Old Gun Base

●毎年秋は、決まって請ける季節仕事でわたわたする。

実を言えば今年は奇跡的に早くスタートしたので、最初のうちは「いぇ~い。余裕♪」なんて思っていたのだが、結局、後半はいつも通りに怒涛の催促に見舞われた。いかんね。

その仕事も先週末ですっかり片付いたので、とりあえず今は嵐の後の薄らボンヤリ状態。

Screenshot_20191115144952 ●上記仕事の最後のジタバタで、先週は水~金と神保町に日参していたのだが、金曜日は午前中に発注元に資料を持って行った後は、「何か問題があったら呼んでください」と言って、事務所で待機状態。

特にすることもないので、午後、北の丸公園から千鳥ヶ淵方面に散歩に出た。竹橋から英国大使館方面に抜ける、いわゆる「代官町通り」沿いに、大戦中の対空機銃の台座が残されているというのを(割と最近)知ったので、それを見に行くというのが第一目的。神保町~一ツ橋近辺にはもう何十年も通っているにもかかわらず、そんな遺構があるのは知らなかった。

代官町通りの西半分は、通りの南側は皇居の塀、北側は千鳥ヶ淵との間の堤になって一段高くなっていて、堤の上は「千鳥ヶ淵さんぽみち」と言う名の遊歩道になっている。件の台座は、この「さんぽみち」上にある。行ってみてわかったが、「Old Gun Base, Chiyoda」の名称で、「Pokémon GO」のポケストップにも採用されていた。

上では「対空機銃」と書いたが、実際には20mmの対空機関砲の台座で、コンクリートでできた二重円筒状のもの。「千鳥ヶ淵さんぽみち」の、そのまた西側に、割と近接して7つ存在している。配置は一直線でも円弧状でもなく不揃いだが、それぞれの間隔は同じくらい(10m程度)。

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最初の1枚は、台座のある場所全体を東端から見たもの。2枚目以降は、東端から順番に4つ目まで。

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次は途中から、西側の3基を眺めたもの。続く写真は5基めと6基め。最西端の1基は、ちらりと写っているように、外国人のカップルが仲良くお弁当中(さらにその後はイチャイチャ中)だったために個別写真は撮れなかった。

1基の全体の直径は、測ってはいないが、目測で170cm程度だろうか。2mはなかったように思う。実際に使用されていた時にどういう状態だったのかは(きちんとした資料等が検索で見当たらなかったので)判らないが、内側の一段高くなった円筒上に、高射機関砲のターンテーブル状の砲架が載っていたのではないかなあ、と思う。現在は、ベンチとして使用することを考えてだと思うが、薄い自然石のプレートがモザイク状に張られている(一部剥がれたりしているけれど)。ちょうど腰掛けるのによい高さだけれど、内側の段自体が後から作られたもの……ではないような気がする。いや知らんけど。

ここに据え付けられていた高射機関砲に関してだが、環境省の「千鳥ヶ淵さんぽみち」紹介のページにも、「代官町通り沿い堤塘に残る「高射機関砲台跡」」とあるだけで、詳細は書かれていない。ほか、ネット上でヒットするのは、この台座の探訪記に類するものばかりだが、それらによると、

だそうだ(おおもとの出典は何なのだろう?)。

九八式二十粍高射機関砲は名称の通り1938年に正式化されたものだが、その後、これをベースにいろいろ改良型・発展型が作られたらしく、そのうちどんな仕様のものがこの台座に据え付けられたのかはよく判らない。

台座の格好を見る限りでは、中国で鹵獲した「ラ式二十粍高射機関砲(要するにFlak30)」を参考に砲架を新型にした改良型、二式二十粍高射機関砲あたりが怪しそうだ(Flak30のように、ターンテーブル式の架台付きだったようなので)。

wikipediaの記述に、さらにその発展形として出てくる二式多連二十粍高射機関砲というのも怪しい。専用の指揮装置をつないで、複数の砲が連動して目標を追尾する画期的なシステムだが、昭和19年に正式化されたものの16門が製造配備されただけ、とある。しかし、そんな虎の子の新兵器であればこそ、皇居防衛用に使われたとしても不思議ではない(陣地の構築時期とも合致する)。もっとも、このシステムは「6基が連動する」とあるので、台座が7基あるこの場所とはちょっと齟齬がある(いや、1基は照準装置用だったとか……)。

●なお、この対空機関砲陣地の有効性に関して、「高度10000mを飛来するB-29に対しては(まったく弾が届かずに)役に立たなかった」という記述が多いが、20mmクラスの対空機関砲は低空で飛来する小型機が主な目標で、大型爆撃機相手はそもそも想定されていないはず。おそらくこの高射機関砲陣地は、低空からピンポイントで皇居が銃爆撃される危険に対処すべく設置されたのだと思う。いやまあ、陸軍のことなので、本土空襲が始まって、とにかく「皇居をお守りする」格好だけでも付けなきゃイカンというので、届くとか届かないとか関係なしに「何か置いとけ~」と作った可能性も皆無ではなさそうだけれど。

ちなみにB-29が高高度から爆撃を行ったのは本土空襲の初期だけで、その後は低空爆撃に切り替えているため「高度10000mを飛来する」というのも誤りだが、その「低空」も高度2000m前後だったようなので、20mm機関砲クラスでは有効射程ギリギリというところだろう。

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最近の買い物

20191017_132803 ●恒例の季節労働で、最近はだいたい週一ペースで神保町へ行く。

せっかくの機会なので、最近できた、書泉グランデ並びの蘭州牛肉麵の店で食べたり、ティーヌンでトムヤムラーメンを食べたり、久しぶりに「スヰートボーヅ」で餃子を食べたり。久しぶりなので、ちょっと羽目を外して餃子増量の「中定食」を食べてしまったことであるよ。

●食べ物と言えば。

めがーぬさんに、「ファミマのプレミアム肉まんは蓬莱の豚まんによく似ている」と教えて貰って以来、密かにお気に入りにしていたのだが、商品ラインナップのリニューアルで、なくなってしまったらしい。「上位種」の肉まんが「黒豚まん」に変わっていた。蓬莱の豚まんに匹敵し得るかどうかは……最近蓬莱の豚まんを食っていないので、なお検証の要あり。

●最近の模型方面の買い物。

20191025_230412 (1).秋葉原のYSで、特価品のコーナーにズベズダのSU-85が税込み2400円で出ていて思わず購入。ズベズダの新しいT-34シリーズの購入は初(旧シリーズはいくつか持っていて、いまさらどうしよう状態)。

SUに関しては、その昔、タミヤのSU-122を(その当時としては結構気合を入れて)作り、さらに前世紀のぎりぎり末期にドラゴンのSU-85Mを作った(リンクはそれぞれ「T-34 maniacs」内の製作記事)。

後者もかなり頑張って考証・工作したつもりなのだが、今の目で見ると、だいぶ間違いも多い――のだが、その後かなり詳しく判ってきた細かい時期別の仕様の変遷等に関してはほとんどフォローしていないので、私が自信を持ってどうこう言えることはほとんどない。というわけで、詳しくはセータ☆さんのレビューを参照のこと(丸投げ)。

20191025_230639 (2).MENGのルノーFTの誘導輪・起動輪パーツ(1輌分)。

古いRPMのキットは捨てるには惜しいが、誘導輪が戦間期の仏製改修型しか入っていないのはちょっと困りもの(つまりそのままでは、第二次大戦のフランス軍か、ドイツ軍鹵獲仕様くらいしか作れない)。このパーツ枝には、新旧2種類の誘導輪が入っている(改修型を作る場合もこちらのパーツを使った方がシャープ)。

なお、MENGのキット自体も、初版に入っていた起動輪は木組みの三角部分が窪んだ変な表現になっていたので、それを修正する際にもこのパーツは有用(私が買ったキットはすでに修正されていた)。

細いリーフスプリングのパーツも入っていて、wz.34装甲車に流用できないかな……などと、ちょっとスケベ心もあったのだが、こちらはサイズにだいぶ差があって無理だった。

