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砲台に消えた子どもたち

●逗子の小坪と新宿の間の山、披露山は、鎌倉時代に将軍への献上品を披露する場所だったとか、その役人の住まいだったとか言われるところで、現在は小坪湾側の高台は高級住宅地(TBS披露山庭園住宅)、山のてっぺんは披露山公園として開放されていて、鳥の檻やらサルの檻やら展望台やらがある。

以前にも書いたことがあったと思うのだが、この円形のサルの檻、展望台、花壇は、海軍の高角砲陣地の台座をそのまま流用したもので、また、半地下の指揮所を基礎に売店が作られている。

円形の台座は3つあるのだが、横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」によれば、配備・設置されていた砲は12.7糎連装高角砲2基4門であるらしい。台座は3つ作ったものの2基しか配備されなかったのか、1つには測距儀か何かが置かれていたのかはよく判らない。

なお、披露山の新宿側に降りる坂(七曲りと呼ばれる)の途中には、これも以前に書いたが、憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄(咢堂)の山荘跡(風雲閣)と、憲政に反していそうな元都知事邸がある。尾崎行雄は戦時中、ほとんど逗子にこもっていたらしい。ということは、高射砲陣地のすぐ脇で暮らしていたのだろうか。

●この披露山の高角砲台に関しては公園の看板にもきちんと説明が書いてあるので、地元でもそれなりに知られていると思うのだが、実は小坪にはもうひとつ砲台があった。

披露山から小坪の湾(漁港)を隔てて反対側の飯島の岬は、現在は前面が埋め立てられて逗子マリーナになり、単に“マリーナの背景”的な感じなのだが、かつては海に面した波かぶりの崖面だった。崖の中途あたりを削って作られた、鎌倉材木座との間の細い道は、「親不知」と呼ばれる危なっかしい道だったようだ。

F1018391写真は、小坪・海前寺脇を入ったところにある庚申塔で(ピンボケ失礼)、「親不知」の道の小坪集落側の“とっかかり”にあたる部分なのではと思う。現在はこの先で道が途切れている。

戦争後半、この親不知に沿って崖面に洞窟陣地が構築され、15糎加農砲2門が設置された。要するに相模湾の上陸阻止用の海面砲台で、古い写真を見ると、崖面の両側に横穴砲台が1つずつ(北砲台、南砲台)、中央に観測所の小穴がある。当然、中で洞窟が繋がっていたはず。先に上げた「砲術科兵器目録」には「西小坪砲台」の名前で出ていて、15糎砲のほかに短12糎砲1門も配備されたように書かれているのだが、弾薬の欄には斜線が引かれていて、実際にそれも置かれていたのかはよく判らない。

この「西小坪砲台」の横穴はすでに埋められてしまい、現在ではどこに穴が開いていたのかも、外観からは判然としない。

●「西小坪砲台」には悲劇の歴史がある。終戦直後、兵器として使い物にならないよう、砲の尾栓は取り外したものの、弾薬はそのまま洞窟陣地の中に放置されていた。その処分が済まないうちに、地元の子供らが洞窟陣地に入り込み、何かの弾みで弾薬が爆発、子供14人が死亡、23人が負傷するという惨事になった。1945年10月20日のことである。

これについては、後に野村昇司氏という地元の児童文学作家が、「砲台に消えた子どもたち」という本を書いている(ただし、事件を元にはしているものの、話の内容そのものは創作)。地元、小坪小学校のウェブサイトにも、これについて触れたページがある。

とはいえ、説明板があり見た目でも砲台跡が確認できる披露山の高角砲陣地と違い、こちらは前述のように既に位置も曖昧で、いまや砲台があったことも、事故があったことも知る人はいよいよ少なくなっているのではと思う。実を言うと、私自身、砲台があったのを知ったのは3年ほど前で、事故についてはさらに最近。

●ところが先日、地元の地理やら歴史やらについてちょっと調べ物をしていた際、砲台の事故の慰霊碑のようなものが建てられているらしいことを知った。もともとは事故のあった洞窟陣地の前だか脇だかに置かれていたようなのだが、前述のように、洞窟はすでに塞がれていて、慰霊碑も移動しているらしい。

