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2017年3月

双体道祖神補遺

●先日、逗子市教育委員会編「路傍の石仏 その二」(昭和58年)を頼りに、小坪にある7基の双体道祖神を訪ねた話を書いたが、数日前、小坪漁港の端にある佛乗院の庚申塔脇にも、小さな双体道祖神があるのに気付いた。

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「路傍の石仏 その一 逗子市内の庚申塔」、「路傍の石仏 その二」、ともにこの双体道祖神には触れられていないし、造りも新しい感じなので、「その二」が出た昭和58年よりも後に置かれたものではないかと思う。

●駅近くのローソンの前を通りかかったら、入口に「ローソンのパスタが、すごいことに!」という垂れ幕が掛かっていた。

つい、どうすごいことになったのか(腹T青木氏ふうに)妄想してみる。

・夜中になると勝手にウネウネ動く。
・麺の太さが1センチくらいになった。
・お湯を掛けると約25倍に増量。
・歯が欠けるほどアルデンテ。
・合体のうえ三段階変形。
・宇宙戦に対応。

少なくとも、ちょっと美味しくなったような気がする程度では「すごいことに!」に値しない気がする(個人的に)。仮に味が良くなったというのであれば、海原雄山が「ぬう。商品開発担当者を呼べ!」と叫ぶくらいでないと。

●環境省の生物多様性センターが運営する生物情報収集・提供システム(ウェブサイト)「いきものログ」が2週間ほど(たぶん)不通だった(昨日あたりから復旧している)。

それ以前に「いきものログ」で何らかのアナウンスがあったような覚えはない。しばらく経って、それなら生物多様性センターのサイトで判るかと思って行ってみたら、そちらもダウンしていた。しかし、環境省のサイトに行っても、特にお知らせは出ていない。

あまりに長く繋がらないので、何か深刻なトラブルでも起こっているのかと、電話で「いきものログ」の運営事務局に問い合わせてみたら、多様性センターのサーバーのメンテナンスだとのことで、問い合わせた時点(先週中ごろ)で「明日には多様性センターのサイトは再開します。『いきものログ』はもう少し掛かります」と言われた。

それならそれで、環境省サイトで案内が出ていて然るべきなんじゃあ……と思ったのだが、「メンテナンスがある旨は、生物多様性センターのサイトでは3月初めにご案内していたんですが」って、いやそれ、事前に見た人はいいけど、閉まった時点で意味ないよね!?

もしかしたら、環境省の本省と生物多様性センターって仲悪いんですかね?

●義妹から、こんな謎の食物を貰った。

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小さな袋の片側にはローマン・アルファベットでSHAHI MEVA(シャヒ・メヴァ)と書かれている。もう片側もそう書かれているのだろうが、当然ながら全然読めない。「英語面」のほうに材料表記はあるが、生産国表記はない。ただ、あれこれ調べてみると、どうもパキスタン製のようだ。「読めない面」の表記も、(パキスタン公用)ウルドゥー語のウルドゥー文字、であるらしい。

youtubeで「SHAHI MEVA」で検索すると、TV CMらしい動画も何本か出てきた。どうもインド料理屋のレジなどに置いてある「お口スッキリ・スパイス」的なものらしい。一気に口に入れてボリボリ噛むと、(ものによってコーティング付きなので)「お口スッキリ・スパイス」よりずっと甘いものの、口いっぱいに広がる「いんどのかおり」。うはー。何かスゴイ。

●山道を歩いていると、日当たりなのか単に株の勢いの問題なのか、場所によってはアケビの芽がすでにわっさわっさ伸びているところもあり、先週後半、割と本気に収穫。

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ちなみに1枚目の写真は藪の奥の高いところなので収穫不能。「ちっ、あのアケビの芽は酸っぱいに違いない」と指をくわえて見ていただけ。

また、毎年採っている場所でひよひよとしか生えていないために半ばあきらめていたノビルだが、勢い良く生えている場所を別に見つけたので、こちらも収穫。

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半分は昆布出汁醤油漬け、半分は塩漬けにした。

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砂漠の十字軍(10)