20191025_230536 (3).ドラゴンのII号戦車A型のパーツ小枝詰め合わせ。

いちばん上の一番小さい枝に入っている対空機銃架に惹かれて買ったもの。この車体側面に付く対空機銃架は、初期のII号戦車に時々見られるものなのだが(全車に装備ではないらしい)、タミヤのII号戦車(A~C型)には入っていない。

デフケースはボルト取り用かなー。

20191025_230555 (4).ドラゴンのT-34初期型用サスアーム。

サイバーの(悪名高い)STZ仕様発売の際に新規にパーツ化されたもの。一緒に入っているSTZ仕様の起動輪・誘導輪はさすがにもう用事がない(はずだ)が、丸断面の初期型サスアームは1940年型、1941年型を作る際に必要で、確か手持ちのキットで融通しあっても足りなかったはず。

バラ売りで手に入ったのはちょっと嬉しい。

●数回前の記事への、めがーぬさんからのコメントで初めて知ったこと。タミヤからなんと! ルノーR35が発売になるらしい。ホビーボスのキットを(だいぶ我慢した挙句に)ちょっと前に買ってしまったところなのだが、それでもやっぱり嬉しい。

いら、でもその前にエレール・ベースのVanatorul de care R-35を成仏させてやらねばいかんのでは……。

20191020_212518 ●ついに!

小野不由美「十二国記」の新作が刊行された。題名は「白銀の墟 玄の月」(……このシリーズは「**の* **の*」という題名がやけに多くて非常に紛らわしく、今回のこの題名も覚えられそうにない)。全4巻で、前半2巻が今月発売、後半2巻が来月発売。

それはそれとして、腰巻の文句によれば、「18年ぶりの書下ろし」だそうだ。え……。「華胥の幽夢」から、もうそんなに経ってたの?

尻切れトンボのまま終わっていた泰国の話の続き、ということだけは知っているが、買っただけでまだ読み始めていない。仕事が紛糾状態のところでこれを読み始めてしまったらとんでもないことになりそうなので、とりあえず今の山場を抜けてから読み始めようと思う。うずうず。

●近所を走っている京急バスの車内で、「些細なことで救急車呼ぶなよ!(大意)」キャンペーンの公共広告の車内放送が流れるのだが、その中の一文、

「救急車は限りある資源です」

――というのが、聞くたびにちょっと引っかかる。いや、広義には資源なのかもしれないけれど。

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1897年式75mm野砲 IBG 1:35

20191001_100524 ●先日購入した、IBG 1:35 「75mm Field Gun Mle 1897 Polish Forces in the West」(IBG 35057)の簡単なレビュー。

前回も書いたように、キット名称の「Polish Forces in the West」は、イギリスで再編成された(亡命)ポーランド軍を指すらしい。この仕様自体については後述。今のところ、同社からはバリエーションとして、このポーランド軍仕様の改修型のキットと、フランス軍仕様のゴムタイヤ付き改修型のキット(IBG 35056)の2種が出ている。IBGのこれまでの製品ラインナップ傾向から考えると、この後、木製スポーク車輪付きのオリジナル状態のものや、1939年戦役時のポーランド軍仕様の改修型(フランス軍仕様とは異なるホイール形状の大径ゴムタイヤ付き)なども、ほぼ確実に出るものと思われる。

さすがに対空砲型まで出るかどうかは判らないが、個人的には、ぜひIBGにはハッチャけてもらって、ド・ディオン・ブトンに搭載した対空自走砲まで行って欲しい。無理かなー。

●実物について。

「1897年式75mm砲(Canon de 75 modèle 1897)」は、フランス国営工廠製の野砲で、名称にある通り、登場は第一次大戦前に遡る(実際に正式採用されたのは翌年の1898年だったようだ)。世界初の油気圧式駐退復座機を持った、近代火砲の祖と呼べる砲で、戦車におけるルノーFT、レシプロ戦闘機におけるポリカルポフI-16のような存在(判りにくい例え)。しばしば「シュナイダーの75mm」と呼ばれるが(昔のTOMのキットのように、模型でもその名前で出ていることがある)、これはシュナイダー製であるという誤解に基づくもので正しくない。

第一次大戦ではフランス軍に多数使われたほか、サン・シャモン戦車の搭載砲にもなった(後期型のみ)。アメリカ軍にも供与され、その後、アメリカでは独自の発展も遂げて、M3ハーフトラックに搭載された対戦車自走砲も作られた。M3リーに搭載されたM2 75mm戦車砲もこの砲の流れを汲むものという話もあるが、そちらはどうやらガセらしい。

ポーランドは戦間期に多数を入手、第二次大戦勃発時には1000門を超えるこの砲を保有していたらしい。1939年戦役におけるポーランド軍の本砲に関しては、毎度のことながら、PIBWL military siteを参照のこと。フランス本国でも1940年当時多数が現役で、結果、ドイツ軍もごっそりとこの砲を入手し、以前に私が作った「ぼいて75mm対戦車砲」、PaK97/38に化けることになる。ちなみに私が作ったPaK97/38は、この状態のまま放置されている。しょうがねーなー。

上記の通り、この砲の最大の特徴は「世界初の油気圧式駐退復座機」装備にある。それに付随した、この砲独自の見た目上のポイントが、砲口近くの下側に付いている“エラ”のような突起。PaK97/38作成時に調べて判明したことだが、この突起は、砲身が最大に後退した際、複座レールに入り込むガイドで、模型のパーツを使った解説はPaK97/38作成時の記事を参照して欲しい。ほか、“リボルバー”式の尾栓も、他の砲ではあまり見ないような気がする。砲架はこの時代にはオーソドックスな単脚式。

●キット内容は、プラパーツの枝が5枚と、小さなエッチングシート、デカールが各1枚。カラー印刷8ページの組立説明書。

……というのが私が買ったキットの箱の中身だったのだが、組立説明書には、プラパーツは3種4枚分しか図示されていない。どうも、本来入っているはずのない他バリエーション用のパーツが間違えて紛れ込んでいたらしい。とりあえず、私が買ったキットの中身は以下の通り。

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パーツA(写真1枚目):大きめの枝で、砲の基本パーツ一揃い。一応、それなりのディテールの細かさを持った、今風の火砲のキットという感じ。この砲の1:35インジェクションの先行キットとしてはTOM/RPMのものがあるが、砲身と駐退レールが一体で非常に大味だった同キットよりは格段に優れる。

パーツD(写真2枚目):防盾と照準器。当然ながら、実物はペラペラの鋼板だが、キットのパーツは厚みが0.7mm程度ある。このあたりは、インジェクションキットとしては仕方のない部分といえそう。

パーツG(写真3枚目):このキットの仕様独自の部分で、本来の位置からクランク状に一段低められている車軸と、他の仕様よりも小径のゴムタイヤ。

パーツB(写真4枚目):もともとの木製スポーク車輪や、それと同径のゴムタイヤ用の車軸、ブレーキ、ブレーキ用ロッドなどなど。一部使う部品があってセットされているのかと思ったが、どうやら単純に入れ間違いだったらしい。

エッチング&デカール(写真5枚目):デカールは個別の砲の愛称?と思われる女性名が3種。説明書の塗装解説によれば、1942年英本土、ポーランド第一装甲師団第一機械化砲兵連隊。

説明書(写真6枚目):組立の図説は割と細かくステップ分けされていて、それなりに判りやすそうな感じ。

●細部について少々。

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砲身は(砲口部分を除いて)PaK97/38と同じだが、イタレリでも無視されていた、砲尾部分の左右非対称がちゃんと表現されていて好感が持てる。砲尾は右下部分が左下に比べ余計に外側に膨らんでいる(オレンジ矢印部分)。

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防盾上端には、細かいリベットが並んでいる。キットのパーツは表側(左)も裏側(右)も同じ表現で、そもそもこのリベット列が何のためにあるのかもわからない具合になっているが、実際には、このリベット列は防盾裏側に細いL字材を止めるためのもの。もしもどこからか、このキット用のエッチングのアフターパーツが出るようなことがあればセットされそうだが、出るかなあ……。

