「クルップ」の特に求められていない付け足し

●先日、hn-nhさんがupされたブログ記事で、JR総武線・浅草橋駅に、ホーム屋根を支える古レールのかなり素敵な列柱があること、また、その中に私自身は未見だった独クルップ社製のものが確認できること、などを知った。

→ hn-nhさんのブログ記事、「クルップ

普段横須賀線で都心に出る私は、都心東端や千葉方面に用事がある場合、(横須賀線から直通の)総武線快速を使うので、秋葉原~錦糸町間の総武線各駅停車は少し縁が薄い(それでも全然通ったことがない、というわけでもないのだが)。

22日土曜日にたまたま錦糸町で用事があったついで、また、28日金曜日に市ヶ谷で仕事の打合せがあった帰りの寄り道で、改めて浅草橋駅の古レール柱をチェックしてみた。

(そんなわけで、タイトルに「付け足し」とあるのはhn-nhさんのブログ記事に対してであって、当「かばぶ」に、クルップに関する先立つコンテンツがあるわけではない。前回に続いて、他人のふんどしで相撲を取りまくり。)

●浅草橋駅は高架の対面式・片面ホームだが、上下線の線路の間に柱を立てて支えることで、両面のホーム屋根を一体化し、ホーム前面に柱を立てることを避けている。また、これらの柱はホーム区間の架線柱も兼ねている。ほぼ全景の写真を以下に。

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ともに、下り線ホームの秋葉原寄りの端から写したもの。秋葉原駅から隅田川の架橋手前までの区間、線路はとことんまっすぐ。そのため、比較的短い間隔で立てられた古レール柱が、ビシッと一直線に並んでいて美しい。

縦長写真の手前側で中央の梁がH型鋼に代わっているが、これはおそらく、電車の編成が長くなったことに伴い、秋葉原側に少しホームが延長されたためではないかと思う。

屋根を支えるアーチは基本、ホーム/線路に対して直角方向だが、最も両国駅(千葉方面)側だけ斜めになっている(ちょっと下写真では判りづらいが)。

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これは、駅のこちら側に接する道路(柳橋桜北通り)が線路と斜めに交わっているためで、上下線のホームもやや位置がずれている。

●このように、対面式ホームで中央に柱を立てて両側の屋根を支える形式としては、同じく中央・総武各駅停車の水道橋駅も挙げられる。浅草橋駅が曲線を多用したデザインなのに対して、水道橋駅のレール柱は直線的。

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これはこれで魅力的だが、水道橋駅の場合、ホーム背面の柱に全てカバーが掛けられてしまっているのが、古レール柱ファンとしてはいささか残念なところ。そのため、刻印による古レールの出自もほとんど確認できないのだが、28日、たまたま停車した車内から見えた中央の列柱の一本に、不鮮明ながら刻印が確認できた。状態はよくなく、しかも車内からの撮影なのでドアガラスの反射などもあってますます見づらいが、どうも独ウニオン(UNION)社製らしい。

●一方、屋根の掛け方は全く違って島式ホームの中央に柱が立っている形式ではあるが、JR山手線・鶯谷駅の古レール柱は、曲線的なデザインに浅草橋駅と似通ったものを感じる。

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ちなみに鶯谷駅は、ホーム屋根を支える横方向のレールが、そのまま線路をまたいで架線を支える形式。補強を兼ねているのか、2本のレールの間の三連の輪に、ちょっとでもオシャレを盛り込みたかった気持ちが見える。

なお、田端駅は鶯谷駅とほぼ同じデザインの古レール柱だそうだ。

●話は戻って浅草橋駅。

屋根を支えるアーチ状の垂木(?)部分のレールは、柱部分だけでなく、その中間にもある(つまり、柱の本数のおよそ倍ある)。

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屋根を支えるアーチは、柱部分では両側が一体で、縦方向の棟木にあたるレールは柱部分で途切れている。一方、柱と柱の間では逆に棟木がそのまま通っていて、アーチが両側で別パーツになっている。

一方ホーム背面は、壁の上部がトラスになっている。中央の支柱に接続している“メインのアーチ”は、こちら側でもそのまま下まで接続する柱となり、支柱と支柱の中間にある“サブのアーチ”は、同様にカーブを描きつつもトラスの下部に接続して途切れる。

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なお、支柱は必ずしも等間隔ではなく、支柱間に筋交いの補強が入っている箇所もある。また、支柱間が特に広い箇所では、棟木に沿ってトラスの補強が入っている。ここは下を道路が通っているガーダー橋上の区間で、支柱が立てられないためであるようだ。

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さらについで。この区間の高架は昭和初期のものだが、高架はそれなりに高さがあり、鉄筋コンクリート製のアーチが連続している。上記のようにこの区間は線路がとことんまっすぐなこともあって、改めて眺めると、これまたローマ水道的な美しさがある。下写真は浅草橋駅~秋葉原駅間で撮影。

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2枚目は高架下の建物の建て替えか何かで、珍しく空間がぽっかり空いていた箇所。アーチの支柱上側面には、長円形の窪みが装飾的に並べられているが、長年の補修により、ほとんどの場所で窪みのエッジがとろけたようになっている。左写真では、珍しく上側の一部だけ、エッジのシャープさが保たれている。

●浅草橋駅古レール柱の製造者銘刻印について。

KRUPP:独クルップ社

hn-nhさんの報告にある(そして今回私にとって初見の)独クルップ社の刻印は、ざっと見て回ったところ、上り線ホームで3か所確認できた。

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左端の写真が、hn-nhさんが紹介していたものと同じ柱。ちょうど汚れが文字を浮き彫りにするように入っていて(まるで模型でディテールを浮き立たせる塗装を施したような……)、クルップ(KRUPP)の文字が明瞭にわかる。

一方、2枚目の写真はそれよりもやや不明瞭だが、一応、メーカー名以降の文字も確認できる。「KRUPP 1885(あるいは1883?)N.T.K」と書かれているようだ。

1885年は明治18年。日本で新橋-横浜間に初めて鉄道が開業(1872年)してから10数年しか経っておらず、東海道線全通(1889年)は、さらにその数年後になる。最後のN.T.K.は発注者名で、「日本鉄道」の略号であるらしい。日本鉄道は、日本における鉄道黎明期、初めての私鉄として発足(1881年)した会社で、東北本線ほか、現在のJR東日本管内の多数の路線を敷設。後、1909年(明治42年)に国営化された。

なお、刻印の読み解きに関しては、以前の古レールコンテンツでも触れたが、ほぼ全面的に先達のサイト「古レールのページ」を参考にさせて頂いている。以下のメーカーについても同様。

UNION:独ウニオン社

ウニオン社(またはドルトムンター・ウニオン、Union, AG für Bergbau, Eisen- und Stahl-Industrie、→ドイツ語版wikipedia)は、浅草橋駅で、おそらく最も多数、刻印が確認できるメーカー。

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1枚目、2枚目は同じで「UNION D 1886 N.T.K.」。3枚目は製造年が1年早くて1885年。4枚目は頭の「UNION」ははっきり判るが、それ以下はよく読み取れない。Dは会社所在地のドルトムントを表すらしい。

今でこそ聞かない企業だが、鉄道黎明期の日本は結構お得意さんだったらしく、同社のレールは割合あちこちの駅で確認できる。私の身近なところでもJR横須賀線の横須賀駅や鎌倉駅にあり、特に横須賀駅のUNION社製レールでは、浅草橋駅と同じ発注者N.T.K.(日本鉄道)と、官営のI.R.J.(Imperial Railway of Japan=日本帝国鉄道とでも訳せばよいか?)のものとが混在している。

CAMMEL:英キャンメル社

キャンメル社レールは、私が(鎌倉駅で)古レールの刻印を初めてきちんと確認し、この方面への興味を深めるきっかけになったもの。鎌倉駅の同社製レールとの出会いについてはこちら

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上の写真2枚とも、文字はほとんど潰れかけていて見えないのだが、キャンメル社製の刻印の特徴である、「SHEFFIELD(シェフィールド、会社所在地)」「TOUGHENED STEEL(強化鋼)」の文字列の一部が確認できるので、同社製とみてまず間違いないと思う。

BARROW:英バロウ社

下り線ホームで確認できたもの。同社製のレールは鎌倉駅でも確認できる。

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文字ははっきり読み取れないが、「BARROW STEEL Sec166 1893 I.R.J.」だろうか。実のところ、はっきりと読めるのは頭の「BA」と、途中の「166 1893」くらいだが、Sec166は同社独自のレール規格番号らしく、これでバロウ社とほぼ確定できる。

もしかしたら上記以外の会社製と思われるものもあったが、文字が不明瞭で確定はできなかった。

●日本で国産のレールが生産され始めるのは20世紀に入ってからだそうで(1901年末、官営八幡製鉄所による)、明治の前半、レールは輸入頼りだった。

浅草橋駅は昭和初期、1932年の開業。それに近い時期、1939年の日暮里駅の写真(wikimedia commonsより)に、よく似た古レール柱が写っているから、浅草橋駅の古レール柱も、開業当時からの物だろうと思う。ちなみに日暮里駅の古レール柱も、一部は撤去されてしまったもののまだそれなりに残っている。同駅の古レール柱探訪はこちら

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おそらくこの時期、各路線でレールの更新が進み、日本の鉄道の“初代”のレールが廃材として大量にストックされていて、それが駅の屋根や跨線橋の柱として再利用されたのだろう。特に通勤に使われるようになった都心の各駅は、田舎の駅と違って利用者も多く、そのために当時からホームの大部分に屋根が架けられたのではないかと思う(田舎の駅の場合は屋根そのものがなかったり、改札付近に申し訳程度にしかない状態から段階的に屋根を増やしていく例が多く、意外に都心よりも屋根が新しいものが多い気がする)。

(6/30追記)

