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2014年3月

銀の亡霊

●ケホケホと嫌な咳が続いていて苦しいのだが、「かばぶ」を遡ってみたら、昨年の同時期にも咳をしていたことが判明。さらにはまぶたがむず痒く、ぴくぴく痙攣していて鬱陶しくてしょうがない。やはり(いよいよ本格的に)花粉症らしい。

もっともこのご時勢なので、花粉に加えて、「いやいや、それはPM2.5が引き金になったんだよ」とか「関東にもじわじわと降り積もった放射性物質のせいだね」とか、後からいろいろくっついてきても納得しそう。なお「どこかでマブイを落としてるんじゃないか」はアリだが「ご先祖供養を怠っているせいだからこのツボを買いなさい」はアウト。

●24日月曜日。仕事で本郷の東大。行ってみて気付いたが、構内はローブ(アカデミックドレス)と四角い帽子の人が右往左往。ああ、卒業式の季節かあ。

ところであの帽子は、角を前にかぶるのが正しいのだろうか、それとも辺を前にするのが正しいのだろうか、という素朴な疑問を覚えたのでwikipedia(のアカデミックドレスの項)を見てみたが、

人によっては後ろに角が来るように着用するが、正式には板と地面が平行になるように着用する。

という、なんだか内容に一貫性がない気がする説明しか載っていなかった。そのものズバリ、東京大学のサイトによれば

角帽はマジックテープが後ろ側にくるように被り固定する。

だそうだ。まあ、そりゃそうだろ……。思いっきり真横を高速でフライパスされた気分。

とりあえず、いろいろ写真を見る限りでは角が前(前後左右)らしい。今日の無駄知識。

仕事帰りに構内の総合研究博物館に寄ってみたが(別に何をやっているかは知らず、単にいつも何かしらシブイ展示をしているため)、月曜休館だった。

●まだ午後も早い時間だったので、本郷から秋葉原まで歩く。途中、神田明神に寄る。

予備校も御茶ノ水だったし、以来、ン十年と御茶ノ水界隈は比較的よく行く場所であるにもかかわらず、神田明神には初めて行った。神田明神はお江戸の総鎮守、時代劇などで「神田明神下のなんちゃらかんちゃら」という台詞が出てくることでも有名。祭神はオオナムチにスクナヒコナ、それから平将門。明治から戦中にかけては、天皇がお参りする神社の祭神が逆賊ではイカンというので、将門は本殿から引越しさせられていたそうだ。

お江戸の地理に明るくない方のために添えておくと、「神田明神」といってもJR神田駅からはむしろ遠く、最寄駅はJRなら御茶ノ水か秋葉原。なんでこんなことをわざわざ書くかといえば、帰宅後にかみさんに神田明神に行った話をしたところ、同じく行ったことがない(らしい)かみさんから、「そもそも神田の駅自体ほとんど降りたことがない」と言われたため。私より長く23区の住民だったことがある人間でも、まあ、こんなもんだ。

ちなみに向かいにある湯島天神にもまだ入ったことがない。

●神田明神脇の男坂を降りると、もう秋葉原の電気街の外れ。久々にYSとVOLKSに寄る。bookoffで「ヴォイニッチホテル」の2巻を購入。

ところでヴォイニッチというのは何なんだろうと検索をして「ヴォイニッチ手稿」なるものの存在を知り、しばらくweb上の資料を読みふける。

●RODENの「British Armoured Car (Pattern 1914)」、要するにロールス・ロイス装甲車の続き。前回はガリガリ削って合わせた砲塔の工作だけを見せたが、結局、なんだかその気になって作業を進めてしまった。

F1018191b ▼とりあえずキットのパーツのみで組み上がったシャーシが右写真(とエンジン部の拡大)。

前回のキット評に加えて言うと、エンジン回りだけでなく、基本的にシャーシは細かい。装甲ボディが梨地だったり(しかも不揃い)、厚かったり、エッジがダルかったり、ヒンジがおもちゃっぽかったりしているのと、ずいぶんアンバランス。

ご覧のようにシャーシだけだと精密感も高くて格好よく、最高級車ロールス・ロイス「シルバー・ゴースト」の貫禄充分。もっとも元になった「シルバー・ゴースト」なら後輪はダブルではないはず。

F1018198F1018186  こうなると、いっそ装甲ボディ抜きでシャーシだけで、駆動系を細かく綺麗に塗り分けて飾っておきたいくらいだが、それはそれで問題がある。