また、表側の中央に縦に帯材がモールドしてあって、中央にリベット列がある。しかし実際には、この帯材は、左右分割された防盾の隙間をカバーするため、右側防盾にリベット止めされたものなので、当然ながら、リベット列もそちら側に(表側から見れば左側に)寄っていなければおかしい。

なお、キットは砲本体だけで、砲弾も弾薬箱もセットされていない。個人的には、弾薬リンバーも追加でキット化して欲しいところ。

●前回書いたように、私は「ポーランド」という単語だけに反応して、1939年戦役時のものだと思い込んで買ってしまったのだが、それはそれとして、この「亡命ポーランド軍仕様」というのが、(前回、hn-nhさんにもコメントで聞かれたのだが)いまひとつよく判らない。

キットの説明書は上記のように組立説明は丁寧だが、砲自体の解説は一切なく、手掛かりは塗装図の「1942年英本土、ポーランド第一装甲師団第一機械化砲兵連隊」しかない。

もちろん、ポーランド本国から持って逃げたわけはなく、フランス軍下で再編成されたポーランド軍は本砲を使っていそうだが、それもまた、ダンケルクから持って逃げる余裕があったとは思えない。

PIBWL military siteも1939年より後のことには触れていないのではっきりしたことは判らないのだが、英語版wikipediaの「Canon de 75 modèle 1897」の項に若干のヒントがあった。

これによれば、イギリスは第一次大戦時、対空砲仕様の本砲をフランスから購入、また通常型(?)の本砲も追加で輸入したが、これもまた対空砲架に載せた仕様に改装されたらしい。というわけで、これが亡命ポーランド軍に渡った可能性はなさそう。しかし1940年、ダンケルクで大量の装備を失った穴埋めに、アメリカから1897年式75mm野砲を、ある程度まとまった数(wikipediaによれば895門)、輸入したらしい。ただし、アメリカ製の本砲は、1930年代にほとんどが開脚砲架付きに改修されたようなことが「US Service」の段に書かれているし、そもそもアメリカ製の砲は、後期の型は(M3自走砲に見られるように)外観自体が大きく違うので、「1940年にイギリスが買った」ものが、ほぼオリジナルのままだったのかどうか、という疑問もないわけではない。が、とりあえず現時点では、

「イギリスがダンケルクの損失を補う目的でアメリカから購入した旧式砲を、亡命ポーランド軍の装備として一定量下げ渡した」

という可能性が最も高そう。独特の小径タイヤに関しては、(1).アメリカにおける改修、(2).イギリスにおける改修、(3).自由ポーランド軍独自の改修、という3つの可能性があるが、とにかく現時点では情報が少なすぎて何とも言えない。

なお、この仕様の本砲に関しては、あれこれ検索した結果、IWM(Imperial War Museum)由来の写真をようやく一枚見つけることができた。wikimedia commonsより引用。

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牽引車の後面に掲げられた「PL」で、イギリス軍下のポーランド軍であることが判る。キャプションによれば、キットの塗装例と同じく第一機械化砲兵連隊の所属。時期はキットの塗装例より若干早く1941年、スコットランドのセント・アンドリュース近郊における撮影。牽引車はモーリスC8 FATであるらしい。

というわけで、由来はどうあれこの仕様の砲が実在することは確認できたが、補給等々の問題を考えても、ノルマンディ上陸以降の実戦では25ポンド砲あたりが使われて、この砲はイギリス本土での訓練用だけだったのではないか、という気がする。

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コメント投稿についてのお知らせ

●当ブログの置かれているココログが謎のメンテでしっちゃかめっちゃか状態になって半年以上経つが、どうやらまだ幾分怪しいところがある様子。

これは個人の環境によっても差があるのかもしれないが、最近は、「新規に投稿されたコメントがきちんと表示に反映されない」という問題が発生している。

一応、ブログの管理者である私には、どなたかがコメントを投稿すると「コメントが来たよー」というお知らせメールが届く。……のだが、実際に「かばぶ」を開いてみると、コメント自体は表示されず、左の新規コメント欄にも出ていない状態。ページをリロードしてみても出てこない。

そのまま放っておけばいつのまにか表示されるようになるのかもしれないが、管理画面から「最新の情報に更新」をクリックするときちんと反映された状態になるようだ。要するに、私自身がそう望んだわけではないが、強制的に「コメントは管理者の承認を待って表示」モードのようになってしまっている感じ。

というわけで、特にここ最近、当「かばぶ」にコメントを投稿し、「あれ? コメント反映されないや……」と思った方もいらっしゃるかもしれませんが、私自身、なるべくマメにチェックして「最新の情報に更新」するように心掛けますので、投稿ボタンを乱打などせず(そんな人は今までいませんが)気長にお待ちください。

しょうがねーなーココログ(タダで使っているのであまり強硬に文句も言えないけれど)。

●前回、MiniartのTACAM T-60(鋼製リム転輪)をイエローサブマリンに予約、「まあ、消費税増税までには間に合わないだろうなあ」と書いたのだが、なんとギリギリ、9月30日、仕事で新宿をほっつき歩いている際に入荷の電話が来て、早速引き取りに行った。

その際、IBGの75mm野砲mle.1897も入荷しているのも発見。予約の取り置き棚にはフランス軍型のゴムタイヤ仕様、ポーランド軍型のゴムタイヤ仕様の2種が置いてあったのだが、表の商品棚にはポーランド軍用しかなく、そちらを購入。

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現在、ちょっと仕事が紛糾状態なので、キットレビュー等はまたいずれ。

ただし、75mm野砲のポーランド型の方は、キット名称の「in the West」という部分を軽く読み飛ばしていたのだが、要するにこれは「イギリスにおける(亡命)ポーランド軍の装備」であるらしい。そういえば、1939年戦役時のポーランド軍装備のこの野砲のゴムタイヤはもっと大径だ……。私自身はその辺に気付かず、1939年戦役時の仕様だと思い込んで買ってしまったので、帰宅して気付いてがっかり。

実際にノルマンディー上陸以降、北西ヨーロッパで戦ったポーランド第一軍はこんな旧式砲ではなく25ポンド砲あたりを使っていそうな気が。もしかしたら、イギリス国内での訓練用にしか使われていなかった可能性もあるのではと思う(キット付属のデカールも、1942年の英本土のみ)。

もちろん、IBGはこの後、オリジナルの木製スポーク仕様も、1939年戦役で使われた大径ゴムタイヤの改修型も発売するだろうと思う。しおしお~。

●今年に入ってから、ほぼ週に1,2度ペースで義弟(といっても向こうのほうが年上なので、感覚としては義兄)の革鞄工房で徒弟をしている。趣味の模型のほうは塗装はさっぱりだが、そちらではなぜか切断面の塗り工程をすることが多く、また、時々は古くてハゲチョロケになったカバンの補修塗装を任されることがある。もちろん、ビンテージジーンズ同様、ナチュラルな仕上げの皮革で使い込んでいく過程を愛でる場合もあるが、派手目の着色革の鞄の場合はみすぼらしくなるだけなので、時折、販売店経由でそういう依頼が来る。

今日もそんな補修を任されたのだが、相手は中型のトートバッグで、ハゲの程度は比較的軽傷ながら、革がベージュと茶色のツートーン、かつ持ち手と継ぎ目のテープが焦げ茶と言う三色構成の難敵。補修作業は、極力地色に合わせて絵の具を調色し、なるべくムラが出ないように傷を塗り込めていくというものだが、大雑把に言えば、三色だと手間も三倍になる。結局、終了までに2時間以上掛かったが、「よし、これなら文句は言わせん!」レベルまで仕上げたので満足。模型の塗装もこれくらい行けばなあ……。

なお、鞄の補修で「一仕事終えたぜ!」気分になったものの、本業の方はさらに遅れが深刻化してしまった。やばし。

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鎌倉の狸

●23日月曜日、夜に散歩に出たら、鎌倉の鶴岡八幡宮の横手で、タヌキに遭遇した。以前に近所でタヌキかアライグマか(とっさのことで判断できなかった)に遭った時には慌ててしまって写真も撮れなかったが、今回は(ボケボケではあるものの)2枚撮影できた。前足の肩の部分が黒いこと、しっぽがシマシマでないことなどから、アライグマではなくてタヌキであろうことがわかる。