公益社団法人 土木学会のデジタルアーカイブ、「戦前土木名著100書」に「高等土木工学 第十巻 鐵道工学」という本が収められている(平井喜久松・岡田信次著、常盤書房、昭和6年発行)。同書中、「第七編 停車場」に「6.乗降場(Platform)」の一節があり、ここに、都心の駅における上家(上屋)例の図版が添えられている(以下、同アーカイブより引用)。

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残念ながら浅草橋駅については載っていないが(そもそも駅の開業がこの本よりも後なので当たり前だが)、デザイン的に似たところがある鶯谷駅と日暮里駅(下から2段目)と、屋根の掛け方の形式が似ている水道橋駅(下段左端)は掲載されている。

鶯谷駅の架線架部分の「おしゃれリング」が当時からのものであること、(上の写真でもよく見れば確認できるのだが)水道橋駅は細かくトラスを組んで、妙に頑丈に作られていることなどもわかる。出版時期から、水道橋駅の古レール柱は浅草橋駅よりも早く作られていることが判るが、もしかしたら、水道橋駅の経験から「ここまで丈夫にしなくてもいいんじゃね?」と、構造が簡素化された可能性もあるのかもしれない。

なお、ここに載っている上屋に関しては、個々の駅の架構の材種(鉄骨なのか木材なのか、あるいは鉄骨だとしてそれが古レールなのか否か)は付記されていないが、本文中に、「材料は木材、鐵材が多く近時古軌條を利用せるもの多し。」と書かれている。どうやら、都心各駅の(ちょっと優美な)古レール柱建築は、大正末期~昭和初期くらいに作られたものが多いようだ。

なお、このような資料があってオンラインで閲覧できることについては、サイト「Golgodenka Nanchatte Research」の「古レール調査報告書」、「古レール JR 東日本中央本線【水道橋駅】」で知った。私なんざぁまだまだヌルイのである。

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小坪高角砲台補遺(その4)

●数日前に「小坪高角砲台補遺(その3)」を書いたばかりで、当分は披露山の砲台に関して言うことはないな、と思っていたのだが、その途端にhn-nhさんが、「逗子フォト」に披露山公園建設中の写真が新たにアップされているという記事を上げてびっくり。

→ hn-nhさんのブログ記事、「小坪高角砲台 2019 - 1957 - 1946

逗子フォト」に関しては、猿舎になる前の砲台の写真を引っ張ってきた「小坪高角砲台補遺(その2)」の時にも触れたが、逗子市役所サイト内に開設された写真アーカイブで、今昔の逗子の写真をストック、公開している。今回話題の写真に関しては、久木在住の小泉さんという方が提供された一群の写真の中にあったもので、今年の4月半ばに公開されている(以下、モノクロ写真はすべて「逗子フォト」より借用)。

hn-nhさんの記事と重複してしまうが、砲台の原型が写っている写真は1枚。よく見ると、画面右上辺りに頂上広場に通じる道の出口が見え、現:花壇の砲台から、指揮所跡を利用して建設中の現:レストハウスを写したもののようだ。改めて、ほぼ同じアングルで現状の写真を撮ってみた(厳密に比較対照せずに「だいたいこんなもの」で撮ったので、視線の角度など微妙にずれていて残念感があるのはご勘弁を)。

現在、頂上広場の周囲は木立に囲まれているが、当時は広々と見渡せる。建設中のレストハウスの向こうに見えるのは、さらにこの何年後かに新興住宅地の「亀ヶ岡団地」として開発されることになる名越の山々。

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この花壇に関しては、以前にhn-nhさんがわざわざ周囲の池に手を突っ込んで調査しており、大谷石の縁石の下にある池の外周壁は斜めになっていて、すり鉢状のコンクリートの砲座をそのまま利用して作られているらしいことが判っている。

左写真に写っている砲座は、現:猿舎と基本的に同一形状だったことがこの写真でも確認できるが、よく見るといくつか差異がある。下写真は「小坪高角砲台補遺(2)」で引用した、現:猿舎のものと思われる砲台の写真(確実にそうだと言える証拠は写真には写っていないが、とりあえず、壁龕や階段などの位置関係は現状の猿舎と同じ)。

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目立つ差は、

▼現猿舎では、上部がアーチ型になった穴(現状はコンクリートで埋められている)の向かって右側に階段があるが、現花壇の砲台ではそのようになっていない(航空写真を見ると、上写真では画面の外になっている、アーチ型穴の左側にあったようにも見える)。

▼現猿舎では、砲弾仮置場の壁龕が45°間隔で並んでおり、上部がアーチ型の穴は、そのうち一つの壁龕と置き換わる形で配置されている。しかし、現花壇の砲台では隣の砲弾仮置場の壁龕と接近しており、明らかに配置の間隔が違う(むしろ猿舎における階段と壁龕の位置間隔に近い気がする。方位はどうあれ、階段とアーチ型穴の位置が入れ替わっている――つまり階段が壁龕と45°間隔だったりする可能性もありそうな。考えすぎ?)。

▼現猿舎と現花壇を比べると、アーチ型穴の上端と、砲座自体の上端との間隔が猿舎では狭く、花壇ではやや広い。

砲弾仮置き場の壁龕と明らかに形状が違うアーチ型の穴は、何か別の用途を持っていたと考えられるのだが、現状では謎。しかし、ほぼ同一形状である武山高角砲台(砲台山)の砲座にはこのような形状の穴はないから、両砲台に設置された四十口径八九式十二糎七高角砲にどうしても必要なものというわけではなく、披露山なりの事情(必要性)によるものと考えるべきか(もちろん、建設時期の違いで、改良によって加えられた、あるいは逆に省略された、という可能性もある)。

前記の猿舎・花壇の両砲台のレイアウトの差と関連するが、この上部がアーチ型の穴が、猿舎・花壇とも、おおよそ指揮所の方向にあるというのも気になる。以前に書いたように、地下通路入口という可能性もありそうだが……一方で、地下通路を作るなら退避所/詰所の奥に入口を作った方がいいんじゃね?という気もする。

また、この写真の時点で、猿舎・花壇とも、このアーチ型穴は中が埋まった状態になっているようなのも気になる。もしかしたら弾薬を砲座の上から滑り落とす搬入口? いや、それにしては、花壇のほうの写真で、外側地面に穴が開いているように(あるいは、開いていたように)見えないし……。

いずれにしてもこの辺は、そのものズバリの砲台資料でも出てこない限り判りようがなく、ああだこうだ言っても仕方ないかもしれないのだが、まあ、妄想の楽しみということで。

●冒頭載せた写真は、「建設中の披露山公園(昭和32年)」と題された組写真4枚のうちの1枚で、残り3枚は次のような感じ。

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1枚目は、最初の写真よりもさらに(建設中の)レストハウスに寄って撮ったもの。次の写真は、最初は、現展望台下のテラス部分かと思ったが、四角いコンクリート製の台座のようなものが見えるので、やはり建築中のレストハウスの写真のようだ。遠景に江の島が見える。4枚目の写真は現状、レストハウスの脇から、おおよそ江の島方向を向いて撮ったもの。360°周囲が見渡せたであろう高角砲台当時~公園建設時と違い、特にレストハウス側は木が茂ってまったく見通しは利かない。

●前回「小坪高角砲台補遺(その3)」のそのまた補遺のような写真をいくつか。

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猿舎を囲む(丸太を模した)コンクリート柵の土台は、基本、柱一本ずつ独立しているのだが(左写真)、なぜか退避所/詰所上の(猿舎中心に向かって)左側だけは土台が連続している(右写真)。柱の下の地下室の存在と関係しているかも。

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退避所/詰所上に追加されたコンクリート製天井の外側に、丸く二カ所出っ張ったコンクリート再掲。これに関して、hn-nhさんから「猿舎のためにかつて立っていた立て札か何かの跡では?」のコメントを頂いた。言われてみればそんな感じがする!

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以前貼った写真にもぼんやり写っていたのだが、光線の都合で、退避所/詰所入り口が、(砲台時代のままに)大きく窪んだ中の右側に(だけ)開いているという状態がよく判る写真が撮れたので2枚ほど。四角い檻に囲われた窪みの入り口部分は、現在は手前側が土間、後半はコンクリートで覆われているようで、砲台時代には一段窪んでいたのが、砲台床の他の部分と同一レベルになっているようだ。四角い檻の向かって右には、埋められた「上部がアーチ型の穴」があるが、この写真では輪郭はボンヤリしている。

●「逗子フォト」に追加された写真には、上の「建設中の披露山公園(昭和32年)」のほかにも、1955~1957年頃の披露山を写したものが何枚かある。それらについても、現状比較写真を撮ってみた。

▼「披露山坂道(昭和31年頃)」とされる写真。キャプションに「坂の突当りは現在の駐車場です。」とある。最初は「この写真の手前側、坂を上ったところが駐車場?」と思ったのだが、道の曲がり具合から見てそうではなく、道の向こうが駐車場(兵舎跡)、手前が山頂広場のようだ。よく見ると、少女たち(今は70代?)のわずかに後ろの崖面に、指揮所(現レストハウス)地下への入口である、崖が途切れた部分らしい箇所が確認できる。

撮影は上の公園建築中よりちょっと古いので、この時は頂上広場にはまだ手付かずの砲台跡があったはずだ。この女の子たちが砲台の縁に並んで腰かけた写真とかを撮っておいて欲しかったなあ。

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▼「披露山山頂付近(昭和30年前半)」。上写真と同じ山頂への最終アプローチの坂を逆方向から撮ったもの。舗装はされていないが、勾配は緩やかで道幅もしっかりある。近隣の他の砲台の“砲台道”も、元は同じような状態だったのではと思われる。

もっとも、この写真が撮られたのは戦争が終わって約10年。もしも公園が整備されるまでただ放置されていたなら、“砲台道”ももっと荒れ果てていたはず。しかし、道はきちんと維持され、この先は頂上広場しかなく行き止まりであるにかかわらず(上写真でもはっきりわかるが)車の轍も見える。戦後の復興期、資材置き場か何かとして利用されていた可能性もありそう。

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「新緑の披露山ハイキングコース(昭和32年)」と題された写真2枚と、その現状と思われる地点の写真。

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一組目のカーブに関しては、他に、見下ろすようなアングルで撮れるところがないようなのでほぼ確定? 2組目、若干ポイント的に自信はないが、現状写真は披露山入口バス停からちょっと上った「けやきの広場」横あたりから撮ったもの。ちょっと電信柱と植え込みが邪魔(6/25、写真差し替え)

▼現在の県道311号線(すいどうみち)を「小坪入口」信号で折れ、昭和初期に開削された切通を抜け、小坪の大谷戸を通って漁港方面に行く道を「小坪街道」と呼ぶのだということを、「逗子フォト」で初めて知った。地の人は今でもそう呼ぶのだろうか?

