のの字坂

●11日土曜日。横須賀、田浦のプチ名所である「のの字坂」を見に行く。

以前、田浦の旧軍用倉庫群と引込線跡を見に行った際、記事の末尾でちょろっと触れたもの。

もっとも、それを目的に田浦を目指したわけではなく、逗子の沼間から漫然と山道を歩いて田浦に抜け、「そういえば、そんなのがあったな」と思い出して、ついでに寄ったまで。

「のの字坂」は、JR田浦駅から、南へ400~500メートルほど。ゆるゆると谷戸を登って行った先にある。

ループ式の道路というと、高速道路のインターチェンジとか、風光明媚な山地の観光ルートがイメージされるが、これほど“ちんまり”かつ鄙びた感じのループ道路は、ちょっと珍しいかも。しかもくるりと一周、だけではなくて、1+2/3周くらいする。地図上で見ると、「のの字」どころか、プレッツェルっぽくさえある。

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左写真は、谷戸を登って「のの字坂」の出発点。ループした道路が小さな橋をまたいで上を通る。この橋の名前も「のの字橋」というらしく、GoogleMapsにも出ている。右写真は、「のの字坂」をだいぶ上った辺りから見下ろして撮ったもの。右奥に「のの字橋」が見える。

残念ながら草木が茂っていてループの様子はそれほど綺麗に写っていない。葉が落ちる冬なら、もうちょっとはっきり撮れるかな? なお、ループの真ん中は小さな児童公園になっている。

●さて、この「のの字坂」。たたずまいだけでもそれなりに魅力的ではあるが、横須賀市の「地域の歴史を歩く」-「田浦を歩く」のなかの紹介ページには、次のような記述がある(ちなみに、この「田浦を歩く」は、「平成17年に『田浦地域文化振興懇話会』によって発行された冊子『田浦をあるく』から抜粋し作成したもの」である由)。

戦前、城の台砲台を築き、物資を運び上げるためにつくられた道路である。

となると、なかなか凝った砲台道ということになる。しかし、以前の記事でもそのように紹介したのだが、これについてはどうも怪しいことが判明した。

例によって、国土地理院の地理空間情報ライブラリー「地図・空中写真閲覧サービス」で、古い空撮写真を閲覧してみた。

左は1946年2月15日、米軍撮影による 「USA-M46-A-7-2-77」から、右は1963年6月22日の国土地理院による「MKT637-C18-9」から、それぞれ切り出し加工したもの。

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右写真では、下辺ほぼ中央に特徴的なグルグルの「のの字坂」がはっきり判るが、終戦直後の左写真では存在が確認できない。上で紹介した「田浦を歩く」の記事では、

道をつなぐ陸橋を「のの字橋」(いわゆるループ橋)といい、はじめは橋も木製であったという。

とあるから、当初は道も細くて写真でも紛れてしまってよく判らないだけ、ということも有り得なくはないが、通常、「砲台道」は物資を運ぶ自動車や荷車が通れるだけの道幅は確保されているはずなので(また、それだからこそループが必要になったはずなので)、可能性は低そう。

まあ、「のの字坂」が戦後生まれであれば、土地のお年寄りに聞けばスパッと解決しそうではあるが。

Img20240511172311 なお、引用写真で黄色矢印で示したものは田浦駅。黄緑矢印で示した円形の大きな窪地は、GoogleMapsでも「城の台砲台跡」と表示され、また、激しい藪を攻略してこの地点を探訪したブログ記事なども散見されるが、以前も書いたように、ディテールから見てここが砲台跡とは考えられない。右写真は田浦駅ホームから見た、「謎窪地」のある尾根の張り出し。

サイト「東京湾要塞」では、この窪地は貯油施設跡ではと推測、城の台砲台の場所は右写真赤丸あたりではないかとしている。もっとも、こちらも「う~ん、どうかなあ」という感じではある。そもそも、「城の台(しろんだ、と読む)砲台」というもの自体、海軍の高角砲陣地のリストには出ておらず、存在そのものが若干怪しい。

●「のの字坂」のオマケ。

「のの字坂」に行く途中、ちょっとオシャレなトンネルがあった。

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「ながかまトンネル」の名は、長浦-失鎌(しっかま)間を結んでいるためで、字名「失鎌」は鎌を失うほど草藪に埋もれた地区だったからとか。JR田浦駅の横須賀側のトンネル名は同じく「しっかま」と読んで「七釜」と書くが、これは、「かま(鎌→釜)を失う」という名前では、鉄道(当時は蒸気機関車)のトンネル名として縁起が悪いというので字を変えたものだそうだ。

そこそこの幅があるトンネルだが、写真には写っていないものの、手前に車止めの柵があるので(少なくとも平時は)人道専用。ちょっと調べてみると、細かい谷戸の多い横須賀ならではの「防災トンネル」で、土砂崩れなどで谷戸の奥が孤立することがないように開削されたものである由。

以前のちょっと話題に出した「横須賀トンネルマップ」に出てるかな?と思ったが、これは出ていなかった。ただし、同じ防災トンネルである「西逸見吉倉隧道」が出ていた(21番)。ちなみに横須賀市内にこの手の「防災トンネル」は、現在5カ所あるそうだ(横須賀市「防災に関する道路などの整備」)。

●話は前後するが、突発的に田浦まで山歩きしてしまったのは、「クサイチゴ狩り」のため。

もともとは、長柄桜山古墳群に「クサイチゴ&“化粧直し”された1号墳見物」に行ったのだが、さすが、先月末に“新装開店”セレモニーも済んだばかりで人の往来も多いためか、目当てのクサイチゴの藪はほとんど実が残っておらず、2,3粒をつまみ食いできただけだった。

食べられないとなるとかえって欲しくなり、くやしんぼうのいやしんぼうで、より山奥の目当ての場所に分け入ってしまった(一応、それでそこそこの量は採れた)。

まあ、せっかくのいい天気に長柄桜山古墳群に行ったので、その写真も少々。

1枚目は、長柄桜山古墳群2号墳からの相模湾の眺め。2枚目はもうちょっと内陸側にある、1号墳からの同様の眺め。

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ちなみに1号墳からは東京湾側も見渡せる。現時点では被葬者については判っていないが、神奈川県内でも最大級の古墳であること、古代の太平洋側の交通の要衝を見下ろす位置にあることから、この地域を支配したかなりの権力者のものであろうとは言われている。

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2群目1枚目は、2号墳からの尾根道を辿って1号墳に出たところで1枚。前方後円墳の「前方」脇から撮ったもの。2枚目は墳丘上に上り、「前方」部から「後円」部を撮ったもの。3枚目は逆に「後円」から「前方」を見下ろしたもの。手前の黒い部分は、埋葬された木棺が腐って発生した腐食抗跡の位置を示したもの。4枚目は発見された埴輪のレプリカ越しの相模湾。

墳丘上の樹木はすべて伐採せず、あえてまばらに残してあるのは(整備上の意図がどこにあったにせよ)なかなかオシャレでいいと思う。なお、この一号墳は前方後円墳としてはややいびつ。2枚目写真で、「前方」から「後円」を見た時に右手の木立のほうが密度が濃いのは、特にこちら側の形が崩れているのを紛らわせる意味もあるかも。

その場に立って見ているだけだと古墳のスケールもあって形状が把握しづらいが、市のページにある空撮写真はなかなか格好よい。

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「る・ろぉん」の続き

●相変わらず、あっちをいじったり、こっちをいじったり、いじらなかったり、の模型製作ライフ。

そんなうちのひとつ、ハセガワ製ル・ローン(キット名称「ル・ローヌ110馬力エンジン(ドイツバージョン オーバーウルゼルUr.II)」が、一応、エンジンらしい形になってきたので、これについて書くことにする。以前の作業についてはこちら

Img20240424023613 前回記事以降の進捗点(第一段階)は、おおよそ次のような感じ。

・継ぎ目を消したシリンダーにシリンダーヘッドと、さらにその上のロッカーアーム関連部品を接着。

・各シリンダーをクランクケースに接着。後々の塗装で、クランクケースとシリンダーの色調をちょっと変えたい、というようなことを考えると、ここで接着するより塗ってから着けたいところなのだが、そうなると、インテイクパイプの擦り合わせができないので仕方なく。

・インテイクパイプの整形。結構微妙なカープを描いているパイプに、がっつり入っているパーティングラインと押し出しピン痕を消す。押し出しピン痕はずいぶん昔に埋めるだけはしてあったので、今回は削るだけ。なお、実物はたぶん薄板を丸めてパイプにしているのではと思うが、その場合どこかに接合線があるはず。しかし、現存の実物の写真を見てもどこにあるのかわからないので、とりあえずはそのまま。

写真は、上記工作段階のエンジンを後ろ側から見たところ。ル・ローンの見た目上の大きな特徴であるインテイクパイプは、80馬力のル・ローン9Cまではクランクケースの前側から出るが、110馬力の9Jでは、写真のように後ろ側から出る。なお、写真ではインテイクパイプが5本だけ取り付けてあるが、これは仮組で、この段階では接着していない。

もうここまで来ると、「部分ごとに塗り分けてから組み上げる」ことなど考えずに、全て組み上げてしまって、あとから筆が届く限りでアクセント的に塗り分けたり、スミイレ等々で誤魔化したりというふうにしたほうがいいかなあ、などとも思ったりする(昨今のタミヤのキットのようにパチピタでもないので)。

●ここまで作っての感想は、

「良くも悪くもハセガワのキットだなあ」

というもの。

古いキット(発売は1980年代?)なので部品の精度等も「それなり」。もちろんハセガワ製/日本製のキットとしてある程度の水準には達しているので、「合わない/組めない」という個所はなく、組立説明書に従って部品を付けていけば、製品写真通りにきちんと仕上がってくれる(はず)。

ただしその一方で、(ハセガワのキットにありがちだが)「きっちりと実物のスケールモデルとして、ディテールを再現しよう」という気合のようなものはあまり感じられない。

気付いた差異などを以下に羅列。

各シリンダーのフィンの数は、実物(キットになっているドイツ型のオーバーウーゼルUr.IIも、オリジナルのル・ローン9Jも)は恐らく32枚だが、キットは25枚。細かいフィンなので、「正確に数が合ってないとイヤ!」とは言わないが、やはり約2割も違うとちょっと間引き感はあるかも。もちろん、こういう細かく薄い彫刻が金型代に直結するので略したい、というのも判るけれども(もっともハセガワの場合、金型代節約のために略したいというより、単純に「適当にそれらしくフィンを重ねときゃいいや」だった可能性もありそうな気がする)。

