台風一過のあれやこれや

●季節労働の地図本の制作にいっぱいいっぱいになってしまい(と言うほどには真面目に仕事していないが)、当「かばぶ」の更新もだいぶご無沙汰に。そんな折にやたら強力な台風がやってきたりもして、hn-nhさんから「そっちは大丈夫だったの?(大意)」というお言葉も頂いたりしたので、近況報告やらなにやら。

とりあえず最初に書いておくと、我が家自体は木の葉が吹き溜まったくらいで、特に大きな被害はなかった。私自身は(兄が職場の研修で不在になるというので)川崎の実家の母のところに泊りがけで出かけていたので、家がどれくらい揺さぶられたかもよく判っていない。

なお、実家は東急・田園都市線沿線にあるが、割と午前中早めにもう動き出していた。昼に横浜経由で帰ってきたが、JR横須賀線は「いつ動くかもわからん」状態な一方で、京浜急行はその数日前(木曜日)に神奈川新町の踏切で大事故があったにもかかわらず、土曜日には復旧しており、台風後の月曜午後も(逗子線への直通こそなかったものの)割と普通に走っていて、そちらを使って問題なく帰宅できた。京急偉大なり。

●我が家の近所の山の下を通る神奈川県道311号(すいどうみち)には、逗子市と鎌倉市の境界となる3連×上下線の6本のトンネル群がある。ひっくるめて「小坪トンネル」と呼ばれたりする、全国的にはお化けトンネルとして有名な場所だが、うち、下り線(鎌倉→逗子方向)の2本(名越隧道、小坪隧道)は明治時代に地元有志が出資して浦賀道に初めて開削したトンネルとして土木遺産にも指定されていたりする。詳しくはこちら

が、その小坪隧道(6つのトンネルのうち、下り線の最も逗子側)の逗子側ポータルの上方の崖が台風で崩れ、現在(9月14日)もなお不通で、解除の見通しも立っていない。

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2枚目は小坪隧道の鎌倉側から覗きこんで撮ったもの。倒木が道路を塞いでいる。4枚目は山の上の住宅地からトンネル上の斜面を見下ろして撮ったもの。かなりざっくり崩れている。単に道路を塞いだ倒木を除けばいいというものではなく、3枚目の写真にも少し写っているように、トンネル上方にも倒木がまだ重なって引っかかっていたりして、下手をすると再び崩落しかねない状況であるらしい。

逗子から鎌倉へは普通に通れるが(1枚目の写真の左側・新小坪隧道が上り線)、鎌倉から逗子へは、大きく迂回していく必要がある。

●ほかにも近所で「あ、あそこの崖も崩れてる!」なんてところがちらほら。

もともと逗子・鎌倉はちょっとした平地を取り巻いて細かい谷戸が多数あり、しかも山すそは切り立っていて、地層は柔らかく、もういかにも崩れて下さいと言わんばかりの地形(そしてその通りよく崩れる)。特に鎌倉では、谷戸の奥が倒木で小範囲に停電したり通行不能になったりという箇所がかなり多数あるようだ。

だからこそ、(前回書いたように)「どんどん崖はコンクリで固めてしまえ」的方向になってしまうのも当然なのだが、それはそれでまた、遮られることなく周囲に風雨が当たるようになる、ということでもある。

●崖崩れまで行かなくても、平地でも山でも、あちこちで木がへし折られていて、今回の台風がどれだけ凶悪だったかがわかる。

10日火曜日、名越切通を少し歩いてみたが、山道に折れた枝が敷き詰められたような状態。

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さらに鎌倉側に降りる手前の西平場には、立派なヤマザクラ(オオシマザクラかな?)があって、毎春見事な花を楽しませてくれていたのだが、平場に面して風がダイレクトに当たったのか、根元近くからぼっきり折られてしまっていた。

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2枚目、折れた幹を見ると、縦に割けたようになっていて、単純に折れるというより、ねじ切られるように折られたらしい。ついでに、在りし日の姿を一枚。惜しいなあ。

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●hn-nhさんから、「台風の風雨に紛れてミツバチの巣を採ろうとしなかったか」(大意)と聞かれたのだが……惜しい!

実は台風が来る前に、下から物干し竿でつついて半分ほど回収してました(笑)。というわけで、スズメバチの上前をはねたニホンミツバチの巣がこちら。

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採ったこの巣自体にハチミツは残っていなかったものの、木にくっついた根元部分にわずかに残っていた分があったようで、物干し竿でつついた時にぼたぼたと少し垂れて来た。もったいない~。

「蜜蠟でできた巣」というと、なんとなくずっしりとしているのではという先入観があったのだが、実際にはハニカム部分は極薄で、おそらく、大きさあたりの重さは紙でできたアシナガバチの巣とそれほど変わりはないのではと思う。

これだけ採ったら、耐熱ガラスのカップ一杯分くらいの蜜蠟が作れるんじゃないか……などと皮算用していたのだが、実際には、熱湯で融かしてペーパータオルで濾して冷まして固めたら、大さじ2杯分くらいにしかならなかった(ペーパータオルのなかでゴミと一緒に固まった分も多かったかも)。

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濾す際に失敗したので、まだ若干ゴミ混じり。ろうそくでも作ろうと思っていたのだが、これじゃカップ入りろうそくは無理だなあ。

●先月収穫したヒメクルミは、バケツの中で果肉を腐らせたり、じゃぶじゃぶ洗ったりを繰り返して、おおよそ核果だけの状態に。いくつか試しで割ってみたが、なかなかよろしい感じ。

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さらに、昨年初めて食って美味かったカヤの実も多少収穫して来た。現在重曹の溶液に漬けてアク抜き中。

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●遡って、更新をサボっていた間の行動記録を少々。

8月26日。逗子市民プラザの映画上映会で「ボヘミアン・ラプソディ」をやるというので(しかも900円で観られるというので)、今更ながらいそいそと観に行く。

私自身は、もともとクイーンはあまり“ピンと来ない”感じで、現役バリバリで活躍していた時代にはまともに聞いたことがなく、誰もが知っているヒット曲に関して「ああ、これってクイーンだな」と判る程度。むしろ、昨年映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしたことで、なんとなく知っている曲が増えた(というよりも、「あ、この曲ってクイーンだったんだ」というのが若干わかるようになった)。しかし、この映画を楽しむには、むしろそれくらいの距離感がちょうどよかったかな、というのが見終わっての感想。

ただ、映画として大傑作かどうかというとちょっと首を傾げる感じ。なんというか、バラエティ番組でよくやる、著名人とか過去の偉人の振り返り再現ドラマの「良く出来た版」という感じで、したがって、物語も登場人物の人間性も単純化され、程よく美化されて、逆に、「これって、ものすごくコアなクイーンのファンが見たら、むしろかなり物足りないんじゃ……」と思った。

映画であってそっくりショーではないので、あまり「そっくり度」を云々しても仕方ないのかもしれないが、登場するクイーンの4人のメンバーのうち、主人公であるフレディ・マーキュリーが一番似ていない気がした。本物よりかなり線が細い感じがしたのだが、後から写真を見比べると体のマッチョぶりはあまり差がなく、どうも顔の下半分のボリュームの違いから来ているのではないかと思う。ロジャー・テイラーが一番似ている気がしたかなあ。ジョン・ディーコンは髪の長い時代はそうでもなく、髪を短くしてからがすごく似ている気がした。もちろん、熱烈なクイーンのファンとは言い難い私の勝手な印象。主人公かそうでないかで、登場する時間も映り方も違うし、というのもあるかもしれない。なお、以上はあくまで顔かたちの問題で、特にステージ上のしぐさやディテール(例えばシーンごとの使用楽器、小物の配置など)はものすごくこだわって再現されているように感じた。