というわけで、「小坪街道(昭和32年)」と題された写真。上の2枚の写真よりも、やや上った辺りから大谷戸を見下ろして撮ったもの。現状写真では家に遮られて見づらいが、道の曲がり具合から見て、地点的にそう大きくは外れていないと思う。

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写真の上方向、道なりに右に行くと切通を抜けて久木~逗子中心部へ。左に折れる道は一の沢。現在は山の上に拓かれた「亀ヶ岡団地」に通じる。

▼「披露山登り口(昭和30年)」。上写真で左に折れる道の出口あたりから、その反対側を撮ったもの。左右に伸びるのが「小坪街道」。この写真では左手の先にある切通は1928年(昭和3年)に開削されたそうなので高角砲台の設置前に「街道」はあり、正面の坂が“砲台道”のスタート地点ということになる。もっとも、披露山中腹にはもともと人家や耕作地、神社などもあり、同じ道筋で細い道はあったかもしれない(6/25、現状写真差し替え)

現在でもこの道は、披露山上の披露山庭園住宅や披露山公園への「表玄関」となっている。なお、現在はこの写真地点の左右に京浜急行バスの「披露山入口」バス停がある。

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どん詰まり公園

●鎌倉市大町の隅、滑川に突き当たる路地のどん詰まりに、「こめ町児童公園」という猫の額ほどの小公園がある。

これがまた、「そもそも公園としての機能を果たす機会があるのか?」と思うような寂れた公園で、路地の突き当りの急な数段の階段を降りた河岸にある。入り口横に掛かった札を見ると日中しか開放されていないようなのだが、実際には、それ以外の時間でも金網フェンスのドアは閉まったままのようだ(少なくとも日中は施錠されてはいないので、扉のロックを外して自由に入ることはできる)。

先日の「現代アートじみた遊具の木馬」の話題で、hn-nhさんから「公園の動物遊具を密かに追跡している」という話を聞き、以来、何とはなしにその手の物に注意しているのだが、このこめまち公園にある動物遊具は、(公園の立地とも相まって)、何となく恨みを含んでいるかのような“うらぶれっぷり”がなかなかよい。

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なお、hn-nhさんも私もとりあえず「動物遊具」と呼んでいるが、この手の物は実際には動物以外の形状のものもあり、写真のような「動かないもの」はひっくるめて「象形遊具」というのが正確な一般名称であるようだ。実際にこれを使って何かの遊びをするよりも、何かの遊びをする際の障害物になる場合の方が多いのではないだろうか、というのは別として。ところで、このキリンのほうは、もしもまたがったまま首を滑り降りたりすると股間を強打しそうでちょっとコワイ。

一方、同じように動物(あるいはそれ以外)の形をしていても、脚部分がスプリングで前後左右・上下に揺らして遊べるものは「スプリング遊具」、またそれとよく似ているが、スプリングもしくは重力利用で前後にのみ揺らせる形状のものは「ロッキング遊具」というらしい(したがって、以前に紹介した「現代アートじみた木馬」は、「スプリング遊具」ということになる)。

細かく名称が区別されているのは、基本、公園がお役所管轄で設置物にも細かく決まりがあるためではと思う。

●たぶん、この程度の小公園は、設置基準的には「街区公園」というものに該当するのだと思う。その要件は、

もっぱら街区に居住する者の利用に供することを目的とする公園で誘致距離250mの範囲内で1箇所当たり面積0.25haを標準として配置する。(国土交通省サイトより)

というものだそうな。しかし、そうした基準に合わせてなんとか(そしてお役所仕事的に)スペースを確保しようとした結果、こういう、「その路地に住んでいる人しか存在に気付けないようなどん詰まり公園」が誕生することになる……のだと思う。

●という具合に、本来はなかなか存在に気付きづらい「どん詰まり公園」なのだが、「ポケモンgo」をやっていると、この手の小公園が(アイテム補充などを行える)「ポケストップ」に設定されていることが多いために、妙に訪れる機会が増えた。

そんなわけで、近所にある似たようなどん詰まり公園その1、「久木風早公園」。横須賀線の線路脇にあり、ご覧のような路地をくねくね辿って行った先にある。ただし上の「こめ町児童公園」よりは若干広く、線路際にあるためにやや開放感もあり、細い路地の先にあるにしては、実際に子供らが遊んでいるところに行き合わせたこともある。

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「こめまち公園」のような、うらぶれた動物遊具はなく、その点ではハズレなのだが、設置物が微妙に変。

「風になびく鉄棒」や、分類上「シーソー」になるのか「スプリング遊具」になるのかよく判らないものとかはいいとして……。

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下1枚目のベンチ……なのは確かだと思うが、右側の(明らかに座るのに邪魔な)枠は何のためにあるのだろう? こちら側は荷物置き専用? 2枚目は……これもベンチなのだろうか? 3枚目となると、いったい遊具なのか、それとも自転車スタンドか何かなのか。あるいは、「自由にこれを使った遊びを考えてみよう」という深謀に則って設置された謎オブジェなのか。

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●近所のどん詰まり公園その2。披露山の山すそにある「かけ山公園」。マンションと山際の崖の間を入った先にあり、そもそも立ち入るだけで不審者扱いされそうな立地。

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そして猫の額ほどの空間に、量産品の動物遊具(スプリング遊具)が2つ。……青はカバのようだが、こちらはライオン? ちょっと髪形を変えてみたスノーク?(もちろん、スターウォーズではなくムーミンのほう)

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遊具を配置することによって、逆に寂寥感が増すという絶妙の空間デザイン。

●どん詰まり公園その3。池子の山の上の住宅地の隅にある「アザリエ第二小公園」。いや、うん、確かに「小公園」だね、としか言いようがないような……。

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小坪高角砲台補遺(その3)

20190619_165040 ●歯医者のあと、散歩がてら披露山公園へ。

砲台跡が藪に占領されているのと、猿に占領されているのと、どちらが観察しやすいかと言えば、当然ながら後者。ただし、これからの暑い季節、猿の檻は風向きによってはかなり臭い。

披露山公園の小坪高角砲台に関しては、これまでにもしつこく取り上げているので、いまさら付け加えることなどあまりないのだが、重箱の隅的事柄を少々。

なお、右は、いつもとちょっと趣向を変えて、展望台から見下ろした猿舎砲座。ここの展望台に上がる人は江の島や富士山を見るのが普通で、わざわざ猿舎を見下ろしたい人はあまりいなさそう。とはいっても桜の枝に遮られるので、大した景色ではない。

●待機所?退避壕?……だったと思しき小部屋上について。

現在は四角い檻を付けて、おそらく猿の一時隔離場所(普段は出入り自由)として使っている場所だが、ここは本来、砲台山(武山)などと同様、一段外側に窪んでいたことは、「逗子フォト」に掲載された猿舎への改修前の写真で判る。

これについて、改めてじっくりと写真を撮ってみた。1、2枚目は同じ写真で、2枚目は後付けと思われるコンクリートの外周をなぞってみたもの。

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新たに設けられたコンクリートの天井は、よく見ると、内側は他と合わせた円弧ではなく、一直線になっている。また、3枚目、4枚目写真に見るように、この天井部分は本来のすり鉢状構造とコンクリートの質がちょっと違っていて、その継ぎ目が確認できる。

●改修前の写真で確認できる、一二糎七高角砲の台座を据えるための穴は、現在、檻の中心を支える柱の基礎兼水飲み場となっているが、改めて見てみると、もともとの穴より一回り小さい、円筒形の構造を中心に据え付けて、周りは単純に土か砂で埋めてあるようだ。

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また、すり鉢状の内壁のうち、特に西側の一部は、この砲座のコンクリートを打設した際の型枠材の跡が確認できる(写真は金網のせいで不明瞭だが)。

●話は変わってここ最近見かけたいきものなど。

日曜日はものすごい風で波も荒く、そのため、何か珍しいものでも打ち上げられているかもしれないというスケベ心で、月曜日、材木座海岸を歩く。残念なことに特に拾い物などなかったが、下のような、半透明の房を見つけた。

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えーっと。これは……タコのタマゴか何かかな? と思ったのだが、どうやらアオリイカのタマゴであるらしい。

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上1枚目は火曜日に名越切通で見たクロアゲハ。逗子では黒いアゲハは数種類いて、意外にぱっと見で判別しづらい時があるのだが、これに関しては、

  • 目立つ白い紋などがない(あればモンキアゲハやナガサキアゲハ)
  • 胴体の横に赤い模様がない(あればジャコウアゲハ)
  • 短めだが後翅にちゃんとシッポがある(なければナガサキアゲハ)
  • 全体が構造色で光っていない(構造色できらめいていればカラスアゲハ)

などからクロアゲハと同定。これも温暖化の影響なのか、少なくとも最近近所で見かける「黒いアゲハ」は、モンキアゲハが多数派のような気がする。

2枚目は披露山の山道で咲いていた、これまで見たことがない花。特に頂部の葉の付き方がトウダイグサ科っぽいなあ、と思ったがハズレ。花の黒い模様が手掛かりになった。アストロメリア(ユリズイセン)の一種で、アストロメリア・プルセラという花であるらしい。オレンジ色のユリズイセンはたまにどこかの庭からこぼれ出て野生化したものを見掛けることがあるが、この赤くて細長いものは初めて見た。もちろんこれも(南米原産の)外来植物。