シリンダーが、実物に比べて細め。シリンダーの外側2/3のフィンの径は、実物ではクランクケースへの接続部より太いのだが、キットでは同径くらいになっている。その結果クランクケースよりもシリンダー部分がボリューム不足に感じる。ただし、インテイクパイプが付くとシリンダー間が若干埋まるので、ボリューム不足感は緩和されるかも。

クランクケース外周部のディテールが違う。実物ではシリンダーとシリンダーの間部分には半月型の窪みが設けられているのだが、キットでは直線的な段差になっている。シリンダーの根元のディテールも不足。実際は、シリンダー根元のリング外周には、締付用?の刻みがある。

プッシュロッドは切り揃えられた金属棒のパーツが付属しているが、実物よりやや太目。しかも、シリンダー上部のロッカーアームへの接続部には、実物にはないごついジョイント部品(A8)が付く。このジョイントは、実物の何かを再現しようというものではなく、単純に金属棒をプラパーツに繋げるためだけの目的で入っているらしい。

型抜きのためのパーツのテーパーがややきつめで、そのため、特に後面の補器類の形状がいびつになっていたりする。また、割と目立つ場所に押し出しピン痕があることも多い。

Img20240428230634 クランクケース後面には、中心軸を取り巻くように大きなギアパーツがあり(上写真中央部)、これが、本来なら補器類に繋がる小ギア(右写真)に噛み合うようになっているらしいのだが、キットには、その小ギアの部品はあるものの、大ギアとは間隔を設けて噛み合わないようになっている。たぶん、噛み合うようにすると可動にしなければならなくなるのを避けたのだと思う。ただし、ここは組んでしまえばほとんど見えない。

それ以外にも、細部ディテールの際現に関しては、随所に「まあ、適当にそれらしくやっときゃいいかな」感がある。

……などなど。そんなわけで、一応、キットはル・ローン(のドイツ版ライセンス生産型)と銘打っているのだが、全体的にパチモンくさいというか、「“ル・ローン(Le Rhône)”じゃなくて、“る・ろぉん”かな?」みたいなイメージ。

●もちろん、「それらしく」は出来ているし、あまり厳しいことを言うと、「それじゃ、プラバンを丸く切り出してシリンダーから全部自分で作れ」なんて話になってしまう。

それでは身も蓋もないし、当然ながら私自身にそんな気力もない。一方で、「じゃあ、まるっきりストレートで作って、塗装でそれらしく」というのも面白くない(私自身に塗装で凝る技量もない)ので、いつもながらの「まあ、キットの素性を活かしながら、『ちょっとだけ手を入れてみましたよ』という形跡だけ残す」というアプローチで行くことにする。

それにしても、「キットの素性を活かす」って便利な言葉だな……。

まず、上にも書いた「シリンダー根元のリング外周に、締付用?の刻みがある」点は、シリンダーをクランクケースに着けてしまってから気付いたのだが、割と「手を加えた感」が出るところのように感じたので、TFマンリーコさん直伝の“秘技エナメルシンナー剥がし”でシリンダーをもぎ取り、付け根に追加工作した。

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0.3mmプラバンで帯材を作り、それを細切れにして貼り付けることで刻み目を作成。刻み目の数は、限られた資料写真からはちょっと読み取りづらかったのだが、とりあえず7つと判断した(正解かどうかはちょっと不確か)。

プッシュロッドは、キット付属の金属棒は使わないことにし、プラストラクトのプラ棒(0.9mm径)で代用。ロッカーアームのリンクに直付けした。

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というところが、現状工作第二段階。

なお、キットは実物通り、基部と独立してエンジン本体は回転できるようになっている。仮付けして、ぶんぶん回してみた。

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今回は以上。

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えろえろタイヤ

Thunder Modelから、ボフォース37mm対戦車砲が発売されるそうだ。

同社は少し前に、CMP F30にボフォースを搭載した、英LRDGのガントラックを出しているので、そのボフォースの別売ということだろう。

ボフォース37mm対戦車砲の1:35インジェクションキットは、確か1990年代にTOM Modellbauから出て、その後ポーランドのMirageからも出たので、今度のThunder Modelは3作目。実はなかなかの傑作火砲ではあるものの、一般にはそれほど知名度が高くない、大戦前半に使われた砲としては、なかなかキット化状況は恵まれている。

ちなみに、SCALEMATESのページでは、TOMとMirageのキットは同一キットの箱替えということになっているが、実際はまったく別のキット。発売潤もSCALEMATEの「Product timeline」とは全く逆で、

 TOMのイギリス軍仕様
  ↓
 TOMの(レジンのタイヤがセットされた)ポーランド軍仕様
  ↓
 Mirageのポーランド軍仕様

が正しい(はず)。

下の写真は、左がTOM製の作りかけ(たぶん20年以上この状態で放置)、右がMirageのパーツ。出来は五十歩百歩といったところ? 作りかけのTOM製の一部がエッチングになっているのは、PartかAberのもの(うろ覚え)。

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ちなみに、両方の脚に付いているクッションは、砲手と装填手の「座席」ではなく、ここに半身を当てて寝そべって操作するらしい。

なお、私は今まで、TOMで最初に発売された、ホイール部が単純な皿形で薄いタイヤを履いているのが本国スウェーデンの生産型(で、輸入して使ったイギリスやフィンランドの仕様)、ホイールディスクにドーナツ型の盛り上がりがあって、ややタイヤが太いのがポーランド・ライセンス生産型だと思っていたのだが、今後発売されるThunder Modelのキット(箱絵には英兵が書かれていて、明らかにイギリス軍仕様を想定)のタイヤは後者になっている。ということは、両ホイルの形状は使用国/ライセンス生産国による違いではなく、もともと、スウェーデンでの前期・後期生産型の差、みたいなものなのだろうか。

何はともあれ、30年前後の期間を隔てて出る新キットでもあるし、Thunder Model自体なかなか評判のよさそうなメーカーだし(私は今までに買ったことがない)、ボフォース37mm砲はポーランドで大活躍した砲でもあるし、ちょっとこの新キットは買ってみたい気もする。

ちなみに、上に書いた「ホイール部が単純な皿形の薄いタイヤ」は、トレッドパターンが「HOHOHOHO……」、あるいは縦書きカタカナで「エロエロエロエロ……」となっていて、個人的に「えろえろタイヤ」と呼んでいる。実物については、盟友かさぱのす氏のこのページ、最下段の写真を参照のこと。

さすがにTOMの最初のキットでは、このトレッドパターンは再現されていない。どこか、3Dプリントで、この「えろえろタイヤ」をパーツ化してくれないかしらん。

●3日金曜日午後、突発的に、三浦半島最高峰の大楠山を登りに行く。

昼食もとった後で、いきなり思いつき、しかも食後しばらくのんびりしてから出掛けたので、逗子駅からバスに乗って、主要ルートの出発点である「大楠芦名口」に着いたのは午後3時頃。真面目に山歩きをする人間の姿勢とは言い難いが、大楠山の、特にこのルートは、頂上付近の国交省の気象レーダーやNTTの施設へのアクセスのため、頂上直前まで車が通れるほど整備されており、さくさくと歩きやすい。この日も、特に問題なく1時間ほどで頂上に着いた。

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写真は山頂広場からの眺めで、左が東京湾側。写っているのは(たぶん)NTTの無線鉄塔。右の逆光で霞んでいるのは相模湾側。電柱と重なっているのが国交省の気象レーダー塔。

大楠山には確か昨年春も、兄と兄友人と3人で登っていて、その時も、旬よりも少し早めなのに、もうまばらにクサイチゴが実り始めていて味見ができた。今回も少し期待して行ったら、予想通りちらほら。さすがに数は少なく粒も小さかったが、そこそこ熟しているものをいくつかつまみ食いした。

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国交省レーダー近辺(大楠平というらしい)のツツジには、カラスアゲハが多数。色と輝きはいまひとつな感じだったが、2個体、割と近寄って写真を撮ることができた。前翅に特徴的な暗色部がないので、どちらもメスのようだ。

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●ここ最近数度の大楠山ハイキングでは、「大楠芦名口から登って、前田橋に降りる」行程が半ば固定化しつつあったのだが、今回は、行きに大楠芦名口付近で申請した「ポケモンgo」のルートが申請直後に受理されたのでそれを自分でも制覇済みにしたかったこと、行きに見そびれた「芦名城址庚申塔」をみたかったこと、などの理由で、同じルートを往復した。

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ちなみに「芦名城址庚申塔」は、「この地点が芦名城址であることを示す庚申塔」ではなく、「芦名城址であった隣の丘の上(現小学校敷地)から移してきた庚申塔」だそうだ。

芦名城址庚申塔を見た後は、(逗子方面行きのバスはそこそこ頻繁に来ることがわかったので)適当に歩き疲れたところでバスに乗ろう、くらいの感じで国道沿いをのんびり逗子方面に歩く。

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左は前田橋交差点あたりで見えた夕景の富士山。「ビルの谷間から登ったばかりの満月はやたら大きく見える」効果により、普段逗子で見るよりも大きく迫って見えた。右はさらに歩いて、秋谷の立石。海岸に巨大な岩が立ち上がっているのが「立石」の名前の由来。右写真のほうが明るく見えるが、これはおそらく、単に右のほうが広く空をレンズ内に入れているためで、時間的には右のほうが15分ほど遅い。

●上の「立石」は、海岸に立てられた案内板によれば、「三浦七石」の一つであるという。同様のことは横須賀市の観光案内にも書かれているのだが、「では、あとの6つは何なのか」は書かれていない。

帰宅後にあれこれ検索してみて、ようやく、神奈川のweb情報紙「タウンニュース」三浦版のコラムで顔ぶれが分かった。

うち一つは、「多分入っているんじゃないかな」と思った、立石のすぐ近くの「子産石」(正体は海岸の地層から出てくる大型の丸いノジュール)。あとはまったく見当がつかなかったが、最北のものは、我が町・逗子の小坪の「鍋島石」だった。これは江戸時代初期、江戸城の普請で石垣用の石材を運んでいた鍋島藩の船が小坪の海で座礁難破、浅瀬に沈んでいたその石垣用巨石を呼んだものとか。ちなみにその「鍋島石」(のうちのひとつ?)は、近代になって引き上げられ、今は逗子海岸の外れに「不如帰碑」として再利用されている。