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なお、1,2カ月前だったか、逗子海岸沿いのファミレスの入り口で、弱ったタヌキが行き倒れていて保護されたことがある(という写真と話が、facebookの逗子のニュースグループに上がっていた)。

●9月最後の週末。28日土曜日、久々にお誘いがあり、nifty模型フォーラム以来の友人である赤板、でんでん両氏と川崎で大いに飲む。といっても、5時半から飲み始めて、9時前には解散。なんと優等生的な。

赤板氏は相変わらず、縦横の寸法が近付くほどに膨れていて、(人のことは言えないが)食生活につき厳しく指導。

「でんの野郎にもいつも言われてて、いったいあいつはオレのおふくろなのかと」

とブツブツ言っていたが、そこまでいつも言われているならなんとかせれ。いきなり倒れられたりするとこっちも精神的にきついんだよ。

脂っこいものばかり食っていそうな“腹丁”青木先生も少々心配だ。つい先日、関西AFVの会は無事に開催されていたようなので、元気でいるのだとは思うが。

なお、一時模型から遠ざかっていたでんでん氏は、最近また少々飛行機を作っているそうだ。

20190921_101024 ●グムカの高田さんがズリーニィの資料本を出すという話は昨年の東京AFVの会の時にだったか、聞いていて、「これは出たら当然買わねば」と思っていたのだが、うかうかしているうちに、夏の初めにはとっくに出ていたらしい。秋葉原でなら売っているかな?などとも思ったが、買い逃すと残念なので、グムカに直接通販を申し込んだ。

頼んでから数日のうちに届いた(先週末)。買い逃さずに済んでよかった……。

タイトルは「ハンガリー陸軍40/43M 10.5cm突撃榴弾砲ズリーニィ」。ソフトカバー、B5版で、表紙を除き全74ページの薄手の本だが、小国の国産車輛のモノグラフとしては充分だろうと思う。そもそも、ズリーニィに関する日本語で読めるまとまった資料と言えば、これまでは、「アーマーモデリング」発刊間もない頃の東欧小国特集(Vol.5 枢軸国の機甲部隊)くらいしかなく(当然、現在では入手難)、それを大きく上回る内容の本書の発売は非常に有り難いところ。

中身に関しては、おおよそ下写真の目次にある通り。若干のカラー塗装図に続いて、現存実車(クビンカ)のカラー内部写真、実車の開発史と戦史、ディテール解説。これら記事は現地の研究者によるものの翻訳。続いては、クビンカの実車の外回りのwalkaround写真。以前、やはり高田さんが出版された「クビンカ フォトアルバム Vol.1」に掲載された写真と同じ時に撮影されたものか。掲載写真に重なりがあるかどうかは、「クビンカ フォトアルバム」がパッと出てこなかったので未確認。続いては、実車の大戦時の記録写真(生産ロット別)。試作のみの対戦車型「ズリーニィI」についても巻末で軽く触れられている。

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なお、同書の現存実車のディテール写真と、そのキャプションに出ているのだが、ズリーニィの戦闘室上面とハッチには、数カ所、謎の小穴があるそうだ。現状、何の用途なのかは謎で、現地研究者の推測は「製造時に必要な何かの仮設用の穴では」というもの。高田さんの推測は「車内の明り取りの穴ではないか」。

もちろん用途に関して野次馬的興味は大いにあるものの、模型的に大事なのは「実車がどういう形状をしていて、それを模型にどう反映するか」ということになる。しかしそこで問題なのは、「ではこの穴は本当に、戦時中の実車にもあったのか」ということ。戦時中の実車写真では、当該箇所に本当に穴があるかどうか確かめられるような、鮮明なクローズアップが見当たらない。

もしかしたら、(先の「製造時に必要な何かの仮設用の穴では」説に通じるものもあるが)鹵獲後にソ連側で何かを取り付けるために開けた穴である可能性もあるかもしれない。……と思うと、模型に反映するかどうか、ちょっとためらってしまう。

いや、戦時中実車でも確認できるよ、コレに写ってるよ、というようなアテがおありの方は、ぜひご教示いただきたい。

●タミヤから38(t)が35で発売されるそうだ。38(t)ベースのマーダーが発売された時から、いずれは出すだろうと思っていたが、ついに。

タミヤなら当然そうだろうなあ、という選択のE/F型。個人的にはフランス戦で使えるB/C型がよかったなあ、という気もするが、フランス戦時の38(t)はリブの多い初期型履帯を履いているのが普通のようだし、タミヤはそこまでしそうにはない。

他に楽しみにしている新製品としては、IBGの75mm mle.1897野砲。web上には中身の写真なども上がっているので、実際にはもう発売されているのかもしれないが、今のところ私は店頭では見たことがない。

たぶん買わないとは思うけれど、「おおおおお」とびっくりしたのはAMMO/migの1:16、ブレダ20mm搭載I号戦車A型。TAKOMから1:16の(通常タイプの)I号戦車A型が出るそうなので、もしかしたら基本パーツは共通なのかもしれないが、そのへんの関係はよく判らない。

ブロンコのアンシャルドCV35(ハンガリー軍仕様)は、非常に惹かれはするけれども、すでにレジンの改造パーツを持っているのでたぶん買わない。

●MiniartのTACAM T-60は、知らない間にディスク転輪型は発売になっていたらしい。これも買い逃してしまうと嫌だなあ……と思いつつも、同社の場合、最初の製品にはポカがあって、後の製品ではそれが直されているということもあるので、発売時期が遅いもののほうがちょっと安心かもと思い直し、未発売の鋼製リム転輪型をYSで予約して来た。入荷は、消費税増税前には間に合いそうにない。

●先日の台風第15号で崖面が崩落し、通行止めになっていた小坪隧道だが、24日火曜日夕方、ようやく復旧したそうで、バスも通常運行を再開した。ずいぶん長かったが、それでも対策工事が完全に終わったわけではなく、交通は復旧しながらも、工事はまだ断続的に続くようだ。

●前々回に紹介したカヤの実。一週間ほどアク抜きし、その後しばらく乾燥して、炒って食べた。アク抜き直後に炒ったものはまだ針葉樹のヤニ臭い感じがしたが、その後数日しっかり乾燥させたものは香ばしさが増していた。

カヤの実についてweb上で検索すると、「美味い」という意見と「美味しくない」という意見が入り混じって上がっている。昨年、初めて食べた時には香ばしく、これは頑張って採ってきて食べる価値がある!と思ったのだが、今回、最初に食べた時にははっきり言ってちょっとがっかりな味だった。どうも、処理の具合によって味がかなり左右されるのでは、というのが現状における私の想像。

その後、鎌倉の某神社の境内に大量に落ちていたので拾ってきて、現在、第二陣のアク抜き中。そろそろアク抜きを開始して1週間経過。

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●市内某所でクリも拾ってきた。もっとも、台風の影響でしっかり熟さないうちに叩き落されたイガが多かったようで、落ちているのは口の開いていないものばかり。

足で踏んで割ってそれなりに集めてきたが、中身がスカスカな感じのものも多いようで、鍋に水を張って入れてみたら、3分の1程度が浮かんで来た。浮かんだものを中心に茹でた後に焼いて割ってみたが、中身が傷んでいて食べられそうになかった。沈んだほうの中身に期待。

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ほか、近くの寺/神社でぎんなんも拾ってきた。ここ2、3年、いつも目当てにしてい某寺山門脇のイチョウの木は、どういうわけか今年はほとんど実を付けていない。それでも周辺でそれなりに拾うことができた。

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II号戦車b型 THE WORLD AT WAR 1:72 (2)

●前回記事はこちら

キットは、「元号が令和に変わってから、私が初めて買った」もの。クブシュを工作する一方で、こちらも中途半端に形にして、先行の同メーカーのII号a1/a2/a3と並べて見比べたりしていたのだが、ここ最近になって、なんとなく気になって組み上げてしまった。

