改めて披露山(後編)

●軍事遺構としての披露山公園の観察記オマケ。

長くなったので、前編に貼った終戦直後および現状(2014年)の航空写真比較を再掲しておく。繰り返しになるが、写真は国土地理院地理空間情報ライブラリー、「地図・空中写真閲覧サービス」より。終戦直後のものは1946年2月に米軍が撮影したUSA-M46-A-7-2-84、現況は上写真と同じCKT20141-C5-8より切り出し・加工。

Usam46a728402 Ckt20141c5802a

披露山公園山頂広場は写真のように南北に細長いが、3つの高角砲台跡(⑤花壇、⑥展望台、⑦猿舎)がほぼ同一レベルにあるのに対し、猿舎より南の海側は、1段低くなっている(1~2m程度?)。

●公園南端から、逗子湾側を見下ろす(下左写真)。

20170708_150021 20170708_150130

逗子湾との間にまだ山並みが少々続いているため、こちらも鎌倉側同様、湾奥(逗子海岸)は見えず、わずかに湾口と、その向こうの葉山の海が見える程度。やはり海岸線防衛用途は考えていないようだ。

右写真。南端近くにはベンチと、元は藤棚かバラ棚かだったのだろうが、現在はワクだけになった展望スポットがある(⑨)。写真左端に見えているのは猿舎。写真中央に写っている木立の位置には、終戦直後の写真を見ると、何か小さな建物があるのが判る。監視所分室のようなもの、あるいは兵員の詰め所か。

20170708_150742 20170708_150800

その場所には、現在、水道施設の小さな建物がある。建物自体は古いものではなさそうだが、一段掘り下げてコンクリートで作ってある土台部分は高角砲陣地時代のもののように見える。

●山頂広場から西側への遊歩道を降り、披露山庭園住宅を挟んで向かい側には、大崎公園がある。披露山山頂よりは一段低い場所にある。

20170708_161450

この表示を見ると、披露山公園の山頂広場より15mちょっと低い。下写真2枚は、大崎公園から見た披露山山頂を見上げたもの。

20170708_161216 20170708_162105

左写真中央に披露山公園展望台、右写真中央に山頂広場突端のベンチ周りの「ワク」が見える。

披露山山頂より低いとはいえ、こちらのほうが海に突き出した岬の真上にあるので見晴らしはよく、逗子湾も一応砂浜が(全部ではないが)確認できる。

20170708_162057

ちなみに、大崎公園突端あたりは昔は「よばわりやま」と呼ばれたそうで、岬の上から魚の接近を見張って大声で知らせたのだという。逗子市教育委員会発行の「逗子市内の地名調査報告書」(1998年)には、

昔は「ヨバワリヤマ」から知らせが来ると、かじきまぐろなどを突きん棒でよく獲ったものです。

という回想が載っている。

このサイトによれば、この大崎公園の場所にも、披露山山頂の高角砲陣地と関連して、聴測所等があったらしい。もっとも、披露山山頂ほどの旧軍事施設らしい痕跡は見当たらない。

よくよく探すと、当時のものであるらしい、何かの機器か機銃の台座の可能性もあるコンクリートの小構造物(の残骸)があるそうなのだが、今回は(そこまで本気で探さなかったので)見つけられなかった。

●なお、この大崎公園西側(小坪漁港側)の崖下には、大戦中のものかと思われる壕がいくつか開口している。写真は何年か前に撮ったもの。

F1030105 F1018321 F1018323 F1018324

最後の写真に見るように、これらの壕は奥でつながっているらしい(オオゲジ等がワサワサいそうな気がするので入ったことはない)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

改めて披露山(中編)

●逗子市立披露山公園、元・小坪高角砲台レポートの続き。

ちなみに(前回書かなかったが)、この披露山山頂は現在の住所で言えば「逗子市新宿」であって「逗子市小坪」ではない。それがなぜ「小坪砲台」なのかと言えば、昭和18年まで新宿は小坪の一部(東小坪)であったため。

●入口から数えて2番目の砲台跡である展望台(前回現況航空写真の⑥)。

20170708_145237 20170708_145145

ただし前述のように、小坪高角砲台には3基分の砲台跡があるものの、実際には12.7cm連装高角砲は2基しか配備されず、この展望塔になった場所には、探照灯か測距儀か、要するに高射砲の「周辺機器」が据えられていたらしい。

ちなみに小坪高角砲台は日米開戦前に建設されているが、なかなか砲は配備されず、一度決まった砲が軍艦に回されてしまったりして(もともと12.7cm連装高角砲は艦載用途なのでそちらが優先されたものか)、実際に配備されたのは1942年6月になってからだった由。その2カ月前にはドーリットルによる日本本土初空襲があったから、それを受けて慌てて配備したのかもしれない。

さて、展望台は中心の太い柱で支えられ、その柱の両側に螺旋階段を添わせた形状。展望台下の崖側はウッドデッキ(左写真で奥側)、反対側(階段入り口側、左写真で手前側)はコンクリートで地面と同レベルになっているが(階段手前はさらに一段高かったかも)、北側(左写真で右側)一部だけは一段窪んでいる。この窪みの外周が、猿舎と相似の傾斜面になっているのは、hnさんの記事を読んで改めて気付かされた部分。

展望台階段脇には(東日本大震災後にあちこちに掲示されるようになった)標高掲示があり、この地点(おおよそ山頂広場全体)が92.5mの高さであることが判る。

20170708_145318 20170708_145344

展望台に上らずとも、この展望台下の崖際は披露山山頂広場の中でも見晴らしのいいポイントのひとつ。暑い日の午後、もやっているうえに逆光なのでこんな感じだが、時刻や天候、季節によっては、正面の江の島の向こうに富士山が綺麗に見える。

もっとも砲台の立地として考えると、手前の(現在の披露山庭園住宅の)高台に遮られて小坪湾は見えず、右手中景に出っ張った飯島崎のために鎌倉湾も見えない(さらにその向こうは稲村ケ崎)。もともと12.7cm連装高角砲(四十口径八九式十二糎七高角砲)は対空・対艦両方に使える両用砲として作られたものだそうだが、仮に山頂西端にあるこの場所に砲が据えられていたとしても、こちら側の海からの侵攻への対処は考慮されていなさそうだ(そもそもほとんど俯角が取れないすり鉢砲座になっている時点でそうだとは思うが)。