上記「タウンニュース」のコラムによれば、どうも「三浦七石」の出どころは、江戸時代に書かれた「三浦古尋録」なる本であるらしい。一応、7つを下に並べておく。

  1. 小坪の「鍋島石」
  2. 秋谷の「立石」
  3. 久留和の「子産石」:上記のように、地層中のノジュール。ノジュール(団塊)とは、例えば貝化石などが核となり、その石灰分が染み出すなどの原因で、そこだけが周りの地層より硬い「ダマ」状になっているものを指す。
  4. 公卿・曹源寺の「拭眼石」:寺発行の「曹源寺略縁起」によれば、その石を撫でてから目をこすると眼病が治るとの伝承があるそうだが、「謎の伝承であり、どの石であるかも不明」だそうな。だめぢゃん。なお、「タウンニュース」には「眼拭石」とあったが、寺のパンフ(略縁起)では「拭眼石」だった。
  5. 吉井の「飛石」:吉井安房口神社の御神体の磐座(いわくら)。巨石に大きな穴が開いていて、その口が安房国を向いているというので「安房口」、また安房国から飛んできたというので「飛石」とも言うとか。
  6. 三戸の「三石」:これも小坪の「鍋島石」同様、江戸城普請のため運搬中に水没してしまった石材であるらしい。三浦市三戸浜海岸には「サンコロ石」「天神丸」と呼ばれる(元)石材が、それぞれ3個ずつあるとか。そのどちらかが「三石」ということか。
  7. 小網代・白髭神社 の「金鳴石」:小網代・白髭神社社殿の横に置かれている細長く大きな石で、叩くと金属音がする由。「鳴石」「カンカン石」とも呼ばれているらしい。

所在自体が判らなくなっているものが混じっているのがなんだかもう。

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砂糖・油・揚げ

●5月1日。メーデー。

「立て万国の労働者」方面のメーデーは、キリスト教以前からのヨーロッパの祝祭である五月祭が起源であるそうな。

なお、救難を呼びかけるメーデーは5月とは何の関係もなく、フランス語の「助けて!(M'aidez!)」。

●ということで、何ともお久しぶりでございます。

特に3月末から4月前半は、それこそ救難の「メーデー」状態で、ブログ更新も模型製作もなかなか手が付けられなかった。

理由の第一。

昨年度は地域の自治会役員(会計担当)を拝命しており、会計報告の作成で、年度末が修羅場化した。

実際のところ、「会計業務」というもの自体にそれなりに慣れていれば、そうでなくても日々の出納をきちんと管理して帳面に付けていれば――そもそも自治会のお金の出入りなんて、地域全世帯からの自治会費集金の集計の手間以外にはそれほど面倒なこともなく、問題など起きようもないのだが、「あー。今忙しいから、後からまとめとこ」なんて思って後回しにしていたものが降り積もり、結局、最後にそのシワ寄せがドンと来た。

単純な計算間違いとか記載漏れとかもあってなんだかんだとやり直しの末に、やっと会計報告をまとめて監査のハンコも貰い、一件落着。と思ったその夜に、念のためにと口座と手持ちの当座現金をもう一度数え直してみたら、合計金額が4万円ほど足りない。

「や、やばい……これって、オレが補填しなきゃならないのか?」

と青くなったのだが、しばらくして、「年度内の収支に含めること」と言われたものの、未入金の補助金が4万円あったことを思い出してようやく人心地がついた。

4月20日土曜日の自治会総会をもって、新年度役員に全て仕事も「役員グッズ一式」も引き渡して、ようやくお役御免に。ふわぁ。自治会役員なんて、そうそう引き受けるもんじゃねぇなあ(といっても、回り持ちなので逃げられない)。しばらく、計算が合わない夢を見そう。

●当「かばぶ」の更新が滞っているのは、上記のバタバタに加えて、今年から当家のプロバイダーをJCOMからniftyに変更したことも一因になっている。

niftyのココログを利用しているのに、プロバイダーをniftyに替えて更新が滞るのも変な話なのだが、これは、もともと「niftyの非ユーザーとしてブログ用に登録したアカウント」と、「新たにプロバイダー契約して設定されたアカウント」が別々に存在しているためで、niftyのwebメールを使う際と、ブログを書く際とでは、その都度ログアウトしてアカウントを切り替えないといけない。これが地味に面倒くさい。

この際、ブログ用のアカウントを新しいアカウントの方に変更して一本化したいのだが、どうもその方法が(あるのかないのか段階から)わからない。

●というようなバタバタもなんとか片付いて、ぼちぼち模型製作も復活中。直近の作りかけだけでもいくつもあって、よりどりみどり!(そんなん誇ってどうする)

とりあえず、尾藤さんの「パンツァーメモ」で現在進行中のII号戦車A/B型工作記事にアテられて、IBGのII号戦車の砲塔に追加工作をしてみたり。今々は、「あまり深く考えずに工作したい」ということで、ハセガワの1:8「ル・ローン」(航空機エンジン)をいじり中。いずれも、工作記事は改めて。

Img20240402170226 ●4月初め、仕事で都内に出て、帰りに有楽町の「わしたショップ」(沖縄県物産公社のアンテナショップ)に寄る。以前は旧プランタンの並びにあったのだが、現在は有楽町駅前の交通会館1階。昨年初めに移転したのだが、移転してから行くのは初めて(というよりも、以前の場所に行って「ありゃ? なくなってる? そういえば引っ越したんだっけ?」とwebで検索して行き直した)。

いくつかお菓子だの食材だのを買って、ついでにサーターアンダギーを買い食い。片方は「ピーナッツ」でもう片方が「黒糖」。

「サーターアンダギー」という食べ物の名前を初めて知ったのは「あずまんが大王」だったかも(ひさしぶりにこの書名を思い出した)。

今では関東でも、時折売られている場所があるサーターアンダギーだが、「わしたショップ」では店頭で揚げたものを売っているのがメリットで、外側がカリッとしたままなのが嬉しい。タイミングがよければ、揚げたてアツアツのものを食べることもできそう。

「沖縄ドーナツ」と呼ばれることもあるサーターアンダギーだが、名前の直訳は「砂糖(サーター)油(アンダー)揚げ(アギー)」だそうだ。最もメインの材料であるはずの小麦粉の立場は……?

●4月最後の土曜日(というよりもGW初日?)、兄とドイツ人Pと3人で鎌倉ハイキング。今回はP家族は不参加とのことだったので、ひたすらがっつり歩く。天気はあまりよくないという予想で、実際に朝のうちは降っていたが、小雨程度で延期にすると「この程度で!」とPがむくれるのでそのまま決行。幸い、歩き始めた頃はもう止んでいて、むしろ暑すぎずによかったかも。

当初は「駅ナカの店で何か食べる物を買って行って、山の上で食べる?」なんてことも考えて、大船駅で待ち合わせたのだが、「せっかくしらすの季節だからしらす丼を食べよう!」ということになる。

北鎌倉スタートで、まずは浄智寺を散策。そのまま源氏山~大仏ハイキングコースと歩き、長谷に降りる。予定通り、長谷でしらす丼を食べる。美味。ちなみに私とPは生しらす丼、兄は釜揚げしらす丼。

そのまま鎌倉の旧都を横断し、金沢街道方面へ。途中、長谷と雪ノ下のドイツパン専門店「Bergfeld」でプレッツェルとスティックを買い食い。以前この店のプレッツェルの写真を見せた時は「穴の大きさが違う」と文句を言っていたPだが、家族にも食べさせると言ってあれこれ買い込んでいた。

なお、雪ノ下の店を出てスティックを齧りながら歩いていたところ、残り数センチをトンビに強奪された。この「天然ヤーボ」の襲撃は、この界隈では日常茶飯であり、私もこれまでに数回やられていて、それなりに注意をしているつもりなのだが、それでも「ついうっかり」の隙を狙われる。

報国寺と杉本寺をハシゴした後、バスで駅前に戻り、市役所前のスタバで休憩。さらに亀ヶ谷坂切通を超えて歩いて北鎌倉に戻り、大船の「鶏恵」で焼き鳥などつつきながら酒を飲む。

●この春の「近所の野山のおすそ分け」総括。

(1).春先一番手のフキノトウ。収穫時の写真は撮り忘れた。フキ味噌と天ぷらで消費。

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(2).ノビル。久しぶりに我が宝剣エクスカリバー(ただの根掘り)を取り出してきて、2度ほど収穫に行った。意外に根の玉(球根)が大きいものが採れた。例年は、手軽に出汁醤油とかめんつゆとかに漬けるのだが、今年はちょっとひと手間で、甘酢を作って漬けた。葉の方は例によってお好み焼き粉で「適当パジョン」に。

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(3).アケビの芽。4月中、4度か5度ほども採ったかも。毎度結構大量に収穫。一度だけドレッシングで、あとは例によって「大量のアケビ入り卵かけご飯」で。写真の卵かけご飯の付け合わせは甘酢漬けのノビル。

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(4).ハリギリの芽。今年は珍しく、2度(2か所で一度ずつ)収穫できた。天ぷらでいただいた(右写真の上のもの)。

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(5).イタドリ。いつもは「皮を剥いてから下茹でして、一晩水にさらしてシュウ酸抜き」という下処理をするのだが、「それだと、どうも食感のシャキシャキ感が損なわれる――下茹で無しで塩漬けのほうがいいかも」という、「逗子拾い食いの会」仲間のTannoさんの意見に基づき、今年の収穫はそのまま塩漬け冷凍に。半分だけ、数日前に「ピリ辛メンマ風炒め」にした。確かにこっちのほうがシャキシャキ感が生きていてよいかも。

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●少しだけ模型話。

アカデミーからI号戦車B型が出る(とりあえず国内入荷はまだ?)