週末模型親父さんのところの「デザート・コン」参加作、エアフィックス製1:76(公称)のクルセーダー(Airfix "CRUSADER TANK MkII or MkIII")製作記。

いまひとつ仕上がりに不満は残る(どうも雑な気がする)ものの、これ以上こねくり回して改善するかどうかというと怪しいので、とりあえず完成ということにして、SUMICON掲示板でお披露目をした。

なお、前回以降の進捗としては、

・塗装に関しては前回最後に書いたように、再度スミ入れとウェザリングマスターを繰り返した。

・両サイドの足回りパーツを接着した。ただし、もともとの車体箱組が歪んでいたのか、それとも履帯取り付け時に反ったのか、接着後、左右の履帯の(リブの)角度が揃わず、よく見るとちょっと情けない状態になっている。

・砲塔上部、長短のアンテナ線を0.2mmの洋白線(VOLKSで購入)で追加。長い方のアンテナにはプラペーパーでペナントを付けた。青色で塗ったのは根拠があるわけではなく、なんとなく映えそうだといういい加減な理由。迷彩含め、イギリス軍の偉い人が見たら怒りそうだ……。

・砲塔サーチライトに、娘のネイル用UVレジンでレンズを入れた。透明度が非常に高いので、角度によっては何も入っていないように見える。中心に電球を表現する何かを入れるべきだったかも。

●完成写真。

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クローズアップも少々。

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恒例の10円玉との記念写真。

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●なお、今回は(私にしては)珍しく、展示台も作成した。……といっても、東急ハンズで買ってきたコルクのブロックにネームプレートを入れただけ。

ネーム自体は単純に紙に印刷したもので、上から透明プラバンを被せ、四隅に穴を開けて真鍮の化粧釘で止めた。

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名越送水管路ずい道

●数日前、歩いて鎌倉駅前に出る途中、名越隧道脇の、ふだん鎖を張られているゴミ収集車駐車場が開いていたので、その奥の送水管路隧道入口の写真を間近で撮らせてもらった。

この送水管隧道についても、水道路(すいどうみち)についてもこれまでに何度も取り上げているが、基本的なところだけ繰り返すと、この隧道は、はるか中津川から横須賀まで引かれた軍港水道半原系(大正7年完成)のために作られたもの。軍港水道は戦後横須賀市に移管されたので、鎌倉市(反対側出口は逗子市)にあっても横須賀市の管轄下。

半原系水道は2007年に取水中止、2015年に廃止になっているが、この地点では鎌倉市内で合流した有馬系水道が並走しているため、この隧道は現役のはず。

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レンガは1段ごとに長手のみ・小口のみとしたイギリス積み。猿島で見られたフランス積み(フランドル積み)が明治前半によく見られるのに対し、こちらはそれ以降に一般化したもの。

最後の写真は入口の格子の隙間から撮ったもので、遠くに逗子側出口が見える。少なくともトンネル入り口付近は内壁もレンガ積みのまま保存されているのが判る。水道管は1本だけで、有馬系のものだろうか?

下は逗子・久木側。2015年5月に撮って当ブログにも載せたもので再掲。こちらはかなり手前からフェンスで仕切られて立ち入り禁止になっており、しかも夏季は両側の藪も茂るのでなかなか見づらい。

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●オマケ。久木川に架かる橋近くの、同水道の空気弁マンホール。ともに横須賀市の名と市章入りだが形が違う。鎌倉の海岸橋近くや、逗子の沼間あたりだと海軍の錨マーク入りの点検蓋もある。