ちなみに飯島崎の崖面には、まさに対艦の防衛用として、洞窟型の「西小坪海面砲台」が作られていた。この洞窟砲台では、終戦後、地元の子供たちが入り込んで遊んでいる際に未回収の弾薬が爆発、14人が死亡、23人が負傷する事故が起きている。これについては以前にも記事にしている。

20170708_152446 20170708_152433

上2枚は展望デッキの写真。

砲台とは関係ない話だが、デッキ外周の壁が外側に向かって広がる形に傾いているためなのか(加えて、天井が中心に向かってわずかに下がっていることも関係しているかもしれない)、この展望デッキは、「常に自分がいる場所が一番高く、反対側に向けて床が低くなっているように感じる」という、非常に不思議な感覚というか、ある種のだまし絵的不安感を抱かせるものとなっている(最初は、「あれ? この展望台、もしかしたら傾いてる?」と思った)。写真ではうまく伝わらないだろうし、もしかしたら、たまたま私がそう感じただけなのかもしれないが。

もちろん、展望デッキに上がって、遠くの景色を眺めて「うわー綺麗だねー」と言ってすぐ降りてしまえば気付かないままだと思う(それが本来の用途ではあるが)。もし披露山公園においでになる機会があったら、展望台に上って景色とは逆に柱側を向いて確認してみて欲しい。

20170708_151538

花壇および猿舎は、直径12mの「コンクリートのすり鉢」の外側はそのまま地面だが、この展望台だけはさらに1m幅くらいにコンクリートが打ってある。よく見ると、コンクリート表面に点々と穴を補修した跡があり、すわ、機銃掃射の跡か!?と思ったのだが、よくよく形を見ると、どうも犬の足跡のようだ(あるいはもしかしたらタヌキ?)。コンクリートが固まる前に迷い込んだものか。

展望台から落ちる雨水などで周囲がぬかるまないようにとか、そんなような理由で展望台建設時、あるいはその後に追加で打設されたものではと思う。

●3つめの砲台跡である猿舎(前回現況航空写真の⑦)。……ようやく!

20170708_145607

先述のように、コンクリートで作られたすり鉢状の構築物は、ほぼ当時のまま。その上に、ドーム状の金網と、金網から1mほど?離れて柵が設けられている。

20170708_145626 20170708_145708 20170708_145835

猿舎内は2m程度すり鉢状に掘り下げられており、斜めになった周囲の壁面には弾薬の仮置き場か、四角い壁龕が並んでいる。

これまではボンヤリと「要するにこういう形に作った猿舎なんだな」という先入観で見ていただけだが、実際、他の場所の遺構の写真と比較しても当時の高射砲陣地の形状をほぼそのまま残しており、猿舎内も、目立つ変更点は南西側に作られた猿山と中央の水飲み場、さらにその中央の檻の支持柱程度。

自分の立っている側の壁面は見えないので(しかも猿舎の間近に立っていると、この暑い季節、結構匂いがきついので)念を入れて数えてはいないのだが、壁龕の数はおそらく8つ。ただし、8つの壁龕は45°の等間隔ではなく、階段とその隣の四角い小檻のある部分の左右の壁龕は離れていて、その分、他の壁龕間の間隔は45°より狭くなっているようだ。上写真でも、よく見ると一つ置いた壁龕間の角度は直角には足りていないように見える。

20170708_153633 20170708_153613 20170708_151443

この小檻の中の構造に関しては、たまたま猿の飼育員さんがいて聞くことができた。檻の奥は壁龕よりもずっと大きな空間(地下室)になっており、「外に出ている檻の2倍くらい奥行きがある」由。猿舎としてわざわざ小檻を作った理由は聞き忘れたが、小檻の扉は通常は開放してあり、暑い日には猿が地下室に入って涼んでいることも多いそうだ。

砲台当時の用途は、警戒態勢時の兵員の詰め所、もしくは銃爆撃の際の避難所かと思うが、私にはよく判らない。

なお、「すり鉢」周辺は基本は土の地面だが、この小檻(地下室)の入り口付近の上だけは若干コンクリートが露出している。hnさんがレポート前編で引用しているほぼ同形の砲台の戦時中の写真(山口県大津島高角砲台のもの?)では、この「控室」は天井がないので、ここも戦後に天井を被せて地下室化した可能性はあるかもしれない。

20170708_151428 20170708_151435

猿舎内に降りる階段。階段そのものは砲台時代のままのようだが、扉は階段の約半分の幅しかない。猿舎を囲む金網の下にはコンクリートの脚(土台)があるが、これはすり鉢状の砲台の構築物の上に、金網を被せる際に継ぎ足して作ったものと思われる。このコンクリートの脚は、階段部分も(扉の直下を除いて)コの字に囲んでいる。

20170708_151247 20170708_151311

中央の現・水飲み場が、もともと高射砲の砲架が据えられていたところで、元は前回冒頭に貼った猿島の台座跡のように砲据え付け用のボルト列があったのではないかと思われる。

hnさんは「底の部分にコンクリートが全面に敷かれてるのは、戦前にはなかった仕様。」と書かれているが、ここ以外の同形式の高角砲陣地遺構の例を見ても、ある程度広い面積でコンクリート床になっていたのではと思われる。右写真には、水飲み場の外側に何かを取り外したような、鉄製の輪が埋まっているのが確認できる。砲台時代からのものである可能性があるが、正体は不明。

●付け足しのあれこれをあともう一回続ける予定。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

改めて披露山(前編)

●逗子市西北端に近い披露山の山頂一帯は市営の披露山公園として整備・公開されているが、ここはかつて海軍の高角砲陣地であり、円形の花壇・展望台・サルの檻は高角砲の台座を流用している。

――という話は以前から何度かここで話題にしているのだが、これに関し、hnさんがブログで面白い探訪・考察記事を上げていて、改めて興味をかきたてられたので、8日土曜日、散歩がてら出掛けてみた。

●そもそも「高角砲(高射砲)の台座を流用」といったところで、花壇・展望台・猿舎に作り替えるために掘り返してしまい、当時の名残りというのはせいぜい「円形であること」程度なのではないか……と、ずっとボンヤリ思っていた。

