梅林方面に降りたのに比べて、多少行程がプラスされて……くらいに思っていたのだが、乳頭山-畠山間のコースは意外にアップダウンが激しく時間がかかり、山にいる間に暗くなり始めてしまうのではないかとちょっと焦った。

畠山山頂着はちょうど17:00。畠山山頂にはぽつんと石仏が置いてあるだけで、周りも木が茂って特に眺望もない。石仏は三面で、容貌は桜山大山の馬頭観音とはだいぶ違うが、こちらも馬頭観音であるらしい。

帰ってから調べたら、源頼朝挙兵の折、(当初は平家方だった)畠山重忠が、小坪坂の戦いに続く三浦勢との戦いで、衣笠城攻めのための陣を置いたのがここなのだそうだ。ああ、畠山って、その畠山だったのか!

20180526_174043 ●畠山から山を下り、横横(横須賀横浜道路)の下をくぐってようやく人里へ。それからまたちょっと上って、伝・三浦按針夫妻墓のある塚山公園へ。

京急の「安針塚」駅名の由来にもなったのがこの石塔だが、実際には、この2基の宝篋印塔は、明治になって近くの寺院で「再発見」されたもので、本当に三浦按針夫妻の供養塔であるかは定かでないそうだ。

ちなみに三浦按針は長崎の平戸で亡くなり、実際には平戸にあったという外国人墓地に葬られたそうだ。

20180526_181517 塚山公園からさらに歩いて、日が暮れかけるなか、ようやく安針塚駅に到着した。

駅のちょっと手前の山裾に大きな壕が口を開けていたが、戦時中のものだろうか?中央下の扉が人が利用する普通サイズのものなので、壕口がかなり巨大であるのが判る。

空腹でへろへろになっていたため、駅に隣接の京急ストアでおにぎり一つ、シシャモのから揚げを買って駅で食べた。糖尿病のため間食は慎むよう言われているのだが、帰ったらすぐに夕食だし、ちょっと早めに食べ始めたと思えばいいか、などと自分に言い訳しつつ(こういうところからグダグダになるのだ)。

●TAKOMから、35でSMK多砲塔重戦車が発売になるそうだ。KVの前代にあたる戦車で、KVマニアとしては興味津々。しかし高そうだな……。

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東京湾要塞第一区地帯標

●19日土曜日。久しぶりにがっつり歩くか!という気になり、以前からちょっと気になっていた、沼間から尾根道を辿って桜山大山の馬頭観音を目指すハイキングコースを歩く。

一応、相模湾側と東京湾側を結ぶ「三浦アルプス」のルートの一つのようだが、ネット上で見る分には、葉山の仙元山から森戸川の南側の尾根を辿るルートの方が「三浦アルプス」の本筋のような感じ。

いずれにしても標高はせいぜい200mくらいなので、それで「アルプス」を名乗るのは、中央区の銀座と逗子銀座商店街以上の乖離を感じるが、まあ、自治体名に採用するほど恥ずかしくはないですな。

●道筋は、東逗子駅近くの沼間小学校裏から尾根に上がり、あとはそのまま尾根筋を南東方面に辿り、桜山大山を目指す。

逗子市(の元になった田越村)は、小坪、久木、逗子、山野根、池子、桜山、沼間の7カ村が合併して生まれたものだが、うち、桜山は現在の逗子市街地の南側と、そこからは逗子市沼間・葉山町長柄を隔てた飛び地の「桜山大山」の2カ所に分かれている。

「桜山大山」は、市街地のほうの桜山と同じくらいの面積があるが、森戸川の源流一帯の山地(丘陵地)で、住居表示も未実施。水面から飛び跳ねた魚の形に例えられることがある逗子市の、シッポの部分。

20180519_154621 なぜこれほどデカい飛び地があるかというと、この山地はもともと(現葉山町の)長柄村のものだったが、土地にかけられた年貢のために長柄村が持て余し、酒二升を付けて桜山村に引き取ってもらったのだそうだ。以来、桜山村の持ち分として、柴・萱苅場、家畜の飼料として利用されてきたらしい。もちろんそうして利用されていた時代は禿山だったのだろうが、今は近辺の他の山同様、大半が雑木林に覆われている。

もっとも、三浦半島の東西を結ぶルートとして昔はそれなりに利用されてきたからなのか、結構枝道が多く、(要所に案内板なども立っているが)うっかりすると迷いそうだ。それでもなんとか、沼間から上って小一時間で第一目標地点である馬頭観音に到着。今でこそ山道にぽつんと立っているが、これも元々は人馬の行き来が多かった証なのだと思う。この馬頭観音は、一応、GoogleMapsにも記載されている。

……それにしても、馬頭観音というより、なんだか「頭にロバのぬいぐるみを乗せた人」みたいな。

●山道の脇に赤い実が時々見えて、色と形から「ヘビイチゴだな」と思っていたのだが、よく見ると、(基本、地面を這っているヘビイチゴと違って)ちょっと高く立ち上がっている。実の様子も、表面がイボ状のヘビイチゴと違い、キイチゴの仲間であるツブツブ状。調べてみると、やはりキイチゴの一種のクサイチゴと判明した(山道でも検索できるのはスマホの有り難いところ)。

改めて探すと大々的になっている場所があったので、たっぷり味見。

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近所でよく食べているカジイチゴより平均してさらに大粒。カジイチゴ、モミジイチゴのようにオレンジ色ではなく綺麗な赤色。カジイチゴ、モミジイチゴは味的にほぼ一緒で濃い甘酸っぱさがあるが、こちらはあまり酸味がなく、甘さも少々控えめに感じた(それでもそれなりに美味しかった)。

カジイチゴ、モミジイチゴ、ナワシロイチゴ、フユイチゴ、それからこのクサイチゴ。逗子の野山のキイチゴはこれでだいたい制覇できただろうか?