I号B型は、イタレリのキットは発売時期を考えればなかなかの佳作キットではあるものの、今の目で見ればあちこち古さとか考証不足が目立つし、その後出たドラゴンのキットは寸法的に「どうしちゃったんだよ」レベルでおかしい代物だったので、新作が待たれるアイテムだった。

(追記:セータ☆さんに言われて、TAKOMもつい最近新製品でB型(というか、A・B型のセット)のキットを出しているのを思い出した。限定版でバラ売りもあるそうなのだが、最近あまり模型屋に行っていないこともあって、どちらも見ていない。レビューを見ると、車体・砲塔のクラッペ周りのネジ/リベットのA・B型間の差も、車体前端のギアハウジング部底部の平面も表現されているし、それなりによさそう)

そんなわけで、アカデミーのキットはなかなか期待……の一方で、前後して「タミヤからI号戦車(B型?)が出るらしい」というニュースも飛び込んできて、急に何だか妙に"恵まれた"状況に。もちろん、どちらも手に取って見たことはないが(そもそもタミヤのキットは発売の確報すら入ってきていないが)、アカデミーのものは、写真を見る限りではそこそこよさそう。転輪も、リム部のリングが別部品になった、トライスターに倣った処理のようだ(タミヤは部品数を増やしたくなくて一体にしそうで少し心配)。

ただ、「え、なんで?」と思うのは、I号戦車に加えてツュンダップKS750サイドカーがセットになっていること。KS750は戦争中盤になって登場したものなので、I号戦車の"付け合わせ"としては、いささか不似合い。箱絵も、電撃戦当時(ポーランド戦時)の塗装とマーキングのI号戦車の隣にKS750がいて「おまえはクリスチャン・ラッセンかっ!?」と言いたくなる構図。

※クリスチャン・ラッセン:一頃、秋葉原の名物だった「エウリアン」の定番商品である版画の作家。ありえない密度・取り合わせの海洋生物+風景詰め合わせセットみたいな絵をよく描く。

もっとも、こういう「変な組み合わせ」セットの模型というのは過去もそれなりにあって、例えばニットー1:35のケッテンクラートは37mm対戦車砲を牽引していたし、フジミ1:76のI号戦車は75mmPak40対戦車砲付きだった。ニットーのI号戦車も、BMW R75とキューベルワーゲン付きだったかな。

●もっとも、ツュンダップKS750サイドカーは、1:35インジェクションキットとしては、そこそこ楽しみに思う人もいそう。

大戦中期以降のドイツ軍主力サイドカーは、双璧であるBMW R75とツュンダップKS750の両方とも、タミヤとイタレリからキットがあるが(タミヤのツュンダップはオートバイ単体のみだったかな?)どちらも結構古い。BMW R75は、その後ライオンロアから新キットが出たが、ツュンダップKS750は出ていなかったはず。

ツュンダップといえば、大戦初期から使われていたKS600サイドカーがタミヤから発売間近で、個人的にはこちらのほうがちょっと欲しいかも。大戦初期型のオートバイ/サイドカーは、ズベズダのBMW R12もちょっと欲しいと思っていたのだけれど、買ってないんだよね……。

ちなみに、ツュンダップの大戦初期型オートバイのインジェクションキットとしては、かつてVulcanからK500とK800が出ていた(K800のオートバイ単体キットのほうは持っているが、プレス済みエッチングのスポークが入っていたりして、なかなか素敵)。

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戦うプーさん/「クブシュ」Mirage HOBBY 1:35(6)

●Mirage HOBBY 1:35のクブシュは、ほぼ発売直後(2014年8月)に喜び勇んで買って、その後しばらく放置。数年経って(2019年)ようやく作り始めたものの、装甲ボディをおおよそいじり終えたあたりで中断。長らく放置と相成った。

キットレビューやここまでの製作記に関しては、記事タグ:クブシュを参照のこと。

先日、facebookでコレを作っているという人の書き込みがあって、俄かに「またいじろうか」ゲージが上昇。がさごそと「お手付き山」から掘り出してみた。

現状はこんな感じ。

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装甲ボディに関しては、2019年8月15日の前回から僅かに変化があるが、これは前回書き込みの直後にいじった部分で、今回取り出して以降に新たにいじった箇所は無い。それどころか、それほど高さのないキットの箱に何の手当もせずに突っ込んであったので、戦闘室上面の防盾が折れてしまっていた。……退化してるのは情けないなあ。

前回書き込み時との違いは、車体前後のスカート部分。これは両方とも、0.3mmプラバンで作り直した。特に前部スカートに関しては、中央部の継ぎ目は、組立説明図のコメントに従い、三角のリブ材のない状態に。どうやら、実車は工作時に段が出来てしまったものを埋めている感じだったので、そのように工作した。溶接線が左端(向かって右)で幅広く汚いので、そのように再現。全く想像だが、第一回作戦での衝突等でスカート端の溶接にひびが入ってしまったのを補修したとかかもしれない。特に左側スカートが微妙に歪んでいるのは、実車もそんな感じなのを再現したのだが、箱に収めている間に歪みが大きくなってしまったかも。

後部スカートも、中央でピッタリ揃っていないのは、戦後に放置された状態での後方からの写真に倣ったもの。とはいえ、戦時中の稼働状態の時からそうだったかは確証が無い。

後部スカートは蝶番付きで可動のようだが、ヒンジは未工作。シャーシに繋がっているはずのフックが通る穴は、後部スカートには開けたが、前部スカートの分は未工作。

●今回掘り出して、とりあえずいじり始めたのは足回り。

キットレビューにも書いたように、このキットはシャーシの再限度がはなはだプア。シャーシフレームとか駆動系とかに関しては、そもそも「何のシャーシだったのか」時点で説が分かれているし(定説ではシボレー157だが)、そもそも装甲ボディをかぶせてしまうとほぼまったく見えないので、適当で構わないと思う。が、車輪のお粗末さは流石に何とかしたい。タイヤは同じくMirageで出ているwz.34装甲車のものの使いまわしで、径が不足しているうえにトレッドパターンもオモチャじみている。ホイールパーツも情けない出来で、タイヤに合わせて小径なのはもちろん、5つの軽め穴が貫通しておらず単に浅いくぼみになっている。

キットレビュー時点で「TOKO/RODENのGAZトラックのタイヤをホイールごと流用しようか検討中」と書いたが、実際に、シボレー157とGAZ(フォード)-AAのタイヤは同一サイズであるらしいことが判明したので、心おきなく流用を決意する。

なお、TOKO/RODENのGAZトラックは、その後イースタン・エクスプレスやズベズダでも販売され、バリエーションキットも出されている。今回も、パーツはイースタンのBAから持ってきた。

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左写真がTOKO/RODENのGAZトラックのタイヤ&ホイール。タイヤは軟質樹脂で、キットは、いくつかメーカーを渡り歩いているうちのどれか、もしくは生産ロットによっては、若干の収縮があり、うまくホイールにはまらないケースもあるようだ。今回流用分に関しては問題なく装着できた。

このTOKO/RODENのGAZの車輪、タイヤのモールドに関しては、トレッド部分については「それなり」程度ではあるが、側面ディテールなどは細かく美しく、そこそこよい感じ。ただし、一方でいくつかの問題もある。

(1).軟質樹脂部品には付き物の問題といえるが、パーティングラインを消す際、ヤスリ掛けをすると削りカスが粉ではなくケバになって表面に残る。

(2).元がソ連製トラックのキットなので、タイヤの片面にキリル文字でメーカーや型名などの文字が入っている。

(3).実車では、前輪・後輪とも同じホイールを使用、後輪ホイールは表裏向かい合わせでダブルになっている。したがって、後輪外側ホイール(左写真の左側)は、本来は前輪用ホイールの裏返し形状で、中心部分は内側にさらに一段窪んでいないといけないのだが、逆に出っ張ってしまっている。

(4).キットの(GAZの)ホイールの軽め穴は比較的三角形に近いが、どうやらクブシュのベースとなっているシボレーのホイールは、穴にもっと丸みがあるようだ。

うち、(1)に関しては、ヤスった後に、布などでこすると、ある程度ケバを落とすことが出来るようだ。したがって(2)に関しても削り落としてもいいのだが、そもそもロゴのある面を内側にしてしまえば完成後は見えなくなる。

(3)(4)についても、クブシュでは外側にスカートが装着されていて車輪はかなり隠れてしまうので、苦労して手を入れてもあまり意味がない。というわけで、今回は以上の問題はほぼまるっと無視することにする。

なお、我が家にはTOKO/RODENのGAZ用の車輪の代替品として、ポーランド・ARMO-JADAR製のレジンパーツもあるのだが、これまた後輪ホイールの形状がキット準拠で間違えている。トレッドパターンはこちらのほうが細かく、上記(1)の毛羽立ち問題も回避できるので、もしかしたら今後そちらに乗り換える可能性もあり。いずれGAZ系を作る気になったら、今はもっと出来が良い、miniartのパーツもあるしね。

とりあえず、GAZの車輪の取り付けに備えて、キットの後輪軸は切り詰め、GAZ系キットのブレーキドラムのパーツを取り付けた。フロントアクスルは、ステアリング機構のスの一文字もない粗末な構成だが、どうせ見えないので追加工作などはしない。確かソ連のBA-6以降は前輪にもブレーキがあるが、原型のGAZ-AAにはなかったのではと思うし、同クラスのシボレーもそうだろうと判断。こちらにはブレーキドラムのパーツは付けなかった。

●若干の考証。

(1).後輪について

改めてネット上でクブシュについて検索していて、こんな記事を見つけた。

„Kubuś” w cywilu

ざっくり言うと、クブシュのベース車輛は結局何だったのかという検証。これまでも、「クブシュのベースはシボレー157だった」「実はシボレー155だったという説もある」などと書いてきたが、この記事によれば、「157とか155とかいうのは、単にホイールベースの寸法(インチ)を示しているだけで、正式なモデル名称ではない」とか。まあ、それは興味深くはあっても、直接模型製作には関わりなさそう。

しかしより大きな問題は、それらの記述に加えて、「(定説で言われている車種は)後輪がダブルタイヤだが、クブシュの実車写真では両軸ともシングルタイヤであることが明瞭にわかる」というような一文が書かれていること。

えーーーーーーーー!?

これが本当なら、ちょっとちゃぶ台ひっくり返し系の新知見なんだけれど。

もちろん、元の文章はポーランド語で、それをgoogle翻訳に掛けているので、実際には上のようなスマートな日本語にはなっていない。原文とgoogle翻訳による日本語訳は次の通り。

Tyle, że nie jest to pełna nazwa, a dodatkowo ta seria miała podwójne opony z tyłu, zaś zdjęcia „Kubusia” wyraźnie pokazują pojedyncze koła na obu osiach.