要するに、元の状態として、横須賀・猿島の高角砲台座のような状態を思い浮かべていたのである(下写真)。ちなみに、終戦直後に書かれた横須賀海軍警備隊「砲術科兵器目録」によれば、据えられた火砲は披露山(小坪砲台)も猿島も同じ12.7cm連装高角砲(正式な名称は四十口径八九式十二糎七高角砲)であったらしい。なお、猿島要塞探訪記についてはこちら

20170218_121518 20170218_121710

しかしhnさんの記事によれば、特に猿舎は、ほとんど当時の高角砲陣地の原型をとどめているのだという。

猿舎はすり鉢状に2m近く窪んでいて、コンクリートの壁面には8カ所?の壁龕があるが、これは弾薬仮置場ではとのこと。hnさんが紹介しているこちらのサイトでは、山口県にある高角砲台跡(および当時の写真)が載っており、確かに披露山公園の猿舎内と瓜二つ。

これに関しては私が繰り返すよりも、hnさんの考察記事を読んでいただく方が早い。

披露山公園、あるいは小坪防空高角砲台(前編)
披露山公園、あるいは小坪防空高角砲台(後編)

実際にどのような感じに砲が据えられていたのか、hnさんは簡単に図面も起こされていて、これも判りやすい。

改めてウェブ上で披露山の高角砲陣地について検索すると、猿舎がほぼ砲台の原型を保っていることについて言及しているところもいくつかあり、私がそれらを読み飛ばしていただけだった。迂闊。

●そんなわけで、改めて撮ってきた写真を中心にあれこれ。その前におさらい。

以下は逗子市西北部の航空写真(国土地理院地理空間情報ライブラリーの「地図・空中写真閲覧サービス」、2014年9月撮影のCKT20141-C5-8より切り出し・加工)。

Ckt20141c5801a

中央やや右の黄色矢印が披露山公園、中央下のオレンジが大崎公園(後述)、左端上のピンク矢印が西小坪海面砲台跡。

その他の大まかな説明をしておくと、右下の砂浜が逗子海岸。中央の小判型の住宅地が、逗子のビバリーヒルズ的高級住宅地である披露山庭園住宅。他と比べて1軒ごとの建物のスケール感がちょっとおかしい。大崎公園左上が小坪漁港で、その隣の埋め立て地が逗子マリーナ。写真左上端にある岩礁のようなものが、鎌倉時代に船着場として作られた和賀江島

下は、披露山山頂付近のみを切り出し拡大、終戦直後の状態と現在を比較してみたもの。写真は同じく国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」からで、終戦直後のものは1946年2月に米軍が撮影したUSA-M46-A-7-2-84、現況は上写真と同じCKT20141-C5-8より切り出し・加工。

Usam46a728402 Ckt20141c5802a

前述のように、高射砲の台座は3基分作られたのだが、実際の砲は2基しか配備されず、現在展望台になっている場所には測距儀か何かが据えられていたらしい。実際、上写真でも、真ん中のマルは上下とちょっと違って写っており、いくぶん窪みが浅いようにも見える。

●山頂の北東側、一段低くなった平場は、現在駐車場として利用されている(上写真①)。終戦直後の写真に写っているように、この場所には、もともと兵舎と思しき大き目の建物があったらしい。

20170708_144802

駐車場の東側突き当りからは細い山道があり、その先には憲政の神様と呼ばれた尾崎行雄(咢堂)の旧宅「風雲閣」跡がある(その向かい側は三文文士の元東京都知事邸だ)。これを記念して、駐車場中ほど北側には、尾崎行雄の記念碑が立っている。

駐車場の南側からも浪子不動(高養寺)に降りる山道があり、ハイキングコースの案内板が立っている。駐車場からこの道筋を少し降りたあたりに数カ所、コンクリートブロックでふさがれた横穴がある(上写真②のあたり)。高射砲陣地用の弾薬庫だったのではと思われるが詳細は不明。この2枚の写真は1年半ほど前に撮ったもの。

F1014344 F1014341

駐車場から山頂広場に向けてゆるいスロープになっており、その中途にもコンクリートでふさがれた横穴跡のようなものがある(上写真③)。

20170708_144815 20170708_144839

これも弾薬庫だったのか、それともこの上にも監視所・指揮所関連の建物があったようなので、その地下室と連絡していたのか。

スロープを登った右手には現在レストハウスがある(上写真④)が、これは監視所跡であった由。上の建物は新しいが、スロープ側に入口がある半地下はコンクリートの頑丈そうなもので、おそらく当時まま流用されているのではと思われる。

20170708_153326 20170708_144929

●スロープ上から山頂広場を望む。手前に花壇、中央奥に展望塔、左手奥にちょっと隠れて猿舎が写っている。

20170708_145000

まずは花壇(上写真⑤)。二重の縁石に囲まれていて、その間は細いドーナツ状の池になっている。こんなにせせこましい池なのに(公園案内板によれば、3つの高射砲台座跡はすべて直径12mだそうだ)ザリガニが繁殖していて、子供たちのザリガニ釣り場になっている。ちなみにここのザリガニは結構スレていて、エサのさきいかを挟むまでは行くのだが、釣り上げようとするとするとすぐに離してしまうため、小さな網を持って行かないとなかなか捕まえられない。

20170708_145102 20170708_145041

閑話休題。流石にこの花壇こそ原型との共通点は丸いことくらいしかないんじゃないか、と思ったのだが、hnさんによれば、他の2つ同様、もともとのすり鉢状のコンクリートの構造物はそのまま残っているらしい。どのように改造されたかの詳しい推察はhnさんの記事に譲るが、hnさんが実際に池に手を突っ込んで確認したところ(偉い!)、池の外周の壁面は垂直でなく、内側に向けて斜めになっていたという。外周は砲台そのままで、単にその上に縁石を載せてあるらしい。

長くなったので続きはまた改めて。

●「RWBY」のテレビ放映が始まったのだが、なんと大幅に中身が端折られていた。なにこれ。DVDプロモ用の撒き餌か何か? 吹き替え版で話が分かりやすいので続けて観たいとは思うけれど、かなりガッカリ。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

人工衛星

●人工衛星のルービックキューブを貰った。

……なぜルービックキューブ?

20170703_210501

なお、一度絵を崩したら、私自身はもう復旧できない(2、3面くらいなら揃えられるが)。

●合わせて、人工衛星の扇子も貰った。

……なぜ扇子?