●前述のように結構分岐が多く、下写真のように、自主的に誰かが作成したと思しき案内板から、もっと立派な(自治体とか、「二子山山系自然保護協議会」とか、民間企業とか製の)注意書きや指示板なども出ている。

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2枚目は山道脇で見かけた野生ラン。ネットで調べたら「サイハイラン」という種類らしい。3枚目の「この分岐、要注意」はコースの要所何カ所かに立っているもので、親切なことに、裏側に地図を収めた箱まで付いているのだが、確か「FK3」の標識では地図ケースだけが残って地図がなかった。誰だ、勝手に持って行った奴ぁ。

●乳頭山山頂を経て、ちょっと下ったところで、第二目標である「東京湾要塞第一区地帯標」を発見。

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1枚目が山道に面した2面、2枚目がその裏側。

以前触れたことがある、北鎌倉駅前と材木座にある地帯標のお仲間だが、あちらが「第二区」だったのに対して、より東京湾に近いこちらは第一区。しかし、山中にポツンと立っているというロケーションに関しては、これまた先日紹介した「横須賀軍港境域標」に近い。それにしても、「要塞*区」だの「軍港境域」だの、似たような区域指定をあれやこれやご苦労なこった。

なお、今回到達した東京湾要塞第一区地帯標は、写真にあるように「第一四号」だが、ここからまた別のルートをたどると、「第一三号」「第一二号」も割と近くにあるらしい。下調べがいい加減なままに行ったので見落とした。今後の課題としたい。

結局この日は、東京湾要塞第一区地帯標第一四号から山を下り、田浦梅林に抜けた。

20180519_174332 ●合言葉は「いかのおすし」だ!

田浦梅林から人里に降りて、京急の線路下で見かけたポスター。

いやまあ、この手の語呂合わせ標語はよくあるのだが、「それにしたって、もうちょっとなんとかならなかったのか感」横溢。

どうでもいいが、私はイカゲソの握りが好き。

●21日月曜日。午前中に一仕事した後、散歩に出る。

今年の3月一杯で、市の財政難のあおりで休館になってしまった郷土資料館を経由して(資料館自体は閉まっているが敷地内は通れる)、久しぶりに長柄桜山古墳(1号、2号)を歩く。

ぱっと見には、単純に逗子を囲む山々の尾根の1ピークに過ぎず、これを「前方後円墳ではないか」と考えた人はスゴイと思う。

ついでに桜山でミズを収穫してきて再び白だしで漬ける。

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エイとナメクジ

20180516_103712 20180516_122441 ●16日水曜日。ちょっと(かみさんが)用事があって横須賀に出掛け、ついでに昼飯を食う。

久しぶりに行ったら、ヴェルニー公園入口の陸奥の主砲は整備が終わって(といっても、この前に見たのは昨年の2月だ)展示状態になっていた。

主砲の上に上らないように注意書きがあり、「そんなヤツぁいねえよ」と一瞬思ったものの、夜に酔っぱらって友人と騒ぎながら通りかかったら上りたい衝動に駆られそうな気もしてきた。

公園の(JR横須賀駅側)入り口脇のヴェルニー記念館では、1:100の陸奥の模型も展示されている。他、かつての横須賀製鉄所のスチームハンマーなどの展示もあり。かみさんとの待ち合わせ前にちょっと覗いただけなので、こんどまたじっくり見に来よう。

●ヴェルニー公園の真向かいは海自の潜水艦用埠頭。今日も変わらず黒ナメクジさんが。とはいえ、X舵の新鋭そうりゅう型ではなく、在来型の十字舵だなあ……と思ったら、左手のほう、ちょっと遠くにX舵がいた。

20180516_104014 20180516_103731

20180516_104134●こちらにほぼ真横の艦影を見せて横切っていく船。番号から検索して、海自の練習艦「かしま」と判明。

横腹の平らな部分が綺麗に平行四辺形になっているのは、機能がどうこうだけでなく、デザイン的に狙ってやったんだろうなあ、という気がする。

後甲板からのナナメは、単に船体外板のラインではなく、その形状通りの斜路になっているそうだ。

20180516_122011 20180516_122009 ●しばらく前に、かみさんがちびとヴェルニー公園を散歩していた際、エイが泳いでいるのを目撃したという。こんな場所にエイなんているのか!?と思いつつも、「それなら探してみよう」と言って歩いていたら、本当に出てきた。

写真は不鮮明でエイだか漂流物だか判らない状態で申し訳ないが、悠々と(この写真で言うと)右方向に泳いで行った。

こんな場所にアタリマエにいるものなんだ,というのにまず驚いたが、帰宅して調べてみたら、東京湾にはアカエイが大量にいるのだそうだ。お台場でアカエイを釣る記事もヒットした。もっとも尾に毒棘があるので安易に手を出すのは危険だそうだ。

……考えてみればせっかくバラの時季のヴェルニー公園を歩いて、バラの写真を1枚も撮っていない。

●タミヤのII号戦車c、A~C型のキットは、エンジンルームのヒンジが凹、凸とあるうち、凹が外側になっているが、これはソミュールのc改修型を参考にキット化されたためで、量産型(A以降)は逆向き(凸が外側)になっている――という話は、確か(今は閉鎖されてしまった)尾藤満氏の「Panzer Memorandum」で読んだのだと思う(元をたどればトラクツあたりかもしれないが、II号戦車の巻は読んだことがない)。

その後、漠然と「そういうものなのか」という認識でいたのだが、TFマンリーコさんのところでその件につき(曖昧なままに)コメントをした機会に、ちょっと調べ直してみた。

とりあえず、(現存車両の写真を見ても、記録写真を見ても)F型では確実に凸が外側のようだが(写真)、初期型II号に関しては、どうも「いつから逆転したか」がはっきりしない。もともと場所が車体後部上面という「写真に写りにくい場所」なので、当時の記録写真ではなかなか確認できず。また確認できても、今度はそれがc型なのかA型以降なのかがよく判らなかったりする。