  • 細かく見ると各所にヒケなどあり、車体にほとんど隠れてしまうならよいが、表に出すなら、細かいモールドの合間にあって面倒なそれらの修正の要あり。
  • 丸い部品、棒状の部品がところどころひしゃげている。
  • 実車ではエンジンの配線、パイピングが異様に煩雑。ただしエンジン写真(民間車の)は結構ネット上にも見つかるし、追加工作しがいのあるところでもあるが。
  • 後輪ブレーキの操作系は一部パーツで再現されているのだが、操作索(ロッド?)は省略されていて(それは仕方ないが)、どこからどう繋げばよいのかが判らない。ご覧のように後輪側基部の部品はあるので、索がないと結構目立つ。

結局、ここはここでやはり「アンバランス」な問題を抱えている。

F1018189F1018188▼エッチングを組んだ車輪はこんな感じ。前輪はエッチング2枚、後輪は4枚。

しかし後輪では内外の車輪を繋ぐ、だいぶ幅のあるリム部品(9K)がエッチングを抑える役を果たしてくれて、前輪よりも組みやすかった。

前輪・後輪それぞれ3つずつ作り、1つずつが予備タイヤになる。前輪スポークがひとつ、若干ズレてしまったのだが、これを予備にしようか、いやいや、予備は車体側面にあって逆に目立つだろうから使ってるほうにしようか、などなど思案中。

エッチングにそれなりの厚みがあり、ワイヤの一本一本に幅もあるので、こうして写真に撮って拡大するといかにもエッチング然としている。今時のエッチングなら、交差するワイヤに段差を付けて実感を増すくらいのことはしてくれてもいい気はする。もっとも、塗装すれば目立たなくなるし、肉眼で見ている分には気に掛かるほどではないと思う。

F1018203 ▼戦闘室前方上部の三角形を組み合わせた装甲板は、小口部分を極力薄く削ってから取り付けた。その分、戦闘室前面のフラップは余計に高さが必要になるはずで、場合によっては0.3mm板で作り替える。ボンネット部分は未加工で仮に乗せてみたので、薄くしたところ・しなかったところの差が判る。

戦闘室天井前半も、側面に小口の厚さが出てしまう部分なのだが、ここは後半と高さを合わせなければならず、もし側面板の上部をかさ上げするとなると側面リベット列が邪魔になるなど、ちょっと工作が面倒な要素が絡んでくるので、あっさり諦めた。資料も少なく、もともと正確なディテール追求は望むべくもないので、手を抜くところは抜く方針。

ちなみにボンネットフードは梨地の問題、蝶番の問題などあり、0.3mm板で作り直すか、キットのパーツを削って使うか思案中。

F1018183 ▼戦闘室後面ドアは、左右・上下の4分割で、キットは全て同じ大きさになっているが、これは実際には上が大きく、下が小さいようだ(上下幅が異なる)。荷台に隠れて判りづらいところだが、少なくとも現存実車ではそうなっている。

第一次大戦仕様では同じ大きさだった、などという「どんでん返し」もなさそうな気がするので、ハッチは作り替えることになりそう。もともとのパーツにさえ合わなかった蝶番用の穴も埋めた。

▼その他、ディテール上の疑問や課題。

  • シャーシフレームは後輪部分で一段上に上がっているのだが、キットのそれは上がり過ぎではないだろうか。
  • そのフレーム問題ともちょっと関わるが、キットの後輪フェンダーは高過ぎかも。
  • 左側面の覗き穴は、初期の車輌は右側面と同じ、もっと前方にあったようだ。もっとも第一次大戦中仕様でもキットの位置にある車輌もあるようだ。
  • キットの塗装例[I]では、右側面の予備タイヤを取り付けず、代わりに砲塔上にタイヤ(のみ)を重ねるよう指示されている。実際にはこの車輌の、現存写真の中の姿では、砲塔上の予備タイヤは三段重ね。かつ、右側面の予備タイヤがないかどうかは(少なくとも私が探した限りでは)確認できなかった。本数は些細な問題で、私が気になるのは、「本当に予備タイヤなの?」というところ。タイヤではなくタイヤチューブの可能性もあるのでは?
  • タイヤはキットの説明書では黒く塗るように指示されているが、写真から判断するに、第一次大戦中のものは、カーボンブラック入りではない(つまり黒くない)のでは?