3枚目も意外に種名調べに手間取った。キリンソウ。浪子不動の近くで。4枚目は逗子の砂浜に漂着した浮き玉に付いていたエボシガイ。

●久木川に掛かる人道橋。

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以前から、「実はこの橋は、逗子独立運動が激しかった頃に派遣されてきた国連PKO部隊の人道的支援によって架けられたものだ」というウソ話のネタを考えているのだが、そもそも逗子住民以外には(というか、ほとんどの逗子市民にとっても)「逗子独立運動って何なのヨ」と言われそうなので、誰にも語られることなく終わること必至。

ちなみに、逗子銀座商店街に近い亀井児童公園には、本当に「逗子独立運動発祥の地」という記念碑が立っている。

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なお、知る人ぞ知る「逗子独立運動」は、ある種、小坪高角砲台同様の「軍事遺構」のドラマのようなもので、それはそれとして語り継ぐべきだろうと思う。7月1日は「逗子独立記念日」。同日、市役所の会議室で「令和元年度逗子独立記念講演会」がある。

●同様のヨタ話として、鳩サブレ―ほどではないものの鎌倉土産としてそれなりに有名かつ親しまれているお菓子「かまくらカスター」は、「第7騎兵隊を率いてインディアン諸部族連合を奇襲、返り討ちに遭って惨敗したカスター将軍が失意のうちに太平洋を渡り、明治期の日本で作ったお菓子が元」というのがある。しかし、その話をしたところ、息子の嫁に「へぇ~、そうだったんですかぁ~」と素で返されてしまった。不発。

●先月末、逗子海岸に面する披露山下の崖が崩落。先述の砲台訪問から浪子不動方面に降りたので、その崖崩れ現場を(今頃になって)見た。

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すでに1か月近く経っているのだが、崩れた土砂(岩)は片付けられておらず、破壊されたネットやフェンスもそのまま。大々的に崩れるとこんなにひどい有り様になるのだなあ、という状態が維持されている。

逗子鎌倉の山の地質は柔らかく、一方で山すそは急斜面や削られた崖面が多いので、頻繁に崖崩れが発生する。そのため、コンクリートで覆う防災工事も多いのだが、これはこれで見た目が無粋なだけでなく、表面の植生が失われることによるデメリットも大きい。もうちょっと何とかならんのか……。

●ついにコレが届いた。先週、横浜VOLKSに引き取りに行った。一度箱を開いて、中をチラ見して、「うあー、うわー」と言ってそのまま箱を閉じただけ。いや、うん、なかなか素敵なキットという気はします。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(2)

●Mirage HOBBY 1:35、ポーランドの即席装甲車「クブシュ」(キット番号 no.355026)の製作記。

箱に書かれた(ポーランド語の)キット名称は、「”KUBUŚ” - Improwizowany Samochód Pancerny, Powstanie Warszawskie, Siespień 1944」(直訳すれば、『クブシュ』 ワルシャワ蜂起における即席装甲車、 1944年8月)。……長いよ! メーカー側の(あるいはポーランド人の)思い入れの深さを示しているというか何というか。

●溶接線を入れ始めた。

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とりあえず、右側面から工作スタート。ここはキット評で書いたようにキットの溶接線のモールドが目立ってずれている部分で、中央の縦長の鋼板はやや下すぼまりに、また後ろの辺は銃眼に接しているので、そんな感じに。

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そして現状は、右側面をおおよそ終了。全体の3分の1程度という感じ。

実車は、望む大きさの鋼板が自由に手に入る環境ではなく、また溶接技術の拙さもあって、あちこちにつじつま合わせ、継ぎ足し、試行錯誤の跡がある。今回の溶接線の入れ直し作業も、その辺をできるだけ再現したい、というのをメインテーマとしている。現状終了している右側面部分では、

▼戦闘室右後部下。鋼板の幅が不足していたか、ヒビでも入っていたか、一部、溶接線が二重になっている。

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▼「助手席」側のスリットのある面。上端部分が三角に継ぎ足しになっている。

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▼エンジンルーム右側面。写真中央の2面は、どちらかが歪んでいる(あるいは切り出しが適当だった?)ために、溶接線の角度が途中で変わっている。ちなみに(未工作だが)、左側面のこの部分は、途中で溶接線が消える!という、これまた謎な状態になっている。

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●並行して。

このキットの前面ルーバーは、「ミニスケールか!?」というような階段状一体パーツで、だいぶ情けない。実車のこの部分は、これまた工作が不揃いで、レプリカ・クブシュとの識別点の一つとなっている。

というわけで、作り直しに向けての下工作として、ルーバー下を開口(現状、片側だけ終了)。本来はペラペラの鋼板だが、どのみちルーバーを付けるとほとんど見えない部分なので、薄削り工作などはしない予定。なお、どうやら実車では、弾片等がラジエーターを傷つけるのを防ぐため、ルーバーとラジエーターの間にもう一枚、スリットを開けた鋼板を置いているようだ(少なくとも現存実車ではそうなっている)。

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衣笠高角砲台

●14日金曜日。午後だと勘違いしていた医者の予約時間が実は午前中だったことに当日になって気付く(マヌケ)。

おかげで午後が空いたため(貴重な梅雨の中休みでもあり)、衝動的に衣笠まで出掛けることにする。

●三浦半島は軍港・横須賀を擁し、かつ東京に近いこともあって多数の対空砲陣地があった。そのうちの多くは戦後の開発で消失しているため、逗子の披露山や武山の砲台山、あるいは先日行った二子山など、しっかり遺構が確認できるところはそれなりに貴重な存在と言える。

ちなみに、hn-nhさんがレポートされている都内の「青戸高射砲陣地」等は陸軍のもの。三浦半島の防空は基本、海軍の管轄であったようで、したがって名称も「高角砲台」となる(対空砲については、陸軍は高射砲、海軍は高角砲と称した。東大が惑星、京大が遊星と呼んで張り合ったのと似たような話)。

さて、上記の披露山や砲台山以外にも、衣笠の近くの山の上に同型のコンクリート製砲台が残っていることを最近知った(このへんの情報の虎の巻として利用させてもらっているサイト「東京湾要塞」でもしっかり紹介されているのに、なぜか今まで気に留めていなかった)。

場所は、横須賀市平作と横須賀市衣笠町のほぼ境界にある山中で、現在はその南側を横浜横須賀道路(いわゆるヨコヨコ)が通っている。

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地図はOpenStreetMapから(クリックで別タブで拡大)。地図中に示したポイントは、

  1. 衣笠高角砲台のおおよその地点。
  2. 現在は藪に埋もれている砲台道最終アプローチの入り口。
  3. JR横須賀線「衣笠」駅。
  4. 最寄りバス停その1。衣25系統「しょうぶ園」バス停。
  5. 最寄りバス停その2。「衣笠城址」バス停(須/衣2・3・4・5系統など多数)。ここまで歩くなら、衣笠駅まで歩いてもあまり変わらない気も……。
  6. 衣笠城址。

●恒例の、終戦直後の米軍撮影の空中写真(国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。写真整理番号USA-M46-A-7-2-129、1946年2月15日撮影)。

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右は、同じ空中写真をOSMの現況地図の中にはめ込んでみたもの。左上の特徴的な道の分岐を目印にしてはめ込んでみたもので、縮尺、角度には若干のズレがあるはず。あくまで「おおよそこんな感じ」ということで見て欲しい。

毎度の横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」(終戦時に装備整理のために作成されたもの)によれば、配備されていた高角砲は「一二糎七」2基4門(披露山や武山砲台山と同じ、連装の四十口径八九式十二糎七高角砲)。上の写真では、「E.T.」顔をしている山頂広場の左右の目の部分がコンクリート製の砲台で、ここに据えられていたものと思われる。ほか、リストには

  • ステレオ式測距儀 1基
  • 弾薬 540発
  • 九六式一五〇糎探照灯 2基
  • 二十五粍二連装機銃 2基

などが記載されている。また、やはりよく参考にさせて頂ている「横須賀周辺の防空砲台と特設見張所」の「衣笠防空高角砲台」のページによれば、ヨコヨコの南側の2カ所のピークにも、聴測所らしき施設があった可能性がある、という。

●現在は公園として整備されている披露山(小坪高角砲台)、海上保安庁の施設があるのでそれなりに常に人の手が入っている砲台山(武山高角砲台)、KDDIの施設へのアクセスおよびハイキングコースとしてこれまた手が入っている二子山上ノ山(二子山高角砲台)と違って、この衣笠高角砲台は、現在、特別何もない。

それだけに関連施設の遺構などもかなり残っている――ようなのだが、反面、ほとんど藪の中に沈んでいる。

以前、初めて砲台山に行った際に、hn-nhさんに「夏に調査に行くなよ……」と呆れられたのだが、まさにその通りで、実際、今回は深い藪に遮られて目当ての山頂までは行きつけず、一部の施設跡しか確認できなかった。いや、うん、今回は「とりあえず場所だけでも確認出来たら」と思っただけだから(←言い訳がましい)。

●とりあえず、JR衣笠駅から「しょうぶ園循環」バスに乗って「しょうぶ園」バス停まで。ヨコヨコ下り線の横須賀PA真裏を通り、砲台へのアプローチを目指す。

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そしてこれが砲台への入り口地点(上の地図②)。きちんと道に見えているのはヨコヨコに突き当たる現在のハイキングコースで、左手の藪がちょっと窪んで見えるところが元の砲台道。ぱっと見には普通の藪でしかなく、最初は気付かずに通り過ぎてヨコヨコ脇まで行ってしまってから、行き過ぎたのではと気付いて引き返し、なんとか発見。「え? もしかしてこれが入り口?」と、この時点ではっきりと及び腰。