数少ない、鮮明にヒンジが写っているなかの1枚がこれ。わずかに写っている砲塔上面ハッチが両開きなのでC型以前なのは判るが、それ以上のことは(私には)判らず。ヒンジはすでに凸が外側になっている。

あるいはこの写真。こちらは逆に凹が外側。クラッペのリベット形状から見るに、おそらくB型中途以前の生産車らしい。リングガードはA型中途からの装備のはずだが、これはc型にも追加で装着された可能性があり、決め手にはならないかも。

また、これとほぼ同じ特徴を持ち、さらに、右フェンダー後部支持架が大きい車輛の写真もあった。私の認識では、後部支持架が大型化されたのはA型からなので、それが間違えていなければ、A型でもなお凹が外側の仕様のものがあったことになる。

さらにもう一つ。ベオグラードのカレメグダンに展示されている現存車両は操縦手用クラッペ形状からA~C型であると判るが、エンジンルームヒンジは凹が外側。後面や操縦席左クラッペ形状は初期型なので、A~B初期と思われる。

……そんなわけで、どうもc型からA型の時点でスッパリとヒンジの方向が切り替わったのではなく、少なくともA型の初期あたりではまだ凹が外側だったのではないか、というのが、現時点での私の推論。

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KV maniacsメモ(ガイドホーン無し1ピース履板)

●KV-1重戦車の砲塔形式メモも書きかけだが、その続きの前に小ネタをひとつ。

先日の記事(トランペッター 1:35 KV-1 1942年型鋳造砲塔(その3))で、「レニングラード包囲突破」ジオラマ博物館に展示されている現存車両(2輌あるうち、バッスル下が角型になった砲塔を搭載しているほう)について、

この車輛の履帯は「1ピースだがセンターガイドが全くないタイプ」を混ぜ履きしている点でも非常に興味深い。

と書いたのだが、今回はこのタイプの履板の追加調査報告。

なお、当該車輛のwalkround写真集のサムネイルはこちら。また、履板の特徴が判る写真の例は、こちらが裏側で、こちらが表側。(Dishmodels.ru)

●また、サンクト・ペテルブルクでの何かの式典に引っ張り出されてきたらしい、この車輛もセンターガイド無しの1ピースタイプを(上記車輛ほど多数ではないが)使用している。

ただしこの車輛の場合、JS用の650mm幅履板(2分割タイプ含む)も混ぜて履いており、履帯の幅が不揃いになっている(写真)。

●実のところ、上の現存車両のwalkaroundを見るまで、こんなタイプの履板があるとは知らなかった(そもそも上のwalkaround写真も結構前から見ているのに、気付いたのは割と最近だった)。

問題は、この履板が実際に戦時中のKVも使っているタイプなのかどうかだが、これに関しては、前回も紹介したサイト「Тяжелые танки КВ-1」から、比較的すぐに、このタイプを履いていると思われる実例を探し出すことができた。

実例1、および同一車輛の別写真

バッスル下が丸タイプの短砲塔を搭載。実は1枚目の写真は「グランドパワー」1997/10、p32上にも出ているもので、さんざん見慣れた写真のはずなのに、ガイドホーンが1枚置きになっていることをまるっきり見落としていた。

この写真からではガイドのない履板が本当に1ピースかどうかまでは確認できないが(以下の例も同様)、

  • 1941年型で用いられ始める2ピースタイプは僅かながらセンターガイド部分の突起があること。
  • 基本、1枚おきにガイド無し履板を使っているが、起動輪に掛かっている外側から見える部分では2分割履板は確認できないこと。

の2点から、ガイドホーン無し1ピースでまず間違いなさそう。

実例2。やはりバッスル下が丸タイプの短砲塔搭載車。履板の中央にまったく突起が確認できない。こちらもほぼきっちり1枚ごとに繋いでいる。

実例3、および(たぶん)同一車輛の別写真。これもバッスル下が丸タイプの短砲塔搭載車で、1枚おきに使用。

実例4。若干見づらいが、裏返った履帯の中にガイドホーン無しのものが混じっているのがかろうじてわかる。バッスル下が直線の371工場製砲塔搭載車。

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●KVの履帯について改めて整理。

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(wikimedia commons、1939年型と思われるKVの足回り。履帯は標準タイプ)

▼極初期(650mm幅?)。

基本、KVはSMK多砲塔重戦車の縮小・簡略型として作られており、足回りの部品もほぼそのまま引き継いでいるが、量産にあたって若干の改設計が行われている。

SMKの履帯は後のKVの履帯とよく似ているが若干幅が狭く、これは、履帯外側の連結ピン・エンドが履板フランジ端とほぼ同じラインであることで判別できる。この履帯はKVの試作車両にも(全部ではないが)使われている。KV-1s以降、JSにも使われた650mm履帯と同じものなのかどうかは(私には)よくわからない。

このU-0の写真では、この幅の狭い履帯が使われているようだ。また、「翼」タイプの燃料タンクを付けた試作車U-7の写真では、標準の700mm幅の履板に交じって幅の狭い初期タイプの履板が使われていて、履帯の端のラインが不揃いになっているのが確認できる。

SMKと同じ、8穴タイプのゴム抑え板を持つ転輪(上写真参照)が生産初期のKVに見られることを考えると、この幅の狭い履板も、極初期の車輛に若干は使われている可能性がある。

▼標準タイプ(700mm幅)。後世の35戦車モデラーのために設定されたような履帯幅の標準型履帯(履板)。

起動輪と噛み合う穴から外側のフランジ部分は、上記極初期タイプや後の1s~JS用では正方形に近いが、この標準タイプではやや横長。ただし、履板同士の噛み合わせは極初期型ともJS用とも同寸法なので混用可能。博物館車輛ではJS用履板がしばしば入り混じっている(モスクワ中央軍事博物館のKVでは、まるごとJS用戦後タイプの履帯に置き換わっている)。