●8月28日。都内で仕事。霞が関の某官庁で資料閲覧・コピーさせてもらい、その後、夕方に神保町で会議だったので、桜田門から皇居前広場を抜けて神保町方面へ歩く。

途中、大手門前まで来た時に、案内板を見ていたら、入り口のおじさんに「どうですか」だったか「まだ入れますよ」だったか、とにかく声を掛けられた。

「竹橋方面に抜けられます?」「(その手前の)平川門から出られますよ」

そういえば、皇居のこちら側も普段から入れる場所なのに一度も入ったことがなかった、これもいい機会かもしれない――と思って、いそいそと入る。この時、午後5時半ちょっと前。閉門時間は6時で、どんなにゆっくり歩いても時間は十分。同心番所とか、百人番所とか、まだこんな建物が残ってたんだなあ、などと物珍しく眺めながら歩き、平川門に向かう長い直線道路に差し掛かったところで、横道から若い警官が出て来て、「もうこの先の平川門は閉めますから、大手門に戻って下さい」と追い返された。

「いや、通り抜けられるって聞いたから来たんですよ」と言っても聞く耳持たず。「そもそもここは、大手門と平川門、どっちが近いんです?」と訊ねると、「平川門のほうが近いですね」と言う。じゃあ平川門に行かせてくれよ、と思うのだが「ほら、もう皆さん引き返してきていますから」と言う。

しぶしぶ大手門まで戻り、受付で顛末を話すとむしろ驚かれて、「すみません」と謝られ、しかも「これからでも、平川門に向かわれますか?」とまで言われたのだが(それはそれでびっくりだ)、「いや、もういいです」とぶっきらぼうに答えて大手門を出た(むしろ大手門受付の対応は親切だったので、八つ当たり的返答をしてしまったのは申し訳ない)。

なお、大手門まで引き返し、お堀の外側を回って平川門外に到着した時には、まだ本来の閉門時間である6時になっていなかった。……皇宮警察許すまじ。

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ニホンミツバチ

●11日、鎌倉浪花家で今年初めての氷宇治金時。ひと夏に一度は食べたい品。

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器が平たい上に山盛りになっているので、こぼさずに食べるのはなかなか難しいのだが、今回はなんとかひとかけもこぼさず食べ切ることができた。ややこしい手順など考えず、素直に上から食べていくのが良策。なお。小豆餡は上、中、下の三カ所に入っている。

●近所の、山の上の住宅地から谷戸に降りる階段道の改修工事が始まり、道幅の半分を潰して保護壁が張られていた。

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ここは、数年前に道の下手の曲がり角の上で斜面が崩れ、その後応急処置のみで放置されていたのだが、どうやら(この際、ということで)階段道に沿った斜面全体をコンクリートの擁壁に変えることになったのではないかと思われる(斜面の藪が刈り込まれ、保護壁が作られている様子から見て)。

確かに防災上はそれが手っ取り早いのかもしれないが、実は階段道の上の方の斜面は、初夏にはヤマユリが咲いてキイチゴ(モミジイチゴ)が実り、初冬にはトリカブトが可憐な花を咲かせる、ちょっとした楽しみがある場所でもあった。もちろん、場合によっては人命にも関わる防災措置と、自然保護というにもおこがましい道端の植生の保全と、どちらが大事なんだと言われれば前者であるのは間違いないが、一方で、「崖面は何でもかんでもコンクリートで固めればOK」的な手法以外に、何か手はないものなのかと、こういう工事を見るたびにモヤモヤする。

●17日。市内某所にクルミ(ヒメクルミ)の実を拾いに行く。

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昨年、FBの逗子市内の知人Tさんに場所を教えて貰ったもの。ただ、昨年は木の下が草刈りされていて拾い放題だったが、今年は草ぼうぼうでガサガサかき分けながら拾うことになった。とりあえずある程度の数は拾えたので、現在周りの果肉を腐らせ中。

●近所のMさんの奥さんが干してある傘を飛ばされ、急斜面の途中に引っかかっていたのを回収。そのついでに、道からは見えづらい、木の幹の陰に大きなニホンミツバチの巣があるのを発見した。縦の長さは少なく見積もっても30cmはありそう。

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クリーム色の長い円盤が縦に連なっている様子に、最初は「縦向きに生えたサルノコシカケ?(そんなんあるのか?)」と思ったのだが、よくよく見直してミツバチの巣であることに気付いた。

もちろん、本来なら働きバチにびっしり覆われているはずなのだが、この巣はスズメバチ(オオスズメバチ?)に襲われて壊滅し丸裸。襲われてまだ間もないらしく、スズメバチが10匹程度、頻繁に出入りしていた。上右の写真にもスズメバチが写っている。

何年か前にも、大切岸上の峠道沿いの木のうろにニホンミツバチが営巣しているのに気付いたことがあるのだが、その巣もしばらくしてキイロスズメバチに襲われていた。ニホンミツバチは蜂球でスズメバチを蒸し殺すという対抗手段を持っているのだが、この様子を見ると、防衛成功率は決して高くはないようだ。ミツバチ頑張れ!(泣)。なお、特にこの巣に関しては隙間でも何でもなく、完全に露出した開放巣だったので、さらに防衛は困難だったはず。

襲われて間もないとすると、今回収すれはハチミツを採れるかもしれない(しかもニホンミツバチの百花蜜!)などとも思ったのだが、急斜面であるためハシゴなどはかけづらく、しかもまだ頻繁にスズメバチが来ていることを考えると、余計な手出しはしないほうがよさそう。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(5)

●Mirage HOBBY 1:35、ポーランド国内軍の簡易装甲車「クブシュ」(”KUBUŚ” - Improwizowany Samochód Pancerny, Powstanie Warszawskie, Siespień 1944)の製作記。相変わらず、じわじわとしか進んでいない。

改めてチェックしてみたら、8月10日は「本物のクブシュの製作がスタートした記念日」だった。いや、だからどうしたって……。

●若干の考証。

そもそも当初は、「なにしろ博物館に実車があるんだから、どれだけネット上で写真が集められるかという問題はあるにしろ、粛々とそのディテールを反映させていけばいい……」などと思っていたのだが、いざ本腰を入れてチェックしていくと、どうもそれでは済まないということがはっきりしてきた。

最初に「えっ?」と思ったきっかけは、キットの説明書の片隅に書かれた一文。

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車体前面スカート・パーツに対する但し書きで、「戦時中の仕様にするなら、先端のトンガリは削り取ってね」くらいの意味だと思う。右写真がキットパーツと、問題の「トンガリ(bevel)」(矢印)。ここは戦時中の写真では不鮮明で、はっきりと確認しづらく、この但し書きがなかったら、そのまま現状を再現していたかも。

これまでにも数度振れているように、他にも、現存実車ではその後のレストアの結果、戦時中の仕様と異なってしまっている箇所があるようだ。ややこしいのは、その「戦時中」にも変化があることで、実車に何がしかの「いじったあと」があったとして、それが、戦後のレストアによるものなのか、それとも初回作戦と第二回作戦の間に施された改修なのか判別しづらい場合もある。やれやれ。

●以上は前振りとして、今回の進捗その1。エンジンボンネット部分のハッチを付けた。

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どういう理由があるのか、ボンネットハッチは左右非対称で、右側ハッチは前方に長方形の継ぎ足しがあって長い(左側は、この継ぎ足しに相当する部分は車体側固定部となっている。