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入り口はほとんど藪と見分けがつかなかったが、意を決して分け入ってみると、それなりに踏み分け道らしいものが続いている。

現状はそんな感じだが、よく見るとある程度平坦な部分に幅があり、もともとはそれなりの道幅であったらしいことは判る。もちろん、当時の資材/弾薬運搬が完全に自動車化されていたかどうかは判らず、もしかしたら大八車だったかもしれないが。現在は半ば藪に埋もれているだけでなく、道を塞ぐ倒木も数カ所にあって、乗り越えたりくぐり抜けたりする必要があった。

歩いていると、頻繁にクモの巣に顔を突っ込む。このへんの山道でのハイキングではしばしばあることで、そのため、歩く方向に棒を振りながら進むのが良いのだが、特に今回は藪に分け入ってしばらくは、適当な棒が拾えなかった。また、棒を振っていても、よほど注意していないと完全にはカバーしきれない。

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途中、山側に大きな壕が口を開けている。実は行きには見落として、帰りに気付いて撮った。大人が十分立って入れるほどの高さで、入り口は素掘りの感じだが、この地を調査した先人のレポートを見ると、中は綺麗にコンクリートで巻かれているらしい。弾薬庫跡か。サイト「東京湾要塞」では「防空壕」とし、また、発電機が置かれていたのではと推察している。さすがに夕方、明かりもないじめじめした洞窟に一人で入る度胸はないので、入り口を写真に収めたのみ。

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木立の切れ間から横浜方面が見えた。角度的には、先に二子山高角砲台の記事で、山頂からの眺望として貼った写真と似たような感じ。位置的にはこちらのほうが約5km南東になる。

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山腹を逆のの字に巻いて進む「元砲台道」を進むと、何か施設の基礎らしいコンクリートの構築物に遭遇。小さな建物だったのか、それとも大きな建物の土台の一部なのか、とにかく見えるのはテトリスの駒っぽい段々形状のもの。左写真は手前から、右写真は通り過ぎて振り返って逆方向から撮ったもの。

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その他にも、施設の基礎の一部らしいものや、コンクリート製の溝などが見え隠れしている。危ないのは溝で、一度気付かずに足を突っ込んで転びそうになった。こんなところで脚でも折ったら、人は来ないし遭難必至。

そしてさらに踏み分け道を進むと……。

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聴音所なのか、指揮所なのか、とにかく方形の建物跡。大きさは4メートル四方くらい? 道を辿って正面に入り口がある。ぱっと見はコンクリート製だが、近付いてよく見ると、破損した部分から、内部はレンガ積みであることが判る。側面下部には2カ所の小窓(通風孔?)があった。

この施設は山頂広場への道をやや外側に外れたところにある(と、先人の調査記録にある)ため、少し引き返して、内側に進む分岐を探す。半ば藪に埋もれた本道(らしきもの)をなんとか発見。そちらを改めて進んだのだが、落ち葉の重みで道筋に笹薮がかぶさってしまったりして思うように進めず、とりあえず今回はその先に進むのを断念して引き返した。この間、「夏に行くなよ……夏に行くなよ……」というhn-nhさんのツッコミがエンドレスで頭の中を流れっぱなし。

距離的にはもうほとんど山頂広場(の砲台跡)に近いところまで行っていたはずで惜しいとは思ったが、山頂に着いてもそちらも藪の中であろう(←すっぱいブドウ)ことを考えると、もう少し見通しがよくなりそうな冬季に再訪するネタとして残しておいた方がいいか、とも思う。というわけで、二子山山頂の先日発見できなかった遺構とともに、今度の冬に向けての課題とする。

●踏み分け道の入り口地点まで戻り、来たのとは逆方向、衣笠城址方面に向かう。逗子の小坪住民としては、源平合戦序盤、三浦(源氏方)と畠山(平氏方)による小坪坂の合戦に続いての衣笠城合戦の舞台となったところで、一度見たいと思っていた(とはいっても、近くに行って案内板を見て思い出した程度)。

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1枚目は、砲台跡方面から辿ってきた道筋が人里に出たあと、衣笠城本丸跡へ上がる入り口にあった石碑(ケムシ付き)。2枚目は本丸があったと思しき平場。3枚目は本丸跡下にある大善寺門前の庚申塚。

そのあとさらに坂を下ってしばらく歩き、「衣笠城址」バス停(衣笠城址からだいぶある!)からJR横須賀駅行きバスに乗って帰る。途中、不入斗(いりやまず)のターチー模型が営業中なのを見掛けた。いつか一度行ってみたい気がする。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35

20190517_195009 ●令和に入って作り始めたものが2つ。片方は先日レビューを上げた、THE WORLD AT WARの1:72、II号戦車b型で、これもある程度作業が進んだら再度レポートを上げるつもり。そしてもう一つが、今年の初めに「そろそろ手を付けるか~」と書いた、Mirage HOBBY 1:35のクブシュ(Kubuś)。というわけで、そのクブシュの製作記第1回。

平成年間のお手付きキット多数、場合によっては昭和の頃に手を付けて放置してあるものもあるはずで、「作るならそっちを先にしろよ」というものはいくらでもあるのだけれど。

●これまでにも散々書いているけれども、クブシュ(Kubuś)は、1944年夏のワルシャワ蜂起の際に、市内ポヴィシュレ地区にいたポーランド国内軍の1部隊(「クリバル」部隊)が、ドイツ軍の拠点となっていたワルシャワ大学の攻略用に1輌でっちあげた即席装甲車。より詳細な実車解説は、

wikipediaの日本語記事:とりあえず現時点で、日本語でクブシュの概略を知るにはコレ(のはず)。

Samochód pancerny "Kubuś":ポーランド語の実車解説、作戦解説など。google翻訳さんあたりに頼ろう。

そもそもガレージキットでも出たらスゴイと思うようなネタなのだが、自国ポーランドのMirage HOBBYが、1:35と1:72でまさかのインジェクションキット化を果たしてくれた。愛されてるなあクブシュ。発売されたのは2014年で、私も早速購入した(……だけで、今まで積んだままになっていた)。その頃からの当「かばぶ」の過去記事は、

クブシュ!:Mirageからのキット化を聞いて喜んで書いた記事。ポーランド・ワルシャワに現存している実車とレプリカの話、およびその識別点など。なお、記事内の実車walkaroundへのリンクは切れているので注意。2014年4月19日。

MIRAGE HOBBY 1:35 Kubuś:キット入手時に書いたレビュー。おおよそのキット内容、実車の溶接ラインとキットのモールドの比較、ベース車輛に関する若干の考察など。2014年8月8日。

浮島:今年初めに書いた雑記。後半に、クブシュの資料等について触れている。2019年1月30日。

上に書いたように、過去記事で紹介したウェブ上のクブシュのwalkaround写真はリンク切れになっているので、現時点で閲覧可能な、実車写真が見られるサイトをいくつか。

KUBUŚ - Powstańczy Samochód Opancerzony - MWP / MPW [FOTO](ポーランドの模型関係の掲示板に貼られたもの)

strefa cichego(クブシュ以外にも、結構マイナーな車輛、砲などの写真があるサイト)

MUZEUM WOJSKA POLSKIEGO - Powstańczy samochód pancerny "Kubuś"(写真点数は少ないが、現存実車を所蔵しているポーランド軍事博物館の所蔵品紹介ページ)

Odrestaurowanie wnętrza samochodu pancernego Kubuś(何やらポーランド語の確認窓など出たりするので注意。現存実車の比較的最近のレストア。一応、記事の日付は2015年9月。内部の設備あれこれはたぶんオリジナルと全く違っているが、二重装甲の様子などが観察できる。前面外側装甲を貫通した銃弾が内側装甲で止められていることなどが判って興味深い)

Samochod pancerny Kubuś - ostatni z remontów.(上記事の続編で、記事の日付は2015年11月。同じく確認窓に注意。さらに多数の内部写真)

Ćwiczenia załogi i desantu powstańczego samochodu pancernego "Kubuś"(イベントに引っ張り出されたクブシュの動画。ディテール・ウォッチにはたいして役立たないが、床下にしか出入口がないクブシュの乗降の大変さが判る。他にもyoutubeには、ワルシャワ大学襲撃の再現イベントに引っ張り出されたクブシュ実車の動画などが上がっている)

Samochód pancerny "Kubuś" znowu jeździ (wideo)(走行可能にレストアされたクブシュ実車の動画。自走可能で作ったレプリカの立場が……)

Panzerserra Bunker - Kubuś - Polish armoured car / armoured personal carrier - case report(モデラーによる製作解説ブログ。出所は不明だが寸法・角度データ図などもあり。vol de nuitさんに教えて頂いた)

ただし、現存実車は(車内だけではなく外観上も)若干の戦後の改修が入っており、少なくともワルシャワ蜂起当時のクブシュの再現を目指すのであれば鵜呑みにできない部分もあるので注意が必要。

●表題は、ポーランドで「くまのプーさん」が「クブシュ・プハテク(Kubuś Puchatek)」と呼ばれて親しまれているため。

ただし、この装甲車自体は直接くまのプーさんにちなんで名付けられたわけではなく(一時は日本語版wikipediaにそのような記述がされていたこともあるが、現在は表現を弱めてある)、製作主任であった技術者、ヨゼフ「グロブス」フェルニクの戦死した妻のポーランド国内軍メンバーとしてのコードネームからのもの。クブシュという単語自体はポーランドで一般的な男性名「ヤクブ」の愛称であり、グロブスの妻のコードネームがプーさんをイメージしていたかどうかは定かではない。

もともとコードネームは秘密活動用のものなので、性別が違っているのはそれほど奇異ではないようで、実際に出撃時に運転手を務めたフィヤウコフスキ軍曹は女性名「アナスタシア」のコードネームを持っている。