そのうちこのへんのミニスケールはまとめて塗装したい。

●というわけで、工作完了状態のお披露目。

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前回記事でも書いたが、b型までの特徴、側面の燃料注入口は、a型キット同様、一体モールドで形が潰れてしまっていてみっともないので、ポンチで打ち抜いたプラペーパーと、0.3mmプラバンから削ったヒンジで作り直した。実はここの工作が面倒で、主要パーツだけ組んで放り出してあったというのが真相。

もっとも工作したあとで実車写真をよく見たら、ヒンジの形状がちょっと違っていた(というのがはっきり判るほど工作の精度が高くはないのでそのまま)。また、a型キットでは別部品だった操縦手席右側クラッペも一体モールドだったので、ここも一旦削り落とし、キットの不要パーツで追加工作した。

その他はおおよそ素組み。若干気になった細かな部分は以下の通り。

・同じくIBGが手掛けている「FIRST TO FIGHT」シリーズと違い、こちらは割と細かくOVM具類は別部品化されている。しかし、工具類のパーツには取付ガイドの凸があるのに、フェンダー側は、一部を除いて凹が無い。場所により、フェンダー側に0.5mmのドリルで穴を開けたり、工具側の凸を削り取ったりして対応。

・OVMのうち、右フェンダーに乗るS字シャックル(ワイヤカッター後方)は、a型キットではフェンダーに対し横向きに、このb型キットでは縦向きに付けるよう図示されている。実車でどうなっているか、はっきり写っている写真を見つけられずにちょっとモヤモヤしたが、結局、「フロントバヤ……」のII号戦車の巻に出ていた図を頼りに斜め向きに付けた。

前回記事で書いたように、私の入手したキットでは、砲塔ハッチのダンパーの片側が潰れていたので、削り取って伸ばしランナーで再生した。

・砲塔右側下縁に、わずかにヒケ状の窪みがある(a型キットにもあったので、おそらく金型自体にあるミス)。a型では放置してしまったが、今回はプラ片で埋めて削り直した。

・やはり起動輪はふくらみが足りない感じで、c型以降の標準型起動輪と同じに見える(b型のみふくらみが大きい)。とはいえ、さすがにこの部分は厄介なので放置。

●先行のa型、およびFIRST TO FIGHTのD型と並べて記念撮影してみた。a型の寸詰まり加減が判る。

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台風一過のあれやこれや

●季節労働の地図本の制作にいっぱいいっぱいになってしまい(と言うほどには真面目に仕事していないが)、当「かばぶ」の更新もだいぶご無沙汰に。そんな折にやたら強力な台風がやってきたりもして、hn-nhさんから「そっちは大丈夫だったの?(大意)」というお言葉も頂いたりしたので、近況報告やらなにやら。

とりあえず最初に書いておくと、我が家自体は木の葉が吹き溜まったくらいで、特に大きな被害はなかった。私自身は(兄が職場の研修で不在になるというので)川崎の実家の母のところに泊りがけで出かけていたので、家がどれくらい揺さぶられたかもよく判っていない。

なお、実家は東急・田園都市線沿線にあるが、割と午前中早めにもう動き出していた。昼に横浜経由で帰ってきたが、JR横須賀線は「いつ動くかもわからん」状態な一方で、京浜急行はその数日前(木曜日)に神奈川新町の踏切で大事故があったにもかかわらず、土曜日には復旧しており、台風後の月曜午後も(逗子線への直通こそなかったものの)割と普通に走っていて、そちらを使って問題なく帰宅できた。京急偉大なり。

●我が家の近所の山の下を通る神奈川県道311号(すいどうみち)には、逗子市と鎌倉市の境界となる3連×上下線の6本のトンネル群がある。ひっくるめて「小坪トンネル」と呼ばれたりする、全国的にはお化けトンネルとして有名な場所だが、うち、下り線(鎌倉→逗子方向)の2本(名越隧道、小坪隧道)は明治時代に地元有志が出資して浦賀道に初めて開削したトンネルとして土木遺産にも指定されていたりする。詳しくはこちら

が、その小坪隧道(6つのトンネルのうち、下り線の最も逗子側)の逗子側ポータルの上方の崖が台風で崩れ、現在(9月14日)もなお不通で、解除の見通しも立っていない。

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2枚目は小坪隧道の鎌倉側から覗きこんで撮ったもの。倒木が道路を塞いでいる。4枚目は山の上の住宅地からトンネル上の斜面を見下ろして撮ったもの。かなりざっくり崩れている。単に道路を塞いだ倒木を除けばいいというものではなく、3枚目の写真にも少し写っているように、トンネル上方にも倒木がまだ重なって引っかかっていたりして、下手をすると再び崩落しかねない状況であるらしい。

逗子から鎌倉へは普通に通れるが(1枚目の写真の左側・新小坪隧道が上り線)、鎌倉から逗子へは、大きく迂回していく必要がある。

●ほかにも近所で「あ、あそこの崖も崩れてる!」なんてところがちらほら。

もともと逗子・鎌倉はちょっとした平地を取り巻いて細かい谷戸が多数あり、しかも山すそは切り立っていて、地層は柔らかく、もういかにも崩れて下さいと言わんばかりの地形(そしてその通りよく崩れる)。特に鎌倉では、谷戸の奥が倒木で小範囲に停電したり通行不能になったりという箇所がかなり多数あるようだ。

だからこそ、(前回書いたように)「どんどん崖はコンクリで固めてしまえ」的方向になってしまうのも当然なのだが、それはそれでまた、遮られることなく周囲に風雨が当たるようになる、ということでもある。

●崖崩れまで行かなくても、平地でも山でも、あちこちで木がへし折られていて、今回の台風がどれだけ凶悪だったかがわかる。

10日火曜日、名越切通を少し歩いてみたが、山道に折れた枝が敷き詰められたような状態。

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さらに鎌倉側に降りる手前の西平場には、立派なヤマザクラ(オオシマザクラかな?)があって、毎春見事な花を楽しませてくれていたのだが、平場に面して風がダイレクトに当たったのか、根元近くからぼっきり折られてしまっていた。

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2枚目、折れた幹を見ると、縦に割けたようになっていて、単純に折れるというより、ねじ切られるように折られたらしい。ついでに、在りし日の姿を一枚。惜しいなあ。

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●hn-nhさんから、「台風の風雨に紛れてミツバチの巣を採ろうとしなかったか」(大意)と聞かれたのだが……惜しい!

実は台風が来る前に、下から物干し竿でつついて半分ほど回収してました(笑)。というわけで、スズメバチの上前をはねたニホンミツバチの巣がこちら。

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採ったこの巣自体にハチミツは残っていなかったものの、木にくっついた根元部分にわずかに残っていた分があったようで、物干し竿でつついた時にぼたぼたと少し垂れて来た。もったいない~。

「蜜蠟でできた巣」というと、なんとなくずっしりとしているのではという先入観があったのだが、実際にはハニカム部分は極薄で、おそらく、大きさあたりの重さは紙でできたアシナガバチの巣とそれほど変わりはないのではと思う。

これだけ採ったら、耐熱ガラスのカップ一杯分くらいの蜜蠟が作れるんじゃないか……などと皮算用していたのだが、実際には、熱湯で融かしてペーパータオルで濾して冷まして固めたら、大さじ2杯分くらいにしかならなかった(ペーパータオルのなかでゴミと一緒に固まった分も多かったかも)。

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濾す際に失敗したので、まだ若干ゴミ混じり。ろうそくでも作ろうと思っていたのだが、これじゃカップ入りろうそくは無理だなあ。

●先月収穫したヒメクルミは、バケツの中で果肉を腐らせたり、じゃぶじゃぶ洗ったりを繰り返して、おおよそ核果だけの状態に。いくつか試しで割ってみたが、なかなかよろしい感じ。

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さらに、昨年初めて食って美味かったカヤの実も多少収穫して来た。現在重曹の溶液に漬けてアク抜き中。