左右ハッチの継ぎ目には、右側ハッチに固定された、合わせ目にかぶせる縁材がある(専門用語で「定規縁(じょうぎぶち)」と言うらしい)。これは、現存実車では確かに付いているのだが、戦時中の実車に付いていたかどうかは、手元に集めた写真からは判断できなかった。ただし、戦後に講演で放置されてサビサビになっている時期の写真では確認できるので、戦時中にもあったと判断して追加した。なお、現存実車の真っ直ぐ前からの写真で見ると、取付具合はもっとヨレヨレのようで、その辺はきちんと再現し尽くせていない。

工作前段階でちょっと悩んだのがヒンジの処理。この部分は、現存実車でよく見ると、現時点でのヒンジの内側に溶接痕が確認でき、要するに、一度付けたヒンジを外側に移動させているらしい。

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上は比較検証用に、ともにwikimedia commonsの写真から切り出したもの。左がMWPの現存実車で、現在のヒンジ内側に、旧ヒンジ跡であろう溶接痕が確認できる。一方、右は戦時中、クリバル部隊の拠点の公園で整備中のクブシュ(改修後)。これを見ると、左写真よりもヒンジが内側にあることがわかる。なお、wikimedia commonsに上がっている写真の都合上、左右違う側の比較になってしまったが、他で上がっている写真から、現存実車の左側も上右写真より外側にヒンジがあること、その内側に溶接痕が残っていることが確認できる。

キットのヒンジモールドは現存実車に準拠しており、(もともとは溶接線再現の際に邪魔だったので一旦削り落としたのだが)より内側に作り直した。4か所とも、キットのモールドから一つ分内側に寄せる感じにしたのだが、今見直すと、前側のヒンジはさらにもう少し後ろに下げても良かったように見える。

●今回の進捗その2。天井ハッチと防盾を取り付けた。

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天井ハッチの「定規縁」に関しては、キットのパーツにもモールドがあったが、かなり細く、しかも「お行儀が良すぎる」感じだったので、削って作り直した。ただし、後からわずかに写っている実車写真を見ると、前側の天井のリブよりも高く盛り上がっているようで、もう少しメリハリをつけるべきだったかも。

ヒンジは、車体側は溶接痕の作業の邪魔だったので削り落としてあり、0.3mmプラバンで再生。(エンジン部ハッチ同様)ヒンジ周囲には溶接痕を追加した。ヒンジの筒部はエンジン部ハッチで作ったものよりおとなしすぎるので、後々ここも作り替えるかもしれない。

防盾は(キットのパーツは厚過ぎるので)0.3mm板で新造し、天井にイモ付け。取付位置は左右で完全に対象ではなく、後端位置で見ると、左側のほうがやや前に出ているようだったので、そのように工作。防盾の後ろに銃架のようなものがあってもよさそうな感じだが、とりあえず、現存実車ではそのようなものは見当たらず、かつてあったことを示すような溶接痕なども確認できなかったのでクリーンなまま。もちろん、単純に中央の隙間から小火器を突き出して撃つためだけのもので、銃架など最初からなかった可能性も高そう。

●今回の進捗その3。サイドスカートの工作。

前後輪横のサイドスカート部分は実車では別体で、おそらく車輪交換の便のためにボルト止めになっているのだが、キットは装甲車体と一体モールドになっており、段差もボルトも表現されていない。

というわけで、0.3mmプラバンより薄く弾性も高い、タミヤの0.2mm透明プラバンで工作した。

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後々の工作過程での破損を防ぐため、キットのサイドスカート部分は切り落とさず、周囲を薄削りし、わずかに大きさも削り込んで、裏打ちに活用した(どうせひっくり返して見せるつもりもないので)。透明プラバンの表面は目の細かいペーパーを掛けて「すりガラス」状態にしているが、裏打ちとの間に広がった接着剤が透けて雲形迷彩のように見えている。

ボルトは、マスタークラブのレジン製の0.7mmサイズ(低頭)のもの。

サイドスカート上の溶接ラインは装甲車体の裾部を溶接しているものなので、当然、スカート部には掛かっていない。

なお、工作途中に気付いたのだが、左前部スカート上の真ん中のボルトは、実際には、その上の斜めの溶接線が下辺に接する直下にある。これは私がボルトの位置を間違えたわけではなく、本来、斜めの溶接線の角度がもう少し立っていて、下辺との接点が後ろにあるため。右前部は同接点よりボルトが後ろで正しいので、要するに、この部分の溶接線位置自体に左右でズレがあるらしい。今更気付いても遅いのでそのまま(面構成をやり直すなんてまっぴら)。

また、現存実車を見ると、サイドスカートのうち右前部を除く3枚には、継ぎ足しの溶接線がある(右前部は後ろ1/8くらい? 左右後部は下2/3くらいを継いでいる)。しかし、戦後の放置時期の写真を見ると、少なくとも右側前後のスカートは失われている。車体後部の可動式スカートも新造品に交換されていることから見ても、これらはレストア時に新たに作られた可能性が高いと判断し、溶接線は入れなかった。

●今回の進捗その4。車体前面上部の弾痕の追加。

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実車のクブシュには、各部に2度の戦闘で付いた弾痕が残されている。当初は「さすがにそこまでは……」と思っていたのだが、これらの弾痕が一度目と二度目、どちらの戦闘で付いたものか確認できない以上、「二度目の作戦時の仕様なのに、それ以前に付いた弾痕がないのはおかしい」という事態になることも考えられる。とりあえず入れておけば、「二度目の作戦終了時の状態」は再現できていることになる。

なお、上右写真のように、実車の弾痕位置に関してはキットの説明書でも図示されているのだが、下の金尺からもわかるように、図が小さすぎてかなり判読が難しい。そんなわけで、実車写真を参考にちまちまと入れた。もっともキットの図も(一応赤色で図示されているので)、離れた場所にある“はぐれ弾痕”の確認には役立つ。

弾痕には大小があるが、これは当たった角度や、そもそもの口径(拳銃/短機関銃弾と小銃/機関銃弾)の差によるものかと思われる。なお、ほとんどの弾痕は外側装甲を貫通しているが、車内写真を見ると、内側装甲には窪みを作っているだけで食い止められているものが多いようだ。

現時点では上部前面の弾痕しか工作していないが、その他の場所にも若干ある。

●以上の工作を終えた全体写真。

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ハッチ部の大きな穴がふさがったので、だいぶ最終形に近付いてきた。

●脱線話。クブシュの工作をしていると、どうも溶接線が気になって、散歩の途中で思わず撮ってしまったもの。

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よく見ると滑り止めのパターンは溶接線をまたいで連続しているので、まさに、以前hn-nhさんが言った方法、「破線状に溶断して折り曲げて、然る後に溶接して折り曲げ部を補強」の工作をしているらしい。帯材の溶接も、ベタ付けでなく破線状に工作されている。

散歩の途中に、「なるほど~」などと思いつつ、足元の鉄板を眺めているおっさん。怪しすぎる。

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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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ゴー!