なおもあれこれ思案中。

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フォードGPW

●一昨年の、池袋東武での「タミヤ・モデラーズギャラリー」で展示されていた、フォードGPW、1942年型。写真を多少撮ったのにそのまま放置してあったので、唐突ではあるけれど、腐らせておくよりはと載せることにした。

実際に模型を作っていると、資料を前に「ここの細部写真が欲しいんだよ! なんで誰もこんな大事なところを撮ろうと考えなかったんだよ!」と歯噛みする(←変なヤツ)ことも多いのだけれど、実際に自分が実車を前にすると、どこを撮ったらいいかオタオタしてしまい、結局、割と中途半端な写真ばかりある気がする。

●フォードGPWは、大戦中、ウィリスMBと同一仕様で生産されたいわゆる“ジープ”。専門家ではないので、この実車のオリジナル度はよくわからないし、1942年型と言われれば「ほほう」と言うしかないのだが、その年式が正しければ、1942年はフォードでGPWの生産が始まった年なので、GPWとしては初期型ということになる(もっとも「1942年型」と呼ばれる仕様が何年間か続けて作られていたということもありえるわけだが)。

なお、パーツはGPWとMBの間で互換性があるため、現場では使い込まれるほどに、修理によってどんどん両社製の特徴が入り混じって行ったはずである。

●と、ウルサイ前置きはそれくらいにして写真。

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まずは若干引いた写真と、左側面の工具など。

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フロントグリル、バンパー裏など。グリルの直後、ラジエータとの間の最前部クロスメンバーの断面が角ばっている(つまり、グリルとラジエータの間に見えている上面が平たい)のはフォードGPWの特徴で、ウィリスMBだとこれが丸い。バンパーのフレームへの取り付け部前面に小穴がある(左写真の、バンパーの文字[4-]と[X]の間、[H]と[Q]の間)のもGPWの特徴であるらしい。グリル中央下の小ボルトのためのふくらみは、タミヤのキットの箱絵にはあるがパーツにはない。しかし実車でも写真によってはないように見えるものもあり、年式・メーカーによりあったりなかったりするものなのかどうか、個人的に今後のリサーチ対象(HJ別冊の「JEEP JEEP JEEP」がパッと出て来ない)。

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フロントライトの穴が単純な丸ではなく、微妙にオムスビ形なのは比較的有名。タミヤの「SASジープ」は、初版「ウィリス・ジープ」の単純なバリエーションではなく、基本形も細かく修正されており、このオムスビ形もSASジープで初めて再現され、大塚先生が「JEEP JEEP JEEP」で大いに褒めていたような記憶が。右写真ではライトコードもチラ見えしている。ライトの直上でグリルプレートがくぼんでいるのは、ライトをひっくり返してエンジンルームを照らす際のためだろうか?

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左のブラックアウトライト、ボンネット留め具、フロントウィンドウなど。BOライトのコードはフェンダー上で下に引き込まれる。ボンネット後部から出て可倒式フロントウィンドウ支柱に這わせたコードはワイパー用なのが、4枚目写真で判る。適度に省略され作りやすい一方でスタイルが良いタミヤのウィリスMBのキット(2代目)は傑作だと思うが、いくら細かい部品とはいえ、結構目立つボンネット前側の碇型留め具がないのは省略しすぎな気がする。この留め具のうち、上側の寝ているヤツは、ウィンドウを倒した時の固定用(タミヤの箱絵に、その状態がきっちり描かれている)。というわけで、ウィンドウを倒した状態で作る際には、これを引っ掛けた状態にするとポイントが高い(誰的に?)。

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前輪周り。フェンダー下、右側のバルジ(1、2枚目)、左側のエアスクープ(3枚目)、左前輪のステア機構やショックアブソーバなど。ハブ中央形状は前輪と後輪とでちょっと違う。

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荷台と後輪。仕様としてはラジオ・ジープ(無線車)になっていて、荷台右側にはアンテナ・ポストが増設してある。

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リア。ジェリカンラックとナンバープレートに隠れて見えないが、1942年式フォードGPWということなら、この陰にお馴染みの書体で「Ford」のロゴがプレスされているはず(Script Ford)。

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尾根歩き

●「ちゃん」付で呼び合うくらいの親しさの年上の友人が急逝。心筋梗塞だったそうだ。

江古田で鶏肉専門店を経営しており、ほぼちょうど一年前に久しぶりに訪ねて、お土産に鶏胸肉を5kgも貰ったのだった(あれは重かった)。

●鎌倉旧市街を取り巻く山を越える主要な出入り口を俗に「鎌倉七口」という。

「七口」と呼ばれるようになったのは江戸時代からで、そもそも鎌倉時代からあったのかどうか、鎌倉時代の道筋が本当にそこだったのか怪しいものも含まれているそうなのだが、一応、だいぶ前に全部踏破した。

……なんて自慢がましく言わなくても、鎌倉を散歩していれば、この7つを通る機会はしばしばある。

名越や朝比奈のように、新しいトンネルや峠道が近くに出来て、いかにも山道の風情で残されていることろもあれば、極楽寺坂や巨福呂坂のように、舗装された立派な車道に変わってしまったところもある。