立ち入ることができる場所に置かれているのかどうかも判らなかったが、探してみることにした(3月22日、磯でアメフラシの写真を撮った日。この項写真もすべて同日)。

とにかく碑のようなものがある心当たりといえば、前掲の海前寺下の旧道跡で、最初はその庚申塔の中に紛れているのではと思ったのだが、それらしきものは無し。材木座方面への新道、小坪海岸トンネル入口あたりまで、崖下の道を往復してみたが、やはりそれらしきもの無し。

しばらくうろついた後、マリーナに面した斜面に貼りつくようにある、昔からの小坪の集落(ミニ尾道のような場所)で会った小父さんに聞いて、

「確か今は、小坪海岸トンネルの上んとこにあったと思う」

と、手掛かりを貰うことができた。

F1018369 市営の飯島プールを巻くように歩くと、小さな駐車場に面した崖に、大きな横穴をコンクリートでふさいだ跡がある。これが、砲が設置された2つの横穴のうちのひとつ(北砲台?)なのか、それとは別の穴なのか、古い写真を見ても私には現在の地形との対応ができなくて、よく判らない。

その先に網フェンスがあるが、幸い扉が開いていて、そのまま入ることができた。入ってすぐに庚申塔があるが、これはおそらく、「親不知」の崖道の飯島(材木座)側からの登り口を示すものなのだと思う。

F1018370F1018378プール裏のその坂を上ると、小坪海岸トンネルのマリーナ側入口の上に付く。トンネル口は崖よりも突き出ていて、要するにコンクリートのテーブル上になっているのだが、そこに小さなお地蔵さんがあった。裏面の文字は薄く読みづらいが、「昭和廿四年」と書かれているようだ。

他に文字などもないようで、目指していた「慰霊碑」なのか、これだけでは特定できなかったのだが、その後、逗子市立図書館のレファレンスサービスにも助けてもらって調査。前述の児童書「砲台に消えた子どもたち」の後書きに同じ地蔵の古い写真があり、これが慰霊のために建てられたものであることが確認できた。

新しい花が供えられているところから、事故でなくなった子供に縁のある方だろうか、一応、この所在を知って参る人がいるらしいことが判る。

それにしても、ここにかつて砲台があり、悲惨な事故が起き、慰霊の地蔵もあることについて、簡単でもいいので案内板のようなものを建てられないものか(あるいは市のHPの地域史のページで触れられないものか)と思う。

●これに関して、若干入れ込み気味になってしまうのは、私の母方の叔父が似たような事件/事故の被害者だというのも理由。

やはり終戦直後、父母の郷里である奄美大島北端の集落で、子供が不発弾をいじっていて爆発、5人が死亡、数人が負傷した。叔父もその負傷者の1人で、離れた場所にいたものの飛んできた破片で片手の親指を切断するなどの大怪我を負い、生死の境をさまようことになる(幸い命は取りとめ、今は、飲むとぺろんぺろんになる、半ば愉快で半ば困った酒好きのオジサンである)。

これも、今ならとんでもない大事件のはずだが、ほとんど記録らしい記録は残っていない。唯一、ウェブ上のこのページ(佐仁通信・忘れられている六十年前の惨事)だけがある程度詳しい事情を伝えている。おそらく、当時は日本全国で似たような事故は多発していたのではと思う。

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コメント

ワクワクする探索記ですね。昔は子供さんとかいろんな原因で簡単になくなったようですね・・・切ないです。
爆発事故といえば二又トンネル爆発事故っていうのを最近知ってすげえと思ってましたが、逗子でもあったのですね。
去年お猿のいるところへ登りましたが、なんとなくその時の景色が蘇りました。
あと、いつの間にかMac用djvuが滅びていてびっくりしました。

投稿: みやまえ | 2015年4月 9日 (木) 23時18分

>みやまえさん

「二又トンネル爆発事故」、私も先ほどググってみてようやく知りました。wikipediaにも出ている大事故だったんですね。

写真が載っていますが、山が文字通り消し飛んでいるのが衝撃的です。

なんていうか、「処理法をきちんと検討して手順を踏んで実行した」というのではなく、「テキトーに、爆破しちゃえばいいんじゃね?」という感じで処理した疑いが非常に濃厚な気がするんですが、どうなんでしょ。

投稿: かば◎ | 2015年4月10日 (金) 02時43分

「テキトーに、爆破しちゃえばいいんじゃね?」まさしくそのとおりのようですね。米軍とかソ連軍てそういう豪快な処理が好きそうですし・・・でも532トンの火薬が積んであるのに火をつけるとか・・・

投稿: みやまえ | 2015年4月11日 (土) 02時05分

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