ただし、指揮官のタデウシュ・ジェリニスキ士官候補軍曹のコードネームは「ミシュ」(熊/テディベア)なので、プーさんとの何らかのイメージのつながりはあったのかもしれない(もちろん、クブシュ以前からずっと「ミシュ」と名乗っていた可能性も大いにある)。

●製作方針。何しろ車外装備品の類はほとんど何もない(ノテク・ライトと車幅表示棒程度)ので、その方面で精密度を手は使えない。

キットは車内もある程度表現されているものの、おそらく実車は長らく放置されている間に車内のアレコレは一度喪失していて、近年の車内写真も撮影時期によって(椅子等が)がらりと変わっていたりするため、それら資料写真は(少なくとも戦時中の状態の再現には)役に立たない。もともと、私自身が「模型は基本、外から見えるところだけでいいや」派であることにもる。

というわけで、基本は表面の装甲板の溶接表現に手を入れることを中心に進める。なお、装甲板の面構成について、一部「実車とちょっと違うナー」と思う場所もあるが、解消しようとすると大幅にプラバンで車体を構成し直す必要が出てくるため、(面倒くさいので)それには目をつぶることにする。要するに具体的には、

  • 位置の修正、強弱(太い細い)を含めた溶接跡の再現
  • 実車の工作の粗さ、微妙な左右非対称の再現

を目指す。

なお、キットは天井に防盾が追加され、操縦手用の視察口が改修された、2回目の出撃以降の姿を再現している。最初の出撃時の姿というのも興味があるが、とりあえず、ネット上や資料本等で見かける当時の写真も改修以後のものばかりで、改修以前の姿は文章で触れたもの以外見つからなかった。また、キットの説明書には出撃で負った弾痕位置の説明なども入っているが、そこまで再現するかどうかは現時点では決めていない(面倒くさいし)。

●1st Step。おおよそ説明書の指示に従って、シャーシから組み立て始める。

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キットにはエンジンも入っているが、総じてだいぶおおらかな出来。一応、エンジンから駆動軸が後輪デフまで繋がってますよーくらいの感じだが、この辺は、組み上がってしまうとほぼ全く見えないので、個人的には気にしない。そもそも、ベース車輛がシボレー155であるのか、シボレー157であるかも(少なくとも現時点で私には)よく判らず、しかもその両者とも詳細資料など手元にないので、こだわりようがない。そんなわけで、この部分は基本、キットの指示に従ってパーツを付けていくだけ(むしろ、いくつか部品を省略)。

なお、前輪もステアリング機構は丸無視。パーツにハンドルは付いているのだが、ハンドルシャフトはなぜかエンジン側面に繋がっているという謎レイアウトになっている。

ただし、キットの車輪だけはレビューで書いた通りあまりにプアな出来なので交換の予定。

ちなみにキャビン内からエンジン部分や前輪ハウジングが筒抜けになっているが、少なくとも実車の現状ではその通りになっている。

●装甲車体基本形は大きく左右分割されている。ただし、位置合わせのダボなどは一切なく、また、若干のバリなどもあって、ズレが発生しないかちょっと気を遣う。私は内部の作り込みはせず、ハッチも閉めてしまう予定ということもあって、分割線上に0.3mmプラバンの切れ端などを貼って位置決め/接着部の補強を行った。

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キャビン前面は別パーツ。本体との合わせは微妙に合っていない感じで、若干の削り合わせを必要とした。

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操縦手前面の視察口、および操縦手左の視察スリット部に貼り増した板、エンジンボンネットおよび車体後端スカートの車体側ヒンジは、どれも寝ぼけたモールドだったので、後々作り直すことにし、この段階ですべて一度削り落とした。

レビューでも書いたようにキットの溶接ラインのモールドは一部で位置がずれており、また、(レプリカと違って)実車では場所によって太かったり細かったり、非常に工作の粗さが目立つ仕上がりになっていて、それがクブシュ実車の特徴ともなっている。これに関しては全面的に入れ直すつもりで、これまたすべて削り落とした。

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以上の作業の過程で、特に車体左側面および後面のピストルポート(あるいは視察口?)の位置がちょっと気になったので、この2か所は開け直すことにして一度埋めた。

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後面に関してはキットよりもやや下に、左側面はやや上に開け直す予定。

溶接跡に関しては、いつも通り、伸ばしランナーを貼って溶かす方式の予定。ランナーの色が違うと溶接線の太さの違いが把握できなくなるので、タミヤの同色のランナーを使って微妙に太さの違う伸ばしランナーを量産した。

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●製作方針の項で触れた、装甲板の面構成自体の「ちょっと違うナー」について。例えばラジエーター用ルーバーのある最前面の上の細長い装甲板だが、この下端の角度が、実車に比べるとかなり開き加減になっている。

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上右写真で黄色で示した部分。下はwikimedia commonsから拝借してきた実車写真。

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その面の後ろに連なる(ボンネット側面にあたる)装甲板の上下幅にも少々関わってくる。

実を言うと、多少なりと問題を改善しようと、上左写真(車体右側面)では、問題の角の上辺に繋がる面を少し削り込んで、わずかではあるが角度を鋭くしている。車幅表示棒取付部の凹を埋めた後がエッジにかかっているか、いないかで削り込みが判ると思うが、角度の変化自体はパッと見て判るほどには変わっていない。というよりも、おいそれと変えられない。

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それも当然で、上写真に黄色で示した2辺によって、上の面の角度はおのずと決まってしまっているわけなので、ここを大胆に削り込むと、この面が明らかな曲面になってしまう。それを防ごうと思うと、このあたり一帯をすべてプラバンで作り直す必要が出てくる。

そんなわけで、これらの点に関しては、「誤魔化せる部分は誤魔化せる範囲で」という、比較的ヌルい姿勢で臨む予定。

なお、工作自体も、気が向いたときにゆるゆると進めていく感じになると思う。

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三浦アルプス

●ここ最近の三浦アルプス(集中)山歩きに関しては、前回の記事でひとまとめで書いてしまうつもりだったのだが、だらだら長くなって砲台話だけで終わってしまったので、残りのあれやこれや。

先月からの三浦アルプス行は以下の5回。梅雨が来てしまうと足元がグズグズになるし、藪も深くなるのでこのルートはまたしばらくおあずけかな……。

●1回目:三浦アルプス南尾根ルート初挑戦。葉山・風早橋からスタート。葉山教会の横から山道に入り、仙元山を皮切りに東京湾側まで歩く……つもりが、2、3ピークを過ぎたあたりで転機が急変、雷雨に見舞われる(この日、5月4日は天気が変わりやすく雷雨の怖れありの予報が出ていたのに甘く見ていた)早々に断念して実教寺-葉山消防署方面に下山。

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上左は仙元山山頂近く。他の多くのアザミが秋に咲くのに対して、初夏に咲くノアザミとコアオハナムグリ。上右は仙元山山頂からの眺望で正面がたぶん森戸海岸。遠景に江の島。

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「葉12」標識ピーク手前のキツイ階段。京浜急行の「三浦アルプストレッキングガイド」によれば約250段で、この頃にはざっと一雨来た後で足元がすでに濡れている。写真は途中で一息ついて「来し方行く末」を撮ったもの。もちろん、階段があるだけまだマシ。三浦アルプスの山道は、ロープ頼りの急斜面もかなり多い。

●2回目:逗子、沼間の山の上の住宅地「グリーンヒル」までバスに乗り、その奥から山に登って北尾根へ。馬頭観音、「二子山山系自然保護協議会/二子山山系主要分岐図」の標識FK3を経由して、乳頭山手前から田浦梅林に降りる。

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このルートを歩いたのは、昨年、クサイチゴをつまみ食いして味を占めていたため。今年は家まで持ち帰った(上左写真)。上右写真は田浦梅林から降りたあと、京浜急行をくぐる小ガード。スケルトンでなんとなくスリリング。

●3回目:三浦アルプス南尾根ルートにリベンジ。初回同様、葉山・風早橋からスタート。仙元山、観音塚、大桜、茅塚下を経由して乳頭山へ。その少し先から田浦小学校裏手方面に降りる。1時過ぎスタートで、人里に降りたのが6時半くらいだったので時間的にはだいぶキツキツ。本来なら昼食を山の上で食べるスケジュールで行くべきルートかも。

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上写真左は「観音塚」の名の元である石仏。向かって右・三面八臂の馬頭観音像の横には寛政年間の建立年が彫られている。右は観音塚と乳頭山のちょうど中間にあるD14ポイント「大桜」。

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途中で見かけた植物あれこれ。1枚目はナルコユリ。鎌倉周辺の山だと、生え方も花の形も似たホウチャクソウはたくさん見るが、ナルコユリはめったに見かけない。大きめの緑色がかった花を2つ(時に1つ、3つのことも)付けるホウチャクソウと違って、小さめの白い花を列状に咲かせる。これまでてっきり近縁の植物なのかと思っていたのだが、改めて調べたら科からして違っていた。

2枚目は以前にも書いたことがある、万葉集にも登場するキモンヒヨドリバナ。3枚目はサイハイラン。4枚目は山菜のミズ。いつも採っている場所のほかに生えているのを初めて見た。

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上写真左はキアシドクガ。ドクガ科ではあっても幼虫~成虫一貫して無毒だとか。半透明に近い白い翅が美しく、ついじっくり撮影。この数回の山歩きで、木の梢に白い蝶/蛾が群れているのを何度か見たが、正体はこれだと思う。右は渡りをするチョウ、アサギマダラ。急斜面の梢にいて、これ以上近寄って撮れなかった。美しい後翅のえんじ色もこの写真ではほとんどわからず残念。なお、このあとしばらく歩いた先の山道で、肉食昆虫にやられたか、アサギマダラの前翅・後翅1枚ずつが落ちているのを見つけた。