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東京湾要塞

●先日、披露山庭園住宅入口の庚申塔の話をしたが、同様に、ポケモンgoの「ポケストップ」に選定されている、なかなかマニアックな小ランドマークについて。

横須賀線に乗っていて、北鎌倉駅で、何気なくポケストップの表示を開いてみると、「東京湾要塞第二区地帯標」なる石柱が出てきた。

そんなわけで、数日前、散歩の足を延ばして亀が谷坂を越えて北鎌倉まで歩いてみた。目当ての石柱はまさに駅の目と鼻の先。駅前の信号を渡った向かいにある。

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花崗岩製の四角柱で、上端はごく浅いピラミッド型。

正面:東京湾要塞第二区地帯標
右面:第四五号
左面:昭和十六年七月二十日建設
裏面:海軍省

「東京湾要塞第*区」というのは、おそらくセキュリティ上のランク設定のための区域指定で、実際の(東京湾防衛のための)要塞設備からの距離により、第一区~第三区まで設定されたらしい。水道路の標石ほかでさんざん参考にさせていただいた「東京湾要塞」のサイトに詳しい。要塞地帯標そのもののページはこちら。それによれば、「第二区」は(昭和15年の最終改訂で)防衛設備から5000m以内だそうだ。ちなみに、北鎌倉駅前から横須賀方面に線を伸ばすと、軍港ではなく、池子弾薬庫跡地あたりでちょうど5kmとなる。もちろん、この標石の位置が動いていないとした場合だが。

改めて前記のページを見て思い出したのだが、しばらく前に、みやまえさんが同じシリーズの標石の写真を、御自分のところの掲示板にアップしていたのだった。teacupの掲示板のURLの振り方がどういうシステムになっているか判らないが、とりあえず現時点ではここ)。

みやまえさんの写真の標石は先のページで言うと7番で、横須賀市武にあるもの。半分埋まっているので見えないが、おそらく「第一区」、しかもおそらく続き番号で建てられている標石の「第一号」。そのうち見に行きたいような気も。

●先のページによれば、もっとご近所にもう一本「東京湾要塞第*区」の標石がある。その脇を普段から比較的よく通るにも関わらず気が付かなかった。というわけで、そちらも改めて訪ねてみた。

場所は、鎌倉・材木座のぎりぎり小坪寄り。光明寺前の道が、逗子マリーナ方面(小坪海岸トンネル)、姥子台方面に分岐する三角地の角の先にある。

植え込みの中にあるうえ、半ば埋まっていて、これはさすがに傍を通っても気付かないわけだが、実際に探し当てても、表面の文字は読み取りづらい。そもそも民家の敷地内にあるので根元を掻き分けるわけにも(増してや掘るわけにも)いかない。

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先の「東京湾要塞地帯標」のページでは、北鎌倉駅前の標石と仕様が似ていることから、同じく昭和十六年七月二十日建設、区域指定も「東京湾要塞第二区地帯標」であろうと推定している。

ちなみにこの地点から5kmとなると、池子弾薬庫はすっかり通り越してしまう。横須賀軍港方面だと、沼間五霊神社あたりというひどく中途半端な位置。三浦半島東岸沿いに引っ張ると、ちょうど葉山御用邸が5km地点となる。謎。

●春の散歩の植物あれこれ。

アケビが芽吹き始め、花も咲き始めた。芽が食べ頃になるくらい伸びるのは、半月先くらいだろうか。

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モミジイチゴ(9日、名越切通)、ショカツサイ(9日、鎌倉大町)、ヒメウズ(11日、大切岸)、イワタバコの芽生え(11日、大切岸)。イワタバコの芽は縮緬のよう。

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つくし(9日、鎌倉扇が谷)、まだ開きかけのキブシの花(11日、大切岸)。キブシの花はおひたし・天ぷらなどで食べられると、とあるサイトに書いてあった。誰か食べたことがあるひといる?

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つい先日、「日本のタンポポとセイヨウタンポポ」(小川潔著)という本を読んで、改めてタンポポに注目中(というより、興味があったからこそ本を読んだのだが)。というわけで身近なタンポポ。

最初は近所のシロバナタンポポ。

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大切岸のタンポポ群。総苞外片の形状を見る限りでは在来種のカントウタンポポのようだが、交雑種も増えているそうなので「カントウタンポポの形質が濃い」くらいしか言えない。

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近所の野原で見たタンポポ。総苞外片の形状からはカントウタンポポっぽいが、花弁が黄色に白のメッシュ入りになっている。カントウタンポポとシロバナタンポポの交雑種の可能性はあるのか? 環境省「いきものログ」の種名調べ支援で問い合わせ中。