極初期タイプの項で述べたように、履帯外側の連結ピン・エンドよりもフランジ端のほうが外側に張り出している。

▼ガイドホーン無し1ピース履板(700mm幅)。今回の記事前半で取り上げたもの。写真資料から判断すると、後の2ピースタイプ同様、標準タイプの履板と1つ置きに混ぜ履きするのが基本であるらしい。

上に書いた当時の実例写真から判断すると、1941年8月前後の生産車の一部に用いられたものであるらしい。

▼2ピース履板(700mm幅)。ZIS-5搭載型(いわゆる1941年型)の生産半ばから標準的に用いられるようになった履板。標準タイプの履板と1つ置きに混ぜ履きするのが基本。後の1s~JS用履帯(650mm幅)はセンターガイドのホーンがまったくないのに対して、KV用の2ピース履帯はピースの分割部にわずかに突起がある。

パロラの1942年型の2ピース履板の裏側(legion-afv)。

▼一応書き足しておくと、KV-1s用には、当初、フランジを斜めに削ぎ落したような軽量型履帯が作られ、その後、再びフランジが角型になったものが作られた。後者は標準履帯と似ているが、幅は650mmに詰められている。後者は引き続き、後継であるJS戦車にも用いられた。

両タイプとも2分割タイプの履板と混ぜ履きされるのが標準だが、(特に後者の場合)1ピースタイプのみ使用している例もある。また、このタイプの2分割履板は、センターガイドにあたる部分の突起は全くない。

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KV maniacsメモ(砲塔編その1)

●最近KVづいているので、その勢いで、若干の情報整理など。

以前、“ハラT”青木伸也氏主宰の「T-34 maniacs」の姉妹サイトとして「KV maniacs」を運営していたのだが、プロバイダ変更だのHPサービス停止だののあおりで、結局閉鎖してしまった。

消滅を惜しんで下さる声も時折聞くものの、(データそのものはローカルに残っているのだが)今見ると明らかな誤りも多かったり、我ながら「何を根拠にこんなこと書いてるんだ?」的な記述もあったりで、流石にそのまま復活するのはためらわれる。

改めて体系的に書き直せるかというと、新資料のフォローなどきちんとしていないので、ちょっと及び腰にならざるを得ないのだが、とりあえず書けるだけ、気が向いたときに部分ごとの変遷についてメモを作っていきたいと思う。理由は、

  • 書いておかないと自分で忘れる。
  • 今回は「そう判断した証拠」をなるべく書き添えておきたい。
  • 製作中のいくつかのKVに関連して、製作上の注意点として。

など。内容は「あくまで現時点での私の理解では」ということなので、盲信はしないように。「いや、そこは違うんじゃないか」などのツッコミ歓迎。っていうか間違ってたら教えてください。お願いします。

そんなわけで最初は砲塔編(無印KV-1のみ)。

主な情報ソースは、

  • サイト「Тяжелые танки КВ-1
  • サイト「4BO GREEN
  • Jochen Vollert, "Tankograd KV-1 Soviet Heavy Tank of WWII - Early Variants"
  • Jochen Vollert, "Tankograd KV-1 Soviet Heavy Tank of WWII - Late Variants"
  • М. КОЛОМИЕЦ, "ИСТОРИЯ ТАНКА КВ (1)", Frontline Illustration
  • М. КОЛОМИЕЦ, "ИСТОРИЯ ТАНКА КВ (2)", Frontline Illustration
  • M. Kolomiets, "KW vol.3", Wydawnictwo Militaria No.320

中でも「Тяжелые танки КВ-1」の受け売り度高し。特に各仕様の生産期間に関しては、基本、同サイトからの引き写しなので、ロシア語がスラスラ読める人は、むしろここを読まずにそちらを読むことを推奨。ちなみに私はGoogleさんに助けられてつまみ食い程度。

なお、とりあえずブログ記事として書いているものの、そのうちウェブページに移動するかも(漠然とした意味でのウェブページではなく、ココログのブログサービスのメニューで、日付依存で無く別途作成できるページ)。

■試作車・増加試作車用砲塔(便宜的にタイプ1とする)

  • 砲塔前面左右はエッジが立っておらずなだらかに丸い。
  • 砲塔後面平面形はほぼ半円。
  • 砲塔前部2/3と後面の継ぎ目(前部側)に5本の接合リベット縦列。

1939年中に製作された試作車、および1940年4月~7月に製作された増加試作車が搭載。コロミェツ氏によれば試作車(U-0)1輌に加えて増加試作車14輌。

当初、試作車U-0が76.2mmと45mmの連装だったことを除き、基本は76.2mmL-11単装で完成しているはずだが、後に多くがF-32装備に改造されている。ただし、L-11装備のままでドイツ軍に鹵獲されている車輛も確認できる。

35インジェクションではトランペッターがパーツ化しているが(「Russian KV-1 Mod 1939」(No.01561))、若干形状に問題があるような話も聞く(私自身は持っていないので未チェック)。

■初期型溶接砲塔(タイプ2)

Kv1_m39
(写真:wikimedia commons)

  • 側面が中ほどで緩く曲がっているほかは、基本箱組みの角ばった溶接砲塔。
  • バッスル下は砲塔リングに沿って円形。
  • バッスル下円形の装甲の前端に縦2個ずつのリベット。
  • 前後左右の装甲板はおそらく小口を斜めに削いで継いであり、溶接ラインはエッジにある。
  • 四周の装甲厚はおそらく75mm。

Uナンバーを持つ増加試作車の最後の数輌、およびL-11搭載の生産型(いわゆる1939年型。もっとも、1939年型と言っても生産時期は1940年、しかも8月~12月)、そしてF-32搭載型(1940年型、1941年1月生産開始)の初期まで搭載。砲塔後面の機銃架は、1939年型の中途までは内部防盾の半球形外観のもの。中途から外部防盾を持つ標準型に。

