« 改めて披露山(前編) | トップページ | 改めて披露山(後編) »

改めて披露山(中編)

●逗子市立披露山公園、元・小坪高角砲台レポートの続き。

ちなみに(前回書かなかったが)、この披露山山頂は現在の住所で言えば「逗子市新宿」であって「逗子市小坪」ではない。それがなぜ「小坪砲台」なのかと言えば、昭和18年まで新宿は小坪の一部(東小坪)であったため。

●入口から数えて2番目の砲台跡である展望台(前回現況航空写真の⑥)。

20170708_145237 20170708_145145

ただし前述のように、小坪高角砲台には3基分の砲台跡があるものの、実際には12.7cm連装高角砲は2基しか配備されず、この展望塔になった場所には、探照灯か測距儀か、要するに高射砲の「周辺機器」が据えられていたらしい。

ちなみに小坪高角砲台は日米開戦前に建設されているが、なかなか砲は配備されず、一度決まった砲が軍艦に回されてしまったりして(もともと12.7cm連装高角砲は艦載用途なのでそちらが優先されたものか)、実際に配備されたのは1942年6月になってからだった由。その2カ月前にはドーリットルによる日本本土初空襲があったから、それを受けて慌てて配備したのかもしれない。

さて、展望台は中心の太い柱で支えられ、その柱の両側に螺旋階段を添わせた形状。展望台下の崖側はウッドデッキ(左写真で奥側)、反対側(階段入り口側、左写真で手前側)はコンクリートで地面と同レベルになっているが(階段手前はさらに一段高かったかも)、北側(左写真で右側)一部だけは一段窪んでいる。この窪みの外周が、猿舎と相似の傾斜面になっているのは、hnさんの記事を読んで改めて気付かされた部分。

展望台階段脇には(東日本大震災後にあちこちに掲示されるようになった)標高掲示があり、この地点(おおよそ山頂広場全体)が92.5mの高さであることが判る。

20170708_145318 20170708_145344

展望台に上らずとも、この展望台下の崖際は披露山山頂広場の中でも見晴らしのいいポイントのひとつ。暑い日の午後、もやっているうえに逆光なのでこんな感じだが、時刻や天候、季節によっては、正面の江の島の向こうに富士山が綺麗に見える。

もっとも砲台の立地として考えると、手前の(現在の披露山庭園住宅の)高台に遮られて小坪湾は見えず、右手中景に出っ張った飯島崎のために鎌倉湾も見えない(さらにその向こうは稲村ケ崎)。もともと12.7cm連装高角砲(四十口径八九式十二糎七高角砲)は対空・対艦両方に使える両用砲として作られたものだそうだが、仮に山頂西端にあるこの場所に砲が据えられていたとしても、こちら側の海からの侵攻への対処は考慮されていなさそうだ(そもそもほとんど俯角が取れないすり鉢砲座になっている時点でそうだとは思うが)。

ちなみに飯島崎の崖面には、まさに対艦の防衛用として、洞窟型の「西小坪海面砲台」が作られていた。この洞窟砲台では、終戦後、地元の子供たちが入り込んで遊んでいる際に未回収の弾薬が爆発、14人が死亡、23人が負傷する事故が起きている。これについては以前にも記事にしている。

20170708_152446 20170708_152433

上2枚は展望デッキの写真。

砲台とは関係ない話だが、デッキ外周の壁が外側に向かって広がる形に傾いているためなのか(加えて、天井が中心に向かってわずかに下がっていることも関係しているかもしれない)、この展望デッキは、「常に自分がいる場所が一番高く、反対側に向けて床が低くなっているように感じる」という、非常に不思議な感覚というか、ある種のだまし絵的不安感を抱かせるものとなっている(最初は、「あれ? この展望台、もしかしたら傾いてる?」と思った)。写真ではうまく伝わらないだろうし、もしかしたら、たまたま私がそう感じただけなのかもしれないが。

もちろん、展望デッキに上がって、遠くの景色を眺めて「うわー綺麗だねー」と言ってすぐ降りてしまえば気付かないままだと思う(それが本来の用途ではあるが)。もし披露山公園においでになる機会があったら、展望台に上って景色とは逆に柱側を向いて確認してみて欲しい。

20170708_151538

花壇および猿舎は、直径12mの「コンクリートのすり鉢」の外側はそのまま地面だが、この展望台だけはさらに1m幅くらいにコンクリートが打ってある。よく見ると、コンクリート表面に点々と穴を補修した跡があり、すわ、機銃掃射の跡か!?と思ったのだが、よくよく形を見ると、どうも犬の足跡のようだ(あるいはもしかしたらタヌキ?)。コンクリートが固まる前に迷い込んだものか。

展望台から落ちる雨水などで周囲がぬかるまないようにとか、そんなような理由で展望台建設時、あるいはその後に追加で打設されたものではと思う。

●3つめの砲台跡である猿舎(前回現況航空写真の⑦)。……ようやく!