●仕事が滞ったり、かみさんが入院したり(現在はすでに退院)で、半月ほど、主に精神的にわたわた。肉体的には暑さにめげて活動レベル低下中。クブシュもじわじわとしか進まず。

●7月末、ちょっと変わった仕事の用事があり、平和島から釣り船に乗り、豊洲の辺りまでハゼ釣りに行く。もっとも私自身はほぼ、他人がハゼを釣るのを傍らで見ていたのみ。ただ、最後に竿を貸して貰って1匹だけ釣った。魚釣りなんて久しぶり。

(私にとっては)見慣れない、海面から見上げるモノレールやレインボーブリッジがちょっと新鮮。

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豊洲の新市場も初めて見た。オリンピック関連であるらしい施設建設もちらほら。

●6日、横浜・山下公園にポケモンを捕まえに行く。抽選制のイベントで、私は見事落選したが、当選者は2名(だったかな?)の(ゲーム登録上の)「フレンド」を招待することができ、当選した近所のお嬢からチケットが回ってきた。

最寄駅は「みなとみらい線」の元町・中華街駅。時折しか利用しないが、降りるたび、駅の感じに「あー、御堂筋線やー」と思う(えせ関西弁)。

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この「Pokémon GO」のイベントに関しては、テレビのニュースなどでも、おおよそ「このクソ暑い中、カンカン照りの公園に大挙して押し寄せるなんてアホかこいつら」という反応を前提とした取り上げられ方をしていたが、自分自身でも「このクソ暑い中、カンカン照りの公園を歩き回ってアホかオレは」と思ったので、まったく反論はできない。

実際、スマホのポケモンのアプリが頻繁に熱落ちした(安い韓国製端末でハード的にもちょっと頼りないこと、GPSの常時使用が割と熱をもちやすいようであること、イベント後半はポータブル充電器を接続しながらの使用だったことなどにもよる)。

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ペットボトルのお茶2本、セブンイレブンのアイスコーヒー2杯を消費。自分で好んでこんなイベントに行っておきながら何だが、絶対にこんな季節にオリンピックなんかやるべきじゃないと思う。

ちなみに、東京オリンピック招致のPRの文章には、「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と書かれていたそうだ。

……そのアスリートは、たぶん、普通の地球人類ではない。

●突発的に茶葉蛋(チャーイェダン)が食べたくなり、上記イベントのついでに中華街で安物の烏龍茶のティーバッグを買い、逗子駅前のスーパーで特売卵を1パック買ってきて、久々に作成。

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最初に普通に茹で卵を作ってから、スプーンの背などで殻にまんべんなくヒビを入れ、その後、濃く煮出した烏龍茶に五香紛、料理酒、醤油、塩、砂糖などを入れた煮汁に入れてことこと煮たり冷ましたりを繰り返す。ヒビ割れからお茶の色と風味がしみ込んで、殻を剥くと写真のようなマーブル模様になる。

調味料の分量などは毎度作るたびにかなり適当だが、割と美味しく出来た(と思う)。色の染み具合も良し。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(4)

●Mirage HOBBY 1:35、ポーランド国内軍の簡易装甲車「クブシュ」(”KUBUŚ” - Improwizowany Samochód Pancerny, Powstanie Warszawskie, Siespień 1944)の製作記の続き。

●前回やり残しの天井部分の溶接線の再現は以下のようになった。

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前回書いたように、この部分はまともに写っている写真がなく、だいぶ想像交じり。ただし、

  • 左右辺は上面ハッチの幅で内側にも溶接線があり、二重になっている。
  • 中央ライン(ハッチの前方のみ?)にはリブテープ状に張り増しがある。

という二点は、ハッチから内部を覗きこんで撮ったような写真にわずかに写っていて確認できたので再現した。

前者に関しては、クブシュがスペースド・アーマー式の二重装甲であることから、内側溶接線は側面の内部装甲の位置を示しているのではないかと思う。

後者については、戦後のレストア時に追加されたものという可能性もあるのだが(例えば前面下部スカート中央のラム状の張り増しは戦後の追加である旨、Mirageのキットの説明書で解説されている)、この部分はさらに上に防盾が付いていて、しかもその防盾は(戦後の遺棄状態時期の写真から見て)オリジナルである可能性が高そうであるため、その下を通るリブテープも最初からあったものと判断した。ただし、実際には防盾の裾部分のそのものズバリの写真はないので、このリブテープが防盾の手前で終わっているとか(その場合、戦後の追加工作である可能性がやや高くなる)もあり得る。

特に天井部前端の溶接ラインに関しては、キットのパーツ分割と面構成に準拠していて、本当にこんな感じかどうかはちょっと怪しい。

●運転席左面の視察スリット。

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もともとキットにあったモールドはエッジが寝惚けていたこともあり、作り直した部分。

  • 貼り増した板はやや斜めになっていて、スリットはその下の溶接ラインとほぼ平行なため、板のなかでスリットは傾いた状態になる。
  • 最初に車体に直接開けたスリットの位置が悪くて塞いだのか、それを塞いだような溶接痕が板の後方にあるので再現。
  • 破損個所を直したようなツギハギの溶接線が上面にかけて走っているので再現。

●運転席正面の視察口。ここも、元のモールドが寝惚けていたので作り直した。右がキットの元々の状態。

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実際に作り終えてから見直すと、現存実車に比べて可動フラップ部分の縦幅がちょっと広く、スリット自体ももっと狭く左右に長かった方がよかったように思う(ちゃんと作る前と作っている最中に確認しろよって感じ)。ただ、実車のフラップ部分は一度失われて作り直してあるようで、現在の状態をあまりシビアに追及する意味も薄い気がしたのでそのままとした。

実際には、戦後、公園に遺棄されている時期の写真で、オリジナルの状態なのではないかと考えられるフラップ付きのものがあるのに今更ながらに気付いたのだが後の祭り(とはいっても、その写真もそれほど鮮明ではない)。

“助手席”側の銃眼に関しては、内側に、一度開けて塞いだ跡を追加した。

●本日のクブシュ考証。

実車の記録によれば、クブシュは1944年8月23日未明まで製作が続けられ、同日早朝、ワルシャワ大学正門への攻撃に参加(一回目の出撃)。

撤退後、天井に機銃架と防盾を増設、さらに視察装置の改修が行われた後、9月2日に再びワルシャワ大学への攻撃に参加している(二回目の出撃)。

現存実車およびそれを参考に作られたキットは、当然ながら、改修(および戦後のレストア)後の姿を基本にしている。

戦時中に撮られたクブシュの写真はごく限られているが、そちらもほとんどは改修後の姿のもの。改修前のものとしては、唯一、一回目の出撃前日(8月22日)にポヴィシュレ地区のザイェンツァ(Zajęcza)通りで撮られたとされる写真があるが(前回記事へのvol de nuitさんのコメントでリンクを張って頂いた写真と同じもの)、これは距離を置いて見下ろした不鮮明な写真で、ディテールもへったくれもない(天井に防盾が付いているかどうかさえはっきりしないので、タルチンスキ本のキャプションにある日付で、ようやく「えっ、これって初出撃よりも前なんだ!?」と思う程度)。

そんなわけで、一回目の出撃時のクブシュの細かいディテールははっきり言って謎だが、タルチンスキ本の記述によれば、どうやら、運転席前面の視察口は、当初はスリットだけで、一回目の出撃のあと、ドイツの兵員輸送車(Sd.Kfz.251か?)から持ってきた防弾ガラス付きに改修されたらしい。その他、上の工作で述べた銃眼の移動や側面視察口の改修も、この時に同時に行われた可能性は高いのではないかと思う。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(3)

●7月に入って、なんだかんだですっかり模型製作をサボり気味。当「かばぶ」の更新もだいぶご無沙汰になってしまった。

というわけで、だいぶ久々のクブシュ(”KUBUŚ” - Improwizowany Samochód Pancerny, Powstanie Warszawskie, Siespień 1944, Mirage HOBBY 1:35)の製作記。

