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横須賀軍港境域標

Open Street Mapを見ていたら、鎌倉・十二所の山の中に、「横須賀軍港境域標」と書かれたランドマークアイコンがあるのに気付いた。

仕事が煮詰まったので息抜きに(ということにして)、数日前、散歩以上ハイキング未満的な感じで訪ねてみた。

Open Street Map(OSM)は、一言で言えば「地図の世界のwikipedia」のような存在で、誰もが編集に関わることができるオープンソースの地図作成プロジェクト。それはそれで素敵なのだが、その地区の編集に関わったマッパーの技量や姿勢に、地図の出来も左右されることになる。実際、近隣のよく見知った地域を見る限り、存在しない道が書かれていたり、接続していない道が繋がって書かれたりしていて、今一つ信用できない部分もある。

とはいえ、そのへんは「ダメモト」で割り切ることにして、とりあえずOSMを頼りに行ってみることにする。OSMで見る限りでは、池子弾薬庫跡地の北辺を巡るハイキングコース「やまなみルート」から分岐して十二所方面に降りる脇道があり、その山裾に近いあたりに、目的の「境域標」があるようだ。

鎌倉逗子ハイランドから「やまなみルート」に上がり、六浦方向に尾根道を歩く。しばらくすると、おそらく旧海軍時代のものと思われる鉄筋コンクリート製の塀に行き当たるが、兵が始まってすぐのところに、木の幹に矢印の記入があり、OSMの表示通り脇道があるのを発見した。

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もっとも、Open Street Mapによれば下界に降りるまで一本道のはずが、途中で2方向に矢印が分かれていた。比較的真っ直ぐそうに見えた左の矢印に従って歩いたら、ほとんど道らしい道はなくなり、崖のような急斜面上に出てしまった。分岐まで戻って今度は右へ。

しばらく歩くと、唐突に山道脇に目的の「横須賀軍港境域標」が立っているのに行き当たった。

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1枚目:石標の表側(山道に面している方)。「横須賀軍港境域標」「明治三十三年二月十三日」と書かれている。
2枚目:裏側、こちらは根元近くに「海軍省」と、おそらく石標の管理番号(続き番号)の「第四十九號」の文字。
3枚目:持っていた200mlのトマトジュースパックとの比較。ちなみにこのトマトジュースは無事石標発見の祝杯としてこのあと現地で頂きました(昔は、「うげっ、なんつーマズイ飲み物なんだ」と思っていたのに、最近はなぜか時々飲みたくなる)。なお、石標の高さはちょうど私の肩くらい(150cm程度?)。
4枚目:石標からちょっと離れた地点に、やはり人工物の低い石柱あり。関連性があるものなのかは不明。
5枚目:山道との位置関係。ふもと側から振り返る格好で撮影。
6枚目:ちょっと降りたところに、4枚目と同様の低い石柱がもう一つあった。

書かれている文言と年号は違うが、ぱっと見の印象と、示しているもの自体は、以前ここで紹介したことがある「東京湾要塞地帯標」に近い。

ただし、東京湾要塞地帯標は花崗岩(御影石)製であるのに対し、こちらは鉄筋コンクリート。また、東京湾要塞地帯標は、北鎌倉駅前のものは昭和十六年とあるので(材木座のものも恐らく同じ)、年代にも大きく開きがある。

以前から、軍用水道や標石に関していろいろ参考にさせていただいているサイト「東京湾要塞」に、この横須賀軍港境域標に関するページもあり、それによれば、同様の「横須賀軍港境域標」は、少なくとも6基が現存しているようだ。今回訪れた石標からさほど遠くない、十二所果樹園の中にももう一本(第五十一號)あるらしいが、保存状態は今回の第四十九號のほうがずっとよいようだ。

なお、上記ページに寄れば、この石標が建てられたのが彫られている通りに明治33年であれば、年号が記入された鉄筋コンクリート柱としては確認できる限り日本最古であるらしい。しかしその一方で、石標内の鉄筋は昭和に入ってからのドイツ製と判明したという調査結果もあるとのことで、どうにも謎。仮にこの標石自体は昭和のものだとすると、明治に立てた木標かなにかを、文言をそのまま写して鉄筋コンクリートで建て替えたとかだろうか?