20170708_145607

先述のように、コンクリートで作られたすり鉢状の構築物は、ほぼ当時のまま。その上に、ドーム状の金網と、金網から1mほど?離れて柵が設けられている。

20170708_145626 20170708_145708 20170708_145835

猿舎内は2m程度すり鉢状に掘り下げられており、斜めになった周囲の壁面には弾薬の仮置き場か、四角い壁龕が並んでいる。

これまではボンヤリと「要するにこういう形に作った猿舎なんだな」という先入観で見ていただけだが、実際、他の場所の遺構の写真と比較しても当時の高射砲陣地の形状をほぼそのまま残しており、猿舎内も、目立つ変更点は南西側に作られた猿山と中央の水飲み場、さらにその中央の檻の支持柱程度。

自分の立っている側の壁面は見えないので(しかも猿舎の間近に立っていると、この暑い季節、結構匂いがきついので)念を入れて数えてはいないのだが、壁龕の数はおそらく8つ。ただし、8つの壁龕は45°の等間隔ではなく、階段とその隣の四角い小檻のある部分の左右の壁龕は離れていて、その分、他の壁龕間の間隔は45°より狭くなっているようだ。上写真でも、よく見ると一つ置いた壁龕間の角度は直角には足りていないように見える。

20170708_153633 20170708_153613 20170708_151443

この小檻の中の構造に関しては、たまたま猿の飼育員さんがいて聞くことができた。檻の奥は壁龕よりもずっと大きな空間(地下室)になっており、「外に出ている檻の2倍くらい奥行きがある」由。猿舎としてわざわざ小檻を作った理由は聞き忘れたが、小檻の扉は通常は開放してあり、暑い日には猿が地下室に入って涼んでいることも多いそうだ。

砲台当時の用途は、警戒態勢時の兵員の詰め所、もしくは銃爆撃の際の避難所かと思うが、私にはよく判らない。

なお、「すり鉢」周辺は基本は土の地面だが、この小檻(地下室)の入り口付近の上だけは若干コンクリートが露出している。hnさんがレポート前編で引用しているほぼ同形の砲台の戦時中の写真(山口県大津島高角砲台のもの?)では、この「控室」は天井がないので、ここも戦後に天井を被せて地下室化した可能性はあるかもしれない。

20170708_151428 20170708_151435

猿舎内に降りる階段。階段そのものは砲台時代のままのようだが、扉は階段の約半分の幅しかない。猿舎を囲む金網の下にはコンクリートの脚(土台)があるが、これはすり鉢状の砲台の構築物の上に、金網を被せる際に継ぎ足して作ったものと思われる。このコンクリートの脚は、階段部分も(扉の直下を除いて)コの字に囲んでいる。

20170708_151247 20170708_151311

中央の現・水飲み場が、もともと高射砲の砲架が据えられていたところで、元は前回冒頭に貼った猿島の台座跡のように砲据え付け用のボルト列があったのではないかと思われる。

hnさんは「底の部分にコンクリートが全面に敷かれてるのは、戦前にはなかった仕様。」と書かれているが、ここ以外の同形式の高角砲陣地遺構の例を見ても、ある程度広い面積でコンクリート床になっていたのではと思われる。右写真には、水飲み場の外側に何かを取り外したような、鉄製の輪が埋まっているのが確認できる。砲台時代からのものである可能性があるが、正体は不明。

●付け足しのあれこれをあともう一回続ける予定。

|

« 改めて披露山(前編) | トップページ | 改めて披露山(後編) »

かば◎の迂闊な日々」カテゴリの記事

軍事遺構」カテゴリの記事

コメント

展望デッキの床。どう見ても傾いてますよね。
こりゃ面白いと傾斜をiPhoneのレベルアプリで測ってみたら...水平でしたよ。
円を描く床、斜めの床と天井が目の錯覚を誘うのでしょうね。

待避所の穴とか図面を修正したいと思いますが、幅とか深さとかもう少し情報が欲しいところです。

コンクリは固まる時に熱が出るから、ニャンコとかに歩かれちゃうことあるんですよねー
まだ全然固まってな買ったのか、ズボっと深い足跡ついてたりする時も(笑)

投稿: hn | 2017年7月12日 (水) 19時28分

>hnさん

おお。hnさんも「傾いてる!」と感じましたか。
よかった。私だけの思い込みじゃなかった(笑)。

「地下室」に関しては、外の金網と、小檻の金網の2重になっているせいで、開口部の幅もよく判りませんね。

というより、そもそも「穴が開いているのか」自体よく判らなくて、飼育員さんへの質問も「あの檻の奥って穴が開いてるんですか?」でした。

投稿: かば◎ | 2017年7月12日 (水) 20時44分

足あとで思い出しましたが、二十年以上前、まだ張り切り会社員だった頃、本社から、本社が手狭で借りた別ビルのオフィスへ移動する際に、駆け足で隣のビルとの角を曲がったらグニャって・・・コンクリ打ちたてのところを踏んでしまいました。
以来20年近くわたしの足あとが九段北の一角に残っていたわけですが、ふみたての頃は後ろめたくてドキドキしてたものの、そのうち存在を忘れ、気がついたら工事してて、無くなった時ちょっとさみしかったです。

投稿: みやまえ | 2017年7月12日 (水) 20時55分

>みやまえさん

九段北!
それは惜しいことをしました。
よく行く仕事先が神保町(端っこで俎橋寄り)なので、まだ残っていれば見に行ったのに。

投稿: かば◎ | 2017年7月13日 (木) 08時25分

>みやまえさん かば◎さん
九段北、俎橋。なんだか懐かしい名前です。
もう10年以上も前ですが、俎橋の近くに仕事場があった時期があり、その辺りはよく歩いてました...さすがに角を曲がったところの足跡には気がつきませんでしたが。(笑)

俎橋の横、靖国通りに面した九段下ビル(1927:震災復興で建てられた共同ビル)の1Fの東京珈琲でよく仕事サボってました。そのビルも何年も前に無くなってしまいましたが。

投稿: hn | 2017年7月15日 (土) 10時40分

>hnさん

九段下ビルは、取り壊された直後に「かばぶ」でもちょっと触れています。
http://kabanos.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-fcd3.html

あの下の喫茶店は、いつも横目で見ているだけで結局入ったことはなかったなあ……。

投稿: かば◎ | 2017年7月16日 (日) 12時34分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1208697/71094454

この記事へのトラックバック一覧です: 改めて披露山(中編):

« 改めて披露山(前編) | トップページ | 改めて披露山(後編) »