●GW最終日曜日、8日。鎌倉のまだ行ったことがない寺に行くシリーズ。北鎌倉の時宗の寺、光照寺に行く。
私が思うに、鎌倉仏教の創始者の中で一番融通が利かないのは日蓮だが、ほとんどその対極にあるのが時宗の始祖とされる一遍である。日蓮は他宗派信徒は地獄落ちだと激烈に攻撃して軋轢を広げまくったわけだが、一遍上人の場合は、「どこの誰で何を信じていようが極楽行きは決定事項」だそうな。フリーダム過ぎ。
もちろん、宗教をビジネスとか組織化とかいう方向から考えれば日蓮のほうが真っ当で、仮に「もし鎌倉仏教の創始者がドラッカーの『マネジメント』を読んだら」という本があったとしても、ドラッカーを読んで教団を隆盛に導くのは日蓮であって一遍ではない。なんだそりゃ。
そんな具合だからなのか、以前行った十二社の光触寺も小ぢんまりした寺だったが、ここもそうで、目を引く凝った伽藍等があるわけではない(ただし、本堂は幕末に建てられたものだそうだ)。
が、山門軒下に「中川クルス」と呼ばれる豊後岡藩中川家の紋があり、曰く、十字架を埋め込んだデザインなのだそうな。また、本堂には隠れキリシタンのものとされる燭台2基があるらしい。先述のように時宗は信仰の別や有無を問わない宗派なので、江戸時代を通じ、隠れキリシタンも「当寺の檀家である」と匿っていたとかで、山門のクルス紋と燭台はその傍証であるとかどうとか。
●北鎌倉近辺は地名では山ノ内といい、関東管領・山内上杉家の本拠があった場所である。
鎌倉中心部が由比ガ浜から切れ込んだ谷戸であるのに対し、山一つ隔てて、内陸の大船側から切れ込んだ谷戸に位置する。谷戸の最奥の巨福呂坂切通しを越えると鶴岡八幡宮の裏手に出、その手前、南側の亀ヶ谷坂切通しを越えると、数日前にもうろついた扇ヶ谷に出る。同じく上杉家の有力家系だが室町末期には互いに権力争いを繰り広げた扇谷上杉家の元本拠地がこちら。
●てなわけで、前回ご本尊を見そびれた浄光明寺に行くため、扇ヶ谷に抜けることを画策する。ごく素直には建長寺の手前まで歩き、長寿寺の脇を折れて亀ヶ谷坂切通しを越える道筋だが、これはだいぶ通り慣れてしまったので、浄智寺脇から源氏山に上がってそこから扇ヶ谷に降りようか、などと考える。源氏山もだいぶ登ったり降りたりしたが、浄智寺から登るのは初めてかもしれない、と思ったのが決定要因。
しかし、浄智寺脇から登り始めてしばらくすると、登りの尾根筋から左に下りていく細い脇道を発見。ついふらふらとそちらにそれてしまう。
最終的に人里に出るには、最後の最後に湿って滑りそうな、崖面に僅かに刻まれた窪みというか段というか、頼りない道を降りる羽目になったが、とにかく想像した通り、扇ヶ谷の枝の谷戸のひとつに降りることができた。てくてく歩くと、海蔵寺の門前に向かう道に出た(釈迦堂切通しへの角の向かいあたり)。
●浄光明寺のご本尊を見に行く。通常、拝観料を取る寺では門のところで払うことになるが、ここは寺にはそのまま入れて、奥の石段を登って仏殿以降を見る場合に改めて拝観料を払う仕組み。実際には仏殿には新しい三世仏があり、本来のご本尊の阿弥陀三尊は隣の収蔵庫に安置されている。三尊像の衣服の文様には、中世鎌倉地方の仏像に特有の土紋と呼ばれる装飾が施されている由なのだが、これは帰って調べて知ったのでしっかり見ていなかった。むう、もったいねえ。
仏殿裏手には裏山に登る石段があって、その先のやぐら内に網引地蔵と呼ばれる石仏と、さらにその上には藤原定家の孫、冷泉家始祖の冷泉為相の墓がある。もっとも私の場合、冷泉為相なる人物に惹かれて是非ともその墓が見たい、とかではなく、登れるところがあるととりあえず登ってみたくなる、というだけの話。馬鹿と煙は何とやら。右写真は網引地蔵前の空き地のあやめ(たぶん)。