主砲L-11の駐退機カバー形状は、少なくとも初期・後期の2種(他にも細かいバリエーションがあるかも)。

砲塔上面4カ所の固定式ペリスコープカバーは、基本、フランジなしの直接溶接タイプ。ただし最後期の一部はフランジ付きの可能性あり。

次の標準型溶接砲塔と非常によく似ているが、溶接ラインの位置が最も大きな識別点となる。

トランペッターの「Russia KV1 (Model 1941) "KV Small Turret" Tank"」(No.00356)にはL-11の砲身・防盾一式も入っているが、砲塔自体は下の標準型溶接砲塔で、一般的な1939年型に仕上げるには改造が必要になる。

■標準型溶接砲塔(タイプ3)

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(写真:wikimedia commons、モスクワ中央軍事博物館。ZIS-5搭載の1941年型)

  • 装甲厚75mm。
  • 基本形状は一つ前のタイプと同じだが、装甲板の組み方に大きな変更が加えられ、溶接ラインが前後とも側面に。さらに埋め込みボルトで補強しており、前面左右に6本ずつ、後面左右に5本ずつの埋め込みボルト溶接痕がある。前後の装甲板は接合部で段状に削っているので、表に出ているのがそのまま装甲板本来の厚みではない。
  • バッスル下は砲塔リングに沿って円形。
  • バッスル下円形の装甲の前端に縦2個のリベット(左右)。

F-32砲搭載の1940年型で主に使用。40年型でも生産当初のものは溶接ラインがエッジにある一つ前のタイプを使っており、このタイプは1941年6月頃の戦場写真から見かけるようになるので、5、6月頃に導入されたものか。

砲塔上面の固定式ペリスコープカバーは、コロミェツ氏によれば41年3月からフランジ付きに切り替わっているとのことなので(Wydawnictwo Militaria)、このタイプでは基本フランジ付きのはず(例外はありそう)。

後に装甲が強化された90mmタイプの砲塔が生産されるようになるが、なぜかZIS-5搭載型(いわゆる1941年型)生産当初には、各部に若干のアップデートを施したこのタイプの砲塔がしばしば見られる。生き残った1940年型を改修した再生車輛か? あるいはチェリャビンスクで余剰パーツを使って生産したものか?

ちなみに上掲のモスクワ中央軍事博物館展示車両もZIS-5装備型。ただしこの展示車両はかなりキメラ的仕様になっていて、どこまでがオリジナルの状態なのかよくわからない。同じ車両の砲塔を斜め後ろから見た状態の写真がこちら(Dishmodels)。後方ペリスコープが天井後縁より奥まっていること、側方ペリスコープ下に削り込みがないことなどが確認できる。側面前方と後面の吊り下げフックはオリジナルではない(たぶん)。

35では、トランペッターの「Russia KV1 (Model 1941) "KV Small Turret" Tank"」(No.00356)、ズベズダの「Soviet Heavy Tank KV-1」(No. 3539)などの初期型KVキットが再現しているタイプ。ちなみにズベズダのキットは箱絵は1941年型、中身は1940年型というお茶目な構成らしい(買っていない)。

■■エクラナミ(タイプ3´)

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(写真:wikimedia commons,、パロラ戦車博物館)

  • 溶接砲塔に30mm(側面)の増加装甲をスペースド・アーマー形式でボルト止め(資料によっては35mm)。
  • 後面には増加装甲は付けられておらず、埋め込みボルト痕が確認できるため、ベースが標準型の溶接砲塔であることが判る(初期型砲塔ベースのものは絶対存在しない、とは言い切れないが)。

1941年6月~8月に生産。この間はエクラナミだけ作っているのかと思ったら、増加装甲無しタイプも並行生産されていたらしい。増加装甲の装着法には若干のバリエーションがあり、砲塔本体と増加装甲の間の上面フタのあるもの/ないものがあるようだ。増加装甲の前半と後半には若干の段差があるのが普通らしい。上掲パロラの所蔵車はその段差、および視察口・ピストルポートの切り欠き部分の増加装甲と本体装甲の隙間を丁寧に埋めてあるが、これは鹵獲後の改修ではないかと思われる。

35インジェクションではトランペッターの「Russia KV-1's Ehkranami」(No.00357)、タミヤの「KV-1B」がこのタイプの砲塔。当然ながら増加装甲を装着しなければ上の標準型となる。

■短縮型・装甲強化溶接砲塔(90mm、バッスル下丸型)(タイプ4)

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(写真:wikimedia commons,、レニングラード包囲突破ジオラマ博物館)

  • 外形は標準型溶接砲塔によく似ているが、基本装甲が90mmに増厚されたタイプ(*1)。
  • バッスル下は円弧状。
  • バッスル下円形の装甲の前端にリベットはない(*2)。
  • 装甲増厚に対応し、側方ペリスコープ直下に削り込み。
  • おそらく装甲増厚による重量増のバランスを取るため、バッスルを標準型より短縮。このため後方ペリスコープは砲塔後端にある。

多くの資料で、これまで標準型溶接砲塔と区別されてこなかったタイプ(私自身も以前は混同しており、「KV maniacs」でも区別していなかった)。この砲塔はレニングラードのイジョラ工場(イジョルスキー工場)で生産され、レニングラード・キーロフ工場(LKZ)においてF-32装備型(1940年型)の1941年8月~9月生産車に搭載された、とのこと。

Kv1_model_1941_in_the_breakthrough_ 写真で標準型と明確に区別するのが難しい場合も多いが、前掲のポイントでも書いたように、ペリスコープ直下の削り込み、バッスル下円弧装甲前端のリベットの有無、上面後端のペリスコープと後縁の位置関係などが判別点になる。

右写真は上と同一車輛の真横からの写真(wikimedia commonsより)で、砲塔後部ペリスコープが後縁ギリギリにあることがわかる(標準型ではかなり奥まっている)。同一車輛のwalkaroundはこちら(Dishmodels)