もっとも、役割的には重複しそうな「東京湾要塞地帯標」なども順次新設されているわけで、古い標石をわざわざ文言を同じで建て替えたりするかなあ……。

●今季3回目、4回目のフキノトウを収穫して食べる。どちらも茹でてオリーブオイル和えにしたが、3回目は、さらにそのオリーブオイル和えを食パンに載せ、スライスチーズを被せて「チーズ・フキノトウ・トースト」にして食べた。苦みが気持ちよくなかなか美味。

もっとも、贅沢を言えば、もう一味、何か欲しかった感じも。

ベーコンでも載せればよかったかなあ。それともトマトソースをかけてフキノトウ・ピザトーストに?

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コメント

明治33年というと日本のコンクリートの黎明期のようなので、当初はコンクリート杭でなかった可能性もありますね。木標か何かを後年、コンクリート杭で置換する際に地図との対照で当初の設置年を入れておいた、とか。

仮に当初からのコンクリートだったとしても、八幡製鐵所ができたのが明治34年なので、その頃の鉄筋は輸入品だったのでしょうね。
ちなみに「鉄筋コンクリート」はフランスの造園屋さんがコンクリートで植木鉢を作ろうとして発明したものらしいですね。

投稿: hn-nh | 2018年3月 3日 (土) 15時42分

>hn-nhさん

ちなみにこの石標が「鉄筋」入りであるというのは、別の場所にある番号違いで、ちょっと保存状態が悪くて欠けちゃっているヤツで確認できるそうです。

やっぱり元々あった何かを鉄筋コンクリートで作り直したんですかね……?

投稿: かば◎ | 2018年3月 3日 (土) 19時57分

そのドイツ製鉄筋はどうやって年代特定したのでしょうね。炭素同位体測定という訳でもないし成分分析?ドイツのJISマークみたいな刻印があってそれと照合?
ともかく、標柱をコンクリートで作るのは合理性がありますね。石だったら一本一本刻まないといけない標銘を、コンクリートなら鋳型一つで量産できるし。

明治33年のコンクリート製品は民生用であれば時期尚早というところでしょうが、軍用となると実験的に採用したという可能性は大いにありそうですよね。そうだったら面白い話です。鉄筋の年代問題は、錆びた鉄筋の刻印マークを誤認したとか、何かの事故で壊れてしまった標柱を昭和初期に復旧した何本かの一つがたまたま調査した検体だったとか、そういった可能性も否定できない訳ではないし(笑)

輸入鋼材ということでは、総武線市ヶ谷〜御茶ノ水のどこかの駅でプラットホームの支柱に使われているレール材に「KRUPP」と刻印さているのを見つけた時は思わず心の中でおおぉ〜と絶叫してしまいましたよ。それももうずっと前の話ですが。

投稿: hn-nh | 2018年3月 4日 (日) 06時54分

>hn-nhさん

さすがに炭素同位体測定は……(笑)。
一番ありそうなのは、鉄筋の形式(表面のギザ付けとか)による判断ではないでしょうか。この太さの標石に使われている鉄筋で、刻印とかはないんじゃないかなあ……。

ちなみに(以前に当「かばぶ」の記事にも書きましたが)この辺の駅の古レール柱には、日本におけるレール生産開始以前の輸入品と思われる、19世紀末の英キャンメル社製とか独ドルトムンター・ウニオン製などが割とよくあります。

投稿: かば◎ | 2018年3月 4日 (日) 11時49分

こういうペナント的なものは、役所の法律(?)で何年にこう決まったっていう、ツバつけた!的な宣言なもので、石碑とかとは違う文化なのでしょうね。

投稿: みやまえ | 2018年3月 5日 (月) 23時32分

>みやまえさん

そうですね。シリーズで立っていて、範囲を示しているので、いわゆる「記念碑」的なものとは違いますね。

もっとも、(これは山の中なのでそのままかと思いますが)現存品は結構、「もともと立っていた場所が開発され、しかし捨てるには惜しいので移転」という例もあるので、「地点の史料」としては注意が必要ですね。

投稿: かば◎ | 2018年3月 6日 (火) 10時33分

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