●この「とりあえず登ってみる」というのは、鎌倉散策ではなかなか有用な手法である。鎌倉では、由比ガ浜に面した限られた平地とそこから切れ込んだ谷戸に住宅地や神社仏閣があり、それを囲む、アンモナイトの縫合線なみに入り組んだ尾根は、中腹に無数のやぐらや、神社仏閣の別院(離れ)や、誰それの墓などがあり、また稜線は簡単なハイキングコースになっていることも多い。
平地が狭い鎌倉では取り囲む山を背景に道は狭いし建物も密集気味で箱庭的にごちゃっとしている(それが鎌倉の「街」の面白さでもある)。しかし山に登ると入り組んで重なる尾根に遮られ、街並みはその間にちらちら見える程度になり、その先に海や富士山が見えたりすることもあるという具合で、いきなり風景のスケールが変わる。
「下界の鎌倉」と「天界の鎌倉」の二層がある、などと言うと大げさ過ぎるが、山の高さはそれほどでもないくせに、ギャップが大きくて面白い。もっとも、これは鎌倉の“内側”に視線を向けている場合に限る、と断っておいたほうがいいかもしれない。
“内側”の山肌は寺社の境内になっていることも多く、雑木林の中をえっちら登っていくと、すっかりハイキング気分になるが、一方で、鎌倉の“外側”(もっとも一応そこも「鎌倉市」内ではあったりするが)からは新興住宅地ががんがん山肌を蚕食しよじ登ってきている。したがって、いい気持ちで景色を眺めて“山の雰囲気”に浸っていたのが、ふと反対側を向くと足元まで住宅地が迫っていて、二階のベランダで布団を干しているおばさんと視線が合って互いに気まずい思いをする、なんてことも起こり得る。
実際、我が家も鎌倉を取り囲む山の上に作られた新興住宅地の中にある。
●まあ、俗な生活圏と、古い寺社や遺跡、海山の自然がごちゃっと入り乱れているのが鎌倉の魅力でもあるのだが、それは別段、歴史や自然と調和・融和しているというわけではなく、実際にはあまり遠慮なく歴史や自然を削り取って成り立っている。
なので、私自身、鎌倉の街は非常に好きではあるのだけれど、この周辺の一部で盛んな「鎌倉の世界遺産登録を目指そう」という動きには、
世界遺産をなめんじゃねえ!
と、ついつい思ってしまう(真剣に取り組んでいる皆さんには悪いけれども)。もし鎌倉が世界遺産に登録されるなら、イタリアなんぞ国まるごと登録されておかしくない気がする。そうそう容易く緒方直人のナレーションは手に入らないぜ!(古い)
それはそれとして、平泉と小笠原、おめでとうございます。
●閑話休題。
扇ヶ谷から、雪ノ下の川喜多映画記念館前を通り、鶴岡八幡宮、宝戒寺の前を越えて「岐れ道」方面へ。そのあたりから宝戒寺の裏手の山(というよりも旧東勝寺の裏山?)に登れないかと歩き回ってみたのだが無駄足。
再び山の表側に回り込み、宝戒寺裏から東勝寺址、北条腹切りやぐら方面に歩き、その手前を折れて山腹の住宅地の道を上る。そのあたりに、大町の奥の谷戸に通じるトンネルがあると先日聞いたため。

結局、ほとんど山の尾根に近いあたりまで登ったところにそのトンネルはあった。軽自動車がやっと通れるくらいの狭くて暗くて雰囲気十分のトンネルで、写真は左が小町(東勝寺址)側、右が大町側。
先日の笛田-極楽寺間のトンネルもそうだが、前述のように複雑に入れ込んだ鎌倉の地形では、こういう鄙びたトンネルが多数ある。前々回載せた写真のように、尾根の先端の薄っぺらい崖には、人が通るだけの小トンネルも多い。写真の腕があれば、「鎌倉トンネルmaniacs」とか企画したいくらいだ。
●バス通りまで出て、鎌倉方面に少しだけ戻り、今が旬の安養院のつつじを見る。その先の別願時の藤も、先日バスの中から見てものすごく見事だと思ったのだが、もう盛りは過ぎていた。
●今回は日が暮れる前に帰宅。ただし歩きつかれたので結局模型の工作はせず。だめぢゃん。
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