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砂漠の十字軍(9)

週末模型親父さんのところの「デザート・コン」参加作、エアフィックス製1:76(公称)のクルセーダー(Airfix "CRUSADER TANK MkII or MkIII")製作記。塗装の続き。

●イギリス軍車両の塗色は、北アフリカ戦線に関しても実際にはギチギチに規則で定められていそうだが、その辺、私は生半可以下の知識しかなく、おおよそ以下のような理解。

・北アフリカのクルセーダーは、サンディブラウン(ライトストーン)単色か、サンディブラウンをベースにおおよそ車体の裾部分を波型に濃色で塗る2色迷彩が施されている場合が多い。

・基本、初期は単色で、その後、比較的ラフな感じで塗り分けた迷彩が行われるようになり、だんだんパターンが定型化してくるという流れのようだ。

・迷彩色の濃色は、とりあえずあれこれ資料の塗装図を信用するなら、黒、ブラウン(テラコッタ)、グリーン(ダークグリーン)のいずれかが使われているらしい。実際のところは、白黒写真で見る分には、「この迷彩色はずいぶん暗いから黒かもしれない」「これはちょっと明るめなので黒ではないかも」くらいのことしかわからず、ブラウンかグリーンかの別は判断しようがない。

以上はあくまで、適当に写真やら塗装図やらを見て「そんな感じ?」と思っているだけなので、きちんと北アフリカのイギリス軍を作りたい人はちゃんとそれなりの資料を読むように。

●相手がミニスケールということもあって、あまりコントラストが強いとオモチャっぽく見えそうだし、ということで、迷彩色はブラウンにした。もちろん、それなりに塗装のウデがある人なら黒の迷彩でもちゃんと落ち着かせてしまうのだろうが。

というわけでとりあえず迷彩色を乗せたのが下左写真。ブラウンはVallejoのFS30145(143)、フラットアースを使った。

実際にはこのブラウンの正規の色名はテラコッタだそうで、その名からのイメージからすると、もっと赤茶というか、オレンジっぽい感じなのかもしれない。なんだかアフリカ戦線のイギリス空軍機のようなイメージで塗ってしまった(ちなみにRAFのアフリカ迷彩上面色はミッドストーンとダークアース)。

その後、エアコン下に置いて乾燥促進(下右)。

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塗り分けラインは、初期のものと思われる割といい加減なパターンのものだと全体像が分かる写真が少なく、結局、塗装図などに取り上げられることが多いパターンを参考にした。しかし、実際にはこの(比較的定型化された)パターンは、アフリカ戦でも後期特有である可能性がある。

ネット上で拾った写真でもこのパターンのものが数枚あるが、うち1枚は「EL HAMMA」と書かれた看板と一緒に写っている。EL HAMMAはチュニジア国内の地名であるらしい。暗色部分も比較的色が濃く、塗色も黒である可能性がある。

ちなみにその「EL HAMMA」の写真は、先頭はMk.IIだが後続はMk.IIIで、とっくにMk.IIIが登場してからの写真ということになる。タミヤの組立説明図にもこのパターンは取り上げられており(ちなみに迷彩色の指定は黒)、それには「第1機甲師団所属車輌 1943年3月エル・ハムマ」と書かれている。

……うーん。サンド単色の車輌にしておいたほうが無難だったかな?

●油彩のアンバーでウォッシング(左)。さらにタミヤのウェザリングマスターで若干の表情を付けてみた。なんとかサマになってきたような感じもするが、もう少しメリハリが欲しい気がするので、もう一度墨入れ/ウェザリングマスターを繰り返すかも。

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双体道祖神

●先日、図書館から借りてきた資料、逗子市教育委員会(昭和58年)発行「逗子市文化財資料集(II) 路傍の石仏その二」を読んでいたら、興味深い記述があった。曰く、

昭和五十六年三月に「神奈川県の道祖神調査報告書」が県の文化財保護課から刊行された。これを見る限りにおいても三浦半島には、双体道祖神の塔は一基もないと言えそうである。ところが小坪には七基この塔が残されていたのである。