20170703_200437

もっとも季節的にはちょっと有り難いかも。うちわも常備しているけれど。

香木の香り付き(本物はかなり高いものだそうなので、当然人工的に付けたもの。消えたらそれっきりらしい)。

20170703_232114 ●その昔、東神奈川にあった「模型ラッキー」の特売品で買ったスティックタイプのヤスリが妙に使い勝手がよく、「ヤスリ掛けといえばとりあえずコレ」的に愛用してきたのだが、さすがにくたびれてきた。右の上になっているのがそれ。

いつ買ったのかよく覚えていないが、東神奈川の模型ラッキーは2006年?に閉店しているので、少なくとも10年以上は使っていることになる。

ヤスリ面がボロボロになるまで使い続けるというのも、諦めが悪いというかビンボ臭いというか、我ながら呆れるが、もともと粗目(200~300番くらい?)と中目(400番くらい?)だったヤスリ面の粒子がいい具合にヘタレてきて、割と細かいパーツの粗削りと仕上げとに都合よく使えたのだ。芯材は固めのウレタンフォーム(?)の中心に硬質ゴムが挟んであり、適度な厚みと固さが良い。

もっともここまで剥げてしまうとさすがに問題なので、まったく同じ時に買って10数年、引き出しの中で眠り続けていたもう一本を引っ張り出してきた。それが右の下側。……これも今後10年間使えるかな?

これまで使ってきたボロボロの1本は……。やたらに寺社がある鎌倉のこと、針供養のように、どこか一軒くらい、ヤスリ供養とかしてないかしらん。針供養は豆腐に針を刺すそうだが、ヤスリ供養は豆腐の角を削るのか?(むしろ難易度が高そう)

なお、似たようなヤスリスティックはネイリストの娘から一束(10本くらい?)貰ったりしてだいぶ在庫があるのだが(左の2本)、どれも先のものより番目が粗すぎて汎用性が低い。ただ、一番左のライトグレーの1本は粗削り専用としてしばしば使っている。やたらにゴリゴリよく削れるので、削り過ぎに注意する必要がある。

20170703_232202 ●ヤスリに関してもうひとつ。SUMICON掲示板で、hnさんに教えて貰った「神ヤス!」を2種買ってきた。布裏地のペーパーにちょっと固めのスポンジのベースが付いたもの。上記のスティックタイプは基本、曲げることはできないが、こちらはベース付きの使いよさをある程度持ちつつ、曲面にして使うことができる。

番手が5種類、スポンジのベースの厚みが3種類あるなかで、とりあえず、2mmの240番、3mmの600番を買ってきた。

●夏アニメ。なんと「RWBY」の日本語吹き替え版がテレビ放映されるそうだ! うぉう!

あとは、原作を読んだ「異世界食堂」は観るかなあ。

●4日火曜日。家の前の坂道を降りていたら、道の脇の草むらの葉の上に、ムラサキシジミが止まっていた。

逗子近辺でも時々見かける蝶なのだが――見かけるといっても、年に1、2度見るかどうか。しかも、翅裏は(蝶にはよくあることだが)ひどく地味な、ちょっと斑のある茶色で、せっかく目撃しても、止まった状態では翅を畳んでその翅裏しか見せてくれないことも多い。

ところが今回は翅を広げて止まっていて、焦げ茶の縁取りに、深い青紫の構造色の美しい模様を見せていて、思わずゾクゾクした。もちろん、さっそく写真を撮ろうとしたのだが……。そんなに近付いてもいないうち、スマホを向けただけで飛び去ってしまった。まったくもって残念無念。

せっかくスマホをカメラモードにしたので、近くの葉上にいたハエを写した(ヤドリバエ科?)。何この落差(泣)。

20170704_135205

ちなみに、何年か前に鎌倉で撮ったムラサキシジミはこんな感じ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

wz.34装甲車リベンジ(9)

週末模型親父さんのところの「SUMICON2017」にエントリーした、wz.34装甲車製作記。今回は割と控えめな進捗報告。

●前回に引き続き、戦闘室周りのディテール工作。

車体左側面、車体後面にある大きなハッチドアの蝶番と取っ手を作成する。ちなみにキットの取っ手パーツはひしゃげたキノコのような形状で使いようがない。

取っ手はエバーグリーンの0.5×1.0プラ棒を刻んだものに0.5mm径金属線(ちなみにリン青銅線。真鍮線よりやや柔らかく扱いやすい気がする)を刺して竹トンボのようなものを作り(右)、それをヤスって形を整えた(左)。作業のやりやすさを考えて、持ち手代わりに金属線は長めに切ってある。

20170630_014013

大きさを比較するものが写っていないので何だが、この状態で一度車体に挿してみたらだいぶ大き目な感じだったので、さらに削って小さくした。

20170630_125614 20170630_144532

後面扉の取っ手側上下にある小さな4つずつのリベットは、扉内側にあるロック機構に対応したもの。蝶番のリベット同様、タミヤ48のマーダーIIIのリベットを削ぎ落として使った。

●さて、ここで大きな問題は、上記の取っ手が、「扉を閉めてロックした状態」でどういう向きになっているのが正しいのかがよくわからないこと。

そもそも、wz.34装甲車の写真は、破壊されたり、放棄されたりといったものが多く、当然ながら、そうした写真では、仮に取っ手が写っていてもそれが「開位置」なのか「閉位置」なのか判断しづらい。

ちなみに、「Wydawnictwo Militaria No.318」の図面では中途半端なナナメ状態で描かれており、しかも、旧型装甲車体の側面は水平に近いナナメ、新型装甲車体の側面と後面は垂直に近いナナメ(しかもそれぞれ逆方向に傾いている)と、てんでんばらばら(ちなみに同書に旧型装甲車体の後面図はない)。どういうこっちゃねん。

もちろん、「生きている」状態の車輌の写真もあるが、肝心の取っ手が不鮮明だったりしていまひとつ決め手に欠ける。とりあえず、以前もここで紹介したポーランドのナショナル・デジタル・アーカイブ(NAC:Narodowe Archiwum Cyfrowe、リンクは英語版)にある、戦前のパレード時の写真から、取っ手部分を拡大してみた。

09 10 11 12 13

①:旧型装甲車体(写真番号1-P-2992-16より)。不鮮明だが、横向きに近い前下がりに見える?
②:旧型装甲車体(①と同じ写真番号1-P-2992-16より)。ほぼ水平?
③:旧型装甲車体(写真番号1-P-2992-17より)。これも不鮮明だが、45度に近いくらいの前下がり斜め?
④:新型装甲車体(写真番号1-P-2993-8より)。これは比較的鮮明。水平。
⑤:新型装甲車体(④と同じ写真番号1-P-2993-8より)。前下がり斜め……?