●基本は前回の続きで、装甲車体の溶接線工作。

天井部分を除いて、ほぼ全周の溶接線を入れ終えた。

溶接線はオーソドックスに、伸ばしランナーを貼って流し込み接着剤で溶かして潰す方法。潰すための工具は主にペンナイフの背で、ほかに適宜、ピンセットの先、金尺の角、自分の爪の先などを使っている。細い溶接線を除いては、伸ばしランナーを最初に貼った時点で、一度ナイフの刃先で細かく輪切りにし、接着剤がよりしみ込みやすくした。

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以前にも書いたように、実車のクブシュは限られた材料を使い、半ば(あるいは完全に?)素人が溶接工作をしているために、以下のような顕著な特徴がある。

  • 溶接線が不揃いで、場所により太い/細いの差が大きい。同一ライン上でさえ、太さが変化している場合もある。
  • おそらく大面積の鋼板が入手できなかったため、戦闘室左右の1平面の部分も複数の鋼板を接ぎ合せてあり、しかも左右で分割が異なる。
  • 材料不足に加えて鋼板の切り出しも稚拙であるために、継ぎ足しやつじつま合わせの隙間埋めがあちこちにある。

したがって、工作においても、なるべく実車における溶接線の太さの差の再現を心掛けた。太さの差は、例えばこんな感じ。

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もっとも、「ここは太め」「ここは中くらい」「ここは細め」くらいのいい加減な区別で、しかも伸ばしランナーを潰す工作過程でも仕上がりの太さに差が出て来てしまうため、厳密に比較すると「あれ? ここはこっちよりも細いはずなのに……」といった箇所がちらほらある。

●前回、右側面の溶接線工作の報告の際も触れたことだが、操縦席/助手席左右の斜めラインは、途中で角度が変わっている。

ここについては、前回記事へのhn-nhさんのコメントで、「単に線の角度が変わっているだけでなく、溶接線が破線状になっているようだ。この部分は2枚の三角の鋼板を接いだのではなく、1枚の鋼板を破線状に溶断し、折り曲げたうえで、溶断部分を再び溶接で埋めたのでは」(大意)という観察と推論を頂いた。

確かに、特に左側面では溶接線が下端で消えてしまっていることなどを考えても、hn-nhさんの推論はかなり説得力があるように思う(ただし、実際に“折り曲げ工作”だった場合、他にも浅い角度で2面が合わさっている箇所はいくつかあるのに、なぜこの場所だけそのような手法を採ったのか、という疑問は残る)。

というわけで、右側面の当該位置の溶接線は破線状に入れ直し、また、左側面は最初から破線状に工作した。

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●その他、現時点での溶接線工作に関するトピックスその1。

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戦闘室頂部前面装甲板は、切り出し精度が悪かったせいか、中央に継ぎ足しがあって溶接線がV字に二重になっている。これはレプリカ・クブシュにはない大きな特徴。また、操縦席前面の装甲板はきっちり左右対称でなく、中央の溶接線は斜めになってしまっている。

操縦席前面の視察口、助手席側の銃眼の“開け直し”工作痕についてはこの後に工作予定。

●トピックスその2。

ラジエーターグリル部上の三角形の装甲板は、キットと実車で形状がちょっと異なっている。

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キットでは写真のように下辺②よりも中央縦の辺①のほうが短いのだが、実車ではほぼ同じか、むしろ縦線①のほうが長い。溶接線を入れ直すことによって、形状の差が目立つことになってしまった。

もっともここを修正するとなると、前面全てを作り直すことになってしまう(そして細かいことを言い出すと、形状や角度にズレがあるのはこの場所だけではない)。というわけで、ここは見て見ぬふりに徹することにする。

●溶接線について未工作の天井に関しては、(せっかく実車が残っているにも関わらず)しっかり写した写真がネット上に見当たらず、なお調査/考証中。開けた上面ハッチを覗きこむような写真に、その前後がわずかに写っているものしか現時点では発見できておらず、想像交じりの工作を余儀なくされそう。

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「クルップ」の特に求められていない付け足し

●先日、hn-nhさんがupされたブログ記事で、JR総武線・浅草橋駅に、ホーム屋根を支える古レールのかなり素敵な列柱があること、また、その中に私自身は未見だった独クルップ社製のものが確認できること、などを知った。

→ hn-nhさんのブログ記事、「クルップ

普段横須賀線で都心に出る私は、都心東端や千葉方面に用事がある場合、(横須賀線から直通の)総武線快速を使うので、秋葉原~錦糸町間の総武線各駅停車は少し縁が薄い(それでも全然通ったことがない、というわけでもないのだが)。

22日土曜日にたまたま錦糸町で用事があったついで、また、28日金曜日に市ヶ谷で仕事の打合せがあった帰りの寄り道で、改めて浅草橋駅の古レール柱をチェックしてみた。

(そんなわけで、タイトルに「付け足し」とあるのはhn-nhさんのブログ記事に対してであって、当「かばぶ」に、クルップに関する先立つコンテンツがあるわけではない。前回に続いて、他人のふんどしで相撲を取りまくり。)

●浅草橋駅は高架の対面式・片面ホームだが、上下線の線路の間に柱を立てて支えることで、両面のホーム屋根を一体化し、ホーム前面に柱を立てることを避けている。また、これらの柱はホーム区間の架線柱も兼ねている。ほぼ全景の写真を以下に。

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ともに、下り線ホームの秋葉原寄りの端から写したもの。秋葉原駅から隅田川の架橋手前までの区間、線路はとことんまっすぐ。そのため、比較的短い間隔で立てられた古レール柱が、ビシッと一直線に並んでいて美しい。

縦長写真の手前側で中央の梁がH型鋼に代わっているが、これはおそらく、電車の編成が長くなったことに伴い、秋葉原側に少しホームが延長されたためではないかと思う。

屋根を支えるアーチは基本、ホーム/線路に対して直角方向だが、最も両国駅(千葉方面)側だけ斜めになっている(ちょっと下写真では判りづらいが)。

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これは、駅のこちら側に接する道路(柳橋桜北通り)が線路と斜めに交わっているためで、上下線のホームもやや位置がずれている。

●このように、対面式ホームで中央に柱を立てて両側の屋根を支える形式としては、同じく中央・総武各駅停車の水道橋駅も挙げられる。浅草橋駅が曲線を多用したデザインなのに対して、水道橋駅のレール柱は直線的。

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これはこれで魅力的だが、水道橋駅の場合、ホーム背面の柱に全てカバーが掛けられてしまっているのが、古レール柱ファンとしてはいささか残念なところ。そのため、刻印による古レールの出自もほとんど確認できないのだが、28日、たまたま停車した車内から見えた中央の列柱の一本に、不鮮明ながら刻印が確認できた。状態はよくなく、しかも車内からの撮影なのでドアガラスの反射などもあってますます見づらいが、どうも独ウニオン(UNION)社製らしい。

●一方、屋根の掛け方は全く違って島式ホームの中央に柱が立っている形式ではあるが、JR山手線・鶯谷駅の古レール柱は、曲線的なデザインに浅草橋駅と似通ったものを感じる。

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ちなみに鶯谷駅は、ホーム屋根を支える横方向のレールが、そのまま線路をまたいで架線を支える形式。補強を兼ねているのか、2本のレールの間の三連の輪に、ちょっとでもオシャレを盛り込みたかった気持ちが見える。

なお、田端駅は鶯谷駅とほぼ同じデザインの古レール柱だそうだ。

●話は戻って浅草橋駅。

屋根を支えるアーチ状の垂木(?)部分のレールは、柱部分だけでなく、その中間にもある(つまり、柱の本数のおよそ倍ある)。

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屋根を支えるアーチは、柱部分では両側が一体で、縦方向の棟木にあたるレールは柱部分で途切れている。一方、柱と柱の間では逆に棟木がそのまま通っていて、アーチが両側で別パーツになっている。