ただしこれは正式名称ではなく、さらにこのシリーズは後輪がダブルタイヤで、「ウィニー」の写真では両軸ともシングルホイールであることがはっきりとわかる。

一応、素直に考えれば、最初に私が書いたような意味になるであろうことは判っていただけると思う。ちなみに「クブシュ」という固有名が「ウィニー」になっているのはgoogle翻訳さんの勇み足で、クブシュを「クブシュ・プハテク=くまのプーさん=ウィニー・ザ・プー」と判断してしまっているため。

Rearwheel さて、「写真では」とは言うものの、戦時中の「生きている」クブシュの写真は極めて少ない。右は、そんなクブシュの写真の中ではおそらく最も有名な1枚(wikimedia commons, File:Warsaw Uprising - Kubuś.jpgと、そこから後輪部分を切り出してクローズアップしてみたもの。陰になっていて判りづらいが、後輪はダブルの幅になっているように見える。

もちろんディテールは潰れているし、何か別のものが重なって幅広に見えているだけという可能性は皆無ではない。上の記事の根拠はどこにあるのか、いや、そもそも本当に「後輪もシングル」と言いたいのか――など、なお気になってモヤモヤする。が、とりあえずこれをひとまずの安心材料として、「後輪はダブル」のままで作ることにする。

(2).塗装について

ポーランド軍事博物館に所蔵のクブシュの現存実車は、これまで幾度か塗り直されているが、とりあえず現時点では濃淡のグレー2色の迷彩、ワルシャワ蜂起博物館のレプリカはグレーとブラウンの迷彩が施されている。いくつかの資料に掲載された塗装図も、おおよそ「グレー2色」派と「グレーとブラウン」派とに分かれている。

ちなみにMirage HOBBYのキット指定はグレー濃淡2色。キットの大らかさはどうあれ、説明書などからはかなりの入れ込み具合がわかるので、そんなMirageが言うのなら何かそれなりの根拠もあるのだろうとボンヤリ思っていて、近年はグレー2色派が有力なのかなと考えていた。私の模型も、最終的にはグレー2色迷彩で行こうと決めかけていたのだが……。

しかし、ポーランド語版wikipediaの文章を試しにgoogle翻訳に掛けてみると、興味深い記述が。

„Kubuś” został pomalowany przez Stanisława Kopfa ps. Malarz w brązowo-szare łaty.

「クブシュ」はスタニスワフ・コップフの別名によって描かれました。茶色と灰色の斑点を持つ画家。

ピリオド付きの省略単語などが入ると、とたんにgoogle翻訳さんは怪しくなるので、人名等は除いて文章を簡略化して訳させてみる。

„Kubuś” został pomalowany w brązowo-szare łaty.

「Winnie」は茶色と灰色の斑点で塗装されました。

文章を短くしたら「クブシュ」がまたしても「Winnie」(しかも英綴り)になってしまったのが謎だが、文章の意味はスッキリした。

ちなみに省略した人名前後の部分は、おそらく「コードネーム『画家』のスタニスワフ・コップフによって」なのだと思う。googleさんを混乱させた「ps.」は「pseudonim(偽名・仮名)」の略かと思う。文の切り分けはおかしくなっているが、一応「別名」という訳語が出ているのは流石?

なお、スタニスワフ・コップフは当時、クブシュを製作した国内軍「クリバル」部隊の第1中隊第105小隊所属の士官候補伍長で、第1回攻撃の際には実際にクブシュに乗り組んでいるらしい。戦後はワルシャワ蜂起博物館の開設にも関わっているので、レプリカの製作・塗装にもアドバイスを与えている可能性がある(ただし、2004年の博物館の開館直前に逝去している)。(→ワルシャワ蜂起博物館の人物紹介ページ

さらに、後のほうの段落では現存実車について、

W latach 90. został − niezgodnie z oryginałem − pomalowany w ciemnoszare łaty na jaśniejszym tle.

1990年代には、オリジナルとは反対に、明るい背景に濃いグレーのパッチで塗装されました。

とも書かれていた。灰色・茶色の組合せが灰色2色になっても「反対に」にはならないが、戦中の実車写真では「濃色に淡色の斑点」に見えるので、濃淡の組合せが逆になったという意味か。

いずれにせよ、これらの記述を読む限り、どうやら実車はもともと「ブラウン地に明るいグレーの迷彩」という組み合わせであった可能性が高そう。なんとなく一歩進んだ気分(製作それ自体はほとんど進んでいないが)。

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横浜AFVの会2024

●3月24日日曜日、横浜AFVの会に行く。

実は地域の自治会の会合が入っていて、今年は行くことが出来ないと諦めていたのだが、朝、自治会長にラインしたら、次の日曜に延期になったとの返事。なお、今改めて去年の横浜AFVの会の記事を読んでみたら、去年も自治会の役員会と重なっていて、役員会が終わってから終わりの数時間だけ出席したのだった(自治会役員は1年度だけの仕事だが、昨年の横浜AFVの会は4月開催)。

このところ模型製作は低調だったので、当然持っていける完成作品は無し。話のタネに作りかけのクブシュの装甲ボディでも持っていこうと思ったが、ちょうど具合よく入る持ち運び用の箱がなかった。

●出す作品がないこともあって、昼食をとってからゆるゆる出かける。

現地会場で、まずはKakudouさんにお会いする。そうこうするうち、昼食に出ていたらしいケン太さん、ミカンセーキさんも戻ってきて、あれやこれやと模型話をはさみながら作品鑑賞。会えると思っていたハラT青木氏は、聞くところによると体調不良だとかで欠席(去年も欠席だった)。大丈夫かアオキ!

あとはむーさんとか野田君とか。

●相変わらず一貫性も網羅性もない、知り合いの作品+たまたまその場で気になった作品の写真集。

まずはKakudouさんのOT-34。青木氏の厳しいチェックにさらす覚悟で持ってきたらしいが、前記のように氏は病欠のために肩透かし。「3つ(?)大きなウソがあります」とか言われたのだけれど、私はよく判らなかった。一つ種明かししてもらったところでは、112工場製車輛として製作したものの、実際のこのマーキングの車輛はよく見たら112工場製ではなかったらしい。

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同じくKakudouさんの英装甲車3題。Miniartのダイムラー・ディンゴ、ブロンコのハンバー・スカウトカー、ゲッコーのダイムラー装甲車。

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昨年末の東京AFVの会の折(会終了後の飲み会)でも見せてもらった、ケン太さん製作中のフジミのミニスケールJS-2。リアパネル周りとか、細かくヒンジなどディテールアップされていて、未塗装のこの状態が美しい。が、年末からどこが進んでるの、これ(フェンダーとかいじってるよ!と言われた)。

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ミカンセーキさんは、参加に向けて急遽完成させたという、ドイツ軍のモバイルトーチカ(輸送状態)。その筋(?)では有名なRPM製のインジェクションキット。M.Nさんからのもらい物? バーリンデン製のレジンキットも持っているとかで、そちらはいずれひまわり畑の中に設置された状態で作る由。

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むーさんの日本陸軍の牽引車。ピットロードのメタルキット。今は同一アイテムがインジェクションで出ているとかで、「作るならそっちを」と言われる。いや、作らないけど。

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野田君に、「何か作ってきたのー?」と尋ねたら、「コレですよコレ」と言われたイタレリのセモベンテ。車内はほぼスクラッチだとか。砲弾ラックの形状とか、飼料不足でとにかく苦労したらしい。ちなみに今回の横浜AFVの会、人気投票の際の予断を防ぐためか、作品カードにはエントリーナンバーは書かれているものの、作者名の欄がない。

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●ほか、知り合いでない方々(たぶん)の作品。

ルノーFTはタコムの1:16。仕上げも綺麗で丁寧で、何か賞も貰っていた。作者はだいぶ若い方。しばしFT話を楽しんだ。

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こちらは圧倒的迫力の1:35ドーラ。これも賞を貰っていた。キットはABS樹脂製だとか(その後、現行キットではスチロール樹脂に代わっているらしい)。いや、何樹脂だろうと普通の人には(製作スペース的にも保管スペース的にも値段的にも労力的にも)手に負えないよね?

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ランチア1ZM装甲車。当然、カッパーステイトのキットなのだろうと思ったら、久しぶりに名前を聞くKMR製レジンキットだった。KMRはレジンキット草創期のメーカーで、とにかく「出来の悪いレジンの塊」キット揃いだった記憶がある。よく、今になって作り上げたなあと感心。

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クロアチア軍のT-55? たしかMiniartのチェコ製車体のキット? もう一つはタミヤのAMX-13。特に何がどうということもなく、実車写真では(角度的に)あまり見ない、上面の丸型ファンが可愛かったので。戦後物の作品は当然、それなりに多数あったのだが、写真はこれしか撮っていなかった。

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ベルリン戦の雰囲気のソ連203mm榴弾砲ジオラマと、中国戦線のジオラマ。ジオラマ作品もそれなりにあったが、やはりあまり撮っていなかった(ミカンセーキさんのトーチカ、列車砲ドーラも一応ジオラマだけれど)。

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イースタンのSU-152。一応、組作品の体のランカスターとタミヤ48の救急車。私のアルビオン装甲車も、48のハリケーン(の一部)あたりと組み合わせたい気はしているのだが、実際にそこまでやり遂げる気力が出せるかどうか。

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と、あれこれ見ていて、当然、人の作品の鑑賞も楽しいには楽しいんだけれど、やはり自分でも何か作品を持っていかないとイカンなあ、と思う。……いや、毎回そう思うんだけれど。

●会終了後、ミカンセーキさん、ケン太さんと飲みに行く。ケン太さんの奥さんが気に入っているとかいう店で、日本酒を飲んで焼き鳥・焼き豚ほかを食べたり。さらに喫茶店でコーヒーを飲みつつあれこれ駄弁って解散。

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覚えているコト、忘れるコト

●昨秋以来、ずっと楽しみに観ていたアニメ、「葬送のフリーレン」がついに最終回。

原作マンガは出版社サイトの「試し読み」くらいしか読んだことがないが、アニメは実に緻密に作り込んであって、細かい部分でアニメオリジナルも多いらしいが、それが自然に、話に深みを持たせている感じ。絵も美しい。

以前、「SPY & FAMILY」が好きで観ていると兄が言っていて(その時に、えっ、兄はアニメ観るのかー、と、今更ながらちょっと驚いたくらいだが)、それならばと、先日会ったときにぜひフリーレンをと薦めてみたのだが、「観てる! あれと『薬屋のひとりごと』だけで、amazon primeにカネを払ってる価値がある!」と、食い気味に返答された。……うわ。観てるラインナップが一緒だよ。

勇者一行が人類の宿敵たる魔王を撃ち滅ぼし、その勇者もまた年老いて死んだ後に、勇者一行の魔法使いで果てしなく長命のエルフであるフリーレンが、かつての魔王討伐の跡を辿るように旅をする――というのが「葬送のフリーレン」の物語の大筋。魔王軍の残党と戦ったり、魔法使いの昇格試験を受けたりといった折々のエピソードはあるが、全体として「記憶」というのが重要なテーマになっていて、それがなんとも切ない。