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●遡って、更新をサボっていた間の行動記録を少々。

8月26日。逗子市民プラザの映画上映会で「ボヘミアン・ラプソディ」をやるというので(しかも900円で観られるというので)、今更ながらいそいそと観に行く。

私自身は、もともとクイーンはあまり“ピンと来ない”感じで、現役バリバリで活躍していた時代にはまともに聞いたことがなく、誰もが知っているヒット曲に関して「ああ、これってクイーンだな」と判る程度。むしろ、昨年映画「ボヘミアン・ラプソディ」が大ヒットしたことで、なんとなく知っている曲が増えた(というよりも、「あ、この曲ってクイーンだったんだ」というのが若干わかるようになった)。しかし、この映画を楽しむには、むしろそれくらいの距離感がちょうどよかったかな、というのが見終わっての感想。

ただ、映画として大傑作かどうかというとちょっと首を傾げる感じ。なんというか、バラエティ番組でよくやる、著名人とか過去の偉人の振り返り再現ドラマの「良く出来た版」という感じで、したがって、物語も登場人物の人間性も単純化され、程よく美化されて、逆に、「これって、ものすごくコアなクイーンのファンが見たら、むしろかなり物足りないんじゃ……」と思った。

映画であってそっくりショーではないので、あまり「そっくり度」を云々しても仕方ないのかもしれないが、登場するクイーンの4人のメンバーのうち、主人公であるフレディ・マーキュリーが一番似ていない気がした。本物よりかなり線が細い感じがしたのだが、後から写真を見比べると体のマッチョぶりはあまり差がなく、どうも顔の下半分のボリュームの違いから来ているのではないかと思う。ロジャー・テイラーが一番似ている気がしたかなあ。ジョン・ディーコンは髪の長い時代はそうでもなく、髪を短くしてからがすごく似ている気がした。もちろん、熱烈なクイーンのファンとは言い難い私の勝手な印象。主人公かそうでないかで、登場する時間も映り方も違うし、というのもあるかもしれない。なお、以上はあくまで顔かたちの問題で、特にステージ上のしぐさやディテール(例えばシーンごとの使用楽器、小物の配置など)はものすごくこだわって再現されているように感じた。

●8月28日。都内で仕事。霞が関の某官庁で資料閲覧・コピーさせてもらい、その後、夕方に神保町で会議だったので、桜田門から皇居前広場を抜けて神保町方面へ歩く。

途中、大手門前まで来た時に、案内板を見ていたら、入り口のおじさんに「どうですか」だったか「まだ入れますよ」だったか、とにかく声を掛けられた。

「竹橋方面に抜けられます?」「(その手前の)平川門から出られますよ」

そういえば、皇居のこちら側も普段から入れる場所なのに一度も入ったことがなかった、これもいい機会かもしれない――と思って、いそいそと入る。この時、午後5時半ちょっと前。閉門時間は6時で、どんなにゆっくり歩いても時間は十分。同心番所とか、百人番所とか、まだこんな建物が残ってたんだなあ、などと物珍しく眺めながら歩き、平川門に向かう長い直線道路に差し掛かったところで、横道から若い警官が出て来て、「もうこの先の平川門は閉めますから、大手門に戻って下さい」と追い返された。

「いや、通り抜けられるって聞いたから来たんですよ」と言っても聞く耳持たず。「そもそもここは、大手門と平川門、どっちが近いんです?」と訊ねると、「平川門のほうが近いですね」と言う。じゃあ平川門に行かせてくれよ、と思うのだが「ほら、もう皆さん引き返してきていますから」と言う。

しぶしぶ大手門まで戻り、受付で顛末を話すとむしろ驚かれて、「すみません」と謝られ、しかも「これからでも、平川門に向かわれますか?」とまで言われたのだが(それはそれでびっくりだ)、「いや、もういいです」とぶっきらぼうに答えて大手門を出た(むしろ大手門受付の対応は親切だったので、八つ当たり的返答をしてしまったのは申し訳ない)。

なお、大手門まで引き返し、お堀の外側を回って平川門外に到着した時には、まだ本来の閉門時間である6時になっていなかった。……皇宮警察許すまじ。

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ニホンミツバチ

●11日、鎌倉浪花家で今年初めての氷宇治金時。ひと夏に一度は食べたい品。

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器が平たい上に山盛りになっているので、こぼさずに食べるのはなかなか難しいのだが、今回はなんとかひとかけもこぼさず食べ切ることができた。ややこしい手順など考えず、素直に上から食べていくのが良策。なお。小豆餡は上、中、下の三カ所に入っている。

●近所の、山の上の住宅地から谷戸に降りる階段道の改修工事が始まり、道幅の半分を潰して保護壁が張られていた。

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ここは、数年前に道の下手の曲がり角の上で斜面が崩れ、その後応急処置のみで放置されていたのだが、どうやら(この際、ということで)階段道に沿った斜面全体をコンクリートの擁壁に変えることになったのではないかと思われる(斜面の藪が刈り込まれ、保護壁が作られている様子から見て)。

確かに防災上はそれが手っ取り早いのかもしれないが、実は階段道の上の方の斜面は、初夏にはヤマユリが咲いてキイチゴ(モミジイチゴ)が実り、初冬にはトリカブトが可憐な花を咲かせる、ちょっとした楽しみがある場所でもあった。もちろん、場合によっては人命にも関わる防災措置と、自然保護というにもおこがましい道端の植生の保全と、どちらが大事なんだと言われれば前者であるのは間違いないが、一方で、「崖面は何でもかんでもコンクリートで固めればOK」的な手法以外に、何か手はないものなのかと、こういう工事を見るたびにモヤモヤする。

●17日。市内某所にクルミ(ヒメクルミ)の実を拾いに行く。

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昨年、FBの逗子市内の知人Tさんに場所を教えて貰ったもの。ただ、昨年は木の下が草刈りされていて拾い放題だったが、今年は草ぼうぼうでガサガサかき分けながら拾うことになった。とりあえずある程度の数は拾えたので、現在周りの果肉を腐らせ中。

●近所のMさんの奥さんが干してある傘を飛ばされ、急斜面の途中に引っかかっていたのを回収。そのついでに、道からは見えづらい、木の幹の陰に大きなニホンミツバチの巣があるのを発見した。縦の長さは少なく見積もっても30cmはありそう。

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クリーム色の長い円盤が縦に連なっている様子に、最初は「縦向きに生えたサルノコシカケ?(そんなんあるのか?)」と思ったのだが、よくよく見直してミツバチの巣であることに気付いた。

もちろん、本来なら働きバチにびっしり覆われているはずなのだが、この巣はスズメバチ(オオスズメバチ?)に襲われて壊滅し丸裸。襲われてまだ間もないらしく、スズメバチが10匹程度、頻繁に出入りしていた。上右の写真にもスズメバチが写っている。

何年か前にも、大切岸上の峠道沿いの木のうろにニホンミツバチが営巣しているのに気付いたことがあるのだが、その巣もしばらくしてキイロスズメバチに襲われていた。ニホンミツバチは蜂球でスズメバチを蒸し殺すという対抗手段を持っているのだが、この様子を見ると、防衛成功率は決して高くはないようだ。ミツバチ頑張れ!(泣)。なお、特にこの巣に関しては隙間でも何でもなく、完全に露出した開放巣だったので、さらに防衛は困難だったはず。

襲われて間もないとすると、今回収すれはハチミツを採れるかもしれない(しかもニホンミツバチの百花蜜!)などとも思ったのだが、急斜面であるためハシゴなどはかけづらく、しかもまだ頻繁にスズメバチが来ていることを考えると、余計な手出しはしないほうがよさそう。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(5)

●Mirage HOBBY 1:35、ポーランド国内軍の簡易装甲車「クブシュ」(”KUBUŚ” - Improwizowany Samochód Pancerny, Powstanie Warszawskie, Siespień 1944)の製作記。相変わらず、じわじわとしか進んでいない。

改めてチェックしてみたら、8月10日は「本物のクブシュの製作がスタートした記念日」だった。いや、だからどうしたって……。

●若干の考証。

そもそも当初は、「なにしろ博物館に実車があるんだから、どれだけネット上で写真が集められるかという問題はあるにしろ、粛々とそのディテールを反映させていけばいい……」などと思っていたのだが、いざ本腰を入れてチェックしていくと、どうもそれでは済まないということがはっきりしてきた。