一方ホーム背面は、壁の上部がトラスになっている。中央の支柱に接続している“メインのアーチ”は、こちら側でもそのまま下まで接続する柱となり、支柱と支柱の中間にある“サブのアーチ”は、同様にカーブを描きつつもトラスの下部に接続して途切れる。

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なお、支柱は必ずしも等間隔ではなく、支柱間に筋交いの補強が入っている箇所もある。また、支柱間が特に広い箇所では、棟木に沿ってトラスの補強が入っている。ここは下を道路が通っているガーダー橋上の区間で、支柱が立てられないためであるようだ。

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さらについで。この区間の高架は昭和初期のものだが、高架はそれなりに高さがあり、鉄筋コンクリート製のアーチが連続している。上記のようにこの区間は線路がとことんまっすぐなこともあって、改めて眺めると、これまたローマ水道的な美しさがある。下写真は浅草橋駅~秋葉原駅間で撮影。

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2枚目は高架下の建物の建て替えか何かで、珍しく空間がぽっかり空いていた箇所。アーチの支柱上側面には、長円形の窪みが装飾的に並べられているが、長年の補修により、ほとんどの場所で窪みのエッジがとろけたようになっている。左写真では、珍しく上側の一部だけ、エッジのシャープさが保たれている。

●浅草橋駅古レール柱の製造者銘刻印について。

KRUPP:独クルップ社

hn-nhさんの報告にある(そして今回私にとって初見の)独クルップ社の刻印は、ざっと見て回ったところ、上り線ホームで3か所確認できた。

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左端の写真が、hn-nhさんが紹介していたものと同じ柱。ちょうど汚れが文字を浮き彫りにするように入っていて(まるで模型でディテールを浮き立たせる塗装を施したような……)、クルップ(KRUPP)の文字が明瞭にわかる。

一方、2枚目の写真はそれよりもやや不明瞭だが、一応、メーカー名以降の文字も確認できる。「KRUPP 1885(あるいは1883?)N.T.K」と書かれているようだ。

1885年は明治18年。日本で新橋-横浜間に初めて鉄道が開業(1872年)してから10数年しか経っておらず、東海道線全通(1889年)は、さらにその数年後になる。最後のN.T.K.は発注者名で、「日本鉄道」の略号であるらしい。日本鉄道は、日本における鉄道黎明期、初めての私鉄として発足(1881年)した会社で、東北本線ほか、現在のJR東日本管内の多数の路線を敷設。後、1909年(明治42年)に国営化された。

なお、刻印の読み解きに関しては、以前の古レールコンテンツでも触れたが、ほぼ全面的に先達のサイト「古レールのページ」を参考にさせて頂いている。以下のメーカーについても同様。

UNION:独ウニオン社

ウニオン社(またはドルトムンター・ウニオン、Union, AG für Bergbau, Eisen- und Stahl-Industrie、→ドイツ語版wikipedia)は、浅草橋駅で、おそらく最も多数、刻印が確認できるメーカー。

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1枚目、2枚目は同じで「UNION D 1886 N.T.K.」。3枚目は製造年が1年早くて1885年。4枚目は頭の「UNION」ははっきり判るが、それ以下はよく読み取れない。Dは会社所在地のドルトムントを表すらしい。

今でこそ聞かない企業だが、鉄道黎明期の日本は結構お得意さんだったらしく、同社のレールは割合あちこちの駅で確認できる。私の身近なところでもJR横須賀線の横須賀駅や鎌倉駅にあり、特に横須賀駅のUNION社製レールでは、浅草橋駅と同じ発注者N.T.K.(日本鉄道)と、官営のI.R.J.(Imperial Railway of Japan=日本帝国鉄道とでも訳せばよいか?)のものとが混在している。

CAMMEL:英キャンメル社

キャンメル社レールは、私が(鎌倉駅で)古レールの刻印を初めてきちんと確認し、この方面への興味を深めるきっかけになったもの。鎌倉駅の同社製レールとの出会いについてはこちら

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上の写真2枚とも、文字はほとんど潰れかけていて見えないのだが、キャンメル社製の刻印の特徴である、「SHEFFIELD(シェフィールド、会社所在地)」「TOUGHENED STEEL(強化鋼)」の文字列の一部が確認できるので、同社製とみてまず間違いないと思う。

BARROW:英バロウ社

下り線ホームで確認できたもの。同社製のレールは鎌倉駅でも確認できる。

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文字ははっきり読み取れないが、「BARROW STEEL Sec166 1893 I.R.J.」だろうか。実のところ、はっきりと読めるのは頭の「BA」と、途中の「166 1893」くらいだが、Sec166は同社独自のレール規格番号らしく、これでバロウ社とほぼ確定できる。

もしかしたら上記以外の会社製と思われるものもあったが、文字が不明瞭で確定はできなかった。

●日本で国産のレールが生産され始めるのは20世紀に入ってからだそうで(1901年末、官営八幡製鉄所による)、明治の前半、レールは輸入頼りだった。

浅草橋駅は昭和初期、1932年の開業。それに近い時期、1939年の日暮里駅の写真(wikimedia commonsより)に、よく似た古レール柱が写っているから、浅草橋駅の古レール柱も、開業当時からの物だろうと思う。ちなみに日暮里駅の古レール柱も、一部は撤去されてしまったもののまだそれなりに残っている。同駅の古レール柱探訪はこちら

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おそらくこの時期、各路線でレールの更新が進み、日本の鉄道の“初代”のレールが廃材として大量にストックされていて、それが駅の屋根や跨線橋の柱として再利用されたのだろう。特に通勤に使われるようになった都心の各駅は、田舎の駅と違って利用者も多く、そのために当時からホームの大部分に屋根が架けられたのではないかと思う(田舎の駅の場合は屋根そのものがなかったり、改札付近に申し訳程度にしかない状態から段階的に屋根を増やしていく例が多く、意外に都心よりも屋根が新しいものが多い気がする)。

(6/30追記)

公益社団法人 土木学会のデジタルアーカイブ、「戦前土木名著100書」に「高等土木工学 第十巻 鐵道工学」という本が収められている(平井喜久松・岡田信次著、常盤書房、昭和6年発行)。同書中、「第七編 停車場」に「6.乗降場(Platform)」の一節があり、ここに、都心の駅における上家(上屋)例の図版が添えられている(以下、同アーカイブより引用)。

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残念ながら浅草橋駅については載っていないが(そもそも駅の開業がこの本よりも後なので当たり前だが)、デザイン的に似たところがある鶯谷駅と日暮里駅(下から2段目)と、屋根の掛け方の形式が似ている水道橋駅(下段左端)は掲載されている。

鶯谷駅の架線架部分の「おしゃれリング」が当時からのものであること、(上の写真でもよく見れば確認できるのだが)水道橋駅は細かくトラスを組んで、妙に頑丈に作られていることなどもわかる。出版時期から、水道橋駅の古レール柱は浅草橋駅よりも早く作られていることが判るが、もしかしたら、水道橋駅の経験から「ここまで丈夫にしなくてもいいんじゃね?」と、構造が簡素化された可能性もあるのかもしれない。

なお、ここに載っている上屋に関しては、個々の駅の架構の材種(鉄骨なのか木材なのか、あるいは鉄骨だとしてそれが古レールなのか否か)は付記されていないが、本文中に、「材料は木材、鐵材が多く近時古軌條を利用せるもの多し。」と書かれている。どうやら、都心各駅の(ちょっと優美な)古レール柱建築は、大正末期~昭和初期くらいに作られたものが多いようだ。