あー。早く二期制作決まらないかな。

●母の納骨も10日に終わり、銀行口座の整理等々は兄任せなので、とりあえずは一段落。少し、母のことを思い返してみる。

父が亡くなって、母は長く実家に一人暮らしだったので(最後の何年かは兄が同居してくれたが)、おおよそ月一回頻度くらいで泊りがけで顔見世というか、ご機嫌伺というか、母に会いに行くのがルーティンだった。

特に何をするというわけでもなく、一緒に夕飯を食べ、とりとめなく話をしたり、見るともなくテレビを観たりして、一泊して帰るだけのことだったが、そんな徒然に、母の若い頃の話を聞くことが増えた。父も母も、あまり昔語りをする人ではなかったので、晩年になって初めて聞く話も多かった。

・これは近年になって母から聞くようになる以前の話だが、何かの折に、母の小学校時代の集合写真が出てきたことがあって、全校生徒?が20人程度だったろうか、その中で靴を履いているのが母を含め数人だけだった(あとは裸足)。「うわあ、『ド田舎のお嬢』だったんだなあ」と思った。

・子供のころから体が弱く、「二十歳まで生きられない」とまで言われていたのだそうだ。少しでも精を付けようと、祖父がウナギをよく食べさせていたとかで、無理に食べさせられたので「ウナギは嫌い。もう食べたくない」と言っていた。「夕飯、何か買っていくよ、何がいい? ウナギとか食べる?」と尋ねた時に、そう教わった覚えがある。

・田舎の旦那というのはそういうものなのかもしれないが、祖父は、祖母の生前に、すでにお妾さん?がいて、戦時中、すでに腹違いの妹が二人いた。母はそれが癪でたまらず、機織りをしているお妾さんのところに、大きな石を抱えていって、織っている最中の反物に投げつけて台無しにしたことがあったそうだ(←体の弱い娘がすることか?)。祖父はかわいがっている長女のしたことだからか、引け目もあってか、「そんなことはするものじゃない」と弱弱しく言うばかりだったとか。私の覚えている祖父は頑固で我儘な爺さんだったが。

・祖父は「島一番のウタシャ(唄者)」と言われるくらいの島唄の名人で(と言っているのはおおよそ親戚限定だが)、若いお妾さんも島唄上手、しかし祖母は島唄が出来なかったらしい。それもあってか、母は島唄が「ずっと嫌いだった」と言っていたが、晩年になって、「……と思ってたのに、この歳になるとやっぱり懐かしい」と言って、いくつか、私がCDで聞き覚えた島唄を逆に私から習って口ずさんでいた。特に「行ききゅんにゃ加那」節が好きで、葬儀の時もCDで流した。

・そんな具合でも、二号さんの生んだ妹たちは母に構ってほしくて、いつも寄ってきたそうだ。母はそのたび、邪険にしていたのだが、祖母(母の実母)は、「そんなに意地悪をするものじゃない、あんたが歳を取ってから、あの子たちのお世話になることもあるかもしれないんだよ?」とたしなめていたとか。母曰く、「そんな目にあっても怒らない、仏様のような人だった」。戦後になって、さらにその下に二人、腹違いの妹が出来たのだが、一番下のH叔母は実家のすぐ近所に住んでいて、いつも様子を見てくれて、食事を作って持って来てくれたり、とんでもなくお世話になった。母は「お母さんの言ったとおりだったよ」と言っていた。

・その腹違いの妹の一番上の名前は「かすみ」で、かくれんぼをするたび、予科練の唄の替え歌で「かすみはう~らんど~(かすみはいないよ)」と歌っていたそうだ。

・祖母は、現在奄美空港のある和野という集落の出身だった(家系としては、さらにその南隣の節田の出だったらしい、というのは前々回に書いた)。太平洋側でちょっと開けた和野よりも、父母の郷里で東シナ海側、島の北端にある集落の佐仁は波も住んでいる人の気性も、言葉も荒く、母はよく、祖母から言葉遣いをたしなめられたという。「佐仁では『はさみ』のことを『パサン』って言うんだけれど、そのたびに、そんな荒い言葉じゃなくて『はさみ』って言いなさい、と言われたよ」とか。まあ、「はさみ>パサン」になる理屈はよくわからんけれども。

・戦前、同郷の父は育ての親に連れられて満州に渡り、奉天(瀋陽 )で奉天商業学校という学校に進んだという。その頃一度里帰りをしているのだが、母曰く、「制服が格好良かった」そうだ。その後父は大学(旧制高校?)受験に失敗して(一度しか受験させてもらえなかった)軍隊に行くのだが、母は父から、文房具とか、本とか(「レ・ミゼラブル」とか、ずいぶんハイカラな本だったらしい)を貰ったそうだ。

・ところが、そういう付き合いを聞きつけた父方の親族の小母さんが、「あんたみたいな身体の弱い娘は、うち(の一族)の嫁にはふさわしくない」とわざわざ文句を付けにきて、母はそれがあまりに悔しく、父から貰ったもの一式を海に(名瀬の港に?)投げ捨てに行ったという(癇癪持ち……)。

・戦時中、母はすでに農協に(事務として)勤めていたそうな。しかし戦況いよいよ思わしくなく、奄美大島にも米軍が上陸してきそうだというので、祖父は、一家で満州に疎開を決意したそうな。母は(二号さんと一緒に?)行くのが嫌で抵抗。「年頃の娘を残していけない」という祖父に対し、「では嫁に行っていればいいのか」と、勤め先の上司の紹介で、その弟?と電撃婚して残留することになったのだという。ちなみにお相手は、すでに出征していて、しかも帰ってこなかったので、母は「会ったことも話をしたこともない」そうだ。

・戦時中、母は田んぼ?畑?の畔で、「グラマンに追いかけられた」ことがあったそうだ。もちろん、母にグラマンだのノースアメリカンだのの見分けがつくはずもなく、おそらく、当時の一般の日本人として「敵機=グラマン(あるいは、せいぜい単発機ならグラマン)」くらいの認識だと思う。

・ちなみに母の(同腹の)弟妹は、長男(母のすぐ下の弟)が(現在の)北朝鮮で学校→そのまま徴兵→ソ連軍の収容所、次女は鹿児島で女学校、三女は祖父と一緒に満州に。小学生の次男と祖母が、母と一緒に島に残ることになった。しかし、(これまた体が弱かった?)祖母は終戦前に若くして死去。小学生の弟は、終戦直後に小学校で起きた(子どもが拾ってきた)不発弾の事故で生死の境をさまようことになる(運よく生き延びた)。

・一方、満州に逃げた祖父らは、逆にソ連侵攻に伴う大混乱に巻き込まれることになる。腹違いの妹二人は、逃避行の最中に熱を出し、病院に連れて行って一晩泊めてもらったところ、翌日には「もう死んで埋めた」と言われ、追及するすべもなく泣く泣く諦めたとか。残留孤児として、どこかに貰われていった/買われていった可能性が高そう。

・終戦後、奄美大島には米軍が進駐してきて、沖縄同様に占領統治下に置かれる(1953年、沖縄より約20年早く復帰)。母は洋裁ができたので、駐留米将兵と付き合った女性たちの服を仕立てて大儲け。それで資金を貯め、密航で日本本土に渡ったのだという(おそらく、祖父たちはまだ帰国していない)。漁船の底に身を潜め、昼間は途中の島の入り江に姿を隠し、夜の間だけ航行という感じだったらしい。本土に渡ってしばらくは、終戦前から東京にいた親族の家にしばらく身を隠し、その間につてをたどって住民票を改竄?したらしい(もう時効だよね?)。なお、生死の境から生還したばかりの年少のK叔父はどうしたのか尋ねたが、「どうしたっけね?」と、ずいぶんいい加減な答だった。まあ、島に残った親族を頼ったとかなのだろうけれど。

・戦後も東京で洋裁で食べていたが、ある時、偶然に父の実母と再会。インパール戦を生き残った父は、復員してその頃はたぶん横浜に住んでいたはず。「**ちゃん(母)が東京に出て来てるよ」と教えられた父と再会し、その後なんだかんだの末に結婚。

なんつーか、波乱万丈の戦中戦後史だなあ。

こんなところに母の個人史を書いても誰の何の役に立つというわけでもなかろうが、私自身、たぶんこれからどんどん忘れていくと思うので、とりあえず備忘録的に。

それに、改めて思うが、以上のあれこれは「母がそう覚えていたこと」を、それまた私が伝聞で(おそらく記憶違いも含めて)文章に直しているので、どれだけ正確かは怪しい。誰の物語であってもそうだが、人から人に伝わっていくだけ、たぶんどんどんと「聞き手の解釈」が加わって、中身は変質していく。もちろん、私の母は偉人でもなんでもないので、その個人史が変容を気にするほどこの先伝わっていくこともないだろうが、記憶している私の中でさえ、その時々の解釈で変化していくかもしれない。いずれにしても、「まあ、記憶って、そういうもんだよね」以上の何物でもないのだけれど。

●相変わらずのプレッツェル(ブレーツェル)行脚。

前回「今までで一番イメージに近い」と書いた新橋「le petit IMBISS(ル・プティ・インビス)」のプレッツェルだが、その後、もう一度買ったら、最初から防湿の紙袋に入れられていて、そのせいで湿気がこもって外皮がペタペタしていた。どうも「ラウゲ液処理」の関係で、「湿気るとベタベタになる」のは宿命であるらしいが、「買い食い」用途で考えると、ちょっとこれはがっかり。売り方にもう少し注意を払ってほしい。

(1).成城石井で、ドイツから輸入されたパンタイプのプレッツェルが2個入り・380円(だったかな?)で売られていた。ビニール袋入りなので、そのままではやはりベタベタしているのだが、こちらは持ち帰り前提で、食べる前にオーブントースターで軽く焼くとよい感じになる(「le petit IMBISS」のものもちょっと焼き直せばいいのだろうが)。

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おそらく保存の関係上、塩粒を表面にまぶすと溶けてしまうためか、「全体に軽く塩味を付けている」感じ。中のみっしり/もっちり感もよく、値段を考える(他の「パン屋のプレッツェル」と比べると1つあたりでは最安値)とかなりオススメ。