なお、側方ペリスコープの削り込みの下に跳弾用にロッドを溶接してある場合が多いが、これは初期には付けらておらず、一方で、標準型砲塔のZIS-5搭載改修型などでは(削り込みはないが)跳弾リブは追加されている場合があり(上掲、モスクワ中央軍事博物館車輛参照)、識別点にはならない。

ZIS-5が搭載されたものもあるが、当初からその仕様で完成したのか、後の改修によるものかはよく分からない。ちなみにZIS-5が搭載された現存砲塔はこれ(Dishmodels)。ペリスコープ位置など細部ディテールがよくわかる。

現時点で、35インジェクションでこれを再現しているものはない、と思う。

*1 ただし、上に写真を乗せた現存の「061号車」では、側方ペリスコープ下は申し訳程度にしか削り込んでおらず、一方で当時の写真ではもっと明瞭に削り込んでいるものも確認できる。「061号車」のような仕様でも90mmに増厚されているのか、若干の疑問は残る。(5/14追記)

*2 ソミュールに現存する実車では、側方ペリスコープ下に明瞭な削り込みがあり、このタイプの砲塔であると思われるのだが、バッスル下円弧状装甲の前端はただの溶接ではなく、埋め込みボルトで補強されている。(5/14追記)

■短縮型・装甲強化溶接砲塔(90mm、バッスル下角型)(タイプ5)

  • バッスル下が直線的に処理された砲塔で、英語では「simplified turret」と表現されることが多い。
  • おそらく装甲増厚による重量増のバランスを取るため、バッスルを標準型より短縮。このため後方ペリスコープは砲塔後端にある。
  • 装甲増厚で見にくくなるのを防ぐため、側方ペリスコープ直下に削り込み。

これまで「90mmに装甲が強化された溶接砲塔」といえばこれ(だけ)、と思われてきたタイプ。バッスル下の処理に特徴があるため、側方からの写真があれば識別はたやすい。標準型砲塔ほかと同様、砲塔前面は左右6カ所ずつ、後面は5カ所ずつの埋め込みボルト溶接痕あり。

このタイプの砲塔は、スターリン記念名称第371工場で製作され、レニングラード・キーロフ工場(LKZ)におけるF-32装備型(1940年型)の1941年8月から、疎開によりLKZでの戦車生産が終了する10月までの生産車で使われた。

現存車両写真は、たとえばこれこれ(Dishmodels)。

砲塔上面左右・後方の固定式ペリスコープカバーは、コロミェツ氏によれば41年3月にフチ無しからフチ有りに切り替わっているそうなのだが(Wydawnictwo Militaria)、このタイプの砲塔でもフチなしを装着している例がある。

また、一部車輛では砲塔前面左右にブロック状の増加装甲を溶接したものがある(以前から私がちっくりちっくり作っている仕様)。

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(写真:フィンランド軍写真アーカイブ、SA-kuva)

これは「Тяжелые танки КВ-1」によれば、特に1941年の8月から9月初めの生産分に見られるものであるらしい。

またこのタイプの砲塔でZIS-5が搭載されたものもあるが、当初からその仕様で完成したのか、後の改修によるものかはよく分からない(たとえばこれ、Dishmodels)。

以前から比較的広く知られた仕様の砲塔だが、現時点で、35インジェクションでこれを再現しているものは出ていないはず(トランペッターの「Russia KV1 (Model 1942) Simplified Turret Tank」(No.00358)は、さらに装甲が強化された1942年型用砲塔なのでこれとは違う)。

■短縮型溶接砲塔(ChTZ型、バッスル下丸型)(タイプ6)

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(写真:wikimedia commons,、41年10月にムツェンスクで撃破された車輛)

  • 標準型溶接砲塔とよく似ており、おそらく装甲厚も75mm。そのため側方ペリスコープ下の削り込みはない。
  • ただしバッスルは装甲強化型と同様に短縮されており、後方ペリスコープは砲塔後端にある。
  • バッスル下円形の装甲板前端のリベットは無い。

実は「砲塔バッスル下が丸いタイプでも、『simplified turret』同様にバッスルが短く、おそらく装甲も増厚されているタイプがあるようだ」というところまでは、私も独自に実車写真観察でたどり着いたのだが、その後の識別点の抽出で混乱して収拾がつかなくなったのは、たぶんこのタイプの砲塔が元凶だったのではないかと思う。

レニングラード・キーロフ工場の疎開完了に先立ち、チェリャビンスクで先行してKVの生産に入っていたチェリャビンスク・トラクター工場(ChTZ)における、F-32搭載型(いわゆる1940年型)の1941年8、9月生産型に、この砲塔が用いられたらしい。

後方ペリスコープが後端をはみ出すくらいの位置にあること、しかし側方ペリスコープの削り込みはないことを確認しやすいのは、例えばこの写真。サイト「Тяжелые танки КВ-1」におけるこのタイプの解説ページより。

「タイプ4が、タイプ3とタイプ5の中間的形質を持っていて、ややこしいったらない!」と思っていたら、今度はタイプ3とタイプ4のそのまた中間的形質のものが出てきたことになる。しかし、タイプ4の注釈で書いたように、それでもなおスッパリ割り切れない仕様のものもあり、実はさらにタイプが細分化される可能性はある。

現時点で、35インジェクションでこれを再現しているものはないはずだが、標準型から簡単に改造できそう。

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以下、ZIS-5搭載型の砲塔に関してはまたそのうち。

■標準型鋳造砲塔

■装甲強化型溶接砲塔(組み継ぎ)

■装甲強化型鋳造砲塔

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トランペッター 1:35 KV-1 1942年型鋳造砲塔(その3)

●トランペッター 1:35、KV-1 1942年型鋳造砲塔(キット名称「Russia KV-1 model 1942 Lightweight Cast Turret」)のレビューなんだか考証なんだか製作記なんだか、いずれにしても中途半端な徒然話。細部パーツ編の続き。