最初に「えっ?」と思ったきっかけは、キットの説明書の片隅に書かれた一文。

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車体前面スカート・パーツに対する但し書きで、「戦時中の仕様にするなら、先端のトンガリは削り取ってね」くらいの意味だと思う。右写真がキットパーツと、問題の「トンガリ(bevel)」(矢印)。ここは戦時中の写真では不鮮明で、はっきりと確認しづらく、この但し書きがなかったら、そのまま現状を再現していたかも。

これまでにも数度振れているように、他にも、現存実車ではその後のレストアの結果、戦時中の仕様と異なってしまっている箇所があるようだ。ややこしいのは、その「戦時中」にも変化があることで、実車に何がしかの「いじったあと」があったとして、それが、戦後のレストアによるものなのか、それとも初回作戦と第二回作戦の間に施された改修なのか判別しづらい場合もある。やれやれ。

●以上は前振りとして、今回の進捗その1。エンジンボンネット部分のハッチを付けた。

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どういう理由があるのか、ボンネットハッチは左右非対称で、右側ハッチは前方に長方形の継ぎ足しがあって長い(左側は、この継ぎ足しに相当する部分は車体側固定部となっている。

左右ハッチの継ぎ目には、右側ハッチに固定された、合わせ目にかぶせる縁材がある(専門用語で「定規縁(じょうぎぶち)」と言うらしい)。これは、現存実車では確かに付いているのだが、戦時中の実車に付いていたかどうかは、手元に集めた写真からは判断できなかった。ただし、戦後に講演で放置されてサビサビになっている時期の写真では確認できるので、戦時中にもあったと判断して追加した。なお、現存実車の真っ直ぐ前からの写真で見ると、取付具合はもっとヨレヨレのようで、その辺はきちんと再現し尽くせていない。

工作前段階でちょっと悩んだのがヒンジの処理。この部分は、現存実車でよく見ると、現時点でのヒンジの内側に溶接痕が確認でき、要するに、一度付けたヒンジを外側に移動させているらしい。

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上は比較検証用に、ともにwikimedia commonsの写真から切り出したもの。左がMWPの現存実車で、現在のヒンジ内側に、旧ヒンジ跡であろう溶接痕が確認できる。一方、右は戦時中、クリバル部隊の拠点の公園で整備中のクブシュ(改修後)。これを見ると、左写真よりもヒンジが内側にあることがわかる。なお、wikimedia commonsに上がっている写真の都合上、左右違う側の比較になってしまったが、他で上がっている写真から、現存実車の左側も上右写真より外側にヒンジがあること、その内側に溶接痕が残っていることが確認できる。

キットのヒンジモールドは現存実車に準拠しており、(もともとは溶接線再現の際に邪魔だったので一旦削り落としたのだが)より内側に作り直した。4か所とも、キットのモールドから一つ分内側に寄せる感じにしたのだが、今見直すと、前側のヒンジはさらにもう少し後ろに下げても良かったように見える。

●今回の進捗その2。天井ハッチと防盾を取り付けた。

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天井ハッチの「定規縁」に関しては、キットのパーツにもモールドがあったが、かなり細く、しかも「お行儀が良すぎる」感じだったので、削って作り直した。ただし、後からわずかに写っている実車写真を見ると、前側の天井のリブよりも高く盛り上がっているようで、もう少しメリハリをつけるべきだったかも。

ヒンジは、車体側は溶接痕の作業の邪魔だったので削り落としてあり、0.3mmプラバンで再生。(エンジン部ハッチ同様)ヒンジ周囲には溶接痕を追加した。ヒンジの筒部はエンジン部ハッチで作ったものよりおとなしすぎるので、後々ここも作り替えるかもしれない。

防盾は(キットのパーツは厚過ぎるので)0.3mm板で新造し、天井にイモ付け。取付位置は左右で完全に対象ではなく、後端位置で見ると、左側のほうがやや前に出ているようだったので、そのように工作。防盾の後ろに銃架のようなものがあってもよさそうな感じだが、とりあえず、現存実車ではそのようなものは見当たらず、かつてあったことを示すような溶接痕なども確認できなかったのでクリーンなまま。もちろん、単純に中央の隙間から小火器を突き出して撃つためだけのもので、銃架など最初からなかった可能性も高そう。

●今回の進捗その3。サイドスカートの工作。

前後輪横のサイドスカート部分は実車では別体で、おそらく車輪交換の便のためにボルト止めになっているのだが、キットは装甲車体と一体モールドになっており、段差もボルトも表現されていない。

というわけで、0.3mmプラバンより薄く弾性も高い、タミヤの0.2mm透明プラバンで工作した。

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後々の工作過程での破損を防ぐため、キットのサイドスカート部分は切り落とさず、周囲を薄削りし、わずかに大きさも削り込んで、裏打ちに活用した(どうせひっくり返して見せるつもりもないので)。透明プラバンの表面は目の細かいペーパーを掛けて「すりガラス」状態にしているが、裏打ちとの間に広がった接着剤が透けて雲形迷彩のように見えている。

ボルトは、マスタークラブのレジン製の0.7mmサイズ(低頭)のもの。

サイドスカート上の溶接ラインは装甲車体の裾部を溶接しているものなので、当然、スカート部には掛かっていない。

なお、工作途中に気付いたのだが、左前部スカート上の真ん中のボルトは、実際には、その上の斜めの溶接線が下辺に接する直下にある。これは私がボルトの位置を間違えたわけではなく、本来、斜めの溶接線の角度がもう少し立っていて、下辺との接点が後ろにあるため。右前部は同接点よりボルトが後ろで正しいので、要するに、この部分の溶接線位置自体に左右でズレがあるらしい。今更気付いても遅いのでそのまま(面構成をやり直すなんてまっぴら)。

また、現存実車を見ると、サイドスカートのうち右前部を除く3枚には、継ぎ足しの溶接線がある(右前部は後ろ1/8くらい? 左右後部は下2/3くらいを継いでいる)。しかし、戦後の放置時期の写真を見ると、少なくとも右側前後のスカートは失われている。車体後部の可動式スカートも新造品に交換されていることから見ても、これらはレストア時に新たに作られた可能性が高いと判断し、溶接線は入れなかった。

●今回の進捗その4。車体前面上部の弾痕の追加。

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実車のクブシュには、各部に2度の戦闘で付いた弾痕が残されている。当初は「さすがにそこまでは……」と思っていたのだが、これらの弾痕が一度目と二度目、どちらの戦闘で付いたものか確認できない以上、「二度目の作戦時の仕様なのに、それ以前に付いた弾痕がないのはおかしい」という事態になることも考えられる。とりあえず入れておけば、「二度目の作戦終了時の状態」は再現できていることになる。

なお、上右写真のように、実車の弾痕位置に関してはキットの説明書でも図示されているのだが、下の金尺からもわかるように、図が小さすぎてかなり判読が難しい。そんなわけで、実車写真を参考にちまちまと入れた。もっともキットの図も(一応赤色で図示されているので)、離れた場所にある“はぐれ弾痕”の確認には役立つ。

弾痕には大小があるが、これは当たった角度や、そもそもの口径(拳銃/短機関銃弾と小銃/機関銃弾)の差によるものかと思われる。なお、ほとんどの弾痕は外側装甲を貫通しているが、車内写真を見ると、内側装甲には窪みを作っているだけで食い止められているものが多いようだ。

現時点では上部前面の弾痕しか工作していないが、その他の場所にも若干ある。

●以上の工作を終えた全体写真。

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ハッチ部の大きな穴がふさがったので、だいぶ最終形に近付いてきた。

●脱線話。クブシュの工作をしていると、どうも溶接線が気になって、散歩の途中で思わず撮ってしまったもの。

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よく見ると滑り止めのパターンは溶接線をまたいで連続しているので、まさに、以前hn-nhさんが言った方法、「破線状に溶断して折り曲げて、然る後に溶接して折り曲げ部を補強」の工作をしているらしい。帯材の溶接も、ベタ付けでなく破線状に工作されている。