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山道で立ち止まってポケモンgo仲間とLINEしていて、そのまま流れでARスナップを撮っていたら、山道の脇でガサゴソ音がして、いきなり目の前にハクビシン(たぶん)が現れた。こちらもしばらく立ち止まっていてほとんど物音を立てずにいたから、相手もかなり油断していたものとみえて、距離はおそらく2メートルほど。お互い驚いて数秒見合ってしまった。上写真はその時のポケモンgoのARスナップ。とっさに普通のカメラに切り替える頭が働かなかったのが大いにマヌケ。「ゴローニャ」の向こう側にハクビシン(?)がちょっとだけ見える。

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そして2回目の山歩きでも通ったクサイチゴ収穫ポイントでまたいくつか。ほんのちょっと工夫でビターチョコ味の「クリーム玄米ブラン」に載せて食べてみた。「チョコレート+ベリー」「あんこ+ベリー」の組み合わせは鉄板。ちなみに先月半ば、近所のM家でBBQをやった折、近くで採ったカジイチゴを持って行って、つぶあんの最中に挟んで食べた。これも美味かった。

●4回目:1回目で下山した葉山消防署から逆にスタート。南尾根に上り、観音塚経由でしばらく歩いた後に北側に下山。森戸川林道終点に出て、林道を歩いて葉山町長柄・川久保に出る。森戸川源流あたりは、20年くらい前以来。その頃は網で小さな川エビを採って、素揚げにして食べたことがあった。今でも小エビが生息しているかどうかは未確認。

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上左写真が森戸林道終点。右は、長柄・川久保からそのまま歩いて越えた葉桜団地入口の坂に生えていた野生のビワ。ちょうどいい感じのものがやっと一つ、手の届くところにあったので採ってその場で食べた。割と甘くてアタリ。

●5回目:二子山1回目。南郷中学校バス停から、南郷上ノ山公園野球場奥の山道を登って砲台道の途中に出て、二子山上ノ山山頂へ。そのまま二子山下ノ山、阿部倉山と縦走し葉山町長柄・川久保に降りる。上ノ山までは楽だが、その後は結構起伏がある。

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砲台道でハンミョウに出会えた。出会えると嬉しく、しかしなかなか接近しては写させてもらえない昆虫。左はそろーりそろりと近付き、逃げられてはまた近付きを繰り返して、ようやく撮った接写。右はアサヒナカワトンボ。これは鎌倉浄明寺の華頂宮邸の谷戸でも頻繁に見かけるもの。

●6回目:二子山2回目。南郷中学校バス停から、今回は南郷上ノ山公園トイレ横から素直に広い砲台道を歩いて二子山上ノ山山頂へ。砲台道を少し戻り、葉山-逗子境の尾根道を通って北尾根ルートへ。沼間の山の上の住宅地「アーデンヒル」へ降りる。

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この写真も砲台道にて。足元に飛んできて、また飛び立とうとしているセンチコガネ。

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二子山高角砲台

●6月6日はD-dayだが、個人的には別にどうということもなし。

●ここ1か月ほど、いわゆる「三浦アルプス」を集中的に歩く。

三浦アルプスは葉山の海に注ぐ森戸川の上流域を囲む山々だが、最高地点でもせいぜい標高200m少々(もうちょっと南にある三浦半島“最高峰”である大楠山でも241.3mしかない)。「なんちゃってアルプス」ぶりも甚だしく、本家アルプスどころか日本アルプスと比べてみても、本物の銀座と逗子銀座商店街以上の差がある気がする。

もっとも、逗子・鎌倉のハイキングコースの多くが、一度上ってしまうと尾根筋はあまりアップダウンが激しくなく歩きやすいのに比べ、三浦アルプスは(特にメインのルートとなる南尾根などは)ロープを掴んで上り下りする場所などもあり、「登山」とはいかないまでも、それなりにがっつり「山歩き」する覚悟で行く必要がある。一方で標高が低いのでそれなりに藪も濃いし(さすがにメインのルートで、道が消えるほどのことはないににしても、両側から迫っているような場所はある)、この季節だとヤブカも寄ってくるし蜘蛛の巣に引っかかることもある。

ルート概観はこんな感じ(「二子山山系自然保護協議会/二子山山系主要分岐図」)

昨春、東京湾要塞地帯標を目当てに、逗子の沼間から上がって北側尾根を歩くルートは二度ほど歩いたが(「東京湾要塞第一区地帯標(2018年5月23日)」「東京湾要塞第一区地帯標(2)(2018年5月27日)」)、今回は、5,6回に分けて、がっつりと南尾根を縦走(地図的に言えば西→東“横走”だが)したり、一度南尾根に上って森戸川林道終点に降りたり、再び北尾根を少し歩いたり。主要なルートはほぼ歩いたかも。

●そのなかで、葉山町長柄と逗子市桜山大山の境にある二子山(上ノ山)に二度ほど登った。「二子山」の名の通り、山が二つ隣り合っていて、東側の上ノ山は標高207.81m(頂上の三角点)。三浦アルプス一帯の山のなかでは高い方なのだが、中腹の「南郷上ノ山公園」から、山頂のすぐ脇まで車が通れる幅と傾斜の道があり(ただし、公園側の入り口にはチェーンが張ってあって一般の自動車は入れない)、周囲の山と違って、散歩感覚で登ることができる(実際、その道で犬の散歩をさせている人にも出会った)。

山歩きの案内などを見ると、この道を「砲台道」と呼称しているものを散見する(たとえば京浜急行の「三浦アルプストレッキングガイド」でも「砲台道」と記されている。地図の中心やや左)。ということは、頂上に砲台があって、この道は資材やら弾薬やらの搬入用?――と思ったら、毎度お世話になっているサイト「東京湾要塞」に、しっかり記載されていた(二子山高角砲台のページ)。

二子山は前述のように逗子市と葉山町の境にあり、「逗子市に存在した高角砲台」は、披露山の「小坪高角砲台」と、この「二子山高角砲台」の2か所。また、「三浦アルプス」一帯で考えると、ここのほかに「畠山高角砲台」「田浦高角砲台」がある。畠山山頂には昨年行っているが、この時は砲台があったことを知らなかったので、遺構の類は探していない(もっとも、そもそも目立つ遺構は特にないようだ)。

●そんなわけで、二子山砲台探訪録。

まずは国土地理院の地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」から、終戦直後の米軍撮影航空写真(1946年2月撮影、USA-M46-A-7-2-107)と、最近のもの(2007年4月26日撮影、CKT20072-C20-61k)との比較。

Usam46a72107k Ckt20072c2061k

おおよそ同じくらいの範囲をトリミングしてあるが、方位は少しずれている。写真の右下が高角砲台のある二子山上ノ山山頂で、終戦直後の写真だと4つの砲台がほぼ直列に並んでいるのが確認できる。現況写真の中央が南郷上ノ山公園、その左側にあるのが南郷中学校。上縁を東西に走る道路は葉山の長柄と逗子の沼間(横横逗子IC)を結ぶ逗葉新道。「砲台道」は現況写真では植生に隠れてしまってかなり見づらい。

同じ現況写真だが、探訪写真との対応用に番号を振ったものを以下に。

Ckt20072c2061k2

二子山に登る場合、逗子駅からは、京急バスの「南郷中学校」行き(逗28系統)に乗るのが最も楽。南郷中学校は山の中腹、南郷上ノ山公園と隣り合っている。

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写真1枚目。バス停を降りるとすぐ横が南郷中学校のグラウンド(上写真の①)。道の先にはすぐに南郷上ノ山公園の入り口がある。戦時中の兵舎跡が中学校の元になっていたりしないのだろうか……などと思ったのだが、それは考え過ぎ。南郷中学校は1981年と比較的最近の開校で、終戦直後の空中写真ではこのあたりは田んぼのある細い谷戸に過ぎないようだ。

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左写真は、南郷公園のトイレ脇からの上り口(上写真の②)。車の通れる道幅だが、ご覧のようにチェーンが張ってあって進入禁止。それからしばらくは、右写真のようにコンクリート舗装の道が続く。

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道が大きく右に曲がるあたりで、左に下る分岐がある(上写真の③のあたり)。終戦直後の空撮を見ると、もともとはこちらが「砲台道」の本道だったのではないかと思われる。一応、この道は今でも南郷トンネル入り口辺りに繋がっているらしい。この分岐の隣には、コンクリートのテーブルと椅子が据えられた平場がある。

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同一か所、分岐側から現在の「砲台道」本道を見る。コックリート舗装はこの地点で切れ、この先は砂利道(ところによって砂利のない土道)になる。ただし、轍の部分をよく見ると、荒れたコンクリート舗装がところどころ残っていて、元は舗装がだいぶ上まで続いていたことが伺える。もっとも、その舗装が戦時中のものかどうかは怪しい。

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途中、道の脇に数カ所開けた平場があり(上写真の④、⑤、⑥)、東屋やベンチが作られている。もっともこれらも(終戦直後の空撮を見る限りでは)戦時中に何かの施設があった跡というわけではなく、公園整備の一環で整地されたもののようだ。

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道が東北角で大きく曲がるあたり(上写真⑦近辺)に、コンクリートの構造物あり。もっとも、その中に作られた鉄板のフタの感じからすると、戦時中の何かではなく、後になって作られたもののような感じ。

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明らかに“近年物”の擁壁や雨水用マンホールのフタもある。

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一方で、戦時中のままらしい、素掘りの崖面もある。右写真はおおよそ⑧の地点で、左側に沼間方面および森戸川林道終点方面に行く分岐がある。前者は葉山・逗子境界の尾根を通って北尾根ルートへ。後者はこの先で右に折れて谷を下る。

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「砲台道」は、上写真⑨のKDDIの中継施設に突き当たる。掲げられた看板は20年以上前の旧社名のまま。左側の(整備不良でガタガタになった)階段を上ると頂上広場に出る。もともとの砲台道は現在の中継施設を突っ切る形で、頂上広場の北側を通って緩やかに上り、4基並んだ砲台の中間あたりで頂上に接続していたようだ。なお、終戦直後の空撮で確認できる兵舎らしき大きな建物は、この写真のちょっと手前の左側一帯にあったと思われる。