もしかしたら、外側に出ている取っ手は扉のロック機構と関係ないのか?

そんなわけで、(判断に困ったので)現時点では取っ手パーツはまだ差し込んであるだけで接着固定していない。

●戦闘室前面の貼視孔フラップには、開閉補助用のスプリングが付く(右側面もはね上げ式の開閉だが、こちらにはスプリングは付かない)。

0.3mm真鍮線を軸に細いエナメル線を巻いてスプリングを作って取り付けた。いまひとつ綺麗に工作できていない感じで、やや不満足。

20170630_142122

追記。上記工作後、スプリングがフラップに止まっていないのが気になったので、改めて留め具を追加。もっとも実車の場合どう止まっているかは、はっきり写っている写真がないのでよく判らない。丸リベット上のもので止まっているようにも見える。

加えて、砲塔のフラップ同様、スリット内側の防弾ガラスか何かを止めていると思しき(および開閉機構かロック機構かの)小リベットがこちらにもあるようだったので追加した。

操縦席前の一番大きいフラップは、スリット上の小リベットが内側寄りにもあるかもしれないが、はっきり確認できないので今のところ付けていない。

20170701_204244

| | コメント (0) | トラックバック (0)

wz.34装甲車リベンジ(8)

週末模型親父さんのところの「SUMICON2017」にエントリーした、wz.34装甲車製作記。

砲塔はある程度の目途が付いたので、車体のディテール工作を行う。

●車体のリベット打ち。砲塔同様、メインにMasterClubの丸頭0.7mm、サブに同じくMasterClubの丸頭0.5mmを使用する。実のところ、実車と比べるとメインのリベット列に0.7mmを使うのはちょっと大き目かもしれない。

砲塔の時には鉛筆でリベット列のガイドラインを引き、それを基にリベットの穴を開けて行ったのだが、ドリルの回し始めでわずかに滑って穴の位置がずれることがあった。そこで車体はもうひと手間掛けて、開口位置に縫い針でアタリを入れてからドリルを使うことにした(もっともそれでもズレることはある)。

20170618_183148 20170620_203027

ある程度リベットを入れて、砲塔やシャーシも合わせて“記念撮影”してみたのが下写真。

20170622_011114

「あれ……wz.34装甲車ってこんなにリベットだらけだったっけ」とちょっと意外に思ったのだが、改めて写真をめくってみると、今まで馴染みのある新型装甲ボディのほうは、旧型に比べてだいぶリベットが少ないのだった(もちろん前述のようにリベットの大きさが強調気味だからでもあるだろうが)。

リベットの位置や数は当時の写真を基に判断しているが、戦闘室の左右張り出し下、プラペーパーの帯を貼ってある部分はよく判らず、半ば想像で植えてある。

なお、この帯金(のように見える部分)は、装甲板を止めるアングル材などではなく、もともとのwz.28装甲ハーフトラックのフェンダーの取り付けベロ部分が残っているものなのではと思う(追記:……と、思ったのだが、少なくともドア部分の内側写真を見る限り、そちら側に装甲板接合用のアングル材などは見当たらなかった。あれ? やっぱりアングル材が外側にあるのかな?)。wz.28用後部フェンダーは、wz.34装甲車(旧型装甲ボディ)でも一部車輌で残っているのが写真で確認できる。

Guard ●旧型装甲ボディでは、新型に比べ砲塔位置が後ろにあり、戦闘室上面・砲塔前側にリングガードがある。

それ自体はプラペーパーでベロ部を作り、それに合わせて丸めた0.3mmプラバンで作成。止めているリベットは6つなのだが、写真を見て個数を判断して「片側3つずつ、片側3つずつ……」と頭の中で念じていて、なぜか実際にリベットを付ける際は、基準となる両端に穴を開け、それを除いてもう3つずつ開けてしまった(つまり計8つ)。迂闊!

しかも実際にリベットを植えてから「あれ? なんか多いぞ」とようやく気付く始末。

結局、一度植えたリベットを引っこ抜き、ベロ部分のプラペーパーを剥がして作り直し、再度リベットを植えた。

●戦闘室前・側面の貼視孔フラップを作成。

砲塔同様、プラバンの切れ端でスリット開け用の冶具を作り、針先でケガいた。位置・幅が確認しやすいので、目盛付きプラバン(0.3mm)の表側を使用。スリットを開け、外周形状も整えた後に目盛はヤスって消した。

20170625_163914 20170625_180410

最初に切り出した時は、(写真で見て、前・側面ともに上下ラインがだいたい同じ位置だったので)4枚とも上下幅を同じにしたのだが、いざ取り付けようとしてみると、何かおかしい……。

それも当然で、戦闘室前面は傾斜しているので、その分(上下のラインがほぼ同じなら)上下幅は余計にないといけないのだった。これまた迂闊。

もともとちょっと幅を大きめに切り出してあったので、側面分のフラップの幅を詰めて調節した。

●フラップヒンジの工作。ヒンジ自体は伸ばしランナーとプラペーパー。ヒンジを止める小リベットは、タミヤ1:48のマーダーIIIから。こういう部分のリベットは、取り付け時に位置を微調整できる「削ぎ取り式」か、あるいはme20さんお得意の「プラバン打ち抜き式」か、いずれにしてもスチロールのものの方が都合がよい。

もっともこれだけ小さいと、元パーツから削ぎ取ったリベットの裏表が判別しづらいし、(今回はそんなことはなかったが)ペンナイフの先で拾い上げる時に力余って“一刀両断”してしまうこともある。