ただ、鶴岡八幡宮の裏手から建長寺のほうへ、つまり鎌倉の中心と山ノ内(北鎌倉)を結ぶ巨福呂坂は、今では半洞門式の立派な車道だが、その近くに、中途半端に旧道も残っているのだそうで、そちらは今まで見に行ったことがなかった。

F1018259F1018261 ●そんなわけで、16日日曜日、巨福呂坂旧道を見に行って、そのまま尾根歩きでもしてやろうと思い立って、午後になって出掛ける。

名越から鎌倉駅前まで、さらに小町通りから、八幡宮西側を巨福呂坂方面へ。旧道への曲がり角を一度行き過ぎてしまって引き返す。道が、新道の半洞門へとカーブするよりだいぶ手前を入らないといけないのだった。

しばらくすると、名越隧道脇にあるものとよく似た、現・横須賀市上下水道局管轄の送水管トンネルの出口がある。明治・大正をまたがって作られた半原系水道である名越の送水管トンネルに比べ、こちらの有馬系は第二次大戦中から戦後にかけてのものなのでだいぶ新しい。外側(山ノ内側)は新道の半洞門のすぐ脇にトンネル口があるが、内側(雪ノ下側)はだいぶ離れている。

錆びて読みづらいものの、「史跡 巨福呂坂」と書かれた鉄柱が立っていて、こちら(右側の坂道)が旧道であるらしいことが判る。右はトンネルを覗き込んでみたもの。向こうに山ノ内側の口が見える。

F1018258 送水管トンネル横の坂を上っていくと、左の斜面に青梅聖天社という小さな社がある。その先に庚申塚があり、ここが旧街道筋であった傍証となっている。

もっとも、この“旧道”は、このちょっと先で行き止まりになってしまう。若干は平場が続いているようなのだが、どうも新道の半洞門を作る際に断ち切られてしまったようだ。

●せっかくここまで来たので、青梅聖天社脇から尾根筋によじ登る。

ちなみに青梅聖天社は石段の先に鳥居があり、小さな社を構えている。佇まいとしては神社だが、聖天(元のガネーシャ)は仏教神なので(ちなみにここの本尊(御神体?)は聖天が2体の男女神に分かれて抱き合う歓喜天だそうだ)、神社なのか寺なのかどうもよく判らない。

F1018256 上った先は、ところどころ笹だの枝だのをかき分けないといけないが、季節柄、まださっぱりとしたもので、割とすっきり尾根筋を辿って歩いていける。それよりも、両側がいきなり急斜面や崖で、屏風の上を歩かされているかのよう。いかにも鎌倉の尾根。

F1018240 尾根筋を歩き、巨大五輪塔に到着。

これだけ見るとごく普通に石塔があるだけ、という感じだが、この五輪塔、高さが3m程もある。

扇ヶ谷の支谷のひとつ、泉ヶ谷の浄光明寺のもうひとつ奥に、その昔、多宝寺という寺があり、この塔は、その多宝寺の長老であった覚賢(1306年没)の墓碑であることが確認されている由(国重文)。70年代、修復の際に名前が書かれた骨壷が出てきたのだそうだ。

現在は隣の浄光明寺の管理下で、これより下にある平場は藪ボーボーなのに(したがってここから直接谷には降りられない)、塔の周りがさっぱりしているのは、普段からきちんと手入れをしているのだろう。

F1018247実を言えば、4月の間だけ、浄光明寺の裏山にある冷泉為相墓の裏木戸が開かれていて、そこから歩いて来られるようになっている。つまりは、本来非公開期間であるにもかかわらず、反対側の山から歩いて来てしまったことになる。浄光明寺の方、すんまへん。4月にまた拝観料払って見に来ます(たぶん)。

もっとも、この覚賢塔の後ろの尾根上には、右のような、明らかに人の手による細い掘割(切通し)があったりして、いつ頃までだか、山を越える道が存在していたらしいことが判る。

●山の中をちょいと戻って、亀ヶ谷坂切通方面へ。切通を長寿寺から扇ヶ谷方面に歩く途中、左から降りてくる道なんてあったっけ、などと思いながらテキトーに歩く。尾根のてっぺん近くに唐突に、やぐらがあったりして驚く。

F1018230F1018221 ハイキングコースなどではないから、普通の人はまず知らない場所なのだが、手入れをする人がいると見えて、藪も綺麗に払ってある。やぐら自体も床の納骨穴や壁龕など綺麗に残る。壁が白いのは漆喰痕だろうか。