なお、この記述だと「神奈川県の道祖神調査報告書」に小坪の道祖神が漏れているように読めてしまうが、小坪の道祖神で検索してみると、「神奈川県の道祖神調査報告書」を手掛かりに訪れている人もいるようなので、おそらく「小坪のほかには一基もない」ということなのだと思われる。

主に村の守り神として置かれる道祖神のなかでも、双体道祖神は男女2神が一組となったもの。wikipediaの記述によれば、双体道祖神は関東甲信越に多いが、「山間部において濃密に分布する一方で平野・海浜地域では希薄」だそうで、それがどうして小坪にだけ7基もあるのか、なかなか面白い(といったところで理由は判らなさそうだが)。

ちなみに、みうらじゅんが「ほぼ日刊イトイ新聞」で語っているところによれば、長野あたりには歓喜天のように抱き合った双体道祖神もあるのだそうだ。ちなみのちなみに、長野の地場の出版社、ほおずき書籍出版というところから、「信州双体道祖神めぐり」という本が出ているらしい。うわ。なんかちょっと欲しいかも。

そんなこんなでいろいろ興味を惹かれたので、上記資料をもとに、散歩がてら小坪漁港あたりを歩き回ってみた(7基とも漁港周辺の神社にある)。

▼子之神社(小坪5丁目6)

小坪港前交差点脇。鳥居脇の「子之神社」と大書された石碑のそのまた脇に、庚申塔などと一緒に立っている。子之神社そのものは昭和になるまで幾度か場所を移っているそうだ。

小坪に残った7基の双体道祖神の中では、おそらく最も保存状態がよく、根元部分に若干の欠けはあるものの、2体の道祖神の衣服のディテールや顔もしっかり残っている。

もっとも、左右よく似通っていて、どちらが男神でどちらが女神なのかちょっとはっきりしない。わずかに背が低い、向かって右が女神だろうか? ちなみに「双体道祖神」で画像検索してみると判るが、べつにどちらが左右か決まりがあるわけではなさそうだ。

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▼神明社(小坪5丁目7−29)

元々の地区名で言うと西町の鎮守で、食堂「めしやっちゃん」の脇を入って山の中腹にある。その神明社の石段脇の小石塔群のなかに、3基の双体道祖神がある。まずは全景。

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個々の双体道祖神を階段上から順に。

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1基目は横一文字にひびが入っているものの、3基のうちでは最も保存が良い。

2基目はその気になって見ればうっすらと2体浮き上がってはいるものの、ぱっと見には正体不明の石板に近い。前述の資料「路傍の石仏その二」に掲載された写真だともうちょっとはっきり人の形をしているので、30年余りでさらに風化が進んでしまったものらしい。

3基目は双体道祖神であることははっきり判るものの、破損が激しく、だいぶ残念な状態。

▼八幡宮(小坪4丁目9)

旧地区名だと南町と伊勢町の境目くらい。小坪村総鎮守の天照大神社を下ったあたりにある。双体道祖神は、社殿脇の小さなコンクリートの祠の中に納められている。割と平板な浮彫調。

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▼諏訪神社(小坪4丁目19)

八幡宮裏を過ぎて、ほとんど披露山庭園住宅まで上り詰めたあたり(というよりほとんど大崎公園入り口脇)にある小さな神社。八幡宮同様、社殿脇の小さな祠に納められている。保存状態は比較的良好。

ちなみに諏訪神社は、もともと佛乗院裏の山の中腹にあったものが関東大震災の時に倒壊し、その後現在の場所に移ったとのこと。この道祖神も元の諏訪神社境内にあったものか。

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▼一之宮神社(小坪4丁目3−9)

小坪郵便局裏手にある。前述の資料「路傍の石仏その二」には、「高さ41cm」「木の祠の中」とある。同神社社殿の周りには木の小さな祠がいくつかあるのだが、その中身で、双体道祖神の可能性のあるものは写真(左側)のものだけだが、表面は風化・摩耗してしまい、そもそも何か彫ってあったのかどうかさえよく判らない状態。祠正面の格子の合間から撮ったので、ますます何だかよく判らなくなっている。