20170626_221019 20170627_003840

こうして写真にとって拡大してみると、いまひとつ綺麗に揃っていない感がある。やはりヘッドルーペ欲しいな……。

なお、貼視孔フラップは、戦闘室前面・右側面のものはヒンジが上にあり、跳ね上げて開ける形式だが、左側面だけは写真のように前側に開けるようになっている。なんでこんな仕様なのか常々不思議に思っていたのだが……。もしかしたら、(左は運転席側なので)フラップの裏側に小さなミラーが付けられていて、フラップを開けるとそのままバックミラーになるのではないだろうか。あくまで勝手な妄想なので、あまり本気にしないように。

●車体前端のラジエーター・ドアは開いた状態で作ろうかと思っているので、中に仕込むラジエーターも作成した。

20170624_210918 CERTIのキットにもラジエーターのパーツは入っているのだが、「1:48の乗用車?」と思うくらいに小さいので、これまた流用しづらい。なお、キットパーツで中央縦に仕切りが入っているのは、旧型装甲ボディの一部で、(装甲ボディ側の)ラジエーター・ドア直後に仕切りがあるのを誤解したものか。

自作したラジエーターは、0.3mmプラバンの細切りに、プラペーパーをさらに細く切ったものを挟んで重ねたもの。これを本体に、適当にプラ材で枠部分を作った。

ラジエーター形状のはっきり判るクローズアップ写真などは手元にないので、「なんとなくラジエーターらしい形のもの」をでっち上げただけ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

やまなみルート

●17日土曜日。2か月前にも歩いたばかりだが、池子弾薬庫跡地の北辺の尾根を辿る「やまなみルート」を再び歩く。

出発点は久木大池。東岸から階段状になった急斜面を登る。はっきり言って、全行程中でここが一番きつい。逗子・鎌倉近辺の尾根上のハイキングコースはたいていそうだが、登ってしまえばあとはそれほど起伏は多くない。

20170617_140749

時季的にヤマユリが咲いているだろうと思ったのだが、尾根上に上ってしばらくは見当たらず。期待外れかと思いかけたが、そのうち、こんな場所が。なんとも豪華。そういえば昔は、披露山入口バス停付近の急斜面の上でこれでもかというくらいヤマユリが咲いていた記憶があるのだが、今ではすっかりコンクリートで塗り込められてしまった。

20170617_145059 20170617_145215

前回は十二所果樹園で朝夷奈切通の鎌倉側入口へ降りたが、今回はその先へ。下はヤマユリ同様にこの時期が旬のオカトラノオ(左)と、十二所果樹園奥で見つけた面白い色模様の葉(右)。

このような種類の植物なのかとも思ったが、実際には、葉脈黄化ウイルスに侵されたヒヨドリバナ、であるらしい。それなりにしばしば見られるもので、「キモンヒヨドリバナ」の別称で呼ばれることもあるとか。この模様のヒヨドリバナの葉についての記述は万葉集にもあるのだそうで、植物のウイルス病害について記された世界最古の例だそうだ。

その記述とは孝謙天皇の歌で、行幸の際に色づいた「さはあららぎ」を見て、これを摘み詠んだものとされ、その「さはあららぎ」はヒヨドリバナ属を指すのであるとか。

この里は 継ぎて霜や置く 夏の野に 我が見し草は もみちたりけり

20170617_155522 20170617_155313

当初は、切通の金沢側入口脇の熊野神社へ降りるつもりでいたのだが、手前で分岐があり、もっと先まで尾根を辿れることが判明。さらに三信住宅へ降りる分岐も越えて歩く。大池から十二所果樹園までの間には、軍事遺構的なものとしては、前回写真を載せたコンクリート壁があるが、果樹園を超えて六浦方面への尾根道の途中でこんなものを見つけた。

左は池子弾薬庫跡地境界の鉄線柵の向こうに、唐突に立っているコンクリート門柱の残骸。門柱左右には塀などは残っていない。それにしても、何もない山の尾根上に、何の用事でこんな「裏口」が構えられていたのかどうにも謎。

右は正体不明の標石。文字も風化して不鮮明だが、「軍校」もしくは「重校」と読めなくもない。

20170617_155725 20170617_160626

ネットで調べてたどり着いたこのブログでは「重校」であるとし、横須賀にあった陸軍重砲兵学校(うちの親父の母校!?)関連のものではないかと推察している。実際、横須賀・大津にあったという重砲兵学校校長邸跡に、よく似た「重校」と書かれた標石が立っているそうだ。

さらに六浦方面に歩くと、海軍標石があった。私が確認できたのは3基(と、もしかしたら海軍標石であったかもしれない破損した根元だけのもの)。十二所側から六浦側への順番で写真を並べておく。

20170617_161609 20170617_161519 20170617_161948 20170617_162340

水道路沿いの海軍標石とは違うのはもちろん、同じ池子弾薬庫跡地外周でも、逗子市山の根の裏山尾根の標石とも字体・作りが少々異なっている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

wz.34装甲車リベンジ(7)

週末模型親父さんのところの「SUMICON2017」にエントリーした、wz.34装甲車製作記。

砲塔工作のそのまた続き。

●wz.34装甲車の砲塔上面隅には、ちょうどドイツ戦車のピルツェンのような円筒状の突起がある。ピルツェンなら簡易クレーンの取付部だが、wz.34装甲車のそれは車輌間連絡用の信号旗を立てる場所で、どうやら砲塔内部まで貫通しているらしい。

20170616_144527 MirageHobby版のキットには、初回にちらりと触れたように、この信号旗が両面印刷された小さな紙が付属している。1:35用と1:72用が1枚の紙に印刷されているから、同社のポーランド軍AFVのキットにはもれなく付いているものらしい(あれ? でも同社1:72の7TPには入っていなかった気がずるぞ?)。

この信号旗はスウプスキ式ペナント(Chorągiewki Słupskiego/ホロンギエフキ・スウプスキエゴ)、あるいは「スウプスキの盾(Tarcze Słupskiego/タルチェ・スウプスキエゴ)」と呼ばれるもので、スウプスキというのは考案者の名前であるらしい。

Slupski 下すぼまりの三角形の布が2本の鋼線の間に張られていて、おそらく、この鋼線がバネになって、車外に出すと旗が開き、また簡単に車内に引っ込めることもできる、という仕組みになっているのではないかと思う。右はその出し入れの想像図。取っ手部分はまるっきり想像。もっとしっかりした持ち手があるのかもしれないし、あるいは車外に抜け出してしまわないようなストッパーのようなものがあるかもしれない。