やぐらは山の中で埋まり放題というところも多いことを考えると、だいぶ状態がいい。

●結局、亀ヶ谷坂までは歩かず、このやぐらの反対側斜面が降りられるようになっていたので、そこから山の下へ。実は非公開のお寺の庭に降りてしまい、(頭の中で)非礼を詫びつつ通り抜けさせてもらった。

亀ヶ谷坂を越えて扇ヶ谷に入り、今度は谷側から覚賢塔があるあたりを見上げてみたが、当然ながらどこにあるやらまったく判らなかった。

●週半ば。今年初めてののびるを収穫。しかし、どうしたわけか昨年あたりと比べると、極端に球根部分の育ちが悪い。というわけで、ほんのちょっと、味見程度にだけ抜いてきた。下拵えをして、塩を振ってジップロック。

●金曜、春分の日。彼岸の中日。前日晩より実家に行き、昼前に母と墓参り、というか、墓掃除に行く。それほど雑草も生えていない。墓の前の芝生にキタテハがいたので写真を撮ろうとして、ようやく実家に置いてきたかばんに携帯を入れっぱなしだったことに気付いた。霊園の桜はまだつぼみ。

実家から帰る途中、梶ヶ谷のbookoffで「ヴォイニッチホテル」第一巻(道満清明)を買う。先日買って読んだ「ニッケルオデオン」(赤)(緑)が面白かったので。

たまプラーザ「Bs HOBBY」に寄るが何も買わず。AIRFIX再販の戦場仕様ロンドンバスがそろそろ出ていないかと思ったが、見かけなかった。

F1018293 ●あるうちに撮っておこうシリーズ。

木曜日夕方、実家に行きがてら撮ったもの。横浜駅、東海道線ホームから写した、旧東横線の残滓。すでに旧ホームと、JR線をまたぐ高架は撤去されているが、その先は未撤去で、先日撮った「何も支えていない脚付き鉄橋」へと続いている。

それはそれとして、暗い雨降りの夕方にわざわざ撮るのは我ながらどうかと思う。まあ、そのうち条件が良いときに横浜駅を通ることがあればまた撮ろう。

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「自動車」2題

●3.11。黙祷。

●しばらく前から変な咳が続いていて、イヤな感じ。花粉アレルギーか何かだと思っていたのだが、チビが熱を出して医者に連れて行ったら気管支炎だった。

え? もしかしたらオレも?

●前回模型話をスキップしてしまったので、だいぶ前のことになるのだが、週末模型親父さんのところで、プラモデルのメッキパーツをキッチンハイターで剥がす、という記事が出ていて、そういえばそんなノウハウは話に聞いてもやったことがなかったなあと思い、自分でも試してみたくなる。

そもそも軍用車輌や軍用機の模型を作っている限り、メッキパーツの入ったキットとの縁は薄いのだが、それでも物好きでストックしてある、メッキパーツ入り別ジャンルの模型はある。

F1018128ハイターはなかったが、カネヨのキッチンブリーチがあった。要するに塩素系漂白剤であればいいので、風呂場の小さな洗面器に3、4倍(目分量)に薄めて、メッキパーツの枝をどぶん。数時間して見て見ると……。

おお! 落ちている! こんなに簡単に綺麗に落ちるなら、もっと早めに試してみるんだった! もっとも今まで切実にメッキを落とさなきゃいけない用事もなかった気がするけど。

ちなみに今回は単純な銀色めっきだったのでそのまま漬けたが、「色付きめっき」の場合は(クリアイエローやクリアブルーなど)トップコートの塗装被膜がかかっていて、一度薄め液などで塗装を剥がさないとダメなようだ。

なにしろプラがまっかっかなおかげでピントも合いづらくディテールがよく判らないが、上写真の鼻先のラジエーター部分が元のメッキパーツ。一部隅っこにメッキの残りがあり、またベースコートがそのままなのでパーツがテカテカだが、それくらいなら整形や塗装の邪魔にならないと思うので放置。

F1018131 全然メッキ取りの作業とは関わりないが、ついでにちょっとだけ手を付けてしまったこの車輌のシャーシはこちら。

一応エンジンからデフやらサスやらの機構は一通り揃っているが、どうもスカスカした感じ。燃料タンクとかどこにあるんでしょうね、この車。ちなみに排気管は付けていないだけでちゃんとある。――さてこの車、なんでしょう?