20180430_180335戦闘室前面増加装甲

戦闘室前面の増加装甲は、パーツ共用化により初期型で一般的な背の低いものしか入っていないため、プラバンで背の高いタイプを新造した。

一応、おおよその時系列的に言うと、この部分の増加装甲は1940年型エクラナミで導入され、その後1940年型後期から1941年型初期にかけては背の低いもの(通常、上端がごくわずかに戦闘室前面の上にはみ出る程度)が使われている。

おそらく、エクラナミの生産末期からは、この背の低い増加装甲に加えて、車体ハッチ前方部分にハッチガード用のリブが追加されるようになり、以降、これが標準に。

なお、車体に火炎放射器を装着したタイプで、増加装甲が無くハッチガードだけあるものが確認できるが(例えばサイト「Beutepanzer」にある、この車輛)、これは火炎放射器の装着に増加装甲が邪魔だったためではと思われる。

1941年型の中盤、おそらくは鋳造砲塔の導入あたりから、ハッチガードの役割も兼ねてということか、背の高いタイプの増加装甲が用いられるようになる。高さはおよそ、砲塔リングガード上端と等しいが、リングガードと違い砲塔下端との干渉を考慮する必要はないため、リングガードよりもだいぶ高いものも見られる。hn-nhさんの記事によれば、“KV Tanks on the Battlefield”ほかに、「背の低い増加装甲付きはUZTM製、背の高い増加装甲付きは第200工場製」の記述がある由。それぞれの工場での生産時期が判らないが、並行生産されていた時期もあるのだろうか?

タミヤのキットで表現されている両肩を切り落としたタイプは、レンドリースの見返りに技術参考品としてイギリスに渡り、現在ボーヴィントンの博物館に展示されている車輛で見られるもの。ただしこのタイプの増加装甲はソ連軍での使用例はあまり見られない。……というより、今回改めて手持ちの写真をざっと見た限りでは存在が確認できなかった。

背の高い増加装甲の場合、車体から引き出される前照灯・ホーン用のコード用の切り欠きもあるが、このコードの引き出し場所は41年型の中盤くらいから(?)やや車体内側寄りに移動しているようだ。キットの車体上部には、この2通りの位置に対応した非貫通のダボ穴があって選択できるようになっているが、なぜかキットでは外側の穴を使用するよう指定されている(初期型用の背の低い増加装甲のモールドに合わせたものか?)。41年型のキットではどうなってますかね?>hn-nhさん

ただし、キットの内側取付指定穴は、実際よりちょっと内側過ぎるようだ(5/5追記)。

20180427_111637車体下部前面増加装甲

これもエクラナミの途中から装着されるようになった増加装甲。戦闘室前面同様に溶接でベタ付けされているもの。

右写真はパーツを裏側から撮ったもので、左下端が一部薄くなっている。これは、この部分に切り欠きがある仕様に対応、選択式にしたものと思われるが、説明書では特にこの切り欠き部分には触れられておらず、そのまま接着するよう指示がある。また、実際、パロラの1942年型の現存実車でもこの部分に切り欠きは存在しない。

あくまでざっと写真を見ての印象だが、

  • 最初にこの増加装甲がエクラナミで導入された当初は切り欠きがなく(パロラのエクラナミにもない)、
  • しかしほどなく(エクラナミの生産途中で)切り欠きが設けられるようになり、以後、切り欠き有りが標準に。
  • その後1942年型登場前あたりでまた切り欠き無しが復活。

という流れのような気がする。いやまあ、単に「いろいろあった」なのかもしれないけれど。ちなみにボーヴィントンの鋳造砲塔付き1941年型は切り欠きがあり、アバディーンの同形式では切り欠きがない。トランペッターのエクラナミ(『Russia KV-1's Ehkranami』、アイテム番号NO.00357)の同じ個所のパーツには切り欠きは設けられていない。

この切り欠きに関しては、以前にセータ☆さんがどこかで触れていたような気が……。違ったかな。

とりあえず、この切り欠きそれ自体の存在理由については、どうも、この部分に装甲板接合用の埋め込みボルトがあるのが理由のようだ(たとえばモスクワ中央軍事博物館のこの車輛)。溶接してしまっている埋め込みボルトに後からアクセスする必要があるとは思えないので(また、前面装甲板に増加装甲を付けた後で車櫃を組み立てるとも思えないので)、これは、溶接痕の盛り上がりのせいで装甲板が浮いてしまうのを避けるためではないかと思われる。

左にあって右にないのは、トーションバーサスの関係で、左右で埋め込みボルトの位置が違うためらしい。最初期と後期とで切り欠きがないのは、最初は溶接痕を丁寧に削り落としていたのではと想像。1942年型の場合は「この部分の埋め込みボルトが省略されて溶接痕の盛り上がりが最初からなかった」か、あるいは「構わず無理やりくっつけた」か……。キットのパーツのように裏をちょっと削って干渉しないようにした、なんてことはないと思う。

ちなみにキットの車体は各型共通だが、この場所に埋め込みボルトの溶接痕は再現されていない。

また、牽引具基部の切り欠きは、パーツでは左右が牽引具基部に合わせて丸く切られているが、実車ではもっと適当に角を立てて(つまり6角形に)切り抜かれているものが多く見られる。どうも初期は「角」が普通で、41年型中盤以降、「丸」になっているような気がするが、しっかり調べ尽しているわけではなく、要調査続行。

車体前端の上下接合のL字部材

上の写真に写っているが、1942年型のキットには、埋め込みボルト痕のモールドがないものが入っている。1942年型の仕様としてはこれで正しいが、この埋め込みボルトの数の変遷はちょっとややこしい。