(2).上記「le petit IMBISS」に、ややミソがついた一方で浮上したのが、新横浜の「Champs de Blé(シャンドブレ)」のプレッツェル。1つ200円で、「パン屋のプレッツェル」のなかでは最安値(去年秋までは、鎌倉Bergfeldのプレッツェルが190円だったが)。ただし、大きさは「le petit IMBISS」や成城石井のものに比べて一回り・二回り小さい。

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他の店では、生地のもっとも太い部分(開口部があるところ)に重点的に塩粒をまぶしてある場合が多いが、ここのプレッツェルはまんべんなく散らしている。皮のしっかり感、中身のみっしり感ともに良し。ただちょっと納得が行かないのは、「なんでフランス語の店名のお店のプレッツェルが暫定一位?」(「le petit IMBISS」 も半分フランス語だ)。

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完成しないダンジョン

●題名は模型友みやまえさんのサイトのコンテンツの丸パクリ。

●特に完成を目指しているわけでもなく、ただ無心に「模型をいじりたい」という衝動に見舞われることがよくあって(特に何かしらの用事で心身が慌ただしい時)、そんなネタの一つとして、現在、エレール 1:72のモラン・ソルニエ225をいじくり中。

キットに関しては、以前に、記事「ポテかポテーズか」でごく簡単に紹介したことがある。以下、若干重複するが、改めて。

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箱は潰れてボロボロ。1980年代の黒箱になるまえのキャラメル箱。キットは、scalematesによれば1967年に初版発売。表左下の「メーカータグ」的な部分に「Heller Echelle 1/72eme」と書かれているのは、1969年の第2版であるらしい。

裏側には「DANS LA MÊME SERIÉ(同一シリーズ)」として当時すでに出ていたキットが並んでいるが、1:75のアルカンシエル、1:40のスパッドVIIなども入っているから、単純に「シリーズ=飛行機キット」くらいの意味しかない。下に書かれた「DE NOMBREUX AUTRE MODÈLES A PARAITRE」は、おおよそ「新製品続々登場予定」といった意味。

ちなみにこのキットは、今世紀に入ってからも、まだチェコのSMĚR(スムニェル)から販売されている(本家エレールの方では、現在では絶版状態のようだ)。

実機は、上の箱のキット名称では「MORANE 225」となっているが、より詳しく書くと「Morane-Saulnier M.S.225」。戦間期のフランスの機体で、当時のフランス式分類記号では「c.1(単座戦闘機)」。第一次大戦末期から戦間期の一時期に掛けて、モラン・ソルニエがこだわっていたパラソル翼の一連の機体のうちのひとつで、1932年に初飛行している。

英語版wikipediaによれば、「開発中のより高度な航空機の導入前の一時しのぎとして作成された」機体だそうで、そのため生産機数は75機と少な目。そんなのを、よくもまあキット化したもんだ。53機が空軍に、16機が海軍航空隊に納入され、3機が中国に輸出されたらしい。3機は行方不明?(普通に考えると、テスト用にメーカー側でキープされたとか、そんなところだろうが)。

……というようなことを聞くと、私としては中国仕様で作ってみたくなるのだが、ネット上には根拠が不明な塗装図は2例ほどあるものの、実際の写真は見当たらない。どなたかこ存じの方がいれば教えて下さい。

●ちまちまいじって、現状、主要パーツ群は以下のような感じ。

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エレールは自国の誇りに掛けて戦間期のマイナー国産機のキットを精力的に出していたが、このキットは同社72の中でも比較的初期のものとあって大らかというか、再現度も「プラモデルとしての出来」もイマイチ。かといって、カリカリにチューンするほどの資料も気力も足りていないので、「どうしても目に余る」部分を訂正しつつ、若干なりと「シュッとした」状態に持っていく、程度の工作を目標とする。

しっかり製作記等を書くつもりもなかったので、いじったパーツのbefore状態の写真を撮っていないので、どういじったかの比較はできないが、以下、主に手を入れた部分など。

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主翼は外翼部上面が別部品。そのパーツ分割線がエルロンの前辺と外側を兼ねているのだが、内側の切れ目はなく、しかも主翼下面に至ってはエルロンの影も形もない。というわけで、上面の内翼・外翼間の接合線を消すとともに、エルロン内側・外側にエッチングソーで切れ目を入れた。下面はエルロン前辺をスジボリ。下面のエルロン・主翼間は若干リブの山をヤスって、「エルロンと主翼はきちんと別ですよ~」感を若干プラス(どうせ裏なので気持ち程度)。

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水平尾翼は、安定板と昇降舵の分割線が間違えている。キットでは昇降舵外側分割線が後ろ側(赤矢印部分)にあるのだが、実機は前側(黄色矢印部分)で、要するに昇降舵にデカいバランスホーンがある形状。というわけで、後ろの溝は埋めてリブ表現に。前側には切れ目を入れた。

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コクピット内は、キットのパーツとしては床板、椅子、操縦桿があり、古いキットとしては「まあ、マシ?」な感じ。とはいえ、オープンコクピットで、中を覗いてそれだけだと寂しいので、両側にフレームを付けた。あとは若干の機器類、計器盤、フットペダルくらいは足そうかな。

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カウリングは、キットのパーツのままだと「円筒形+前面」くらいの感じだったが、実機はもうちょっと、前半部で緩やかに絞っている感じなので、適当に削り直した。もともとパーツには変な梨地モールドとかパネル分割表現とかタガとかのモールドがあったが、その辺も一旦全部削り落とした。カウリング前面は排気管で、左右に排気口がある。キットは「ただの穴」状態だったので、プラペーパーを突っ込んで、なんとなくそれらしく。

エンジンは、向きを決めるダボなどなかったので、シリンダーが「Y」状態になるように付けたが、実際は逆(真上にシリンダー1本が来る)かも。

木製2翅のプロペラは、ブレードの片側がほぼ直線、もう片側がゆるくカーブしている。キットは直線側が前縁になっているのだが、実機ではカーブを描いているほうが前縁なので、キットのプロペラの軸部を切り取って、表裏をひっくり返した。

昔々、とある模型誌で、「キットのプロペラのピッチが逆なので、表裏逆にして取り付け」という記事を読んだことがあるようなおぼろげな記憶があるのだが、表裏逆にしても、ピッチは逆にならないよね……。記憶違いかなあ。

●と、いじってはいるものの、そのまま完成まで突き進む気力がいまいち湧かないのは、

  • 前記のように、生産機数があまり多くなく、塗装バリエーションに乏しいこと。
  • そもそも徒然にいじっている古キットに別売デカールなどを奢る気にもなれないこと(かといって、キットのデカールは今でもちゃんと使えるかどうか怪しい)。
  • さらに胴体前半+カウリングは金属地、しかもどうやら胴体前半側面は、細かい三角の整然とした磨き模様付きなので、塗るのが面倒。というよりも、そもそもどう塗ったらいいかも考えたくない感じ。

などによる。

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ベッカライ

●1月末日、母死去。

未明、入所している施設からの電話で知らされる。

その何日か前に、脚にチアノーゼが出ていると知らせがあって慌てて面会に行き、それなりに覚悟も出来ていたことではあるけれども、その一方で、頭の片隅では、昨年正月早々に転倒して骨折して手術、入所以来、何度も「いよいよ危ない」的なことを言われて持ち直してきた実績があって、今度もなんとなく乗り越えそうな、みたいなことも思っていた。

この一年は、こちらのこともよく判らない状態で、ほとんど会話もできなかったけれど、とにかく、最後は痛くも苦しくもなかった様子だし(夜半の見回りで死去していることに気付いたそうなので、本当のことは知りようがないけれども)、年齢(101歳)を考えると胸を張って(誰にだ?)大往生と言えると思う。

もう、母の周りの友人と言える人たちや、同年代の親族なども軒並み亡くなっていることもあって、ごく近しい身内――兄・甥と私・妻・娘と三人目の息子扱いのドイツ人P夫婦、母の一番下の叔母夫婦、母方の従弟妹2人だけで小ぢんまりと告別式も済ませた。あとは来月頭の納骨を待つのみ。

●ひとつ文句を言いたいことがある。

母がまだ元気なころに言っていたのだが、戦時中に若くして亡くなった母の母(私の祖母)が、今際の際に「節田からお迎えに来たよ……」と言い残して逝ったらしい。節田というのは現在、奄美空港があるちょっと南あたりの集落。祖母の実家はもともとその節田という集落の出だったらしいというのを、母自身がその言葉で初めて知ったのだとか。

それはそれとして。

母はそれを根拠に、「これから死んでいく人は、必ず何か一言言ってから逝くものだ」と決め込んでいて、父が亡くなった後、しばしば「何も言わないで勝手に逝った。薄情なんだから」とブツブツ文句を言っていた。

そこまで言うからには、きっと本人は、たとえその場にいなくとも、夢枕かなにかで一言知らせてくるだろうと密かに期待していたのだが、何もなかった。機会があれば「ちょっとどうなのよ」と詰問したいが、流石に現実世界の地球上に「魂の眠る地オレオール」は探し出せそうにない。

まあ、実は私が眠りこけていて気付かなかった、などということなら逆に申し訳ないが。

●そんなこんなで、がっつりと模型製作に取り組む精神的余裕もちょっと失くしていたのだが、現在はちょっと持ち直して、「なんとなく漫然と手を動かせるネタ」として、エレール 1:72の古いキット、モラン・ソルニエMS225と、ハセガワ 1:8、ル・ローン・エンジンをいじっている。製作記については、気が向いたらそのうちに。

●プレッツェル行脚、なお続く。

スナック・タイプのハード・プレッツェルについては、身近に確保ルートがあるフーバーのプレッツェル(HUOBER社のSCHWÄBISCHE KNUSPERBREZEL――直訳すると、シュワーベン風さくさくブレッツェル)が私の中ではスタンダード認定されていて、それで満足。

しかしパン・タイプのソフト・プレッツェルは、なかなか「これだ!」というのに出会えない。最初に食べた鎌倉ベルグフェルトのものが結局はイイ、というところで落ち着きかけたが、何度か食べているうち、「もうちょっと身にみっしり/もちもち感が欲しい」と思うようになった。決してドイツ人Pの「穴の大きさが……云々」に流されたわけではない。

もちろん、本場のドイツの「ブレーツェル」を知っているわけではないし、本場のものも店によってあれこれ違いがあるだろうから、当然、私自身の勝手な思い込み基準で探しているだけなのだが、ここ最近は、ついに「どこかに出かけたついでに、近くにプレッツェルを扱っているとネットに出ているパン屋があれば、わざわざ足を延ばしてみる」までにハマってしまった。