ここまでお手付きにして、そこそこ「味わった感」を得たので、またそのうちいじることにして仕舞いこむ。……そうでなくてもお手付きが周りにあふれているので、「そのうち」がいつ来るかは不明。

F1018125 ●hideさんのところで、「RODENが1:35でブリッツのバスを発売予告している」という話題をきっかけに、同社のロールス・ロイス装甲車の話が出て(というより話に出したのは私なのだが)、改めてストックしてある同キット(3種出ているうち、第一次大戦中型)を出してチェックしてみた。

そもそもこのキット、だいぶ前に買って帰って家でじっくり見てみたら、どうにもあちこちパーツがだるくて意気消沈してしまい、まるきり手を付けないままに積んであったもの。

ただ、あらかじめ断っておくけれども、だるいとはいってもかつての東欧製キット群に比べればはるかにマシだし、エンジンなども無駄に細かく出来ている(なぜ無駄かといえば、完成するとほとんど見えないため。ちなみにボンネットはそのままでは開けられない)。

別にディテールアップに血道を上げなくても、丁寧に組んで(それ自体、結構手間が掛かりそうだが)、塗装に凝れば、それなりに見場のいいものに仕上がりそうだ。

というわけで、例によって「まともに一直線に作りもせんヤツの文句言い」だと思っていただければ。

F1018107 F1018108 ▼意気消沈した最大のポイントは、肝心の装甲ボディがダルなこと。しかも、表面に部分的に梨地が入っているのもマイナス点。外側で最も梨地がきついのがボンネット上面で、中央のヒンジ部分のモールドもプア。

ボンネットフードほどではないが、ボディ後部の曲面部分も梨地。前方の平面部分は比較的表面が滑らかなのに、同一パーツで表面状態が違うのも謎。後部ハッチのヒンジ部分も、ハッチ部品と一帯のヒンジの厚みを逃がすために(ダルく)彫り込んであるのが嫌な感じ(しかもハッチのヒンジはうまくはまらない)。

また、実車はペラペラな装甲のはずが、装甲の合わせで小口を薄く見せようという努力が足りていない部分が多い。実車の装甲は最大12mmなので、上面だと模型換算で0.3mmにも満たないはずが、上記ボンネットフードとか、砲塔上面の、特に斜めになった横部分とかは、何というか、えらく重装甲。

F1018179 F1018180 ▼そんなわけで、ついでに少々手を付けてしまった砲塔部分の工作。

この部分に関しては、

  • 砲塔四周のパーツの“ベロ”と比べ床板パーツが厚く、砲塔が若干浮き上がったような形になってしまうので、床板を削る。
  • 砲塔垂直面は前後左右で4分割。多少削り合わせの必要あり。
  • 砲塔上面は、前後はまだいいとしても、左右垂れ下がりの部分の小口(特に左右端)にプラの厚みが顕著。多少なりとマシに見えるように、右写真のようにゴリゴリ削って接着した結果が左写真。
  • 機銃用開口部もプラの厚みが目立つので内側から削ったが、どうも第一次大戦型はこの開口部がもっと広い可能性がある。
  • 上面ハッチ周囲の八角形の段差は、確かに図面によっては描いてあるのだが、確かめられる写真が手元にない。若干のヒケが目立ったので、ヒンジを一時削ぎ取ってからヤスリで均した。

▼話が前後するようだが、手元にある「Pattern 1914」、つまり第一次大戦中仕様は、パーツの構成を見ると、プラパーツの枝ではK、L、Mパーツ、スポークのエッチングパーツ、および透明パーツ(シート)とデカールが独自パーツで、残りは3キット共通らしい。

部位で言うと、シャーシおよび装甲ボディは基本共通で、背の低い砲塔、ワイヤスポークの車輪、旧型前部フェンダーなどが大きな違い。

……なのだが、ネット上であれこれ写真を漁ってみると、どうも大戦後になって(あるいは大戦中から)かなり細ごまと戦訓による改良だの、各前線に合わせた工夫だのが取り入れられている様子。というわけで、ひどく根本的な疑問。

砲塔の高さ、車輪、フェンダー、ライト、ラジエーターハッチ、戦闘室前面フラップ――を変えるだけで、本当にオリジナルの(第一次大戦中の)仕様になるのか?