前出資料の前巻にあたる「路傍の石仏その一 逗子市内の庚申塔」には、

社殿の左手に木造の祠があって、この中に双体道祖神の石塔と、丸みのある自然石に「猿田彦大神」と刻んだ、明治二十四年建立の塔が、いっしょに祀られている。

とある。実際、同じ祠に「猿田彦大神」があったので(写真右)、やはりこれが双体道祖神で間違いないようだ。なお、「路傍の石仏その二」には7基中6基の双体道祖神の写真が掲載されていて、なぜかこの一之宮神社のものだけは外されている。「路傍の石仏その二」編纂時に、すでにかなり摩耗していて「載せてもしょうがない」と判断されたのかもしれない。

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Googleマイマップで位置を記入してみた。神明社に3つ集中しているので、ポイントとしては5カ所。

●道祖神巡りの途中で見かけたスミレ(おそらくタチツボスミレ)。

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●以下、3月8日追記。

逗子市立図書館で、上記に名前が出ている資料、「神奈川県の道祖神調査報告書」(神奈川県教育庁文化財保護課発行)を読んでみた。

上で推察した通り、小坪の双体道祖神はしっかり(7基すべて)取り上げられていた。また、どうやら双体道祖神のみならず、道祖神それ自体、基本、逗子市内では小坪にしか存在しないらしい。例外として、桜山に一基、「道祖大神」と刻んだ石碑があるそうで、これは明治の末に個人が建てたものだそうだ。

さて、この「神奈川県の道祖神調査報告書」に、小坪の道祖神に関して興味深い解説が出ている。

まずその呼称なのだが、

小坪の道祖神は七基とも全部「ドウロクジン」と呼ばれている。文字ではどのように書くのか、よくわかっていない。「道陸神」なのか「道六神」と書くのか、集落の人々は知っていない。

もっとも今では「どう書くのか」以前に、「ドウロクジン」と呼んでいたことさえ知っている人は少ないかもしれない。(もともとここの出身ではない私はもちろん知らなかった。)

また、大正末期までは、「サイトウ」と呼ばれる火祭り(=左義長、いわゆるどんど焼き)のたび、「ドウロクジン」石塔を火の中に放り込んでいたらしい。いや、そりゃ割れたり傷んだりするわけだよ! そんなわけで、道祖神塔はたびたび造り替えていたのだそうだ(以上は簡単にだが最初に出した資料、「路傍の石仏その二」にも書いてある)。つまり、上写真の中でも状態のいいものは、比較的近い時代に新調されたものなのだろう。これについてのもう少し詳細な記述を引用しておく。

 大正のなかば頃までは、一月十四日の朝、六時頃、まだ船が出ないうちに各神社毎に「サイトウ」の火を焚いた。沖へ出る前に火にあたっていったのである。このときお宮から若いしが「ドウロクジン」塔を運んできて、火の中に入れて焼いた。集落によって多少のニュアンスの違いはあるが、この一年間病気とか、数々のわざわいが家々に起こった。それらの全部を「ドウロクジン」に背負っていってもらう。そして焼き払ってもらうという意味付けをしている。集落によっては塔を火の中に入れず火の傍に置いて、火が燃えている間、塔に「おみき」を振りかけ、禍いを払ってくれることをお願いするというところもある。
 ある老人は、道陸神は書き役で、村の辻に立って入ってくる禍いを細大もらさず記録している神様だから、「サイトウ」の時に禍いを書きとめた帳面を全部焼き捨ててもらうのだと話してくれた。
(中略)
 祭が終わってから、子供たちは、家々からお賽銭を集めて、菓子などを買ってたべていた。お金を集めるとき子供たちはモッコに入れた道陸神塔を天秤棒でかつぎ、次のような唱えごとを一斉に唱えながら、各戸をめぐり歩いた。「どうろくじんのかんけい(勧化ではないだとうかと一柳太郎氏は教えてくださった)ぜねくれねえとぶっこむぞ。」
 お賽銭をくれない家があると、その門口に塔を置いてきてしまったのだという。大正の終わり頃まではこのようなことが続いていたという。