散歩の途中に、「なるほど~」などと思いつつ、足元の鉄板を眺めているおっさん。怪しすぎる。

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インパール

●8月15日は「お盆休暇」の中日であり(『お盆』そのものは地域によってあっちこっちするが)、「終戦記念日」と言い慣わされた敗戦/降伏表明の日でもある。この時期ばかりに戦争ネタの回顧がどっと出てくることには、ちょっと「なんだかなあ」と思う部分はあるものの、とはいっても少なくとも一年に一度くらいは振り返ってみるべきだろう、とも思ったりする。

●そんな折。

SNS上で、「インパール作戦をただの「無謀な作戦」と言うなかれ」という記事がシェアされて回ってきた(これ自体、昨年のこの時期にUPされたもののようだ)。記事自体は、最近よく見る「実は日本は立派だった」系(勝手な類型だが)のもので、インパール作戦はインド独立の端緒となった戦いであり、現地では日本は大いに尊敬されている、というような内容。

何から何まで間違いだとは言わないが、基本、こういう「日本(軍)はいいこと『も』やった」というミクロを掘り返して「日本(軍)はいいこと『を』やった」というマクロの説に見せたい(というふうに見える)ロジックには、げんなりする。

そもそもインパール作戦に行きつくまで、日本がチャンドラ・ボースを飼い殺しにして援助要請をのらりくらりと躱してきたにもかかわらず、最後の最後に合理的判断に基づかない無理心中的作戦に付き合わせたことを、インド解放の聖戦を日本がお膳立てしたかのように持ち上げるのは――それが実際にインド独立闘争のエポックとなったとしても、少なくともそれを日本人が「いいことをした」と持ち上げるのは傲慢だろう。

さらに、はっきり言って面子と希望的観測に基づいて、補給の目途もなく数万の将兵を死地に追いやったのを「無謀」と言わないならば、他にどう言えというのか。いやまあ、タイトルは「無謀なだけではない」と言っているだけで「まったく無謀ではない」と言っているわけではない、という理屈かもしれないが、それはそれでどうにも姑息だ。

●東日本大震災の前年に死去した亡父は、インパール作戦の生き残りだった。

戦時中のことは多く語らなかったので、事実誤認もあるかもしれないが、聞きかじりを総合すると、満州の奉天で学校を出て、日本で一度大学を受験するも失敗し陸軍を志願。どうやら横須賀の重砲兵学校を出たらしい。太平洋戦争開始時、無鉄砲さを発揮してシンガポール攻略の決死隊に志願したが、出動前にシンガポールが陥落し命拾い。東南アジアで宛てもなく過ごしているうちに特務機関に拾われる。

インパール作戦時には陸軍少尉で、マンダレー(と聞いた気がする)でインド国民軍を前線に送り出す世話をしていたという。

一度、何かのはずみにベンガル人のお爺さんにその話をしたとき、「今でも我々にとってチャンドラ・ボースは英雄だし、その世話をしたあなたのお父さんも恩人です」と言われたことがある。その言葉は有り難いけれども、それをもって「日本がインドのためを思って」などと言い出すつもりはない。父にもそんな意識はなかったろうし、おそらく言われても戸惑うだけだったと思う。

ちなみに父は、前線に送り出すインド将兵がいなくなってから「お前も前線に行け」と言われ、チンドウィン川を越えた。しかし、インド領内に入る頃にはすでに前線は崩壊し、潰走する将兵の波に呑まれるようにビルマ、タイまで逃げ帰ってきたそうだ。

現実はどうかは別として、父の認識としては、「日本軍はどこに行くにも歩いていくことしか考えないから、イギリス軍の主力が海側の方にいるなら、山側のインパール方面は手薄だろうと攻めて行った。けれども、いざ攻めて行ってみると、イギリスは飛行機も使ってどんどん兵力を送り込んで、すっかり用意を整えて待ち構えていた」というものだった(実際にはインパールは駐印イギリス軍の主要拠点だったから、この父の認識はちょっと怪しい)。

しかし、行きは乾期で膝の深さしかなかったチンドウィン川は、負けて戻るときには雨期で濁流に変わっていた。工兵がいかだを組んで渡していたものの、敗走してくる全員を渡せる能力はなかった。イギリス軍に追われて川の西岸には日本兵がどんどん溜まっていく。乗せてもらえない兵が「俺も連れて行ってくれ」といかだにしがみつくものの、それでいかだが転覆しそうになるため、「渡し守」の工兵が竿で突き落とすと、すでに食料もなく力も出ない兵は濁流に飲まれてそれきりだった、という。「俺は将校だったから乗せてもらえたんだよ」と父は言っていた。

その後も、ビルマ領内のジャングルを抜け敗走を続けることになる。――おそらく孫子の代まで伝えても絶対役に立たないと思われる親父の人生訓は「飯盒と塩とキニーネがあればどんなジャングルでも生きられる」だった。どんな泥水でも沸かせば飲める、どんな雑草でも茹でて塩を振れば食える、キニーネがあればマラリアから逃れられる、だそうだ。

食うものがなく、力が入らないために、真っ先に銃を捨て、鉄兜を捨て、腕時計や、ついにはベルトのバックルまで重く感じて捨て、代わりに荒縄で縛る。金物すべてが重く感じて捨てていくものの、唯一、飯盒だけは別で、それを捨てたらそこで終わりだったという。

また、ジャングルを歩いていくなか、少しでも見通しが良く、「ここで休みたいな、気持ちよさそうだな」という場所にさしかかると、決まって死臭がしたそうだ。一度休むと立ち上がれず、そこで力尽きて死んだ兵だった。中には死にきれず、「連れて帰ってくれ」と願う者もいたが、そこで仏心を出すと共倒れは必至で、見捨てていくしかなかったという。

●なお、どこまで逃げた時なのか、ようやくたどり着いた拠点で一息ついている時期、荷駄の一隊が追い付いてきたという。

見るとそれを率いているのは父の戦友で、懐かしく声を掛け、何をしているのか問うと、「すでに負けが決まり、インド独立支援の資金の残りの回収命令が出て、持って帰ってきた。袋の中身は金貨だ」と答えたという。「それだけの金をよく持って帰ってきたなあ」と父が言うと、戦友はうなだれて、「いや、もう日本が負けるのは誰が見てもはっきりしていて、誰も動いてくれない。荷駄を仕立ててここまで来るのにも、金貨を一掴み、一掴みとばらまいてようやくだった。現地で回収した分の半分くらいしか残っていないんだ」という。「いや、この時期に半分でも持って帰ってきたら勲章ものだ」と父は慰めたのだが、結局、その戦友は処断されたという。

「どうせそんな金は、戦後、児玉誉士夫あたりの裏金にしかならなかったのに」と、父は言っていた。

●昨今よく目にする、「あの戦いは正しかった」「日本軍将兵は勇敢だった」的言説の多くは、一部には頷けることは含みつつ、おおよそのところは「夫は、父は、祖父は無駄死にではなかった、立派だった」と思いたい遺族の素直な気持ちにつけ込むいかがわしさがある。

靖国神社の在り方に関しても、個人的には同じいかがわしさを強く感じる。上層部の無策や面子のために徒に死地に送り出され、恨みを飲んで亡くなった方も多いだろうに、それを「お国のために立派に散った英霊です」と一くくりに喧伝するやり口も嫌いだ。もちろん、これが国や家族を守ることに通じると信じて戦った人は立派だと思うし、ごく自然な気落ちで過去の戦死者や戦友を悼む気持ちで靖国神社に参拝しているのだという人たちのことは決して否定しない。

そして、実際の戦いを経験した世代が減っていくなかで、「いや、でも現実の戦いはこうだったでしょ」と言える人が少なくなった分、さらに(冒頭にリンクした記事のような)中身的にもフワフワした理想論(というか希望論?)みたいなものが増えてきた気がする。

こういう話をすると、やれ自虐史観だとか反日だとか言い出すバカが沸いてくる可能性もあるのだが、そもそも、「何が何でも日本はスゴかった、偉かった」と言い張ることは、逆に、「本当は何がスゴかったのか」を正しく評価できないことにも繋がるのだ、ということは心にとめておいて欲しいと思う。

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