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頂上広場に小さな展望台と一等三角点があり、展望台の脇に、ミスドの「ポン・デ・リング」状の砲台跡がある(上写真⑩)。写真は下ノ山方向から振り返ったかたちで、一等三角点越しに展望台と砲台跡を撮ったもの。左の木立の向こうに、先の写真にあった階段の登り口がある。前掲の終戦直後の空撮写真と比較検討すると、4つあった砲座のうちの東端のものであると考えられる。残りの3つは(この写真の位置からすると)撮影地点の背後の林の中に埋もれてしまって、とりあえずパッと見た程度では確認できない。

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一等三角点と、展望台から北方向(横浜方面)の眺望(かすんで見づらいが、左端にランドマークタワー、右端近くに八景島シーパラダイスが見える)。現在は木に覆われてしまって視界が遮られているが、戦時中はほぼ360度眺望が開けていて、西側に相模湾が見渡せたはず。ちなみにここは東西方向で相模湾、東京湾のほぼ中間にある。一等三角点は神奈川県内に8か所あり、三浦半島ではここが唯一。

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砲座のクローズアップ。披露山のようなベトン(コンクリート)製のきっちりしたものではなく、少なくとも現状は土塁のみ。周囲の土塁の高さは一様ではなく、前述のように「ポン・デ・リング」状に波打っている。窪んだ部分には砲側の弾薬置き場があった(例えばコンクリートの箱状のものがあって、それを取り除いた痕跡?)などとも考えられるかもしれない。

また、特にほぼ真北の窪みは特に低く(写真3枚目)、砲座への出入り口があったのかもしれない。ちょっと曲線が胸の谷間みたいで艶めかしい。

写真4枚目は脇に立っている展望台上から見下ろしたもの。小さな頭が赤い杭が立っているのがほぼ中心。コンクリート製のプラットフォーム等はとりあえずこの状態では存在が確認できない。

国立公文書館・アジア歴史資料センターで検索・閲覧できる「横須賀海軍警備隊 砲術科兵器目録」(終戦後の引渡目録。直リンで開けない場合には、資料センター表紙の検索窓に資料名を入れれば出てくる))によれば、ここ二子山高角砲台に据えられていたのは、「十二糎高角砲」(単装)4門。少なくとも同資料には年式等は記されていない。コンクリート製の台座などが確認できないことから、例えばドイツの8.8cmFlaKのような移動用の砲架を持った対空砲が考えられるが、日本海軍にその手の砲(砲架)があったのかどうか、日本軍の兵器に疎い私にはよくわからない。とりあえず、同資料で確認できるこの砲台の配備は、

  • 十二糎高角砲 4門
  • 二式陸用高射器 1基
  • 九七式二米測距儀 1基
  • 弾薬数 632発
  • 九六式一五〇糎探照灯 1基
  • 二十五粍二連装機銃 1基
  • 十三粍二連装機銃 3基

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草刈りされた砲座の東側は緩斜面になっており、そちらからはかなり土塁が高く見える。木立の向こうは、先述の砲台道突き当りにあったKDDIの中継所の通信塔。

サイト「東京湾要塞」によれば、二子山下ノ山方面に少し行った脇の藪の中にコンクリートの構造物(柱が二本)が残されているというのだが、藪の中を覗きこみながら、何度か行ったり来たりしてみたが、発見できなかった。もうちょっと藪の奥まで見通せる冬季に改めて来て確認したい。なお、このコンクリートの構造物は、「東京湾要塞」では探照灯の台座としているが、形状的には武山の砲台山にあった、計算所(の中にあった計算装置?)の台座とされているものと似ている。

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なお、米軍空撮写真を見ると、上ノ山から西(写真で左方向)に細い道を辿った先、二子山下ノ山の頂上にも何やら小さな設備が置いてあるように見えるが、現状、下ノ山の頂上は森に覆われていて、何があったか等は確認できない。左写真のように、立ち木に小さな表示板が取り付けてあるので「ああ、ここが頂上なのか」と判るだけ。頂上西南側にちょうど砲台くらいのすり鉢状の窪みがあるが(藪に覆われて見づらいが右写真)、大きさはどうあれ、かなり深いので銃座とかの跡ではないような気がする。ただし、この窪みから西方向には、窪みへの出入り口のような掘割があるようで、何らかの人工のものである可能性はありそう。

ちなみに、上ノ山までは先述のように「お散歩感覚」で砲台道を歩くだけだが、上ノ山から下ノ山、さらにその先の阿部倉山へは、かなりアップダウンのある細い山道を歩くことになる。歩く人も少なそうなので、夏は藪漕ぎの覚悟も必要かも。

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II号戦車b型 THE WORLD AT WAR 1:72

20190517_195110 ●先日(令和初の購入キットとして)入手した、THE WORLD AT WAR 1:72のII号戦車b型(PANZER KAMPFWAGEN II ausf.b)の簡単なレビュー。

これに先立って発売されているII号戦車a1/a2/a3型についてはこちら

以前にも書いたが、「THE WORLD AT WAR」シリーズはポーランドのメーカー、IBGのミニスケール専門のレーベル。同社では単にIBGレーベルでも1:72のAFVキットを出していて、「THE WORLD AT WAR」シリーズがどういう切り分けになっているのか少々はっきりしないが、とりあえず、今のところこのシリーズでは第二次大戦初期のドイツ戦車しか出ていない。

なお、少し前に書いたが、基本同シリーズは1:72スケールなのだが、IV号戦車系列は、どうやら設計の際に寸法を間違えてしまったらしく、最初のA型は「1:72」表記で出たものの、その後のB型以降は「1:76」表記に改められている。ミニスケールの72と76なんて誤差だよ!なんて開き直ることなく、スケール表示を改めたのは潔いと言えるが、そのため、同一シリーズで2種のスケールが並列するという妙な格好になってしまった。

また、1939年のドイツ・ポーランド戦の1:72両軍AFV/車輛/砲/フィギュアを出している「First to Fight」シリーズは、発売元は違うようだが、キットそのものはIBGが手掛けているようで一部設計データは両シリーズで共通している。

●キット内容。シリーズ共通の構成で、キャラメル箱の中身はプラパーツと、折りたたまれた実車解説の小冊子。小冊子は表紙を含めて16ページ、英語とドイツ語の併記(輸出仕様)。

プラパーツは枝3枚で、デカールが1枚。

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Lパーツ(写真1枚目):車体、足回り。おそらくプラパーツとしては、これのみがこのキット専用のもの。

Mパーツ(写真2枚目):砲塔および装備品類。a1/a2/a3型キットおよびA型キットと共通。

Nパーツ(写真3枚目):マフラー、工具箱、スリットのないクラッペ等の小さな枝。A型キットと共通。

デカール(写真3枚目):塗装例2種に対応。ポーランド戦時の黄十字と、フランス戦以降のものと思われる第10師団第7連隊所属車(ステンシルのバイソンと大きな「5」の砲塔番号)。

●車体形状は前型のa1~3型とも、後のc型とも異なっているので、前述のようにb型専用のパーツ。a1~3型とはエンジンルームのディテールがかなり違い、車体長がa1~3型のほうが短い。b型では車体後部が延長され、後の標準型II号(c、A~C型)とかなり近い形状になるが、エンジン上部の傾斜面が後部でたち切れ、後端グリル部分が独立した形になっていたり、フェンダー後半部が後ろ下がりになっていたりと、なお若干の差がある。戦闘室後ろのハッチも、c初期型までの2分割式。

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写真1枚目:b型の車体形状、特に後部ディテールはかなり頑張って再現している感じ。車体上下パーツの接合線の隙間が後端グリルに掛かっていて、何か方法を工夫して消すか、放置するかちょっと悩ましいところ。

写真2枚目:車体右側面の2つの燃料注入口の小丸ハッチ、その後ろのエンジンルーム側面吸気口は一体モールドの都合でやや不十分な再現度。これはa1~3型キットでも同様だった。右前部クラッペは、a1~3型キットでは別部品だったが、このキットでは一体モールド。なぜか、後の型の特徴であるはずの跳弾リブのようなモールドもある。

写真3枚目:車体前面に一体モールドされている牽引具と点検パネルは、a1~3型キット(右)と比べて位置がかなりずれている。小パネル上のリベットの数・位置が変更になっているのは実車もそうなのだが(a1~3型は7カ所か8カ所、b型は左右2カ所)、このキットのように、位置まで変更になっているのかどうか……。少なくとも、このb型キットの位置は(牽引具も含めて)ちょっと上過ぎる気がする。

●足回りはa1~3型と起動輪の形状が大きく異なり、後の標準型II号(c、A~C型)とよく似た形状になった。

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ただし実際には、c、A~C型と全く同じではなく、おそらくファイナルギアケースの形状が違っているためなのではと思うが、b型の起動輪のほうが、後の型よりもふくらみ方が大きい。キットの起動輪はパッと見、後の型と同じくらいのなだらかさで、膨らみ具合が不足しているように思う。上部転輪はa1~3型よりも小径化されており、その辺はきちんとフォローされている。

ただ、よく見ると、a1~3型キット同様、履帯の巻き方が逆方向になっている。ロコ方式の一体成型なのでそもそも大したディテールもないため、それほどうるさく言うほどのこともないかもしれないが。

●砲塔パーツは、おそらく「THE WORLD AT WAR」シリーズのII号戦車すべてに共通のもの。Mパーツの枝に含まれるクラッペは、a1~3型に合わせてすべてスリット付きのものになっているが、b型以降用に、スリットのないフラットな形状のクラッペが別枝(Nパーツ)で用意されている。なお、私の買ったキットでは、砲塔ハッチ上のダンパーのモールドが、片側が型抜き時の事故で?潰れていた。

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