ポーランド語版wikipediaには、このスウプスキ式ペナントの解説記事が上がっている。

それを読むと、この信号機の一本ずつ、あるいはその組み合わせ、そして掲示の仕方(出しっぱなしだったり出し入れしたり)によって十数通りの合図を伝達できるものらしい。Google翻訳さんに掛けてもいまひとつよく判らない部分もあるが、とりあえず簡単なところでは、赤のペナント1本は「敵発見、隊列は縦隊保持」だそうで、そのため、破壊/放棄された1939年戦役時のwz.34装甲車の写真でペナントが掲げられている場合、赤旗である例が多い、と記事にある。

ちなみにこのスウプスキ式ペナントは1936年に制式化されたものだそうで、そのため、原型であるwz.28装甲ハーフトラックには砲塔の筒はなく、wz.34に改装されて以降、追加で改修装備されたものであるらしい。同様の筒穴は、TKSや7TPにも付いている。

●さて、このペナント用筒穴なのだが、CERTIのキットでは、砲塔天井左右辺の前後、計4カ所にモールドされている(筒ではなく単なる突起になっているが)。

しかし、たまたま砲塔上面が比較的鮮明に写っている下左の写真を見ると、左前には筒穴があるものの(黄色矢印)、左後ろには明らかにない(赤矢印)。例によって、写真は「PIBWL Military Site」のwz.34ギャラリーページ(2)から引用・加工させていただいた。

06 07

しかし一方で、右写真では左後ろにも、右後ろ同様に筒穴があるように見える(黄色矢印)。他の写真を漁っても、上面は写っていないもののペナントが4本立っている例があるから、4カ所に筒穴がある仕様が存在しているのは確かだと思う。

それなら左写真の例はいったい……???

例えば、当初のスウプスキ式ペナントは信号体系が後のものよりシンプルで、筒穴も3つ(あるいは2つ)で済んでいたため、初期の改装車は筒穴が少なく、後に信号の複雑化に伴って穴も4つに増えた、などという筋書きも可能性として考えられるが、もちろんそのあたりはまったく想像。

●とりあえず工作としてはしっかり4カ所に筒穴を設けることにして、天井板にドリルで開口。コントレールのプラパイプを埋め込んだ。

その後、キューポラハッチにもリベットを植え、砲塔上に接着。ちなみに各面の下4つのリベットはMasterClubの0.5mm、上2つはタミヤのマーダーIIIのモールドを削ぎ取ったもの。上2つは下よりやや小さめなので変えてみたのだが、こうして写真で見てみると、色が違うだけで大きさはあまり変わらないような気が……。ナンノコッチャ。

前後にヒンジも工作。側面貼視フラップのヒンジがぐだぐだな仕上がりになったのに懲りて、この部分のリベットもタミヤのマーダーIIIのモールドを使用した。

20170617_005845 20170617_005901

キューポラ上のフタ、武装に関してはいずれまた改めて。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

wz.34装甲車リベンジ(6)

週末模型親父さんのところの「SUMICON2017」にエントリーした、wz.34装甲車製作記。

砲塔工作の続き。

●ディテール工作の皮切りに、まず、天井板周囲にリベットを植えた。MasterClubの0.7mm丸頭リベットを使用。

20170614_234943

ちなみにMasterClubからは「ポーランド型」として2辺のみ削られた尖頭ボルトも出ているが、あのタイプは基本、TKシリーズのみに使われているのではないかと思う。少なくともwz.34装甲車は通常の丸リベットのようだ。

「Wydawnictwo Militaria No.318」の図面では、天井板の角度が切り替わる部分の直後にも、横一線にリベットが描かれているが、実車写真では確認できない。

●側面にリベットを植える前に、左右前・後面の三カ所に視察スリットを筋彫り。プラバンの切れ端でいい加減な冶具を作って針でケガいた。

20170615_125956

リベット用の穴はきちんと揃えて開ける……つもりでいてもどうしてもあちこちズレる。ズレが激しい部分については伸ばしランナーで穴を埋めて開け直したり、それがまたズレてまたやり直したりする。うぐぐぐぐぐぐぐぐ。

●側面のリベットの植え込み完了。基本、装甲板の接合部分は0.7mmリベット。観察スリットには一応内側に防弾ガラスか何か付いているらしく、スリット左右上に小さなリベットがあるので、同じくMasterClubの0.5mm丸リベットを植えた。

装甲板の接合リベットのなかでも、砲塔下辺はやや小さいものが使われているようだ。観察スリット左右のリベットよりは大きいようなので、本来なら0.6mmリベットを使いたいところなのだが、しばらく前からMasterClubの0.6mmリベットは品切れで入手難(以前、ヴィッカース水陸両用戦車を作ったときにも0.6mmが使いたかったのに手に入らなかったのだった)。結局ここも0.5mmを使った。

20170615_165904

●左右面に観察フラップを付ける。ここにもスリットがあるので、砲塔本体同様針でケガいたのだが、相手が0.3mm板なので筋彫りが貫通。それはそれで彫りが深くなっていいのだが、砲塔本体の3カ所よりもスリットが太くなってしまった。

本来なら砲塔本体の3カ所ももう少し強く彫り直したいところなのだが、そうすると筋彫り線がヨレヨレになりそうな気がするのでとりあえず放置。

20170616_013939

蝶番は伸ばしランナーとプラペーパー、リベットはドラゴンのT-34の不要部品(グローサー取り付け用ベルト)から。

さすがにこの大きさで削ぎ取り+貼り付けは目が追い付かず、こうしてデジカメで撮って拡大してみると手作り感バリバリ。

ちなみにキューポラは仮に載せてあるだけ。これにもリベットを植えないといけない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

wz.34装甲車リベンジ(5)

週末模型親父さんのところの「SUMICON2017」にエントリーした、wz.34装甲車製作記。

CERTIのキットでエントリーしておきながら、いつの間にやらスクラッチ道まっしぐら。

ボディの基本形がほぼ出来上がったので、最初に手を付けたものの中途になっていた砲塔に戻ることにする。

●銃/砲架に関する若干の考証。

後期型装甲ボディの車輌の場合、通常は(機銃搭載型の場合の)銃架はTKSと同じ(あるいは同じではないにしても非常によく似ている)ボールマウントが使われている。砲搭載型の場合もおそらく外側のマウント部は同じだと思う。