これについては引き続きリサーチの予定。もっとも判ったところで、小手先で変えられる以上のことはしないかも。

F1018115 ▼スポーク式の車輪はエッチング付きで、これは今時の35AFVとしては妥当な選択ではあるのだが、平板のエッチングシートから切り出して、円錐台形に成型するためのジグは雄型しかない。

これに関しては、どこだったか、海外の模型板でも「雌型がないんだけど、どこ?」というような書き込みがあって、ちょっと笑ってしまった。

もっとも、このエッチングシート自体にそれなりの厚みがあり、弾力性もあるので、たとえ雄型・雌型が揃っていたとしても、押し付けるだけでうまく成型できるとは思えない。

(カーモデルの熟練者なら慣れているのかもしれないが)とにかくこのエッチングスポークの工作は曲者で、3つめくらいでようやくなんとなくコツが掴めてきた……って、スペアタイヤを含めても車輪は5~6だし。

とにかく、ジグに押し付けて一気に円錐台形にしようとせず、ハブ部ではスポークの接点の一ヶ所ずつを順番に丹念に曲げていく感じにするのがいいようだ。

●要するに履帯つなぎにちょっと飽きが来ているわけです。

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はぐれ海軍標石

F1018093 ●仕事が途切れてぽっかり穴が開いてしまったのをいいことに(よくないけれど)、近所の史跡「名越切通」について激しく調べる。

名越切通は、旧都鎌倉を囲む山に設けられた出入り口の代表的なもの、いわゆる「鎌倉七口」のひとつで、鎌倉と逗子の間の山越えの道。オバケが出ると有名な小坪トンネル(名越隧道群)のほぼ直上にある(そもそもそのトンネルを通る県道311号鎌倉葉山線が名越切通路に代わる新道なので至近を通っているのは当たり前なのだが)。

ふだん散歩で歩いて通っているでも、いろいろ読むとそれなりに有り難味が出てきたりなんぞして楽しい。なかでも逗子市教育委員会の数年前の発掘調査書は詳しい。

「鎌倉七口のなかでも最も中世の切通しの雰囲気をよく残している」といわれる名越切通だが、「雰囲気」はそうでも、実際の路の高さは新たに掘られたり埋まったりして近世までにだいぶ上下し、さらには道筋の位置まで変わっている可能性があることなども、この調査書でわかる。

なお、上写真は逗子市の報告書で言うところの「第三切通」、鎌倉側から石段が組まれたきつい傾斜を上がりきったところで、写真右手は大切り岸方面への分岐路。左右に、切通の防衛に関係しているといわれてきた平場がある。

切通路本道は、真ん中に巨大な岩が転がっていて、これもまた「簡単に通らせないようにするためのものだ」と説明しているサイトなどが多いのだが、私は単に崩落してきただけのものではないかと疑っている。

●折り良く、名越切通の中途にある「まんだら堂やぐら群」が2ヶ月ちょっとぶりで臨時公開中(3月中の金土日祝。以前は休日のみだったが、金曜日が増えたらしい)。3月中に鎌倉行楽を企画している人はどうぞ。

土日に早速行こうかと思ったが、天気がぐずついていたのでヤメ。もともと水の溜まりやすい山道で、天気が悪いとたちまちぐちゃぐちゃになるため。

F1018055 F1018058 ●以前にも取り上げていると思うのだが、名越切通を越えて鎌倉大町(名越地区)に降りると、坂を下りてすぐの小公園に河津桜があり、毎春見事に咲く。

今はまだ三分咲き程度(3月3日時点)。メジロが花をつついていた。

●名越坂の途中、鎌倉ビールの醸造所の近くに製麺所があり、小売もしてくれて、ラーメンが美味い……という噂はだいぶ前に聞いていて、以前探したことがあるのだけれど、まったくそれらしいところが見つからなかった。

だいぶ鎌倉駅寄り、名越のローソンの近くにも製麺所があるので、たぶんそこの間違いなのだろうということで納得していたのだけれど、つい先日、やはり名越坂途中に製麺所があるのを地図上で見つけた。

改めて地図の場所に行ってみると――これまで全然判らなかったのも当然で、看板も何も出ていない。ようやく、建物の脇奥に麺を入れる平たい木箱があって確認できた。恐る恐るブザーを鳴らして訊ねると、噂通り小売もしているということなので、試しに4食分の生麺と、袋入りのスープ(醤油ととんこつ)を買う。一食分150円ちょっと。

まずは醤油を食べてみた。スープはいかにも昔ながらのラーメンという感じ。生麺が主役なのに評価を書かないのは「ああ、生麺だなあ」という以上に何か言うほど舌が肥えていないため(もちろん麺がでろでろだったりした場合は別)。

●ラーメンといえば。

神保町の事務所、N社のC社長から緊急同報メールが送られてきたのだが、神保町3丁目の小さな中華料理屋、「猿之丞」が3月20日で閉店だそうだ。

近辺は割と中華料理およびラーメンの激戦区なのだが、そんななかで、ここの料理は全然派手さはないにもかかわらず、たまに無性に食いたくなる魅力がある。以前にも書いた気がするが、個人的なオススメは塩ラーメン。