なお、このような資料があってオンラインで閲覧できることについては、サイト「Golgodenka Nanchatte Research」の「古レール調査報告書」、「古レール JR 東日本中央本線【水道橋駅】」で知った。私なんざぁまだまだヌルイのである。

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小坪高角砲台補遺(その4)

●数日前に「小坪高角砲台補遺(その3)」を書いたばかりで、当分は披露山の砲台に関して言うことはないな、と思っていたのだが、その途端にhn-nhさんが、「逗子フォト」に披露山公園建設中の写真が新たにアップされているという記事を上げてびっくり。

→ hn-nhさんのブログ記事、「小坪高角砲台 2019 - 1957 - 1946

逗子フォト」に関しては、猿舎になる前の砲台の写真を引っ張ってきた「小坪高角砲台補遺(その2)」の時にも触れたが、逗子市役所サイト内に開設された写真アーカイブで、今昔の逗子の写真をストック、公開している。今回話題の写真に関しては、久木在住の小泉さんという方が提供された一群の写真の中にあったもので、今年の4月半ばに公開されている(以下、モノクロ写真はすべて「逗子フォト」より借用)。

hn-nhさんの記事と重複してしまうが、砲台の原型が写っている写真は1枚。よく見ると、画面右上辺りに頂上広場に通じる道の出口が見え、現:花壇の砲台から、指揮所跡を利用して建設中の現:レストハウスを写したもののようだ。改めて、ほぼ同じアングルで現状の写真を撮ってみた(厳密に比較対照せずに「だいたいこんなもの」で撮ったので、視線の角度など微妙にずれていて残念感があるのはご勘弁を)。

現在、頂上広場の周囲は木立に囲まれているが、当時は広々と見渡せる。建設中のレストハウスの向こうに見えるのは、さらにこの何年後かに新興住宅地の「亀ヶ岡団地」として開発されることになる名越の山々。

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この花壇に関しては、以前にhn-nhさんがわざわざ周囲の池に手を突っ込んで調査しており、大谷石の縁石の下にある池の外周壁は斜めになっていて、すり鉢状のコンクリートの砲座をそのまま利用して作られているらしいことが判っている。

左写真に写っている砲座は、現:猿舎と基本的に同一形状だったことがこの写真でも確認できるが、よく見るといくつか差異がある。下写真は「小坪高角砲台補遺(2)」で引用した、現:猿舎のものと思われる砲台の写真(確実にそうだと言える証拠は写真には写っていないが、とりあえず、壁龕や階段などの位置関係は現状の猿舎と同じ)。

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目立つ差は、

▼現猿舎では、上部がアーチ型になった穴(現状はコンクリートで埋められている)の向かって右側に階段があるが、現花壇の砲台ではそのようになっていない(航空写真を見ると、上写真では画面の外になっている、アーチ型穴の左側にあったようにも見える)。

▼現猿舎では、砲弾仮置場の壁龕が45°間隔で並んでおり、上部がアーチ型の穴は、そのうち一つの壁龕と置き換わる形で配置されている。しかし、現花壇の砲台では隣の砲弾仮置場の壁龕と接近しており、明らかに配置の間隔が違う(むしろ猿舎における階段と壁龕の位置間隔に近い気がする。方位はどうあれ、階段とアーチ型穴の位置が入れ替わっている――つまり階段が壁龕と45°間隔だったりする可能性もありそうな。考えすぎ?)。

▼現猿舎と現花壇を比べると、アーチ型穴の上端と、砲座自体の上端との間隔が猿舎では狭く、花壇ではやや広い。

砲弾仮置き場の壁龕と明らかに形状が違うアーチ型の穴は、何か別の用途を持っていたと考えられるのだが、現状では謎。しかし、ほぼ同一形状である武山高角砲台(砲台山)の砲座にはこのような形状の穴はないから、両砲台に設置された四十口径八九式十二糎七高角砲にどうしても必要なものというわけではなく、披露山なりの事情(必要性)によるものと考えるべきか(もちろん、建設時期の違いで、改良によって加えられた、あるいは逆に省略された、という可能性もある)。

前記の猿舎・花壇の両砲台のレイアウトの差と関連するが、この上部がアーチ型の穴が、猿舎・花壇とも、おおよそ指揮所の方向にあるというのも気になる。以前に書いたように、地下通路入口という可能性もありそうだが……一方で、地下通路を作るなら退避所/詰所の奥に入口を作った方がいいんじゃね?という気もする。

また、この写真の時点で、猿舎・花壇とも、このアーチ型穴は中が埋まった状態になっているようなのも気になる。もしかしたら弾薬を砲座の上から滑り落とす搬入口? いや、それにしては、花壇のほうの写真で、外側地面に穴が開いているように(あるいは、開いていたように)見えないし……。

いずれにしてもこの辺は、そのものズバリの砲台資料でも出てこない限り判りようがなく、ああだこうだ言っても仕方ないかもしれないのだが、まあ、妄想の楽しみということで。

●冒頭載せた写真は、「建設中の披露山公園(昭和32年)」と題された組写真4枚のうちの1枚で、残り3枚は次のような感じ。

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1枚目は、最初の写真よりもさらに(建設中の)レストハウスに寄って撮ったもの。次の写真は、最初は、現展望台下のテラス部分かと思ったが、四角いコンクリート製の台座のようなものが見えるので、やはり建築中のレストハウスの写真のようだ。遠景に江の島が見える。4枚目の写真は現状、レストハウスの脇から、おおよそ江の島方向を向いて撮ったもの。360°周囲が見渡せたであろう高角砲台当時~公園建設時と違い、特にレストハウス側は木が茂ってまったく見通しは利かない。

●前回「小坪高角砲台補遺(その3)」のそのまた補遺のような写真をいくつか。

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猿舎を囲む(丸太を模した)コンクリート柵の土台は、基本、柱一本ずつ独立しているのだが(左写真)、なぜか退避所/詰所上の(猿舎中心に向かって)左側だけは土台が連続している(右写真)。柱の下の地下室の存在と関係しているかも。

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退避所/詰所上に追加されたコンクリート製天井の外側に、丸く二カ所出っ張ったコンクリート再掲。これに関して、hn-nhさんから「猿舎のためにかつて立っていた立て札か何かの跡では?」のコメントを頂いた。言われてみればそんな感じがする!