ところが、これがなかなか打率が低い。

文京区湯島のドイツパン専門店、「ベッケライ・テューリンガーヴァルト」に行った時には運悪く売り切れ。田園都市線・江田駅近くのオーストリア菓子屋の「ナッシュカッツェ」に行ったら、折悪く店主?が手を怪我していて生地の成形できないとかで生産休止中。新横浜の「シャンドブレ」もこれまた売り切れ。

Img20240208164451 っていうか、あるかどうか確かめてから行けよ!と、我ながら流石に反省して、金沢八景駅前の「ベーカリーハウス・アオキ」には電話。「ありますよ」というので取り置きしてもらって行ったら、

プレッツェルという名前の、プレッツェル型の菓子パン

だった。生地も全然別物のデニッシュ系で、それに大量のアーモンド・スライスと砂糖コーティング。

実際、その手のもの(名前だけプレッツェルの菓子パン)がこの世に存在していることは知っていたのだが、この店に関しては、普通のプレッツェルの写真がネット上に出ていたので油断した。

「あっ……こういう“プレッツェル”ですか……」

と、出されたときに思わず言ってしまい、「え? あの、違いましたか?」「いえいえ、大丈夫です」なんて問答をしていたら、奥から店主?が出て来て、「もしかして、塩味の(正統の)プレッツェルをお求めに?」と尋ねられた。

曰く、「しばらく前まで、正統のプレッツェルも作っていたが、そちらは製造過程で劇薬を使う(焼く前に水酸化ナトリウム溶液にくぐらせる)ため、別に許認可が必要になってしまい、面倒で今は作っていない」由。

「だから、作っているお店があまりないんですよ。プレッツェルをお求めなら、ベッカライという名前の付いているお店に行かれるといいですよ」と教えられ、またその一方で、「わざわざ来ていただいたのに済みません」と謝られた。ちなみに、菓子パンのプレッツェルは、それはそれで普通に美味しかった。

前出の湯島の「ベッケライ・テューリンガーヴァルト」もそうだが、「BÄCKEREI(ベッカライもしくはベッケライ)」はドイツ語で「パン屋」の意(英語でいうベーカリー)。つまり、それが付いているお店はおおよそドイツパンの専門店と判断できる。フランス系のパンを多く扱う店が「ブーランジェリー」を名乗るのと同様。

●もっとも、その後ネットで検索すると、「ベッカライ/ベッケライ」を名乗る店でも、意外にプレッツェルは扱っていなかったりすることも判明。例えば大船の観音さんのちょっと向こうに「ベッカライジーベン」(カンプグルッペかっ!?)というドイツパン屋さんがあるらしいのだが、電話してみたところ「ウチでは扱っていません」と言われた。まあ、何はともあれ「これからはもっとちゃんと調べてから行こ……」と思ったのだった。

というようなこともありつつ、最近の戦績。

(1).鎌倉、御成通りの「ロティガール」のプレッツェル。

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存在はちょっと前から知っていたものの、以前紹介した鎌倉駅の「Delifrance 鎌倉店」同様、太い部分にバターのフィリングの「ちょっと贅沢」系で結構お高い(500円)ため、試すのは後回しにしていたもの。いやまあ、美味しいけどね。

(2).新橋駅、ecute内の「le petit IMBISS(ル・プティ・インビス)」のプレッツェル。ドイツ風の「ちょい飲み屋」なのだが、なぜか店名はフランス語とドイツ語のちゃんぽん。プレッツェル等はテイクアウトもしていて、しかも(bergfeldほどではないが)お値段も比較的リーズナブル(プレーン:330円)。最も最近(土曜日)に、神保町に行くついでに寄って買ったもの。チーズコーティングのものもあったのでついでにそちらも。

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ラウゲン液(水酸化ナトリウム溶液)処理由来の革靴のような皮の色艶と硬さ、中身のきめ細かなもちっと感など、今まで食べた中では「おお、これが一番オレ的プレッツェル・イメージに近いかも」感あり。

……ロケーション的にも寄りやすいので、今度また食べよ。

●つい最近買って読んだ「ハクメイとミコチ」最新刊(第12巻)に、とある本の中に、まるっきり曖昧な描写で登場する「キュウリ・サンドイッチ」を、ハクメイが味を想像して試行錯誤する話が出てくる。当然、実物がどんなものだかは全く不明で、ハクメイは「自分が想像したソレ」を求めているだけ。ああ、オレのプレッツェル行脚って、まさにこれだなあ、と思った。

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II号戦車a2型 IBG 1:35(4)

●もはやレビューというより半ば製作記に足を突っ込んでいるが、IBGのII号戦車a2型の気になりポイントの続きと、その修正作業など。

とりあえず現在は、車体基本形を組み上げたあたりで、その時点での気になりポイント/手入れポイントをランダムに。

●戦闘室の部品分割はタミヤのII号戦車(ポーランド、フランス戦線)とほぼ同様で、周囲の縦の面は一部を除いて別部品。実車では接合ライン(溶接線)はエッジにあるが、キットでは上面に接合ラインが来てしまうので、なるべく丁寧に消す必要がある。近接して吊り下げフック基部のモールドがあるので、それを避けて消すのがちょっと面倒。

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レビューの前回で書いたように、戦闘室右側のフェンダーステイは、車体側付け根部分に若干の変形があった。

前方ステイの付け根は埋めたり削ったりして修正。後方ステイは、キットでは前方と同形状だったが、一度削り落として大型のものに作り直した。

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どうもこの後方ステイの形状や位置には、型や時期で微妙な変更があって、b型以降はもう少し前方にあるらしい。a型の場合は戦闘室とエンジン部カバーの接合部くらいにある。ステイの根元は、キットのモールドでは戦闘室側にかかっているのだが、当時の実車写真では戦闘室側よりもエンジンフード側にかかっているようにも見える。確証無し。

また、トラクツの図面によると、フェンダー側の取付ベロは後方にあるように描かれているが、キットは前方ステイと同様に前側にある。これに関しては、当時の実車写真ではよく確認できないし、そもそも修正するとフェンダーパターンの再生など、非常に面倒な作業になってしまう。というわけで、ステイ本体の形状は修正したが、位置とベロの向きはキットのままとした。なお、b型以降のステイのベロは後方も前側にある模様。

●エンジンルーム側面の通風孔は、保護ロッドが単純な板状モールドになっているので、一旦削り落とし、金属線で作り直した。

また、エンジン点検ハッチは、周囲に隙間があるのは実車もそうなのだが、キットはちょっと開きすぎな感じなので、ハッチ側にプラバンを貼って狭めるとともに周囲の溶接線を付け加えた。

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●車体前部ハッチは、キットは表面がつんつるてん。本来は鍵穴ほかロック機構関連と思われるディテールがあるので、なんとなくそれらしく追加。

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●II号戦車a~b型の前端マッドフラップは、フラップ本体とヒンジが離れた位置にある、ちょっと謎の構成。なんで単純に継ぎ目に蝶番じゃダメだったんだろう……と思ったが、改めて考えて謎が判明。あ。これ、跳ね上げた際に前照灯をまたぎ越すようになってるんだ。

キットでは、この周辺は比較的細かく部品分割されていて、それなりに表現しようという努力は認められる。

しかし、フェンダー内側パーツ(左写真)は、可動部との継ぎ目がないうえにスプリング付きストッパーのモールドもやや貧弱。可動部を貼り増す形で手を入れた。

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可動部内側面(白いプラペーパーで追加した部分)は、パンツァートラクツに掲載されたマニュアル図(p8)では、写真に追加した黄色矢印部に切れ込みがある。尾藤満さんのa2型工作でもその切れ込みは再現されているが、当時の実車写真では、写真それ自体が不鮮明だったり、寄りの写真がなかったりで、存在がはっきり確認できなかったので、私は切れ込み無しとした。

しかし、よくよく考えると、この切れ込みは、跳ね上げた際に後方のフェンダーステイと当たる部分を窪ませることでより深く倒すために付けてあるのかも。そう考えると、「あって当然」にも思えてくる。

また、ついでに前照灯の配線も追加した。

なお、車体前端曲面部にある小さな点検パネルは、a型では取付ボルドが6本、b型以降では2本……というだけでなく、b型以降は一段出っ張っているのに対して、a型ではほぼツライチになっている。

●車体後部の無線手ハッチは、増加試作型(a~c型)では2分割。

a型では通風孔に中央の保護バーがないようなので、キットのパーツのバーのモールドをくりぬいた。そのままがらんどうの車内が覗けてしまうと情けないので、適当に隔壁を入れたのだが(左写真)、よくよく資料を見直したら、通風孔は筒抜けではなく直下にシールドがあるようなので追加。そりゃまあそうだわな。隔壁工作はまるで無駄。

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なお、このハッチのパーツは、キットの説明書では戦闘室後面パーツ(P18)の取付前に付けるように指示されている。私は、前記の接合線消しの都合もあって先にP18を付けたのだが、そうすると、クラッペのモールドが干渉してハッチが入らず、無理矢理ねじ込む羽目になってしまった。そのせいで、ハッチが微妙に歪んでしまった。

それにしても、実際にこのようなレイアウトだと、実車でもハッチがうまく開かないはず。本来はクラッペがもっと薄くて干渉しない? あるいは、ハッチ前端の形状が、実際にはちょっと違う? どうもよく判らない。

●フェンダー後部ステイは別部品(G7、G8)。

パーツそれ自体にピタッと位置を決めるダボなどはないが、L字の内側をフェンダーにそのまま沿わせるのではなく、やや間隔を開ける。でないと、外側端が飛び出してしまうので判ると思うが。

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なお、説明書ではこのステイに重ねて牽引用リングの部品(U4)を取り付けるよう指示があるが、実車では当初、このリングはなく、後々の追加装備の様子。また、このパーツはステイ付け根のボルトを共用して取り付けられているようなので、(説明書には書かれていないものの)ステイ付け根のボルトを削ってから付けるものではないかと思う。

●誘導輪基部は、基部パーツの中心に車軸が付いた形状になっている。

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しかし、実際には車軸はこの基部パーツの中央から偏心していて、この部分を回転させることで誘導輪位置を変えて履帯張度を調整する仕組みになっているはず。

もっとも、組み上げてしまえばほとんどわからないうえ、現在の車軸位置で、トラクツの側面図とほぼピッタリの位置に誘導輪が来るようなので、特に移動などはせず放置のつもり。

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