とにかく最近のこってり・ごってりなラーメンとは正反対で、具も基本的なものだけ、スープは金色に透き通っていて、「うわあ、沁みるなあ、癒されるなあ」という味がする。半分ほど食べてから備え付けの豆板醤を入れてちょっとピリ辛にして2度楽しむのもいい。しっかり出汁が効いていて、スープを飲み干すと干し海老が数匹。

チャーハンやゴマだれつけ麺もよい。

20日までにお近くに用事のある方はぜひ。場所は専大前交差点を九段下方向に渡った左側、靖国通りの一本裏の小路。集英社神保町3丁目ビルの脇。食べログの店舗データはこちら

F1018045●鎌倉・逗子を貫く「すいどうみち」と、その水道の元の持ち主である海軍の標石については以前に書いた

鎌倉の海岸橋交差点から名越隧道まで、トンネル群をくぐって小坪隧道から逗子駅東の田越川を渡る橋までの区間の海軍標石については、すでにすべてチェックし終えたと思っていたのだが、名越隧道の鎌倉側出口近くに、今まで見落としていた海軍標石がもうひとつあることに気付いた。

写真では彫られた文字のコントラストが弱くて申し訳ないが、拡大すればダブル・ダブル・シェブロンと、「海」の文字が判るはず。

それにしてもこの標石は、変な位置にある。

海岸橋方面から長勝寺前まで来た水道路は県道311号鎌倉葉山線と合流し、一緒に名越坂を上っていく。そんなわけで、名越坂には点々と(主にトンネルに向かって左側に)海軍標石が並んでいる。

F1018052 しかしトンネルの手前で水道は左に逸れ(というよりも水道はほぼ真っ直ぐで県道が右に逸れるのだが)、水道と県道下り線、県道上り線がそれぞれ専用のトンネルに入る。

左写真でいうと左の青い柵の向こうに水道路が分かれて(現在は企業の駐車場として使われている)、先ほどの記事冒頭の写真のトンネルになる。にもかかわらず、この標石は、水道路が分かれたあとの道路のほう、左側の煉瓦ポータルのすぐ手前(道路左側)に立っているのである。ちなみに煉瓦ポータルのほうのトンネルと道路は、水道以前からある。

水道用トンネルを掘るにあたって、路肩から左はきっちり買収した、という印だろうか? いずれにせよ見落としていたのも仕方がない謎な位置で、標石探しに大いに助けて頂いたこのサイトでも、この標石は出ていない。

F1018044●また、上記の一般的なコンクリート製海軍標石と違い、みかげ石(花崗岩)製の「海軍用地」と書かれた標石についても以前の記事で取り上げた。標石自体はこちら

これは坂の途中、(トンネルに向かって)右側の小さな町工場の前にあるのだが、数日前に通りかかったら、まったく同じ標石がもう一本、引き抜かれた状態ですぐ近くに転がっていた。

てっぺんまで泥だらけなので、もしかしたらこれまでは全部土の中に埋まっていたのかも。

●本日の無駄知識。

ピーマンやししとうは、(狭義の)トウガラシやタカノツメと生物学的には同種(Capsicum annuum)なのだそうだ。パプリカも同種。……というか、単に乾燥したトウガラシをタカノツメというのかと思ったら、「日本における代表的なトウガラシの栽培品種」なのだそうだ。知らなかったよ吉田くん!

ついでに掘り下げると、沖縄の島トウガラシはキダチトウガラシ(C. frutescens )という別種なのだそうで、タバスコペパーや、タイのトウガラシであるプリッキーヌーがこの種の中の品種。

さらに「暴君ハバネロ」のハバネロやジョロキアは、これまた別種でC. chinenseという種だそうな。顔ぶれからすると、このキネンセ種がいちばん辛そう。

ところで、wikipediaによれば、ししとうは、「最近は品種改良により、辛い商品が市場に出ることはほとんど無い」のだそうだ。なんてこった! ししとうは、あの「いつアタリが出るか」というハラハラ感があるからこそよいのに!

F1017954●順番がめちゃくちゃだが、先月末に材木座の砂浜で拾った貝。フリルだらけのゴスなヤツ(おまけにフジツボだらけ)。

どうも「チリボタン」という貝らしいのだけれど、ネット上の写真にだいぶ揺れがあって、いまいち確証なし。

ちなみに今は机の上に置いてあるのだが、完全に乾いたら、持ち上げた拍子にフジツボの中からサラサラ砂が出てきて膝が砂だらけに。

●雑多な話で長くなったので、模型関連は次回。

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