 ▼試作車(Uシリーズ)や極初期の生産車ではこの部分のボルトは異様に多く、17カ所もある。KV-2初期型砲塔でも17カ所タイプが見られるが、全部がそうであるかは未確認。コロミェツ氏によれば初期型砲塔は1940年の7、8月の生産車に搭載されているそうなので、下記の説明に従えば全車が17カ所タイプということになる。一方「4BO」の記事によれば、初期型砲塔搭載車の最後の数輌は11カ所の可能性があるようだ。

 ▼比較的早い時期に11カ所に減少。コロミェツ氏は40年9月~41年7月の生産車がこの仕様としている(Wydawnictwo Militaria No.320 “KW vol.III”)。この40年9月というのは、KV-1の形式で言うといわゆる1939年型(L-11搭載型)の生産途中ということになるようだ。

 ▼41年7月から、さらにボルト数が減って8カ所のものが使われ始める。時期で言うと、ちょうどエクラナミの生産途中、緩衝ゴム内蔵転輪に、小リブ付きリムが使われ始めたのと前後して、という感じ? ちなみにトランペッターのエクラナミのキットは、ボルト痕のモールドが11カ所のタイプが入っている。ちょっとモヤモヤするのだが、このボルトの打ち込み位置にはバリエーションがあるようで、左右端は部材の端に寄っているのが普通だが(たとえばこんな感じ、Dishmodelsより)、中に寄っていて左右に余裕のあるものも確認できる(例えばこの車輛)。

 ▼ここから先がさらにモヤモヤするところで、モスクワ中央軍事博物館のKV-1は、ボルト痕が6カ所に減っており、しかも上面にはないようだ。たとえばこの写真この写真。断言はできないが、フロントバヤ・イルストルツィヤ(フロントライン・イラストレイション)」の「KV史 第2巻(1941~1944)」の8ページの写真(写真番号7)も同じタイプに見える。

 ▼最終的に埋め込みボルトが省略される。ボーヴィントンアバディーンの鋳造砲塔型ではすでにボルト痕は確認できない。“KV Tanks on the Battlefield”p88掲載写真によると(というより、サイト4BO掲載の訂正情報によると)、「welded-only nose plate」は41年12月に導入されたものだそうだ。これは、41年型(ZIS-5搭載型)生産開始(41年10月)からちょっと後、ということになる。

20180504_200620 ●車体底面

個人的には「どうせ見えないからいいや」という感じなのだが、底面のディテールにも生産時期により差がある。これに関しては、サイト「4BO」に簡単な解説ページがある。

これによれば、キットの車体底面は、トーションバーの固定ボルトが6本から4本に減り、パネル間の結合ボルトが省略された41年1月以降の生産型に準拠したもの、ということになりそう。なお、上記4BOのページに添えられた図によれば車体前面(左方向)の埋め込みボルト位置にも差があり、これが増加装甲の切り欠きに関係している可能性もあるような気がする。

●キット(の仕様)と直接関係のない話あれこれ。その1。

トランスミッション点検ハッチに関して、第2回で「ミッション点検ハッチに関しては、装甲強化型砲塔でも(また、ZIS-5搭載型でも)まだ皿型のものが使われているのが確認できる」と書いたのだが、「レニングラード包囲突破」ジオラマ博物館展示の車輛は、1940年型後期型(F-32搭載・装甲強化短砲塔)だが、すでにツライチ・フラットタイプが使われている。例えばこの写真。サムネイルのページはこちら

ちなみにこの車輛は前方乗降ハッチもフチなしツライチ・フラットタイプ。ついでにエンジンハッチもフラットタイプ。

また、この車輛の履帯は「1ピースだがセンターガイドが全くないタイプ」を混ぜ履きしている点でも非常に興味深い。こちらが裏側。そしてこちらが表側

20180429_104734 ●その2。

ちょっとその気になって、第2回で触れた「1941年の8、9月にのみ作られたとされる皿型カバーのボルトが12本のタイプの起動輪」を作ってみた(写真中央)。

初期型のパーツを改造したもの。製作中の装甲強化短砲塔搭載型に使ってみるつもり。

●その3。

トランペッターの初期型用KVのフェンダーパーツの幅詰め工作をしてみた。以前KV-2用に同じ工作をした時には、フェンダーステイのベロ部分は特にいじらなかった(そのため、フェンダー外縁のL字材との関係が少しおかしかった)。

今回はもうちょっと凝って、フェンダーステイのベロも外縁L字材のベロより内側で終わるように削り、6本の取付ボルトも一度削り取って間隔を狭めて付け直した(内側は動かないので付け直したのは外側5本。場所により横着して4本)。

20180503_133804 20180503_201709

外側L字材の再生は、フェンダー側のベロがプラペーパー。裏から針でつついて極小リベットを表現。外側の立ち上がりは0.3mmプラバン。

なお、KVのフェンダーは裏側を縦方向に、中心付近に補強用のL字材が付けられている。トランペッターのキットはこの縦通材も再現されているが、幅詰め工作の結果、これが中心よりも外側寄りになってしまう。……が、どのみちほとんど見えないので放置した。

20180430_171141 ●その4。(5/5追記)

トランペッターの初期型KVのエンジンパネルは、前端左右(砲塔リングに掛かる円弧の左右)のボルトが2本ずつだが、ここは3本が標準(41年型では2本になる)。

製作中のKV-2と1940年型のパネルに、左右1本ずつボルト頭を追加した。

●追記。

上で紹介したサイト「4BO」を改めて読み直していたら、トランペッターのキットから各年式・各仕様を作る際の細かい「レシピ」が詳細にまとめられていた。

これまで3回書いてきた記事のほとんどがそのページに既出! うはははははは。

ちなみに1942年型・強化型鋳造砲塔(1942年2月~7月生産分)の記事はこちら。もっと後の、牽引具基部が円形になった仕様も別途ページが立てられている。砲塔ハッチは真ん中に「へそ」がない、というのは(さんざん写真を見ているはずなのに)言われて初めて気が付いた……。

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