一方で初期型装甲ボディの場合は角型の銃/砲架が使われている。

ただ、全車がそうだというわけではなく、若干の例外もある。例えば以下の写真では、右の車輌は新型装甲ボディだが角型銃架が使われている(ただし、この角型銃架は、旧型装甲ボディの車輌で一般的な形式のものとはちょっと違うような気もする)。写真はポーランドのナショナル・デジタル・アーカイブ(NAC:Narodowe Archiwum Cyfrowe、リンクは英語版)から引用した(写真番号:1-P-2993-8)。

Pic_1p29938s

また「PIBWL Military Site」のwz.34ギャラリーページ(1)では、逆に旧型ボディで丸型銃/砲架の車輌の写真も見ることができる。

もっとも、ほぼ装甲ボディの形式別に銃/砲架の仕様が違うとは言えそうで、そこから考えて、この差異はwz.28時代からのものと思われる。装甲ボディ形状が改設計されたのとほぼ同時期に銃/砲架も新型のものに変更され、同形式の銃/砲架が引き続きwz.29装甲車やTKSにも採用されたのではないだろうか。

●というような考証に基づき、角型の銃/砲架を工作。一応、ピュトー37mm砲搭載型を作ろうと考えているので(以前、ほぼストレートにCERTIのキットを作ったときにオチキス機銃型にしたので)、以下、砲架で統一する。

初期型装甲ボディ砲塔の周囲だけ作って天井を張っていなかったのはこの砲架の工作が残っていたからで、砲塔前面に砲架のはまる四角い穴を開口する。プラバンを四角く切り出すのは別に難しくないが、四角く綺麗に穴を開けるのは意外に面倒。

さて、この砲架は、砲もろともMENGのFT-17から流用してこようとも思ったのだが、砲塔に対して砲架がやや大きめで(もともとwz.34装甲車の角型砲架がFTに比べ小さめなのか、私の作った砲塔の前面の面積が足りないのかは不明)、細部形状も違うので使用を断念した。下写真で右側に写っているベージュのパーツがMENGのもの。

代わりにRPMのFT-17の砲架パーツを持って来て、これをもとに新たに砲架をでっち上げた。RPMの砲架パーツは実はMENGのモノよりさらに一回り大きいので、十文字に切り刻んで縦横の幅を詰めたうえで削って整形、前面はくり抜いてプラバンをはめた。

この角型砲架はルノーFTと同じく、カルダン枠形式になっていて(オチキス用銃架も同様)、俯仰だけでなく左右動もできる。FTの機構を引き継いだものと思われる日本戦車の砲架とも同じ仕組み。ただし、FTの37mm用砲架は左右動の軸が脇に寄っているのに対し、wz.34装甲車のものは中央にある。

また、不思議なことに、この防盾の前面には、照準口が見当たらない(たとえばこの写真参照)。オチキス機銃用の防盾、また37mm砲用でもルノーFTのものにはしっかりあるのに……なぜ?

20170612_010623

MENGのものを使えれば、パーツの俯仰軸を活かして一応上下動くらいはできるようにしようかな、とも思ったのだが、新たに砲架を作る段階で、RPMのパーツの軸は(作業に邪魔で)削り飛ばしてしまい、わざわざそのへんを再生するのも面倒だったので結局接着した。……結局接着するなら砲塔前面に開口しなくても、適当な角度で削った砲架をイモ付してしまえばよかったのでは(と、後から気付いた)。開口しておいてなぜ動かすようにしないんだ!と、みやまえさんに叱られそう。

●満を持して(?)天井板を貼る。

砲塔本体に天井板がかぶさったような状態を表現するため、表面は0.3mm板を使い、それだけではたわんでしまいそうなので0.5mm板で裏打ち。さらに前後の接合部近くにはタミヤの角材で桁を入れた。

●砲塔上の六角形のキューポラを作る。

この部分は、キューポラ自体が「ぱっかん」と前後に分かれるハッチになっているという、独特の構造。もっともここから上半身を出すのはちょっと窮屈そうな感じ。

現時点ではまだ工作していないが、キューポラ上のフタ部分は、円形のものと、キューポラ本体に合わせた六角形のものと2種類ある(CERTIのキットにも2種のパーツが入って選択式だった)。フタとキューポラの間にはわずかに隙間があって、これはおそらく硝煙の換気用。なお、このキューポラの周囲(6面)には視察用のスリットが付いていそうに思うのだが、手持ちの写真資料では確認できない(wz.34装甲車の視察スリットは他の部分のものも非常に狭く、写真では確認しづらいので、存在する可能性は捨てきれない)。

なお、ここでもう一度、上に引用したポーランドのナショナル・デジタル・アーカイブ(NDA)の写真を見て欲しいのだが、この写真に写っているwz.34装甲車は、キューポラ式ハッチの代わりに、平板のハッチが取り付けられているらしい。こんな例は他では見たことがなく、このパレード時の特別な改装なのか、少数はこんな仕様があったのか、よく判らない。

実際の工作。当初、ほぼ「Wydawnictwo Militaria No.318」の図面に準じた大きさで工作。それなりに綺麗にできた……と思ったのだが、砲塔に載せてみるとどうも小さすぎる感じ。仕方がないので作り直したが、今度は大きすぎ・平たすぎになってしまうので、さらに作り直し。3度目でなんとか使えそうなものができた。

20170612_210124

中央が最初に作ったもの、右が2番目に作ったものの残骸、左が三度目の正直。

もっとも、この大きさのプラバンのコマ切れを工作する場合、目盛付きプラバンを使っても正確に同一形状に切るのは難しく(誤差の絶対値としては大きなパーツを切る場合とそう変わらないと思うが、相対値はどうしても大きくなる)、向かい合った面同士がしっかり平行になっていなかったりする。……が、ぱっと見には判りづらいので、これで良しとする。

既存の図面では、このキューポラ・ハッチは砲塔上面にそのまま載っているように描かれているが、実際には段差か縁取りのようなものがあるようなので、0.3mm板を貼り増した。砲塔に載せてみて、CERTIのキットのパーツと並べてみたのが以下。

20170612_234530

| | コメント (3) | トラックバック (0)

«wz.34装甲車リベンジ(4)