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以前貼った写真にもぼんやり写っていたのだが、光線の都合で、退避所/詰所入り口が、(砲台時代のままに)大きく窪んだ中の右側に(だけ)開いているという状態がよく判る写真が撮れたので2枚ほど。四角い檻に囲われた窪みの入り口部分は、現在は手前側が土間、後半はコンクリートで覆われているようで、砲台時代には一段窪んでいたのが、砲台床の他の部分と同一レベルになっているようだ。四角い檻の向かって右には、埋められた「上部がアーチ型の穴」があるが、この写真では輪郭はボンヤリしている。

●「逗子フォト」に追加された写真には、上の「建設中の披露山公園(昭和32年)」のほかにも、1955~1957年頃の披露山を写したものが何枚かある。それらについても、現状比較写真を撮ってみた。

▼「披露山坂道(昭和31年頃)」とされる写真。キャプションに「坂の突当りは現在の駐車場です。」とある。最初は「この写真の手前側、坂を上ったところが駐車場?」と思ったのだが、道の曲がり具合から見てそうではなく、道の向こうが駐車場(兵舎跡)、手前が山頂広場のようだ。よく見ると、少女たち(今は70代?)のわずかに後ろの崖面に、指揮所(現レストハウス)地下への入口である、崖が途切れた部分らしい箇所が確認できる。

撮影は上の公園建築中よりちょっと古いので、この時は頂上広場にはまだ手付かずの砲台跡があったはずだ。この女の子たちが砲台の縁に並んで腰かけた写真とかを撮っておいて欲しかったなあ。

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▼「披露山山頂付近(昭和30年前半)」。上写真と同じ山頂への最終アプローチの坂を逆方向から撮ったもの。舗装はされていないが、勾配は緩やかで道幅もしっかりある。近隣の他の砲台の“砲台道”も、元は同じような状態だったのではと思われる。

もっとも、この写真が撮られたのは戦争が終わって約10年。もしも公園が整備されるまでただ放置されていたなら、“砲台道”ももっと荒れ果てていたはず。しかし、道はきちんと維持され、この先は頂上広場しかなく行き止まりであるにかかわらず(上写真でもはっきりわかるが)車の轍も見える。戦後の復興期、資材置き場か何かとして利用されていた可能性もありそう。

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「新緑の披露山ハイキングコース(昭和32年)」と題された写真2枚と、その現状と思われる地点の写真。

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一組目のカーブに関しては、他に、見下ろすようなアングルで撮れるところがないようなのでほぼ確定? 2組目、若干ポイント的に自信はないが、現状写真は披露山入口バス停からちょっと上った「けやきの広場」横あたりから撮ったもの。ちょっと電信柱と植え込みが邪魔(6/25、写真差し替え)

▼現在の県道311号線(すいどうみち)を「小坪入口」信号で折れ、昭和初期に開削された切通を抜け、小坪の大谷戸を通って漁港方面に行く道を「小坪街道」と呼ぶのだということを、「逗子フォト」で初めて知った。地の人は今でもそう呼ぶのだろうか?

というわけで、「小坪街道(昭和32年)」と題された写真。上の2枚の写真よりも、やや上った辺りから大谷戸を見下ろして撮ったもの。現状写真では家に遮られて見づらいが、道の曲がり具合から見て、地点的にそう大きくは外れていないと思う。

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写真の上方向、道なりに右に行くと切通を抜けて久木~逗子中心部へ。左に折れる道は一の沢。現在は山の上に拓かれた「亀ヶ岡団地」に通じる。

▼「披露山登り口(昭和30年)」。上写真で左に折れる道の出口あたりから、その反対側を撮ったもの。左右に伸びるのが「小坪街道」。この写真では左手の先にある切通は1928年(昭和3年)に開削されたそうなので高角砲台の設置前に「街道」はあり、正面の坂が“砲台道”のスタート地点ということになる。もっとも、披露山中腹にはもともと人家や耕作地、神社などもあり、同じ道筋で細い道はあったかもしれない(6/25、現状写真差し替え)

現在でもこの道は、披露山上の披露山庭園住宅や披露山公園への「表玄関」となっている。なお、現在はこの写真地点の左右に京浜急行バスの「披露山入口」バス停がある。

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どん詰まり公園

●鎌倉市大町の隅、滑川に突き当たる路地のどん詰まりに、「こめ町児童公園」という猫の額ほどの小公園がある。

これがまた、「そもそも公園としての機能を果たす機会があるのか?」と思うような寂れた公園で、路地の突き当りの急な数段の階段を降りた河岸にある。入り口横に掛かった札を見ると日中しか開放されていないようなのだが、実際には、それ以外の時間でも金網フェンスのドアは閉まったままのようだ(少なくとも日中は施錠されてはいないので、扉のロックを外して自由に入ることはできる)。

先日の「現代アートじみた遊具の木馬」の話題で、hn-nhさんから「公園の動物遊具を密かに追跡している」という話を聞き、以来、何とはなしにその手の物に注意しているのだが、このこめまち公園にある動物遊具は、(公園の立地とも相まって)、何となく恨みを含んでいるかのような“うらぶれっぷり”がなかなかよい。

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なお、hn-nhさんも私もとりあえず「動物遊具」と呼んでいるが、この手の物は実際には動物以外の形状のものもあり、写真のような「動かないもの」はひっくるめて「象形遊具」というのが正確な一般名称であるようだ。実際にこれを使って何かの遊びをするよりも、何かの遊びをする際の障害物になる場合の方が多いのではないだろうか、というのは別として。ところで、このキリンのほうは、もしもまたがったまま首を滑り降りたりすると股間を強打しそうでちょっとコワイ。

一方、同じように動物(あるいはそれ以外)の形をしていても、脚部分がスプリングで前後左右・上下に揺らして遊べるものは「スプリング遊具」、またそれとよく似ているが、スプリングもしくは重力利用で前後にのみ揺らせる形状のものは「ロッキング遊具」というらしい(したがって、以前に紹介した「現代アートじみた木馬」は、「スプリング遊具」ということになる)。

細かく名称が区別されているのは、基本、公園がお役所管轄で設置物にも細かく決まりがあるためではと思う。

●たぶん、この程度の小公園は、設置基準的には「街区公園」というものに該当するのだと思う。その要件は、

もっぱら街区に居住する者の利用に供することを目的とする公園で誘致距離250mの範囲内で1箇所当たり面積0.25haを標準として配置する。(国土交通省サイトより)

というものだそうな。しかし、そうした基準に合わせてなんとか(そしてお役所仕事的に)スペースを確保しようとした結果、こういう、「その路地に住んでいる人しか存在に気付けないようなどん詰まり公園」が誕生することになる……のだと思う。

●という具合に、本来はなかなか存在に気付きづらい「どん詰まり公園」なのだが、「ポケモンgo」をやっていると、この手の小公園が(アイテム補充などを行える)「ポケストップ」に設定されていることが多いために、妙に訪れる機会が増えた。

そんなわけで、近所にある似たようなどん詰まり公園その1、「久木風早公園」。横須賀線の線路脇にあり、ご覧のような路地をくねくね辿って行った先にある。ただし上の「こめ町児童公園」よりは若干広く、線路際にあるためにやや開放感もあり、細い路地の先にあるにしては、実際に子供らが遊んでいるところに行き合わせたこともある。

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「こめまち公園」のような、うらぶれた動物遊具はなく、その点ではハズレなのだが、設置物が微妙に変。

「風になびく鉄棒」や、分類上「シーソー」になるのか「スプリング遊具」になるのかよく判らないものとかはいいとして……。

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下1枚目のベンチ……なのは確かだと思うが、右側の(明らかに座るのに邪魔な)枠は何のためにあるのだろう? こちら側は荷物置き専用? 2枚目は……これもベンチなのだろうか? 3枚目となると、いったい遊具なのか、それとも自転車スタンドか何かなのか。あるいは、「自由にこれを使った遊びを考えてみよう」という深謀に則って設置された謎オブジェなのか。

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●近所のどん詰まり公園その2。披露山の山すそにある「かけ山公園」。マンションと山際の崖の間を入った先にあり、そもそも立ち入るだけで不審者扱いされそうな立地。

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そして猫の額ほどの空間に、量産品の動物遊具(スプリング遊具)が2つ。……青はカバのようだが、こちらはライオン? ちょっと髪形を変えてみたスノーク?(もちろん、スターウォーズではなくムーミンのほう)

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遊具を配置することによって、逆に寂寥感が増すという絶妙の空間デザイン。

●どん詰まり公園その3。池子の山の上の住宅地の隅にある「アザリエ第二小公園」。いや、うん、確かに「小公園」だね、としか言いようがないような……。

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