道祖神が帳面に禍を書きつけているという話は、庚申の言い伝えの三尸の虫と何か混じっているような気もする。

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砂漠の十字軍(8)

週末模型親父さんのところの「デザート・コン」参加作、エアフィックス製1:76(公称)のクルセーダー(Airfix "CRUSADER TANK MkII or MkIII")製作記。

本来、2月末が締め切りだったのだが、1か月延長。3月末までとなった。2月中(仕事が煮詰まって)ほとんど製作が進まなかったので、これは有り難い。

20170130_231447前回までで基本、工作は終了しているのだが、前回の追記で書いたように、予備履帯ラックのディテールが「ガルパンに負けてる!?」というのが気になったので、ロッドを追加することにした。

最初は、すでに付けてあるエッチングの切れ端製の枠を一度取り外し、穴を開けて再接着しようと思ったのだが、素材上でドリルの刃が滑って穴位置が安定せず、枠そのものもプラバンで作り直した(1月末に工作)。

この予備履帯ラックは、他の戦車にはあまり見られない形式のもので、履板3リンクずつ2列を枠に収め、この長いロッドで連結・固定する。つまり、ここに装着されるのは履板だけで、実際に履帯交換する場合は、また別の場所から連結ピンを持ってくる必要がある。なんだかわざわざ面倒にしているような気が……。

20170227_140124 ●前記のように、特に2月半ばわたわたしていたのと、締切延長で安心したのとの相乗効果で1か月まるまる放置していたが、ついに塗装開始。ファレホ(Vallejo)で基本塗装を行った。色は「70912(122) TAN YELLOW」。若干赤みがかった濃い目のサンド色。

特にサーフェサーなどによる下地作りは行わず、直に筆塗り。隠蔽力が強いので、下地の色の違い、細かい金属パーツの上なども、特に問題なくそのまま塗ることができる。ただし、

▼溶剤が水で揮発性が低いためか、塗っている時は塗料に厚みがあり、ちょっとデロデロ感があり、筆むらも目立つ。ただし、これはその後ある程度時間を経て乾燥してくると被膜も薄くなり、むらも目立たなくなって落ち着く。

▼上記は、他の塗料に比べかなり塗料を濃い目で塗るのがデフォであることも関係していると思う。水性塗料であるせいもあるが、あまり薄めだとプラ地に若干弾かれ気味になる。

▼サーフェサーなどで下地作りをしっかりしておくとまた違うのだろうが、直に塗ると被膜の弱さが顕著。ツメなどでひっかくと簡単に塗膜が剥がれる。ただし、乾燥が進むにしたがって若干状況は改善される。

なお、写真ではかなり綺麗に、筆むらなくしっかり塗料が乗っているように見えるが、実際には若干の筆むらは残っており、下地がうっすら透けている部分もある。もっとも、この後ウェザリングを行えば気にならなくなる(であろう)レベル。

20170302_134739 ●履帯を塗装。これもファレホで、「304 Track Primer」。

工作手順上、すでに履帯は接着してしまっているので、奥まったところは車体色も履帯色もなかなか塗りづらい。

中央部転輪が緑色なのは、この後、迷彩色で塗り潰してしまうので、未塗装のモールド色で放置してあるため。

前後の転輪のみ明色なのは、(例の「サン・シールド」偽装幌と併用して)遠目にトラックの車輪と誤認させるためと昔どこかで読んだような気がする。

車体に迷彩を施している車輌の場合、この転輪の塗り分けは、主に

 ←後ろ     前→

   〇〇●●〇

   〇●●●〇

   〇〇〇〇〇

の3種類があるようだ。当初は以前に掲載した「サン・シールド」付き車輌に合わせて第一・第五のみ明色の仕様にするつもりだったが(上の履帯塗装前写真)、砲塔まで迷彩するなら第四転輪も明色のほうがポピュラーのような感じだったので、追加で塗った。

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